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東京外国語大学論集第 83 号(2011163 回想と解離──ヴラジーミル・ナボコフの「フィアルタの春」 鈴木 聡 1. 連鎖する記述 2. 回想のなかの出会い 3. 死角と亀裂 4. ヨーロッパ的なものとロシア的なもの 1. 連鎖する記述 ヴラジーミル・ナボコフの短篇小説「フィアルタの春」 1) は、1936年四月にベルリーン で執筆され、同年、『ソヴレメンヌイエ・ザピースキ(現代雑記)』誌第六十一号に発表され た。このロシア語版は、のちに短篇小説集『フィアルタの春とその他の短篇小説』(1956 年)に収録される 2) が、それ以前にピーター・パーツォフの協力を得て、英語訳が完成してい た。雑誌に掲載するための交渉は1942年からなされたものの 3) 、じっさいに「フィアルタ の春」の翻訳が世に出るのはその数年後のことになる。ナボコフのロシア語短篇小説のアメリ カ合衆国におけるもっとも早い時期の紹介となる英語版は、『ハーパーズ・バザー』誌194 7年五月号に掲載されたのち、『九篇の短篇小説』(1947年) 4) に収録されたほか、この 短篇小説集を増補した『ナボコフの一ダース』(1958年) 5) にも再録された。 本文中で「1930年代初頭のある日」(Nabokov 2002: 413)と明記され 6) 、「1917年 前後」(Nabokov 2002: 415)という重要な時点に遡っていくつかの場面が順を追って断片的に 回想されるように、ここでは、「十五年間」(Nabokov 2002: 414)という歳月とそれを結果的 に締め括る結節点となるある一日の出来事が並行して語られる。あとで改めて考えてみる必要 もあるかもしれないが、過去と現在の接合はおそらく、「フィアルタの春」における説話の全 体的骨組みをなしているだけでなく、テクストの構造自体をかたちづくる基本的なパターンの 存在を示唆するものともなっている。その意味からいうならば、語り手(ロシア語版ではヴァ ーセンカ 7と呼ばれている)と作者ナボコフのあいだの類似や相違という問題もいちがいには 看過できないということになりそうだ。 といっても、「フィアルタの春」を自叙伝的(もしくは擬似‐自叙伝的)テクストとして単 純化することは容易にできそうにない。その点では、この作品をアントーン・チェーホフのよ

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 163

回想と解離──ヴラジーミル・ナボコフの「フィアルタの春」

鈴木 聡

1. 連鎖する記述

2. 回想のなかの出会い

3. 死角と亀裂

4. ヨーロッパ的なものとロシア的なもの

1. 連鎖する記述

ヴラジーミル・ナボコフの短篇小説「フィアルタの春」1)は、1936年四月にベルリーン

で執筆され、同年、『ソヴレメンヌイエ・ザピースキ(現代雑記)』誌第六十一号に発表され

た。このロシア語版は、のちに短篇小説集『フィアルタの春とその他の短篇小説』(1956

年)に収録される 2) が、それ以前にピーター・パーツォフの協力を得て、英語訳が完成してい

た。雑誌に掲載するための交渉は1942年からなされたものの 3)、じっさいに「フィアルタ

の春」の翻訳が世に出るのはその数年後のことになる。ナボコフのロシア語短篇小説のアメリ

カ合衆国におけるもっとも早い時期の紹介となる英語版は、『ハーパーズ・バザー』誌194

7年五月号に掲載されたのち、『九篇の短篇小説』(1947年)4)に収録されたほか、この

短篇小説集を増補した『ナボコフの一ダース』(1958年)5)にも再録された。

本文中で「1930年代初頭のある日」(Nabokov 2002: 413)と明記され 6)、「1917年

前後」(Nabokov 2002: 415)という重要な時点に遡っていくつかの場面が順を追って断片的に

回想されるように、ここでは、「十五年間」(Nabokov 2002: 414)という歳月とそれを結果的

に締め括る結節点となるある一日の出来事が並行して語られる。あとで改めて考えてみる必要

もあるかもしれないが、過去と現在の接合はおそらく、「フィアルタの春」における説話の全

体的骨組みをなしているだけでなく、テクストの構造自体をかたちづくる基本的なパターンの

存在を示唆するものともなっている。その意味からいうならば、語り手(ロシア語版ではヴァ

ーセンカ 7)と呼ばれている)と作者ナボコフのあいだの類似や相違という問題もいちがいには

看過できないということになりそうだ。

といっても、「フィアルタの春」を自叙伝的(もしくは擬似‐自叙伝的)テクストとして単

純化することは容易にできそうにない。その点では、この作品をアントーン・チェーホフのよ

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く知られた短篇小説「犬を連れた奥さん」(1899年)を換骨奪胎したものとして解釈しよ

うとする読みかた 8) についても同じことがいえる。それは、妻子を家に残して、出張旅行の途

中、架空の保養地、フィアルタに立ち寄った語り手と、そこで彼がたまたま再会した(語り手

と同じくロシア出身の)ニーナと呼ばれる女性の関係を、「犬を連れた奥さん」の主人公ドミ

ートリイ・ドミートリイチ・グーロフとアンナ・セルゲーエヴナの関係に接近させ、重ね合わ

せようとする読みかたということになるだろう

だが、そもそも「フィアルタの春」の舞台は(「犬を連れた奥さん」前半の舞台である)ヤ

ルタではない。また、「聖ゲオルギオス山」(Nabokov 2002: 413, 423, 428)や「カッパラベッ

ラ急行」9)が実在しないのと同様、現実のナボコフが知っていたかもしれないどこかの保養地

を直截に置き換えた場所でもない。逆にいえば、虚構の町と現実の町のあいだにある隔たりは、

「フィアルタの春」と「犬を連れた奥さん」のような先行テクストのあいだにある隔たりに照

応していることにもなるに違いない。

フィアルタという架空の地名の由来をさぐるならば、ヤルタともうひとつ、アドリア海に面

した自由都市フィウーメに候補を求めることができるかもしれない 10) 。黒海に面したクリミ

ア半島の都市とイストリア半島の都市がこのようにして結びつけられている可能性を考慮して

みても、この作品の基底をなすものが複数の要素の同期(融合あるいは合成と呼んでもよい)

であることは明らかであるようだ。こうしたテクストの構成原理にたいして、われわれはより

いっそう慎重にならざるを得なくなるはずである。

現在はクロアチア共和国領に含まれ、リエカという呼称に変わっているフィウーメは、第一

次世界大戦の終わりまではオーストリア=ハンガリー帝国領であったが、ガブリエーレ・ダン

ヌンツィオに率いられた武装集団が惹き起こしたフィウーメ占拠事件などの混乱と紛争ののち、

イタリアとユーゴスラヴィアの外交交渉の結果、1924年、イタリアに帰属することとなっ

た。ナボコフは(日露戦争開戦から数箇月後にあたる)1904年夏、家族ととともにフィウ

ーメの西に位置するアッバツィア(クロアチア共和国領としての地名はオパティヤ)という町

──オーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあった当時は貴族階級の別荘地であった──に

滞在し、フィウーメにも訪れたことがある 11)。そのときの印象が、虚構中のフィアルタにある

程度投影されていると考えることはけっして無理ではない。その証左は、本文中に見られる「年

老いたダルマチア人」(Nabokov 2002: 417)12)という表現などにもおぼろげに察知することが

できるといえるだろう。

しかしながら、1904年に五歳のナボコフが記憶したものがフィウーメの夏であったのに

たいして、「フィアルタの春」の語り手の回想の場となっているものが、1932年ごろと想

定される虚構の町フィアルタの春(正確には「四旬節」[Nabokov 2002: 413]13) のころ)で

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あるということは、やはり決定的な相違点となっていると見なければなるまい。「フィアルタ

の春は曇りがちで鬱陶しい」という語り手の言葉は、完全に非現実的とまでは断言しがたいに

しても、現実そのものという強固な裏づけによってささえられているわけではない。「フィア

ルタ」という地名にたいして語り手が感じ取っている魅力もまた、当然のことながら架空のも

のであることを余儀なくされる。

自分にとってフィアルタの町が好ましく思われるのは、「それらの菫のような(violaceous)

