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ディープ

ロバート・ブライとエズラ・パウンドの「深層イメージ」

東  雄一郎

  鳥がくちばしをつけて水を飲む

  ここには国家が与えることのできない光景がある

  私たちが渇望するのはアオサギだ、

  それに湖だ、水面に触れる鳥のくちばしだ   |ロバート・ブライ

      (『二つの世界に住む女性への愛』所収、「水を飲むアオサギ」)

  私生活が終わりを告げ始めると

  なんと世界は美しく輝くのだろう 以前には知らなかった世界だ   |ブライ

      (『ベッドから飛び起きて』所収、「秋月のように私は生きる」)

  霧 対岸には誰もいない

  この目の前の木には意識があるのだろう

  この木のせいだ こうして私が泣きたくなるのは   |ブライ

      (『ベッドから飛び起きて』所収、「ある十一月の私生活の詩」)

  なんと悲惨な対照があるのか、子どもの輝く知力と、平均的な大人の脆弱な精神

  との間には。   |フロイト

      (ブライの『体を包む光』のエピグラフより)

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  ビロードの緑をつけた「美しい腰の、田園のわざに通じた女」

       「みずみずしい春、ああ 妙なるみずみずしい春」

  春は夏へもちこされ

       晩春は葉がしげる秋のなかへもちこされる   |エズラ・パウンド

          (『キャントーズ』、第三十九篇)

          

          

          

          

          一

                  

 ロバート・ブライは、一九六三年の『チョイス』(C

hoice

)誌に掲載した「アメリカ詩の間違った転換」の中で、そ

れまでの「アメリカの詩は本質的に無意識の領域を持たない詩だった」と述べ、外面的・表層的なイメージに執着して

いた在来のアングロ・アメリカン・モダニストたちの詩芸術を攻撃した。過去の伝統や因習の「重苦しい暗がり」(heavy

shades

)とその閉塞感の中で「何らかの足場を明らかにする」(clear som

e ground

)ことを絶えず意識し、これを実践し

なければならない、とブライは後輩詩人たちに助言するが、一九六〇年代当時のブライは、それまでのモダニストたち

の詩が「感情的な貧血症」に陥った詩、「大いなる霊的な活力」(great spiritual energy

を持たない詩、現実世界から「跳

躍」(leaping

)できない詩、「意識と無意識の両者が創りだすイメージ」に欠ける詩であることを、実感していた。ブラ

イの特徴を遺憾なく発揮している詩集は、一九六二年に刊行された『雪の野原の静けさ』(Silence in the Snow

y Fields

であり、そこに収録された作品はどれも一種「私小説」的なものでありながらも、個人の特殊な領域や生活を超えた、

自己超越的な精神の覚醒の瞬間を捉えている。このブライの詩の特徴に関して、ロバート・ケリーは「深層イメージ」

(deep image

の用語を充てたが、ブライ自身はドナルド・ホールが言う「深層の精神・記憶」(deep m

ind

)の用語の方

を好んでいる。

 ブライの多くの詩に見られる自己超越の瞬間へ向かう内的・精神的・直観的な旅のモチーフは、言うまでもなく、十

九世紀のエマスン、ソロー、ホイットマンの超越主義の系譜にある。例えば、一九七三年に刊行された詩集『ベッドか

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ら飛び起きて』(Jum

ping out of Bed

所収の「無為の詩」(A

Doing N

othing Poem

からの次の一節はホイットマンの『草

の葉』所収の「私身の歌」(特に第二十七節)に酷似した内容となっている。

  午後じゅうずっと裸足で

  歩きまわったあと 掘っ建て小屋の中で

  わたしはまるでウミウシのように

  長く伸びて透明になった

  ウミウシは無為に日を送ってきた

  一万八千年ものあいだ       (「無為の詩」)

ウミウシは巻き貝の仲間だが、ナメクジ状で殻を持たず、頭部に翼状またはむち状の一対の触角があり、その色や模様

は美しく発光するものもあり、沿岸で海藻などを食べて生息する三から十五センチくらいの軟体動物である。この小冊

の詩集『ベッドから飛び起きて』には二十枚ほどの素朴で味わい深い版画が挿入されており、旧約聖書の一節を改訂し

た「我は裸にて母の胎内より生まれ/また裸にて戻る/母が我を与え、そして我を奪う/我は母を愛す」のエピグラフ

に加え、老子が書いたとされる韻文体の哲学書『道徳経』からの一節「私の周りの者たちは誰もが働いている/だが

私は頑固で、その仲間には加わらない/ここが違っている/私が称賛するのは母の乳房だ」がエピグラフとして使われ

ている。ホイットマンの「私自身の歌」は、その第一節において先ず「私は悠然とさまよい私の魂を招き入れる/私は

ゆったりと寄りかかり、または歩きまわり、鋭く尖った夏草の穂先を眺める」と歌いだされ、第二十七節において、「何

らかの形を持つこと、それが一体どれほどの意味を持つのか/(巡りめぐって私たちは、誰もが堂々巡りを繰り返し、

最後はいつもこの問いかけへ帰ってくる)/これ以上に発展した形のものが何一つなくても、硬くて厚い殻を持つホン

ビノスガイが最高の形でも、それで充分なのだ」と歌われる。

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 ブライの「ウミウシ」(seaslug

)は、ホイットマンの「ホンビノスガイ」(quahaung

の「硬くて厚い殻」(callous shell

も持たず、進化から置き去りにされた存在である。この「ウミウシ」には野心も野望もない。しかし詩人は、この「ウ

ミウシ」の異常なまでに原始的な姿とその「無為」に歓びを感じている。裸足で歩きまわった詩人も殻を持たない自然

な「ウミウシ」と同じなのだ。そしてホイットマンも、無感覚で「硬くて厚い殻を持つホンビノスガイが最高の形で

も、それで充分なのだ」と言う。この両者は共に「私の魂を招き入れる」場である無為の逍遙の重要性を認識してい

る。『ベッドから飛び起きて』のエピグラフにおける「母」の代替物は自然・大地である。ホイットマンは『草の葉』

の「初版の序文」の中で、「芸術を創造する秘訣」は「単純さであり、単純さに勝るものはない」と断言し、同じく、

自己の内部に「至高者」を意識する偉大な詩人とは「個性的な文体の持ち主を言うのではなく、むしろ思想や物象を、

ほんのわずかな増減さえも与えずに、元の形のままで通過させる水路、自分の思いのままに通過させる水路である」、

と述べている。ブライの詩は原始の自然や大地の「単純さ」や「静けさ」との霊的な交感の内から生まれる。ホイット

マンと同じく、ブライもまた「〈自然〉が拘束を受けずに本来の活力のままに語ること」を認める詩人である。

 この両者に共通する「芸術を創造する秘訣」はエマスンが「自然論」(一八三六)で説く「偉大なものを卑小にし、

小さなものを拡大できる能力」にある。さらに、「自然論」の扉となる次の詩の一節はホイットマンとブライの創造的

な秘訣を端的に物語っている。「無尽蔵の輪」とその「微妙な連鎖」はすべての対立を止揚し、すべての力を包容する。

  無尽蔵の輪の微妙な連鎖が

  もっとも卑近なものをもっとも遙かなものに結びつける

  眼はあらゆるところに兆しを読み取り

  あらゆる言葉を薔薇は語る

繰り返すまでなく、言葉は自然の事実を示す記号であり、特定の自然の事実は特定の精神の事実を表す象徴であり、

自然は精神の象徴なのである。ブライの多くの詩には自然の中に生きる動物たちが頻繁に登場する。

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 ブライの「眼」は人間とは別の次元世界に生きる動物たちの不可思議さや神秘性を捉え、その「兆し」を読み取る。

その代表的な詩集は一九六七年に刊行された『カモ』(D

ucks

)と七七年の『アビ』(Loon

)である。後者の表題詩の

一節を次に挙げよう。

  遙か遠くの草木のはえていない湖の中央から

  一羽のアビの鳴き声が聞こえてきた

  それは殆ど何も持たない者の絶叫だった

遠く冬枯れの湖の中央から「一羽のアビの鳴き声」が聞こえてくる。この詩は深い寂寥感を醸成する。突然、湖を渡っ

て聞こえてくる鋭い「アビの鳴き声」から詩人は、前述した「我は裸にて母の胎内より生まれ/また裸にて戻る」とい

う実存の根本的な本質を認識する。つまり、詩人は「硬くて厚い殻」を持たないむき身の「ウミウシ」の生の歓びを、

この「アビの鳴き声」の中にも直観しているのである。勿論、その歓びは人間の営為や人工的な文明とは遠く隔たった

ところに存在し、この「アビの鳴き声」という特定の自然の事実は詩人の特定の精神の事実を表す象徴となっている。

「それは殆ど何も持たない者の絶叫だった」。詩人は、表層の意識が支配する精神の小部屋に暮らす人間には感知できな

い隠された意味を、この「アビの鳴き声」の中に感知する。

 このブライの「裸」と「中央」(the center of the naked lake

の認識は、ソローの『森の生活』(一八五四)の「野性

の隣人たち」(Brute N

eighbors

)の中に回想するアビ狩りの体験における認識と類似している。秋になると例年のよう

にアビが飛来し、湖で羽毛を脱ぎ捨て、水を浴び、早朝にその野性的な笑い声を森じゅうに響きわたらせる。ミル・

ダムの狩猟家連中が馬車や徒歩で森にやってくる。だが、十月になると恵みの風が吹き、木の葉をざわつかせ、湖面に

さざ波を立てるので、アビの声はまったく聞こえなくなり、姿も見えなくなってしまう。幸運にもアビに出くわし、

ボートで追いつくが、アビは水に潜ったまま姿をくらまし、その日の夕方まで見つけだせないこともある。アビは最深

の湖底に達することができる程の潜水時間と潜水能力を持ち、水中でも水面と同じくらい正確に進路を取ることができ

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る。アビは消える。突然、相手の駒がチェッカー盤の下に消えてしまうように。その駒が再び現れそうな場所のできる

