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73家とまちなみ 63〈2011.3〉
まちなみ図譜・文献逍遙 東京大学大学院准教授
大月敏雄其ノ十四
もう一人の近代都市計画の父
田園都市を構想したエベネザー・ハワードはよく、近代都市計画の父と称されるが、実は、日本人にはあまりなじみはないものの、欧米ではひょっとするとハワード以上に人気が高いかもしれない、もう一人の近代都市計画の父と称される人物がいる。パトリック・ゲデスという人物である。アメリカを代表する建築家評論家であるルイス・マンフォードは、ゲデスを私淑し、その息子にゲデスと名付けたほどであった。現在もなお、自らをゲデス派と称する学者が、欧米にはたくさんいる。 彼は、今回紹介する『進化する都市』を著した人物として名高いばかりではなく、生物学者、市政学者、都市計画家としても名高く、晩年にはイ
ンドやイスラエルなどで実際の都市計画に携わった人物でもある。 生物学者、市政学者、都市計画家といった肩書が示すように、これらの学問を総合すると、そのまま現在でいうところの生態学(エコロジー)に近くなるところに、彼の人気の秘密が隠されていると思われる。彼の都市観は、ただ単に、都市をその地理的文脈から切り取って、単体の話として議論するのではなく、都市をもっと広い視野でとらえ、都市間の関係性に着目したところに大きな特徴がある。この考え方は、後のメトロポリス・メガロポリス論の先駆けであり、現在都市計画分野で盛んに議論されている、広域都市計画(Re-gional Planning)論の元祖といってもよいだろう。
また、都市をその時間的文脈から切り取って単体の話として議論するのではなく、時間変化、すなわち、歴史の産物としての都市の成り立ちに深く着目し、彼自身、実際に都市の歴史性を保存しながら開発を進めていく計画をいくつもつくっている。
CITIES IN EVOLUTION
今回とりあげる『進化する都市』は、1982年に西村一朗が完訳本が出版されているが、原書“CITIES IN EVO-LUTION”が出版されたのは、1915年のことであった。日本でいえば、大正4年。当時の日本では、田園都市なるものの概容がようやく理解されはじめ、大正デモクラシーや、第一次大戦によって起きた好景気を背景に、具体的な日本の都市計画と住宅地計画が始動しつつあった頃のことである。のちに見るように、そこに至るまでの30年くらいまでのあいだ、イギリスを中心として次々に起こっていた、社会的ハウジングの各種の実験は、ハワードの田園都市レッチワース(1903年−)に行き着くわけだが、本連載でもとり上げた、内務省地方局による『田園都市』(1908年)の発刊以来、日本では田園都市という言葉が、ひときわ大きくクローズアップされることになった。 その反動かどうかは知らないが、田園都市以外の都市研究動向は比較的薄く、日本に入ってきたように感
『進化する都市』パトリック・ゲデス著 西村一朗訳 鹿島出版会 1982年10月12日発行 四六判 360頁
〈原著〉“CITIES IN EVOLUTION — AN INTRODUCTION TO THE TOWN PLANNING MOVEMENT AND TO THE STUDY OF CIVICS” PATRIC GEDDEES, WILLIAMS & NORGATE, LONDON, 1915
翻訳本:表紙
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じられる。一度海外から日本に、インパクトのあるキーワードが入ってくると、日本人は結構しぶとくそのキーワードにしがみつき、海外でのそのキーワードやそれをめぐる動向の変化が生じても、結構無頓着であることが多い。ひょっとすると、田園都市の日本での流行と、“CITIES IN EVOLUTION”があまり紹介されなかったということの背景には、こうした島国日本ならではの習い性のようなものがあったのかもしれない。そういえば、ハワードとともに覚えておかなければならない、レイモンド・アンウィンの“Town Planning in Prac-tice”(1909年)も、欧米ではいまだに住宅地計画の古典的教科書として健在であるが、日本では翻訳もされずに、知る人ぞ知るの書物になっているが、この理由も同じように説明ができるのではないだろうか。ちなみに、ゲデスはアンウィンとも仕事をした経験を持つし、本書でもしばしば登場する。 こうしたことからも、日本において西村が“CITIES IN EVOLUTION”を訳したことは、大変意味のあることであった。原著には“An Introduc-tion to The Town Planning Move-ment and to The Study of Civics”という副題がついているのだが、これは「住宅地計画運動と市政学研究への招待」というふうに訳せる。ここ
で、西村は“CIVICS”の訳語として、翻訳当時あまり一般的ではなかった
「市政学」をあてたとことを、あとがきで述べているが、今やこの語は市民権を得ているといえよう。
都市と進化論
本書は全18章からなっているが、最初の1章と2章が、都市の進化と深い関係をもつパートとなっている。イギリス人で生物学者といえばダーウィン。もちろんゲデスも彼からは大きな影響を受けている。緻密なフィールドサーベイと膨大な量の観察記録。そこから科学的推論にもとづいて、ある仮説を立ていく。こうした自然科学的研究態度を身につけていたゲデスが取り組んだ都市研究にも、この方法論が適用されたのだ。