音節の空洞に小さな花のなかでももっとも皺くちゃにされてきたものの暗く甘美な湿潤さが感

じられ、そのヴィオラ(viola)14)によって麗しいクリミア半島の町のアルトのような名が反響

を返すからだ」と語り手はいう。この一節が、物語の終盤に語り手が(ニーナが手にした花束

として)幻視する菫のイメージ(Nabokov 2002: 429)と照応していることに読者は気づかされ

ることになるだろう。

ロシア語版においてはその一箇所でのみ「菫」(фиалок)という語が用いられ,フィアル

タという地名そのものは、ただ「花のなかでももっとも皺くちゃにされてきたもの」15) の香り

を共感覚的に聞き取らせるにすぎない。それにたいして、英語版においてその花が明確に菫と

特定し得るように書きなおされているのは、「フィアルタ」が──フィウーメとヤルタの交雑

であるばかりでなく──「菫」(фиалка)と「ヤルタ」の混成語でもあること 16) が、英語圏

の読者には容易に読み取り得ないにもかかわらず、語り手にとってその語の響きがなぜか菫を

髣髴させるものであることを、テクストのこの箇所でどうしても強調しておく必要があったか

らだと考えざるを得なくなってくる。

菫そのものに籠められたなんらかの象徴的な意味合いや、フィアルタの春を特徴づけている

ものと思われる色彩の系列あるいは連鎖──「薄青がかった家並み」、「紫水晶の歯を剝き出

しにした石塊」──にも留意する必要はありそうだが、いずれにしたところで、すでに指摘し

ておいたような複数の要素の併存とも混在とも呼び得る局面が、作品の表題に含まれた地名か

らはじまり、テクストの細部にいたるまで徹底されて、今後も頻出することをわれわれは銘記

しておかなければならない。たとえば、語り手がじっさいに眼にしている聖ゲオルギオス山は、

同じ山が写っている1910年ごろの絵葉書の図柄と比較される。歳月の隔たりに呼応するよ

うに、現実の山は画像とはほど遠いものだとされるのである。

このように距離や懸隔があるにもかかわらず、「フィアルタの春」のテクスト上では過去と

現在の隣接はいともたやすく実現する。そのことを例証するためであるかのように、第一段落

(この段落には一人称が含まれない)が現在時制で書かれたあと、続く第二段落は過去時制で

書きはじめられるのだ(「一九三〇年代初頭のそんなある日のことだった」)。とはいいなが

らも、ここで視点が過去に切り替わり、叙述が回想へと完全に移行したとはいいがたい点も認

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められる。同じ段落の途中で、「私はそこ[フィアルタ]が好きだ」という現在時制の文が唐

突に挿入されるからである。

そのことをきっかけとして、かすかな疑問が萌してくる可能性があるだろう。語り手にとっ

ての現在とはいったいいつのことなのか。その現在は過去からどれだけ隔たっているのか。現

在の語り手は(過去はともかく)現在のフィアルタを知っているといえるのだろうか。かくし

て、現在時制で書かれた第一段落におけるフィアルタの「春」の描写は、第二段落で語り手が

フィアルタに感じていると称する魅力とともに、現在時制で書かれているというまさにその理

由によって、具体的なある年、ある時点に限定されることのない、中立的なものと解釈せざる

を得なくなってくる。

いや、それらの記述は中立的であるがゆえに、事実上、中空に漂っているも同然の不安定な

ものと化しているといってもよいくらいだ。だが、現在がこのようにあやふやに思えるのは、

過去のほうが(あるいは過去と現在の区分のほうが)さらにいっそう定かでないからであり、

現在が過去の延長にすぎないからではなかろうか。付け加えておくならば、その種の曖昧さは、

フィアルタの春の気候を思わせるような模糊とした空気感という「フィアルタの春」の基調そ

のものともかかわっていると考えることができる。

「自己の感覚のすべてをいっぱいに開け放って」17) 語り手が取りこんだフィアルタの街角の

景色も、過去と現在の共存という様相を呈している。「古い、青灰色の鋪道」のいたるところ

に「古代のモザイクの意匠の薄れゆく記憶」18)が残されたままなのだ。モザイク状の組み合わ

せがより大規模に生じていることは、のちほど改めて指摘されることになるだろう。「フィア

ルタは古い町と新しい町(「リヴィエラ然とした一劃」[Nabokov 2002: 426]19))からなって

いる。そこかしこで、過去と現在は絡み合い、自分を切り離すか相手を押し出そうとして互い

に相争っている」と語り手はいうのだ。

そのいっぽうで、語り手が眼にする「海産のロココ工藝」20)、「打ち萎れた移動サーカス団

のポスター」、「熟していないオレンジの黄色い一片の皮」などの一見恣意的に焦点を合わさ

れただけのようにも映る、雑然とした、瑣末な事物の連鎖は、じつは、テクスト上の未来──

時系列に則していえば、比較的、現在に近い過去──に起こる出来事の予示としての役割を果

たしている。たとえば、語り手は間もなく、「三個のオレンジ」(Nabokov 2002: 414)を運ぼ

うとしている幼児を目撃することになるのだ。

移動サーカス団のポスターは、このあと、町の随所に貼られているのを語り手が眼にするこ

とになるもの(Nabokov 2002: 414, 417, 423, 426)であり、先触れとなる広告隊の行列(「バー

ヌース」[Nabokov 2002: 428]を着た駱駝使いと駱駝、四人のインディアンたちを含む)とと

もに、ニーナの不慮の事故死をもたらすサーカス団の車輛の接近が、抗いがたい宿命的なもの

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 167

であることを読者に感知させるものである。また、店先に飾られた貝殻細工は、ニーナが生前

後に口にする好物の貝と対応していると見ることも可能であろう(Nabokov 2002: 427)。こ

のような細部の周到な組み立ては、物語の前半部と後半部における照応関係にもかかわってく

ることになる。

フィアルタの街角で語り手とたまたま出会ったニーナは、著名な小説家である夫フェルディ

ナント(彼の戯曲が 近、大失敗に終わったことで語り手は溜飲をさげていた[Nabokov 2002:

422])、その友人であるセギュール(「藝術愛好家で完璧な愚か者」)といっしょに乗ってき

たセギュール所有の車──ナボコフの他の作品でもたびたび名前の出てくる「イカロス」

[Nabokov 2002: 426]21)と呼ばれる「黄色い、車体の長い」乗用車──に同乗しないかと(お

そらくは断られることを予想しながら)語り手を誘う。四人で昼食を取り、しばらく散歩して、

ふたりきりの 後のひとときを過ごし、別れたあとで、語り手はニーナの身になにが起こった

かを(ムレチ 22)駅のプラットフォームで買った)新聞で知る。ニーナたちの乗った黄色い車は、

フィアルタに向かう移動サーカス団のトラックと正面衝突し、ニーナひとりだけが亡くなった

のだった(彼女は「結局、死すべき定めだったわけである」[Nabokov 2002: 429])。

このような顚末を知るとき、作品の冒頭に近いあたりで言及されていた「三個のオレンジ」

も、ニーナの死とまったく無関係とはいいがたいことが判明する。三という多義的、魔術的な

数字が介在していることにもなんらかの意味を見いだすことはできるだろうし、セルゲーイ・

プロコーフィエフの同名の歌劇(1921年初演)の原作となったカルロ・ゴッツィの寓話劇

『三つのオレンジへの恋』(1761年初演)のことを想起してみてもよさそうだ 23)。さしあ

たり、われわれとしては、オレンジをもった「男の幼児」が三個のうちのどれか一個を不可抗

力的に落としてしまうという描写に着目しておくことにしよう。

ついに転んでしまった男児の手からころがったオレンジはすべて、ビーズの頸飾りをかけた

「十二歳くらいの少女」にすばやく奪い去られてしまう。その少女は、少しあとでフェルディ

ナントから棒状のキャンディをもらうことになる(Nabokov 2002: 423)。このような微細な事

物の移動も、作者特有の緻密な計算にもとづく連鎖の一例といえそうだが、とりあえず、「三

個のオレンジ」が「イカロス」の三人の同乗者たちの運命を表象しているものと仮定してみる

と、どういうことになるだろうか。ニーナの死は、結局のところ、必然的なめぐり合わせなど

ではない。だれかひとりが亡くなるのだとしても、それが彼女でなければならない理由はなか

ったし、三人全員が亡くなることもあり得ないことではなかった。それなのに、語り手は、ニ

ーナの死に特別の意味を読み取らずにいられなくなるのである。

2. 回想のなかの出会い

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とはいうものの、物語の終局にかんする議論は、当面保留しておかなければならない。すで

