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舟入むつみ園
一 般 養 護
舟入むつみ園は、市内天満川の河岸・公園に隣接した静かなたたず
まいにあり、しかも交通至便で広島市立舟入市民病院と隣接し養護ホー
ムとしての環境にめぐまれており、昭和45年(1970年)4月に一般養護
及び特別養護の併設施設として開設された。
現在は、平成5年(1993年)度の居住環境等の整備による全面改修に
より、入園定員100人の一般養護と定員4人のショートステイの施設と
して、また、送迎方式によるデイサービスも実施している。
所在地:〒730-0844 広島市中区舟入幸町14番11号
(TEL082-291-1555)(FAX082-291-1854)
とうじ
いのくち
こくみんがっこう
ちょうれい
げんばく
と
う
か
とも
ふ
と
ぼうくうごう
ひ
な
ん
ひ
な
ん
むぎ
そだ
-1-
いのくち
私の被爆体験
中前
キクヱ(八十六歳)
被
爆
地
……
井口(爆心地より五・〇㎞)
当時の急性症状
……
一過性脱毛
家
族
の
死
亡
……
なし
現
在
の
症
状
……
高血圧症、変形性関節症
当時、井口の国民学校五年生でした。私達の時代は夏休みもなく、毎日学校に行っ
て、畑でサツマイモや麦を育てていました。
朝礼のため、運動場にいる時に原爆が投下され、「ピカッ」と光り「ドン」という
音と共に、吹き飛ばされました。先生に、早く防空壕に避難するよう言われ、急い
で避難しました。
被爆時の状況及びその後の生活
つぶ
ふ
だ
こわ
そ
ぼ
か
た
づ
ひ
ば
く
げんばくとうか
いのくち
みな
わ
かい
こわ
た
て
ぐ
ま
くろ
けむり
しだい
ま
か
も
ご
-2-
市内は真っ黒い煙がモクモクと上
がり、次第に真っ赤に燃えていきま
した。
そして、黒い粒の雨が降り出しま
した。家に帰ると建具が壊れ、ガラ
スも散っていて、それを祖母が片付
けていました。
原爆投下の次の日から、井口の学
校に被爆した人が運ばれてきました。
運ばれてくる人は皆、男か女か分か
らないくらい、ぼろぼろになってい
ました。
私達は、毎日運ばれてきた人を介
護しました。
最初は怖くてしょうがなかったけ
学校の救護所かろうじて火災からのがれたが、校舎は爆風で半壊、窓や壁にむしろをおおい、負傷者を収容した。(陸軍船舶司令部写真班撮影/広島原爆被災撮影者の会提供)
な
こわ
か
い
ご
みな
な
う
み
べ
ほ
けっこん
ひ
ば
く
ころ
たが
ひ
ば
く
ない
よっ
あな
い
ぶ
じ
じょうぶ
おぼ
おだ
かんしゃ
しょ
-3-
ど、だんだん慣れて怖くなくなりました。
介護をしても、皆すぐに死んでいきました。亡くなった人は、海辺に掘られた
四つの穴に入れられ焼かれていました。
結婚し、主人も被爆していましたが、初めの頃はお互い被爆していることは、内
緒にしていました。子どもができた時は、無事に生まれるか心配しましたが、丈夫
な子が生まれた時は、安心したのを覚えています。
今はむつみ園に入園して、穏やかに生活を送ることができて感謝しています。
あおじろ
せんこう
はし
ぬ
はる
ひろしま
ぐも
わき
いっき
ひ
こ
う
き
と
さ
ちょうかい
さい
ひろしま
はな
よ
し
だ
ちゃくい
さ
かんじゃ
-4-
八月六日のこと
畠山
知子(八十九歳)
被
爆
地
……
(看護被爆)
当時の急性症状
……
なし
家
族
の
死
亡
……
なし
現
在
の
症
状
……
二型糖尿病、白内障、両変形性膝関節症
八月六日、朝会の時でした。十四歳でした。広島から遠く、四十キロも離れた吉田
にも、青白い閃光が矢のように走り抜けました。
遥か広島の空に、大きなキノコ雲が見えました。その脇を一機の飛行機が飛び去る
のが見えました。それがB29だったのです。
午後から、着衣はボロボロ、手の皮のぶら下がった多くの患者が、何台ものトラッ
被爆時の状況及びその後の生活
かんびょう
つ
からだじゅう
ぜんしん
ぬ
あくしゅう
すご
きゅうきゅうぶくろ
つうがく
ふくろ
さんかくきん
し
け
つ
ぼ
う
とうじ
れいぼう
せんぷうき
う
ち
わ
あお
きずぐち
たまご
う
つ
ひとばん
いっぴき
びん
また
くさ
あくしゅう
べんとう
ぐらい