ゲデスは、図1のように、既存の都市の基層を調べていく調査を進め、都市がどのように時間の中で進化していくものかを調べていった。そして、都市の発展段階に関わるビジュアルな仮説を披歴している(図2、3)。 次に彼は、都市の圏域的な考察に入る。20世紀初頭に新たに都市になりつつある市街地を地図の上に落してみると、まるでそれらはサンゴ礁のように少しずつ大きくなっていき、やがてはそれぞれが連坦していくという事実を突き止めたのだ。彼は、こうした連坦してゆく都市群をコナーベーション(Conurbation)と命名した。そしてたとえば、ミッドランド(Midland)を中心に形成されゆくコナーベーションをミッドランドトン(Midlandton)などと名付けたりする(図4)。もちろん、
図2 ある街区のオリジナルの姿 図3 図2の庭を覆ってでたらめに建物を建てた現在の姿
図1 13世紀の原型を残す18世紀のサリスバリィ
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イギリスでひときわでかいコナーベーションが、ロンドンである。 こうしてゲデスの功績の第一番目として、これまで誰もが漠然と感じていた、都市の成長・進化の法則というものを、客観的なデータを用いて記述し、今後の進化を予測するという新たな都市論を展開したことをあげることができる。
ゲデスの見た住宅地計画の展開
第3章以降、ゲデスは、産業のあり方と都市のあり方の関連の考察に入る。そして早くも、石炭をエネルギー源として用いる産業世界の社会を、第一次産業革命の社会・旧技術(Pa-leotechnic)の社会と定義し、水力
発電による電気という新たなエネルギーを用いる産業世界の社会を、第二次産業革命の社会・新技術(Neo-technic)の社会と名付けた。 日本がその産業構造を、石炭依存型から石油依存型に移行したのは1960年代であり、それはエネルギー革命と呼ばれた。ゲデスの唱えたエネルギー革命は、その半世紀も前のことであったが、ゲデスが唱えたのは石炭から電気(石油発電ではなく水力発電)へということであった。日本が石油からクリーンな電気に移行するのは、ゲデスの提唱から100年が過ぎようとしているまさに今、取り組まれようとしているところである。このことからも、ゲデスが文明
評論家、生態学者としていかに先見の明をもっていたかがうかがえるというものである。 そして、旧技術社会の住環境(図5)
と新技術社会の住環境(図6)は異なってしかるべきだと主張する。そして、新技術社会における市民による都市づくりの意識変化を次のように描いている。 彼(労働者)は、住宅建設、まちづくり計画(town planning)さらに都市設計にまで熱心になるであろう。そして、これらすべては、歴史の過去の栄光に匹敵し、いやさらにそれを超えるものですらある。彼は、雄大な街路、上品な住宅(noble hous-es)、庭園および公園を要求し、創造するだろう(訳書 p83、カッコ中引用者註)。 さらに、彼は新技術社会における住宅地づくりがどのように展開されるべきかについて論述する。まず、冒頭で述べた都市の進化のあり方をよく理解することから彼の考察は始まる。 都市は今や拡がっていくインクのしみや油の汚れのように拡大することを止めなければならない。一度本質的に発展すると、都市は星状に花を開かせ緑の葉を放射状に花と交互に散らしながらその成長を繰り返す
図4 ミッドランドトンとして連坦しゆくミッドランドの町々
図6 ヨークシャーにある鉱夫住宅(新技術社会)図5 カーディフにある鉱夫住宅(旧技術社会)
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であろう(訳書 p105)。 こうした性質をもつ都市の生態は、図7のような現実を生みだす。すなわち、図左のように、都市は最初に田舎を侵食していくものの、一度これが「本質的に発展」してしまうと、逆に田舎が都市を侵食しているかのような現象になるというのである。このことは、のちの1990年前後の時代に大きく議論になった、日本の線引き区域内の市街農地のあり方をめぐる議論を予見したものといってよいだろう。 そして、第7章でゲデスは、本書の
副題にもある住宅供給運動の変遷について述べることになる。ここでは、いくつかの先駆的住宅供給運動が写真とともに並べられているが、まずは、コックスゼラチン工場の労働者住宅(1893年)が出てくる。これについてはほとんど開設が施されていないが、おそらく、スコットランドにおける企業による住宅建設のはしりの一つの事例であろう。 そして、次々と有名な事例が解説される。石鹸工場の労働者のために建てられたポートサンライト(1894年)、チョコレート工場主がつくった
ボーンビル(1895年)、ココア工場主がつくったニューアースウィック
(1904年)(いずれも入居開始年)。この先に、ゲデスによるハワードの田園都市に対する感想が述べられている。 エベネザー・ハワードとその田園都市は、これら実際的なユートピア主義者の長い系譜の一つの頂点に達した型に過ぎないことが判るのだが、同時に、田園都市協会の株主たる彼の忠実な支持者たちで、他のすべての経験主義者と同じく、多年適正な配当を期待して、結局は最初のものだけに終わった、そういう人々のこともまた忘れてはならない(訳書 p 327)。 確かにゲデスは、ハワードを高く評価しているが、それはあくまでもイギリスで起こった一連の出来事の一つとして捉えられ、過剰な賛美をたしなめてすらいる。