だけ近くに、こちらの駒を置くしか手だてはないが、それが極めて難しい。水面のある方向を見つめていると、急に背

後で、ぞっとするようなアビの笑い声がして肝を潰すこともある。水面に出てきても、胸毛には乱れもなく、水面下で

脚を盛んに動かしながら、アビは悠然と泳ぎ去る。

 遙か彼方に現れるアビはオオカミに似た遠吠えをあげ、その声は広く森にこだまする。その長く尾を引く遠吠えは

アビの神に救いを求め声のようだ。すると、たちまち東風が起こり、水面が波立ち、あたりには霧雨が立ちこめる。不

思議なことに、アビの神が怒っているような気がしてくる。ざわめき立つ水面を遠ざかり消えてゆくアビの姿を見送る

しかない。このように、自然界が人間の魂に語りかけてくる瞬間の内容を、ソローもブライも自分の言葉に移しかえる

ことができる作家である。換言すれば、この両者はホイットマンが言う自己の内部に「至高者」を意識する詩人なの

だ。ブライが攻撃したアングロ・アメリカン・モダニストたちは、「単純さ」の解明ではなく、むしろ実験的で「個性

フォルマリズム

的な文体」の確立に血眼になり、形式主義の罠に陥ってしまった。彼らは等しくさらに「発展した形のもの」を求め、

「ウミウシ」という詩の本体を進化させ、それに「硬くて厚い殻」を被せようとした。

 一九四四年に高校を卒業したブライが初めて購入した詩集は、サンドバーグの『中西部の詩』(Poem

s of the Midwest

とホイットマンの『草の葉』だった。四七から五〇年のハーヴァード大学時代、ブライはジョン・ケレハーの指導と影

響のもとでイエーツとソローの作品を愛読し、ロバート・ローウェルの第二詩集『ウィアリー卿の城』(四六)とリチャー

ド・ウィルバーの『美しいものは変わる、他の詩』(四七)に感銘した。『ウィアリー卿の城』には地獄の恐怖と天国の

至福を説く神学者ジョナサン・エドワーズ(一七〇三|五八)の説教を下敷きに人間の救済を扱う作品「エドワーズ氏

と蜘蛛」や、メルヴィルやソローの作品を援用しながら神、過酷な自然、人間の関係を問い直す戦没者へのエレジー

「ナンタケットのクエーカー墓地」等の宗教的な象徴性と歴史性の色濃い作品が収録されている。ブライは『ウィアリー

卿の城』の全編を暗唱していたと言う。この一方で、ウィルバーの作品は審美性が強い。だが、ローウェルにしても

ウィルバーにしても、その創作の出発点は「新批評派」の中心人物であったジョン・クロー・ランサムの形式主義に

あった。ローウェルは実際ケニヨン・カレッジでランサムに師事し、「新批評派」から多くを吸収した。ウィルバーの

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軽妙なアイロニー、錯綜する感情表現、対立する思考、曖昧なイメージ等の特徴も「新批評派」の血統である。ロー

ウェルは一貫した反戦論者で、一九四三年には良心的徴兵忌避者として投獄され、六七年にはヴェトナム戦争反対の

集会に参加し自作の詩を朗読している。一九六六年、初めてヴェトナム戦争反対の詩の朗読会がブライによってリー

ド・カレッジとワシントン大学において組織された。同年、ブライはデヴィッド・レイと共に「ヴェトナム戦争に反対

するアメリカの作家たち」(A

merican W

riters Against the V

ietnam War

を創設し、詞華集『ヴェトナム戦争に反対する

詩の朗読会』を刊行した。ローウェルやブライとは違い、ウィルバーは詩と政治を切り離す立場を固持し、詩を「純粋

な思考」として保とうとした。ハーヴァード大学時代のブライはウィルバーの『美しいものは変わる、他の詩』を当代

最高の傑作として称賛していた。

 作者の経歴やその時代精神ではなく、作品そのものに密着する読み方を指針とする「新批評派」に大きな影響を与え

たのは、言うまでもなく、詩は情緒の解放ではなく、それからの逃避であるとするエリオットの非個性説(「伝統と個

人の才能」)である。このエリオットの非個性説は、その後の詩人たちが技法的な改革を先行させる結果を招いた。ク

レアンス・ブルックスの『よく作られた壺』(四七)、ウィリアムズが詩を定義した「言葉で作られた機械」、チャール

ズ・オルスンの「開かれた形式」という言葉からも窺い知れるように、新奇さを求める詩人たちは、詩の技法面への強

い執着と秩序意識から逃れられなかった。ローウェルの『ウィアリー卿の城』やウィルバーの『美しいものは変わる、

他の詩』に感銘した若き日のブライもまた「新批評派」の洗礼を間接的に受けてはいたが、彼の「深層イメージ」(「深

層の精神・記憶」)は、アングロ・アメリカン・モダニストたちの浅薄な技術に終わってしまう表層的な連想の詩を拒

んだ。彼の内面的に深い詩の「創造の秘訣」は殻を持たない「ウミウシ」の「単純さ」にあった。技法的な改革を求

めて彼の周りの事大主義者たちは誰もが働いていた。だがブライは頑固で、その仲間には加わらなかった。ここが違っ

ていた。彼が称賛するのは「大いなる霊的な活力」を持つ自然・大地の胸と、その「単純さ」だったのだ。

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          二

 ブライはアングロ・アメリカン・モダニストたちの自我と精神は二つの大きな伝統に支えられていると「アメリカ詩

の間違った転換」の中で指摘しているが、この二枚の「厚くて硬い殻」を打ち砕くことも、「重苦しい暗がり」の中で

「何らかの足場を明らかにする」詩人の責務である。

アメリカの最も強力な伝統はピューリタニズム(所謂この国の宗教的な伝統)と実業(世俗的な伝統)である。ピュー

リタニズムの精神は無意識的なものへの恐怖を示す|つまり、無意識的なものからは醜悪と恐怖のイメージや観念

しか生まれないという信条を表すのである。あらゆる動物の生や生殖が恐怖と侮蔑をもって迎えられる。この恐怖

と侮蔑がエリオットやパウンド、そして新古典主義者たちの詩の中に潜む衝動となっている。この衝動からは、ハー

ト・クレインやセアドー・レトキーの詩は解明できない。            (『アメリカ詩』、二十一ページ)

この引用文はホーソンの「ヤング・グッドマン・ブラウン」の世界をも解説するような一節であるが、ブライの「深層

イメージ」の詩の根底には、ピューリタニズムとプラグマティズム、つまりC

hristian Commercial A

merica

からの強烈

な脱出衝動がある。

 周知の通り、一九一二年から一七年にかけて、十九世紀的な詩に顕著な技法への軽視や詩的価値を詩以外のものに置

く傾向に、反旗を翻したのはイマジズムの詩人たちだった。エリオットは「エズラ・パウンド」(一九四六)の中で当

時を回想して、「パウンドの卓見は、詩は技巧、それも最も忍耐強い研磨と研究を必要とする技巧だと力説した点であ

り、また現代において詩は極めて意識的な技巧でなければならないと看破した点である」と述べている。だが、ブライ

はこの一九一七年当時の詩人たちの「意識的な技巧」、または技法的な改革主義を次のように糾弾している。

これらの二つの系統|ピューリタンの無意識的なものへの恐怖、そして実業の衝動は外面的な処理へと向かい、ア

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メリカ詩の中ではこの両者が協同して無意識なものを追放してしまう。一九一七年の詩人たちは、詩を実業や科学

に適合させようとした。彼らが求めたものは「公式」だった。彼らは自然を効率的に扱おうとしたのだ。まるで技

術者のように「技法」を発展させようとしたのだ。             (『アメリカ詩』、二十一|二ページ)

ブライにとって、パウンドが主導した詩の「意識的な技巧」の研磨は、「大いなる霊的な活力」(または「原始的な力」

= primitive forces

の欠如や、詩における「無意識的もの」(the unconscious

)の追放を誘導するものと映った。

「動物の生や生殖」を「恐怖と侮蔑」の対象とする心理的な傾向は、確かに、エリオットの作品には顕著である。例

えば、一連の「スウィーニー」詩群、『荒地』の「チェスの遊び」におけるナイチンゲール(スラキアの王テレウスに

凌辱されたフィロメーラ姫の化身)の醜悪な「ジャッグ・ジャッグ」の鳴き声、シェイクスピアの『ペリクレス』を下

敷きにした「マリーナ」の「動物の恍惚を受ける者たち、それは死」等が挙げられるだろう。しかし、オヴィディウス

の『転身物語』とオデュッセウスの漂流と航海(「沿岸航海」)を自己の「神話的な構造」とする『キャントーズ』に

は原始アニミズム的な「大いなる霊的な力」を喚起させるイメージが氾濫している。また、『荒地』もクマエの巫女と

ティーレシアスを登場させ、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』とフレイザーの『金枝篇』に支えられ、『転身物語』

の断片を散乱させている。一九二一年、十月三〇日、ジョイスが『ユリシーズ』の最後の文章を完成させると、パウン

ドは、この日を境にキリスト教の時代は終焉したとして、これからは、脱キリスト教の時代であると考えた。『荒地』

の最終第五部「雷神の言葉」を「シャーンティーシャーンティーシャーンティー」(サンスクリットの「平安あれ」の

意)で閉じたエリオットも一九二〇年当時は、キリスト教徒から仏教徒に回心することを真剣に考えていた。しかし、

一九一七年のモダニストまたはイマジストたちは「意識的な技巧」・技法の改革の問題のみに捕らわれていたわけでは

ない。「意識的な技巧」は、当然、詩の機能や性格に関連する問題であり、詩は瓦解した文化の中でどうあるべきか、

また何をなすべきかという意識に基付いていた。

 ブライはエリオット、パウンド、ムア、ウィリアムズたちを「一九一七年の世代」(the generation of 1917

と呼び、

この世代の詩人たちは「内面世界よりも客観的な外面世界を信頼している」(These m

en have more trust in the objective,outer

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10world than in the inner w

orld

)と指摘している。

一例を挙げれば、エリオットが固守する「客観的等価物」という考え方だ。これをエリオットは次のように説明し

ている。「芸術の形式における唯一の感情表現方法は、客観的等価物を発見することによって可能になる。換言すれ

ば、一組の対象物、ある一つの状況、一連の出来事を発見することであり、これらがその特殊な感情の公式となる

のである。」(中略)ここに使われる「公式」という用語は、科学的な見地から事物を研究したいという願望を仄め

かしている。エリオットの本意は、詩の本質は事物だという点にある。まるで科学者のように、彼は事物を一つの

公式の中に配列したいのだ。その目的は統制された実験を際限なく何度も繰り返すことだ。

(『アメリカ詩』、八ページ)

「一九一七世代」以降の新古典主義者たちの詩も「意識的な技巧」を意識するあまり、「未知なる世界への探究」

(explaration into the unknown

、「最も重要な知的な冒険」(an intellectual adventure of the greatest im

portance

、「深い内面

世界に直面する試み」(an attempt to face the deep inw

ardness

をないがしろにしていた。

 先に筆者がその「大いなる霊的な力」に関して弁護をしたパウンドの『キャントーズ』についてもブライは次のよ

うに指弾している。

一九一一年にパウンドは「適切かつ完全な象徴は自然の事物であると確信する」と述べた。パウンドは詩を根本的

に英知を収める容器であると考えている。彼は『キャントーズ』という容器の中へできるだけ多くの重要な思想や

会話や古典の断片を入れたいと思っている。それは、もし人がただ一冊の書物を所有するなら、それは『キャントー

ズ』のほかにはなく、それによって文化は言うまでもなく経済学や政治に関する真理をも人が所有できるためにだ。

パウンドの詩はこうした明らかな趣旨を持ってはいるが、無意識的な世界とは無縁のものなのだ。この無意識的な

世界に代わって、そこにあるのは経済学である。外的な世界の部分間の関連性が、内的な世界の内的な関連性に取っ

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て代わっている。この書物は外的な世界が強要するものを取りあげる。詩としての『キャントーズ』は他の者たち

