17
安蟹携雄二鍍遊及び会津における一鰻塚に囃する譲靉靆 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題 雄毒 会津の地方史講究家の中には,家盤実記の寛文 7隼葬一里塚季§築」の叢嚢事をもとにして,霧隼嬉 めて会津で一里塚を築いたとする人が多い。然し それが誤解であることは,慶に論達してある。(安 モむ 懸,紹5暫5§喝葺。麟遵及び浜透影では.長拝(米 沢地方1と縄梯に,慶長9年幕濾の捲令を受けて 一里塚を築いたとされている。然るに会津では正 保露絵麹の類が残されていない為等でか,寛文7 隼一里塚構築説が広く繕じられていたと見える。 然るに会津における歴史地連的事実は,それが誤 籔であった事を立証してくれる。 次にず褻道の福島城下最寄の一璽』塚ξま,現存しな いが,地穣改正時の字鰻図で字番地が確認でき, その位置を2万5千分のi地形醒に薫で示す事も 可籠である。その一塁塚翼の距離を,奥齊1道中沿 に騒士計灘をしたら一塁2.§講余であった(第i 表〉。癒夫都内での飽の一里塚懸距離は,i璽又は それ以下の携が多いのに比べ,i里2、§羅は長い 故,福島城の鳶{舞を経露したと繕える書道沿に灘 つたかとの疑も崖た。然し雛遊及び会津での一里 塚を調べてみると,それが蓋塁3驚を越える事鱗 が多数あるから,穣島壊下でも当然の事ながら箋 州透中筋の遜り驚経患で錘離を灘つたに違いな い。二本松城下や窪溜絨下購近では,街道筋の変 憂1にともな魏新一里塚を築き直したと晃られる事 実も醤窮し,一塁塚築造に麗して従来殆ど話題に されていない色々な事実も浮び上ったので,それ らの諸翼題に就いて報告する。 この晒究を進めるに塞参学歴史の道の調査及び その報吉書が大いに幾立った事は申すまでもな い。歴史の道調査報魯書に近盤の主要街道が翻示 されているから,遵編は大方それに敬ったが,局 藻的には飽の資料で訂歪した部分もある。 一里塚翫欝の予察に鰹しては,須賀擁青立博物 館の六馨絵籔,福島察立蟹書館の岩代酸絵籔及び 岩代麟全騒を舞駕し,その確認には福島桑文化セ ンター勝蔵の地籍纒・地籍緩及び丈量譲を孝ll濡し た。饗窪離の計濃褻まカーブメーターに骸る外,霧差 も/吏縛した。起{犬や麟折の少ない部分を選んで計 臠して,誤差を曇小縷に重めようとした事は饗う までもない。 ・厩 {董1安鐵籾難 二本松霜道の靉靆 歴史の遵講奎鞭密婁 二本松篠遠(羅瀦認!,講 越後蛋道の機説 霧鞍告書 越後箋道(罐和き鶴,扇 濡懇衡遂の機説 隔報告書 潔欝籍遵(繕秘雛/.懸高察教蕎委員会 錘史の遵講萱i霰告書 奥州道串,水戸撰遵,下野傷 遵, 米法!徳道(会津〉 発ぞ量戸膏縫}と1舞 *本学元教書 テ§鍵 橿島毒桜木驚簸一鰺 一漿塚築造とその年代 鱗遵の箋州道中における一里塚1よ慶長§等2 樗,「樗軍家按舞鐵 諸海道二一里塚つき藩中」憲 の旛令が鐵され.,蒲生氏や上杉氏がその頷羅内で 築硬紛視擁る.麟叢翻三郵菱構 馬藩の奨根秘鑑 二本松鎮内の隼代諾等の記事 は,次誕の様に慶長9隼築造と畷記している。 三重年表では「慶長九年二月諸癒二塁鰻立,二 月懸饗秀憲公ノ命ナサ。東灘選及越後箋州ノ海道 二築アルハ,五月下旬落銭ス。嚢1簾米沢・橿島ニ モ塁上餐ヲ立」とある。漿墨躾慧勿論一・肇1塚であるがシ 米沢は上杉鑛の最善,橿島は講鎮の膳夫・鐸達地 方をさしている。箋権秘鑑には,「慶長§隼,東海 道藍越後陸奥霧鐘一里塚築。懸念三十六欝,宇多・ 行方・標葉三i蔀鐸ヲ承テ築之」と記されている。 とう この東海道は浜遷移の当時の呼称である東海道 ではない。羅1合三十六羅欝ま36霧をi里とした事を かみみち 示し,鐙舎遭で6欝を豊里としていたのを上道に 改めたのである。二本松鎮内の年代記では,慶長 9年「国々一1ノツカヲツク」とだけ記載している が,少なくとも安達・安積霧郡内で,瞬年一里塚

仙道及び会津における一里塚に関する諸問題...安蟹携雄二鍍遊及び会津における一鰻塚に囃する譲靉靆 欝 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題

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Page 1: 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題...安蟹携雄二鍍遊及び会津における一鰻塚に囃する譲靉靆 欝 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題

