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イエズス会、ジャンフランソワ・トマ神父 2021 年 1 月 21 日 レクイエムのミサ 原文 https://www.vexilla-galliae.fr/actualites/chetiente-christianophobie/p-jean-francois- thomas-prone-pour-la-messe-de-requiem-du-roi-louis-xvi/ 動画 https://www.youtube.com/watch?v=0ME5u1ULgr4 聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン いと愛する兄弟の皆様、 1793 年 1 月 21 日のパリの空は重くて曇っています。聖ルイの子を死刑台に連行していく 不気味な行列を囲む大衆は濃厚です。ギロチンの死刑台に近づくと、なおさらに密に集まっ ています。午前 10 時 10 分、鋭い音を立てながら、ギロチンの刃は落ちました。ルイーマ リ・プルドームは、『パリの諸革命』という新聞のジャコバン派の出版社かつ発行者ですが、 (ちなみに、王政復興になってから静かに自然死を遂げた人ですが)、感情的にも予言的に も次のように証言してくれています。 「ある一人の市民がギロチンへ上った。そしてそこにあふれ出していたカペーの血に裸の 腕を入れて、凝塊の血をたっぷり手で拾って、自分の額に血の一滴を浴びるため、死刑台の 下に殺到していた大衆へ三回ほど、王の血を掛け合った。血をかけながら彼がいっていた 「兄弟よ!ルイ・カペーの血は我らにかかるだろうと警戒されたのではないのか?そら、か かれ!」」 1800 年ぐらい前に同じような言葉が使われました。時代を問わず、場所を問わず、やはり 人間は変わらない者です。エルサレムで発言された言葉でした。 「自分の努力も実らず、むしろ騒動の起こらんとする気配を察したピラトは、水を取って 人々の前で手を洗い、「この男の血については私には責任がない、おまえたちで責任を取れ」 といった。民は「その血は我らと我らの子孫の上にかかってよい」と答えた」(マテオ、27、 24-25)。 神殿の司祭らは生贄を捧げた時、その血を人々の上に掛け合っていました。お祓いという意 味を込めて清めるためでした。人々の罪のために十字架上の我らの主の御血もこのように 清めの役割が決定的にありました(最後の生贄となって、唯一、効果のある生贄なのです)。

イエズス会、ジャンフランソワ・トマ神父...旧ルイ15 世広場、革命広場で、1793 年のあの冬の午前、悪魔的にも聖なる三位一体の御血

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Page 1: イエズス会、ジャンフランソワ・トマ神父...旧ルイ15 世広場、革命広場で、1793 年のあの冬の午前、悪魔的にも聖なる三位一体の御血

イエズス会、ジャンフランソワ・トマ神父

2021 年 1 月 21 日

レクイエムのミサ

原 文 https://www.vexilla-galliae.fr/actualites/chetiente-christianophobie/p-jean-francois-

thomas-prone-pour-la-messe-de-requiem-du-roi-louis-xvi/

動画 https://www.youtube.com/watch?v=0ME5u1ULgr4

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、

1793 年 1 月 21 日のパリの空は重くて曇っています。聖ルイの子を死刑台に連行していく

不気味な行列を囲む大衆は濃厚です。ギロチンの死刑台に近づくと、なおさらに密に集まっ

ています。午前 10 時 10 分、鋭い音を立てながら、ギロチンの刃は落ちました。ルイーマ

リ・プルドームは、『パリの諸革命』という新聞のジャコバン派の出版社かつ発行者ですが、

(ちなみに、王政復興になってから静かに自然死を遂げた人ですが)、感情的にも予言的に

も次のように証言してくれています。

「ある一人の市民がギロチンへ上った。そしてそこにあふれ出していたカペーの血に裸の

腕を入れて、凝塊の血をたっぷり手で拾って、自分の額に血の一滴を浴びるため、死刑台の

下に殺到していた大衆へ三回ほど、王の血を掛け合った。血をかけながら彼がいっていた

「兄弟よ!ルイ・カペーの血は我らにかかるだろうと警戒されたのではないのか?そら、か

かれ!」」

1800 年ぐらい前に同じような言葉が使われました。時代を問わず、場所を問わず、やはり

人間は変わらない者です。エルサレムで発言された言葉でした。

「自分の努力も実らず、むしろ騒動の起こらんとする気配を察したピラトは、水を取って

人々の前で手を洗い、「この男の血については私には責任がない、おまえたちで責任を取れ」

といった。民は「その血は我らと我らの子孫の上にかかってよい」と答えた」(マテオ、27、

24-25)。

神殿の司祭らは生贄を捧げた時、その血を人々の上に掛け合っていました。お祓いという意

味を込めて清めるためでした。人々の罪のために十字架上の我らの主の御血もこのように

清めの役割が決定的にありました(最後の生贄となって、唯一、効果のある生贄なのです)。

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旧ルイ 15 世広場、革命広場で、1793 年のあの冬の午前、悪魔的にも聖なる三位一体の御血