の多種多様な観念や事実や言語を併合する。この詩は、無限に拡張し続ける大都会と同じく、外的な世界を次々と

貪欲に吸収していくが、その中心部の生命はそれに反比例して希薄になっていく。詩人の個性が詩から追放されて

しまうのだ。拡張し続ける詩は、拡張し続ける都会と同じく、何らの個性も持たない。詩は詩人の個性の本質であ

るという考えが|イエーツはそれこそが詩であると信じていたが|完全に失われている。無意識的な世界が追放さ

れるなら、詩人の個性を表現する手だてなど、どこにあると言うのか?       (『アメリカ詩』、一〇ページ)

一九五六年にブライはフルブライト奨学金を受け、先祖の地であるノルウェーに渡った。そこで彼は、アングロ・ア

メリカン・モダニストたちの客観性を重視する外面的な詩、「公式」を求め「技巧」の発展に努める詩の血統に逆行す

るヨーロッパや南アメリカの表現主義そしてシュルレアリスムの詩に触れた。彼はここで形骸化した「思考の脱け殻」

を思考していたモダニストたちの詩と決別できる詩を発見したのである。オスローの公立図書館で彼が出会ったのは、

チリのパブロ・ネルーダ、オーストリアの表現主義者ゲオルク・トラークル、スペインのファン・ラモン・ヒメネス、

スウェーデンのグンナル・エーケルーヴ、ハッリ・マッティスンの詩だった。その後のブライは五八年にウィリアム・

ドュフィと創刊した『ザ・フィフティーズ』や『ザ・セィクスティーズ』を中心にトラクール、スウェーデンのセル

マ・ラーゲルレーヴ、ノルウェーのクヌット・ハムスン、フランシス・ポンジュ(シュルレアリスム運動に参加した

が、言語の明晰な客観性を重視する代表的な事物主義者)、ネルーダ等の作品を精力的に翻訳する。また七〇年代に入

ると、彼の翻訳活動はペルーのセサル・バリェッホ、芭蕉、一茶、スペインのロルカ、アントニオ・マチャード、十五

世紀のインドのヒンディー語詩人カビールにまで及んだ。また、八〇年代のブライの翻訳はリルケを中心としていた。

この点、ブライはパウンドにも劣らぬ翻訳家、いや翻案家なのである。

,

 一九七三年に出版した『ロルカとヒネメス、詩撰集』の序文「水面下のファン・ラモン・ヒネメス」(Juan R

amon Jim

enez

under the Water

)の中で、ブライは「裸の詩」(naked poetry

)について次のように述べているが、この「裸の詩」はブ

ライ自身の詩の神髄の要説でもある。

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ヒネメスの詩には恍惚がある。これが詩と散文との違いなのだ。詩人として生きることはこの恍惚を毎日の人生の

中で、できれば一時間ごとに、感じることなのだ。詩人の内部からまるで火花のように一編の詩が飛び出してくる。

ライト

詩人が何を書いても、それらの詩のすべてが恍惚に触れたものとなるだろう|こうしてヒネメスの詩は軽妙な光と

ライト

なるが、それは真剣さを避けるライト・ヴァースとの意味ではなく、火花としての光、あるいは軽妙な天使が輝い

ライト

ているとの意味での光である。一語か二語の単語を削れば、その詩は大空の中へまっすぐに軽々と飛び立って行く

だろう。(中略)ヒネメスの詩に読者が接近すると、自分を忘れて詩の方が読者に関心を抱いてくれる|詩は読者に

原始の恍惚へ戻れる道を示そうとしてくれる。彼の詩は、読者が詩人のもとへ戻れる方向を示す道標、つまり、こ

の恍惚の源泉である人生の方へと導いてくれる道標なのだ。ファン・ラモン・ヒネメスは言った。この恍惚から可

能な最大の詩を得るために自分は生きたと。彼は孤独を、私的な庭を、寺院の回廊を、大きな瞳の寡黙な女性を愛

した。(中略)ヒネメスは政治、宗教的な教理、他者の過失、自分自身の苦境、自分自身の意見さえも詩に書かなかっ

た。彼が書いたのは孤独だけだった。それに孤独な人間が味わう不思議な経験と歓びだった。通常、彼の詩の中身

は巨大な力と繊細さが喚起する感情の連続だ。断言できるが、彼の精緻な短詩に触れると、我々の饒舌で自己中心

的なオードの伝統がどこか馬鹿げたものに思えてくる。例えば、美しい夕陽を見て、彼は、多くのスタンザや複雑

なシンタックスや混乱した思考を用いて、饒舌で凝った不滅のオードなどは書かない|ただこう言うだけだ。

  穏やかな最後の夕暮れ

  ひとの一生みたいに短い

  愛されたすべてのものの終わり

  私は永遠になりたい!

これが彼の言う「裸の詩」だ。感情に迫る詩だ。彼には素晴らしい詩がある。若い頃、詩が初めて彼のもとを訪れ

た。その詩は幼い裸の女の子のようだった。彼はその子を愛した。やがて、その子はゴテゴテと装飾品を身につけ

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始め、とてもおしゃれになった。どういうわけか、彼はその子を憎むようになった。それから、何年かすると、そ

の子は彼の言うことを素直に信じるようになった。そして、今、ついに彼の目の前にはまた裸の娘がいる|「裸の

詩だ、私が生涯愛してきたものだ!」(「序文」、一|三ページ)

この「公式」や「技巧」によらないヒネメスの「裸の詩」、読者に「原始の恍惚へ戻れる道」を示す詩は、ホイットマ

ンが唱えた「単純さ」と同じく、その後のブライの「芸術を創造する秘訣」となった。因みに、彼のもう一つの創造的

な「道標」は、孤独なニューヨーク時代(五一|五三年)に公立図書館で読みふけった一七世紀の神秘思想家のヤコ

ブ・ベーメである。

 ブライは「開かれた形式」(open form

)ではなく、「開かれた詩歌」(open verse

の用語を好む。「形式」は「公式」

や「技巧」に関した用語であるからだ。彼はまた「詩作法」(prosody

)の用語も好まない。「開かれた詩歌」という言

葉には「反動的なエネルギー」(rebellious energy

)と人間の「憧れ」(longing

)の感触があり、形式も内容も同じ暗闇

の中から産声をあげ、同じ素早い速さで動くものだ、と彼は言う。「裸の詩」は「巨大な力と繊細さが喚起する感情の

連続」であり、「多くのスタンザや複雑なシンタックスや混乱した思考」を用いない「精緻な短詩」である。一九一七

年の主要なイマジストたちは等しく「それぞれの相違はあるにせよ、客観主義を中核とするかなり統一的な一組の考え

を持ち、それを互いに共有していた」(『アメリカ詩』、一五ページ)。この「客観主義」による外界重視のイメージの系

譜はその後のウィンターズ、ローウェル、リチャード・エバハート、アレン・テイトらにも継承されて行った。ブライ

はこのアメリカ詩における「客観主義」の時代と自らの時代とを画する方向転換をしなければならなかった。「客観主

義」に自縛された詩は、「精神的生活」(spiritual life

) を持たない詩である。この「精神生活」の端緒は、「日常生活で

人々が感じる虚無への恐怖」(a horror of em

ptiness that our people feel every day

)である。

我々の最近の詩はまた詩人から独立した一つの構造物だと思われる。ある詩の中で詩人が「私」と言う、するとこ

の「私」はその詩人自身ではなく、むしろ他の誰か|その詩の中の「詩人」|ある劇的な主人公になってしまうだ

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ろう。詩は人が針を合わせる時計のようなものだと考えられている。この見解から力を得て、詩人は完全な自動機

械を組み立てる。こうしてできあがった詩は何千もの複雑な部品、数十もの弱強格のベルトや滑車、正確な瞬間に

音を刻む精緻な始動装置、交互に赤と緑にきらめく光、小鳥のようにピーピー鳴る蒸気の弁を持っている。この詩

が感嘆の的になる。その才能にもかかわらず、リチャード・ウィルバーはこの狭義の詩観の犠牲者となってしまっ

た。(中略)ロバート・ローウェルも『ウィアリー卿の城』で自分でも止めることのできないようなおおがかりな

機械を組み立ててしまった。                          (『アメリカ詩』、一六ページ)

ブライの創作の原点は、「完全な自動機械」を組み立てるアングロ・アメリカン・モダニストたちの「客観主義」的な

「詩作法」(知的構築性と頭脳的観念性)への反逆であった。パウンドについては既述したが、「アメリカ詩の間違った

転換」におけるブライのモダニズム批判を簡単に紹介しておこう。W

・C

・ウィリアムズには「精神的な激しさ」が

欠落している。エリオットの「客観的等価物」は詩の衝撃を破壊し、そのために彼は真の意味での斬新さを表現できな

いでいる。メリアン・ムアの詩は危険な自然界への一時的なピクニックで、そこでは即座の安全な帰宅が約束され、ま

た人間の規模を縮小してしまう昔のニューイングランドの応接間である。チャールズ・オルスンの「投射詩論」は、主

観並びにその精神による「抒情的な介入」、つまり主体としての自己(自我としての個人)の放棄を主張するが、これ

はエリオットの「個性の消滅」(非個性説)の焼き直しにほかならず、オルスンすらモダニズムの「客観主義」の伝統

を踏襲している。

 『アイアン・ジョン』(一九九〇)の「エピローグ|古代の宗教、文学、そして民族の生活における野人」の中でブラ

イは、「半ば人間、半ば神、半ば動物である存在」の「野人」(W

ild Man

は神々が住む天界に別の住居を持っており、

この最も神性を備えた狩猟の神がその後の神々のすべての原型である、と指摘している。そしてブライは次のように続

けて言う。

現代のような産業社会に暮らす我々は、我々の先祖とはまったく違ってしまった。大地母神を疎んじ、動物の創造

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主を無視しているのだ。これまでの歴史を考えてみても、そのような創造主やその深遠さに敬意をはらわないで生

きていた人間などは存在しなかったのだ。今は、創造主が傷を負っていることにも、その適切な犠牲に関する知識

にも敬意をはらわない。

教会組織と文化が一体となって、男性的なエネルギーの神聖な要素を代弁する神々、パン、ディオニュソス、ヘルメ

ス、宗教的で体毛に覆われた「野人」を追放してしまったのである。『アイアン・ジョン』でブライが追求する「野人」

は神と性、霊と大地に深く繋がった存在である。ブライは詩の中でこの「野人」の「大いなる霊的な活力」を復活させ

ようとする。詩は「完全な自動機械」ではないのだ。『アイアン・ジョン』の「エピローグ」の陳述はパウンドの「ヒュー・

セルウィン・モーバリ」(一九二〇)を想起させる。

  キリストがディオニュソスのあとをつぎ

  男根崇拝と神餞は

  節食の美容に道をゆずる

  キャリバンがエリアルを追いだそうとする

  「すべては流れる」

  と賢者ヘラクレートスは言う

  だがけばけばしい安っぽさは

  われわれの時代のあとも続くだろう

  キリスト教の美でさえも

  サモトラケーにならって損なわれる

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  「美」が市場で決められるのを

  われわれは見る

  あの半人半羊神のからだ

  聖者の幻もわれわれにはない

  聖餐のパンの代わりに新聞が

  割礼の代わりに選挙権があるだけだ       (第三部、新倉俊一氏訳)

