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パープル スウィート ポテト Ipomoea botatos 沖縄県読谷村役場 農業推進課

パープル スウィート ポテト...2.生産状況 近年、沖縄県においては、食用甘藷の需要が伸びる傾向にありますが、それとは逆 に県内の栽培面積・生産量は減少する傾向にあります。1972年、沖縄県における甘藷

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  • パープル スウィート ポテト

    Ipomoea botatos

    沖縄県読谷村役場 農業推進課

  • 1.甘藷の歴史

     原産地はメキシコ、エクアドル、コロンビアといった南米大陸とされています。

    最初に栽培されたといわれているのはペルーのチウカというところで1年に 25 ミリ程

    度しか雨の降らない不毛の栽培地でした。

    日本、沖縄への伝来

     コロンブスがアメリカ大陸を発見した3日後の日誌に「甘藷」のことが記されてお

    り、それがポルトガルに渡り、アフリカ、インド、中国を通り沖縄、九州、本土へ渡

    ったという東回りルート説と、ペルーからポリネシアン、インドネシアを渡った西回

    りルート説があります。

     いずれにせよ日本への甘藷伝来は、沖縄(琉球)が最初です。 1605 年、進貢船の船

    長であった野国総官が福建省のピンシュウから鉢植えにした芋蔓を持ち帰り、郷里の

    野国村の人々に植えさせました。この新しい作物の話を耳にした儀間真常が、甘藷の

    優秀性を認め王府に建言し、増産をはかり沖縄全島に普及したという話が一番有力な

    説とされていますが、 1597 年に宮古平良市の西仲宗根の保里蜂に「イモ神様」として

    祀られている長真氏真屋が、福建省から芋蔓を持ち帰って島内に広め、島民を飢餓か

    ら救ったという説もあります。

     1609 年に琉球国は薩摩藩に制圧、日本の政治のわくに組み入れられ、長年にわたり

    搾取に苦しみました。かくして 1610 年以降には、琉球と薩摩の物流は活発化し、琉球

    から薩摩に伝来した甘藷はサツマイモと言う呼び名に変わっていきました。

     しかし記録上では、1615 年、長崎の平戸にイギリス生まれの航海士、ウイリアム・

    アダムス(日本名 :三浦按針)が日本に初めて甘藷を導入したとされており、今でもこ

    の地域では「リュウキュウイモ」と呼んでいるそうです。

    読谷紅イモの歴史

     これまで、読谷紅イモと呼ばれている品種は、「宮農 36 号」と「備瀬」の2種類が

    ありますが、本来紅イモとは宮農 36 号のことをさしていました。このイモは、 1947

    年当時沖縄が琉球政府のころ、宮古農事試験場において垣花実記氏により作られた品

    種です。読谷村に導入されたのは 1972 年で、那覇市内の焼きイモ事業者が糸満市の農

    家より苗をもらいうけ、村内でも甘藷栽培の盛んな座喜味区の農家である比嘉栄次郎

    氏と真栄田昌栄氏に栽培してもらったのが始まりです。

  • 表1 甘藷の伝播年表

    西暦    年号  導入関係者    伝来地       備考

    15 世紀末   コロンブス  スペイン 新大陸からイザベラ女王

    16 世紀中頃 スペイン フィリピン 新大陸、ヨーロッパから

    ポルトガル人 (ルソン)

