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貴重書紹介 アン ドレアス ・ヴエサ リウス 『人体の構造についての七つの書』 1543年,バ ー ゼ ル,オ ポリヌス書店刊 鈴木 秀 子* Vesalius,Andreas,1514-1564 Andreae鞠saliiBruxellensis,scholaemedicor㎜Pataωnaepro臨sori ,De humanicorporisfabricalibriseptem Basileae:[ExoHicinaIoannisOporinil,[Ahnosalutisreparatae1 ,Mense Iunio] [12]659(i.e.663),【37]p.:ilL(woodcuts),port.:42cm.(FoL)' Includesindex Includeserratalist Publicationdatafromcolophon Pages313-491aremisnumbered213-391;662-663aremishumbered65 Signat血re:*6,A-Z6,a-Z6,m7+2 ,n-06,p9+2,q-z6,Aa-L~6,Mm8 Signature"m"contains71eaves(81eaveslackingm6)plusadouble- (marked"m3",page"313")insertedbefbrem3(secondm3unpaginate signature"p"contains41eavesplusadouble-1eaf(marked"p4" ,pages"353" and``354,,)insertedbefbrep4 零すずき・ひでこ/整 理課 一90一

アンドレアス・ヴエサリウス 『人体の構造について …一90一 はじめに アンドレアス・ヴェサリウス(AndreasVesalius,1514-1564)は,27歳 の 若さで著したこの『人体の構造についての七つの書』(Dehumanicorporis

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貴重書紹介

ア ン ドレアス ・ヴエサ リウス

『人体の構造 についての七つの書』

1543年,バ ー ゼ ル,オ ポ リヌス 書 店 刊

鈴木 秀子*

Vesalius,Andreas,1514-1564

Andreae鞠saliiBruxellensis,scholaemedicor㎜Pataωnaepro臨soris,De

humanicorporisfabricalibriseptem

Basileae:[ExoHicinaIoannisOporinil,[Ahnosalutisreparatae1543,Mense

Iunio]

[12]659(i.e.663),【37]p.:ilL(woodcuts),port.:42cm.(FoL)'

Includesindex

Includeserratalist

Publicationdatafromcolophon

Pages313-491aremisnumbered213-391;662-663aremishumbered658-659

Signat血re:*6,A-Z6,a-Z6,m7+2,n-06,p9+2,q-z6,Aa-L~6,Mm8

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(marked"m3",page"313")insertedbefbrem3(secondm3unpaginated);

signature"p"contains41eavesplusadouble-1eaf(marked"p4",pages"353"

and``354,,)insertedbefbrep4

零すず き ・ひで こ/整 理課

一90一

は じめに

アン ドレアス ・ヴェサ リウス(AndreasVesalius,1514-1564)は,27歳 の

若 さで著 したこの 『人体の構造についての七つの書』(Dehumanicorporis

fabricalibriseptem)に よって"近 代解剖学 の父"と 呼ばれている。 自然

科学におけるルネ ッサンス最盛期に刊行 された この書物は,そ の後の医学

の発展にはか りしれない貢献をな した。奇 しくもこの書が刊行 された1543

年は,ニ コラウス ・コペルニ クス(NicolausCopemics,1473-1543)の 遺

著 『天体の回転 について』(Derevolutionibusorbiu皿coelestium),す な

わち"地 動説"が 公に された年で もある*。 ミクロコスモス(小 宇宙)と

しての人間 と,マ クロコスモス(大 宇宙)と しての天体の謎を解 く二冊の

書物 が偶然同 じ年に刊行 された ことか ら,こ の年1543年 を以て,近 代科

学史の紀元 とす るともいわれている。 日本 に眼を転ず ると,1543年 は天

文12年 にあた り,ポ ル トガル商船 が種子島に漂着,鉄 砲を伝来 した年 で

あり,日 本人が初めて直接西洋文化に触れた年である。そ して,杉 田玄白,

前野良沢 らが苦心 してオランダ語 よ り訳 した,通 称 『ターヘル ・アナ トミ

ア』(Tafelanatomic)と 呼ばれる解剖 図 『解体新 書』が出版 され たのは,

それ から約230年 後の1774年(安 永3年)8月,さ らに長崎 の通詞本木 良

永によるオランダ語か らの訳書 『天地二球用法』によって"地 動説"が 日

本に紹介 されたのも同年 同月であった11)。

1フ ァブリカ(初 版)の 書名 とその構成

1.1書 名

扉 絵 の 題 字 に は,

"ANDREAEVESALII/BRVXELLENSIS,SCHOLAE/medicorum

Patauinaeprofessoris,de/Humanicorporisfabrica/Hbriseptem"(斜

線 は 改 行 を示 す)と あ る 。

寧実際には1530年 にはほぼ原稿 を完成 してお り,ウ ィッテ ンベル グの レティクスがコペ

ルニクスを説得 してようや く出版を認めさせたとい う。(『西洋 をきずいた書物』J.カ ーター,

P.H。ムーア,雄 松堂,1977)

一91一

直訳すれば"パ ドヴァ医学校

教授であるブ リュッセルのアン

ドレアス ・ヴェサ リウスの人体

の構造についての7つ の書'と

なるだろ うか。

書名の 『Dehu皿anico「Po「is

fabricalibriseptem』 の"7つ

の書"に あた る"libriseptem"

の"libri"は 書物や文書 な どの

意 味のラテン語liberの 複数形

だが,こ の場合,物 理的単位の"本'で はなく

,巻(ま き)ま た

は編 篇,あ るいは部に該当 し,

一冊の内容が7篇 に分かれてい

ることを示 している。邦訳 され

る場合 『人体の構造についての

7つ の書』または 『…七つの本』『プアブリカ』の扉絵 『…七つの章』あるいは ,"libri

septem"の 部分 を省いて 『人体の構造について』『人体構造論』など,様 々

に訳 されてい る。英訳では"Book"だ が,こ れには,も ともと,巻,篇 と

いった意味が含まれている。またこの書物は通称 『Fabrica』(フ ァブ リカ)

と呼ばれてお り,本 稿 でもこの通称 を用いた。

1.2構 成 と内容

扉絵(こ れについては後述する)を めくると,巻 頭文 として神聖 ローマ

皇帝カール5世 への献呈文(1542年,パ ドヴァにて,8月1日 付け,3葉)

続 いて刊行者であ るバーゼル のオポ リヌスへの手紙(1542年,ヴ ェネチ

アにて,8月24日 付け,1葉)が 載 り,そ の次に ヴェサ リウス自身 の木版

肖像画が載 る。女性の上半身 を解剖 しているところである。解剖台の手前

左側面 に"AN.AET.XXVIII"(生 年28),彼 の右手をは さんで,同 じ側

面の右側 に"MDXLII"(1542)と 刻まれている。

一92一

献呈文,手 紙,本 文の篇や章の始ま りは,豚 を解剖 した り,鍋 で骨 を煮

て骨格標本 を作 っているプ ッ トーホの絵 をあしらった,少 々グロテス クな

意匠の大小の装飾頭文字か ら始まっている。

出版 を急いだためだろうと推定 されているが,フ ァブ リカ初版のページ

付 けば大 きく乱れている。 しか し,こ れは単純 な間違いであ り,本 文の内

容 に影響はない。312ペ ージの次に100ペ ージほ ど戻って,213ペ ー ジが

来る。そ してそのまま391ペ ージまで続 く。その次は,一 気に492ペ ージ

に とぶので,全 体 としてのページ数は帳尻が合 う。また,最 後の658か ら

659ペ ージは662-663ペ ージに相 当す る。

各部篇の内容 は,第1篇(全40章)骨 と軟骨,第2篇(全62章)筋 肉と

靭帯,第3篇(全15章)静 脈 と動脈,第4篇(全17章)神 経,第5篇(全

19章)消 化器官,泌 尿器官,生 殖器 官,第6篇(全16章)心 臓 と呼吸器

官,第7篇(全19章)脳 と感覚器官,と なっているが,各 部篇の配分 はか

な り偏ってお り,第1篇 と第2篇 のみで本文全体の半分以上(p。356ま で)