    

一九一四年九月一日の『隔週評論』第九十六号に掲載した「渦巻き主義」の中でパウンドは、一九一二年から一四年の

イマジズムが、主に文体上の運動であり、創作よりも批評の方面の運動、つまり詩の「技巧」に強い関心を持つ運動で

あったと認めている。一九一三年の夏、ハリエット・モンローの紹介状を携えて、ボストンからエイミィ・ローウェル

が初めてロンドンのパウンドを訪れる。一九一四年、パウンドはウィンダム・ルイスと共に『ブラースト』誌(一四|

一五)を創刊する。当時のパウンドはイマジズムへの関心を失っていたわけではなかったが、「渦巻き」をすべての芸

術に適用し、イマジズムの絵画的な静止するイメージを超える躍動的で流動的な「渦巻き」について語り始めるように

なった。彼は「イメージ」と「渦巻き」を融合させようとしたのである。一四年、エイミィ・ローウェルは再びロンド

ンを訪れるが、当時は「渦巻き主義」の運動が産声をあげたばかりの高揚した段階にあり、その一方でイマジズム運動

は弱体化し消滅しかけていた。言うまでもなく、イマジズムは日常語の的確な使用や明確な映像表現等をその綱領とす

る。パウンドが指導したこの運動はエイミィ・ローウェルによって引き継がれる。立体派の美学とイマジズムの詩論を

総合する「渦巻き主義」の運動は、エイミィ・ローウェルの目には、『ブラースト』を機関誌とするまったく馬鹿げた

運動と映っていた。視覚的・絵画的で静止するイメージの造形にのみ関心を示すエイミィ・ローウェルの一派をパウ

ンドは「イマジズム」ではなく、「エイミジズム」と揶揄した。「ヒュー・セルウィン・モーバリ」でパウンドは審美

主義的詩人に自らを擬し(「T

・S

・エリオットの詩の人物

J・アルフレッド・プルーフロックと同じ架空の審美主

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義的詩人」)、ダイナミックな文明批評を展開している。パウンドの時代が求めたものは「粗製乱造の石膏細工とか/散

文の映画で、決して雪花石膏とか/詩の「彫刻」ではなかった」(第二部)。「モーバリ」はまた、「かれの本当のペネロ

ペーはフローベルだった/頑な島々でかれは釣りをした/日時計に刻まれた格言よりも/キルケーの髪の美しさにみと

れて」とあるように、「エイミジズム」(歪曲化・表層化されたイマジズム)が席巻するロンドンへの決別の歌でもあ

る。「モーバリ」は、初期の絵画的・静止的なイマジズム(「色彩の言語」)から『キャントーズ』の非連続的な新たな

「全体的な調和」(ノースロップ・フライが言うデコーラム)または「不調和の調和」へとパウンドが移行するための架

橋となった作品である。

 ブライはこのパウンドの初期のイマジズムに関して「アメリカ詩の間違った転換」の中で次のように述べている。

アメリカ詩においてイメージに集中する唯一の運動は一九一一年から一三年にかけてのイマジズムだったが、イマ

ジズムの大半は絵画主義に終わってしまった。イメージと絵画とは異なる。イメージは想像力を源泉とする自然な

発話であり、現実世界から引き出されたり、現実世界へ引き戻されたりはしない。イメージは想像力を母胎とする

動物なのだ。例えば、イヴ・ボンヌフォワの「空に輪を描く鷲たちが止まる内界の海」、これは現実の形象ではない。

この一方で、絵画は客観的な現実世界から描かれる。「濡れた黒い枝の上の花びら」、この絵は実際に目に見える。

(『アメリカ詩』、二〇ページ)

パウンドの「地下鉄にて」は、現実世界に立脚した静止的な絵画詩で、前述したヒネメスの「裸の詩」や、「想像力を

母胎とする動物」である真正のイメージ(自分の「深層イメージ」)とは違う、とブライは指摘している。

エリオットもパウンドも、成熟を外面性の成長だと考えている。エリオットの後期の詩劇は、当然、初期の詩より

も外面性が強く、『キャントーズ』は『ルストラ』よりもその外面性を強めている。この傾向とまったく対照的な詩

人はイエーツとリルケだ。二十歳のリルケよりも三十歳のリルケの方が内面性が深い、さらに三十歳よりも五十歳

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のリルケの方が、より内面性が深くなっている。(中略)アメリカ詩の明白な諸原則を詳しく説明するなら、次の点

を素直に認めなければならない。我々はリルケの内面性とウィリアムズ|パウンド|オルスン系譜の外面性を調和

できないのだ。パウンドが殆どリルケのことを語らない理由は、ここにある。人間は同時に内面世界と外面世界の

両方に顔を向けることはできない。それは南と北の両方角を同時に見られないのと同じだ。(中略)ネルーダ、バリ

エッホ、ヒネメス、マシャード、リルケ、これらの詩人たちの作品は詩人本体の延長線で、その詩人の皮膚や両手

とまったく同じものだ。作品を書いた詩人の本体が外に現れ、遠く暗い闇の中へと伸びてゆく。詩自体が詩人自身

の肉体で、詩人は自分の耳や指や髪を使って、見ているのだ。         (『アメリカ詩』、一四|六ページ)

この「詩人本体の延長線」(an extension of the substance of the m

an

は、勿論、「裸の詩」や「想像力を母胎とする動

物」である真正のイメージの同義となっている。「地下鉄にて」の「濡れた黒い枝の上の花びら」は、これに先行する

「人混みの中の多くの顔の幻」から切り離されて、ブライから客観主義的な絵画詩のレッテルが貼られている。「地下

鉄にて」の二行詩は、一行目の流動的・運動的・行動的なイメージと二行目の静止的なイメージ、言わば、動と静との

思わぬ「並列・重層」(superposition

) によって、「あの突如の解放感」(that sense of sudden liberation

)や「あの時間的・

空間的な制約からの自由意識」(that sense of freedom

from time lim

its and space limits

)や「あの突如の成長の意識」(that

sense of sudden growth

)をもたらす非論述的・非記述的・非連続的な感情喚起の作品である。「地下鉄にて」は「最大

限に意味を充電させる言語」(language charged w

ith meaning to the utm

ost degree

、「内的な凝縮の芸術」の好例で、パ

リのコンコルドの地下鉄で突然美しい顔を次々に見た詩人の感動的な経験が、外面化・客観化を遂げてゆく〈瞬間〉、

または内面化・主観化を遂げてゆく〈瞬間〉、その正確な〈瞬間〉、一種のエピファニーの〈瞬間〉を記憶にとどめてお

く作品である。それはブライが言う印象主義的な手法による単なる絵画詩ではない。上記におけるブライのイマジズム

並びにパウンド批判は、実は、ファナポエイアの絵画的な短詩型自由詩運動に堕落した「エイミジズム」批判なのであ

る。余談だが、一九六四年にブライはエイミィ・ローウェルから奨励金を受け、パリへ渡っている。「濡れた黒い枝の

上の花びら」の一行だけを分離すれば、そこには「環境の玩具として、ただ印象を受像する知覚者としての詩人」(受

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動的な認識者)がいるだけだが、「地下鉄にて」の二行の「重層」の中には、「環境に対して流動的に働きかける創造者

としての詩人」(能動的な認識者)がいる。そこには、単に外界を反射したり観察したりする詩人ではなく、「創造・生

み出す」(conceive

する詩人が認められる。「地下鉄にて」もパウンドという「詩人本体の延長線」なのだ。

 周知の通り、パウンドが理想的なイメジとして好んで引用したのは、シェイクスピアの『ハムレット』(一幕一場、

一六六行)の「茜色のマントに包まれた夜明け」(theMorne in R

usset mantle clad

)で、一九一三年三月の『ポエトリ』

誌第一巻六号に掲載した「渦巻き主義」の中で、このイメージを語る詩人は「画家にも表現できない何物かを表現す

る」と指摘される。パウンドは「リズムと韻律」の中でも、「あまり描写的にならないこと、風景なら画家の方が遙か

に巧みに描けるし、またもっとよく精通している」と述べ、この『ハムレット』の詩行には「人が描写と呼ぶものは

何ひとつとしてない。彼は表現しているのだ」と賛辞を呈している。「茜色のマントに包まれた夜明け」(パウンドはこ

れを D

awn in R

usset mantle clad

とする)は、エルシノア城に先王ハムレットの亡霊が現れるapparition scene

に関与す

る場面でのホレイショーの台詞で、「でも見てみろ、ああ、茜色のマントに包まれた夜明けだ、朝日が露を踏みしめ、

東の尾根を越えてくる。見張り番もこれで終わりとしよう。今夜のことは、その一部始終をハムレット王子にお伝えし

た方がよさそうだ。亡霊はとうとう何も言わなかったが、ハムレット様になら、きっと何か言うに違いない」と、安眠

と平安を包み、そしてこれから展開する血なまぐさい現実と真相を隠し持つダイナミックなイメージである。

 元来、パウンドの「イメージ」=「瞬間の内に知的・情緒的複合を表現するもの」は、このシェイクスピアの戯曲に

おけるダイナミックなイメージを模範としていたのである。二番煎じのイマジストたちは、イメージを手っとり早く安

易な意味に取り、静止的な絵画詩にばかり執着していたが、パウンドのイメージは、つまらない内容を飾りたて読者の

目をくらませる修辞の「技法」から最も遠いものであった。「渦巻き主義」の中でパウンドはスタンダールの次の言葉

を引用している。「作りごとの比喩とか、詩人自身も信じていない神話のたぐいとか、ルイ十四世の様式の荘重さとか、

いわゆる詩的な粉飾の付属品をごてごてと飾りたてた詩は、心の動きを明確に伝えるためには、散文に遙かに劣るもの

だ。なぜなら、この領域では、ただ明確さだけがひとを感動させるからだ」(新倉俊一氏訳)。象徴派詩人の「技法」

(象徴を一定のきまった価値を持つ言語記号とみなすもの)を通過しているが、パウンドの不定の意義をそなえるイメー

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ジによるイマジズムは決して象徴主義ではない。同様に、印象主義の表現方法を援用するが、パウンドのイマジズムは

決して印象主義ではない。

自分の「内面世界から」心理的もしくは哲学的な定義を与えるなら、私は自伝的にそうするしか手だてがない。こ

のような事柄を正確に語るには、自分の実体験に基付くほかないのだ。「自己の探究」や「誠実な自己表現」の探究

の中でひとは暗中模索の状態で、真実らしきものを見つけ出し、「これが私だ」とか、いや「こっちが私だ」とか、

いや別のものだとか言うが、その言葉が出るか出ないかの内に、もうその「私」ではなくなってしまうのだ。(中略)