の潅水式を真似してキリストの代理人の血をとって、サン・キュロットが行った猿真似と冒

涜的なパロディーの結果、フランスはその冒涜の万力で絞められてしまいました。はい、本

当に、この地は我らの先祖の上にかかりました。いまだに絶えずかかり続いています。残念

ながら、我らの救いのためにかかっていません。というのも、共和政は現代に至って一度も

その血に対して改悛したことはないからです。ちなみに、共和政はなにもかも本来ならばフ

ランスの名誉になる事柄なのに、フランスを軽蔑して自虐して「反省」してばかりいるのに、

本格的に反省すべき事柄については何も悔い改めていません。もはや、我らは我が遺産が奪

われてさまよっている可哀そうな継承者であるかのように、失った立派な精神というぼろ

着を着て見せかける共和政にすぎません。大衆は喝采しながら、死刑台にいた一人の熱狂者

が「カペーの血は聖水なのだ」と叫びました。フランス祖国は、クロヴィス祖王と彼の騎士

らの洗礼を受けた故郷なるフランスは、数えきれないほどの殉教者の血によって清められ

たフランス故郷は、1793 年、革命の多くの犠牲者と王の血を流しました。無辜のこの血は

復讐など訴えません。というのも、信仰のために自分の命を捧げる証人にはそういった意図

がないからです。我が国の罰は自分で自分に与えるのです。つまり、自分が犯した罪を認め

ず、傲慢にも頭を高く上げながら、絶えず犯し続けている誤謬と犯罪を見捨てないからこそ、

引き続き天罰を受けているという次第なのです。革命は数千年のフランス魂を破滅しよう

としました。そうするために、天主から解放された「新しい世界」を作ろうとしました。し

かしながら、その挙句の果てに、闇の世界のみを立ち上げて、どんどんその闇は暗くなって

いくのです。というのも、現代社会ではやっている「共和政の価値感」というものがいつも

訴えられますが、結局、自然法と超自然の恩寵に対する武器にすぎないからです。

ですから、ルイ 16 世について、その殉教を見つめることはもっとも正当なことです。とい

うのも、天主に対する憎しみをもってこそ、ルイ 16 世は殺されたから、まさに殉教者の定

義にぴったり合うからです。フランスでは、革命以降、いくつかのまれな例外を除いたら、

教会はルイ 16 世、王妃、可哀そうな王太子、マダム・エリザベートを初めとして、カトリ

ック的な社会の象徴として殺されたほかの多くの人々が列聖されるために殆ど戦ってきま

せんでした。革命当時の社会には、それ以前にも罪人が多かったかもしれませんが、フラン

スを天主はずっと見守っておられたわけです。我らの王は、無罪だったのに、無辜だったの

に、それでも我らの主のご受難に倣って、自分を小さき者にして、すべての侮辱と苦しみを

受け入れました。死刑台までにルイ 16 世の傍にずっといたルイ 16 世の最後の聴罪司祭

Edgeworth 神父は太鼓がゴロゴロいう音に囲まれながら涙しながら、次のように国王に言

いました。

「陛下、今の最後の陛下への侮辱を見て、陛下の報いとなる主(イエズス)とのもう一つの

類似点を見出す次第です」

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国王は天に目を向けながら答えました。

「確かに、主のご模範がなければ、このような侮辱に従うことはできなかったでしょう。」

そして、国王は執行者に向けていいました。

「好きにしてください。この杯を最後の一滴まで飲みほします。」

国王の態度はこの上なく勇敢な、犠牲心をもって天主のみ旨に従う献身した偉大な態度で

した。以上のような態度は格好つけるような姿勢ではありませんした。というのも、一番天

主嫌いの革命家自身がルイ 16 世の最期の偉大さを認めざるを得なかったのです。ほら、ど

れほど革命的だったにもかかわらず、皆、キリスト教的な教育を受けていたので、認めずに

はいられなかったのでした。パリコミューンに市役員だった Pierre Manuel は 1792 年の 6

月と 9 月の虐殺に加担したのですが、そのはるかにあと、改悛した者でもありますが、1793

年 1 月 18 日、つまり死刑執行の三日前に、「92 年の革命」という新聞で、次にように嘆い

ています。