を占める。

ヴェサ リウスの肖像画と本文の第i頁

寧絵画 ・彫刻の装飾に使 う裸のキュー ピッ ド』

一93一

16世 紀,17世 紀に刊行 されたラテン語の書物の タイ トル頁 には冗長 な

タイ トル が記 されていることが多いが,フ ァブ リカにはこのよ うな長いタ

イ トルはなく,上 記のタイ トル と刊地,お よび皇帝 とヴェネチア議会の出

版特許状 の書かれた扉絵があるのみだが,そ れで も各部篇にはラテ ン語の

長 いタイ トルがつけ られている。

『人体解剖 のすべて:解 剖学 への招待』(坂 井建雄,日 本 実業出版社,

1998)の 中に,ラ テン語か ら日本語に直接訳 した各部篇(巻)の タイ トル

が掲載 されてい るので,ラ テン語 で書かれた原著の雰囲気 を伝 えるために

も,こ こに引用 させていただ く。

第1巻 この巻は全身を支えて保持するもの,ま たあらゆるものを安定さ

せかつ固着 させるものに充てられている

第2巻 この巻はあらゆる腱(靭 帯)に,ま た随意かつ我々の意思に従 う

運動の器官 としての筋肉に充てられてお り,ま たこの巻に属する図

版のほとんどは,各 章の本文の前にいまあるような配置で,図 解 し

てある

第3巻 この巻は静脈 と動脈の身体全体の系列を叙述 し,そ の独自の図版

はそれらにふさわしい章の前に掲げる

第4巻 この巻は神経だけを扱い,そ の特有の図版はそれにふさわしい章

の前に示す

第5巻 この巻は食物と飲食によって作られる栄養の器官[消 化器]と,ま

たそれから諸部分が連結され近接 しているため.に,生殖に役立っ器

官[生 殖器]に 充てられる。この巻に特有のすべての図を順次にま

た同時に,す ぐ巻頭に掲げている。同じ図が,こ こかしこで非常に

多くの章の前に置かれることにならないように

第6巻 この巻は,心 臓とそれに役立つ器官に充てられ,す ぐ前に本巻に

固有の図を掲げる,こ こでもまた同じ図がここかしこ各章の前に置

かれなくてもよいように

一94一

第7巻 この巻は,動 物性機能の座 としての脳 と,感 覚器官について扱う。

そしてその初めの部分にその特有のほとんど全ての図版をすぐ前の

二章と同様に例示する。

ファブ リカ本文には,こ の書物 を有名に した木版の解剖図が約300ほ ど

挿入 され ているが,こ の部篇のタイ トルほとんどに,そ れ らゐ図版 の位 置

が示 され ていることか らもわかるよ うに,ヴ ェサ リウスは図版 の配置に非

常に気 を使 っている。

前掲書 『人体解剖のすべて』によると,現 代の人体解剖の教科書は,人

体の構造 をすべて枚挙網羅す るとい うことを前提 として 「系統解剖学」 と

「局所解剖学」とい う二つの枠組みのいずれ かで書かれている。 「系統解剖

学」 とは,人 体の構造を機能お よび由来によって器官系に分類 していくも

の(骨 格系,筋 系,消 化器系,呼 吸器 系,泌 尿器系,生 殖器 系,内 分泌系,

循環器 系,神 経 系,感 覚器系等10種 程度 にわける)で,「 局所解剖学」 と

は,人 体の構造を部位 ごとに扱 っていくものであ り,こ の枠組みか らファ

ブ リカを考えると"フ ァブ リカ全7巻 の構成は,は じめの4巻 が骨格,筋,

血管,神 経 とい う順に,全 身に広がる構造を素材 ごとに分けてシステム と

して扱い,後 の3巻 が,そ こか らはみ出た構造を,腹 部,胸 部,頭 部 とい

う順 に部位 ごとに分けて扱 うとい う折衷的な構成"で あ り,ヴ ェサ リウス

以前にはこの二つを合わせたものは存在 しなかったとされている。そ して,

ファブ リカが後世に与えた影響は,ヴ ェサ リウス以前以後 とい うふ うに分

けられ るほど大 きく,フ ァブ リカの構成様式は,そ の後,い くつかの解剖

学書に形 をかえてあるいはそのままに受け継がれ てい くのである。

ファブ リカの230年 後に刊行 きれた 『解体新書』の原著 『クル ムズ解剖

書』(1734,ア ムステルダム刊)の 付図 も,そ の出所をた どっていくとファ

ブ リカの解剖図に行 き着 くとい う11)。

本文の後には正誤表 があ り,巻 末にはアル ファベ ット順の索引がつけ ら

れている。 この索引にもアル ファベ ッ トの装飾頭文字が使用 され てお り

(xの かわ りにギ リシャ語の 三(Ksi)が 使われてい る),索 引の最終ページ

の下方には,使 用 した折記号の一覧が載 っている。

ファブ リカの校合式は冒頭の 目録の注記 に書いたが,こ の校合式ではわ

一95一

か りにくい折込みの挿図については,そ の下の注記で表 した。"m:"と 折

記号のついた折込の紙葉(double-leaf;P.313)の 次にある,買 付 けのな

い"s㏄ondm3"の 紙葉は,片 面印刷で8つ の内臓器官が印刷 され てお り,

これ を切 り抜 いて,直 前の折込紙葉の人体図に貼・り付 けられ るようになっ

ている。 この よ うな趣向はファブ リカの要略本である 『エ ピ トメー』に も

あるが,こ の紙葉が もとも と存在 しない版 もあ る1。 明大所蔵版には,折

込 の紙葉 もその次の片面印刷の内臓器官図 も存在 している。

刊記は奥書(Colophon)に,"BASILEAE,EXOFFICINAIOANNIS

OPORINI,AnnosalutisreparataeMDXLIII,MenseIonic"(バ ーゼル に

て,ヨ ハネス ・オポ リヌスの印刷所によ り,1543年6月 刊行)と 記 され て

いる。

最終ページにはこのオポ リヌス書店のプ リンタやズ ・マー クであ る,海

豚(と いって も現実のい るか とはかな り異なるが)に 乗 って竪琴 を奏 で

るア リオ ン†の木版画が描かれてお り,画 の周 りには,"INVIAVIRTVTI

NVLLAESTVIA"(徳 にとってはいかな る道 も通れず とい うことな し)

‡と記 されてい る。

ヴェネチアで彫 られ,ア ル プスを越 えてバーゼルのオポ リヌヌの元へ送

られたファブ リカ解剖図の版木は,1555年 の第2版 刊行の際に再作成 され

た扉絵 修正を加 え られたガイ ド・レターなどを含んで,オ ポ リヌヌの死

後,バ ーゼル のフローベ ン家 を始め,幾 人かの印刷業者の手にわた り,書

籍印刷の歴史に何度か顔を現す。そ して,1893年 に ミュンヘン大学の図書

館に収蔵 されていた ところを発見 された。その後,第2版 の扉絵の版木の

みは人手にわた り,'ルー ヴァンの図書館に収蔵 された。そ して,経 緯は不

明だが,1932年 に,フ ァブ リカの要略本で ある 『エ ピ トメー』の版木 も

含 んで,ミ ュンヘンの図書館で再発見 され る。おお よそ277あ ったはずの

オ リジナルの版木 の内,50点 ほ どが失われただけであった2)。 残念なが ら

ヴェサ リウスの肖像画は含まれ ていない。1934年 には,こ れ らオ リジナ

ルの版木か ら起 こされた図版が 『IconesanatomicaeofAndreasVesalius』

としてニュー ヨー ク医学アカデ ミー(NewYorkAcademyofMedicine)

†B.C.7-6世 紀の有名な叙情詩人,海 豚に救われた話が有名である。(『ギリシャ・ローマ神話』トマス・ブルフィンチ,角川書店)

‡出典はオウィディウス『変身物語,XIV』(『 ギリシャ・ラテン引用語辞典』岩波書店)

一96一

とミュンヘ ン大学図書館 よ り共同刊行 された。 しか し悲 しむべ きことに,

この貴重なオ リジナルの版木は第二次大戦の戦火により,ミ ュンヘ ンで破

壊 されて しま うのである。

2ヴ ェサ リウスの生涯 と著作

ヴェサ リウスは,1514年12月31日,現 ベルギーの首都ブ リュッセル で

生を享けた。祖先がライン河畔の ドイツ領 隔el地 方に住んでいたことか

ら,ヴ ェサ リウス姓(van隔ele)を 名乗 るようになった といわれている。 層

Vesahusと い う名前はこのWeseleの ラテ ン形である。(ド イツ風綴 りのラ

テ ン形 ならW6saliusあ るいは輪ssaliusか)。 父親 もアン ドレアスとい う

名で,神 聖 ローマ皇帝カール5世 に仕 える宮廷薬剤官であった。一族はハ

プスブルク家 とのかかわ りが深 く,こ の縁か ら,後 年 カール5世 の侍医 と

なる。家系には医者や学者 が多 くでてお り,代 々宮廷侍医を勤 める者が多

かった。また祖父エ ヴェラル ド(Everard)は アラビアの医者 ラーゼス(Ar-

Raゴ,ラ テ ン名Rhazes,865?一925?)や ヒポクラテス(Hippocrates,B.C.