勿論、画家はその仕事において、模写的または再現的な局面ではなく、その創造的な局面に依存すべきなのだ。詩

を書く場合も同じで、詩人はイメージを目で見たり感じたりするから、イメージを使うのであって、ある信条やあ

る倫理観または経済観を強化するために、そのイメージが役立つなどと思って、使うのでは決してない。イメージ

が我々の意識の中で本物であるのは、我々が直接そのイメージを知っているからなのだ。(中略)自分で知覚したり

創造したりした「イメージ」を表すのが、詩人の仕事なのだ。

(「渦巻き主義」、『ゴーディエ・ジャレスカの追悼』所収、八五|六ページ)

ここには「内面世界と外面世界の両方」に同時に顔を向けているパウンドがいる。一九一三年三月に発表されたイマジ

ストの信条の骨子の一つは、「主観、客観を問わずに〈事物〉を直接的に扱うこと」(D

irect treatment of the 'thing,' w

hether

subjective or objective

であった。そして詩人も画家と同様に「その仕事において、模写的または再現的な局面ではな

く、その創造的な局面に依存すべきなのだ。」詩人はイメージを目で見たり感じたりするから、イメージを使うのであ

る。詩人の仕事は自分で知覚したり「創造」したりした「イメージ」を表すことなのだ。パウンドの「イメージ」もブ

ライの「深層イメージ」と同じく「想像力を源泉とする自然な発話」、「想像力を母胎とする動物」なのである。この両

者のイメージは、「現実世界」の「模写的または再現的な局面」ではなく、詩人の「自己の探究」や「誠実な自己表現

の探究」における深い内面性と「創造的な局面」に立脚し、感覚的で情緒的な観念性を醸成するイメージである。

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 ブライは「アメリカ詩の間違った転換」の中で次のように述べている。

リルケが考えているのは、多様な事物の中に監禁されたイメージを解放するような詩なのだ。想像力の支配が詩の

全体に及ぶようになると、自然に、その詩は無意識の世界の中に突入するようになる。(中略)内面世界を掘り下げ

てゆく詩は、その周囲にある万物をも深める。                 (『アメリカ詩』三四|五ページ)

このブライの陳述は、「モーバリ」の中で「古い意味における崇高を維持する」または「死んだ詩の芸術を蘇生させる」

として、当時の緩慢な感傷性や、旧弊なお上品さや、都会のブルジョアの独善性や俗物性を打破しようとしたパウンド

の解放の文学を思わせる。一九一〇年代のパウンドも「明確なイメージ」を標語に「多様な事物の中に監禁されたイ

メージを解放する」作業に取り組んでいたのである。当時のパウンドも、六〇年代のブライと同じく、過去の伝統や因

習の「重苦しい暗がり」とその閉塞感の中で、「何らかの足場を明らかにする」ことを強く意識し、別の時代の詩を読

むことや外国の詩を翻訳することに、創作の唯一の救いを見いだしていた。パウンドは「渦巻き主義」の中で「精神と

呼ぶのに値する精神の持ち主なら、誰もが既存の言語の範疇を超える欲求を必ず感じるはずだ」と述べている。パウン

ドの「イメージ」の定義、「瞬間の内に知的・情緒的複合を表現するもの」に多少の修正を加えると、それはブライの

「深層イメージ」の定義となる。つまり、それは「瞬間の内に霊的で無意識的な複合を表現するもの」である。

          

          

          

          

          三

 ブライは一九八一年の『フィールド』(F

ield

)誌第二十四号に掲載した「知的形態としてのイメージの認識」

(Recognizing the Im

age as a Form of Intelligence

)の中で、「イメージ」は人間の尊大な考えへの知的な反証を示すもの

だ、と述べている。その人間の尊大な考えとは、「知的な活動の従事する人間が自然界から分離し、不変のまま隔絶し

ている」とのエゴイズムである。ディープ・イマジストのブライは、この人間のエゴセントリックな内面世界を凝視

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し、太古の世界に属する集合的な精神、または「大いなる霊的な活力」を、技術革新の強迫観念と実利的な心理が支配

する現代の中に、取り戻そうとする。ブライの「想像力を母胎とする動物」であるイメージの詩、大いなる激しさを求

めて内面世界の中へ突入する詩、イメージを解放する「裸の詩」、「詩を書いた詩人の本体が外に現れ、遠くの暗い闇の

中へ伸びてゆく」詩、想像力の支配が詩の全体に及び無意識の世界の中へ突入する詩、その典型は『雪の野原の静け

さ』に収録される「トウモロコシ畑でキジを撃つ」(Hunting Pheasants in a C

ornfield

である。ブライの作品も「明確

なイメージ」に支えられ、そこにはパウンドが標榜する「不意の解放感」という瞬間的な啓示の文学の特徴が見られる。

     一

 こんなに不思議なのはどこなんだ 野原に木が一本立っているだけなのに

 ヤナギの木が一本 私はそのまわりを歩いてみる

 奇妙な具合に体が引き裂かれ 私はその木から離れられないでいる

 しまいに私はその下にすわりこんでしまう

     二

 どこまでも続く乾いたトウモロコシ畑にぽつんと立っているヤナギの木

 幹のまわりにも 私のまわりにも 葉っぱが散乱している

 もう茶色くなって こまかな黒い斑点が浮きでている葉っぱ

 ガサガサと音を立てるのは もう茎だけだ

     三

 太陽は冷たく輝き 霜がおりた大地の遠くまで燃えている

 雑草は とっくの昔に枯れてしまった

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 でも どうしてだろう こんなに見ていても飽きないのは

 ほら 木の冷たい樹皮の上を 太陽が動いてゆく

     四

 精神は 何年もひとりで自分の葉っぱを落としてきた

 その根っこのまわりで暮らす小さな動物たちからも離れて立っている

 この太古の地に立つと 私は嬉しくなる

 私が夕暮れどきに巣へもどろうとする若い動物なら

 トウモロコシの茎の上のほうにすぐ見える ひとつの点があるのだ

                        (「トウモロコシ畑でキジを撃つ」)

この作品の「私」(=詩人)の内面性は、一つの疑問と驚きから漂い、第四部の「この太古の地」の恍惚の中へ入って

ゆく。「こんなに不思議なのはどこなんだ」、この「私」の単純な驚きは、詩の最終的な成果ではなく、詩の原則、つま

り詩の出発点である。この作品が「こんなに不思議なのはどこなんだ」の行で終わるなら、それは実に陳腐なロマン派

的な抒情詩になってしまう。ブライはこの驚きを、既存の言語を超える新たな言葉で、描写したり表現したりはしな

い。詩人はこの驚きを簡明に内面化してゆくのである。

 キジを撃つために野原を歩いている「私」の目に、ふと一本の裸の木がとまる。それはヤナギの木だ。「私」はその

冬枯れの木に魅了され、不思議な気持ちに捕らわれ、その木の周囲を何度も歩いてみる。奇妙な具合に、体が引き裂か

れるような気がして、その場から離れられずに、とうとう疲れた「私」は木の下に座りこんでしまう。もうこの「私」

はキジを撃つという当初の目的も忘れてしまう。第一部冒頭の「私」の驚きは実に素直で単純な内面性の発露だが、こ

の驚きはまた個人の神話的な状況が無意識の中に現れる瞬間、先に引用した『アイアン・ジョン』の「エピローグ」

の陳述に従えば、「大地母神」・「野人」・「動物の創造主やその深遠さ」並びに神秘性に関与する瞬間なのである。

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 第一部の木のまわりを何度も巡り、その下に座りこむ「私」の動きは動物の野性の動きを連想させる。この「私」の