「ルイ 16 世の判決は疑いなく執行されるだろうが、殺されたら、ルイ 16 世の死は聖人の

死になってしまう。」

また、Prudhomme(プロドム)は「パリの諸革命」新聞において、同じようなことを書き

ました。

「司祭らと謙遜な信徒らは殉教者の一人として、ルイ 16 世を祝うために、すでに相応しい

日付を探しているよ。もう、皆、ルイ 16 世の執行と彼らのキリストの受難と関連付けてい

る。」

Hebert はそのおぞましい「Le Pere Duschesne」新聞において、同じような予想を書きまし

た。

「教皇はかれを聖人にするだろう。すでに、司祭らが彼の遺体と遺物を買ったりして聖遺物

にしているようだ。すでに、迷信溢れる古い老婆らはこの新しい聖人の奇跡を語り出してい

る。」

残念ながら、国民や下級の聖職者たちはすぐにルイ 16 世の殉教と、救い主のご受難と国王

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の死との驚くべき類似に気づいたものの、革命家らが警戒していたこの予想はまったく実

現しませんでした。ローマは無関心のままでした。当時も、そのあとも、王政復興の高等聖

職者などは、あまり熱心に殉教王を列聖するために動きませんでした。というのも、殉教王

の立派な殉教死はそれらの多くの聖職者や高等貴族などの卑怯な行為、逃亡、否認、背教な

どを強調することになるので。あまり思い出したくもなかったのでしょう。ルイ 16 世の死

刑執行者、Sanson こそ当時、初めて、王の殉教死から超自然の光に浴びたようです。Sanson

氏は「テルミドール」新聞宛に、1793 年 2 月 22 日、出版された書簡の中で、次のことを書

いています。

「真実をまともに認めるとすれば、国王は臨終に臨んで我らがみな驚いた冷静さと剛毅さ

をもって死刑に耐えられました。私に言わせれば、彼がこの上なく深く帰依していた信仰の

原理原則にまさにこのような剛毅さの原因があったと私は確信しています。」

以上、国王の敵らの声と証言ばかりです。真実と真相を知るためには、好意的に承知してい

る人々よりも、堅く敵にしている人々の証言こそが貴重で価値があります。イエズス・キリ

ストのご受難の時も同じことがありました。ゴルゴタの上で我らの主が死に給うた時、我ら

の主を苦しめていた隊長と兵隊たちは「ほんとうにこの人は神の子だった」(マテオ、27,54)

といったのと同じです。

これほど不名誉な、屈辱的な死を遂げたお陰で、ルイ 16 世は即位した時、与えられた「キ

リストの代理人」の使命を立派に果たしました。ルイ 16 世の人生には多くの成績や立派さ

があって、偉大なる事柄も多いですが、最期こそがもっとも立派でした。ひとえにイエズス・

キリストに倣っていたからです。ちなみに、よく言われる評価と違っていて、ルイ 16 世は

愚かな王でも、脆弱な王でもありませんでした。それはさておいて、ルイ 16 世は天主のた

め、そして国民のために、命を捧げたので、もっとも立派であったといえます。1792 年 9

月 2 日、Vaugirad 通りのカルメル修道院で、多くの司祭、修道士などが虐殺されましたが、

その一人に「イエズスとマリア修道院」の総長だった Hebert もいました。彼はルイ 16 世

の当時の聴罪司祭でしたが、虐殺を行った革命家らは犠牲者の死体にはイエズスの聖心と

汚れなき聖母の御心の御絵があって、「敬虔な信徒が毎日、国王のために祈るように」と書

かれてあった祈祷も発見されました。この祈祷は次のように始まっていました。

「エルサレムの神殿において父なる天主にその御子なるイエズス・キリストを捧げて御垂

れたように、あなたの子である我が救い主のいと貴き御母よ、私のいと愛する我らの王、ル

イ 16 世をあなたに捧げ奉る。クロヴィス祖王、聖クロティルダ王妃、シャルル大帝、謙遜

なるブランシュ・ド・カスティーリャ、聖ルイ、ルイ 13 世、貞節なポランドのマリ、宗教

に忠実だったルイ王太子の子孫であるルイ 16 世をあなた、聖母に捧げ奉る。」

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このように、全宇宙の御主の前に自分の臣下によって国王が捧げられています。奉献の行為

