23
ベルリン地域 一八七一-一九 (501) ベルリン地域医療史 1871-1914 はじめに 第一章 首都ペルリンの形成と市民生活 1 首都ベルリンの都市像 2 帝制時代のベルリソ 当時のベルリンの経済構造 大ベルリソの形成と人口集中 第二章 帝制期ベルリソの市民生活 1 年齢別人口構成と平均寿命 2 市民生活と福祉状況 3 都市空間と緑地(以上本号) 第三章 ベルリソの地域医療(以下次号) 1 医療沿革史 2環境衛生の改善 3 近代的都市計画の進行と住宅政策 西 67

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ベルリン地域医療史

一八七一-一九一四

(501)

ベルリン地域医療史 1871-1914

はじめに

第一章 首都ペルリンの形成と市民生活

 1 首都ベルリンの都市像

 2 帝制時代のベルリソ

  ① 当時のベルリンの経済構造

  ② 大ベルリソの形成と人口集中

第二章 帝制期ベルリソの市民生活

 1 年齢別人口構成と平均寿命

 2 市民生活と福祉状況

 3 都市空間と緑地(以上本号)

第三章 ベルリソの地域医療(以下次号)

 1 医療沿革史

 2環境衛生の改善

 3 近代的都市計画の進行と住宅政策

西

67

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 4。 医療施設の充実と医療の向上

むすび

68

は じ め に

ベルリン地域医療史 1871-1914

 明治初年のわが国に、西洋近代医学をもたらしたのが、シュルツェ(外科). エルウィン・ベルッロu器『(一八四九i

一九一三、生理学)、スクリバ(外科)などのドイッ人医師であったことは、周知のとおりである。南ドイッ・シュヴァ

ーベン地方で生まれ、ライプチヒ大学を卒業したベルツが、卒業後四年目に、お雇い教師として東大医学部に招かれたの

は、一八七六年のことであるが、一九〇五年に帰国するまでの間、彼は二九年間にも亘って在職し、わが国に西洋近代医

学を植え付けた。このように、ドイツはわが国近代医学の宗匠国であったので、ドイツ医学を学ぼうとする少壮学老が、

相次いでこの国に渡航したことも、また、当然であった。いま試みに日本の医学史をひもといてみると、八〇年代以降、

森鴎外(留学一八八四-八八年)、北里柴三郎(同一八八五ー九二年)、志賀潔(同一九〇一年)などの俊才が、続々と海

を渡って、かの地に出掛けている。かつてのオランダに代って、ドイツは近代医学のメッカになっていた。

 このように、帝制時代のドイツは、日独交渉史、とりわけ医療史上、極めて日本と関係が深いが、特にベルリンは、こ

の国の首都であり、行政文化の中心であっただけに、わが国のモデル都市であり、日独交渉史の拠点であったと言うべき

であろう。帝制時代におけるこの都市の股賑ぶりについて、当時、陸軍軍医としてこの地に留学中であった森鴎外は、

『舞姫』(一八九〇年刊)の中で次のように書いている。

(502)

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ベルリソ地域医療史 1871-1914

 「余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩

 ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべく思

 はるれど、この大道髪の如きウンテル・デン・リンデソに来て両辺なる石だたみの人道を行く隊々(くみぐみ)の士女

 を見よ。胸張り肩甕えたる士官の、まだ維廉(ヰルヘルム)一世の街に望める窓に寄り玉う頃なりけれぽ、様々の色に

 飾り成したる礼装をなしたる、妊(かほよ)き少女の巴里まねびの粧(よそほひ)したる、……」

 現在、ベルリンは、東西を合すると、人旦二〇三万三千人、面積八八三平方キロ(現在の東京区部は五九六平方キ戸、

全都では二二〇九平方キロ)、ドイツ第一の大都市で、四八〇平方キロ(五四%)の西ベルリン市と、四〇三平方キロ(四

六%)の東ベルリン市とに分割されていて、東西両ドイツの接点であるが、一九八七年私が訪れたとき、両市は共同でド

ッペル・フェスト「開都七五〇年祭」を祝っており、史学関係の共同研究やシソポジウムが、かなり集中的に行われてい

た。この機会に、ベルリン市関係の彩しい文献類が公刊されたのは、歴史家、とりわけ、この都市の発展史に多少とも関

心をもつものにとって、大いに奇貨とすべきである。

 本稿は、ドイツ医療行政の本拠であった帝制期のベルリン市が、当時、市民生活に何を保障し得ていたかの史的分析で

ある。その発展経過の違いに、日独両国間のかなりの懸隔を看て取ることができるが、ともあれ、そんな相違点ないしは

位相差に留意しつつ、まずは帝制期ベルリソの町づくり史をみよう。

(503)69

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ペルリン地域医療史 1871-1914

第一章 首都ベルリンの形成と市民生活

 1 首都ベルリンの都市像

 最初に、首都ベルリンの大まかな都市像と沿革を略述しておこう。ベルリンの正確な開都の年がいつだったかは、いま

なお問題とされているが、シュプレω冒ΦΦ河畔の漁師町ケルンOα一ぎと、その対岸の小邑ペルリンロd忠「ぎの名が、初

めて記録に現れたのは、一二三七年のことであると言われている。ペルリンは、現在、森と湖沼の極めて多い風光明媚な

大都市で、自然の境界線であるシュプレ川が、何本にも分かれて、この都市を南東より北西に向けて貫流しており、市の

西郊を、豊かな水量をたたえて流れるハーフェル=⇔<①一川に注いでいる。現在の市域は、ミュソヘン、シェツットガル

ト、フランクフルトの三市を優に包含する広さで、ニューヨーク市の面積(八二八平方キロ)をやや凌駕し、主要国の首

都の中では中規模である。その地形を、総じて言えぽ、この都市は、高低差の比較的少ない平坦な都市で、現在、高いと

ころで一一五メートル、低地は高度六六メートルである。この都市は、西郊に広がるハーフェル川を始めとして、市の北

西に位置するテーゲル湖月①σq。「鐙ωΦΦ、市東南郊のミュゲル湖]≦qσqσq。一ω①①、 ゼディン湖ω巴岳”ω①①、 クロシソ湖

90ω゜・ぎω。①など、多くの湖沼に取り囲まれた「橋の多い都市」ということが出来る。北緯五二二二一度、最近の年平

均気温は九.三度C(東京一五.三度C)、月間平均気温は、最高が七月の一九・一度C(同、二五・二度C)、最低が一

月のマイナス○・七度C(同、四・七度C)で、北海とバルト海の影響で、南北の気流の流れが激しいため、空気は比較

的乾燥していて、平年降水量は年五八一ミリ(同、一四六〇ミリ)である。

70(504)