円運動は、それ以前の野原に立つ一本のヤナギの木を知覚する「私」の目(眼球)=円のモチーフに始動されている。

そして、この円のモチーフは、第二部の「幹」や「私」の周囲に散乱する落ち葉とその「こまかな黒い斑点」、第三部

の冬の「太陽」、最終第四部の精神の「根っこのまわりで暮らす小動物たち」と「太古の地」の上方に見える「ひとつ

の点」へと受け継がれている。マンフレート・ルルカーは『象徴としての円|人類の思想・宗教・芸術における表現』

(一九八一)の中で、「深く洞察する人間にとって、この世界はことごとく関連をもち合い、万物は大きな円を形成す

る。それ自体の存在様式においてこの世に孤立するものはひとつとしてなく、あるものは他のものに継ぎ目なく移行す

る。直接的な現実はこうした比喩的象徴的思考の形をとって立ち現れる。殊に詩人にとって、自然のあらゆる出来事

は詳細な点に至るまで互いに内的照応関係にある。(中略)自然に見られる円や円運動を運動する形態のハーモニー、

あるいはメロディーと考えた詩人のベルナルダン・ド・サン|ピエールは象徴的な観照によって、宇宙を司る太陽を地

上の小さなヒナギクに比した」(竹内章氏訳)、と述べている。「トウモロコシ畑でキジを撃つ」の詩人も、その深い瞑

想による「内的照応関係」から、「自然に見られる円や円運動」を「運動する形態のハモニー、あるいはメロディー」

と捉えている。その円は静的ではなく動的で、有機的に成長した円であり、詩人の内部=肉体の中心から描かれる円で

ある。太陽の循環軌道と季節(自然)の循環は視覚的な円ではないが、その各局面の規則的に反復される流れによっ

て、円のイメージを形成する。

 第一部の「私」は「奇妙な具合に体が引き裂かれる」と実感する。ここで「私」は自己の「エゴセントリックな内面

世界」の崩壊とその痛みを意識するが、この「私」は同時に合理的な思考の牢獄に監禁された「外面的な人間」(the

outward m

an

)の公共の殻を脱ぎ捨て、自然の調和力を感知できる野性的な本能と直観を獲得し始める。第二部で、こ

の動物の鋭い感覚・本能・直観をもって「私」は幹や自分のまわりに散乱する褐色の落ち葉とその「こまかな黒い斑

点」を知覚し、茎だけになったトウモロコシが風にざわめく音を聞き分ける。『雪の野原の静けさ』のエピグラフは、

ドイツの観念論やロマン派の哲学に大きな影響を与えた神秘主義思想家ヤコブ・ベーメの言葉、「我々はみな外面的な

人間の中で眠っている」(W

e are all asleep in the outward m

an

である。ブライはこの「外面的な人間」と「内面的な人

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間」(the inw

ard man

を対照させる単純な二分法や二項対立には決して陥らない。一九六七年の第二詩集『体を包む光』

(The Light Around the B

ody

の第一部「二つの世界」(The Tw

o Worlds

のエピグラフもベーメの次の言葉である。「外

面的な人間によれば、我々はこの世界に生きているが、内面的な人間によれば、我々は内面世界に生きている。この二

つの世界から生を受けるのだから、我々は二つの世界の言葉を話すことになり、またこの二つの言語によって理解され

なければならない。」「外面的な人間」と「内面的な人間」の二つの世界と二つの言語は、同心円上にあり、その共通の

中心点に向かって収斂される。または、この二つの円が拡大と縮小を繰り返す。または、共通の一点から始まり、ほぼ

円の形を取りながら二つの曲線が螺旋や渦巻きを描いてゆく。ブライにとって、この共通の中心点は、太古の世界に属

する集合的な精神である。第三部で「木の冷たい樹皮」の上を動いてゆく「太陽」(自然な円の循環軌道)に目を凝ら

す「私」は、外面世界・公共世界の表層を見ているだけで、まだ物理的な知覚の奥に潜む意義あるものを捉えられない

でいる。「私」はまだ「外面的な人間の中で眠っている」のだ。

 最終第四部において、この「外面的な人間」=「私」の内面世界の三本の撚り糸が合わされる。孤独なヤナギの木

が、喪失と再生を繰り返し暗闇と大地の中に深く根を張る「精神の木」となる。葉をすっかり落としたトウモロコシの

茎やヤナギの木は冬の裸の木であり、それは余計な装飾をすべて切り落とす「裸の詩」の主観的等価物となる。第二の

撚り糸は「この太古の地」(this ancient place) の覚醒的な意識であり、この太古の世界に属する集合的な精神の地は詩

人の想像力の場にほかならない。そこで「私」は非時間の意識、啓示の瞬間、一種のエピファニーを得るのである。第

三の撚り糸は「夕暮れどきに巣へもどろうとする若い動物」の本能的・直観的意識である。因みに、『雪の野原の静け

さ』の大半の作品は夕暮れから夜半にかけて創作されたものである。「夕暮れ」は「外面的な人間」と「内面的な人間」

の二つの世界を連結する「水路」である。「知的形態としてのイメージの認識」の中でブライは「イメージとは人間の

意識世界と無意識世界に橋渡しをするものだ」と述べている。夕暮れどきの「動物」は、トウモロコシ畑の上方に目を

あげ、「ひとつの点」(a spot

をその本能的・直観的な知覚からたやすく見つける。「トウモロコシ畑でキジを撃つ」

の第一部と第二部は水平的な凝視と旋回運動を特徴とし、他方その後半の第三部と第四部は、「精神の木」(The m

ind has

shed leaves alone for years

の落葉と孤独のイメージに適合させて、垂直的な凝視と上昇運動を特徴としている。「ひと

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つの点」は「私」の瞑想的な内面世界における啓示的な「最良の場」であり、それはまた動物たちが帰巣の時を直観す

る際の目印となる「月」や「宵の明星」の気配である。合理的な思考や公共制度の殻の中に閉じ込められた「外面的な

人間」の眠りから覚める「私」の「内面的な人間」は、もう木の枝や樹皮の表層の上を動く「太陽」には視線を向けな

い。「私」はその内面世界の中心に歓喜の「点」を、内面の「太陽」のイメージを捉えているからである。「私」の本能

的・直観的な知覚は、古くからある豊かな存在・「原始的な恍惚」(the original ecstasy

)に到達する。

 このブライの「ひとつの点」は、パウンドが自らのイメージに託した「時間的・空間的制約からの自由意識」や「不

意の解放感」と同じものである。この言わば躍動的な静止点は、深い洞察力と想像力を持つ詩人の「個」の直観と静思

によって出現する。ブライは「乗馬術」(E

ducating the Rider and the H

orse

)の中で「直観こそが、無意識内の多様な

事物の形態と規模を看破し、事物自体と〈事物の亡霊〉との間に隠された連鎖の輪を見抜く」(『アメリカ詩』、二八六

ページ)と述べている。そして、このブライの直観的な知覚と認識の詩のイメージは、パウンドが「渦巻き主義」に説

く次のイメージ、つまりダイナミックな「内的凝縮の芸術」に通じている。

イメージは観念ではない。それはきらめく交点、または群れである。つまり、イメージは、必然、こう呼ばなけれ

ばならないが、ひとつの渦巻きであり、その中から、それを通して、さらにはその中へ、諸々の観念が絶え間なく

奔流しているのだ。

このダイナミックで流動的なイメージは、「大いなる霊的な活力」を放出させる「原始的な力を持つイメージ」

(primordial im

age

)で、「原始的な恍惚」に到達するイメージである。「きらめく交点、または群れ」である「渦巻き」

のイメージは、自然界や宇宙の中で個人が深く生きていると直観する瞬間、「トウモロコシ畑でキジを撃つ」の「ひと

つの点」、ヒネメスの詩における「恍惚」の「火花」を創出する。渦巻きは、上昇と下降、円環と回帰の無限連続を示

す。「自然は常に適切な象徴である」とするパウンドの創作の根底にも、ブライと同じく、「事物自体と〈事物の亡霊〉

との間に隠された連鎖の輪」を見抜こうとする強い衝動がある。「渦巻き」の円運動は、外へ拡大する螺旋と同じく、

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目に見える遠心力の働きによって円周と周辺が生かされ、全体の印象が中心に集まり外部から孤立し閉じてしまう円と

は異なる。

 『雪の野原の静けさ』は、「孤独についての十一の詩」(E

leven Poems of Solitude

)の孤独と静寂から、「覚醒」

(Awakening

)を経て、また「路上の静けさ」(Silence on the Road

)へ戻るといった具合に、四十四編の作品の全体が円

環する構造を持っている。『体を包む光』も最初の「二つの世界」と「貧困と冷酷についての様々な芸術」(The V

ari-

ous Arts of Poverty and C

ruelty

には内面世界から外面世界へ向かう作品が多く、最後の「悲嘆の讃歌」(In Praise of G

rief

と「まだ生まれぬ体」(A

Body N

ot Yet Born

)にはまた内面世界へ戻る作品が多く、それらの中間部に「ヴェトナム戦

争」(The V

ietnam War

) の現実世界を扱う作品が挿入されるといった具合に、詩人の内面世界から外面世界・現実世

界を経て、また詩人の内面世界へ戻る円環構造を持っている。一九七九年の『この木はここに千年も残るだろう』(This

Tree Will Be Here For a Thousand Y

ears

にも四十四編の作品が収録され、この詩集も季節の循環の中で秋に始まり冬に

終わる円環構造を持っている。『この木はここに千年も残るだろう』は自然界の原始的な神秘への連動によって、事物

のすべてが清められる作品である。ブライの渦巻きは常にこの自然界の原始的な神秘を内包させ、現実や外界に対して

も強力に働きかける。

  一本の古木の周囲をアリたちが囲む

  聖歌隊となってアリたちが歌う、しわがれた砂利の声で

  古代エトルリアの専制政治の歌を

  そばではヒキガエルたちが小さな手を叩き

  その炎の歌の音頭をとる、湿った大地の中で

  五本の長い指を震わせながら       (「アリたちが見つめるジョンソン政権」)

この『体を包む光』に収録された作品の中で、「一本の古木」の周囲に集まるアリやヒキガエルたちは、現代の国際的

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な専制政治を行うアメリカが起こしたヴェトナム戦争を糾弾する反戦の民衆たちである。ここには、アリストパネース

風の詩人がいる。「一本の古木」(ジョンソン政権のホワイトハウス)を囲むアリとヒキガエルたちは円環のイメージの

中で、反戦と人道の聖歌である「炎の歌」を歌いながら激しい抗議活動を行っている。ブライの「深層イメージ」の

渦巻きも、「巨大な力と繊細さが喚起する感情の連続」を示し、その周囲にあるすべての事物を深めるのである。一九

六五年二月の北爆開始以降の戦争の拡大化に伴い、ヴェトナム反戦運動は国際的にも国内的にも高まって行った。アメ

リカでは、徴兵拒否の運動、軍隊内での地下反戦運動、ヴェトナム復員軍人の反戦運動、内部告発などが活発化した。

  目には見えないけど 殺人の願望があるのだ

  この願望が見えるのは もはや神への信仰心もなく

  巣の中のカラスみたいに自分の教区に暮らす聖職者だけだ

  あちらこちらに花が咲く でもその陰気な中心は

  頑で 玄武岩みたいに黒々と光っている       (「アジアで戦争が勃発する時」)

 ブライは一九八〇年刊行の『午前中の話』(Talking A

ll Morning

)所収の「政治詩への跳躍」の中で、次のように述

べている。

アメリカの歴史に触れる詩は明白に政治詩なのだ。ところが最高の教育を受けた者たちは、政治的な主題を持つ詩

は書くべきではないと助言する。複雑な絵画に対しては、最も研ぎ澄まされた審美意識を生み出すように要求され

るのだが。同時に、政治的な行動を精査する段階になると、この意識は前面に出さずに隠しておけと言われる。こ

の国の賢者や聡明な公共機関が公言するのは、国内の政治的な出来事は、人間の通常の感受性では、いや非凡な感

受性をもっても理解できないということなのだ。この種の習性は何も目新しいものではない。ソローの友人たちは、

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自然に関するソローの作品はとても優れたものだが、メキシコ戦争に抗議したソローは自分の背の立たない深みに

はまってしまった、と思っていたのだ。(中略)「政府という目に見えない組織」、学校、放送局、正統派の教会がこ

の審美意識を抹殺するために乗り出してくる。学校は、同情ではなく競争が大切なのだ、と力説する。テレビや宣

伝広告が感受性を麻痺させる役割を果たす。この意識を殺しておいた方がいいのだ。そうすれば後に確固たる行動

を起こす人間は生まれてこない。(中略)文壇の政治活動家たちは間違っている|出来事に詩人をより深く関与させ、

詩人が自分の私生活を放棄しないのは罪悪だという具合に、活動家たちは詩人から詩を引き出そうとするからだ。

でも、実際には、政治詩は詩人の最も深い自由な私生活から生まれてくるのだ。     

(『午前中の話』、九五|九ページ)

ブライの「深層イメージ」の詩は、「最も深い自由な私生活」・「内面的な人間」の世界・何ものにも抹殺されない個

の「最も研ぎ澄まされた審美意識」を母胎としている。

 さらに、ブライは自分の「深層イメージ」の原型を自然界のカタツムリの殻の渦巻き模様の中に発見している。この

点、パウンドのイマジズム経由の「渦巻き主義」の「イメージ」とブライの「深層イメージ」とは不思議な具合に合致

している。「乗馬法」の中でブライはまた次のように述べている。

生物の体は多種多様な生命力を和解させている。「形態」と「形状」が密接な関係にあることを私たちは知るのだ。

「形態」という用語も「形状」という用語も、本体を示唆し、その本体はある種の生命力を、そして矛盾し合う生命

力をも釣り合わせる。それはカタツムリの殻が曲線の推進力と直線の推進力を調和させるのと同じだ。完成した本

体は、生命力を破壊しないし、またその生命力が本体を破壊することも許さない。(中略)確かに、カタツムリの殻

には始まりと終わりがある。「形態」がある種の回帰を意味することを、私たちは知るのだ。宇宙には「形態」があ

る。シリウスは循環し、月は毎月巡って満ち、サケは海から川へ帰るからだ。カタツムリの殻の中には、誰もが簡

単に思いつく一本の曲線が随所に渦巻いているのだ。              (『アメリカ詩』、二九二ページ)

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一九六一年、『雪の野原の静けさ』を出版する以前に、ブライは親友のジェイムズ・ライトとウィリアム・ドュフィと