469-399)の 注釈書 を著 してい る。医学 を志す ものの家庭環境 としては,ま

ことにめ ぐまれた ものであった。.少年時代についてはあま り知 られていな

いが,母 の名 はイサベラ(IsabellaCrabbe)と いい,宮 廷薬剤官 として不

在がちの父 にかわ り,一 族の伝統 を伝 えるため,子 供 の教育にあたったよ

うである。後年の成功はこの母の影響が大 きい ともいわれている。家 には

代々収集 した多 くの蔵書があ り,少 年時代か ら読書に親 しむ生活 を送って

いた。兄弟姉妹の数 は不明だが,フ ランシスクス(Franciscus)と い う名の

弟 がいて,や は り医学 を志 して北イ タリアのフェラー ラに留学 してい る。

2.1ル ー ヴ ァ ン大 学 時 代

初等教育は郷里で受 けたと推定 されているが,そ み後,15才 でノレーヴァ

ンの大学に入った(1530年2月25日,"AndreasvanWbseldeBrω 【ell♂

とい う名で入学 を許可 された学生の記録 が残ってい る)。 ルー ヴァン大学

はエ ラスムスな どが学んだ伝統ある大学で,・ここで,ラ テ ン語,ギ リシャ

語,数 学,哲 学,修 辞学な どを修 めた。

一97一

最初,城 塞学校(PedagogiUmCastrense)と 呼ばれ る学寮に入った。 こ

こでア リス トテ レスの 『霊魂論』(Deanima)の 注釈 などを学んだことな

どが,フ ァブ リカの 中で回想 され ている。

1531年 には,や は りルー ヴァン大学の学寮の一つである3言 語学寮(Col-

16giumTrilingue)に 移った。この学寮の教育方針は真理の探究のための入

り口となる3つ の重要 な言語,ラ テン語,ギ リシャ語,ヘ ブライ語を教授

することであった。ヴェサ リウスは,伝 統的なキケロふ うのラテン語の教

育を受け,ラ テン語 ほどではないがギ リシャ語 を学び,ヘ ブライ語はあま

り習得 しなかった よ うである。 また,古 代医学は12世 紀頃までにアラ ビ

ア圏経由でヨー ロッパに入 ってきたこともあ り,ラ ーゼス,ア ヴィケンナ

(Ibn-Sina,ラ テ ン名Avicenna,980-1037)に 代表 され るア ラビア医学の伝

統 も大 きかった。数年後アラビア語の習得 も試みてお り,ラ ーゼスの著作

の注釈書を刊行 している。

一族の伝統を受 け継ぎ,は っきりと医学 を志 したのはこの頃であろ うか,

1533年9月(18歳)ヴ ェサ リウスはパ リ大学医学部 に入学 した。

2.2パ リ大 学 時代

パ リ大 学 で は,解 剖 学 者 シル ヴィ ウス(JacquesDubois,1478-1555,ラ テ

ン名JacobusSylvius),解 剖 学 と外 科 の教 授,ギ ュ ン タ ー ・フォ ン ・ア ン デ ル

ナ ッハ(GuintervonAndemach,1505-74,ラ テ ン名,JohannesGuinterius)

ら に つ い て 学 ん だ 。 当時 北 ヨー ロ ッパ で は パ リ大 学 の 名 は有 名 で あ り,パ

リ大 学 へ の 入 学 は 自然 な選 択 で あ った と思 わ れ る が,大 学 の 医 学 教 育 そ の

も の は イ タ リア の そ れ と比 較 す れ ば 保 守 的 で あ っ た 。

当 時 の 西 洋 医 学 は,依 然 と し て,ロ ー マ の ギ リ シ ャ 人 医 師 ガ レ ノ ス

(ClaudiusGalenus,A.D.125-199)の 影 響 下 に あ っ た 。 ガ レ ノ ス は ヒ ポ

ク ラテ ス を 含 め,そ れ ま で の ギ リ シ ャ 医 学 を 集 大 成 し,自 らの 観 察 や 実 験

に よ っ て 発 展 させ た ロー マ 帝 政 期 最 大 の 偉 大 な 学 者 で あ り,そ の 後1500

年 に わ た っ て 影 響 力 を保 っ た 。 しか し,そ の 医 学 に は 多 くの 誤 りを 含 ん で

い た 。 ヘ ロ フ ィ ロス(Herophilos,B.C.300頃)や エ ラ シ ス トラ トス(Era-

sistratos,B.C.340-250)に よ っ て ア レ ク サ ン ド リア で 行 わ れ て い た 人 体

解 剖 は,ガ レ ノ ス の 時 代 に は ほ と ん どな され な くな り,せ い ぜ い サ ル ま で

一98一

であった。また,ガ レノスは"4体 液説*""生 命精気†"の 存在 を信 じてい

た。致命的な誤 りは血液の流れ に関す るもので,こ れが正 され るには,解

剖学に続 く生理学の時代である といわれ る17世 紀のハー ヴェイ(William

Harvey,1578-165E)の"血 液循環説"ま で待 たねばならない。

主 と'してアラビア圏経由で西 ヨーロッパに輸入 されていたかレノスや ヒ

ポクラテスな どの古代医学は,16世 紀 になって よ うや く本格的にギ リシャ

語原典か らラテ ン語へ と直接の翻訳がなされ るよ うになった。 しか し,文

献学的にはルネ ッサ ンスといえるかも しれないが,観 察科学 としてはまだ

まだ遅れていた。人間は神 の創造物であり,解 剖は神への冒濱であるとい

うキリス ト教による宗教的制約 もあるだろ うが,ガ レノス らの古典 を解釈

す るだけの講義,ま た稀に解剖 はあっても,教 授たちは高い壇の上か ら指

図す るだけで,実 際の解剖 は学者のす るべ きことではない として,理 髪師

または位の低 い外科医がお こなっていたとい う。

これ らの講義 に失望 を募 らせた ヴェサ リウスは,自 らの眼によって観 察

することか らその研究の基礎 を築いていく。研究のために小動物の解剖 も

行ったであろ うが,そ の他に,学 友たち とたびたびパ リのイ ノサ ン聖堂付

属の墓地に行っては,風 雨にさらされた骨 を長い時間観察 した。 この古い

墓地にはかつて猛威 を振るった黒死病(ペ ス ト)の 犠牲者 たちが多 く葬 ら

れていた。そ して 自分の知識が どれほ ど正確か試すた めに,友 人たち と眼

を閉 じたまま手 を触れ るだけで,30分 以内にその骨が何の骨 だかあて る

賭けをした とい う。 ヴェサ リウスの解剖学はファブ リカが骨か ら書きお こ

され ているよ うに,ま ず骨学か ら始 まったのであった。

2.3ル ー ヴ ァ ン 時 代

パ リ大 学 で3年 ほ どす ご した 後,1536年,大 学 を 去 り,ル ー ヴ ァ ン に 戻

る。 皇 帝 カ ー ル5世 と フ ラ ン ソ ワ1世 の 間 で の 戦 争 勃 発 が そ の 理 由 で あ る。

こ の 間,郷 里 ブ リュ ッセ ル で 検 死 解 剖 を見 学 した り,ま た ル ー ヴ ァ ン市 外

.q種 の体液の釣 り合 いによって健康 と病気が分かれ,人 の気質 も各体液の関係できまる

とする(多 血質,粘 液質,胆 汁質,神 経質)(『 医学の歴史』 小川鼎三,中 公新書,1964)†宇宙にみなぎるプネ ウマ(精 気)が 呼吸に よって体内に入 り,あ らゆる生活現象を支配

する とい う説(同 上)

一99一

の絞首台か ら夜陰にまぎれて罪人の骨を盗みだし,少 しつつ家に運び込ん

では骨格標本を組み立てた りした。

1537年 の2月,学 士号を取得するため,ア ラビアの医者ラーゼスの注釈書

『ラーゼスの 「マンスール の書‡」に関する第九巻の注釈』(Paraphrasisin

nonumlibrumRhazaemediciArabisclariss.adRegemAlmansorem_)

を著 し,ル ー ヴァンで刊行 した。そ して同年 の3月 にはこの第二版 がバー

ゼルで出版 された。

2.4パ ドヴァ大学時代

1537年,バ ーゼル経由で ヴェネチア共和国のパ ドヴァに行き,パ ドヴァ

大学に入学 した。パ ドヴァ大学は1222年 にボ ローニャ大学の分校 として

創 立 して以来,人 文科学のみな らず 自然科学 におけるルネ ッサ ンスの最前

線 にあった。早 くも同年の12月 にはパ ドヴァ大学で医学終了の試験 を受

け,優 秀 な成績で ドク トルの学位を取得する。その翌年 には,22才 の若 さ

でパ ドヴァ大学の外科 と解剖学の教授 となる。パ ドヴァでは,解 剖の機会

もパ リ時代 よ り格段に多く,学 者 として最 も充実 した5年 間を過 ご した。

1538年 には,フ ァブ リカの序曲 ともいえる,解 剖図6葉 を収 めた 『解剖

学6図 譜』(Tabulaeanatomicaesex,以 下 『6図譜』)§をヴェネチアのヨ

ハネス ・ステファヌス書店 よ り刊行 した。 この時代 まで,医 学のテキス ト

に詳細 な図がつ くことは稀であった。む しろ古代にはなかった こととして

排斥 されていた感がある2)。 ヴェサ リウスの 『6図譜』 は,実 際的 な必要

性,つ ま り学生たちへの講義の便宜か ら生まれ たようである。 ヴェサ リウ

スが描いて講義 に使用 した ところ,非 常に好評 であったが,学 生たちに模

写 された下手な図が広まったので,自 身 これ を出版することになったとい

う。血管系 と内臓 を描いた前半の3図 をヴェサ リウスが描 き,後 半の骨格

図3図 を,同 郷の フラン ドルの画家でティツィアー ノの工房 にいたヤ ン ・

ステファン ・ファン ・カルカール(JanStefanvanKal㎞)が 描 いた と最初

のパ ラグラフで述べ ている1)。

‡マ ンス ール に献 じ られ た医学 書』(Libermedicinarisad'Regem副 一Mansorem)内 容

は,頭 か ら足 に 至 る病気 の 兆候,臨 床 経過,治 療 に 関す る組 織 的 な叙 述 で あ る。(『ア ラ ビア

文 化 の遺 産』 ジ ク リ ト ・フ ンケ,み す ず 書 房,1982)