ぼう
ひじょうしょく
だいず
い
い
ぼう
くうずきん
ひつじゅひん
つら
いやくひん
い
し
しにん
さけ
うらやま
あな
ほ
きゅうば
ちゅうや
けむり
た
はこ
ろ
う
か
し
ね
-5-
クで運ばれて、学校の廊下へむしろを敷いて寝かされました。八月七日からは、その人
達の看病に着きました。体中に何か分かりませんでしたが、白い薬が全身に塗って
あって、悪臭が凄かったです。
当時は、夏休みも日曜もありませんでした。冷房はもちろん、扇風機もありませ
んでした。ハエを団扇で扇いでも、傷口にハエが卵を産み付け、一晩でそれが大き
くなっていました。ウジ虫をピンセットで一匹ずつ取って、瓶へ入れました。又、
人の肉が腐っていくのですから、悪臭が鼻について弁当も食べられないくらいでした。
救急袋は、毎日身に着けて通学しました。袋へは、三角巾と止血棒(二十セン
チ位の棒)、非常食として大豆を炒ったものを入れていました。それに、綿入りの防
空頭巾が必需品でした。
「水をくれ水をくれ。」と叫ばれても、「水を飲ませたら死んでしまうから。」とき
つく言われていましたので、それが思い残しでもあり一番辛かったです。医薬品と
医師が足りないので、毎日死人が何人も出ました。
学校の裏山へ大きな穴を掘って、そこが急場の焼き場でした。昼夜なく煙の絶え
ることはありませんでした。
がっしょう
な
む
あ
み
だ
ぶ
つ
いくまん
みたましず
げんばくひ
せんこう
ぐもえいえん
わす
-6-
合
掌、南無阿弥陀仏
あの閃光あのキノコ雲永遠に忘れず
幾万の御霊鎮まる原爆碑
市立第一国民救護所かろうじて火災からのがれたが、校舎は爆風で半壊、窓や壁にむしろをおおい、負傷者を収容した。
(陸軍船舶司令部写真班撮影/広島原爆被災撮影者の会提供)
わす
の
う
り
つら
ざんりゅう
とうじ
きゅうせいこうじょ
さい
きんろうほうし
たてものそかい
せんばいこうしゃ
ひふくしょう
いろいろ
じゅうろうどう
ひ
び
えんてんか
はちまきいっぽん
つい
やまい
たお
い
し
き
ふ
め
い
れんじつ
くうしゅう
いず
おうしん
し
じ
どお
す
だんばらひがしうらちょう
-7-
原爆と私の人生
原
惠美子(八十九歳)
被
爆
地
……
段原東浦町(爆心地より二・五㎞)
当時の急性症状
……
なし
家
族
の
死
亡
……
(当時)なし
現
在
の
症
状
……
骨粗鬆症、皮脂欠乏症
忘れたくても、私の脳裏にはびっしりと辛い思い出として残
留しています。
私は当時、旧制高女の2年生十三歳でした。
連日の勤労奉仕、建物疎開、専売公社、被服廠と、色々と重労働の日々が続きま
した。毎日、炎天下のもと、鉢巻一本で作業しておりましたが、遂に私は病に倒れ
意識不明になっておりました。「入院させても、連日の空襲では何れにしても助から
ない。毎日往診に来ますから。」と言われ、お医者様の指示通りに過ごしておりました。
被爆時の状況及びその後の生活
すご
せんこう
か
お
く
ど
だ
い
ゆ
か
ぐ
たお
じょうたい
いっしゅんま
くら
あんこく
しばら
じょうたい
からだじゅう
や
け
ど
みずぶく かたがた
ぎょうれつ
まとばちょうほうめん
て
お
ぐるま
け
が
で
き
ご
と
まち
むかいなだほうめん
ひ
な
ん
へいたい
ちょうだい
はな
ほうたい
へいたい
いた
すがた
わす
むかいなだ
か
そ
う
ば
ひとばん
す
ていさつ
だんばら
じたく
ばくふう
じょうたい
やけど
かた
きずぐち
ちりょう
ざんこく
まい
ひ
じ
や
ま
ば
し
みなみ
あさの
としょかん
やす
こ
ようこ
すがた
にん
-8-
その時、凄い閃光とともに家屋を土台から揺すられ、家具は倒れ外に出ることさ
えできない状態になりました。一瞬
真っ暗になり、暗黒の時間が暫く続きました。
もう不安さえも、感じられない状態だったと思います。
出口を作り、外に連れ出され、そこには体中火傷の水膨れのできた方々の行列で、
まるでこの世の出来事とは思われませんでした。
午後より、的場町方面から火の手が上がり、小さな手押し車に乗せられて、怪我
人だらけの街を向洋方面に避難いたしました。
「ウチは大野じゃけえ連れて帰って。」、「兵隊さん水を頂戴。」、今も耳から離れる
ことは無く、包帯だらけの兵隊さんの痛ましい姿は忘れることはできません。向洋