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 この町の首都としての沿革を簡単に振り返れぽ、一四七〇年、選帝侯フリードリヒニ世がこの地に新しい城塞を築いて

定住し始めたのが、その始まりとされ、その後、プロイセン王フリードリヒ大王(治世一七四〇ー八六年)が、この町を

                     (1)

ヨーロッパ有数の首都に仕上げたと、言われている。

(505)

ベルリン地域医療史 1871-1914

 2 帝制時代のベルリン

 ①当時のベルリンの経済構造

 帝国建設後の数年間、ベルリンには、会社設立ブームO艮註。}ooヨと呼ばれる好景気時代が訪れたため、一八七三

年一年間のみで、約三〇〇の企業が設立されたが、そのうち、一七四(五八%)は株式会社だったと鳳53。H・J・プー

レによれぽ、一八六〇年代から一九一四年までは、ドイツ経済史上、三つの時期に区分される。第一は、六〇年代から一

八七三年に至る「泡沫会社乱立時代」Oa註臼冨訂。で、この時期は、高産業化国o島ぎ含゜。ま①崔昌σqの時代と特徴づけ

られる。第二は、一八七三-八六年の大デフレーション期。第三の一八九〇/九六-一九一四年の時代は、成長ブームと

一九〇一年頃を契機とする新しい地固めの時期であったと、彼は指摘する。彼に従って当時のベルリンの経済構造を先ず

概観しておけぽ、その構造は、ドイツ全国で高産業化が進行した上記の第一期に、大きく転換した。当時、ベルリン住民

の半数以上が、産業と手工業に従事していたが、一八三〇年代頃に支配的だった繊維産業は、次第に周辺部に追いやられ

て(一八七一年、一一〇〇〇企業)、躍進著しい被服業や洗濯工場に、漸次とって代られた。これらの職種の事業所は、

いずれも市街区に立地しており、家内労働に大きく依存していた点が強みであった。一八五四年ミシンが初めて導入され、

71

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ベルリン地域医療史 ’1871-1914

需要が増大すると、六〇年代中葉以降、被服業は空前の発展を遂げたが、 一八七〇1七一年には、更にパリ市場の脱落に

伴って、ベルリンの被服業は急成長を記録した。一八七〇年以前のベルリンにおける産業発展を見る場合、その支配的な

特徴の第二は、金属加工および機械製造関係の大工揚が、飛躍的に増加したことである。一八七〇年当時、金属加工およ

び機械製造業は、全企業の約一〇%を占め、木工および建築業の占める比率と並んでいたが、機械製造業の躍進は特に顕

著で、一八七〇年には、一八五〇年当時の企業数のほぼ二倍に達した。この分野では、既に一八一六年、ドイツ初めての

蒸気機関工場であるG・C・フロイソド社が設立され、また一八四一年には、同じくドイツ最初の機関車工場A・ポルジ

ッヒゆo「°。茜が設立されていたが、一八三〇年代以降、オラニエソブルク門前のいわゆる「火の地」閃①二〇二§低一帯(シ

ヤウスゼー街、ミュラ!街)や、シュトララウ区に、この種の企業が増え始め、次第にモアビット、リヒテソブルク、ル

イゼソシュタットなどの各地区に広がりを見せ始めた。西郊にあるモアビットを除けば、これらの工場は、当初、住宅地

に混在していたが、その後、周辺地区にと移行していった。このような動きにやや遅れた電気工業は、一八七〇年当時は、

まださして重要でなく、僅かに一八四八年、ジーメソス社が創設されていた程度だったが、七五年以降になると、ベルリ

                                (3)

ソの成長産業の一角を担うようになる。化学工業も、ほぼ同じ傾向にあった。統計の伝えるところによれぽ、当時ベルリ

ソには、家族労働だけで補助労働者の少ない手工業形態の小企業が多く、建築業においてすら、一企業あたりの全労働者

数は僅少だった。七〇年代中葉に、被服業に働く労働者は、約四六、○○○人で(全就業者の九・二%)、その四分の三

は婦人であったという。被服業に次いで多かったのが、商店員・商店主の四四、○○○人で(同、八・八%)、ついで木

材加工業、建設業および金属加工業の各二五、○○○人(同、五%)、製紙および皮革製造業の一〇、○○○人(同、二

72(506)

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ペルリン地域医療史’1871一1g14

%)、繊維産業の八、七〇〇人(同、一・八%)、機械製造および楽器製作業の八、四〇〇人(同、一・七%)などであっ

壌 また、ベルリン地区の真北に位置し、一八〇二年まで城門の中にあったツユメンダウ地区の調査によれば、 }八四〇i

一八六九年間に、この地区で結婚した男子二五二名のうち、最も多かった職種は、金属加工業(二二%)、日雇い(}九

                         (5)

%)、建築業(一三%)、衣服・洗濯業(九%)などであった。

 このような経済構造の変化に伴って、これまで産業の花形であった公営鉄道建設部門は、四〇1五〇年代当時に占めて

いた先導的な地位を次第にとって代わられ、私鉄建設が増えて行くが、一八七一年、市内に環状線とSパーソ東西線の建

設が始まり、また一八七四年、南西に走るヴァソゼー鉄道が建設され始めると、ベルリンに集まる労働者の数も、 層ふ

え始めた。ベルリンにガス燈がつき、給水施設(一八七三年公営化)が完成し、また下水道工事が始まったのも、この頃

 (6)

である。

 ②大ベルリンの形成と人口集中

 A ベルリンへの人口集中

 一八七〇-七一年の市域は、第一図に見るとおりであるが、当時は、モアビットζ02。げ置、ヴェディソグ≦①ユユぢσqな

どの北西周辺部には、とりわけ、まだ家はなく、穀物畑や草原や公園・休閑地などが、市域内にもふんだんにあった。シ

ェーネベルクω07α旨①げ霞σq、ドイッチェ・ヴィルマーズドルフ一)①霧oゴー≦ごヨ①房(醐o『h、 リクスドルフ空×塵o肱(のちの

Z①爵α一ロ)などの、やがて大ベルリンに包含される地区は、当時はまだ小邑であったから、七〇年代半ぽまでは、ベルリ

(507)73

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ベルリン地域医療史 1871-1914

第1図 ベルリンの行政区画図(1890年)

1.Wedding

ロ  コ  サ

23」4

ロ   ロ   サ   コ   コ

FOnb78Qゾ

10.

11.

出典

MoabitThiergarten

Friedrich・und Sch6nebergerVorstadt

Oranienburger Vorstadt

Friedrlch-Wilhelm-Stadt

Doτotheen・stadt

Friedrich。stadt

Friedrich・und TempelhoferVorstadt

Rosenthaler Vorstadt nδrdlich

Rosenthaler Vorstadt s廿dlich

:M.Erbe, Berlin im

Bertins, Zweiter Bd.,

コ  コ  ロ  コ  コ  コ        コ

234567890

111111112

コ  じ

19臼

99り白

Kaiserreich, im W.