にいくつか例を挙げたような細部の連関をもう少し吟味してみることが、われわれには必要な

のだ。それとともに注意しておくべき点がある。「曇りがちで鬱陶しい」フィアルタの気候が

語り手の気に入っているのはなぜなのか。春の気配で飽和しながらそのことになかなか気づか

ずにいるかのように思われる「その灰色の日の脈動と放散」(Nabokov 2002: 414)に「甘美な

昂揚」を感じるのはなぜなのか。肝要なのは、語り手が家においてきた「私の妻と子どもたち」

をさして、「私の存在の晴朗な北方につねに現前している幸福の島」と称していることである。

それは、「つねに私の傍らに漂い、それどころか私のうちを通り抜けて漂うことさえある」に

もかかわらず、「ほとんどいつでも私の外部に位置し続けている」のだとされる。だとすれば、

暗黙のうちに前提とされているのは、北方と南方の対立なのだということになるだろう。

その対立がなにを意味しているのかは、じつのところそれほど明瞭ではない。ピレネー山脈

24)を旅行したとき(Nabokov 2002: 424-25)のような、南方の記憶がしばしばニーナと結びつけ

られているし、妻子との生活(「幸福で、賢明で、善良な世界」[Nabokov 2002: 425])と、

もしかすればあり得るかもしれないニーナとの生活が対比されてはいる。しかし、代替的可能

性となり得るもうひとつの世界は、「滾るほどの、耐えがたい苦渋」が浸透し、「千変万化す

る恋愛相手たちで満ち溢れた過去」を絶え間なく思い起こさせることになるだろうという以外、

語り手にはほとんど想像もつかないものなのだ。

ともあれ、当初、語り手がフィアルタを訪れた動機は、たとえばニーナとの再会のような、

なんらかの見通しと直接的に結びついてはいなかった。家族との幸福な生活からは得られない

なにかが彼をフィアルタに惹きつけたということだろう。いや、それよりもむしろ、語り手の

いう「幸福」なるものは、自己欺瞞か、たんなる空疎な申し立てにすぎなかったのではなかろ

うか。そして、彼はそこからの一時的な逃避を画策したのではないか。ともあれ、語り手がフ

ィアルタで知覚するこまごました事物に充足感と解放感を覚えていることだけは疑いない。教

会の向こうの巴旦杏の木立から聞こえてくる「鶫の声」(Nabokov 2002: 414)、「崩れかけた

屋敷の静穏」、「靄のなかで息づく、彼方の海の息吹き」が、「塀の上端に沿って逆立ってい

るガラス瓶の欠片の油断ない緑色」や「サーカスの広告の堅牢な色彩」と相俟って、夜行列車

であまり眠れなかったらしい語り手のうちに同化される。

その順応性はさらに進み、他者の視線までもが自己と同化されるにいたる。すなわち、語り

手は、そぞろ歩いているひとりのイングランド人男性の視線のさきをたどって、ニーナの姿を

視野にとらえるのである。「その男がちらりと見た方向をたどると、ニーナが見えた。」 この

ようにして、感覚の自在な揺れ動きのうちに対象が捕捉され、物語のつぎの段階へと向かう新

たな連鎖が生じることになる。また、この箇所ではもうひとつ興味深い事態が生じている。

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 169

あとでその場の出来事が想起されるとき、書き手は、イングランド人男性がニーナに関心を

惹きつけられていたかのようにほのめかしている(Nabokov 2002: 426)。だが、じっさいに彼

が彼女を見たのかどうかについては、確定的なことはなにもわからないのだ。その点について

語り手がなにも述べていない以上、誤解や錯覚が紛れこんでいるのではないかという疑いをあ

えて特筆大書するにはおよばないかもしれない。しかしながら、語り手の言葉を無条件に受け

容れるとすれば、「深紅の眼角」を緊張させ、唇をすばやく湿らせる 25)様子(「充血した欲望」)

を、ニーナという対象と結びつけてしまう可能性は、読者のがわにも生じかねないだろう。イ

ングランド人男性はたまたまニーナがいる方向に眼を向けただけだったのではあるまいかとい

う疑問は、のちになって、語り手たちが昼食を取ったホテルのレストランで、その同じ男性が

見ていたものがはっきりすることにより、はじめて浮上してくるのである。

レストランでイングランド人男性が熱心に見つめていたものとは、窓枠にとまった「和毛に

覆われた小型の蛾」であった(Nabokov 2002: 428)26)。彼はその蛾をとらえて、器用に錠剤入

れに滑りこませるのだった。このような経緯があるからといって、語り手の当初の思いこみあ

るいは思い過ごしが証明されたとまでは主張しがたいであろう。だが、確証は得られないにし

ても、読者は、語り手にたいして全面的には信頼できないものを感じるようになるに違いない。

そのような兆しが生まれる場面は、いま取りあげた例にかぎられることはないのだ。一人称

の語り手を設えるにあたって、フェルディナントという職業作家を白眼視してはいるけれども、

物書きになろうなどという野心はいだいていないらしい(おそらくは映画会社に勤務している)

人物として造型することにより、作者自身とのあいだに意図的に生じさせられた落差のことも

思い合わせたほうがよいだろう。作者が構築するテクストと語り手の書き記す言葉はほぼ完全

に一致してはいるけれども、その言葉を裏づける真実性はあくまでも限定的なものにとどめら

れているのである。

語り手の言葉の重点は、いうまでもなく、初対面のときから自分が密かに懸想し続けた女性

ニーナにおかれることになる。しかし、テクストは、その他の細部を入念に積み重ねてゆくこ

とに精励している。たとえば、語り手がニーナと出会い、十五年まえの回想がはじまる箇所ま

でに、いくつかの色彩のなかでもとりわけ青が(あるいは青に近い色が)頻繁に強調され、フ

ィアルタの春をかたちづくる全体的な色調を性格づけていることに読者は容易に気づかされる

ことだろう。

「薄青がかった家並み」、「紫水晶」、「青灰色の鋪道」などについてはすでに触れておい

た。イングランド人男性が立ち寄った薬局の陳列窓では、「青い瓶」に入れられた「大きな蒼

白い海綿」が干涸らびて死にそうになっている。さらには、そのイングランド人男性の眼の色

も青いのだ 27)。このように事物の青さという属性が、フィアルタという土地の空気そのものの

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170 回想と解離──ヴラジーミル・ナボコフの「フィアルタの春」:鈴木 聡

ように情景の全体に染みわたっていることを丹念に書きこみ続けることは、言語による漠然と

した雰囲気や興趣の具象化を目的としたものとも思えるが、それだけでは、おそらく説明とし

てじゅうぶんとはいえない。テクストが意図しているのは、たんなる絵画的な色彩表現の模倣

などではないのだ。そのことは、青という色彩がテクストのどの箇所、どの局面に配置されて

いるかを検討してみることにより明らかになるはずである。

初の二ページで「青い」という形容詞が幾度か繰り返されたあと、意外なことに、同じそ

の色彩が言及される機会は稀れになる。しかも、それらはフィアルタの春の一日ではなく、語

り手が回想するニーナとの出会いの状況とかかわるものなのだ。時系列に則していうならば、

過去における重要な転機に附随していた彩りが、語り手とニーナの 後の出会い(「 後の付

け足し」[Nabokov 2002: 415])にも継続的に流入していることになるだろう。

十五年まえ、十七歳のころにルーガの叔母の屋敷ではじめて知り合い、ニーナという名前も

まだ知らないうちに、いきなりキスをされて以来の歳月は、「一箇所に呼び集められたわけで

はない出会いの各部分」を搭載していたと語り手はいう(Nabokov 2002: 416)。とはいえ、仔

細に見るならば、語り手の記憶と回想の大部分をかたちづくっているニーナとの出会いと称さ

れるものには不明確なところがある。まず第一に、ニーナは、語り手に会うときにはいつも決

まって、ただちにはだれだかわからない様子である(Nabokov 2002: 414)。語り手自身も、フ

ィアルタでの再会以前にニーナと会ったのはどこだったかすぐには思い出せない(Nabokov

2002: 417)28)。ようやく思い出すとき、語り手の脳裡に浮かぶのは、ニーナとの二度めの出会

いとなった、「ロシアからの脱出後」(Nabokov 2002: 418)、ベルリーンのとある屋敷で長椅

子の隅に横坐りになっていたときと同じく、パリのとある屋敷で長椅子の隅にΖ(ゼータ)を

思わせる姿勢で寛いでいたニーナのことである(Nabokov 2002: 428)29)。

簡単にいってしまうならば、「私たちを絶えずいっしょにいさせようとする宿命の目的」

(Nabokov 2002: 423)という言葉とは裏腹に、語り手とニーナが現実にふたりきりになった機

会はほとんどなく、たまたま同席することがあっても、ごく短時間にかぎられていたのだ。出

会いのうちに数えあげられてはいても、じっさいには、たんに写真や外套を眼にしただけだと

か、フェルディナントの小説の一節にニーナの面影を読み取っただけということのほうが通例

であったことは、語り手自身も認めている。その意味において、ニーナは「私の人生の余白に

そそくさと姿を現わす」だけで、「基本的な本文」にはいささかも影響を与えることがなかっ

たのだ(Nabokov 2002: 424)。

ふたりの出会いのうちで、比較的くわしく状況が述べられるものには、皮肉なことにニーナ

の夫フェルディナントが関与している。二度めの出会いから一年後、すでに結婚していた語り

手は、妻(エレーナ 30)という名であることが明かされる)とともに、ポーゼン(ポズナニ)31)