ドイツ視察から得られたもの
第8章からは、ゲデスがイギリス人を中心とした100人をこす都市計画関
図7 町(town)から田舎(country)へ(左)/田舎から都市へ
図8 コックスゼラチン工場の労働者住宅
図11 ニューアースウィックの住宅
図9 ポートサンライトの住宅
図10 ボーンビルの少女たちの憩いの場
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係者とともにおこなったドイツの都市計画に監視する視察調査にまつわる出来事が延々と述べられる。そしてまず「旅行(Travel)」の重要性が説かれている。ゲデスのドイツへの旅は、よっぽど印象深かったようだ。ドイツに行った理由に関連して、ゲデスは次のように述べている。 偉大な国々に対して尊敬する根拠−イタリアは宝の庫、フランスは先見性と指導性、アメリカは比類なき精力と活気に満ちた努力とその発展の可能性、などであるがこれらとともに今われわれが、読者を案内しなければならないのはドイツの諸都市である。(中略)われわれが時間をかけ、徐々に獲得した商工業の経験を、彼らは速やかに活用したばかりか、われわれの旧技術の多くの悪弊を避け、その研究期間を短縮した(訳書pp.169-170)。 当時、イギリスやフランスからすれば、ドイツは新興国であった。ドイツからはイギリスにたくさん学びに来ていたが、イギリスからドイツに学ぶものはないだろうと思われていた。しかし、ドイツは旧西欧から要領よく学びとった知識や技術によって、ゲデス好みの都市計画が進行していた。その代表例が、フランクフルト新港であった(図12)。彼のフランクフルト新港に対する評価は、
「港湾労働者のための庭や公園などのある計画的住宅供給とにおいて、都市計画の傑作」というものであった。一人一人の生活空間から、世界につながる流通計画までが、一体の組織的計画によって成立しているところは、まさに生態学者ゲデスの好むところであった。 さて、このようなドイツへの「旅」はたくさんの写真や設計図、模型、そして視察参加者の記憶など情報の
蓄積をもたらした。これらのものをより広いレベルで他者と分かち合いたいという思いから、また、さらに総合学としての「市政学」の重要性をうったえようとの観点から、「都市とまち計画博覧会(The Cities and Town Planning Exhibition)」が企画・実施され、第一回目として1913年にゲントで行われた。この博覧会の内容は開催地ごとに異なってはいたが、それは基本的に都市の過去・現在、未来を、世界レベルで、そして開催地のレベルで総合的に展示するものであった。 その後この展覧会は、エジンバラ、ダブリンをめぐり盛況をおさめたが、展覧会がインドへ移ろうとしていた1914年、皮肉なことに彼の敬愛するドイツの巡洋艦エムデンによって、
展覧会の展示物が沈められてしまった。すでに、国際政治の世界では第一次世界大戦に突入してしまっていたのであった。
展望台 Outlook Tower
筆者は、いまだ訪れたことはないが、エジンバラには「Outlook Tower」という小さいお城のような建物が残っており、観光名所となっているという。この建物の下部は17世紀に建設され、上層は19世紀半ばに増築されたものである。この建物を、ゲデスが買い受けたのは1892年のことであった。 この展望台は、まず最上階から見なければらない。屋上に突出した塔には、カメラ・オブスキュラ(ピンホールカメラのようなもの)が仕組ま
図12 フランクフルトの新港
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れ、エジンバラを一望できる。来館者はまずここで、エジンバラの環境を実態的として把握するのである。 そして5階にはエジンバラの展示、4階にはスコットランドの展示、3階には英語圏社会の展示、2階にはヨーロッパの展示、そして1階には世界の展示が待ち受けている。展示の中身は、あらゆる学問の成果が反映され、そのないようとしては、天文学、地理学、気象学、植物学、人類学、経済学、そして都市計画や住宅地計画をもふくむものであった。 この展望台は、ゲデスが中心となって推進した上述の博覧会を、ある意味で補完するものであり、定点観測値としての社会の観測所という側面も持っていた。こうした観測所が、あらゆる町に点在し、それぞれの、
まちの過去・現在・未来を展望する市政学の一環としての都市計画や住宅地計画の普及を、彼は目指したのである。 こうした、徹底的な自然科学主義と未来展望主義を融合させたところに、彼の都市計画の父としての神髄がある。
大月敏雄(おおつき・としお)東京大学大学院建築学専攻・准教授。1967年福岡県八女市生まれ。東京大学大学院博士課程修了後、横浜国立大学助手、東京理科大学准教授を経て現職。同潤会アパートの住みこなしや、アジアのスラムのまちづくりなどを中心に、住宅地の生成過程と運営過程について勉強している。著書:『集合住宅の時間』、『奇跡の団地 阿佐ヶ谷住宅』など
図13 展望台の様子 図14 展望台の立面