§これ は ,最 初 タ イ トル な しで 出版 され たが,今 では この名 で 知 られ て い る。

一100一

このよ うな解剖図は,学 生のほかに,解 剖 を行 う理髪師や,病 人のつ き

そいをす る人な どのために存在 したものだが,『6図 譜』はそれまでのもの

より,格 段 に正確だったのであろう。 ヨー ロッパ各地で海賊版が出 された

ことが物語っているように,大 きな反響があ り,実 際 よく利用 されたよ う

で,現 存す るヴェサ リウスの完全なオ リジナル版 はわずか2セ ッ トである

とい う。

この後,フ ァブ リカの刊行 にいた るまでにヴェサ リウスは2冊 の本を出

版 した。一冊めはパ リ大学時代の師であるアンデル ナッハの 『ガレノスの見解 に

もとづ く医学生のための解剖学教程』(Institutionumanat6micammse-

cund㎜Galenisententiamadcandidatosmedicinaelibriquatuor,1536,

バーゼル刊)を 自ら改訂 して,1538年 にヴェネチアのベルナルデ ィヌスか

ら出版 した。 この初版が出版 されたとき,ヴ ェサ リウスはまだ彼 のもとで

学んでお り,そ の中には,"AndreasWesalius"の 綴 りで彼 の学業優秀 な

ことが述べ られてい るとい う。

2冊 めは 『潟血書簡』(Epistola,docensvenamaxillarendextricubiti

indolorelateralis㏄andam)で,1539年 にバーゼルのロベルティ ・ヴィン

テル から出版 した。古代 より混血はスタンダー ドな治療法であったが,当

時は潟血の位置な どについて学者や医者の間で活発な論争がおこなわれ て

いたのである。 これに対 しヴェサ リウスは自らの解剖学の実践においてそ

の所見を述べ ている。

その他 に ヴェサ リウスの仕事 として,1539年 に,有 名 な ヴェネチアの

ジュンタ(Giunta)書 店の企画 した完全版 『ガ レノス全集』(Galeniomnia

opera)(1541刊)の 仕事 に加 わった。監修 には,著 名 な医者モ ンタヌス(

JoannesBaptistaMontanus)が 選ばれ,医 者で あると同時 に第一級の古

典学者であるガ ダルデ ィヌス(AugustinllsGadaldinus)が 補佐 してい る。

ガレノス全集の仕事に関 して,若 いヴェサ リウスの携わった部分はごく一

部であった らしい。 この仕事の依頼がきた とき,ヴ ェサ リウスはおそ らく

ファブ リカの執筆 にと りかかっていただろ うと推 定されている。1543年

に刊行 されたファブ リカの膨大な仕事量か ら考えての推定である。 またこ

の仕事に喜んで参加 していることか ら,フ ァブ リカが結果的にガ レノス説

一101一

をくつがえす ことになったと しても,ヴ ェサ リウス自身はガ レノスを尊敬

し,そ の著作を徹底的に研究 したのであろ うと思われる。 しか し,そ の一

方,『エ ピ トメー』の献辞の中では,ガ レノスについて"彼 は人間の体には

一度 も手をつけた ことがな く,人 間よ りも猿の体の構造をもとに,無 数の

個所 において人間のとは異なる器官を記述 した一われわれに押 し付 けたと

は 申しますまい6)"と はっき り書いているのである。

2.5フ ァ ブ リカ とエ ピ トメー

パ ドヴァに来て5年 目の1542年,27歳 の ときに,不 朽 の名著 ファブ リ

カを完成 した。カール5世 への献辞の 日付が1542年8月1日 となっている

ことか ら,同 年8月 には原稿を完成 していただろ うと推定 されている。原

稿作成期間は4年 足 らず,あ るいは3年 ほどであろ うか。その要略本 『エ

ピ トメー』(Epitome)も その後す ぐに完成 した。Epitomeと は"梗 概""要

略"と い うような意味だが,フ ァブ リカの簡略版 とい うよ り,『解剖学6図

譜』のよ うに,学 生の勉学のために書かれたもので,フ ァブ リカを"上 級

篇"と すれ ば"入 門篇"に あたるものである。(実 際,エ ピ トメーの方がよ

く売れた ようである)こ のエ ピ トメーの献辞 は,カ ール5世 の息子 フェ リ

ペ2世 に捧 げられている。

ファブ リカの原稿 はほ とん どが,先 にバーゼル のオポ リヌスの もとへ

送 られていた ようだが,フ ァブ リカ とエ ピ トメーの膨大な挿図の版木は,

ヴェネチアで彫 られ,同 年秋 には,ミ ラノの商人ダノニ(Danoni)に 託 さ

れ てアル プスを越 え,オ ポ リヌスの元へ と送 られた。

ファブ リカに載 ってい るヴェサ リウスのオポ リヌスへの手紙によれば,

ヴェサ リウスはこの版木 を送 るに際 して,そ の版木が破損す ることなく無

事バーゼルに届 くよ う,そ の梱包や安全に心を砕いている。 また,そ の図

がテキス トの間に正 しく,わ か りやす く配置 され るよ う,活 字の種類にい

たるまで,こ まやかな配慮 と指示 を している。ファブ リカの価値 は,そ の

テキス トだけでな く,ま た単なる挿絵ではない,す ぐれた解剖図 とテキス

トの結合 にある。そのことは,ヴ ェサ リウス 自身,大 いに自負 していた と

思われ る。オポ リヌスへの手紙の文面か ら,挿 図 とテキス トとのクロス ・

リファ レンスの作成に対する彼の熱意が伝わって くる。

一102一

翌1543年 に な っ て,バ ー ゼ ル へ 赴 き,そ の校 正 刷 りを 読 む 作 業 に 参 加 し

て い る。 フ ァ ブ リカ の 刊 記 に は1543年6月 刊 行 とあ る。 そ の 日付 に 従 え ば

版 木 が 送 られ て か ら完 成 ま で約8ヶ 月 か か っ て い る こ と に な る。 フ ァブ リカ

完 成 後 の8月,カ ー ル5世 が 滞 在 して い た ドイ ツ の シ ュパ イ ヤ ー(Speyer)

に 行 き,お そ ら く そ の 地 で 皇 帝 に フ ァブ リカ が 献 上 され た と推 定 され て い

る。 普 通 の 紙 で は な く ヴ ェ ラ ム に 印 刷 され,豪 華 な 装 丁 を ほ ど こ した エ ピ

トメー が 一 冊,第 一 次 大 戦 で破 壊 され る ま で ル ー ヴ ァ ン の 図 書 館 の 宝 と し

て 保 存 され て い た ¶。 お そ ら く フ ァ ブ リカ と共 に 皇 帝 に 献 上 され た もの で

あ ろ う と信 じ られ て き た と い う。

フ、ア ブ リカ の 刊 行 は,大 き な 反 響 を 巻 き起 こ した が,当 然 な が ら,非 難

も あ っ た 。 こ れ は 正 確 に解 剖 の 結 果 を 述 べ る こ と を 目的 と した ヴ ェ サ リ ウ

ス の 解 剖 学 が,ガ レ ノ ス説 と一 致 せ ず 結 果 的 に そ の 批 判 と な っ て い た か ら

で あ るi。 特 に 激 し い 非 難 を あ び せ た の は,パ リ時 代 の 師 シ ル ヴ ィ ウス で

あ った 。 シ ル ヴ ィ ウ ス は,ヴ ェ サ リ ウス の名 を も じ っ て"Vesanus"(気 ち

が い)と 呼 ん だ と い う。 こ の よ うな 反 対 者 た ち は,ど う して も事 実 を認 め

ざ る を 得 な い 場 合 は,人 間 が 堕 落 した た め に,古 代 と は 人 体 の 構 造 も 変

わ っ た と ま で 言 っ た の で あ っ た 。 しか し,全 体 と して 見 れ ば,好 意 的 に 迎

え られ た とい うべ き で あ ろ う。 比 較 で き な い か も しれ な い が,解 剖 学 の 発

達 が ガ レ ノ ス 説 を 乗 り越 え て い く さま は,シ ナ 伝 来 の"五 臓 六 騎 説"が 支

配 して い た 日本 に あ っ て,事 実 を追 求 す る 医 者 た ち の 努 力 に よ っ て 次 第 に

く つ が え され て い く様 子 を も彷 彿 と させ る。

t『Abio-bibliographyofAndreasV曲rius』HarveyCushing(Newyork ,1943)しか し,『図書館炎上:二 つの世界大戦 とルー ヴァン大学図書館』(W.シ ヴェルブシュ,法 政大

学 出版 局,1992)に よれば,戦 火 で失われたのは,幼 少の頃ルー ヴァン大学の教授に養 育さ

れ たカール5世 が送 ったファブ リカであるとされている。エ ピ トメーであったのか ファブ リ

カであったのか,は っきりしない。

uヴェサ リウスは レノス説の中に108の 間違 いを見つけた とされてい る。(Antiquarian

books:acompanionforbooksellers,librariansandcollectors,BernardPhillipa(ed.)