 Verlag C. H. Beck, Mtinchen,1987, S.701.

Spandauer ViertelBerlin

Friedrichswerder

Neu K61且nK611n

Luise皿stadt diesseits des Kanals

K6nigsviertel

Stralauer Viertel westlich

Luisenstadt jenseits des Kanals

westlich

Stralauer Viertelδstlich

Lu五sellstadt jenseits des Kanals

δstlich

    Ribbe(Hτsg。), Geschichte

(508) 74

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ベルリン地域医療史 1871-1914

ン市民は、ドイッチェ・ヴィルマーズドルフ、シェーネベルク、シャルロッテンブルクOず母一〇#。ロび霞αQなどの「夏の別

                     (7)

邸」に、家族つれでよく保養に出掛けたものだった。ベルリンは、一九〇〇年頃にいたるまでは、広さからみれぽ六〇

                           (8)

平方キロにも満たない(一八六一年-五九・二〇平方キロ)中都市で、端から端まで歩いても精々九キロメ!トルであっ

た。 

                                          (9)

 ベルリン市の人口は、一八六七年七〇万二千四〇〇人、一八七〇年に八〇万人を越えたと言われるが、帝国建設が始ま

                                    (10)

った一八七一年、八二五、九三七人で、大ベルリン全域でも、約九一万五千人であった。この年ハンブルクの人口が二四

                                               (11)

万弱、またミュンヘソのそれが一七万弱であったことと対比すると、ベルリンは既にドイッ随一の都市であった。当時の

                                (12)

ドイツ帝国の総人口は四一、〇二八、一五〇人(国一ω霧ω-ピo暮同ぎσq窪を含めて)、プロイセソ王国のそれは二四、六三九、

   (13)

七〇六人だったから、帝国総人口の約二%、またプロイセソ王国総人口の約三・四%程度しか、ベルリン市に住んで居な

かったことになるが、それにしても、当時のベルリンは、ドイッ帝国の文字どおりの生命線であり、成長細胞の先端であ

ったと言えよう。この都市では、一八七〇年代には、人口が一〇〇万人を越え、一九=二年には二〇八万人に達している

(第二表参照)。

 そこで、総括的に一八一五ー七五年の人n[統計を振り返ってみると、ベルリン市の総人口は、一八一六年一九七、七一

七人、一八三一年二四八、六八二人、一八四一年三三二、二一五人、一八五一年四三一、四八四人、一八六一年五五七、

五七一人と増え続けて来ており、プロイセン王朝の隆盛と威信を物語っているが、一八七一年以降になると、ドイッ帝国

の隆盛がさらに付け加わった。この期間における三年ごとの人口増加率では、最も高かったのが、一八五八ー六一年の六

(509)75

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寸一①一ー一ト◎o肖  恕駆幽貸鯉\μ笥ム、ソ㌔

第2表 ベルリン各住区の人口増加状況(1871-1913年)

1871 1875 1885 1895 1905 1913

住  区  名指数 絶対値 指数1 絶対値 指数 絶対値 指数 陣対値 指数 絶対値 緻1㈱値

Berlin市全域 100 825,9371・8196a858 159 1,315,287

・・51

1,677,304・・71名・4α148 252ia・8島…

Alt-Berlin

Alt-C611n

Neu・Cδ11n

Friedrichswerder

Dorotheenstadt

Friedrichstadt

Friedrich-Wilhelmstadt

Friedrich-Vorstadt

Sch6neberger und

Tempelhofer Vorstadt

Luisenstadt

Stralauer Viertel

K6nigsviertel

Spandauer Viertel

Oranienburger Vorstadt

Rosenthaler Vorstadt

Moabit

Wedding

00000000

00000000

11111111

000000000

000000000

111111111

32,061

16,554

 7,203

10,379

19,508

76,359

19,476

26,394

56,081

178, 743

101,846

49,576

71,465

70,886

46,244

14,818

25,342

53586583

99989990

       1

534671129

421191637

1111 1111

30, 465

15, 308

  6, 817

  9, 176

18,788

72,865

19,170

27,173

80,218

220,039

115, 895

57,471

69,334

78, 359

74, 584

19, 361

45,260

54897013

78868902

      1131

P4

P6

P5

P0

P4

R0

R2

390旨425368

24,171

13,912

  6,362

  7,159

17,020

69,026

19,607

32, 630

172,963

267,172

163, 324

76,521

73,124

102,251

139,604

48, 219

69,526

35542176

66747891

       1

覗161819mB妬3645

479241160

20,171

10,775

  5,421

  4,535

14,125

62,037

18, 902

30,635

237,977

295,471

191,878

95,841

74, 140

127,958

213,384

128,288

114,199

73053809

35637690

       1

5426-26994

568109921

412311547

       為

14,108

  8,838

  4, 314

  3,637

14,210

52,190

17,600

28,734

254,473

294, 599

287, 428

156,552

72,681

139,339

277, 095

208, 967

180,339

8779臼344

2332346

992

86001055

38076950

124 1630

      リ  

      ー-

  8,945

  6,212

  2,665

  2, 309

  6,479

33,505

12,479

244,839

246, 882

291,323

197,840

50,17

113,731

318,963

200, 817

254,577

出典:M.Erbe, Berlin im Kaiserreich, im W. Ribbe(Hrsg.), op. cit., S.697.

O卜

(Oお)