    16 世紀末 陳振竜(中国人) 中国(南部) ルソンから

    1597 年 慶長2年 長真氏旨屋 宮古島 中国から

    1605〃 慶長 10 年 野国総官 沖縄(琉球) (びん、福建省)から

    1609〃 慶長 14 年 島津義久 鹿児島(薩摩)琉球から

    1613〃 慶長 18 年 ポルトガル人 鹿児島(坊津)ルソンから

    1615〃 元和元年 コックス(英人) 長崎(平戸) 琉球から

    1615 頃 山和尚 和歌山(紀伊)薩摩が大辺路へ

    1692 年 元禄6年 江島為信 愛媛(伊予) 宮崎(日向)から  

    1698〃 元禄 11 年 種子島久基 種子島    琉球王から

    1705〃 宝永2年 前田利右衛門 鹿児島(山川)琉球から漁船で

    1713〃 正徳3年 下見吉十郎 瀬戸内 薩摩(伊集院)から

    1716〃 亨保元年 島利兵衛 京都 薩摩(硫黄島)から

    1720〃 亨保5年 原田三郎右衛門 対馬 薩摩から

    1733〃 亨保 18 年 井戸正明 島根(大森) 薩摩から

    1734〃 亨保 19 年 青木昆陽 東京(江戸) 薩摩から

    1735〃 亨保 20 年 青木昆陽 千葉 江戸から

    1737〃 元文2年 八丈島 薩摩から

    1751〃 寛廷4年 吉田弥右衛門 埼玉(川越) 千葉(上総)から

    1765〃 明和2年 大沢権右衛門 静岡(御前崎)薩摩の難破船から

    1825〃 丈政8年 川村幸八 宮城 千葉(下総)から

    1856〃 安政3年 田中宮門 山形 新潟から

    1866〃 慶応2年 長崎(五島) 薩摩から

    1870〃 明治初年 吉田信敬 岩手 関東から

  • 2.生産状況

     近年、沖縄県においては、食用甘藷の需要が伸びる傾向にありますが、それとは逆

    に県内の栽培面積・生産量は減少する傾向にあります。 1972 年、沖縄県における甘藷

    の作付面積は 3,050h a、収穫量は約 74,000tでした 。読谷村においても 1917 年には

    栽培面積が 400h a、収穫量は 5,000tもありました。その後は県内の栽培面積、生産量

    とともに減少し続け、 1988 年 (昭和 63)には作付面積が 441h a、収穫量は約 9,500tと

    大幅に減少しました。しかも県内生産量の約8割は飼料用で、食用はわずかでした。

    このような生産量の低下に伴い、県外から大量の食用甘藷が移入されるようになりま

    した。 1980 年の県内の食用甘藷の生産量は 2,400tで、一人あたりの消費量からの推

    計によれば自給率は 50%と推定されています。全国一の栽培適地(気象条件等)であ

    りながら移入に頼らざるを得ないのが現状です。そこで読谷村では、平成元年3月 11

    日読谷村商工会主催の「紅イモシンポジウム」を皮切りに「紅イモで村おこし」を合

    い言葉に、役場、農協、商工会が一体となり、数々のイベントや討議を行い、生産組

    織の強化及び栽培技術講習会、優良種苗の導入と普及、そして紅イモ加工品の開発に

    取り組んできました。昭和 53 年から昭和 63 年までは、作付面積が 20h a~40h a、収

    穫量 50~ 200tで推移していましたが、平成2年以降、作付面積、収穫量とも着実な

    伸びを示しています。県内では、読谷村のほかに、うるま市、具志頭村、本部町、石

    垣市が主な産地となっています。

    表2  沖縄県における甘藷の作付面積と収穫量の推移

    年 昭和48 50 55 63 平成5 8 9 10

    面積 (ha) 3,050 1,850 658 441 433 363 356 335

    収穫量 (t) 74,400 49,600 15,100 9,480 9,570 6,720 7,120 6,230

    年 昭和11 12 13 14 15 16