ScolarPress,1994)

一103一

2.6フ ァ ブ リカ以後

ファブ リカに載せ られた ヴェサ リウスの肖像画の解剖台のさらに下方に,

"OCYVS‡ ホ,IVCVNDEETTVTO"(敏 速 に,愉 快 に,そ して安全 に)

とい う言葉があ り,ヴ ェサ リウスの座右の銘 ともいわれている。 これは紀

元前120年 頃プルーサで生まれ,ロ ーマで成功 した医師,ア スクレピアデ

ス(Asclepiades)の 言葉††か らとった警句 といわれている。

この言葉が,28歳 当時のモ ッ トーだとして,で は,そ の後の ヴェサ リウ

ス自身の生涯 はど うであったろ うか。

ファブ リカ刊行 とい う大事業 を成 し遂 げたその翌年,学 者 として前途

洋々たるまさにその時,あ っさりとパ ドヴァ大学教授職を辞 し,彼 の一族

の伝統であった宮廷侍医になるのである。 この転身については,一 族のハ

プスブルク家 とのかかわ りであるとか,フ ァブ リカに対す る非難から身 を

守 るためであるとか,さ まざまな憶測がな されてきた。真相はわからない

が,∵ 族の伝統 も当然あるだろ うし,ま た"宮 廷侍医"と い う地位は,大

学教授 と比較 して も決 して低いものではなかっただろ う。 また,当 時の宮

廷侍医 とは,そ の言葉の響 きとは裏腹に,戦 争が起 これ ば従軍す る"軍 医"

でもあった。.カール5世 の"痛 風の治療"を しなが ら晩年 を過 ご しただけ

ではな く,外 科医 としての実践の道でもあったのである。そ う考 える と,

"敏速 に,愉 快に,そ して安全に"と い う医者 としての治療のモ ッ トーが,

後半生において実践 された とも考え られる。

後半生 の著作 としては,当 初,刊 行 が 目的ではな く書かれたもの とし

て 『シナ の根 の手無』(MediciCaesareiepistola,rationemmodumque,

propinandiradicisCynaedecoti,_,1546,バ ーゼル刊)が ある。これ は,

皇帝が痛風の治療に用いたシナの根の効用について,友 人 に宛てた手紙で

あるが,後 半はシル ヴィウスとの論争について書かれ てお り,弟 のフラン

シスクスによってバーゼルのオポ リヌスから出版 された。

続 いて,増 補改訂版であるファブ リカ第二版(1555,バ ーゼル刊)を 刊

>i解剖台に刻まれた文字は"OCYVS"と 読めるが,意 味から推測すると"OCIVS"の ことか。††"患者を治療するときは,`安全に,すみやかに,痛みを与えず'"が アスクレピアデス

の治療法における基本原則であった。(『図説医学史』マイヤーシュタイネック,ズードホフ,朝倉書店,1982)

一104一

行 した。第二版 は本文824ペ ージで,初 版 よ り160ペ ージ以上 も増えてい

る。図版 の数も増え,初 版 よ り紙の質な ども立派 になっている。また,細

部は異 なるが,初 版 とよく似た構図の扉絵(ヴ ェサ リウスの肩書 きはパ ド

ヴァ医学校教授か らカール5世 の侍医に変わってい る)が 再作成 されてい

る。内容的には,外 科医 として研鎖 を積んだ成果を活か し,初 版の訂正や

内容の組替えな どを行っている。従 って医学めテキス トとしては第2版 の

ほ うが優れてい るともいえる。

ヴェサ リウスの後半生においては,著 作 として,フ ァブ リカに匹敵する

よ うな仕事はないにせ よ,優 秀 な外科医と して様 々なエ ピソー ドを残 して

いる。

1548年 の12月,ヴ ェサ リウスに診察を受 けて,そ の死期を予言 され,身

辺整理をす るよ うといわれ たある伯爵が,豪 奢 な宴会を開いて友人たち

を招待 した。そ して,取 り乱す ことな く平静な態度で彼 らにい とまごいを

した。その後,彼 は寝室 に行 き,ほ とん どま さに予言 どお りの時間に亡 く

なった とい う伝説めいたエ ピソー ド2)。あるいは,1562年4,月 には,少 女

を追いかけようとして階段か ら落ち,頭 を打ったフェリペ2世 の長男,ド

ン ・カル ロスを,頭 部の外科手術 によって奇跡的に死か ら救った ことな ど

が知 られてい る。

2.7エ ルサ レム巡礼 とザ ンテ島での客死

ヴェサ リウスの死は さらに伝説 につつまれている。1556年,カ ール5世

は持病の痛風 の悪化により退位 した。皇帝侍医 として,ま た外科医として

名 声の上がったヴェサ リウスはその後,カ ール5世 の息子 フェ リペ2世 の

侍医 となる。だが,1559年,フ ェ リペ2世 がその宮廷をブ リュッセルから

マ ドリッ ドに移 したので,44歳 の ヴェサ リウスは,故 郷を離れ,妻 と一人

娘 と共にスペインに移 ることになる。

スペイ ンは,医 学の面ではまだまだ保守的であ り,ヴ ェサ リウスは,ス

ペイ ン人の宮廷医師団の中では部外者 として孤立 していた。胸中には,パ

ドヴァでの大学教授の生活に戻 りたいとい う思いがきざ していたよ うであ

る。1561年,フ ェリペ2世 の息子 を死か ら救った,そ のす ぐ後,パ ドヴァ

大学教授のファロピオ(GabrielFallophls,1523-1562)の 著 した 『解剖学所

一105一

見』(Observationesanatomicae,1561,ヴ ェネチア刊)が,フ ァロピオの

元弟子に よってヴェサ リウスに届 けられた。ファロピオは ヴェサ リウスに

会 った ことはなかったが,そ の著作には ヴェサ リウスの継承者 となる意思

と彼 に対す る尊敬 の念が現れていた。 ヴェサ リウスはその年の終わ りま

でには,フ ァロピオの著作に対す る長い返事を書いた。だが,ヴ ェネチア

の大使 に託 されたこの書簡が届いたとき,フ ァロピオはすでに亡 くなって

いた。

そ して,2年 後の1564年,こ の書簡が ヴェサ リウスの最後 の著作 とし

て ヴェネチアのフランセスコ書店 よ り出版 された。 『ファロピオの解剖 学

所 見に対す る試論』(AnatomicarumGabrielisFalloppiiobservation㎜

examen,1564)し か し,ヴ ェサ リウス自身は,完 成 された書物 としてこの

本 を見ることはできなかった。 ヴェザ リウスが,ヴ ェネチアに寄ってこの

著作の刊行を決めたのは,ス ペインを発ってエルサ レム巡礼へ向か う途中

であった。

そ して,エ ルサ レムか らの帰途 船は嵐に遭って難破 し,イ オニア海上

のザンテ島で病死す るのである。49歳 であった。

なぜ,こ の時期,エ ルサ レムへ巡礼の旅へ向かったのかは謎 である。ス

ペインでの生活に嫌気がさして,ま たは健康上の理 由から,宮 廷侍医の職

を辞す 口実であったかもしれない し,パ ドヴァ大学教授職への復帰 を望ん

でいたのかもしれない。現在 ではおおむね否定 されているものの,こ の謎

について,様 々な風説が流布 した。 さる高貴な婦人 を検死解剖 した際,そ

の心臓が動いていた,順 罪 として,エ ルサ レムへ巡礼に出た,と いった類

の話である。

た とえ,そ のよ うな事実があったにせ よ,そ れが ヴェサ リウスであると

い う証拠はない。だが,こ うした話 はヴェサ リ'ウスのエルサ レム行 きと結

び付 けられ,彼 の死を伝説的に彩 ってきた。

フランスロマ ン主義の系譜 に連なる異色の小説家である,ペ トリュス ・

ボ レル(PetrusBorel,1809-59)の 作品に,「解剖学者 ドン ・ベサ リウスー

マ ドリー ド」(DonBesaliusanatomiste-Madrid)と い う短編がある‡‡。

#ボ レルの小説はこの短編のみ,渋澤龍彦氏によって邦訳されている。(『渋澤龍彦翻訳全

集4』 河出書房新社,1997)

一106一

『シャンパ ヴェール,惇 徳 コン ト集』(1833)に 収録 され ているもので,ヴ ェ

サ リウスを題材に した伝 奇小説 だが,内 容は史実 と全 く異な り,う ら若い

花嫁 と結婚 した ヴェサ リウスが,花 嫁の間男を地下室で次々に解剖 してい

くとい う恐ろ しげな小説 である。小説 としての評価は ともか く,こ の短編

の末尾に史伝 として,先 ほどの ヴェサ リウスに関す る風説が添え られてい

るのである。

3オ ポ リヌス書店

ファブ リカの刊行 に際 して,バ ーゼルのオポ リヌスが選ばれた経緯 は不

明だが,ヴ ェサ リウスも執筆 に加わった完全版 『ガ レノス全集』が,ヴ ェネ

チアのジュンタ(Giunta)と バーゼル の同 じく有名 なフローベ ン(Froben)