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ベルリン地域医療史 1871-1914

○.九%、次いで一八四三-四六年の四九・七%であったが(第三表参照)、ドイッ帝国の首都となって一〇年足らずで、

ベルリンが一〇〇万都市になったことは、極めて象徴的なことと言える。その後、一九一八年に至るまでの第二帝制期の

ベルリンは、ドイツ帝国の首都として、めざましく発展している。

 今その跡をより具体的に裏付けておけば、ベルリンの総人口は、当時の工業化のテンポに比例して急ピッチに増加し、

一八七五年九六六、八五八人(七一年の一・一八倍)、一八八五年一、三一五、二八七人(一・五九倍)、一八九五年一、

六七七、三〇四人(二・〇五倍)、一九〇五年二、〇四〇、一四八人(二・四七倍)、第一次大戦直前の一九一三年には

二、〇八二、一一一人(二.五二倍)と増え続け、一八七一-一九=二年の半世紀たらずの間に、、,幾何級数的に激増して

いる(第二表参照)。

 また、この期間における人口増加率を、ほぼ一〇年きざみで計算してみると、一八七一i七五年が一四・六%、一八七

五し八五年が二六.五%、一八八五-九五年が二一・六%、一八九五ー一九〇五年が一七・八%、一九〇五ー一九=二年

が二.○%で、帝国建設が緒についた一八七五-八五年の期間が、異常な人口増のピークであったことがわかる。前記の

ように、∵八七五-八五年の期間に、この町の経済基盤が、繊維産業から被服業へ、そしてさらには、金属加工および機

械製造業・電気工業.化学工業にと、大きく転換したことが、そのような人口集中の伏線であった。一九世紀の中葉以来、

人々は職を求めてこの町に群がり集まってきていたのである。                一

 B郊外都市の発展

 このような人口集中の結果、ベルリンでは、郊外都市が次々と近郊に発展して行った。一八九〇年代以来、ベルリンに

(511)77

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動態(1815

9

死 亡

絶対値 ㌫

999316839650081500619244527425256141564143662480830728061847

962028787820471155761554179842532171384524268618304145610532

894544654487697580135053371811820114439954797105085886981920

コ ロ   ロ コ  コ ロ リ ロ コ  コ ロ ロ            ロ ロ  ロ コ ロ リ コ  リ   コ コ ロ  コ ロ サ ロ コ  コ サ コ ロ ロ  コ サ ワ ロ ワ  ロ ロ  ロ コ コ  ロ ロ ロ コ ロ  コ サ ロ ゆ  ザ

556655566666667978977188989899902410120213221557917942418793

                     1          11111111111111111122122232223

804388147480032352669001245274192321105920772767183251854912

, , , , 9  , , , , ,  , ● , , ,  , , 9 , ,  9 , , , ,  , , , , ,  , , , , ,  , , , , ,  , , , , ,  , , , , ,  , , , , ,  ● , , , ,

902266710900892812477909867555449364684860774769031840183124

233322233233223333322332222222222322222223222222334233333333

(512)

ベルリン地域医療史 1871

1875年)

10 11 12

自然増 社会増 間加

  率

年増

絶対値

ノN’一

ミル絶対値

% ㌫

930

2.678

5,012

3.242

5.300

1.726

2.009

2.921

4.423

6.886

10.042

3.308

11.762

9.161

10.528

4,7

4,5

8,1

5,1

7,8

2,4

2、6

3,6

4,9

6,8

8,9

2,7

9,1

6,9

7,8

15.957 10,6

16.323

12.122

15.308

9,1

6,0

3.421

8. 008

11.131

16.553

11.852

16.440

18.600

1.7

4,0

5,3

7,5

5,0

6,6

7,0

46.508  16,4

22.919 6,9

55.353  15,7

15.400

15.056

8.525

11.154

3,8

3,6

1,9

2、5

88.934  19,4

85.178 15,6

69.688  11,0

5,0  123.904  17,6

37.066  10,3  140響517  17,0

5,7

13,1

17,4

24,4

16,4

21,6

22,9

51,9

22,6

49,7

12,4

11,7

6,4

8,2

60,9

49,4

35,4

41,4

40,0

1914

増 減

十  743

十 2.996

十 7.889

十11.253

十10.126

十14.431

十15.679

十42.085

十16.033

十45.311

十12.092

十 3.294

一   636

十  626

十72.977

十68.855

十57.506

十108.596

一{-103.451

13

)11

21,7

37,4

70,9

68,0

85,4

87,8

84,3

90,5

70,0

81,8

78,5

21,9

7,5

5,6

82、0

80,8

82.6

87,6

73.6

)10

27,7

59.8

243,3

212,3

586,7

718,3

536.8

951,5

232,0

451,2

305.5

28,0

6,9

5,9

457,3

421,8

474,9

709,4

279,1

14

56789012345678901234567890123456789012345678901234567890L2345

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1111111111111111111111111111111111111111111111111111111111111

78

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ペルリツ地域医療史 1871 1914

第3表 ベルリン市の人口

1 2 3 4 5 6 7 8

年 人口 婚 姻 出 生 死 産 出 生 私生児 死 亡(死産児を除く)

絶対値

ノt一

ミル絶対値

パー 絶対ミル  値 % 絶対

値ノ母一

ミル絶対値

% 絶対値

ノ雫一

ミル

羅器甥嚢霧耀鑑講羅嚢㎜㎜霧蝿羅謹

藩鑑響蘂饗㎜繋難難盤難揺姐嚢鑑霧繋

灘懇難灘脳灘難難灘羅醐羅藻灘擬

霧摺携騰鰯澗講耀謂講鰹竃搦難謝鰯毅蹴羅卿覆蟹灘畿鱈魏

3222222122222221222222222aa3aaaaa翫4,生吼3,3,a44な4翫丘&aa&乞&a8。&&L2・a4

                                                         1111

5βゆββ555β5β444β5’15ゆ3」ββ4β’4ββ84537545627240269086539963421211

器認蚤3535塁舗器器%35器菱36蹴35匿器籔35鉱毅籔鉱籔訟鉱鉱器蹴器盤鰍鎗鐙⑩豊弧詮

鰯翻藷羅鰯譜贈欝珊講摺讃朧η朧脇繋麗瓢螺讃藷魏魏鑛裂

6766677778§ー8§99999憩拐皿詮捲琶措蝕詮拾瓦舐捻皿凱⑳墾訟雛器翫脇器豊

βゆ4’5β遵4β3ββ44訊ββ5濯ユ499ββ3βユμβ4湛848772265683343375961812206140

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                                                コ  ロ  サ         コ  ロ  コ         ロ  ワ  ロ   

                                               11111111111111

β3βββ護5ββ34』βゆββ4、7’9ゆβ5孟5峰β5’5ββ493990282892393207650374663542

32R5

シ32器32器器謎蚤器器認髭器303。32訓羽鈍訂器器豊誰鉱鉱籔籔器器蹴⑩籔鍛簸豊鰍

鰯艦腸鰯携朧細蠣珊細蟹欝鑑溜講鵬藁甥研窺嚢霧瑠霧翻繋箔

67666676777§8887§89999皿給nU拡量皿逡抵鋒姓抵拾皿鑑鍛蹴盤既器釜訟“

擢撒耀鍛耀鰯標鰯耀脳灘鑑磁器鰯諸幾謬謝鰻議鰯㎝㎜握霧鰯

111111111111111111111111111111111222。2。a2aaa2,2a3aaa444444。4。44臥5・

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19P9P7

戟[617171616141415蔦15茄蔦15玲鋒1615焉鷺15、515捻M養15域職瓦叫叫玖凪玖職瓦瓦瓦砿職域境玖鍬域瓦玖職職職鳳

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28Q7R0R0Q4

Q4e28272828262730362930器263728”26242623髭2223273124訟蹴蹟職既蹴鍬鉤職鉱覧風既職鉱盤訟舐職鉱凱鋤⑩鉱

鰯耀辮鰯霧顯脇誰脚珊鶴概翼繋卿雛舞謝磯嶽霧講鋤繋麗覇珊

556655566666667977867逡7888888量造n鑑造皿n拡量n玖蓋猛箆畳量盤箆毅

出典:W.K611mann(Hrsg.), Quellen zur Bevδlleerungs-, Sozial-und

       I)Virtschaftsstatistileヱ)eutschlands 1815-75, Harald Boldt Verlag,

       Boppard a. Rhe三n 1980, SS.190-1.