    面積 (ha) 307 293 295 290 288 283

    収穫量 (t) 6,140 5,860 5,780 5,710 5,540 5,600

    表3  読谷村における甘藷の作付面積と収穫量の推移

    年 昭和61 62 63 平成元年 2 3 4 5

    面積 (ha) 42 42 36 35 48 48 50 66

    収穫量 (t) 720 657 675 742 968 895 1,150 1,490

    年 平成6年 7 8 9 10 11 12 13

    面積 (ha) 70 72 65 66 65 70  77 78

    収穫量 (t) 1,340 1,750 1,100 1,056 1,100 1,350 1,530 1.520

    年 14 15 16

    面積 (ha) 78 79 79  

    収穫量 (t) 1,520 1,550 1,700

  • 3.品 種 甘藷の品種は現在何種類あるか定かではありません。沖縄県農業試験場に保存され

    ている品種は約 320 種程度ですが、栽培されているが品種がわからないものも稀にあ

    ります。甘藷の繁殖法は実生繁殖と栄養体繁殖があります。実生繁殖とは雌しべと雄

    しべを結合させ種をとって増やす方法で、これはできた種の性質がすべて異なるため

    ( F1:一代雑種)品種改良等に利用されています。栄養体繁殖とは、現在一般農家が

    行っている方法でいわゆるさし芽のことをいいます。この方法は親株と同性質をもっ

    た一定の品質が得られます。

     本土において芋蔓は越冬できないため、イモの花というのは、めったに見られませ

    んが沖縄県においては秋から冬にかけて普通に見られます。そのため自然界で交配が

    行われ新しい品種が次々と生まれるという現象があります。その証として古い品種に

    は地名が多く、例えば、赤長浜、白暗川、泊黒、大宜味、比謝川、台湾等があります。

    その中で読谷紅イモとは2種類あり、宮農 36 号は、果皮が赤く果肉が濃い紫色で、父

    にハワイ産のハワイ種、母に中国産の紅イモをかけ合わせて作り出されました。 1950

    年の農業瓦版に品種の特徴として「草勢強く、晩生にして粘質、食味良始、虫害に強

    い」と記されています。宮農 36 号は、生まれてまだ 50 才に満たない品種です。もう

    一つの読谷紅イモは備瀬と呼ばれる品種で、品種名からして宮農 36 号のような人為的

    な改良種ではないと思われます。読谷村にこの品種が導入されたのは 1982 年頃で、こ

    れまでの宮農 36 号が、連作障害や地力の低下等により単収が低下していたために導入

    されました。備瀬種は果皮が白く果肉が紫色で食味も良く、更に収量が宮農より高く、

    収穫期も1カ月ほど早い上に各種の土壌に適応するといった性質をもっているため、

    急激に普及しました。2003 年度には、沖縄県試験場園芸支場にて育種された「沖夢紫」

    が登場しました。果皮は赤で、果肉が紫色で食味も良い品種です。

     読谷村での甘藷栽培面積は平成 16 年現在約 79h a で備瀬 90%、沖夢紫5%、その他

    5%で作付けされています。

     沖縄県は全国一の甘藷の品種の多さを誇り栽培がされています。沖縄県で作り出さ

    れた品種としてナンゴク、アザマサリ、オキヒカリ、等々、特に沖縄 100 号は現在世

    界一の甘藷生産国である中国で多く栽培されています。またそれらは、現在の甘藷の

    品種改良の基礎となっています。

     読谷村は古くから良質の甘藷の産地で、昭和 10 年以前は読谷産の楚辺暗川が市場に

    でると地方の甘藷は姿を消したといわれています。読谷村の甘藷を語る上で忘れては

    ならないのが佐久川清助氏です。佐久川氏は明治 27 年頃、泊黒、暗川、名護和蘭の三

    種を混植栽培していた畑で自然結実した種子を採取し、その中から 10 種をさらに選抜