の火葬場の近くで、一晩
過ごしました。その夜もB29は偵察に来たようです。
二日後に段原の自宅に帰り、爆風で飛ばされた家の中は、手が付けられないよう
な状態でした。火傷をなさった方は傷口にウジがわき、ピンセットで取りながらの
治療は、とても残酷で見られたものではありません。
最初の登校で参りました場所は、比治山橋の南。浅野の図書館に行っていた、康
子ちゃんと葉子ちゃんの姿はありませんでした。
(米国戦略爆撃調査団撮影/米国国立公文書館提供)
-9-
ようこ
いっしょ
たま
な
な
ひとり
つら
むかしなら
くち
かく
おだ
いの
ふで
広島県食糧営団比治山食糧倉庫の電車通りを挟んで
向かいにあった桐木町の消防施設
葉子ちゃんのお姉さまに会い、借りて
いた本を返して、オイオイと泣きました。
一緒に登校していた玉ちゃんも、亡くな
りました。
死にかけていた私が助かり、仲良しの
友達をすべて失い、親も亡くなり一人
ぼっちになりました。
辛い時、悲しい時、昔習ったオールド
ブラックジョーを口ずさみながら泣いて
います。
戦いのない、核のない平和で穏やかな
世の中が続くことを祈りながら、筆を
置きましょう。
-10-
ころ
さい
す
がくとどういん
つ
そ
く
れ
し
よしうら
しゅく
しょ
くれこうしょう
ひ
び
つ
そ
つ
そ
ひろしましうちこしちょう
さいこんま
ざつだん
かた
に
お
うちこしちょう
私の一生で一番不安だったこと
山崎
時江(九十六歳)
被
爆
地
……
打越
町(爆心地より一・八㎞)
当時の急性症状
……
下痢、脱毛
家
族
の
死
亡
……
なし
現
在
の
症
状
……
脂質異常症
あの頃、私は二十歳過ぎで、母校の学徒動員の付き添いとして、呉市の吉浦の宿
所から呉工廠に通う日々でした。
付き添いの交代日は六日でしたが、五日の夕方に代理の付き添いが来てくださっ
たので、私は五日の夜に広島市打越町の姉の家まで帰ってきました。
再婚間もない姉の家でしたけど、いろいろな雑談で肩の荷も下りる夜でした。
被爆時の状況及びその後の生活
-11-
ひさびさ
す
し
はか
となり
ぶんけ
す
し
お
け
かってぐち
つく
き
お
く
い
よ
う
おどろ
ばくだん
さ
い
よ
う
ふ
わ
さいわ
おお
け
が
たお
おも
そうどう
おおごと
朝食後、久久だからお寿司を作っ
てやるとの計らいで、私は隣の分家
に寿司桶を借りに、勝手口へ行きま
した。
初めての家で、どんな造りになっ
ていたのか記憶にないのですが、「ピ
カッ」と異様な光りで「ドキッ」と
して、驚きと不安でどうすることも
できず、「ドーン」と爆弾の裂ける
音というのでしょうか、異様な風が
吹いてきてガラスは割れる、がたが
た倒れる、打って変わってこの世と
は思えぬ騒動になりました。
幸
い
大きな怪我はなく、兄も姉
も私も動けました。これは大事に
打越町から南南東を望む右端には防空壕、その奥に住野工業の煙突と爆風によって壁面と屋根の
はぎとられた住野工業、中央付近に鉄骨アーチの横川橋が見える。
(米国戦略爆撃調査団撮影/米国国立公文書館提供)
-12-
む
が
む
ち
ゅ
う
せ
い
か
やまがた
しんじょう
こ
つか
ひろ
しんじょう
つか
よくじつ げ
り
そ
ぼ
やくそう
せん
ゆいいつ む
が
む
ち
ゅ
う
きず
ひ
ふ
ぬ
ほか
ふ
こ
う
かいふく
とつぜん
た
き
うば
ふる
ひ
び
ひ
び
ゆめ
は なった、こんな所に私はおれない、早く帰らせてということになり、取るものも取
りあえず無我夢中で私の生家、山県の新庄へ向かいました。
苦しいだけでしたけど、命がけでしたからあの道が越せたのだと思います。疲れ
果てた時、私にはどこかわかりませんがトラックに拾われて、その日の夕方に新庄
に着きました。
帰った安心と疲れで、翌日から下痢がひどく動けませんでした。祖母が薬草を煎
じてくれたのが、唯一の薬だったように思います。無我夢中だったので気付きませ
んでしたが、手、足、顔が傷だらけで、皮膚も油を塗るより他になく、不幸はつの
るばかりでした。快復には二か月近くかかったと思います。
人間に生まれた以上、平和な日々が送りたいです。人生に夢のない人はおりません。
突然断ち切って命を奪われる戦争。体が震えます。心から平和な日々の続くことを
祈ります。