79 (513)

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ベルリン地域医療史 1871-1914

職を求めて流入して来た人々は、当然のことながら、少しでも良い住居をもとめて周辺地区に定住し始めたからである。

第一図は、一八九〇年におけるベルリンの行政区画図であるが、帝国建設以後、第一次大戦に至るまでの期間、モアビッ

ト、ヴェディング、 ローゼソターラー・フォルシュタット、オラニエンブルガ:・フォルシュタットO吋餌昌冨昌ぴ⊆Nσq①H

<o屋3鼻、ケーニヒスフィアテル区α巳σqω≦醇9一など、主として市の西北郊ないしは東北郊周辺地区において、人ロ増

はとりわけ急激であった。

 地区別にみたその概況は、第二表が示しているが、一八七一-一九一三年間に、人口増加の最も激しかったのは、前記

のモアピット(=二・五五倍)、ヴェディソグ(一〇・〇五倍)、 ローゼンターラー.フォルシュタット(六.九〇倍)、

ケーニヒスフィアテル(四・○○倍)などの住宅地区であり、中でも、当時はまだ市の西北郊に位置していたシャルロッ

テソブルク宮殿周辺の場末町く03詳(現在のシャルロッテンブルク区)の爆発的な人口増は、注目に価する。帝国建設

の年一八七一年に、僅か二万人であったこの場末町の人口は、一九〇〇年に一九万二千人、一九一〇年に三〇万九千人と、

約四〇年間に一五倍以上に増えている。またノイケルソやシェーネベルク、リヒテンベルク、ヴィルマーズドルフなどの

場末町の人昆も・響であ・.測・かくて、・れらの周辺地区は、村や小邑の状況から脱・て、かなりの合をもつ町に

と発展したが、一八九五年以降になると、そのなかには、一〇万を越えるものも出てきた。第一次大戦勃発前の一九=一

年・二〇〇万都市ペルリンは、シャルロッテソブルク、シェーネベルク、ノイヶルソ、ヴィルマーズドルフ、リヒテソベ

ルクなどの町々を結ぶ環であったと言うことが出来よう。

 このような人口集積の結果、ベルリソの人口密度は、当然のことながら、急激に増加する。試みに、当時のベルリンに

80(514)

O

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おける人口密度を計算してみると、帝国建設の年一八七一年のベルリンのそれは、一平方キロ当たり=二、九五八人、一

八七五年には一六、三三二人で、帝国建設後の数力年をピークとして、その数字は、一九〇〇年に一一、六九三人、一九

                                    (15)

一九年四、三三〇人、一九三九年四、九一六人と、かなり急速に逓減しており、大ベルリン圏の形成とともに、地域への

人口拡散が、この首都では急速に進行したことを物語っている。

(515)

ベルリン地域医療史 1871-1914

襲 ペルリンのこのような推移を、参考までに、同じ首都である東京市のそれと対比すると、ベルリン市民はまだかなりの居住空間を

もっており、東京市の凄まじさがよく分かる。東京市の人口統計は、一八七三年(明治十一年)より始められており、残念ながら、

それ以前の人口統計は見当たらないが、その人口密度は、一八七八(明治十一)年以来上昇を続け、一八九九(明治三二)年には、

 一平方キロ当たり二〇、六六七人となって、二万人の大台を突破、その後、明治から大正にかけて増え続け、一九二〇(大正九)年

         (16)

には三万人を越えている。一九六五年(昭和四〇年)および一九七〇年(昭和四五年)の人口調査でも、東京の人口密度は、二三区

平均が一五、○○○人強(一九六五年-一五五五八・五人、 一九七〇年-一五三一九・九人)で、 一番多い台東区(一九六五年-

二八六三二・四人、一九七〇年ー二四〇七六・九人)ないし豊島区(一九六五年-二八六七九・九人、一九七〇年-二七二四二・七

人)では、二四、000人強から二八、○○○人強であった。三多摩を含む全都でも、一九八〇(昭和五五)年当時ですら、一平方

           (17)