安蟹携雄二鍍遊及び会津における一鰻塚に囃する譲靉靆 欝

仙道及び会津における一里塚に関する諸問題

安 田 初 雄毒

は し が き

 会津の地方史講究家の中には,家盤実記の寛文

7隼葬一里塚季§築」の叢嚢事をもとにして,霧隼嬉

めて会津で一里塚を築いたとする人が多い。然し

それが誤解であることは,慶に論達してある。(安モむ

懸,紹5暫5§喝葺。麟遵及び浜透影では.長拝(米

沢地方1と縄梯に,慶長9年幕濾の捲令を受けて

一里塚を築いたとされている。然るに会津では正

保露絵麹の類が残されていない為等でか,寛文7

隼一里塚構築説が広く繕じられていたと見える。

然るに会津における歴史地連的事実は,それが誤

籔であった事を立証してくれる。

 次にず褻道の福島城下最寄の一璽』塚ξま,現存しな

いが,地穣改正時の字鰻図で字番地が確認でき,

その位置を2万5千分のi地形醒に薫で示す事も

可籠である。その一塁塚翼の距離を,奥齊1道中沿

に騒士計灘をしたら一塁2.§講余であった(第i

表〉。癒夫都内での飽の一里塚懸距離は,i璽又は

それ以下の携が多いのに比べ,i里2、§羅は長い

故,福島城の鳶{舞を経露したと繕える書道沿に灘

つたかとの疑も崖た。然し雛遊及び会津での一里

塚を調べてみると,それが蓋塁3驚を越える事鱗

が多数あるから,穣島壊下でも当然の事ながら箋

州透中筋の遜り驚経患で錘離を灘つたに違いな

い。二本松城下や窪溜絨下購近では,街道筋の変

憂1にともな魏新一里塚を築き直したと晃られる事

実も醤窮し,一塁塚築造に麗して従来殆ど話題に

されていない色々な事実も浮び上ったので,それ

らの諸翼題に就いて報告する。

 この晒究を進めるに塞参学歴史の道の調査及び

その報吉書が大いに幾立った事は申すまでもな

い。歴史の道調査報魯書に近盤の主要街道が翻示

されているから,遵編は大方それに敬ったが,局

藻的には飽の資料で訂歪した部分もある。

 一里塚翫欝の予察に鰹しては,須賀擁青立博物

館の六馨絵籔,福島察立蟹書館の岩代酸絵籔及び

岩代麟全騒を舞駕し,その確認には福島桑文化セ

ンター勝蔵の地籍纒・地籍緩及び丈量譲を孝ll濡し

た。饗窪離の計濃褻まカーブメーターに骸る外,霧差

も/吏縛した。起{犬や麟折の少ない部分を選んで計

臠して,誤差を曇小縷に重めようとした事は饗う

までもない。

・厩

{董1安鐵籾難 二本松霜道の靉靆 歴史の遵講奎鞭密婁

 二本松篠遠(羅瀦認!,講 越後蛋道の機説 霧鞍告書

 越後箋道(罐和き鶴,扇 濡懇衡遂の機説 隔報告書

 潔欝籍遵(繕秘雛/.懸高察教蕎委員会

麟 錘史の遵講萱i霰告書 奥州道串,水戸撰遵,下野傷

 遵, 米法!徳道(会津〉  発ぞ量戸膏縫}と1舞

*本学元教書 テ§鍵 橿島毒桜木驚簸一鰺

茎 一漿塚築造とその年代

 鱗遵の箋州道中における一里塚1よ慶長§等2

樗,「樗軍家按舞鐵 諸海道二一里塚つき藩中」憲

の旛令が鐵され.,蒲生氏や上杉氏がその頷羅内で

築硬紛視擁る.麟叢翻三郵菱構      麟                 紛馬藩の奨根秘鑑 二本松鎮内の隼代諾等の記事

は,次誕の様に慶長9隼築造と畷記している。

 三重年表では「慶長九年二月諸癒二塁鰻立,二

月懸饗秀憲公ノ命ナサ。東灘選及越後箋州ノ海道

二築アルハ,五月下旬落銭ス。嚢1簾米沢・橿島ニ

モ塁上餐ヲ立」とある。漿墨躾慧勿論一・肇1塚であるがシ

米沢は上杉鑛の最善,橿島は講鎮の膳夫・鐸達地

方をさしている。箋権秘鑑には,「慶長§隼,東海

道藍越後陸奥霧鐘一里塚築。懸念三十六欝,宇多・

行方・標葉三i蔀鐸ヲ承テ築之」と記されている。  とう                               ひ し

この東海道は浜遷移の当時の呼称である東海道

ではない。羅1合三十六羅欝ま36霧をi里とした事を                  かみみち示し,鐙舎遭で6欝を豊里としていたのを上道に

改めたのである。二本松鎮内の年代記では,慶長

9年「国々一1ノツカヲツク」とだけ記載している

が,少なくとも安達・安積霧郡内で,瞬年一里塚

Page 2: 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題...安蟹携雄二鍍遊及び会津における一鰻塚に囃する譲靉靆 欝 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題

2舞 鑛島大学教畜学藻論纂韓号

を築いたと箆られる。当時この溝羅縁蒲生秀行の

漸簿であったから,購じ支醗下の麹の麟道議都で

も一里塚を築いたと見るべきであろう。

 奥州遊車の須賀鱗一里塚は,羅指定の史跡にな

っているが,それよ1ラ先に察捲定の史跡になった。

その察撰定の解誰文では,「慶長9隼家康が東海・

東出・中もt観)諸街道を修還しているが,これ以後

遠くない1璽になったのであろう」としている。須

賀顯一塁塚築造に麗する史料は疑つかっていない

が芋玉璽隼表で遠べてある如くラ慶長§奪5蒋に

は完成したのであろう。それは須賀鱗よ蓼詑方に

ある倦達地方の一一里塚が.瞬年瞬辱築造完了であ

るが,嚢本橋からこの須賀欝経慈で璽、程を灘誓った

筈である故である。徳鱗禁令考にも一里塚築造は,

家康から秀患にその意講が伝えられ,奉行を通じ

て諸馨1こ令達されたと諾してある。

(i)会津の一塁塚築造とその年代

 会津での一重塚築造が,寛文?隼で然も若松城                   ミるシ下の大鷲札ノ辻を基点としたとするものがある。

寛文7隼会津の一部で一重塚を築いた事は確かで

あるがうそれが会津で;窮めての事でない事は,疑

に論証ずみである.大駆札ノ辻基点に臠する開題

は,後簾で達べる事とする。

 家盤実記では寛文7隼「饗霧蓬績 郷領内所々

街道一塁塚板築」として,蓬々又兵衛・松平新九

郎・中根宇誉籍懇らの建窪羅{吏を還えるにあた診,

幕騎に問合せたところ「1鐸鑛残道筋一塁一璽之場

に麟致謬繧趣被舞下縫二村,吟味之上競窪二権改,

勢至堂よ参津絹越後迄,南幽五十璽よ讐桧原米沢                ママ境迄,其外脇々往還之道籏共,一里塚筑立馨然申          ママ候(牛酪/道筋共一整塚簑立致墨来鰻」とある。

霧海街道・越後墾道では,窪溜からの会津簿道(臼

溝街道〉の一墾塚をうけ纏いで,勢至堂から若松

城下経由で津舞紛越後璽界まで,一里塚の築造を

やったとみら蕊る。それ1ま次の諸事実によって推

灘される。第一に若松城下最寄の白渥衡遵の一塁

塚1ま,灘沢村にあ琴,新繍会津風土鑓(以下新講

と記す/ではド村中に一里塚あ吟」と記している。

その瀧沢村は新鑓で「癖城の棄北に当馨行程二十

六驚余ゴとしてある。この2§籍余は灘沢村から大

竃札ノ辻までの行程であるが,灘沢村一塁塚から

札ノ辻までの距離とみて大差はないと思われる。

白河街道は大講義ノ辻で越後街道紅繋がる。こう

して灘沢一里塚の凌は,小黒嬢分若宮の一塁塚で

i鰭§一玉璽

ある.この若宮一里塚は地積駿豆時の字鰻図では.

観簿錘3と視簿薦垂2とにあって,1箋在の函毛嚢欝若

宮穰蕎蛙緯近にあたるから,大竃札ノ辻から略欝

欝罫7)所で,瀧沢一攣1塚から凡3§霧ぎ離れている訳で

ある(第2纒)。それ故灘沢一里塚も若富一釜,塚も,

大馨f札ノ辻を基点としていない事は霧らかであ

る。第二に自湧街道の縫代一里塚は,撫代字堤下

にあ雛,蔀出花1の指定で史髄とされているが,そ

の南三塁{7)所睾こある一塁塚1ま,磨沢葦と方1こあった。

その縫代一筆籔と駿沢一里塚との中開で,元癒沢

              6)麗方1こ手元一鶴嚢衛溝薄薄難字髭一塁壇薄髭

謡堤葬

穰圭第

淡 “

手元一塁壇∫

 灘5.新

党癒澱腹

黒.

轡\!

     攣     上      琴   辱、’鯉

   貸17暴轟轟無

毒  5翻、生玉麟  髄灘篶『一 一一y  =浬葎      欝斑

 継懸覆審霧[…1水準灘黛点

呼ばれている。優し字名は夫婦壇及び擾木下であ

る。嘗てここを遜った越後街道を嫉んで,榎を纏

えた壇が請い合っていて,夫婦壇とよばれるに樽

悪しかった。新記でもこの新霧1こついて「越後街

道の差三右毒こあ穆争謬華寿き玉露馨な彗ラ寛永二年攣讃テ彗,

擬声麺)詫壇ま:に擾の毒水あ参,講て名け箏」と記

遽している。ここは若松壕下からi璽の地点で後

連」)麹く磐にもこの城下からi婁の地に一襲塚が

ある事なども考え鋳せて,擾壇は元一里壇の一つ

とみるのである。

 若宮一里塚や錬代一里塚が寛文7隼の築造であ

れば,当然,郷代手元一塁壇のそれや榎壇は,寛

文7奪以羨の築造とみるべきである。これらと購

様の麗係にある元一里壇が外にもある。それ.は猪

塁壇がある(第

i馨〉。これは霧

代一里塚等を築

く羨季こ, 醗奪こ一

塁塚が存姦した

事を秘語ってい

る。又越後街道

の若宮一里塚と

次」)詫懸念曠

久の毒東方/の

一塁塚との謬舞妾こえめきだん

榎壇があって,

これが若訟城下

を本とした古い

一塁墳,難ち元

一聖壇とみられ

ている。それは

補整1村の鰭村の

擾壇新鑓にあ!),今も榎壇と

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安照蓊鬱:磯遊及び会津1こお1ナる一里塚紅絶する諸幾題 2i

        つ よう苗代字一塁壇④と壼揚字一聖壇◎の字名がその斬    在を暗示している。この嚢字地は工事松街道沿で,                  まオまウぶち④は猪苗代一塁塚(講講中瞬所在〉と次の懸濁一

里塚との車裂融こあ拳,◎は羅薯脇一藝釜塚と次の楊枝

一豊壇(牽楊字一里塚所在)の中震にある。憂に越

後裏街遵では塩沢一里塚の載方墳驚余の街道沿に

字一里灘があって,これも字元一量壇の羅類とみ

られる.こ轟らは会津でも寛文7年以蔚に一里塚

が所在した事を示すとみられる。その築造の年代

は,縫地方講様,慶長9年であろう。

/2) 蓬保鼕鼕絵雛璽と一豊塚

 亙保騒絵襲では一塁塚を記入ずる事が要求され

ていて,現存する歪保国絵錘では,どれも一里塚

を記載している。家量実記の董探3年8月の記事

に,「会津之惣絵襲丼,緯域下之絵懸。其外高辻緩

公儀江被差鐵」とある.その差鐵の警簿は霧詫さ

れていないが,正課元年盤簿の幕命を受1ナて,蕉

課2年2月 鐸鎮海羅絵懸仕立」の係を任命して

作製にかかった事は響窪らかである。この蒔ゼ壷鑿

塚之儀ハ会津之舞城を奉二いたし,諸方へ塚を絵

蟹二薄霧付,御頻分境§之塚より他領之郷村へ,

是よ蓼{薄拾丁,又ハ壱里錘}丁と薄霧{穿養,江戸よ

讐被輝下躾二{劇芸々で,会津藩では灘纏1こ分け

顎内の遵蕩出辮の講登を実施した。

 歪保鑓絵緩では,一塁塚がない道筋でも,主な

遊蕩は馨上で一里毎に醸をつけるよう要求されて

いた。家盤実記のこの記事では,会津領内一霧一

里塚がなかったかの嫁くにも解さ翻るが,嫁蕎で

あろうか。この舞寺桧原の米沢領境では,米沢藩の

絵麟係役人と会津藩の鷺役人とが議会って,米沢

藩ではヂ会津鐸鎖分之壱里出を本二経たし,米沢

領之方一籔に遵之法を嬢究ゴ,一里塚を書上げる事

にした。この会津御領分の一重出は,纒上での一

里塚でなく,現地にあった桧療綜南方の一塁塚で                     ママあろう。一方会津領内では,孫役人が覆璽手に分

管巡村之上,見分之遜を書記罷帰,何れ共取合箆

躾越,試之選二少も無根違躾二村ゴとあるだけで,

瞬i靴掻痒の感もあるが,一圭嚢塚が存在したことを

否定する文蘇華こはなっていな輪。この記事では,

米沢領内に当鱒一豊塚が存在した事に臠しては,

侮も言及してはいないが,葱述の蘂く襲に米沢領

内では,慶長警隼5耀一里塚を築いていた。

 蒲生領内の支壊の二本松織下購近でも,慶長§

年一里塚を築いたと琶うのであるから,秀行羅城

の若松城下難近でラこの鱒一塁塚を築造しないと

震う事は,あ拳得ない事と思われる.

/3/会津でめ寛文7年一塁塚築逡

 寛文7隼珪月i騒完成とある会津の一里塚築造

は,講奪麺羅/吏を遜1える為の準薦の一つである。

幕府はこの年,諸蟹巡見硬を派遣するに先立って,

懸奪2肩鰻書を鐡した。それには「一,掃除等再

為無緯,縫有来遊縫,径行不意盛之所は,各溺之

塁,と甥,麟や茶勘新難し蜘よ秘と

も通達している。寛文淫隼度の「往還不霞蠹魚之

様,道橋再串付躾」とあるのと多少楕達している。

会津藩では講7年の鰻書の趣鷺1こつ輪て,幕府に

隠合わせたのに対して,「一里塚無之漸者.携示薄

立麗懸露を申護された。この牢濃:では縫示を立て

ればよいとされたのに,「戯序二紹改ゴで一里塚整

騰をする事となったαこの申濃で,「一里塚無之所

考」とあるの1ま,会津藩の簡合せに薄する申護で

あるから,「会津領内で一里塚がない漸慧」と解す

べきで,会津一霧に一里塚がな雛と解すべきでは

なかろう。この事実は寛文7隼以麟醗に会津に一

里塚が存在したとみる警護となろう。

瞬 八懇野及び勝原大連寺一重塚の築造

 八綴野一塁塚 河東瞬八欝野一塁塚慧,若松絨             しもむあわせ   つる が下から麺びる二本松街道で,下穰}合(鶴賀〉一里

塚の北栗餡i塁の所にある。それ1ま八懇字茜大量

2と懸字東天屋暮3の地蓄こある。 この一塁塚1ま「八

             ママ緯野村領分壱墨塚突串人是着鐸之緩掘」があって,

築造隼月露,漸要入夫数董に嚢数などが覆記され

ていて漉騒される。絶し内容は「壱里塚突入足競割之躍、で,麗孫各種への人達の割付であるから,

この通むに人是が鐵動したかどうかは警彗らない。

浅蓬月3欝と書鐵しているから,裏書にある嬉く

寛文欝隼違目の3霞から灘饗まで,麺5隙人ほどを

硬って,この~墾塚を築いたのである。これに関

し「潅}棄馨}史J及び「会津の審蓉遵」で季ま,霧7年

の一婁塚築造は主な縁道だけの事で,飽の脇街道

ではその3隼後の瞬婚年に築造したと記してい

る。その論難としてのこの「人足着舞之緩」と歩

勝原の大連寺(大躰寺/一里塚が講じく寛文欝隼

築造とある事をあげている。

 大連寺一里塚の嬉塵,大沼鄭勝漂の大連寺一塁

塚は,籔i下で越後衡遵から南に分鼓してヲ高緩緩

露で大霞裾に陶う下野街道1こ沿い,勝原字大連寺

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22 轟島大学教糞学蒸譲葉鶉弩

上騰3と字大連寺下欝§とにある。塞緯村の杉漂金        左衛門の政善嚢記には,この大蓮寺心墨塚は「寛

文7年当時大連寺地内に築く」とある。この一

里塚は地麹酸正時の字譲馨では,富騰でなく勝漂

地内で婁薩との村境透くにあるが,簿近に草i野が

あって,かつて舞舞が瞬らかでなく,致善嚢詑で

は「当付大連寺地内感としたのかも知れない。

 この政善響記には,寛文灘年3屑27饗,「当村大

運寺一塁塚築きなおす」 とあるe高蟹の郷靉靆申

彦三郎の差醍で,近所の数ヶ韓が協力して築きな

おしをした1こ違いない。舞嚢罷の舞隼§月の記事

に「鉾馨轟懇へ参聾,彦三郎殿寄箆購猴.高縷高

札,つかの入馨壱霧三分弐蟹羅拾文にて墨来申候,

つか当菱結購に嬉なおし牢候」とある。これで大

連寺一塁塚は,寛文婚隼に椿嚢をした事は溺白で               ママある。その塚の規摸が「下の差讃し三鷺.高さ二

驚」とあるが,高さに比べ痩径が短かすぎるよう

にも見える.それにしても新造に近い幾模の椿薩

だった事は留意を要する。入§壱薦三分余に人夫

賃も含まれているのかどうか不明であるが,再議:

の人夫を要した事と叢察される。

 この大連寺一墾塚の捲蓬が,何故必要であった

かは聡記されていない。然し3隼繭に築いた後の

嬉嚢である事が競らかである故!,この3隼閥善こ簿

らかの事構で一里塚が鱗れてしまったと晃られ

る。その推灘を溝たすのは,寛文7年7月i7蒙(新

9月5罎/,懇7月27欝(新雪厭き鋤,局8月鰺 

鐸新婚舞5鋤と,瞬年中に三農,会津では大洪

水が趨雛,大緯・鶴沼購・蒙橋鱗・濁鱗の各流域

及び猪苗代湖鐸などで,水害を受けている事であ

る。家髭実記にも寛文7年7穏賀醤の洪水につい

て,「南臨,溝猿簿薬編の橋半分押流,半兵籍霧の

騰流れ落ち,霧奉行,御講講奉行まか琴曲と記

している。一里塚の握壊については記載がないが,

大連寺一難塚は富瞬の氾濫漂にあるから,新造後

まだ葦が根を」)ばさない時点での事でもあ撃,塚

の盛土が洗い流されてしまったのであるまいか。

寛文8年8月欝類(新祭月欝鋤にも大膳の洪水

があり,又請§隼6月にも会津で洪水が寵録され

ている。侮時の水災で一里塚が溺れたのか競らか

でないが,大連寺・八雲野の各一里塚が巡見綾を

運えた後に,水災で憐れてしまった事は,推察に

難くない。

 八懇野一里塚の寛文欝隼構築説は,大逮寺一塁

塚の講年築造を傍証としている。然し.大連寺一

欝総一一至玉

鬘塚は捲灘1であるから,それを傍証とするならッ

八遜響一塁塚も寛文欝隼嬉藪である事になろう。

「人建養饗之緩」の寵事では,新造が持塵か不聡

であるが,この二本松街道1ま巡髭{褻の遷垂参道で,

寛文7隼にも選った筈である。会津の雛遵と零っ

ても,寛文7奪遷簿進発硬を運えるのに,この街

道だ1繋まi塁毎の標を建てて賜に合わせたと誉

う事はなかったので慧なかろうか。優にこの街道

だけは,寛文欝年新築としても,その鋳に一聖壇

が猪苗代字一塁壇等に葎産した事は,駿に雛嫡済

である。ノ、懇野一里塚は下居合一里塚に次で,若

松城下から二悉§の塚である.慶長§年にもこの

購近に一里塚が存在した薄能牲は充分にある。

緯 二本松籟内4〉会津街道の一里塚

 六謬絵饗では奥州道中の本富村南方で分綾する

会津街道にそって,本宮村詫(大駆38と2i)の一

里塚から灘って事一塁塚を築いた嫁くに騒示され

ている。この絵籔では1本宮一璽』塚から本宮まで「擬:

闘二欝欝闘3とあ撃,会津街道で本宮最寄の一里

塚まで「嚢t聡三三十二馨}琶争鷲」とあ吟や合…}牽i塁毒こ

なる。然るに岩代蟹絵騒では,この本宮鍛寄の一

里塚が,嚢撰道中からの分数点のすぐ近くに纒示

されている。又内灘絵纒では会津街遵の横綴となわしろだ

苗代遜との闘の一塁塚が一ヶ漸であるのに,岩代

霧絵麟では横難1東方で石莚lilの醒獲彗と,歪毒代鐙亜

方との計二ヶ鷲にあ諺,苗代覆棄方の塚1ま東にず

れている。これらは楊枝一里塚から東方に灘って,

一塁塚を築き蕩した事を示す麺くに見える。権馬

頬笹麟(東玉i野)聡達でも,死線羅綾蟹の系譜を

受け継ぐ絵騒と元禄轡絵錘とで,一里塚の位置が

変っているから,一藻の人が一里塚の位置は変更

しなかったと見ているのは誤参であろう。

 大都絵籔は寛文翅年,二本松績安達郡と幕領鑑

夫瑳謬との都舞{系争に際し,安達謬穫彗主張郡界のi蓬

髄として提鐵されたと莞られる絵灘であるが,記

載内容からみて,その療麟は正課鑛絵醒である事

がわかる。倦夫揮は米沢領と醒示され,安達太良

由の藝の沼尻湯購近が二本松鑛として,購績が西

にはみ離している等々の事実からである.

 二本松領義でも,会津と講じく寛文7年巡見嚢

を逢えるに燦して,会津衡遵の一塁塚を築きなお

したとすると,六移絵醒ではその改築による欝正

をしていないことになる。即ち正採石絵醗をその

まま模写した訳である。境界争論の認鑓資料であ

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安霧擁雄:難遺及び会津1こおける一塁塚に駕する譲鶏題 23

るから,古い羅彗絵籔のままで役に立つのであろう。

優し会津と綴じく,二本松領でも寛文7年に一里

塚の築き1聾しをしたかどうかは瞬力〉でない。

・薫

㌧~’

態 徳鱗禁令考六 第麟条 3§麗

② 霞形票史資料繕 鶴械叢書上

麟 摺馬青史5 奥楊秘鑑 当家累代鐸奉公之事

榛 二本松青史§ 奪段鑓 天歪覚よ暑タ安永§迄

緯 会津蒼鮫青史3,会津の糞遵磐

織 安遜窃雄 二本訟幾道の機談 講轟霧

(7/  購   沼蟹街道の機説 薦鶴叢

麟 鶴触書寛保集成二十三 寛文7未奪覚書

轡 海棄経史 資料霧第三築 敷銀篆文霧

騰 政善幾誌 蒙中家文書 会津高鐙驚史

鱗 購賀幾水害経済講糞{羅秘35},福轟漿災害誌(羅秘

 尋警,家盤実証等

鯵 安露擁雄 攣達玉野・穣馬玉野および菓玉野」)覆史

 地連麹管見 橿鳥史学醗究鶉 羅麹懸 P,32

餐 一里塚築造の基点

 五海道の一里塚は,江戸欝‡矯を基点にして築

けとされ。たのであるから,五海道の一つの肇聲1道

中では,嚢本橋を基点として築か轟た筈である。

自濯以載の奨州連中1ま五海道の内で1まないが,五

海道の一つの箋州遠中の一塁塚に続けて築かれた

とみら耽る。その難の脇街道では魏何であろうか。

それに絶して幕籍の鮭書が舞も残されていないの

で瞬らかでないが,磯の手懸で推定してみよう。

韓 若松壊下階近の一里塚の基意

い事は墾婁である。七曇霞}一里塚も講様である。

 塩欝導i七欝欝一塁塚 手代木篆文婁の御巡見舞

顧遵之覚に,七霞醗一塁塚とされているのは,地

積政豆蒔の若妻の字醸羅の字筏霧靴§§であろう。

これ.は富有地であるが,地籍緩ではii歓歩の箪重連

で,岩沢文松所;糞になっている。地籍緩を作るま

で垂こ払雛下げられたのであろう。この東霞繋ま藤室村

手塩履違棄で,塩燐遵は米沢下街遵で,蕉保城下絵

露には米沢遵とある。この塩辮遵棄1こは一里塚と

みられる地所はない。筏簿龍の麓灘に接する字塩

瞬進藝上にも一里塚とみられる地薄至はない。

 縫灘北欝の官有地1ま,七難欝欝ッ谷の分鍍点か

ら亙.5購余の所紅あ蓼,先に遠べた若宮一塁塚は,

この分麟i点から醒3.i簿の所にある。1灘治3隼の東         きをき黒撰・小窯鱗爾総絵麟(飯称/では,七難驚一里

塚と若宮一里塚との位置関係が,全くこれと合致

するから,筏欝}北5§が七嚢蟹1一里塚である事1ま羅謹

違いなかろう(筆鋒鶏。

   第2襲 嚢無難1若甑簿醗近酪穰      (若宮一塁塚と七絶購一里塚〉

              1   曇   藍

             唾 鵡、綴

葦、4・

ゲー聡㍑一

新麗敷麺

  謹

・驚韓藍嚢“塞』麹

塞嬢塵驚

 寛文7年に会津で窮めて一塁塚を築いたのでな

い事は蔑に述べた。又一灘の人が善う嫁く,若松

城下の大箱札ノ辻(大鎌獲ッ辻〉を奉1こしたもの

でない事も弩彗らかである。大馨1季乱ノ辻を本にした

と見るのは,新記に「一之騒奪と七霧薄紅肇宣るる十

字街に嘗よ讐余せられる綻条馨の籖札を懸く,露

で鍵街を耗ノ辻と云,騒方の里程これよ今数を起

す」とある記事を,一塁塚憂)基点と濃霧して解殺

したまでであろう。蟹方の蟹程これよ吟起す」と

あるのは,癒:城からの窄テ程の事で,新無憂貧こは各種

毎にその行程を寵しているが,一星塚の墓と配達

してはいない。白湾衡遺の灘沢一里塚及び越後街

道の若宮一塁塚が,この札ノ辻を基点としていな

 この七霧箱一塁塚も大霜札ノ辻から8窮余の霧

にあるから,札ノ達が基点である訳はない。又白

梅街道の灘沢一里塚から濁ったとすると,若宮一

塁塚よ参i.5舞も近いから,劉に灘つたかも簸れな

い。家盤実記紅鍔爾出五十墨よ肇桧漂米沢境迄」

とある難く,繕幽遜滲を北上して,桂替:寺通鯵経

露で七疑霧東部で越後街道にうつ9,七馨簿獲ツ

谷から北1こ灘って,七霞簿一塁塚を築いたとも箆   にいでらうる。飯寺一、肇.塚から七巽霧1一里塚まで,騒士計

潔藝こよる錘離は, i塁3翼翼蒙どである。

 飯寺一里塚 南瞬選彗で若松城下最寄の一塁塚      んでんは,飯寺字本田磁と講字62にある飯寺一里塚であ

る。この飯寺は新詫では「府城の護に峯拳行程三

十二鰹(牛酪)下飯寺より藷1こゆくを下野復選と

し,茜にゆくを金出道とす,村中に一里塚あり」

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2毒 趨島大学軟膏学蕊譲葉鱒号

             書函ままやまださこ       かねやきと記されている。この金霞遜は金霞谷透で,金歯ごう

郷遵ではな窮。本震1ま下飯寺にあ1),一里塚1ま余

毒谷遵の分蔽点龍雍方襲閤程の所にある。それは

札ノ辻から32購で,i塁1こ箋簿程建弓ない。

 これに薄し,宇都宮街道で若松絨下最寄の一里

塚1ま,南青木緩の御山村にあった。新記ではこの

郷毒について紅府城の南に当季)行程一塁三購余(申

酪/宇都宮霧遵にて林中に一塁塚あ拳」と記して

いる。この替の字鰻藝で1ま一里塚の議姦が不窮で

あるが,新記の賓『建をもと1こ推定すると,札ノ辻

からi塁を3購余も超遺している督南毒通1り及び

宇都宮街遵ともに若松城霧海をさけて西又は夷を

迂懇して南進している。郭内の愛灘で札ノ辻から

東方蓬霧ほどの地が,畢賀籍難北で,かつての餐

野薄舞乾である.その欝野欝}讐は若松城び)大手蒙

で. 蒲生源左籍門与力の銘を亥善した石車壼め婁現存す

る郭懇があった所である。また馨野驚は蒲生氏郷

に塁藝{達してきた芝工づ髄の人達を覆糞垂させた巻雲委ζで,

ここが蒲生時代の鞍下の中心とみら震る。こ6)購

を境に絨下の新霰を分けたと転えられている。

 この欝野薄難覚,後の馨賀緯籍北の獲ッ辻から露

進して郭内謹)西を癬彗,飯寺一塁塚までi塁,東

進して郭内の棄を躍讐,舞蜜柑まで又i量ある。

飯寺一里塚は「五十塁から」と言っても,元来は

零賀簿経義からi璽の勝組築かれたに違いない。

銀霞衛遵の一華塚も小見縫付南茜方にあったか

ら,曙賀簿雑誌から茎豊の所にあった。又二本松

撰遵の下居合一里塚も鐸様で,2万5千分のi地

形纒上で計離するとッi塁2騎になっている。こ

れを大鷲残辻まで延ばすと, i里§霧余となる。

こうみてくると大鷲札ノ辻は一塁塚の基点でなく,甲賀舞1襲葦藝の獲ッ辻力盆基点だと蓼}う事垂こなる。

 然許とすれば,蒲生鋳代の城下の中心が,讐野

瞬になるであろうことも考え欝せ,慶長§隼会津

でも一里塚を築いたとみる」)ぱ,妥当な推論と言

う事鵜なるだろう。正保露i鞍醒を{乍る時の一里塚

の本を,若松城下としたのも,純ノ迂で巌なく,

この軍資欝口北の懸ッ辻であったと思われる。

 冬坂と坂本 慶長§隼須の古い嚢溺街遊は若松

城下の馨聾簿警北から天寧寺臨経露で,冬疲錬に

かかむ,背策蜜を越えて原にでた。懸までの鶴に

元一里塚があったと思われるが,その跡はわから

ない。簿代手元一里壇の一里塚1ま,それに続けて

築かれたと見られる。趨藤氏の時代に灘浜蘇経由

の新道を辮いて,礁河街遠は換線されるが,その

至§総一簸

鋳すぐ一里塚も移設したかどうかはわからない。

もっとも瀧沢村は文禄3年疑)高§録緩では.疲本、

となっていたが,この竣本を紐虫する壌遵があっ

て,原で江戸への遵に繋がっていたのかも知れな

い。籐藤氏縁その脇道を酸1修して,白梅街道即ち

君1戸街道を換薙豪したかと推i灘される。

{2/白滝城下以毒の一塁塚

 五海道の一つの奨州道中の終点は白滝で,この

道中は道中奉行の所轄となっていた。その道中掛

が麹室奉行にあてた文化8年春月評震の覚書で

も,「箋辮道中慧嚢澱よ鬱鬱鱗迄ゴとしている。尤

もこれは厳密には輿灘道中σ)篠験の事で,街道は

宇都宮で響光街道から分絞しッ裳渥城下に達して

いる。 日本辱糞力Σら宇都宮までは, 露光街道と重複

していた。こうしてこの道中の一墾塚は亨簿1本機

を基点にして築かれた。こσ)後皮籠・白濁驚では

換線で,一里塚が移築されたとみられる。

 境萌神一里塚 肇撰道中の下野・睦奨国境に,

境墾葎社がある。その北方に境馨禅一里塚があ参シ

白濁風土記では「鰐の跳蠕ニア婆,塚上に覆を栽

フ」と記されている。この境彗弩神村は自讃事書の嚢講

轡である。そして馨舞から駕に纏尋懸の街道がの

び,その講擬穆こ講載飛そ董薄縁ど家壷が続いてい

た.境霧神一里塚は,内灘絵舞では馨境から載i

欝5麗と濾記してあるから,その家壷の北蟻1にあ

ったのである。この六謬絵褻ではこの蟹葬が白滝

城下から2里鐸弩5鷺としてあるから,この絵緩

では境明神一里塚は,白湾域下から2塁の所にあ

る事になっている。 かわご 皮籠一塁塚 境墾棒一里塚の北には,皮籠一里

塚がある。 この二つの一、量塚の闘尋こ,白藪韓と皮

籠村があ拳,六部絵纒にはそσ)闘の鑓雑ならびに

各々一箋塚との闘の露離も注記してある。それら

を合計すると,この二つの一婁塚匿1は玉璽となっ

ている。この皮籠一里塚は六部絵渓では,皮籠村

の北方6馨葺8縫の所にあると漉記されているが,     震河壌土記(塚下風土記と記す〉には,皮籠繋の

北6簸鶴橋とある。その皮籠村が風土誌では霧海

城下から行程i璽鱗}憩闘とさ蕊ている故,皮籠

一里塚は,白梅鞍下の追手欝羨からi量3鰹の所

にある事になる。鬱し六謬絵纒では,下野覆境ま

で2量i馨f5聡とあるのに,その撰境から皮籠}

難塚まで至墾董臨5闘とされているから,皮籠…

里塚から白渥までは,至聖と誘うことになる。そ

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安鋸欝}雛:懸道及び会津における一里縁に懇する諸1鐸題 25

の為かこの一整塚と裳海域下鷲には,紅薩闘梅里簿

臨」とする注配を欠いている。

 然し風土記には白河城下の一塁塚が,一番籍の

中ほどにあったと籠遠している。一番簿は遽子嚢

縫の護方§野余の所で,東懸紐麺びる天神霧の茜

蟻で欝1こ鐵た街藝である。これがi垂溝の一肇塚で

あれば,そこから波!籠一里塚までは,六謬絵纒で

は鎗舞弱で,醸土記では33驚の矩難に遺ぎない事

になる。それは元奨州遼寧の換線によって,露離

が縮まった事を示すと思われる。

 芳野の一豊塚風土詠こは皮籠村の項で,「村の

東十丁計1ナ荒野ノ申に在婆,高サ六尺,羅婆十置

開会径古の一塁塚」があると記載している。これ        あ み だいしが芳野の一重塚で,購鷺蛙石の北蓉方に理存する。

壕i籠の蕪身が吉野憲であると覆う{云承善こも,芳野

の字名が合致している。贋土記では笈籠一撃塚の

外に,この住吉の一里塚をあげ,ド塚ニツ東西に鼓

ビ立ッ,是レ八白坂村ノ駅鋒ニナラザル以前,黄

金嬌ヨ夢白梅ノ南,土武塚通彗城下への書道ナザ

シ舞寺ノ塚ナ1タト嚢フ驚謎アタ!ナノ追撃各ハ度々酸葦

モアリシニヤ」と記している。

 套藪は秀吉が奥辮佳麗で蕪鱗(後の若松/にき

た時,通った蜜験と害われ,慶長9年一塁塚築造

の鋳は,白竣が宿であったから,「験酪1こナラザル

以毒あとするのは,当を得ていないであろう尊又ど ぶっか

土武塚をへて,溺欝の露溝城獲方を運勢,城下に

出る遵もあったろうが,一里塚をここに築造する

職こは小蜂城下が酪今の形に透かったと晃られる

から,芳聾一塁塚を経窃する遵鰯1ま,黄金橋から                    おに果に海って,庭護縫の小丘難近を選参,芳野・鬼ごえ

越を経霞して,今の雨龍懇方をまわ参,九番簿に

薩つたとみられる。それは,慶長き隼,上杉景勝

が徳撰勢を遇えるの1こ欝えて,九蚕簿欝方1こ大沼

を窪む,又皮籠癒の木を鋳るなどして,蝿没する

溝をみせたと損えられ.璽に叢勝窃身も嚢壌の境

瞬神まで鐵かけたと伝えられている故である。奥

州道中が蔑籠南方の黄金橋にかかるのであれば,

この道中が白坂の駅蕗を選らぬ筈はな雛。

 九番簿の北西にある風禅譲の出鍾がラ九番i弩藩

裏まで続いて,近盤末の奥強道中が九番臨から,

風神緯董の豪商を迂藪して露に轡翻し,暴禅譲の

蘭方から皮籠に講っていたのは,後隼,小汚毒・

農籠一塁塚経議の新道を麗いて,九番瞬の霞道と

疲籠とを繋いだ事を示すものと思われる。 この換

線で新一里塚を皮籠裁方§町会の諏こ築いたた

め,そこから白灘}域下1こ達する選書ま,幾らか近く

なった筈である。

鋤 奥州遊車の新小菅一里塚

 嚢湾以認の奥州遊車で嚢濯絨下に最寄の一里塚  に  こ がや

は,新小菅の村中にあった。これは地馨改!薮時の

字靉靆では醗在が題らかでない。然し灘土記では

「一塁壇村中往還ノ左志ニアサ歩ニツトモ高サ七

尺麗霧六闘三尺,壇上二擾ア鶴と記されている。

その新ノ罫萱は「当域よ陰寅ノ方行程三十罎丁残鷺

ニアサ,村長サ東西一丁五十三縫,義二新レテ一

丁九闘」と記されている。この鍵簿余は白滝城下

の追手購羨から懸小菅の多分高札場までの距離と

みられるが,六謬絵籔では写違があると見え,白

湾・新小萱弱の距離は不墾である。次に遊べる欝

湾復道(会津街遵/の大谷地一里塚1ま,後連する             は の  きだいら麹く鎌海域下の遺手灘羨から葉ノ木平縫窃で童

里3簿の地にあるのに比べ,根萱(新小萱/一里

塚は邉手鑓前から灘ると透遺ぎるので,白滝新霧

一番馨罫の一里塚から灘って,新小菅に一里塚を築

いたとみるのである。それは2万5千分のi地形

騒士で…毒舞からi量蓬簿余の所にある.

縛 白湾街遵劣大谷地一躍塚外

 嚢溝街道(会津街道/は嚢溝で奥撰道中から分

岐するが,江戸からの佐濃跳の一つで,銭渡金撫

への重要な遵の一つになっていた。この街道で壼          とよぢ   な ねいし河城下最寄の一里塚は,豊地字灘根石2鶴こあって,

大谷地裁方8町程の地点にあたる。

 逓轡:中毒1以1降の益葬酵葦量道甚ま,風土議奏こ依ると,

瞬武獲麟を蔵に白湾藪下から護った瞬こある講寺

驚fを菱上し,脅寺臨駕部の壌を越えた所の遠分で

爽州道中から分緩し,大谷地に請った。この道筋

では白滝城下の遥手口薦から大谷地一里塚まで,                難i墨慧驚余である。然し歪保の欝湾域下絵籔1こ俵

ると,この白湾街道(会津遵/は,舞武濃辮1こ棄

した大橋のすぐ北で奥瞥i進中から分簸iし,講寺欝ぎ           は の きだむらを経露せず,その西方の葉ノ木平をへて,大谷地

に海っている.六部絵醒でもその通鱗こ籔示され

ている。この遵には肉寺簿の壌の難き壌i道はなくシ

平地伝鮎擁こ大谷地に鐵られる。この葉ノ木単紐虫

で追手羅蕪から大谷地一塁塚まで1ま至聖3簿で,

一番簿一塁塚からはi塁§馨1余となる。8 サれ故大

谷地一塁塚は追手藏羨から葉ノ木平経由の道で灘

って築いたに違窮ない。その葉ノ木平経霞の遵を

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2ξ 熱島大学教畜単離講集鱒辱

商寺霧経露に換線したのは,多分篶寺壕経露の饗

州道中を改修し,この壌の北方まで遵も絋輪され,

勾濯も緩くなったので,この坂の北の追分で大谷

地からグ)街道を繋ぐ事にしたのであろう。そうす

れば奏溝街道で酸修を要する慶縫が短くてすむ筈

である。この換線が舞鋳行われたのかは,今零ら

かでないが,亜保以降である事は疑雅ない。

 六部絵騒でみると,この外白湾で分数する石

属・唐綾街道,経書傷遵及び殿方街道などにも,

一里塚が懸示されている。屡土記にはこれらの一

里塚善こ関する毒藝達はなく,字霧芝図でも確認されな

いので歩一一里塚がこの絵醗に示す逓箏築かれてい

たかどうかは甥らないむ然し野離器係でみる漿参

では,大谷地一塁塚と同様に,白梅城下の遺手欝

麟を基点として,醍題したとみられる。あるいは

絵騒士にだけ薄をつけたものもあるかと思われる。

鰯 二本松城下欝近の一塁塚

 二本松壕下購近の奥州道中で,この城下に最寄

の一里塚は,南麓とも地懇談正時の字醸霰では不

明になっている。然し南方の一塁塚は岩代墨絵穰

等で知れる難く,奨州道中から齊に分鼓する上成

膿への遵と,その南方で葉に分鼓する下成懇の離

石への道の各分難点翼に籔示されている。この盤

置雄大壇で,字名では西大壇・南大壇及び大壇幾

等にあたる。六部絵騒でもこの猿麗に一塁塚を緩

示し,注記して轟越の歪法寺より5驚としている。

この縦近では墾治騰年棄龍奉線購設鋳に掘害彗って

敷設した鉄連とほぼ壷走して,睦麗街道があるが,

元来の箋撰道中はその蓉方で欝メートル懸ど高い

所に一講残されている。ここで推定される一塁塚

の位置は,二本松毒衡の南方を通る新蟹道と,棄

詫嚢勇華道二本松インターを繋ぐ道の,棄1北本線

を跨ぐ縫…橋義方とみられる。

 二本松籔下の麓方では,琵縁類までの箋鰯道中

は,竹靉靆の覚書から麹井村宮下・飯鐵経趨で,

溢1非臨に晦っていた。飯墨には轟襲氏が鎌豊満彊

寺の名を移した寺がある。濾弁購は古代の濾弄籍

とは驚で,濾#磨は濾薩霧の茜方i、7睡1まどの所に

あった。天歪末,炉遠敷寒σ)軍勢の一手が,渋瞬

から飯鐡迄畠趨勢を追った事は,戦配で知られて          いる。正課の城下絵露で1ま多少明らかでない点も

あるが,璽替1道中は宮下・飯鐵経霧とみら才しる。                ぐち うこの城下絵馨で棄に蓬びる在郷遵は,繰車方嚢へ

欝総一一至茎

の遵で,この遵の域地最寄に竹蟹・檬綺の爾簿を

瞬き,又八軒経叢の新箋鰯道中を麗讃したのは,

寛永騰年丹羽氏が二本松人離の後,正保3年から

数隼後の事と奮う。この籍待麗敷の紙張の為,本

籍・亀谷等を観音海地の爵に移し,替譲霧への窮

通しを驚難して黙遵を換織したと伝えられてい

る。それ、は慶安2年以縫とみられ,正保獲絵褻差

崖時よ拳3年以上後である。然るに歪保蟹絵騒の

写とみられる内灘絵籔では,油井の一里塚が,濾

井村と二本松壊下との闘に纒示され,濾弊村から

錘驚瞬間と漉記されている.この絵纒ではその裁

方の吉倉一塁塚からこの演舞一塁塚まで,i塁唾

驚離れている事1こなっている。六灘絵馨では大方

一整塚霧鐘離はi塁になる様に漉記されてあるの

で,この騒霧鎗闘は誤記かと疑ったが,慈井樽台

8の一璽、塚は濤1井1驚から鑓各舞舞1の所にある事が響妻

窮したので,吉倉一、里塚との箆離はi垂垂霧であ

る事は認めざるを得な1い。

 演舞縁台の一圭嚢塚から大重甕までの距離影ま,六書聾

絵纒では注配を欠くので不醗である。これを2万

5千分のi地形劉上で…籍覆彗すると, L里§欝余で

瞬じ計灘彗では濾井一塁塚と吉倉一塁塚との覆1の蒙琶

離と大方一致している。この事実は宮下・飯鐵経

露の碧遵を,八軒経窃に換織して,区麗麗離が建

びた分を新平して,漉井村台8 (濾井心入霞,環

誌拝駐在漸〉1こ一塁塚を移築した様紅見える。

 正保騒絵懸の写とみられる六郡絵纒に,慶安以

降の変化が醒示されているのは,振麹大火で江戸

域本曳も焼け,死線羅絵緩が焼美した為に,再握

超した為と思われる。再提轟で蟹によっては鎮主                    名が新人に変っている鯛もあるとされている。二

本松藩ではその時迄に完成していた新一里塚を懸

示して差墨したのでなかろうか。その再提鐵罎絵

麟が六部絵籔の原纒であれば,吉倉・油井各一塁

塚鵜の距離が玉璽蓬驚とされてもよい訳である。

⑤ 福島城下離近の一塁塚

 篠島城下を通る奥歩1涯道中でも, 馨本橋を基点紅

一里塚を築いたとみられる。 この道中でのず舞達の

一里塚は,大方地覆駿豆時の字鞍懸に纒示されて        モヨきいる。米沢藩騒絵醗載も一里塚が懸示されている

が,暑代蟹絵騒等では,それに跳べ一里塚記載の

諮線が減少している。米沢藩羅絵露は謬蕎辻や村

高がテ寛永検地の燦の麟高と一致している事やシ

欝達郡東部で霊山東方の玉野が,舞達都内として

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安鱗祷難:纏道及び会津における一塁塚に離する諸幾題 27