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 171

に旅立つ弟を見送りにいった駅で、ちょうどパリに向けて旅立つまえ、知り合いに囲まれ、花

束を手にしているニーナを見かける。わずかのあいだにニーナと語り手の妻という、まったく

似かよったところのないふたりの女性は親しくなり、つぎに会うときには互いに愛称で呼び合

うまでになる。その日、「パリ行きの列車の青い翳りのなかで」(Nabokov 2002: 418)フェル

ディナントの名前がはじめて口にされたのだった。ニーナがその人物と結婚することになって

いると聞かされて、語り手は「愚かな痛み」32)を感じる。コンパートメントのガラス越しに見

えるニーナは、見送りにきた人びとのことを忘れ、「異世界」に去ってしまったかのようにも

見える。

そのときの語り手の心情は、「記憶のオルゴール」(Nabokov 2002: 419)から流れ出たとさ

れる「前世紀の歌」に仮託されているようだ。「あなたは結婚するという話だけど、/そうし

たら私が死ぬつもりだということは知っているでしょう」(On dit que tu te maries, / tu sais que

j’en vais mourir)──「リズムによって呼び醒まされる婚姻と死の絆」は、ニーナが他の男性

と結婚することを知った語り手の衝撃に呼応するものとして、思い描かれたのだと考えられな

くもないだろう。

しかし、じつをいえば、語り手が見舞われたものが失望であったにせよ後悔であったにせよ、

はたまた嫉妬であったにせよ、そのことにはなんの必然性もないのだ。初対面のころのニーナ

には婚約者がいたが33)、ベルリーンで再会した当時にはその婚約者とは別れていた。いっぽう、

そのとき語り手のほうはすでにエレーナとの結婚が決まっていた。それらの事情が語り手にな

んらかの感慨をもたらしたとしてもおかしくはないのだが、そうした形跡をさぐり出すことは

できそうにない。もともと、語り手とニーナのあいだに匂わされた友情らしきものは、「想像

上の親密さ」(Nabokov 2002: 418)に不当にもとづいていたにすぎなかったのである。したが

って、三度めの出会い以降、語り手がニーナに寄せはじめる感情は、突発的に、過剰に生じた

思い入れ以上のものではなかったということができる。

「女性の愛情」(Nabokov 2002: 416)をだれにでも分け隔てなく振りまくことのできるニー

ナの類い稀れな鷹揚さに魅了されるあまり、語り手はある種の自己欺瞞に陥っているのだと考

えてもよいかもしれない。彼は、ニーナが親しげにふるまっている他の男性にたいして自分が

いだいている競争心 34) をニーナにたいする恋慕の激しさと取り違え、たんなる所有欲、独占

欲 35)をロマンティックな憧憬と錯覚しているのだ。それゆえ、彼がニーナの魅力を 大限感じ

取るときは、反面においては、彼の思いこみ(自分とニーナの関係をなにか特別なもののよう

に立ち現わさせたいという願望)がことのほか甚だしくなる危険のあるときでもあることにな

る。そのとき、語り手の胸裡にこみあげるものが失望であれ昂揚であれ、その根拠となるもの

は、事実上、虚妄に等しい。

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172 回想と解離──ヴラジーミル・ナボコフの「フィアルタの春」:鈴木 聡

ニーナの結婚に過剰なほど動揺させられてから一、二年ののち、語り手は、パリに滞在した

折りに、思いがけず彼女と再会する。ニーナが示した親しげな態度は、大胆といえるほどのも

のだ。語り手は、ニーナの夫の留守中に、夫婦が宿泊しているホテルの部屋に招き入れられる。

ニーナは、「海のように青いカーペット」(Nabokov 2002: 419)の敷かれた廊下に沿って語り

手を導いてゆく。この場面においても支配的な色彩が青であることは、その青さが、バルコニ

ーから見える戸外の景色──ロシア語版では「ライラック色」(сиреневатой)だが、英語版

では「霞んだ青い朝の街路」(Nabokov 2002: 420)──にまで広がってゆくことによってわか

るだろう。

この段階にいたって読者が理解できるようになることがある。「フィアルタの春」のテクス

ト中で印象深く反覆される青さという基本的色調は、おそらくは、「馴染み深い温かさ」

(Nabokov 2002: 428)と称されるニーナの特性と、さらにはそれによって喚起される心の昂り

にかかわるものなのだ。同じその色がフィアルタの町の各所に見いだされるのは、人格的な温

かさが気候の温暖さと類推的に置き換え可能であるという暗示として解釈することができるだ

ろう。また、その色彩を予兆として、ニーナを見つけるまえにすでに漠然とした期待が生じて

いるという証しとして受けとめることもできるに違いない。そこからもう一歩進んで、この虚

構内の空間を成立させている論理の一端に触れることも可能となるだろう。語り手にとって、

ニーナとフィアルタのそれぞれの魅力は相等しい。そのような脈絡において、ニーナとフィア

ルタは、互いに特権的にもういっぽうと結び合わされるべき存在となっているのである。

3. 死角と亀裂

以上の点を踏まえて、「フィアルタの春」における語り手の心の動きについてもう少し考察

を加えてみることにしよう。表面的に字面を追うかぎり、密かに、長い歳月のあいだに育まれ

た愛の物語としてとらえられてしまう恐れもある「フィアルタの春」の叙述から、語り手の一

方的な申し立てからくる偏向を差し引いてみるとするならば、語り手とニーナのあいだにある

ものとはなにか。はっきりしているのは、愛と呼ばれ得るような相互理解や思いやり、充足感

や幸福感が、両者のあいだで分かちもたれることはけっしてないということだ。

ニーナにたいする語り手の感情は、ニーナ当人の気持ちをまったく忖度することなく、ひた

すら既成事実としての揺るぎなさを増してゆく。その自己中心性ゆえに、語り手は、自分がフ

ェルディナントやその他の男性にくらべてニーナに愛される有利な条件を有しているわけでは

ないということも、自分がニーナの寛闊な好意に甘えているにすぎないのではないかというこ

とも、ことさら強く意識したりはしない。だが、そうした独善や独断にささえられた楽観的な

心境が、必ずしも自己満足に帰着していない点に着目するべきであろう。語り手がみずからの

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家庭生活に見いだしている幸福は、彼とニーナの結びつきの対極にある。むしろ「悲しみ」

(Nabokov 2002: 425)こそが、両者のあいだで蓄積してゆくものであるようだ。そして語り手

は、「新たな出会い」のたびごとに徐々に懸念を募らせるようになってゆく。

パリのホテルの部屋に誘われたころには、まだ「その後のニーナとの出会いを苦々しいもの

と化すことになる例のしだいに増してゆく病的な哀切さの現前」(Nabokov 2002: 420)に気づ

くことはなかったのだと語り手は述べる。英語版においては、ロシア語版において言及されて

いたニーナと語り手が発したとされる「叫び声と忍び笑い」(восклицаний и смешков)や、

「背信という錦の言葉」(парчовое слово: измена)などが省略されているため、この箇所で

重大な相違が生じることになる。ロシア語版ではふたりのあいだになにかあったように読める

のにたいして、英語版ではなにもなかったように読めるのだ。

かりに人妻であるニーナと自分の関係が世間では不倫や不貞と呼ばれる種類のものであった

と語り手が暗に主張しようとしているのだとしても、事態がおおはばに変わるわけではないだ

ろう。問題となっているのが、道徳や倫理、罪の意識にかかわることがらなのかどうかは明言

されていないからである。しかしながら、英語版では、ふたりの関係がロシア語版よりもいっ

そう曖昧なものとされることにより、語り手の懸念や不安が根拠薄弱なものであることがより

いっそうきわだつ仕儀となっているようだ。

愛も不貞も現実には介在せず、妄執にとらわれた語り手が、ただものごとをおおげさに考え

すぎているだけなのだとすれば、それと同時に、ニーナが浮気性で、多くの愛人がいるという

ような含み──「折衷的」36)なフェルディナントはそのことを察していながら、妻の行状を無

視し、そのおかげで得られた付き合いからかずかずの利益を得てきたのだと語り手はいう

(Nabokov 2002: 425)──も、語り手のたんなる身勝手な空想以上のものではないということ

になってくるだろう。

このようにして「フィアルタの春」を読み進んできた読者は、語り手の言葉にある種の偏向

や粉飾があるのではないかという一抹の疑いを拭い去ることができなくなるはずである。たと

えば、ピレネー山脈を旅行中、語り手が、ある知り合いの屋敷に泊まったところ、たまたまニ

ーナも夫とともにその屋敷の客となっていることを知ったという挿話にも、不審に思われると

ころがある。語り手は、夜中にニーナが忍んでくることを確信していたのに、彼女はついに現

われない。翌日、山道を散歩しながら語り手が憾みごとをいうと、ニーナは動揺した様子を見

せる。

約束を交わしたわけでもないのに、語り手が確信をいだくことができたのは、ニーナと自分

の関係を特別なものと信じこんでいたからに相違ない。それが錯誤でしかなかったことは、じ

っさいにニーナが部屋にこなかったという事実からも、その翌日のニーナの反応からもじゅう

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ぶんに読み取ることができるものと思われる。だが、そのことは、語り手の眼からは死角とな