とで,ほ とん ど同時期に刊行 され,二 つの大書店が独 占されて しまった影

響 も推定されている。だが,オ ポ リヌスを選んだのはそれだけでもないよ

うで,フ ァブ リカ刊行 に対す るヴェサ リウスの情熱か らしても慎重に書店

を選 んだ と思える。 オポ リヌスは,一 風変わ った経歴の持 ち主であ った。

バ ーゼル の貧 しい芸術家の家庭 に生 まれ育ったオポ リヌス(Johannes

Oporinus,1507-1568,本 姓Herb§t)は,ス トラスブル クにある貧 しい学生

のための寄宿学校で古典語を学び,バ ーゼルのフローベ ンの書店で校正な

どを担 当していた。その後,し ば らくの間,バ ーゼルの大学で ラテン語,

後にはギリシャ語 を教えてお り,ま たヘ ブライ語 の知識 もあった*。 しか

し,学 校の規則 の変更でその職 を辞す こ とにな り,ヴ ェネ チア と並んで

ヨー ロッパの書籍印刷の中心地であったバーゼル で印刷,出 版業を営む。

ヴェサ リウスがその手紙 で,"バ ーゼルのギ リシャ語(文 学)教 授,オ ポ リ

ヌス"と 呼んでいるのはその経歴の故であろ う。また,彼 には,著 名 な医

者パ ラケル スス(Paracelsus,1493-1541)の もとで医学を学んだ経験があっ

た。その仕事ぶ りは正確 で,フ ァブ リカにはページ付けを除けば,ほ とん

ど誤植はない とい う。またなかなかの冒険家でもあったよ うで,ヨ ー ロッ

パ初のラテ ン語版 コー ランの出版を試みて,刑 務所 に入れ られた りもして

事ファブリカはラテン語で書かれているが,ギ リシャ語,ヘ ブライ語の用語も使われている。

一107一

いる。ファブ リカ刊行 はその財政的な面からも一大事業だったが,オ ポ リ

ヌス自身もファブ リカの刊行が,そ の図版 の意味 も含 めて画期的な仕事で

あることを十分認識 していた ようである。その後,フ ァブ リカ第2版 の刊

行 もひ きうけてい ることか らも,ヴ ェサ リウス とオポ リヌス との強い信頼

関係 があった と考え られてい る。

4解 剖図,お よび扉絵について

ファブ リカはす ぐれ た科学者 と芸術家の協力によって誕生 した といわれ

るよ うに,あ るいは,フ ァブ リカが科学書 として偉大なだけでなぐ 書籍

印刷史上においての傑作 と賞 されてい るのは,素 晴 らしい木版画の解剖図

があるか らに他な らない。

公開解剖の図を描いた扉絵,ヴ ェサ リウスの肖像画を初め として,古 代

ギリシャ彫刻やルネ ッサンス期の絵画から様式を模倣 してポーズをとった

ともいわれ る全身骨格図3葉(口 絵),全 身筋肉図14葉(口 絵)(骨 格人,

Bone-man,筋 肉人,Muscle-manと 呼ばれている)な どが とりわけ見事で

ある。`

ファブ リカ刊行 の前にす ぐれた解剖 図を描いた画家 として,レ オナル

ド・ダ ・ヴィンチ(LeonardodaVinci,1452-1515)が 存在す る。 ファブ リ

カの挿図が レオナル ドの剰窃であ るといわれたこともあった ようだが,実

際には,レ オナル ドの解剖手稿は刊行 されることなく,長 くコレクターな

どによって秘蔵 されたままであった。 レオナル ドの手稿が広 く世 に知 られ

るようになったのは20世 紀に入ってか らである。 レオナル ドはパ ヴィア

大学の解剖学者マルカン トニオ(MarcantoniodellaTbrre,1481-1512)と

解剖学の共同研究を行ってお り,マ ルカン トニオがペス トによって死 亡し

なければ,あ るいは,フ ァブ リカのよ うな解剖学書が著された可能性 も推

定 されてい る。ルネ ッサ ンスにおいては,レ オナル ド,ミ ケランジェロな

どをは じめ,画 家の側か ら人間を正確に描 くためにその内部(解 剖図)を

描 く試みがな された。 レオナル ドの解剖図からの直接的影響は証明できな

いにせ よ,ル ネ ッサンス美術においての画法や精神 が間接的にファブ リカ

に影響 を及 ぼ した ことは十分 あ りうるだろ う。

一108一

ファブ リカの木版画の作者については,長 い間様々な説が取 りざたされて

きた。作者をめぐる見解については,サ ンダース(JB.deGMSaunders)

とオマ リー(CharlesD.0'Malley)の 共著である 『Theillustrationsfrom

theworksofAndreasVesaliusofBrussels』 の中から概略を紹介す る。ファ

ブ リカの解剖図は18世 紀頃までは,お おむねルネ ッサンス期 の著名な画

家であるティツィアーノ(TizianoV㏄ellio,?一1576)の 作である と思われて

いた ようで,1640年 に,ド ミニクス ・ボナ ヴェラ(Domin三cusBonavera)

によって刊行 された 『テ ィツィアーノの解剖図』(Notomied孟Titiano)の

中には,フ ァブ リカの版木からおこした図版(骨 格図3葉 と筋肉図14葉)

が含まれ ていた。その後 もファブ リカの図版 は,17世 紀,18世 紀 の出版

物の 中でテ ィツィアー ノの作 として紹介 されてい る。

ところが,『19世 紀 になって ヴァザー リ(GiorgioVasari,1511-1574)の

『美術家列伝』(Levitede'pih㏄cellentipittori,scultorietarchitetti

italiani,1550,2nded.1568)*の 中にヴェサ リウスのために図版 を描いた

画家 としてヤン ・ステ ファン ・ファン・カルカール(JanStefanvanKalkar,

1499-1546/50)の 名があることが知 られるに至って,に わかにファブ リカ

の図版の作者はカルカールであるとい う説が有力になった。邦訳か ら一部

引用すると"何 人かいた弟子のなかで,一 人,ジ ョバ ンニ(訳 注:ヨ ハンネ

ス ・カル カル)と い うフラン ドルの画家が側近 にいたが,肖 像にかけては

素晴 らしい腕であったこの人の手になるものとして解剖の図がある。 これ

は立派な もので,後 世にも尊重 され るにちがいない名誉ある仕事である。

この図を版に彫 らせ,彼 の作品 とともに外部に送 って発表 したのはアン ド

レ ・ヴェザ レである。彼は真 に立派な人であった21)。"

『6図譜』の骨格図の画家がカルカールであることは,そ の最初のパ ラ

グラフの 中で ヴェサ リウスが"3点 の骸骨を描いた現代のす ば らしい芸術

家"と して賞賛 してい るのであるか ら,そ の ように考 えるのも当然の こと

であろ う。 しか しなが ら,唯 一の文献証拠であるヴァザー リの 当該記述の

部分には,木 版 を銅版 とす るな どの誤 りがあ り,ま た,『美術家列伝』の

初版 には この記述がな く,カ ルカールの死後約20年 ほ ど後の1568年 の再

皐日本では,『ルネサンス画人伝』(正続2冊)お よび 『ルネサンス彫刻家建築家列伝』として分かれて白水社より翻訳刊行されている。

一109一

版 に付 け加 え られていること,あ るいは,『6図 譜』の骨格図をカル カール

の作 とすれ ば,フ ァブ リカの図版 と技術的 レヴェルがあま りに違 うこと,

ファブ リカの図版は時間的にも異なった複数のアーティス トの手になると

推定 されていることなどか ら,現 在では,解 剖図をカルカール個人 の作 と

す ることには疑いが持たれ ている。

ヴァザー リの記述 には"肖 像画 にかけては素晴 らしい"と してカルカー

ル を紹介 していることもあ り,ヴ ェサ リウスの肖像画については,お おむ

ねカルカールの作であると推定 されているが(ヴ ェサ リウス本人の作であ

るとい う説 もある),そ の他の図版 については,カ ルカール個人ではな く,

ヴェサ リウスを含む,カ ルカールおよびテ ィツィアーノの工房の弟子たち

何人かの共同製作†であろ うといわれ ている。ただ,連 続 したパ ノラマ と

して14葉 の筋肉人の背景に描 かれたパ ドヴァの風景のみは,そ の特色 あ

るマニエ リスムの作風からティツィアー ノの工房で風景 を担当 していた ド

メニコ ・カ ンパニ ョーラ(DomenicoCampagnola,1500?一81)の 作であると

推定 されている。

扉絵 について も,前 掲書の中で,サ ンダー スとオマ リーによる図象の分

析がなされ ているので,こ こにその一部を紹介する と,パ ラディオ様式 の

野外の建物 で公開解剖 を行っているのはヴェサ リウス自身であ り,前 面に

いる古代の ローブをま とった3人 の姿は黄金期をあ らわ している。解剖 台

の下 に追いや られているの は,解 剖 を担 当 していた理髪師。そ して犬 と

猿 とが描かれ ているのは,ガ レノスの解剖 学を現 している。中央上部 の

骨格標本 は,ヴ ェサ リウスの解剖学が骨か ら始まった ことを示 している。

また,標 題の書かれたコリン ト式の柱の上のエンタプ ラチュアの装飾部 に

は,ヴ ェネチア共和国の紋章であるライオ ンとパ ドヴァ大学の紋章 である

牡牛が描かれ,そ の上には,二 人のプ ッ トーに支えられた3匹 のいたちを

描 いた楯がある。 これは,ヴ ェサ リウスの名前 といた ち(Wessels)が 似 て

いること,お よび,修 行時代 に小動物を解剖 していた ことなどから,ヴ ェ

サ リウス家の紋章であるとされている。また,そ の紋章の脇のバル コニー

†ルネッサンス時代の絵画制作は,彫 刻や建築,印 刷,そ の他様々な分野と同じように,

親方を中心にした徒弟制の工房による共同製作が通常であった。また,絵の具の材料となる顔料は薬屋が扱っていることから,画家は,医師 ・薬種業のギルドに属していた。(『ルネッサンスの芸術家工房』ブルース・コール,ぺ りかん社,1996)