    し、さらに6種類、3種類、1種類と育成し、8年をかけて佐久川種を生み出しまし

    た。この佐久川種は昭和9年沖縄 100 号が奨励品種となるまで沖縄県の奨励品種の主

    流でありました。

  • 4.栽 培 甘藷の栽培法には平植法と畝立法の二種類があります。平植法は甘藷伝来以来、儀

    間真常の研究によって 300 有余年行われていた方法です。現在の畝立法が始まったの

    は 1933 年(昭和8年)からで、沖糖社農務課長、宮城鉄夫氏の研究によって普及奨励

    されました。読谷村において畝立法が普及されたのは昭和 35 年頃からですが、今現在

    でも平植法を見ることがあります。

     沖縄で甘藷栽培をするのに大きな障害となっているのが害虫です。アリモドキゾウ

    ムシ、イモゾウムシ、この二種類のゾウムシが沖縄の甘藷生産に度々大打撃を与えて

    います。この害虫は、成虫、幼虫とも、イモの茎や塊根を加害します。特に幼虫は塊

    根の内部に食入し加害するので、その被害は甚大です。加害を受けたイモは独特の臭

    みと苦みがあり、この臭みと苦みはイモ全体に広がるので全く食用になりません。こ

    のため、わずかな食害であっても商品価値を失ってしまいます。アリモドキゾウムシ

    は、1903 年(明治 36 年)、イモゾウムシは 1947 年(昭和 22 年)に沖縄に侵入した

    害虫で、本種による被害は甚大で難防除害虫であるため、植物防疫法によって本土へ

    の移動が規制されています。当初は防除効果の高いヘプタクロルなどの有機塩素系殺

    虫剤を使用していましたが、発ガン性があるため使用が禁止され、それ以後 1960 年頃

    より被害が多く増加しています。 1972 年に読谷に導入された宮農 36 号も、品種の特

    性(晩性)から被害を受けやすく、地力の低下等もあり、1985 年頃には単収が 800 ㎏

    まで落ち込みました。

     読谷紅イモとしての銘柄が確立しつつある矢先に、害虫被害により生産量は低下し

    ました。それに対し害虫対策として農業試験場及び中部農業改良普及所、等々各関係

    機関とタイアップし病害虫対策と単収アップ、品質向上を目的に数々の方法を試みま

    した。生産組織として平成2年に読谷村農協琉球イモ生産部会が、平成 16 年には読谷

    村紅イモ栽培研究会が設立しました。

     生産基盤においても平成 12 年度には、蒸熱処理加工施設の設置をはじめ甘藷栽培の

    機械化と保管整備等々のハード事業をこれまで導入しました。さらに、ソフト事業に

    おいても、先進地調査、市場開拓、加工品の開発等を実施し、更に全国甘藷シンポジ

    ウムや佐久川清助生誕150年記念事業を開催しました。現在では、単収 1.5t~ 2.0

    tまで回復し品質の向上も図られ読谷紅イモとしての産地づくりに驀進中でありま

    す。

     ※ 佐久川清助生誕150年記念事業:読谷の紅イモのルーツとされる「佐久川イ  

    モ」を育種した同村出身の佐久川清助氏の生誕150年を記念しての取り組み。

  • 甘藷の種類

    [紅色系の甘藷]

        沖夢紫

    県農業園芸支場育成

    2003 年奨励品種紫皮・紫肉

    粘質で非常に甘く食味極良

    収量 2.5 トン /10a 以上立枯病に対してやや強い抵抗性を持つ

     

         備 瀬 読谷村内で最も多く作られる品種。 皮は白だが果肉が紫色をした紅いも である。来歴は不明。

        宮農 36 号 40 年程前、宮古農事試験場で研究、誕生した品種。皮も果肉も紫色で

    一般的に「読谷紅イモ」はこの種をさ

  • [その他の甘藷]

    沖縄 100 号

    1930 年代から終戦直後にかけて多く栽培された。収穫量は多いが、食味はあまり良くない

    ナカムラサキ

    1960 年代に栽培された品種で、果肉が紫色をしている。ヨギムラサキとともに「紅いも」の先輩格(?