っているようなのだ。あるいは、語り手の知覚には歪みが生じているのだといってもよいだろ

う。

語り手がニーナになにを期待しているにせよ、ニーナのほうは語り手との絆を強めようなど

とは毛頭思っていない。それはどういうことか。また、ニーナの真意を正しく読み取ることの

できない語り手にとって、限界あるいは障碍となっているものとはなにか。手短にいうならば、

焦点となるのは、語り手にとって、みずからの予期を裏切るニーナのふるまいに不可解なとこ

ろ、理解不能と思えるところが多々あったことは疑い得ないにもかかわらず、そのこと自体を

彼がまったく深刻に受けとめていない点であろう。語り手にしてみれば、深夜の密会が一方的

な期待だけで終わったのはたんなる手違いにすぎなかったことになりそうだ。しかし、そうで

はなく彼は、意思の疏通がなりたたなかったことこそを重要視し、ふたりのあいだにあるもの

が絆ではなく、むしろ亀裂であることを悟るべきだったはずなのである。

ニーナの突発的で、性急な行動 37)ももちろんだが、なによりもまず、フェルディナントとの

結婚生活 38)のように、語り手にとって納得しがたいことがら、彼自身の期待と現実のあいだの

齟齬が長年にわたって増し続けてきたことはまちがいない。全般的にとらえてみても、自分と

ニーナのあいだに乗り越えがたい断絶があることはたしかなのに、そのために語り手が苦悩す

ることはない(「私は内面における感情の破綻のようなものはいっさい経験することがなかっ

た」[Nabokov 2002: 425])というのは、一見したところ、不可思議にも思われるのではなか

ろうか。

「私が懸念を感じるようになったのは、長い目で見て自分がニーナの生を、その生の嘘、無

益さ、戯言をなんとなく受け容れるようになっていったからだった」──語り手が「受け容れ

る」と称しているところに注目するべきであろう。彼は、みずからの無理解、みずからにとっ

ての不都合を相手のがわの「嘘、無益さ、戯言」によって置き換え、一方的に(滑稽にもとい

っても過言ではないかもしれない)妥協と弥縫を図ろうとしているのである。

ことの次第に照らし合わせていうならば、語り手とニーナのあいだに障碍あるいは亀裂をも

たらし、彼と現実のあいだに解離を生じさせたもの、語り手の認識に死角あるいは盲点をつく

り出したものが、ニーナにたいする語り手の固執そのものであったことには疑問の余地がない。

とはいうものの、直接的には、その固執の発端となり、ある意味では 大の障壁ともなった、

ニーナの夫フェルディナント 39)こそは、語り手がさまざまな妥協を強いられる対象ということ

になる。語り手は、文学者としても人間としてもフェルディナントのことをまったく評価して

いない。だが、それにもかかわらず、表面を取り繕って、彼と親交(「偽りの親しさ」[Nabokov

2002: 422])を結んできたのだった 40)。そのような打算によって、語り手自身も一連の嘘に積

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 175

極的に関与していると認めてもよさそうなものだ。しかし、いうまでもなく、語り手がそのこ

とを自覚することは絶対にあり得ない。

フェルディナントにたいする語り手の反撥は、もちろん第一義的には、彼がニーナの夫であ

るという事実からきているに違いない。といっても、そのことを語り手があからさまに表明す

るわけではない。むしろ彼が強調しているのは、直接知り合う以前に自分がフェルディナント

の著作を読んでいたこと、処女長篇小説は楽しんで読んだものの、結局、自分はフェルディナ

ントの「邪悪な呪力」(Nabokov 2002: 420)に打ち克ったのだということである。それからと

いうもの、語り手は、フェルディナントの新著に手を触れるだけでも、脊椎に「薄気味の悪い

戦慄」を覚えるようになるのだった。

「言語の発明という藝術」を完璧に自家薬籠中のものとし、たんなる作家ではなく、「言葉

の織工」であることを自負するフェルディナントにたいして、語り手が容認しがたいものを感

じるのは、ほんとうに起こったわけではない出来事を書くことになんの益があるのかわからな

いからである。じっさいにフェルディナントと知り合い、話をするようになってから、語り手

は、自分が作家になるとすれば、想像力をもたせるのは「自分の心」だけにするだろうと面と

向かって主張したことがあった。それ以外のところは、記憶(「ひとの個人的真理が投げかけ

る長い日没の影」)に頼ることにするつもりだというのである。

ニーナは、夫の著書を一冊も読み通したことはなかったと思われるのに、生来の卓越した適

応能力によって「自分には欠けている教養」(Nabokov 2002: 421)を埋め合わせて、夫の「詩

神」ではないにしても、「伴侶」として、「鋭敏な助言者」としての役割を全うしていた。そ

のことも語り手にとっては不快に感じられたことだろう。それが直接的に言明されることはな

いのだが、パリのホテルの部屋でニーナとふたりきりになった短いひとときのすぐあとに、カ

フェで、フェルディナントが取り巻きたちに囲まれている場面(Nabokov 2002: 421-22)が対置

されることにより、ある種の諧謔的な効果が醸成されていることは認めてよい。ニーナがその

ような世界の一員となっていること──少なくともその一端に接しながら違和感をいだかずに

いられること──こそは、彼女の生きかたが、この短篇小説の 後で「彼らの[フェルディナ

ントやセギュールの]長期にわたる、忠実な模倣」(Nabokov 2002: 429)であったと述べられ

る所以なのだ。

横一列に並べられたテーブルの中央に陣取るフェルディナントの姿勢、両方に広げておかれ

た左右の手、テーブルについた仲間たちの顔つきなどといったすべてが、「自分が完全には把

握できないでいるなにか」を「グロテスクな、悪夢さながらの様態で」思い起こさせる。フェ

ルディナントの髪のうえにタバコの煙が「光背」のように浮かんでいたという描写から見ても、

語り手が連想させられたものがレオナルド・ダ・ヴィンチの『 後の晩餐』(サンタ・マリア・

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デッレ・グラツィエ修道院食堂の壁画)41)であったと推定することは妥当であろう。有名な絵

とよく似た構図が、図らずも活人画として再現されたわけである。

「フィアルタの春」のうちに背信と救済の主題を見て取る読みかた 42)にしたがうならば、『

後の晩餐』のパロディをとおして聖餐式(カトリック用語でいえば聖体拝領)がほのめかされ

るのは無意味ではないと考えられるに違いない。そしてその絵にたいする言及は、物語の後半

においてニーナが取る食事が、彼女にとって 後のものとなることをあらかじめ暗示するもの

であったという関連性を有するものであることになる。そこまでいわないにしても、この作品

のうちに、四旬節という季節の設定、土産物屋で売られている磔刑像などをはじめとして、キ

リスト教にかかわる語彙、イメージ、モティーフなどがしばしば現われていることは強調する

におよばない。

その系列に属すもののひとつは、ホテルのヴェランダでイングランド人男性が注文した「明

るい深紅の飲み物」(Nabokov 2002: 426)であろう。それを見たフェルディナントは、給仕に

同じ飲み物を注文するが、「あの鳩の血を少し」(Nabokov 2002: 427)43)といったために、他

の客のまえにおかれたグラスを「長い爪の生えた」指でさし示すまでは理解されない。この飲

み物がワインであったと推測することは無理ではないだろう。遊び半分の、安直な態度は、フ

ェルディナントがフィアルタで買った品物──棒状のキャンディ、聖ゲオルギオス山の形状を

模した、インク壺とペン入れのついた大理石製の「ぞっとするような」置物(Nabokov 2002: 423)44)──と軌を一にして、この人物の軽佻浮薄さに似つかわしいものといえる。