キロ当たり五四四一・三人で、第一次大戦当時のベルリンのそれに、ほぼ見合う数字であろう。

  注

(1) ベルリンの沿革に関しては、歳§§§勘§、ミ無ミ苛忌鳴蕊曾ミ、§b恥ミい“ミ§戚9じσ巴3\切話註゜ロげ⊆「σq噛≧h「巴ス&器「

  <①二①αq噂ω言洋σq9。答HO謎が詳しく、かつ正確である。また、旅行案内書であるが、ヒuミ§ぎ凌bロミ衛§閃「。一げ⊆菌”ス⇔二切器窪①・

  ぎきHO°。刈(初版一八七八年)も、かなりの歴史と権威をもっており、信用できる。

(2)ω巳o頃舞。諄①「σQ(国「°。叩)りb隷Oミ§隷bu馬ミ蕊℃ζ一什①ぎoヨ国器ミく自軍≧げ。言N曽】)。「9‘註”O穿05一『<①『一9。のレO。。9

  ω゜卜。ω゜。°(以下Gミ§隷⇔uミ勘蕊と略称する)。

81

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ベルリン地域医療史.1871-1914

(3)=碧ω・い勺鼻す穿暑一。匹唐σqωg巳①言雪匹。円b」。目=器N≦器。冨h露①切。ゴ剛。葺。H°。刈〒H零P冒冨ロ一吻。ゲ・U窪§冨ω=凶吻8二即。門・

   ooくヨ娼Oロo一信ヨ噛 HOー∩}犀仲Oげ①同-目㊤Qo刈, 日,O犀《O噛 ωω゜ ωlQo°

(4)≦。訂匹卑げρbd。N=昌ぎ凶巴駒・窪①尊(H°。コ山o邑矯巨≦。壽碧。q田げげ①(=「°・αq’)°9題ミ6ミ鳴切ミh賊蕊輸N蓄凶響窪巳噸

   ζ雪。冨≡ρ軍切o°ぎHO°。圃゜ω゜鵡目゜

(5)図。罵O①ぼ暴量匹三9仁器巳ω冨巳震①同守註=①三ヨH°。°ロ民蜀甘訂匿乱①3震ω仲9ω。7ユ§。ひq同帥9蓉ゴ。9⊆巳艮σq。

   ①冨吋ヨ騨寡。冨ロo。け巴け噛ぎ≦島σq雪σq空げぴ⑦(年吻σq’)、切ミミ・さ蕊S§鴨§自りω①H=EO。=。ρ巳=ヨ<①忌σq℃H㊤゜。メω゜謡゜

(6)皆包ρ魯゜ミニωω゜刈φ

(7)〉弓①ヨ9。忌い8σq。.切ミ、ミ碗ミNミb口&偽㌃§織bロ㌃ミミ謝噛N乱ω。冨口菊①8冨σ。三昌含品当α冒訂ぎ巳。二蓄巳ρ切。集『

   U§N<巴β・σqし㊤。。繕層ω゜刈。。°

(8)Oミ§隷きミ蕊噛ω゜α§

(9)冨お⑦、号゜ミニQD°輯

(10) 団告ρo》亀覧二ω゜$合当然のことながら、人口数値には史料間に多少の異同があり、Oミ§簿buミh§い℃ω。鵯刈は、一八七

    一年の人口を九三一、九八四人と記録している。

(11)  ωけゆけ四〇n二〇摩Oゲ①ω 】W虞昌αOロm一昌一 ぐ『圃O切び餌店O口讐 切恥噌q、瀞馬、ミ蕊磯  ミ蕊匙  ヨ、馬肋O魯貸》b ず門ωαq° 口昌一飢駒自駒o=Oゲ  血Oロロ 一〇〇 一箇門一αqO昌  一WOω件①ゲ①”ロn嘘

   Goけロ窪σq碧けF冨巴冒軸く霞討σq≦°閑〇三冨ヨヨ臼りHO『卜。響ω。りト。°(以下、切β≦と略称す。)

(12)≦。藷。晶区α=ヨ餌ヨ(年切σq°)°O§』、§魏ミ昏&簿ミ§鷺・℃砺爲ミ・§職ヨ轟いqぎ喬塁、ミミ叫神b鳴ミい6ミ§魯N°。N㌣

   N°。N黛bd9。巳トゆo冨胃α螢ヨカゲ①一三国舞螢匡bdo一島く①二餌σq°HO°。9ω゜°。°。°。°(以下、ρNゆと略称す。)

3 ミ昔㌧ω゜トっト⊃①゜

(17)

(  (  (  (

1615141)  )  )  )

国ぴρ号’ミニω゜OO。。°

Gミ§隷切ミミ蕊、ω゜㎝ミ゜

『昭和八年東京市人口統計(第一回)』東京市役所、

『全国都市統計総覧』東洋経済新報社、一九八二年、

一九三五年、四三四ページ。

面積人口密度5。

82(516)

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ベルリン地域医療史 1871-1914

第二章 帝政期ベルリンの市民生活

 1 年齢別人ロ構成と平均寿命

 当時のベルリン市民の年齢別人口構成は、第四表のとおりであるが、一八七一年に関して言えば、一四-五歳から六〇

歳までの生産年齢人口が、男六九・二、女六六・九と圧倒的に多く、逆に六一歳以上の高齢者人口は、男三.五%、女五.

六%と、顕著に少ないのが特徴と言えよう。五〇年前の一入二二年当時と比較して、生産年齢人口が比率上大差ないこと、

一四ー五歳以下の小児人口と六一歳以上の高齢者人口との比率に、男女とも逆転現象が起こっていることは、当時のベル

                                      を                 キを

リンが生産の場であったことを示すと同時に、五〇年間における平均寿命の伸びと乳児死亡率の減少ぶりを示すもので、

                                           (1)

ベルリンの衛生環境が、帝国建設から四〇年間に、著しく改善されたことを示す証左であろう。

うー この点について、 シュパンダウ地区の詳細な研究があるが、既婚男子の平均寿命が一七二〇1一八六九/七九年の期間、男子五

七・八歳、女子五三三歳であるのは興味深い。乳幼児の死妄の異状な高さは、、、の時代の大きな特徴窮るが、;二〇⊥八

 六九ー七九年のそれが、男児二六・五%、女児一二・七%、平均二四.二%であったことは、注目に値しよう。

  当時のベルリソ市民の平均寿命は不明であるが、全ドイツ規模では、 一八七一/ニー一八八〇/一年に男子三五.六歳、女子三

八・五歳、天八一⊥八九〇年にそれぞれ三七.二歳と四〇.三歳、天九竃九〇〇年四〇.六歳と四四.○歳、一九〇T

 一九一〇年四四・八歳と四八二二歳で、平均寿命は一〇年毎に確実に上昇していた。

巽 一歳以下で死亡した小児の比率は、一八七一ー一八七五年間に全出生児の三四%であったが、一九一一-一五年には全出生児の一

 八%に減少、平和期の最後の年一九=二年には、全出生児の一三%となり、ようやくパリの一二.五%(一九〇四年)に比肩するに

    (4)

 至っている。

(517)83

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ベルリン地域医療史 1871-1914

女子の年齢階層

人口構成(1815-1875年)