  • 5.加 工

     甘藷を栽培する収穫段階になると、くずイモや、傷イモが 10~ 20%程出ます。又栽

    培時期や栽培技術によっては 50%も出てしまうことがあります。昔は自家用兼販売用

    で栽培しており、出荷した残りを食用としたり、家畜の飼料にしていたので、無駄あ

    りませんでした。しかしながら最近になって、そのくずイモ処理が問題になってきま

    した。いらなくなったくずイモは畑の隅や道路に放置され病害虫の発生の原因になっ

    ています。また、できるだけ捨てるイモを少なくしようとするため市場出荷用のイモ

    の選別が荒くなり価格が低下、市場価格も本土産に比べ安値で取引きされていました。

    そこでその対策として傷イモや、くずイモを加工することにより付加価値をつけて商

    品化を図ろうと紅イモ加工所が設立されました。加工所では、ふかしたイモをペース

    ト状にする一次加工を主にし、菓子類やその他の商品の原料として販売します。その

    ペーストを使用し商品開発と販路拡大に取り組んだのが、むらおこし会社「ユンタン

    ザ」や「お菓子の店ポルシェ」などです。

     「ユンタンザ」では、紅イモチップス、紅イモアイスクリーム、紅イモようかん「ポ

    ルシェ」では紅イモタルトなどの数々の和洋菓子の商品を開発しました。また生活改

    善グループや婦人会も各種のイベントを通し紅イモを利用した商品の開発と普及に積

    極的です。農協婦人部においては、紅イモ加工展示会を村内外で開催し、読谷紅イモ

    をアピールするとともに紅イモゴマダンゴと紅イモスナックの商品化に成功していま

    す。

    紅いもペースト

    紅イモペーストは、読谷特産の紅イモを

    蒸かした後、ウラゴシ機によりきめの細か

    いマッシュ状態に施したものです。

    砂糖、香料などを一切含んでいない完全

    な自然食品で、紅イモ加工料理作りには最

    適です。

     

      

  • 6.新たな展開

    読谷村は、 1988 年より「紅イモでむらおこし」を合い言葉に、行政・JA・商工会

    などが一体となり数々のイベントに取り組み「読谷紅イモ」をアピールし、「紅イモ

    の里:読谷」と県外内に知れ渡りました。2004 年3月には、紅イモが県の拠点産地に

    認定されるなど名実とも一大産地となりました。

     また、 2001 年6月には、生産奨励・消費拡大・販売促進を図る目的で読谷村議会に

    おいて「イモの日」宣言決議し、毎月 16 年を「イモの日」と定め、イモを食べる村民

    運動など様々な取り組みを実施するなど新たな展開をみせています。

    7.ま と め 「紅イモによるむらおこし」をテーマに、官民一体となって取り組んできました。

    当初、商工会が紅イモシンポジウムを開催する際に、農協がやるべきだとの批判もあ

    りました。しかしながら、紅イモを生産することによって一次産業から三次産業まで

    のつながりが出来る。これこそが村おこしではないでしょうか。

     大正4年の新聞記事に「・・殊に著しきは俗に云ふ読谷山イモにして一時に小舟に

    積載し来たり売り出す際は那覇市場の相場を下落せしむる程なり・・」と書いていま

    す。これは、読谷産のイモが市場に出ると買い手が殺到し、他のイモが売れなくなる

    ということです。このように、昔から読谷村はイモの産地として県内では名が通って

    いましたが第二次世界大戦後の高度成長期にはいり、甘藷栽培面積は減少の一途をた

    どりました。その後昭和 50 年代には地方の時代とか、地域活性化、村おこしが叫ばれ

    るようになり、読谷村では紅イモが選抜されたのです。宮農36号は、他の地域でも

    栽培されていましたが、栽培が難しく、読谷村でつくられる様にはおいしいイモが出

    来ませんでした。つまり、読谷村は全国一の紅イモ栽培適地なのです。一時期は栽培

    面積が 15h a まで減少していましたが「紅イモもによるむらおこし」を合い言葉に栽

    培農家、面積ともに増加しています。もう一つ静かなブームとして、芋掘り遠足が盛

    んになっています。昭和 60 年頃は年間 200 名程度でしたが、平成 16 年には約 20,000

    名の子供たちが読谷村を訪ねています。「紅イモによるむらづくり」は、まだ始まっ

    たばかりです。これから、栽培、加工、流通に磨きをかけ本物に作り上げなければな

    りません。読谷村は今、ベニ色に輝いています。

  • 参考文献

    ・「沖縄県農林水産行政史」(第 14 巻農業資料編Ⅴ)

    ・「農業瓦版」(琉球政府発行 1950 年)

    ・「読谷村史」

    ・「さつまいも」坂井健吉

    ・「さつまいもM iN i 白書」日本いも類研究会