キャンディを見ず知らずの少女に与えたり、聖ゲオルギオス山の形をした置物を通りすがり

のカフェ 45)の手摺り 46)に放置したりする(Nabokov 2002: 428)ように、フェルディナントのふ

るまいかたが、常時、徹底して投げやりであることはまちがいない。しかしながら、ワインを

さして「鳩の血」と呼ぶのは、投げやりというだけではすまないだろう。ただたんに安っぽい、

俗悪なものにたいする趣味の現われというだけにとどまらず、(見かたによれば)冒瀆的であ

ると称することもできるものと思われる。

本人にはとくに深い意図などなかったと察せられるとはいえ、本来、四旬節には飲酒その他

の享楽を慎むべきだとされていたことを鑑みるならば、フェルディナントの言動はよりいっそ

う冒瀆的な性格を帯びていたことになるはずである。さらに、そのことを敷衍して、振り返っ

てみるならば、モンパルナスのカフェでたまたまかたちづくられた『 後の晩餐』の活人画も

同じくらい冒瀆的なもの──語り手にいわせるならば、「彼[フェルディナント]の藝術その

ものの本質に引けを取らないぐらい冒瀆的なもの」──であったということができるかもしれ

ない。それを冒瀆と称することが極言にすぎるとしても、少なくともそこに神聖なものの世俗

化という意味合いが附随せざるを得ないことだけはたしかであろう。

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4. ヨーロッパ的なものとロシア的なもの

語り手がはじめてフェルディナントと直接知り合う機会を得た、ニーナに案内されていった

カフェ──独特の滑稽味を好むフェルディナントにとって、悪意に満ちた楽しみを与えてくれ

た「完璧にブルジョワ的な施設」(Nabokov 2002: 421)──では、女性だけのオーケストラが

演奏し、一曲の演奏が終わるたびに、フェルディナントが癲癇の発作でも起こしたかのように

喝采していた。その場で彼を囲んでいたのは、自分の禿頭をかならず絵のなかに描く画家、「人

間の堕落」の物語を「五本のマッチ」で表現する詩人、「シュルレアリスト」の事業に出資し

ている地味な実業家、ぞっとさせられるような「指の表情」(Nabokov 2002: 422)が印象的な

ピアニスト、モスクワから到着したばかりで、自分がどんな連中と同席しているのかまったく

飲みこめずにいる、「気取ってはいても言語の面では無能な」ソヴィエトの作家といった奇態

な面々であった。

英語版においては、フェルディナントを一座の中心として仰ぐ顔触れのなかから、ロシア語

版にはあった「男色家」(педераст)が省略され、その代わりとして、愛人としている女優を

礼讃する一節が片隅にでもあれば、喜んで前衛的な出版物の後援を(アペリティフつきで)申

し出ようとする実業家が付け加えられている。また、ロシア語版においては「ボウリング用の

ボールをかかえたサロメ」(Саломея с кегельным шаром)であった、球状の物体を

偏愛する禿頭の画家の画題とされたものが、英語版においては「眼球とギター」に変えられて

いる。ジョン・バート・フォスター・ジュニアのように 47)、このような絵のモティーフをキュ

ビスム特有のものと断定する向きもあろうが、かりにそのような断定に躊躇を覚えるとしても、

「フィアルタの春」の英語版においては、ロシア語版にくらべて、(サロメのような世紀転換

期的な主題ではなく)シュルレアリスムをはじめとするフランス現代美術の 尖端がより明確

に意識されていることは否定できない。

物語の後半部において、フェルディナントによって戯画的に表象されているような現代ヨー

ロッパの知識人たちの軽薄きわまりない傾向が再説される箇所(フィアルタにおけるフェルデ

ィナントたちとの会話 48)の前置きにあたるところ)では、政治的な急進主義と一体のものであ

ることを気取った、いわゆるアヴァン・ギャルド──語り手によれば、政治と接触するとき、

藝術は「イデオロギー的な駄弁」(Nabokov 2002: 427)に等しい水準にまで下落してしまうと

される 49)──が、唾棄すべきものとして糾弾される。

英語版では、ロシア語版にはなかった「古びた汚物入れに意識の流れの細波、少しばかりの

健全な猥談、少量の共産主義を加えれば、錬金術的に、自動的に超モダンな文学が生み出され

るという独り善がりの信念」という一節が挿入され、二十世紀藝術の革新とされるもの本質が、

じつはたんなる堕落にすぎないものとして剔抉されるとともに、それに対立する語り手の、と

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178 回想と解離──ヴラジーミル・ナボコフの「フィアルタの春」:鈴木 聡

いうよりも「フィアルタの春」というテクストの美的立脚点(あるいは旗幟)が鮮明化されて

いるように思われる。

しかしながら、もし自分が作家であったなら、想像力ではなく記憶をよりどころとするだろ

うと主張している語り手は、じっさいにはプルースト的な美学あるいは詩学の実践を志してい

るわけではない 50)。どれほど彼がフェルディナントやその同類たちに反感を覚えようとも、そ

の立場は、あくまでも暗黙の批判者としてのそれにとどまっているのである。そのいっぽうで

語り手は、フェルディナントと同様の感性を発揮する場合もある。老人の装身具に目敏いフェ

ルディナントが、モンパルナスのカフェで、「フランス人のある者がなんらかの理由でよくそ

うするように、小さな赤いリボンかなにかを上着の襟につけた」(Nabokov 2002: 422)初老の

客を見るように仲間たちの注意をうながしたという余談めいた挿話を見てみよう。

いつもながらのフェルディナントのふるまいとして見れば、堅苦しい権威主義や伝統主義に

たいする嘲弄が意図されていたことは明らかである。だが、この箇所で語り手は、くだんの人

物の襟に飾られていたものがたんなるリボンではなく、勲章であった──赤いリボンは、レジ

オン・ドヌール勲章などの徽章を吊りさげるために用いられる附属品である──ということを

見過ごしているか、気づいているのにあえて黙殺している。そして、そのことによって彼は、

自分自身も、陳腐なもの、凡庸なもの、形式ばったものをひたすら笑いの種にしようとするフ

ェルディナントの趣味に結果的に追随してしまっている恰好になるのだ。

語り手がフェルディナントの作風の特徴と称している悪意や意地悪さも、語り手自身と無縁

のものでないことははっきりしている。フェルディナントの戯曲(「数人の俗物」[Nabokov 2002:

427]を例外としてだれからも理解されなかった)の上演が失敗に終わったことについて、内心

快哉を叫んでいた語り手は、自分が優位に立てることを確信しつつ、その話題をもち出すので

ある。自分自身が読んだこともない作品について、その「批評」を云々するというのはいかに

も無責任だが、少なくとも人間性という点にかんしていうかぎり、語り手がフェルディナント

と極端に異なっているわけではないことは認めておいてよいようだ。

詰まるところ、語り手とフェルディナントのあいだには明確な対立といえるほどのものはな

いことになる。だいたいにおいて、フェルディナントのほうは、語り手のような反撥や敵愾心

を胸中にいだいていたようには見えないのだ。対立までにはいたらない対照性がかりにあるの

だとしても、それは、ニーナの愛をめぐるものでなければ、藝術理論をめぐるものでもないし、

性格や人生観に起因するものでもない。おそらくそれは、根柢にある教養、文化的背景、生ま

れ育った環境、広い意味でいう風土に関連したものなのだ。

銘記しておいてよいのは、ニーナという「小柄な、色の黒い女性」(Nabokov 2002: 423)が

自分にとってどのような存在であるかを自問するとき、語り手が、彼女の「ほっそりとした肩」

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 179

とともに「抒情的な四肢」51)を思い浮かべていることである。ロシア語版のこの箇所にあって

は「プーシキンの脚」(пушкинскими ножками)という表現が用いられているように、語

り手の念頭にあるものが、アレクサーンドル・プーシキンの韻文小説『エヴゲーニイ・オネー

ギン』(1825‐1832年、1833年)の第一章第三十‐三十四聯 52)で讃美されている

女性の足であることは明らかだ。すなわち、ニーナの魅力に言及するとき、「踵」(Nabokov 2002:

418, 424, 428)、「足」(Nabokov 2002: 418, 429)、「踝」(Nabokov 2002: 419, 424)などが

盛んに引き合いに出されるのは、一貫した引喩の系列を念頭においたうえでのことであったと

推量し得るのである。

そのこともひとつの証左となるように、語り手は、フェルディナントとその取り巻きたちに

代表されるようなモダニズム以降のヨーロッパの風潮と一線を劃す、みずからの出自たる別個

の文化的、文学的伝統に自負をいだいている。それとともに、失われた祖国にたいする思慕の

情あるいは愛惜の念は、ニーナというひとりの女性に集約され、置き換えられる。フェルディ

ナントが権威や因襲の嘲笑、神聖なものの世俗化を戦略的に選び取っているのとは逆に、語り

手のほうは、実在する女性の理念化に自己の同一性を賭しているというこができるだろう。そ

の意味からいえば、彼が愛したものは現実の女性ではない。そのため、語り手がはじめて(

後に)ニーナに「愛している」と告白しようとする場面はいかにも唐突であり、ニーナが示す

硬直した反応にもたんなる戸惑い以上のものが窺えるようだ(Nabokov 2002: 429)。だが、そ

れゆえにこそ、その場面はさらにいっそう悲痛なものとなっているのである。

マクシム・D・シュレイアーのように、「フィアルタの春」とチェーホフの「犬を連れた奥

さん」のあいだに共通した十のモティーフ 53)──「憐憫」、「退屈」、「宿命」、「階段」、

「湿り気/花」、「北方」、「インク壺」、「ポスター」(チェーホフの場合は『ゲイシャ』

という芝居の広告看板)、 「ライラック色」54)、「肉体的な温かさ」──を見いだし、ナボコ

フの短篇小説がチェーホフの短篇小説を意識的に踏襲したものである可能性を指摘する論者も

いるが、すでに示唆しておいたとおり、両者の設定ならびに主題の相違は看過しがたい 55)。プ

ーシキンにせよチェーホフにせよ、過去のロシア文学がナボコフに与えたものはあくまでも準

拠枠であり、その枠組みを利用しつつ、憧憬の対象をひとりの女性というよりも、その女性に

よって喚起される(たとえば「温かさ」のような)漠然とした価値へと敷衍することに作者の

真の狙いがあると見るべきであろう。ニーナによって体現される「温かさ」が、語り手の郷愁

と抜きがたく結びついていることも指摘しておかなければならない。

語り手がフィアルタの春の空気に嗅ぎ取るものは、「かすかな焦げ臭さ」(Nabokov 2002: 413)

である。その焦げ臭さは、「私のタタール人としての記憶」(Nabokov 2002: 417)を掻き立て

るものであり、以前、ニーナとパリで会ったとき、耳にはいっただれかの会話の断片──「変

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な話だが、ああいう痩せた、髪の黒い女はみな、どんな香水を使おうと、それをとおして、同

じ、焦げた葉っぱの匂いがする」(Nabokov 2002: 428)──とつながってくるものでもある。

このようにして、フィアルタと痩せた女性(ニーナ)、そして故国の思い出は一体のものとな

っていると見ることができるだろう。

とはいいながら、フィアルタの春の一日が語り手のうちに呼び醒ました昂揚は儚いものに終

わらざるを得ない。愛の告白を断念した語り手は、車が停まっているホテルのまえまでニーナ

を送ろうとする直前に、突然、彼女が(「可憐な、暗い色をした、無私の香りを放つ」[Nabokov

2002: 429])菫の花束を手にしているさまを幻視する 56)。そのとき語り手は、それまで自分が

「理解しないままに眼にしてきたなにか」を突然理解するのだった。

通りに落ちていた「銀紙」(Nabokov 2002: 423)が煌めいていたこと、イングランド人男性

のまえにあったグラスがテーブルクロスに投げかけた「楕円形の照り返し」(Nabokov 2002:

426)が揺れていたこと、灰色の海に「銀色の襞」(Nabokov 2002: 429)が生じ、きらきら光

っていたことには理由があったのだ。「フィアルタの上空の白い空」に日の光が染みこみはじ

めていた。フィアルタの町が語り手に好ましいものとして感じられる条件は長続きすることが

ない。語り手に充足感を与えた、靄に閉ざされた一日は終わろうとしていた。その後間もなく、

語り手はニーナの死を新聞の記事で知る。ニーナが「結局、死すべき定めだった」にされるの

は、故人を思いやる感慨などではなく、フィアルタの曇り空が晴れ渡ることと同様、みずから

の願望の儚さを語り手自身が痛感したという意味にほかならないのである。

1) “Spring in Fialta.” 本論文中における議論は、下記の版に依拠している(引用箇所は括弧内のページ番号によ

って示すこととする)。Vladimir Nabokov, The Stories of Vladimir Nabokov (1995; New York: Vintage International, 2002). ロシア語原文については、電子テクスト(http://lib.ru/NABOKOW/ に収録されてい

るもの)を参照した。 2) ナボコフのロシア語作品集としては、『チョールブの帰還』(1929年)、『目』(1938年)に続く

三冊めで、 後の集成ということになる。この短篇小説集はニュー・ヨークのチェーホフ出版社から刊行さ

れた。 3) Cf. Karlinsky 2001: 63, 69, 72. 4) Vladimir Nabokov, Nine Stories (New York: New Directions,1947). Direction と銘打たれたシリーズの第二巻

として出版されたもの。九篇のうち、パーツォフとの共訳による「オーレリアン」、「雲、城、湖」、「フ

ィアルタの春」がロシア語原文からの翻訳であり、「マドモワゼル・O」はフランス語原文からの翻訳(ヒ

ルダ・ウォードとの共訳)、残りはアメリカ移住後に英語で書かれた作品である(「忘れられた詩人」、「ア

シスタント・プロデューサー」、「かつてアレッポで……」、「時間と引き潮」、「二重語法」[別題「団

欒図、1945年」])。 5) Vladimir Nabokov, Nabokov’s Dozen (Garden City, New York: Doubleday & Company, 1958). 『九篇の短篇小

説』に「初恋」(別題「コレット」)、「暗号と象徴」、「怪物双生児の生涯の数場面」、「ランス」を加

えたもの。各短篇小説の掲載順序には変動があり、以前は三番めにおかれていた「フィアルタの春」が冒頭

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 181

を飾っている。この作品集以降、ナボコフの短篇小説集は、(『ナボコフの四重奏』[1966年。Nabokov’s Quartet (New York: Phaedra, 1966) ]などを例外として)十三篇で構成されるのが通例となった(『ロシア

美人とその他の短篇小説』[1973年。Russian Beauty and Other Stories (New York, Toronto: McGraw-Hill Co, 1973)]、『独裁者殺しとその他の短篇小説』[1975年。Tyrants Destroyed and Other Stories (New York, Toronto: McGraw-Hill Co, 1975)]、『ある日没の細部とその他の短篇小説』[1976年。Details of a Sunset and Other Stories (New York, Toronto: McGraw-Hill Co, 1976)])。

6) ロシア語版にはなく、英語版で書き加えられた。. 7) ヴァシーリイの愛称である。英語版ではヴィクターに変更されている。 8) Cf. Shrayer 1999: 207-37; de Vries and Johnson 2006: 91-97. 9) ロシア語版にはない。カッパラベッラは、聖ゲオルギオスの出生地だとする伝承のあるカッパドキアを捩っ

たものと考えられる。Cf. de Vries and Johnson 2006: 96. 10) Cf. Boyd 1990: 426. 11) そのときの回想を記したナボコフの自叙伝(Vladimir Nabokov, Speak, Memory: An Autobiography Revisited

[1967; New York: Vintage International, 1989])第一章によれば、フィウーメのとあるカフェで偶然「ふたり

の日本人士官」に気づいたナボコフの父は、即座に席を立ったという(Nabokov 1989: 26)。Cf. Boyd 1990: 51-52.