子の年齢階層

14/15~60歳 61歳以上 14/15歳以下 14/15~60歳 61歳以上

実数  % 実数1% 実刺% 実数  % 実数i%

     }

V0,870

V2,158

V5,996

V9,970

W4,607

W7,070

X0,666

P01,035

P21,857

P27,496

P50,148

P54,402

P53,960

P56,811

P61,294

P74,532

Q05,570

Q40,584

Q88,991

R42,022

  一

U9.6

U9.9

V0.3

V0.4

U9.2

U8.6

U7.1

U9.0

V1.0

U9.6

V0.4

U9.9

U8.2

U8.4

U8.7

U6.8

U7.0

U8.2

U9.2

V0.4

    一

U,001

T,830

T,757

T,646

T,968

U,308

U,418

U,373

U,880

U,159

U,788

V,265

W,016

P0,101

W,975

P0,471

P1,704

P3,824

P4,657

P6,066

一5.95.65.35.04.95.04.74.44.03.43.23.33.54.43.84.03.83.93.53.3

     一

Q4,727

Q5,490

Q6,184

Q8,261

R1,403

R4,153

R7,610

R8,790

S1,737

S8,037

T4,506

T8,114

U1,874

U0,898

U3,518

V5,161

W3,212

X8,312

P11,344

P28,940

  一

Q5.8

Q6.0

Q5.9

Q6.5

Q7.4

Q8.1

Q8.9

Q8.3

Q6.3

Q8.3

Q7.9

Q8.6

Q9.0

Q7.9

Q8.4

Q8.5

Q9.0

Q8.2

Q7.2

Q6.8

     一

U4,096

U5,361

U7,958

V1,173

V5,533

V9,215

W3,548

W9,397

P06,608

P11,683

P30,692

P34,415

P40,226

P44,071

P47,627

P73,269

Q01,124

Q30,058

Q73,452

R26,156

  一

U6.8

U6.7

U7.2

U6.8

U5.9

U5.1

U4.3

U5.1

U7.2

U5.7

U6.9

U6.2

U5.8

U6.0

U6.0

U5.7

U5.4

U5.9

U6.9

U7.8

     『

@ 7,084

@ 7,073

@ 6,960

@ 7,175

@ 7,625

@ 8,380

@ 8,813

@ 9,111昏 10,186

@10,223

@10,174

@10,499

@11,035

@13,348

@12,614

@15,130

@18,282

@20,577

@23,075

Q5,798

一7.47.26.96.76.76.96.86.66.46.05.25.25.26.15.65.75.55.95.65.4

 2 市民生活と福祉状況

 ベルリンが急速に工業都市に発

展して、大都市になるに及んで、

医師・技術者・衛生警察・国家公務

員・市政担当者間の緊密な協力が

要請され、これまで「文明世界の

中でも、最も不潔で、最も疫病の

多く、最も悪臭のひどい首都」で

あったベルリンは、次第に面目を

一新して行く。一九世紀後半にな

ると、健康行政を実施して、市の

環境衛生を増進するためには、医

師・行政担当者・技術者間の緊密な

協力が必要だという世論が盛んに

なって、多くの出版物が出され始

め、衛生思想の喚起が声古同に叫ぽ

84(518)

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ペルリン地域医療史.1871-1914

第4表 ベルリン市民の年齢別

住  民  数 男

年 総  計 男 女 14/15歳以下

実数i% 実数  % 実数  %1 1      1 1

  一一

54379426004832521961

肱2424242526282625四262628勿勿2929勿2626

1815

1816

1819

1822

1825

1828

1831

1834

1837

1840

1843

1846

1849

1852

1855

1858

1861

1864

1867

1871

1875

197,717

201,138

209,146

220,277

236,830

248,682

265,122

283, 722

330, 230

353,149

408,502

423,902

438, 958

447,483

458,637

524,945

609,243

702,239

826, 341

966,858

101,810

103,214

108, 044

113,668

122,269

126,934

135,151

146,424

171,699

183,206

213,130

220,874

225,823

229,166

234,878

261,385

306,625

353,146

417,432

485,655

51。C

51.C

52.2

出典:K611mann(Hrsg.), op. cit., SS.192-3.

51.5

51.3

51.7

51.6

51.6

  0

  0

51.6

52. 0

51. 9

   2

52,1

51.4

51.2

51.2

49. 8

50.3

50.3

50.5

50.2

95,907

97,924

101,102

106,609

114,561

121,748

129,971

137,298

158,531

169,943

195,372

203, 028

213,135

218,317

223,759

263,560

302, 618

349,093

408,909

481,203

48.5

48.7

48。3

48.4

48.4

49.0

49.0

48.4

48.0

48.1

47.8

47.9

48.6

48.8

48.8

50.2

49.7

49。7

49.5

49.8

24,939

25,226

26,291

28, 052

31,694

33,556

38,067

39,016

42,962

49,551

56,194

59,207

63,847

62,254

64,609

76,382

89,351

98,488

110,968

127,006

れた。そして一八七三年三月、市

議会は、数年間の討議の末、運河

改修計画を採択、前記の汚名の返

上に乗り出し始めている。この年、

市議会の自由主義多数派は、医師

であるとともに研究者であり、ま

た政治家でもあったR・フィルヒ

ョー≦容ゲo謹(一八二一-一九

〇二)の指導の下に、運河づくり

は「底無しの税金ロスだ」と述べ

てこれまで熾烈な反対運動を展開

してきた人々、とりわけ家主層と

闘って、運河改修工事をかちとっ

た。家主層は、首都であり帝都で

あるベルリンが、「ペストの通路」

である運河で貫流されることは、

(519)85

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ベルリン地域医療史・1871-1914

容認し難いとして、反対したのである。一八五九年夏以来、ベルリン市議会議員であり、三年後のドイツ進歩党結成に参

加、また、翌年以降は、プ・イセン下院議員として大奮迅の活躍を続けてきた・・ルヒ・.厄にと・て・家主層の抵抗は・

彼の不抜の精神を強めこそすれ、決して阻喪させるものではなかった。

 さらに一八八ニー八三年になると、市内のモアビットで全ドイツ衛生救護制度博覧会≧「σQ①ヨ。ぎ①号霧。ゲ①〉島ω3「・

一¢品・ロ=。ヨO隻霧量穿σ・ぎ・・民α8勾・碁・σ・・羨霧が開催されて、衛生思想の喚起が一層叫ばれるよう

になったことも、ここで指摘されるべきだろう。かくて、 一九世紀末までには、「すべての市民に光と空気と水と住居と

学校と教養と福祉と自由を!」という健康政策の中心的スローガンを、強力に実施するための戦略が、この町の随所で展

開されたが、その町作り政策の基本線は、前記のフィルヒョーや、K・ザイデルω。置巴(在任、 一八六ニー七二年)、

A・ホブレヒトの両市長(在任、一八七ニー七五年)、その弟でベルリン運河の建設者、J・H・ボブレヒト他の自由主

義自治体政策者たちの不死身な献身に負うて掩・

 そこで、これらの人物について、予め簡単に触れておけば、フィルヒョーの義兄弟であるザイデルは、大蔵省顧問や行

政区長官を勤めたことのある有能かつ指導力のある人物で、帝国建設に至るまでの期間、行政の分権化を試みたが、与党

である筈の進歩党の反対にあって挫折、一八七三年一月病死している。そして四月、ザイデルの後をうけて市長に着任し

た国民自由党のA.ホブレヒトは、前ブレーメン市長としての経験を生かし、着任後数ヵ月にして、ベルリン市焦眉の課

題であった諸計画を、立案.実施させている。彼は市議会ω畠警く葭oa昌①8昌く霞ω鋤ヨヨ「巷σqの多数派を背後にしつつ、

運河改修や環状道路の完成など、・の町の都市基盤の改善のため懸命に尽以巳・同年八旦J°H°ホブレヒトの設計に

86(520)

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ベルリン地域医療史 1871-1914

               (8)