ですが、奉献がある限り、生贄につながるしかありません。というのも、イエズスと同じよ

うに、神殿で大司祭によって奉献された分、十字架上に生贄とならないからです。神殿での

生贄用の子羊は屠れるために存在しています。死刑台に昇ったルイ 16 世は、かつてのラン

スでの聖別式を完全化させて、最後の儀礼を行うことになりました。塗油された御方は自分

の血を流さなければなりませんでした。ただし、迫害者を呪うために流すのではなくて、「何

をやっているのかを知らない」彼らを赦すために流すのです。革命の兵隊はギロチン台でル

イ 16 世は発言しようとするのなら、太鼓をうるさくたたくことによって国王の声を聞こえ

ないようにせよという命令がありました。それでも国王は発言しましたが、すぐ近くにいた

数人の人々のみが彼の言うことが聴こえました。そして、彼等は次のように国王の最後の言

葉を伝えました。

「私のせいにされているすべての犯罪を私が犯さなかったことを断言しましょう。無罪に

して死にます。また、私の敵を赦します。そして、これらから流そうとするこの血は絶対に

フランスの上にかからないように天主に希います。」

そして、刃の下に自分の動きで頭を置きながら、「私の霊魂を天主にあげます」

我らの主がゆるされたように、国王もゆるしました。それでも、いまでも、我らはカインの

ように刻印されています。というのも、我らがこの共和政において何とか生き残ろうとして

いるのですが、共和政の傲慢さによって我らも呪われているからです。共和政は一度もその

冒涜や悪魔的な性質を変えようともしなかったからです。二世紀以上前からずっと、儚すぎ

る晴間があったものの、哲学派(啓蒙思想と近代哲学)とブルジョワの革命はずっとその弊

害を広め続けて、少しずつフランス魂の本質を破壊してきました。その破滅はすべての犯罪

や非道や不徳を合法化することによってすすめられました。また、無理やり、共和政の刻印

をすべての物事に、人々に刻もうとしたことによって、フランスを破壊しています。王室の

宮殿を今でも占拠している共和政はこれからも千年以上、共和政の時代は続くだろうと信

じ込んでいるかもしれません。これは大間違いです。巨人に見えても、その足は緩いからで

す。長い諸世紀の遺産と我らの一番謙遜な一人の先祖に比べても、このような巨人は非常に

小さな小人にすぎません。

このように、共和政を馬鹿にして軽蔑したくなるかもしれません。つまり、すべての責任を

革命と共和政に負わせる誘惑があると思います。また、我らが経験しているすべての弊害を

すべて共和政のせいにするという誘惑があると思います。ところが、忘れてはいけないこと

があります。我らも、多少であろうとも、共和政に賛同しています。我らにも責任があるわ

けです。共和政の中に生きて、悪魔であることを知りながら、これを卑怯にも黙っていて、

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何も言動もしないことによってすくなくとも我らにも責任があります。正当に非難して軽

蔑するだけでは足りないのです。ルイ 16 世に倣いましょう。ルイ 16 世は最期まで、臨終

まで、フランス国王であって、フランス国王らしく言動しました。すべての称号、権力、自

由が奪われても、引き続きそのまま、国王として振舞い、立派に死んでいきました。そして

何よりも第一にカトリック信徒でした。Georges Bernanos は第二次世界大戦の際、次のよ

うにフランス人に訴えました。

「この世の一番不幸なことは、この世に一番恥じることは、天主を汚す人々がいることでは

ないのですよ。我らが醜いほどに愚かなカトリック信徒であることが一番の不幸なことな

のです。思えば思うほど、この世をだめにするのは我らの敵というよりも、なまぬるい我ら

カトリック信徒であることを懼れています。天罰を招くのは我らの敵ではなく我ら自身で

あることを懼れています。」

もしも、洗礼者一人一人にルイ 16 世が持っていたほどの信仰があれば、共和政の傲慢さは

とっくに消えたことでしょう。国王はただただずっと何もせずに守勢にして待機していた

のではありません。最期まで、キリストの代理人として、言動し続けました。我らの主に近

づいていた人々は「ダヴィドの子」と彼を呼んでいました。ルイ 16 世は聖ルイの子です。

それよりも、その上、ルイ 16 世は、キリストの僕であり、キリストの代理人である上、キ

リストの子でした。自分の御主に倣って、死んでまで天主に従順となるために、自分自身を

貶めていた立派な殉教王でした。ですから、天主のみ前に、渦中の中、弾丸の雨を潜ってい

る我らのために、ルイ 16 世に我らの祈りを取り次いていただくように希いましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン