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1 1 若宮丸のロシア漂流民と 寒風沢出身の津太夫・左兵衛 2016.6.18 みやぎ街道交流会 設立10周年記念交流大会 in 寒風沢 宮城学院女子大学 平 川 記録で確認できる漂流 約500件(生存・帰還分) 海の藻屑となった漂流民は数十倍か <漂流先> 近海/八丈島、小笠原諸島、御蔵島、青ヶ島 北方海域/カムチャツカ半島、アリューシャン列島、樺太、 千島列島など 南方海域/琉球、台湾、ルソン島、ベトナム、 ミンダナオ島など アメリカ海域/アラスカ、カリフォルニア、メキシコ、ハワイ、 3 若宮丸漂流民 アリューシャンからオホーツク、 そしてイルクーツクへ 1793年11月 石巻から江戸に出帆。塩屋 崎沖で暴風雨にあい漂流 翌年5月 アリューシャン列島 の小島に漂着 若宮丸の模型(6分の1) 4 9、平兵衛 (石巻) 10、初()三郎(石巻) 11、清 (石巻) 12、巳之助 (石巻) 13、善 (石巻) 14、市五郎 (石巻) 15、吉郎次(小竹浜) 16、茂次郎 (小竹浜) 若宮丸の乗組員161、儀兵衛 (室浜) 2、太十郎 (室浜) 3、津太夫 (寒風沢) 4、左兵衛 (寒風沢) 5、左太夫 (寒風沢) 6、民之助 (寒風沢) 7、銀三郎 (寒風沢) 8、辰 (桂島石浜) 帰国組4現・塩竃市65 アリューシャン列島の住居 (穴居・土室) 『環海異聞』巻1 漂流民が見た北方世界 6 漂流民を乗せて氷海をオホーツクに向かうロシア船 『環海異聞』巻1 漂流民が見た北方世界

若宮丸のロシア漂流民と 寒風沢出身の津太夫・左兵衛1 1 若宮丸のロシア漂流民と 寒風沢出身の津太夫・左兵衛 2016.6.18 みやぎ街道交流会

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1

若宮丸のロシア漂流民と

寒風沢出身の津太夫・左兵衛

2016.6.18 みやぎ街道交流会

設立10周年記念交流大会 in 寒風沢

宮城学院女子大学

平 川 新

記録で確認できる漂流

約500件(生存・帰還分) 海の藻屑となった漂流民は数十倍か

<漂流先>

近海/八丈島、小笠原諸島、御蔵島、青ヶ島

北方海域/カムチャツカ半島、アリューシャン列島、樺太、

千島列島など

南方海域/琉球、台湾、ルソン島、ベトナム、

ミンダナオ島など

アメリカ海域/アラスカ、カリフォルニア、メキシコ、ハワイ、

3

若宮丸漂流民 アリューシャンからオホーツク、

そしてイルクーツクへ

1793年11月

石巻から江戸に出帆。塩屋崎沖で暴風雨にあい漂流

翌年5月 アリューシャン列島の小島に漂着

若宮丸の模型(6分の1)

4

9、平兵衛 (石巻)

10、初(八)三郎(石巻)

11、清 蔵 (石巻)

12、巳之助 (石巻)

13、善 六 (石巻)

14、市五郎 (石巻)

15、吉郎次(小竹浜)

16、茂次郎 (小竹浜)

若宮丸の乗組員16人

1、儀兵衛 (室浜)

2、太十郎 (室浜)

3、津太夫 (寒風沢)

4、左兵衛 (寒風沢)

5、左太夫 (寒風沢)

6、民之助 (寒風沢)

7、銀三郎 (寒風沢)

8、辰 蔵 (桂島石浜)

帰国組4人

現・塩竃市6人

5

アリューシャン列島の住居 (穴居・土室)

『環海異聞』巻1

漂流民が見た北方世界

6

漂流民を乗せて氷海をオホーツクに向かうロシア船

『環海異聞』巻1

漂流民が見た北方世界

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7

シベリアの馬車と犬そり

オホーツクからイルクーツクへ

漂流民が見た北方世界

8

[死亡]

平兵衛(石巻)

1794年 漂着したアリューシャンで死亡

市五郎(石巻)

1796年 ヤクーツクで死亡

吉郎次(小竹浜)

1799年 イルクーツクで死亡

残り13人がイルクーツクで生活

9

漂流民のロシアでの生活

・役所から毎月銅銭300枚支給

・人夫稼ぎ

洗礼を受けて帰化すると待遇もよくなると勧め

られて

受洗した若宮丸船員

1796年 善六と辰蔵

1797年 民之助と初(八)三郎

1803年 巳之助と茂三郎(ペテルブルグで) 10

日本語学校の日本人教師 判明分16人

• 1696年漂着 大坂の伝兵衛

• 1710年漂着 奥州のサニマ(三右衛門?)

• 1729年漂着 薩摩のソーザとゴンザ

• 1745年漂着 奥州佐井村の4人

• 1783年漂着 伊勢の庄蔵と新蔵

• 1794年漂着 若宮丸の善六

ほか

11

そのころ日本では……

1799年 若宮丸船主米沢屋平之丞

石巻・禅昌寺で乗組員の七回忌

供養塔を建立

供養塔は

平成元年、参道工事中に発見

12

イルクーツクの商人レザーノフ 日本との貿易交渉のために

漂流民送還を皇帝に提案

1803年 漂流民10人 ペテルブルグに入り、皇帝に謁見

1803年、13人がイルクーツクを出発

<途中で3人が脱落>

清蔵(石巻)

車酔いのため途中で脱落、イルクーツクに戻る。10年後の生存

を確認

左太夫(寒風沢)

車酔いのため途中で脱落、イルクーツクに戻るか。その後の消

息不明

銀三郎(寒風沢)

病気のため途中で脱落、イルクーツクに戻り商人となる

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13

1803年5月

漂流民10人 ペテルブルグに入り、皇帝に謁見

漂流民10人がアレクサンドル1世の謁見をうけた王宮 (ペテルブルグ「冬の宮殿」:現在のエルミタージュ博物館、ネヴァ川の畔)

14

皇帝に謁見した10人の漂流民

儀兵衛(室浜) 帰国希望

太十郎(室浜) 〃

津太夫(寒風沢) 〃

左兵衛(寒風沢) 〃

善 六(石巻) クリスチャンにつき残留希望(イルクーツク)

辰 蔵(石浜) 〃

民之助(寒風沢) 〃

初(八)三郎(石巻) 〃

茂次郎(小竹浜) 残留希望、ペテルブルグで受洗

巳之助(石巻) 〃

残留組-キリスト教に入信、結婚、病気などの理由による

若宮丸船員の行程図 漂流から帰国まで 世界一周

1803年6月 ロシアを出航 1804年9月 長崎に到着

16

佐賀藩「魯西亜渡来録」 9月6日

異船見届けのため飛船差し出し~言語・文字など差し分からず候えども、右異船へ日本人四人乗り組み罷りあり、右の者どもよりオロシア船に相違これなき段、申し出候

査検船を派遣したところ、日本人4人が乗っており、これはロシア船に間違いないと申し出た。

17

・ロシア人とは長崎通詞がオランダ語で通訳した。船長と医者はオランダ語が分かった。

・「頭分の者(レザーノフ)は日本言葉少し通じ候」

佐賀藩「魯西亜渡来録」 9月6日

ロシア人との会話は主にオランダ語

ロシアの画家が描いた長崎の通詞たち

18

• その方ども何国の者に候や

答 仙台の者どもに御座候

・漂流人とも服はおろしあ服着致し、髪もオロシア人同様、惣髪、もっとも右四人のうち太十郎、日本服着致しおり候、いずれも服は白木綿、縞木綿の類にて、おろしあ言葉よく覚え居り候様子に相見え候

4人のうち太十郎だけが和服を着ていた

佐賀藩「魯西亜渡来録」 9月6日

ロシア人への質問を終えたあと、漂流民4人に質問

和服はロシアで仕立て (『環海異聞』) 「ペテルブルグには「世界中の衣服を集めた所がある。

この中に日本人の服もあった」

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19

■11月4日 長崎奉行所よりロシア人に質問

日本人4人はいつ奉行所に差し出すのか?

(答え)

幕府役人との正式の交渉が始まるまでは渡さない

■入港後、レザーノフ漂流民を引き渡さず

長崎奉行の再三の要請を拒否

佐賀藩「魯西亜渡来録」

大島幹雄訳『レザーノフ日本滞在日記』(岩波文庫)

太十郎は、ラクスマンによって日本に送還された光太夫が牢獄にいると聞いてからノイローゼに陥っていたのだ。

漂流民たちは、親戚と会うかわりに、同じような運命が自分たちを待っていることを知って、ロシアを捨ててきたことを後悔していた。

20

しかし大黒屋光太夫は江戸の小石川薬草園に住居を与えられ、比較的自由に暮らしていた

文化元年(1804)12月17日

太十郎、自殺をはかる

・当初、漂流民の引き渡しを拒んだレザーノフは、

太十郎の自殺未遂事件で不安に

・長崎奉行に4人の引き渡しを提案

・長崎奉行は江戸に問い合わせ

許可があるまで引き取らず

・結局、レザーノフの長崎退去時に引き渡し

21

レザーノフと幕府との交渉の駈け引きのために

漂流民は6ヶ月引き渡されず 22

帰国した漂流民の動き

*1805年3月 幕府、通交を拒否し退去を命じる

*レザーノフ、漂流民を引き渡して長崎を出港

*漂流民4人、長崎奉行所の取り調べを受ける

踏絵と事情聴取

踏み絵

23

長崎から江戸へ

*半年後の1805年10月

仙台藩士、長崎で漂流民4人を引き取る

*同 12月 江戸藩邸で藩主に謁見

大槻玄沢ら、漂流民から事情聴取

「環海異聞」を作成

大槻玄沢はこの編著を機に『北辺探事』ほか数冊のロシアに関する著書を執筆

若宮丸漂流民は日本のロシア研究に大きな貢献 24

ロシア史料にみる帰国した4人の名前 「サンダイ(センダイ)ノクニと呼ばれる地区の日本人たちの名簿」

1.ツダイ →(土井)津太夫(寒風沢)

2.サフェイ ドイヤ →土井屋左兵衛(寒風沢)

3.タジュロ オクダイ →奥田屋太十郎(室浜)

4.ギフェイ オクダイ →奥田屋儀兵衛(室浜)

*庶民は許可なく苗字の名乗りはできなかったが、

私的には苗字を屋号として使っていたことが

ロシア史料から判明する

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25

寒風沢へ帰郷後の文化3年(1806)6月

津太夫 若宮丸船主米沢屋のもとへ

漂流記「陸奥仙台領石巻米沢屋船魯西亜漂流之事」

「文化三年寅年二月帰国せし水主四人の内壱人、寒風沢浜津太夫と申もの、船主平之丞方へ見舞に来て夜語りいたせしを聞書きしるすのみ」

26

帰郷漂流民 その後

◇幕府若年寄 堀田正敦マサアツ

• 文化4年(1807)蝦夷地巡見

この前年、レザーノフの指示により

ロシア海軍士官フヴォストフがエトロフ等を襲撃

・7月16日 野辺地(青森県) 堀田の紀行文より

「おととしの春、北のえみしよりおくりかへされし仙台の船子ふたり、かの国のさま、たづぬることもあらんとてぐしたりしを呼び出て、夜更るまで何くれの物語するを聞きつ」

・7月27日 函館で南部牛滝村の漂流民と仙台漂流民を集めてロシアの話しを聞いた

27

「仙台の船子ふたり」とはだれか?

文化4年(1807)7月の生存者

• 太十郎 文化3年(1806)4月没

• 儀兵衛 文化4年(1807)2月歿

○津太夫 文化11年(1814)7月歿

○左兵衛 文政12年(1829)4月没

幕府高官によるロシア情報の収集に協力

漂流民のロシア情報がロシア対策の参考に

28

菩提寺と戒名をもつ漂流民(塩竃市関係者)

1、儀兵衛 (室浜) 宮戸:観音寺

2、太十郎 (室浜) 宮戸:観音寺

3、津太夫 (寒風沢) 寒風沢:松林寺

4、左兵衛 (寒風沢) 寒風沢:松林寺

1、左太夫 (寒風沢) 寒風沢:松林寺

2、民之助 (寒風沢) 寒風沢:松林寺

3、銀三郎 (寒風沢) 寒風沢:松林寺

4、辰 蔵 (石浜) なし

帰国者

未帰国者

帰国した津太夫左兵衛が東名浦を出帆した日を命日として供養か

命日は寛政5年(1793)11月29日

1805年4月 レザノフ 長崎を出帆

1806年10月~07年6月

フォヴォストフ海軍中尉、樺太・択捉・利尻島を

襲撃し、日本人10人を捕縛

1807年6月 8人を釈放して通商を要求

1811年6月 国後に上陸したゴロウニンら8人を

捕縛(ゴロウニン幽囚事件)

幕府通交を拒否高まる緊張

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捕らえられた

ゴロウニン

「ゴロウニン生捕之図」早大図書館

ゴロウニン胸像

北方歴史資料館

1812年8月

リコルド中尉 クナシリ島沖で高田屋嘉兵衛を捕縛、カムチャッカへ連行

石巻漂流民 善六の姿

「北夷談附図」 函館図書館蔵

1813年 箱館奉行所に向かうリコルドたち

リコルド

もうひとつの発見 1813年 キセリョフ・善六 43歳

24歳 ロシアに漂流

27歳 洗礼を受けロシアに帰化

28歳 日本語教師

35歳 レザノフに同行、カムチャッ

カで下船

43歳 箱館で祖国の地をふむ

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【講師プロフィール】

平川 新(ひらかわ あらた)

1950 年、福岡県生れ。仙台市在住。

1976 年法政大学文学部史学科卒業、1980 年東北大学大学院文学研究科修士課程修了。

1981 年東北大学文学部助手。

1983 年宮城学院女子大学専任講師、1984 年 4 月同大学助教授。

1985 年東北大学教養部助教授、1996 年 5 月東北大学東北アジア研究センター教授。

2005 年~2007 年同大学同センター長。

2012 年東北大学防災科学国際研究所初代所長。

現在、2014 年宮城学院女子大学学長、東北大学名誉教授。

専門/日本近世政治経済史、歴史資料保全学。

[NPO 活動として]

ØNPO 法人宮城歴史資料保全ネットワーク理事長。

宮城県内の歴史資料の保全活動を行う組織で、平成 15 年 7 月の宮城県北部地震により被害を受

けた文化財の救済活動を契機に設立され、平成 19 年 2 月に NPO 法人認証。

その後、岩手・宮城内陸地震などの災害等で保全活動。

特に東日本大震災での保全活動は未だ続いている。

Øみやぎ街道交流会顧問、関山街道フォーラム協議会会長を務め、度々講演を頂いている。

[著書]

『伝説のなかの神-天皇と異端の近世史』(吉川弘文館、1993 年)、『紛争と世論-近世民衆の政治参加』

(東京大学出版会、1996 年)、『近世日本の交通と地域経済』(清文堂出版、1997 年)など多数。

Øその中で、本日の講演に関連して、『開国への道』(小学館、2008 年)

欧米列強の領地獲得競争を背景に、日本も蝦夷地へ進出し、外国と衝突

しながらも交流するようになる。鎖国体制のもとでひたすら閉じこもっていた

のではなく、北方地域ではすでに開国への流れは始まっていた。

いっぽう内政においては、庶民からの献策を奨励し、民意の動向を重視す

る「世論の時代」ともいえる実態があった。また、開国前の関東には多くの

庶民剣士がおり、彼らは幕末の過激事件にも参加していた。

漂流民から新選組まで、幕末期を生きた人々を通して、鎖国から開国へ、

そして「徳川の国」から近代国家へ向かおうとする社会の変貌を新たな視

点から描く。

(小学館 HP より)

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歴史資料保全活動から生まれたシリーズ「よみがえるふるさとの歴史」

「よみがえるふるさとの歴史」 シリーズの刊行にあたって(抜粋)

NP0法人宮城歴史資料保全ネットワーク理事長 平川新

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、多くの人々の命と財産を奪いました。 自然とともにあった生活も破壊され、 残

されたのは悲惨な光景でした。

私たちNP0法人宮城歴史資料保全ネットワークは、震災直後から被災地をめぐり、多くの歴史資料を救出してきました。歴史資

料とは、旧家の土蔵や倉庫のなかに保管されてきた古文書などのことです。村の歴史、日本の歴史は、こうした歴史資料を読み

解いていくことで明らかにされてきました。

保全活動を続けるなかで私たちは、被災地の方々から、祖先や地元の歴史について尋ねられることがしばしばありました。巨

大な地震と津波で激変した故郷を前にして、先祖や地元の歩みを知りたいという思いがこみあげてきているのだと思います。

震災復興に取り組む地域では、これまで先人たちが積み重ねてきた歴史や文化を、新たなまちづくりに生かそうとする取り組

みも見られます。そのためには歴史をよみがえらせなければなりません。私たち歴史研究者がお手伝いできることは、いま残され

ている歴史資料から、その地域の歴史を復元し、先人の歩んだ姿を再生させていくことです。

失われたふるさとの歴史をよみがえらせて、被災地の方々の心の復興に少しでも役に立つことができればと考えて、このシリー

ズを企画しました。 2014年3月

※発行:蕃山房 HP<http://banzanbou.com/> 購入フォームもあります。) 価格は、本体価格800円+税(全巻)

【図書案内】