一110一

の右側にいるのが,印 刷者オポ リヌスであ り,左 側の ドア,あ るいは窓に

は ギ リシャ文字 Φ(Phi)の よ うにオポ リヌスの頭文字1とoを 交差 させ た

組み合 わせ文字が見 える。

サンダース とオマ リーの分析は さらに細かく,ま たファブ リカ第二版 の

扉絵 との違いにも論及 しているが,こ こでは省略す る。

5フ ァクシミリ版の不思議

フ ァ ブ リカ の 書 誌 事 項 を調 査 す る に あ た って,貴 重 書 庫 に 収 め られ た 原

本 を そ う頻 繁 に め く る わ け に も い か な い の で,ま ず,明 大 生 田図 書 館 で 所

蔵 して い る フ ァ ブ リカ 初 版 の フ ァ ク シ ミ リ版 を 用 い た 。 こ の フ ァ ク シ ミ リ

版 は1976年 に 講 談 社 よ り485部 の 限 定 出 版 さ れ た もの で あ る。 内 容 と 図

版 の 双 方 か ら小 川 鼎 三 氏 と坂 本 満 氏 に よ る詳 しい 日本 語 解 説 の 冊 子 が 付 さ

.れて い る。 フ ァ ブ リカ 初 版 の フ ァ ク シ ミ リ版 は,1964年 に ブ リュ ッセ ル の

Cultureetcivilisation社 よ り刊 行 され て お り,未 確 認 だ が,講 談 社 本 は こ

の 版 を 用 い て,日 本 で 出 版 した も の と思 わ れ る。

フ ァ ブ リカ のペ ー ジ 付 けや 図 版 の 確 認 な ど を して い る うち に,妙 な こ と

に 気 づ い た 。 ク ッシ ン グ に よ る フ ァブ リカ の 詳 細 目録*を 読 む と,そ の 構 成

は ま ず 扉 絵(タ イ トル 頁)が あ っ て,カ ー ル5世 へ の献 呈 文,オ ポ リヌ スへ

の 手 紙 と続 き,そ の 次 に ヴ ェ サ リ ウ ス の 木 版 肖像 画 が 来 る こ と に な っ て い

る。 折 記 号*6に あ た る冒 頭 部 分 を 引 用 す る と,"*1afrontispiece-title;*1b

blank;*2a-4bprefacetoCharleyV…;*51ettertoOporinus∵ ・;*6a

portrait(sometimesinsertedfacing*2a);*6bblank"と な っ て い る 。 これ

に よれ ば,時 折,ヴ ェサ リ ウ ス の 肖 像 画 が 扉 絵 の あ と,カ ー ル5世 へ の 献

呈 文 と向 か い 合 わ せ に 挿 入 され て い る版 は あ る も の の,冒 頭 に 来 る の は 扉

絵 で あ る。 こ の 順 序 は第2版 も 同 様 で あ る 。 明 大 所 蔵 本 の 肖像 画 は,こ の

とお りで は な く,*6aが ブ ラ ン ク で*6bに 肖 像 画 が あ り,本 文 と 向 か い 合

わ せ に な っ て い る。 従 っ て,肖 像 画 の 位 置 に つ い て は,い くつ か の 異 版 が

存 在 す る と して も,最 初 に 来 る の は 扉 絵 で あ る 。 だ が,講 談 社 刊 の フ ァ ク

傘『Abio ・bibhographyofAndreasVesalius』2nded.HarveyCushing(Archon

Books,Hamden,1962)

一111一

シ ミリ版では,ヴ ェサ リウスの肖像画が本を開いた冒頭に登場す るのであ

る。付属の 日本語解説を読み直 してみると,前 半の小川鼎三氏の解説には,

扉絵,献 呈文,手 紙,肖 像画の順 になってお り,初 版原本 と一致す る。 と

ころが,後 半の坂本満氏の解説では1"自 画像の次が標題頁で,"と い うよ

うに講談社刊のファクシミリ版の順序に従っている。 したがって,明 大本

だけが違 っているわけで もないよ うだ。

憶測に過ぎないが,戦 前か らヴェサ リウスを研究 し,お そ らく,オ リジ

ナル版 も眼に しているであろ う小川氏は,こ のファクシ ミリ版 を見ず に解

説 を著 し,西 洋美術の専門家である坂本氏は講談社刊のファクシ ミリ版を

参照 したのだろ うか。

また,古 代か ら近世までの西洋解剖学の歴史を概説 した 『人体解剖のル

ネサ ンス』(藤 田尚男,平 凡社,1989)に おいて,フ ァブ リカ を紹介す る

章の中に"最 初のページに,ま ず ヴェザ リウスの像が載せ られ,次 のペー

ジに…解剖 し示説 している絵があ る"と い う記述がある。著作の内容 を損

な うものではないが,著 者 が講談 社刊のファクシ ミリ版 を参照 した可能性

を示 している。

その後,ブ リュッセル刊 のファクシ ミリ版 を見 る機会があったが,こ ち

らはオ リジナル版 どおりの順番であった。何故 このようなことになったの

かはわか らないが,手 に入 りに くいオ リジナル版 を忠実に復刻 してこそ,

ファクシ ミリ版 の意味がある。このような間違いがあったのは残念である。

6明 大所蔵本,お よび国内外の所蔵について

装丁は,茶 色の子牛皮による比較的新しい製本。縁がかなり擦 り切れて

いるが,中 身は保存状態良好。旧蔵者は勉強熱心だったらしく,随 所に書

き込みがみ られる。当館が受入れた際に,裏 表紙に登録番号を印字 した

OCRラ ベルを貼付 してしまったのが惜 しまれる。巻末索引の後には,旧

蔵者の手書きによる"蔵書票"が ある。

ExllbnsNlcolaiDebleucourt

と読 めるが,ど のよ うな人物 かは不明である。

一112一

ファブ リカ初版は,1983年 の調査によると,世 界に154冊 現存するそ う

である(内134冊 が図書館 などに所蔵 されてお り,残 りは古書店の目録な

どによる)。そ して1995年 に弘前大学医学部の松木 明智教授 が調査 したと

ころによると,日 本 には7冊 存在す るそ うであ る9)。

この初版7部 の所蔵機関の内訳はわか らないが,NCに よる検索 と今回

の紹介文 を書 くにあたって,参 考文献に出てきた所蔵などを列挙 してみ る

と以下のよ うにな る。

・ ファブ リカ初版(慶 応義塾大学図書館17),札 幌医科大学図書館,明

治大学図書館)

・ファブ リカ第2版,1555年 刊(労 働科学研究所 ゲッテ ィンゲン文庫,

九州大学,二 宮陸男氏個人蔵13))

・ ファブ リカ第3版,1568年 刊 所蔵 なし?

・ ファブ リカ第4版,1604年 刊(東 京大学)7)

なお,1999年10月 に開催 された雄松堂書店の稀観書展には,ガ ラスケー

ス ごしに見た限 りでは原装版 と思われるファブ リカ初版 が出展 されていた

(公式な値段 は出ていないが,お そ らく2000万 円以上であろ う)。 買い手

がついたか どうかは不明である。

7研 究書について

ヴェサ リウスの伝記的,ま た,著 作の書誌学的研究は熱心に行われてき

た。文末の参考文献一覧と一部重複するが,そ の研究史的側面ともなるの

で,主 たる研究書,翻 訳書を挙げておく。(雑 誌論文は省略 した)

7.1国 外

1.『AndreasV6saliusBruxellensis』MoritzRoth(GeorgReimer,

Berlin,1892)

バ ー ゼ ル 大 学 の 解 剖 学 教 授 モ ー リツ ・ロー トに よ る詳 細 な ヴ ェ サ リ

ウス の 伝 記 。

一113一

2.『Abio-bibliographyofAndreasVesalius』HarveyCushing(Schu-

man's,NewYork,1943)(YaleMedicalLibrary.Historicallibrary

publication,no.6)