共著で『ライオンの尻尾と目|怠惰と静けさから生まれた詩』(Lion's Tail and Eyes:Poem

s Written O

ut of Laziness andSilence

を出版したが、その「序文」には「詩の一つの目的は、既知を忘れ、不知に思い巡らすことだ。(中略)詩

が表現するのは、考え始めたばかりのもの、これまでには思いもつかなかった考えだ」と記されている。パウンドと

同じく、ブライもまた「思考の脱け殻」を思考しない詩人である。既述したが、『雪の野原の静けさ』も『体を包む光』

も『この木はここに千年も残るだろう』も、ライオンの尻尾と目が一つになる、つまり、自分の尻尾をくわえて見つめ

るライオン、または、とぐろを巻いて自分の尾をくわえる蛇の「形状」にも似た円環・循環構造を持つ作品である。ブ

ライの「深層イメージ」もパウンドの「きらめく交点、または群れ」の渦巻きを創造している。

  豊満な月が一方に傾いて山に昇る

  目だ、こんどは自分の世界だ、

  でも自分の両眼で見渡すのだ、

  両方のまぶたの間の目で

    海、空、泉、

    交互に

    泉、空、海

  日の出の空にかかる残月

  古代ギリシャの最高の金貨のようだ      (『キャントーズ』第八十三篇)

この「自分の両眼」で見渡す美しく静まり返った孤独な世界は、詩人パウンドの深い内面世界の連想から生まれた心象

風景である。この一節は客観的な現実・公共の外面世界ではない。第二次世界大戦における国家反逆罪の政治犯として

ピサの牢獄(アメリカ陸軍軍事規則訓練場)の中に捕らわれていた詩人は、その孤独と絶望の内に、自然界の象徴的な

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事物から「突如の解放意識」と想像的な美の救済を得る。この一節は、エズラ・パウンドという個の非常に「内面的な

人間」の「原始的な恍惚」と「大いなる霊的な活力」を放出している。

「主観、客観を問わずに〈事物〉を直接的に扱うこと」、このイマジズムの原則から、「客観」的な外面世界をじかに

再現する傾向を強めて行ったイマジストやアングロ・アメリカン・モダニストたちの盲動の舵を、ブライは「深層イ

メージ」によって、「主観」的な内面世界を深める方向へと切り換えたのである。しかし、このブライが自分の「両眼」

に捉えたものは、パウンドのイマジズムと渦巻き主義の尻尾であった。しかも、その渦巻きの円の始まりと終わりを繋

ぐ中間部分には、内面の「抒情的な介入」を平気で『橋』の中に取り込んだハート・クレインもいたのである。詳述は

控えるが、一九二五年の「全般的な目的と理論」の中で、クレインは静止的なイメージや印象主義的な「絵画主義」に

堕落するイマジズムの欠陥を見抜いている。

 ノルウェーの先祖を持つブライは、北欧神話の雷神トールのイメージが古代の「超意識的な生命力」(『アメリカ詩』、

二八〇ページ)を示唆し、それは「神と野獣、知的なものと野蛮なもの」を融合するイメージである、と言っている。

トールは大麦畑の上を走る稲妻(投げつければどんな巨人でも一撃で倒せる破壊的なミョルニールの槌を持つアスガル

ドの神)であり、また同時に農民の守護神でもあった。ブライは次の詩で北欧神話の宇宙樹=イグドラシルを簡潔で明

確なイメージに凝縮している。クレインは『橋』の中で、ニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶ現実のブ

ルックリン・ブリッジを、北欧神話のイグドラシル(トネリコの巨木)に見立て、虹やオーロラをその「単一のイメー

ジ」の周囲に集めている。

  トネリコバカエデの強靱な木の葉が

  風の中へ突入して 大声でこう言う

  消えろ 宇宙の荒野の中へ

  そして私たちは一本の木の根元に座って

  永遠に生きるだろう 塵のように       (「三部の詩」、『雪の野原の静けさ』所収)

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ここには、先に引用した「トウモロコシ畑でキジを撃つ」と同じく、自己の「エゴセントリックな内面世界」の崩壊と

その痛み、トラークルばりの存在喪失の解明とそこからの脱出のモチーフが見られる。この「私たち」に永遠の生を与

えてくれる「一本の木の根元」は、「トウモロコシ畑でキジを撃つ」の「ヤナギの木」の根元と同じく、太古の世界に

属する集合的な精神の地(「この太古の地」)・詩人の想像力の場にほかならない。

 北欧神話の神々(アサ神族)はアスガルド(アサ神族の園)と呼ばれる美しい天空の都に住み、このアスガルドは

宇宙を貫いて聳え立つ宇宙樹イグドラシルの巨木の上にあり、無数の大宮殿が雲に聳え、宇宙の中心とされていた。宇

宙樹には三本の太い根があり、その一本は神々の世界に、もう一本は巨人の国ヨツンヘイムに、最後の一本は死者の国

ニフルヘイムに伸びている。幹は垂直に伸び、海と大地と人間界ミッドガルド(真中の国)を貫き、これらの三つの世

界を統合する。イグドラシルの根元にはウルドの泉とミミールの泉がある。ウルドの泉は、生まれてくる人間の寿命や

幸不幸を定める三人姉妹の女神ノルンが守り、この姉妹は泉から毎日水を汲んではイグドラシルの木に注ぐ。その根は

常に巨大な毒蛇ニドホグにかじられているため、姉妹が水をやらないと、宇宙樹は枯れ、アスガルドもミッドガルドも

滅亡してしまうからである。ミミールの泉は巨人ミミールが守り、そこには知恵と知識がたくわえられている。天地創

造の際、大地は丸い形をして、その外側を無限の海であるミッドガルドの蛇が取り巻いていた。オーディンたちはその

海の彼方へ巨人たちを追放し、その中央の美しい国をミッドガルドと呼び、そこに人間たちを住まわせた。ミッドガ

ルドからアスガルドへ行くには、ヘイムダルが見張るビフロストの橋を渡らなければならない。この橋は大地から天空

へ架かる七色の美しい橋で、地上では虹と呼ばれている。神々の黄昏の時、海底からミッドガルドの蛇が猛り狂って這

いだし、海の水を激しく沸き立たせ、大洪水を起こし、天地を闇で覆うほどの毒気をまき散らした。虹の橋ビフロスト

も焼け落ち、宇宙樹イグドラシルも炎に包まれて倒れ、大地は海底へ沈んでいった。「巫女の予言」の歌の通り、神々

の世界は滅び去った。だが、この滅亡は新たな黎明の始まりであった。沈黙と暗黒の後、青々とした美しい陸地が新た

に浮上し、大地は種を蒔かなくとも豊かに実り、新たな太陽が美しく空に輝き始めた。

 この北欧神話の滅亡(破壊)と新生(再建)のダイナミックなモチーフをクレインは一九三〇年の『橋』

の中に「速

やかで/分断できない詩句」を駆使して復元してみせた。クレインは「現代詩」(三〇)の中で機械時代の実験的な詩

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について次のように述べている。

多くの言わば古典的な拘束に対する現代詩の反逆の炎が燃え盛ったのはもう随分昔のことだ。事実、今では無視さ

れる初期のヨーロッパのある幾つかの伝統に関し、妥協を知らない二〇世紀初頭の改革者たちが辿った道筋は、む

しろ古典的な方向であり、直接その反逆の対象となったヴィクトリ朝の様々な規律ではなかった。(中略)いつの時

代でも同じだが、詩人の関心は経験の形式的な綜合を目指す自己訓練でなければならない。なぜなら、詩は進化論

や進歩という観念に依拠するものではなく、〈永遠の相のもとにおける〉現代人の意識の表明に依拠する建築的な営

為であるからだ。(中略)人間の価値の最も完全な綜合を提示する詩の力は、あらゆる科学の言わば襲撃を受けても、

その本質は変わらないのだ。機械が与える情緒的な刺激は、詩のそれとはまったく異なる精神的な次元にあるから

だ。だが、機械の情緒的な刺激の唯一の脅威は、手軽な娯楽を与える性能の中に潜在している。しかも、この娯楽

はいとも簡単に手に入り、あらゆる発展を捉えるが、最も研ぎ澄まされた審美的な反応を捉えることはできない。

(中略)見者の詩的な預言は、事実に立脚する予知や未来とは一切無関係なのだ。この預言は、驚くべき明晰さと信

念を伴う想像力をもって、ある絶対的な永遠世界を捉えられる一種特殊な直観的認識なのだ。

この「現代詩」の中でクレインはさらに「アメリカの〈特異な精神状態〉の最も典型的で効果的な表現はホイットマン

の中に発見できる」と述べているが、クレインもまたホイットマンやブライと同じく自己の内部に「至高者」の存在を

意識できる詩人である。最高の詩人は、最も加工しにくいように思える多様な力を調和させ、それを溶かし、時の流れ

に応じて、その意義を付加する一つの普遍的なヴィジョンにまで高めることができる。「永遠の相」のもとにおける「詩

の力」は、「進化論や進歩の観念」に束縛されず、「人間の価値の最も完全な綜合」を黙示する。如何なる科学的な襲撃

や脅威に晒されても、この詩の本質は変わらない。「詩的な預言」は、客観主義的な「事実」に立脚する「予知」や「未

来」とは無関係であり、「最も研ぎ澄まされた審美的な反応」、さらには「ある絶対的な永遠世界」を捉える「一種特殊

な直観的認識」から生成される。

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 自然を効率的に扱い、技術者や科学者のように詩の「技法」を発展させようとした二〇世紀初頭の「改革者」たち

や、その後のアングロ・アメリカン・モダニストたちは、このクレインが言う「ある絶対的な永遠世界」を捉える「一

種特殊な直観的認識」、またはブライが言う個の「未知なる世界への探究」・「最も重要な知的な冒険」・「深い内面

世界に直面する試み」をないがしろにしていた。この新古典主義者・形式主義者たちの機械仕掛けの詩は、読者が

「原始の恍惚」へ回帰できる道を示さない。その詩はまた「詩人から独立した一つの構造物」であり、「詩人本体の延長

線」・「想像力を母胎とする動物」の「深層イメージ」が造り上げる「裸の詩」ではない。エイミィ・ローウェルに率

いられたイマジズムは、「環境に対して流動的に働きかける創造者としての詩人」ではなく、「環境の玩具として、た

だ印象を受像する知覚者としての詩人」たちを輩出するだけに終わった。

「明確さだけがひとを感動させる」と言うパウンドも、ブライが讃えるヒネメスの「裸の詩」の本質を直観していた

のである。画家と同じく詩人も「模写的または再現的な局面ではなく、その創造的な局面に依存すべきなのだ」とパウ

ンドは主張する。『キャントーズ』は、ブライの先の指摘にあるように、文化、政治、経済学に関する多くの思想や会

話や古典の断片を取り込み、他者の多様な観念や事実や言語を併合しながら、無限に拡張し続ける。だが、この膨大な

「渦巻き主義」の作品の中心には、特に「ピサ詩篇」が典型となるように、巨大かつ強烈な個性を持ったエズラ・パウ

ンドという詩人がいる。『キャントーズ』に関してブライ自身の言説を充てれば、そこではこの「作品を書いた詩人の

本体が外に現れ、遠く暗い闇の中へと伸びてゆく。詩自体が詩人自身の肉体で、詩人は自分の耳や指や髪を使って、

見ているのだ。」『キャントーズ』の「本体はある種の生命力を、そして矛盾し合う生命力をも釣り合わせる。それはカ

タツムリの殻が曲線の推進力と直線の推進力を調和させるのと同じだ。完成した本体は、生命力を破壊しないし、また

その生命力が本体を破壊することも許さない」のである。

 『キャントーズ』の渦巻きの中を、「魂の暗夜」も「雨の道」も「「風の道」も「羽衣の天使」も「月の姉妹」も「貨

幣」も「民衆の無知」も「無名の者の詩」も「ペルセポネーの館」も「利子」も「オデュッセウス」も「ティレシアー

ス」も「ニンフの森」も「半人半羊神」も「大きな巻き貝のような形をした/水精のネリアの洞窟」も「独占家や知識

の妨害者たち」も「孔子」も「シギスマンド・マラテスタの寺院」も「ダナエー」も「瓦礫の山」も「星」も「アフロ

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ディーテ」も「冥府の王プルートーン」も「丘の斜面に積まれた刈りたての乾草」も「みずみずしい春」も「黄昏の