なる運河改修工事を初めて着工させたが、その詳細については、第三章で述べることにしよう。

 関連して、ここで当時の市議会の構成について触れておけぽ、議員として選出され得たのは、一定の収入をもつ「立派

な人物」や名声のある人物のみで、半数以上は家主または地主であって、労働者の代表は、まだこの時点では、「名望家議

会」と呼ばれた当時の市議会に進出することができなかった。七〇年代の市議会議員のほぼ三分の一は、ほとんどが無職

の富裕な家主である金利生活老で占められ、残余は、商人・工場主・企業家・手工業主ならびに弁護士・医師・上級教諭

                     (9)

○げ臼8ぼ窪・校長などの知識人で占められていた。

 * 一八八三年一〇月、P・ジンガーωぎσQ魯の率いる社会民主党SPDが、市議会選挙、三級選挙制度の第三級で、初めて五議席を

     (10)

 獲得している。

 3 都市空間と緑地

 ベルリソは、こんにちでも、森の多い都市である。一九七九年の統計を見ても、西ベルリン市の総面積四八、○○○㎞

のうち、九、八〇〇㎞が住宅地、一、三〇〇㎞が企業・産業地、七、九〇〇㎞が道路・交差点などの交通用地で、森林・

緑地などのリクレーショソ用地、農地・水路などの都市空間(森林七、七〇〇㎞、リクレーション用地四、三〇〇㎞、農

                                          (11)

地三、七〇〇㎞、水路三、一〇〇㎞)は計一八、八〇〇㎞で、全体の実に三九・二%を占めている。

 一八一六年以降、ペルリソ市や周辺のポツダムなどで、公園づくりの仕事を精力的に行ったのは、 レソネ勺①8Hい

ピ①暮0(一七八九ー一八六六年)である。サンスーシー宮殿付属庭園(造成一八六〇年)の造成者として知られる彼は、

(521)87

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ベルリン地域医療史 1871-1914

ベルリンでも、大規模な庭園・公園・風致地区の造成を次々と行って、発展著しいこの都市に、「緑の顔」σqH茸〉昌島言

を与えた。彼は一八三三ー三九年に、むかし選帝侯の狩猟地であったティーア・ガルテンを造成して、・ヨーロッパ有数σ

美しい公園として今日知られるまでに仕立て上げ、「風致造園家」の令名を得ていたが、晩年にも、クロイッベルク公園

(一八六〇年)、ヴィルヘルム・プラッツ毛=げ①一ヨ艮象N(一八六二年)、モアビット新教ヨハネス修道院庭園(一八六四

年)などの造園工事を手掛けている。不幸にして、彼はベルリンがドイツ帝国の首都となるのを見ずして死んだが、帝国

                                               (12)

建設の年一八七一年には、この市の公園づくりの仕事の基礎は、既にあらかた終わっていたといってよい。

  注

 (1) O軸b°ωoo°H81ω゜

(2)O卑昌m嘗、。やミニω゜$

 (3) 切ミミゼω゜目ρ智区仁o曙霧算O塁oミqミ恥§切毎ミ貸鷺§恥犠恥ミ恥忌§ぎ忘恥軽噂H°。謡山りH°。り切臼=畳〉犀巴。ヨ甲く臼冨σqり

  HOQoNω゜心曽゜

(4)言。冨色犀びPo。。N冨一-錫巳≧ぎαqσq①゜・。三。ぎ。bd①「ぎωりH°。謡山り歩冒冨昌。ゲ・∪①葺ω9①ω震゜・8鼻①マω罵ヨ℃。ωごヨし刈6犀8げ①7

  HOooメωω゜α1①曾

 (5) フィルヒョーの伝記類や書簡集は彩しく出ているが、差し当たっては、O費ゲ舞ユ出岸昌。び勘ミ概ミ、峯ミξ§肉隷ミ職粛霧き・

  驚ミミきミb◎鳶蕊§辱寵幕、馬§き、譜鴫黛蕊鴫q§き、ミミ鴇馬蕊き亀》ミ蕊犠さミ甑§ωεけけαq曽鷺<o」oσq閃器凶①ωO①冤o°・♂げo昌

  HO刈P>ヨo匡しd霊⑦ひ肉ミ§ミミ§隷o斜bミ慧hミ8譜》、鎮切①臣昌”<Φ二里■σq≦o鼠σq碧oQω雷署Hりo。トのL≦睾蹄巴く9。°。o罫

  肉ミ“ミ、蕊、暮O§bミ磯、$器郎、ミミ遮“ぎミ隷鴨、bωε洋σQ碧け鱒∪①ロ誘oゲO〈臼『σq°。-〉霧↓巴計HOooooが参考になる。わが国に紹

  介された和文の伝記は多くないが、E・H・アッカークネヒト(館野之男・村上陽一郎・河本英夫・溝口元訳) 『ウィルヒョーの

  生涯』サイエンス社、 一九八四年(国H≦ぎ 国゜〉爵o碁器島計沁ミ“ミ、ミ、忌o§boミミ曾ミ霧ミ貸蕊 毎ミミO特oご晦龍蟄

  d巳く①閉一蔓Oh毛凶ω089昌℃冨。・°。ぢ紹)が新刊書といえる。

88(522)

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ベルリン地域医療史 1871-1914

(6)臼。99切。げ①おり2ヨ9・旨軍。ゴ罵”団。寄訂二9一ぎ(軍駒・σ・°)層ミミ§・誉、概氏ミミ鼠ミミ噂㌧ミ誠ミ罫ミ、ミ§馳ミ§

  

@軌§」℃°、自ミ趣ミ養“ミきζ口琴ゴ①三ρ工゜bd①集.ω。ゴ①<臼討αQωげ口島匿巳一ロ昌σq噸Hり゜。“》(以下、肉胤ミと略称する)、ωω゜μ①学ら。

(7)日碧σqρ愚。ミニω゜°。ト

(8)6ミ§隷津ミ舘℃ω゜卜。心O°

(9)い雪αq9魯゜ミニω゜°。“°

(10)Oミ§ミミミ蕊”ω゜Nα゜。°

(11)ω§圏巴゜。°冨ω守巳①器日梓噂9ミ軌吻蓼き$、§さ§潜竈゜。O凄、ミ恥馳§§肋蓋讐尊§b§旨qミ§トωε窪σq自。ミζ9。冒男≦。

   天〇三冨ヨ旨①5HO°。9ω゜=O°

(12)空びげ①\ω゜冨島ρ馳ミ§職匂鴨ミ・山ミミ鷺ミ§・砺鷺ミ黛§ミ”ヒ6軌轟、息勘賊§簑、O§琴隷§肉ミ§簿、§偽切ミ識蕊魎峯゜。けo「甲

   。『。國。ヨ巨゜・°。δロNロbゴ①目=昌uゆ①噌=『ω冨署く99αqu日㊤。。Sω」謡い

(523)89