伝 記 的 記 述 も含 ん だ,驚 く ほ ど詳 細 な ヴ ェ サ リ ウ ス の 著 作 の 書 誌

で あ り,ク ッ シ ン グ の 亡 き 後,そ の 未 完 の 手 稿 が,JohnF.Fulton

ら・に よ っ て ま とめ られ 刊 行 され た 。 長 く絶 版 とな っ て い た が,1962

年 に 正 誤 表 と補 遺 を つ け た フ ァ ク シ ミ リ版 が2nded.と してArchon

Books(Hamden,Conn,)よ り刊 行 され て い る。

3.『AndreasVesalius'firstpublicanatomyatBologna,1540:an

eyewitnessreport:togetherwithhisnotesonMatthaeusCur-

tius'LecturesonAnatomiaMundini』BaldasarHeseler,Trans-

1ater:RubenEriksson,(Almqvist&Wiksell,Uppsala,1959)

1540年,ヴ ェ サ リ ウ ス が ボ ロ ー ニ ャ大 学 に 招 か れ て,モ ン デ ィ ー ノ

(MondinodeiLuzzi)の 解 剖 学 の 継 承 者 で あ っ た コ ル チ(Matthaeus

Curtius)の 解 剖 学 の 講 義 と ヴ ェ サ リ ウ ス の 解 剖 示 説 を 組 み 合 わ せ た

講義 が 企 画 され た。 そ の と きの 様 子 をヘ ス ラ ー とい う ドイ ツ 人 医 学

生 が 書 き 残 して お り,そ の 手 稿 が エ リク ソ ン に よ っ て 英 訳 され た も

の で あ る 。

4.『TheillustrationfromtheworksofAndreasVesaliusofBrussels』

JB.deC.M.Sanders,CharlesD.0,Malley(DoverPub.,New

Ybrk,1973,1sted.1950)

『フ ァブ リカ 』 『エ ピ トメ ー 』 『混 血 書 簡 』 『解 剖 学6図 譜 』 か らの 図 版

を 集 め,図 版 に つ い て の ヴ ェサ リ ウス の 解 説 を 英 訳 し て 付 した も の

で あ る。 こ れ に は,伝 記 と図 版 に つ い て の 解 説 が 付 され て お り,本

稿 を 書 く に あ た っ て は,伝 記,ま た 特 に 図 版 の 紹 介 に,主 と して こ

の 解 説 を 使 用 させ て い た だ い た 。

5.『AndrewsVesaliusofBrussels.1514-1569』GD.0'Malley(Univ.

ofCaliforniaBerkeley,1965).

こ れ は,1.の ロー トの伝 記 を 補 完 す る もの と して,新 事 実 を付 け加 え

て 書 き お ろ され た ヴ ェ サ リ ウス の 伝 記 の 集 大 成 と も い え る500頁 に

一114一

及ぶ労作である。巻末には豊富な原資料が英訳されて付されている。

6.『Onthefabricofthehumanbody:translationofDeHumani

corporisfabricalibhseptem』Translater:WilliamRichardson,

JohnCarman,(NormanPub.,SanFrancisco,1998一)

フ ァ ブ リカ の 完 全 英 訳 を め ざ して,現 在BookIIま で 刊 行 され た 。

BookVIIま で 全5冊 で 刊 行 の 予 定 で あ る 。 か つ て 西 洋 の 知 的 文 化 圏

で は イ ン タ ー ナ シ ョナ ル で あ っ た ラ テ ン 語 は 現 在 で は,一 部 の 研 究

者 な ど を 除 け ば 読 む 人 の ほ と ん どい な い 言 語 とな っ て し ま っ た。 そ

の た め,フ ァ ブ リカ か ら450年 後 の 現 在 で は,ラ テ ン語 か ら英 訳 が

な され て い るわ け だ が,こ の仕 事 に 携 わ っ て い る の は,1539年 の ガ

レ ノ ス 全 集 に 似 て,現 役 の 医 者(解 剖 学 者)と 古 典 学 者 で あ る。

7.2国 内

1.『 生物科學の創始者 ヴェサ リウスの生涯』 内山孝一(中 央公論,科

学シ リーズ2,1949)

日本大学医学部教授であった著者 は,ヴ ェサ リウスの生涯 とルネ ッ

サンスを描 くにあたって, .その序文で,戦 後ま もないわが国の文化

的現状をも重ね合わせて思いを巡 らせ てお り,著 者の ヴェサ リウス

への思いが伝 わって くる非常に誠実な伝記である。 しか し,こ の伝

記は,前 出の ロー トの著作を参考に してお り,現 在では資料的 には

やや古 くなって しまった。 また,当 時,国 内にファブ リカ初版の存

在が確認 されてお らず,労 働科学研究所所蔵 ファブ リカ第2版 を元

にしている。

2.『 アン ドレアス ・ヴェサ リウス人体構造論解説』(講 談社,1974)

研究書 とはいえないが,講 談社刊のファブ リカ ファクシ ミリ版 に付

した小川鼎三氏 と坂本満氏による日本語解説。

3.『 人体構造論抄 一ヴェサ リウ.スのtheEpitome一 』 中原泉訳(南 江

堂,1994)

近代 医学の原典450周 年記念出版 として刊行 されたエ ピ トメーの 日

一115一

本語翻訳版。

4.『 謎の解剖学者 ヴェサ リウス』坂井建雄(ち くまプ リマーブックス,

1999)

本稿を書いてい る最 中に出版 された。著者は順天堂大学医学部解剖

学教授。 「解剖学」の立場か ら考察 したヴェサ リウスの伝記,お よび

ファブ リカの研究書である。ファブ リカ以前の解剖図や レオナル ド・

ダ ・ヴィンチの解剖図も紹介,解 説 されてい る。また,著 者は,前'

出のオマ リーによるヴェサ リウスの伝記を 日本語訳 出版 準備中 との

ことである。

ヴェサ リウスの研究書については,当 館で近頃購入を始めたファブ リカ

の英訳版 とファクシ ミリ版 を除けば,明 治大学図書館では一冊 も所蔵 して

いない。資料の閲覧には,相 互貸借,紹 介状,お よび雄松堂のゲスナー ラ

イブラ リーにお世話 になった。医学図書館ではないのだか ら,所 蔵 してい

ないの も当然 といえば当然だが,こ のよ うに貴重な資料 を所蔵 している以

上,関 連する文献や研究書,翻 訳書 も収集す るべきであろう。

参考文献

(1)『Abio-bibliographyofAndreasVesalius』2nded.HarveyCushing

(ArchonBooks.Hamden,1962)

(2)『TheillustrationsfromtheworksofAndreasVesaliusofBrussels』

J.B.deC.M.SaundersandCharlesD.0'Malley(DoverPub.,New

Ybrk,1973.c1950)

(3)『An中easVesaliusofBrussels,1514-1569』C.D.0'Malley(Univ.

ofCaliforniaPress,Berkeley,1965)

(4)『Onehundredbooksfamousinsciencebasedonanexhibitionheld

attheGrolierClub』HarhsonD.Horbit(TheGrolierClub,New

.Ybrk,1964)

一116一

(5)『AndreaeVesahiDehumanicorporisfabrica』 ファクシ ミリ版(講

談社,1976)お よび付属 の 「ア ン ドレアス ・ヴェサ リウス人体構 造

論解説」小川鼎三,坂 本満

(6)『 人体構造論抄 一ヴェサ リウスのtheEpitome一 』 中原泉訳(南 江

堂,1994)

(7)『 生物科學の創始者 ヴェサ リウスの生涯』 内山孝一(中 央公論,1949)

(8)『 人体解剖 のすべて:解 剖学への招待』 坂井建雄(日 本実業出版社,

1988)

(9)『 謎の解剖学者 ヴェサ リウス』 坂井建雄(ち くまプ リマーブックス,

1999)

(10)『 医学の歴史』 小川鼎三(中 公新書39,1964)

(11)『 解体新書:蘭 学をお こした人々』 小川鼎三(中 公新書165,1968)

(12)『 図説医学史』 マイヤーシュタイネ ック,ズ ー ドホフ共著(朝 倉書

店,1982)

(13)『 医学史探訪:医 学 を変えた100人 』 二宮陸男(日 経BP社,1999)

(14)『 レオナル ド・ダ ・ヴィンチ 「人体解剖 図」女王陛下の コレクション

か ら』 マーチィン ・ク レイ トン,ロ ン ・フィロ共著(同 朋舎出版,

1995)

(15)『 人体解剖のルネサ ンス』 藤 田尚男(平 凡社,1989)

(16)『 解剖の美学』 荒俣宏編著(リ ブロポー ト,1991)

(17)『 アナ トミア:Anatomia:ダ ヴィンチから解剖図譜の歩み』(慶 応

義塾大学図書館,1997)

(18)『 アラビア文化の遺産』 ジクプ リト・フンケ(み すず書房,1982)

(19)『 十二世紀ルネサ ンス』C.H.ハ スキンズ(み すず書房,1989)

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(20)『 ルネサ ンスの芸術家工房』 ブルース コール(ぺ りかん社,1996)

(21)『 ルネサ ンス画人伝』 ヴァザー リ(白 水社,1982)

(22)「 解剖学者 ドン ・ベサ リウス」'ペ トリュス ・ボ レル.(渋 澤龍彦翻訳

全集4,河 出書房新社,1997)

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