驟雨」も「馬」も「歓喜の観音」も、「日は日のまわりを巡り」、「自然」にならって「すべてが流れる」のである。「暗

がりの中で金色は光を集める」、この「渦巻き主義」の「原始的な力を持つイメージ」にパウンドの『キャントーズ』

は支えられている。「主観、客観を問わずに」、「原始的な力」を持つ創造的なイメージの復活と発掘を提唱したのは実

はパウンドだった。芸術の興行師のパウンドは「深層イメージ」のブライの活動をも鼓舞していたのである。

 いつまでも、父親や兄の死体をひきずっては歩けない。そこでその死体を木の根元に埋葬する。すると、ある日にそ

の木がいつもより見事な深い色の花を咲かせる。それは、埋葬した死体が、深く大地の根を養って咲かせた花であっ

た。形骸化したモダニストたちがパウンドの「思考の脱け殻」を付けている中、ブライは殻を持たない「ウミウシ」の

本体と「形態」に気付いた。しかし、この「ウミウシ」は実はエズラ・パウンドという長く伸びる透明な巻き貝であっ

た。蛇足ながら、クレインのように、詩における極端な内面化は、逆に、詩人の精神を枯渇させ不毛なものにしてしま

うこともある。

 当然、ブライの「深層イメージ」は、一九六〇年代から七〇年代のアメリカの対抗文化の台頭と深く係わっている。

ピューリタニズムと産業主義の伝統を機軸とするアメリカの支配的な文化は、「外面的な人間」によるヴェトナム戦争

の拡大と泥沼化、人種差別の激化、公害問題と環境破壊の深刻化を招いた。「一次元的な抑圧的寛容」(H

・マルクー

ゼ)に覆われた社会、「政府という目に見えない組織」、「聡明な公共機関」、「学校、放送局、正統派の教会」が合理的

産業主義と功利主義の価値を優先させ、「同情ではない、競争が大切なのだ」と力説し、人々が社会的な役割演技(公

共の政治的・道徳的・規範的な言語に支配される日常生活)から離脱すること禁止した。

 ブライの「深層イメージ」は、この権威的な「目に見えない組織」による「外面的な人間」の精神的な監禁状態(客

観的な意識)からの解放と、それに付随する「内面的な人間」への魂の覚醒の瞬間を捉える。対抗文化はその核心にお

いて、近代合理主義がもたらした進化と進歩という科学的世界観に相対するアニミズム的、シャーマニズム的な世界観

を導入した。ブライは、本論で繰返し触れてきたように、「深層イメージ」を「想像力を母体とする動物」と説明する

が、この「イメージ」の動物的本能の精神的側面を解明するのが「無意識」という概念である。「外面的な人間」を動

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かしている真の動機は、彼が自分の決意に与えている動機とは必ずしも一致しない。彼は巨大な「目に見えない組織」

の操り人形であり、その真の動機は、すべてを支配しようとする権力への意志、つまり、おぼろげだが激しい欲望の

内にある。「私は岸に腰をおろし/釣りをしていた。あの干からびた野原に背中を向けて。/せめて自分の土地だけで

も整えてみようか」(『荒地』、第五部「雷神の言葉」)。このエリオットが典型となるが、混沌世界の中に秩序を求める

アングロ・アメリカン・モダニストたちも、すべてを支配、統制しようとする激しい欲望の内にあった。

 アメリカの対抗文化において、その文学的な遺産から、物質文明を嫌い、独りウオールデンの森中に入り貧しい生活

と高い思索を実践したソローや、魂と肉体の全一的な合一を『草の葉』で歌ったホイットマンが、ビート派のギンズ

バーグやスナイダーによって呼び戻され、再評価された。ディープ・イマジストのブライも、ギンズバーグやスナイ

ダーと同じく、個人至上主義的な共同体意識を持ち、「この太古の地」という太古的精神・本能の遺産である無意識的

精神への回帰を示す。この太古的精神の諸表現や原始的諸傾向は、公共の「外面的な人間」においては、「目に見えな

い組織」によって抑圧され、深い眠りについているが、完全に抹殺されてはいない。それは、「内面的な人間」におい

て、半覚半睡の状態にある。「深層イメージ」の想像は反模倣的な精神活動である。その「イメージは想像力を母胎と

する動物」なのだ。「深層イメージ」は、詩人の精神の再現や反映ではなく、驚異的な連想や隠喩的な変容の内に生じ

る詩人の魂・「内面的な人間」の精神生命の「跳躍」、言わば個の宇宙衝動から生まれる。ブライは、カタツムリが背

負う殻の螺旋模様の中に宇宙の「形態」を、つまり「深層イメージ」の〈元型〉を見いだした。この「渦巻き」は宇宙

を表象であり、無限の環である。そして、この「深層イメージ」の直接的な〈元型〉は、皮肉にもブライが「客観主

義」の系譜を作り上げた教主的な詩人として攻撃したパウンドの「渦巻き主義」のイメージの中に既存していたのだ。

 パウンドの「渦巻き主義」のイメージも太古的精神の「大いなる霊的な活力」から生まれ、読者を「原始の恍惚」へ

と連れ戻す。「天国は決して人工のものではない」(第七十六篇)のだ。そして、「ドラマはすべて心の中だ/石は彫刻

家が与える形を知っている/石はその形を深く知っている」(第七十四篇)のだ。『キャントーズ』の超自然的な力は、

オデユッセウス的な全同一人物(アダムズ、ジェファスン、孔子、シギスマンド・マラテスタ、古代中国の皇帝たち、

ピサの独房に捕らわれたパウンド、ムッソリーニ等)の上に注がれ、「ナクソスの航路に目をやった/すると神業、ま

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さしく神業だ/船は渦巻きの中で微動だにせず/櫂には蔦が絡まった、ペンテウス王よ/葡萄には種がなく海の泡ばか

りで/排水口の中にさえ蔦が生えたのだ」(第二篇、オヴィディウスの『転身物語』の自由な翻案)とあるように、ディ

オニュソスの神を呼び出す。パウンドがこの半異教精神・地霊の招魂を試みる場合、そこには葡萄やオリーブが豊か

に茂る自然の神秘感に満ちた風景が描出される。「〈崇められるべき〉黄金の冠を戴くアフロディーテよ」・「ヘルメス

の黄金の杖を持つ黒い瞼の女神よ」(第一篇)、この美と愛の女神もしばしばディオニュッソスに代わる「沿岸航海」の

守護神として呼び出されるが、パウンドが人格神であるジュピターやエホバなどの至高神を呼び出すことはない。

 太古的精神によって世界を創造するパウンドの「渦巻き主義」は、「我はすべての光の黙せるところに到れり」(第十

四篇)や「暗がりの中で金色は/光を集める」(第十七篇)といった新プラトン派的な神聖な知性のイメージの中に精

神の光明を捉える。暴力、荒廃、破壊が渦巻き、支配的な社会の強靱な枷をはめらる現代の都市文明とは異なり、パウ

ンドが理想とする真の文明は、古来の祭儀や神々を崇拝し、単純さや自然さを尊び、芸術を創造し育み、自然な驚異を

喜ぶ空間、つまり、「大いなる霊的な活力」を常に更新し続ける空間であった。「渦巻き主義」、いやそれ以前の彼のイ

マジズムのイメージは、生命と宇宙の深い源泉との紐帯を復活したいと願う強い渇望から生じている。

 二つの並置されたイメージや挿話や場面や光景が、その異質性にもかかわらず、突如として関連性を持ち始め、一瞬

にして閃く。イメージが一つのものから別のものへと飛躍・跳躍する。『キャントーズ』のこのイメージは、詩人自身

の生命力や精神と同じく、矛盾や不調和や混沌の中で絶え間なく自己変革を続けていくのである。「偉大な沿岸航海は

我々の岸辺に星たちを連れ戻す」(第七十四篇)。『キャンーズ』という「沿岸航海」も読者の「岸辺」にイメージとい

う無数の光芒の「星たちを連れ戻す」のである。それも太古の「自然にならって」(第四十七篇)。このイメージはまた

太古の半異教神・地霊である「神々の膝の下を/幾重にも/浅く渦巻く流れ」(第四篇)でもある。

  

  大地の女神、ゲーよ

    ハッカ、タチジャコウソウ、バシリカ香の名において

      汝より出てまた汝に帰り

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      この今よりも豊かな現在はないだろう

  ある日曜日に鮮やかなミドリ色のキリギリスを一匹もらった

  エメラルド色、いやエメラルド色よりも淡い色だ

            でも右の羽根がなかった

      このテントは葡萄の果実をくらう

  大地の女神と私のものだ

      「交わりは光を誕生させる」      (第七十四篇)

このパウンドの一節には、「トウモロコシ畑でキジを撃つ」で「この太古の地」に立つ詩人が体験する恍惚と歓喜に劣

らない強烈な感情がある。「この今よりも豊かな現在はないだろう」、この精神の突如の照明と解放は、「大地の女神」

から誕生し、またその「大地の母」へ帰る存在の無の意識から生じている。ブライの『ベッドから飛び起きて』のエピ

グラフも「我は裸にて母の胎内より生まれ/また裸にて戻る/母が我を与え、そして我を奪う/我は母を愛す」であっ

た。「意識と無意識の両者が創りだすイメージ」を提唱していたのは、ブライ以前に、実はエズラ・パウンドであった。

そして、ブライもパウンドも「無尽蔵の輪の微妙な連鎖が/もっとも卑近なものともっとも遙かなものを結びつける」

ことを認識する真のイマジストである。真のイマジストは「思考の脱け殻」を思考せず、古代的精神の超自然的意識

と、個の自由で「最も深い生活」から生まれるイメージを全体的調和の中に更新させるのである。

(本稿は二〇〇二年十月二十六日に工学院大学で開催された日本エズラ・パウンド協会、第二十四回全国大会での研究

発表原稿に加筆修正を施したものである)

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