12) ニーナが土産物をさがす商店の店主をさしているが、ロシア語版にはない。 13) イースター前日まで(1932年だとすれば三月二十六日土曜日まで)の四十日間(日曜日を加えれば四十

六日間)をさす。ロシア語版には「四旬節」という語はないが、店の陳列窓に飾られた「珊瑚でできた磔刑

像」(英語版にも見られる[Nabokov 2002:413])が間接的に季節を暗示していると考えることもできる。 14) 「菫」と解釈することも可能である。 15) ロシア語版には「小さな」にあたる形容詞がない。 16) Cf. Ronen 2003: 178. ローネンは、フィアルタのうちに合体しているのはフィウーメとリアルト(リグーリ

ア海岸に位置する村)であると考えている。 17) ロシア語版では「眼のように見開いて」(раскрываюсь, как глаз)という表現が用いられている。 18) ロシア語版では「夢のなかのように」(как сквозь сон)という表現が用いられている。 19) ロシア語版には「リヴィエラ」という語はなく、「特等席」(бельэтаже)という表現が用いられている。 20) ロシア語版ではこの表現は第二段落ではなく第一段落に含まれる。 21) ロシア語版にはなく、英語版で書き加えられた。 22) ロシア語版では「ミラノ」となっている箇所である。“Mlech” は、クロアチア語でヴェネツィアならびにヴ

ェネツィア市民をさす語(Mleci, Mletci)からきているものと察せられる。Cf. Shrayer 1999: 209, 349 n. 55. 23) アンティ・アールネとスティス・シンプソンによる民話の分類にしたがうならば、「三個のオレンジ」は4

08番の類型にあたる。<http://oaks.nvg.org/folktale-types.html> 24) ロシア語版では「ピレネー地方の町」(пиренейский городок)。 25) ロシア語版はたんに舌で唇を舐めたように書かれていただけなのだが、英語版では、薬局の陳列窓で乾きき

って死にかけている海綿を眼にしたことによる条件反射のように書き加えられている。 26) このような鱗翅類にたいする興味を念頭におくならば、このイングランド人男性を作品内における作者の具

現化と解釈する読みかたもさほど奇矯なものではないということになるかもしれない。Cf. Fowler 1982: 71-72.

27) ロシア語版では「アクアマリン色の眼」(аквамариновым глазом)であったものが、英語版では「青い

眼」に変えられている。 28) ロシア語版では場所がたしかパリであったことだけは思い出せるという違いがある。 29) ふたつの場面でニーナが口にする言葉も同一である(「まあ、だれかと思えば……」)。ロシア語版では「ま

さか!」(Нет!)となっている。 30) ロシア語版では「エレーナ・コンスタンチーノヴナ」。エレーナという第一名は、ナボコフの母と共通して

いる。 31) ロシア語版では「ヴィーン」。

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32) ロシア語版にはなく、英語版で書き加えられた。 33) その人物は、「ヴェルヴェットを思わせるバリトン」の声をもつ近衛兵であった(Nabokov 2002: 415)。 34) 語り手は、見ず知らずの人びとのなかでも自分よりニーナと親しいあいだがらにあるのはだれか本能的に察

知することができるし(Nabokov 2002: 418)、フェルディナントの取り巻きのうち二、三人はニーナと関係

があったに違いないと考える(Nabokov 2002: 422)。 35) フィアルタの街路を散策するとき、語り手は、フェルディナントとセギュールが郵便局に立ち寄ると、ただ

ちにニーナをそこから遠ざけ、ふたりきりになろうとする(Nabokov 2002: 423)。 36) ロシア語版にある「性生活の点で」(в плотском быту)という語句が英語版では省略されている。 37) 語り手が思い浮かべるニーナの典型的な姿とは、トマス・クック旅行社のカウンターで受付係といっしょに

「永遠の寝台車」の計画を練っているというものであった。「彼女はいつだってちょうど到着したばかりか、

出発しようとしているところだった。」(Nabokov 2002: 417) 38) 語り手の言によれば、ニーナと夫は「愛よりも強いなにか」、「ふたりの受刑者のあいだの堅固な友情」で

繋がれていたとされる(Nabokov 2002: 425)。 39) すでに指摘しておいたとおり、ニーナとフェルディナントの結婚こそは、語り手がニーナのことを忘れがた

い女性として意識するようになってゆくきっかけとなっている。 40) ニーナの夫としてばかりでなく、映画の原作者としてその短篇小説のなかでも比較的「理解しやすい」作品

の映画化権をめぐる交渉を行なう機会があったと思われるが、くわしい事情は説明されていない(Nabokov 2002: 422)。

41) Cf. Foster 1993: 144; de Vries and Johnson 2006: 93. 『 後の晩餐』のことは、『ベンド・シニスター』(Vladimir Nabokov, Bend Sinister [1947; New York: Vintage International, 1990])のなかでも言及されている(Nabokov 1990: 23.)。

42) Cf. de Vries and Johnson 2006: 91. 43) 「鳩の血」とは、ミャンマー産の高品質ルビーをさす呼び名でもある。 44) 作品の冒頭で語り手が言及した、同じ山の写っている絵葉書と対応するものでもある。 45) 語り手は、ニーナに再会する少しまえに、そのカフェの濡れそぼったテーブルの上板をウェイターが拭いて

いるところを眼にしていた(Nabokov 2002: 414)。 46) それは、フェルディナントが「地元名産の」キャンディを買った行商人(「憂鬱そうな山賊」)が籠をおい

ていたのと同じ場所である(Nabokov 2002: 414)。 47) Foster 1993: 144. 48) 語り手は、評判の悪かったフェルディナントの戯曲にたいする「批評」のことを話題にしようとする

(Nabokov 2002: 427)。 49) ただし、フェルディナントの場合は、「野蛮なモスクワ」に眼を向けたといっても上辺だけのことで、「弱

者の窮状」などいささかも気にとめていなかったと語り手はいう。 50) それとは別問題として、テクストとしての「フィアルタの春」にはプルーストと比較し得る側面があると論

じることは可能であろう。Cf. Foster 1993: 142-43. 51) 英語版では、ニーナに「プラトニック」に焦がれていた「上品ぶった亡命詩人」の言葉の引用とされている。 52) 『エヴゲーニイ・オネーギン』の翻訳と註釈という畢生の事業(Aleksandr Pushkin, Eugene Onegin: A Novel

in Verse by Aleksandr Pushkin. Translated from the Russian with a Commentary by Vladimi Nabokov, Vols. I (Intoroduction - Translation) and II (Commentary - Index) [1964, 1965; Revised Edition. Princeton, New Jersey: Princeton University Press, 1981])にあたり、ナボコフがこの箇所に付した一連の註は全篇のなかでもとり

わけ力のこもったものである(Pushkin 1981 [Vol. II]: 115-42)。 53) Shrayer 1999: 214-15. 54) 「フィアルタの春」にかんしていえば、ロシア語版のみに見られる表現であり、英語版では「アクアマリン」

などと同様、「青」に統一されている。 55) 同様に、トーマス・マンの中篇小説『ヴェネツィアに死す』(1912年)と「フィアルタの春」を比較す

る場合にも、緯度と経度がほぼ同じ地域の気候という以上の共通性は認めがたいものと思われる。Cf. Foster 1993: 141.

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東京外国語大学論集第 83 号(2011) 183

56) パリ行きの列車に乗るまえ、ニーナが花束をもっていたこととも照応しているようである。

参考文献

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Recollections and Dissociations in Vladimir Nabokov’s “Spring in Fialta”

SUZUKI Akira

Vladimir Nabokov’s “Spring in Fialta” (1936) is a short story originally written in Russian,

first published in the Russian émigré review Sovremennye Zapiski. The English translation of the

story was performed by Nabokov in collaboration with Peter Pertzov and published in Harper’s

Bazaar (May, 1947). It was included in Nine Stories (1947), the author’s first English-language

collection of short stories, and subsequently in its expanded version, Nabokov’s Dozen (1958).

Apparently, “Spring in Fialta” seems to be a story focusing on recollections of a series of past

events concerning a woman named Nina through the view point of the narrator who is called

Vasen’ka (Vasily) in the Russian version and Victor in the English version, but accurately

speaking, the story is an amalgamation of two story lines, flashbacks interlacing the past and

present: a spring day in the early 1930s in which the narrator’s last encounter with Nina took

place and the fragmentary recounting of random meetings between them over fifteen years.

In fact, as the coexistence of two tenses in “Spring in Fialta” testifies─although the first

paragraph is written in the present tense, after the second paragraph we see the most part of the

story is written in the past tense─amalgamation or incorporation functions in multiple layers of

the text of “Spring in Fialta”; the fictional place-name, Fialta, itself is a compound of two resorts,

Fiume in the Istrian peninsula and Yalta in the Crimean peninsula, echoing the Russian word for

violet (fialka).

The text (or the narrator) is highly conscious of the relationship and distance (or difference)

between two things─“. . . the blurred Mount St George is more than ever remote from its

likeness on the picture postcards which since 1910, say (those straw hats, those youthful cabmen),

have been courting the tourist from the sorry-go-round of their prop.” The same kind of

consciousness might be shared by the reader, who can find in “Spring in Fialta” two seemingly

similar, but actually very different stories: the narrative by the narrator and text itself totally

controlled by the author.

Differentiated and distanced from the real content of the text, the narrator could never

understand the meaning of “a faint tang of burning” in the first paragraph and the reason why one

of “three oranges” a male infant carries must fall, nor he could have an insight into the

dissociation of the clandestine affair he imagined between him and Nina from their actual

relationship and the nature of his love for the woman, which displaces his nostalgia for the fatally

and irredeemably lost homeland.