図示される等正課蟹絵露の彊櫓を示している。そ

れ放置保3年鱒海差虚した霞絵纒(上杉家郷年譜/

の写とみられる。それで一塁毎に郵だけ縦したも

のがあるのかも知れない。

 奥粥道中で福島城下最寄の一塁塚は,五十辺と

郷野欝とにある。五十辺の一塁塚は,安政蓉隼の

五海道中綴彗舞塾記では,一蓋甦塚と騨iばれる念ノ窯が

あるかの麹く錘示されている。これは五十透字霧

鐘蔦と塚開2§とにあ彗,編島鶴馬場の駕西方であ

るが,現;窪隷侮の形跡も残してはいないむ

 郷野醤の一襲塚は,荒灘嬌(大森撰の類名が荒

揖で,その繕紅架した郷野醤の嬌/の北,字欝欝

蓬と鱗鵜蔓とにあった。婁州道中は編島城下の選

り霧(海嚢驚・中臨・本驚・上露・詫青郷及び馬

苦労驚/を遷っていた。郷野糞一里塚から五十辺

一塁塚まで畿遜の醜く,籔上計灘で茎塁2.§密であ

る。福島で分簸!する庭琢~遵〔牽:沢街道〉では,郷

野饗から福島城下経由で靉靆を灘って,~墾塚を

i簗iいたとみられる。縁じ箋替1道中から瀬上で分鼓

し,梁舞・由舟生経麹で荒森方覆1に蓮びる街道で

も,この奨辮遼寧の一里塚を本にしている。その

街道の中耕(下保原齋方/で分鼓し,雲霧南藻を

還って権馬にでる街遵も講様である。

 これらに対し,福島城下から渡瀦経態で,秋幾・

梅擬へと延びる街道と,綾羅で分鼓して,大波・

下小蟹・月館へと蓮びる街道とは,福島域下を基

点にして一塁塚を築雛たとみられる。岩代露絵纒

では秋由経由の鱗俣街道に,一整塚を記載してい

ないが,この籔の大波地内1こ,一馨壇の字名が残

されているから,一里塚があった事は確かである。

 纏島城下から大森経醗で土湯綜に商う会津街道                  ごう しと,篠島孝議下力・ら肇・飯鰻・茂駐経霞で豪士爵壽に

購う米沢への遵にも,米沢藩羅綾露では一里塚を

國示している。覆し岩代渥絵図では緩示していな

いが,これも福島城下を基にしたとみられる。

轡 手代本家文書 歴史の遵講査鞍告書 米沢傷遵(会

                    津/② 岩代蟹鐡絵遜 懸島銀豆緩書館蔵      」

(3/ 露本経済史欝輿 野.5董

/雌) 白溝鼠土認拳三 疲籠轡

㌫・繊 内鰹文癖蕨 綾下絵懸

⑦ 二本松青史§ 雄藩雑誌

麟 簾購忠 江戸幕晦饗蟹絵舞の醗突 き〉.玉縫~

轡 米沢霧立醤毒鑓蔵 橿鳥青史資料叢書捻輯

鞭 地種改正時の字限図で見る一里塚

  地覆改星縫の字駿籔では,一塁塚の表示が墾縫

 なものと,然らざるものとカ§ある。響葦確なも」)は

 i畝内磐の小地積の霧又は不等辺多角形の官有地

 (窪地/が,街道をはさんで穣対鋳して騒示され         三主ヌ ている。徳辮蒙令考に依ると,一塁塚は5間獲方

 の広さ1こ築く事とされていた。当時の土地丈量の

仕方から見ると,この趨定では嚢径6闘懸どの胃

 形の底懸をもつ塚を作る事を意味したように覚え

 る。綾地では横縦とも崖歩人歩を見込んで,醸積

 を灘るからである。頂上に擾を纏えるから,多少

 の平場が必要で,安定角を.莞込むと,塚の高さ慧

 i聡半か2縫であろう.高さ二間と誕された一里

塚もあるが,幕府で示した高さの基準は,明らか

 でない。土が崩れて周翼に拡がった為か,鎗坪以

圭二の麟積を有する一塁塚もある孕

  中には,幕末までに嚢壊してしまった一塁塚も

多いが,畷絵雛隼までに残存した一里塚は,地積

改亜で富有地とされ,地目は草野で第三種とされ

 た。然し地籍嬢では地§を一里塚又は単に塚と記

載したものもある。この鋳の地目1ま遜・燃・宅地・

草野・晦躰・荒地・堤塘・遵・溝と示すごとにな

 っていたから,多くの一里塚は葦響とされた。

 一里塚は富三であるから,耕宅地が大濠分を占

める地遜内では,その所筏が閣確である.宅地に                      ニこいかこまれた猪苗代字中郷の一塁塚や,北会津鄭飯でら  きんでん

寺字本籤の一里塚等はその甥である。私有地や村

持の草地になっている醗もある。それは一里塚払

下後1こ字鰻纒が完成した所であろう。

 地覆酸蕉時の字濃鐵で1ま,調査もれで鑓載され

ていない一重塚もあった。顛捲定の須賀鱗一里塚

 は,一塁壇嚢5の壷木敷として襲承されている分

’は雛として,高久麩境の塚は,紹秘尋隼籍長が提

鐵した講書では.「地番なし」とされ,明治窃隼の

字醸露里こも雲登葦婁されても藁なも玉。

 攣達謬藤醗村字天王懸壱鐙と灘/l縫器との一里

塚は,字鰻蟹に「瞬治九隼講モレ,一襲塚」と注

記されている(第3纒!。この村の丈量緩慧競治茎7

隼作製となっているが,瀧辮露23の一里塚につい

て,ド墾治九隼酸正調査モレ籐中,壱里塚,長墾翼ママ

分,3コ霧問,十九歩」とあ1),又天王耀壱の塚

についても縄梯であるが,「長六闘,ヨコ壼鷺露分

壱畝二歩」 とある。 こ津乞垂こ対し字藝疑麟では葬馨塚…藝…

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2琶 篠島大学教葦単離講集鰭弩

不等遊多角形で示される故,姦来の綾地で採罵さ

れていた嚢積算定法によっている事がわかる。「改

正」は地穏改正の略である。

第3襲 葎達灘藤織醤紛一里塚淳懇灘二よる/

   淺 鼻繋数寧1ま宅地の簸番

  至  !…    、 健機、,ト』藻』乳.瀦

1☆、1                       き        昏   鰺  2§織

綾1字穣1灘で晃られる一塁塚σ〉二,三

 鎌霞一塁塚 膳夫都鎌羅村の一塁塚は,手簿光

漿と一里塚慧とで,奥州遂中をはさんで海裕あっ

ている。ここは韓の北藻でラ詫の瀬上村との境に  ひるかわある鍾鱗橋の南方25潤程の所にある。醒灘露ち鋒

先蓬の一塁塚1ま,街遂から亙.5賜ほど離れた水鐡中

にあ猟経蓬~5欝iほどの霧形で示されている。

東{難の塚は街道紅接した半縫形である。ともに毘

歩の広さ一の村総持の草地と地籍嬢には書かれてい

る。然し農夫鄭村誌の鎌鑓材には.瞬治9年改正

講として,壱量塚靉靆昔獲歩と示されているから,

この村の字鰻野取纒を作った蒔には,まだ富春の

一里塚であったが,地籍譲作製までに払下1こなっ

たことを示している。

 耕地の中に円形で示されて鵠る一璽塚の事夢彗は

幾つかある。越後街道の高久南東方,北会津都誌

獲金の一塁塚はその一{藩である。ここでは二つの

塚が6灘ほど離れて,霧形で示されている。

 麗符一里塚 会津の米沢衡遵で,耶麻謬塩鱒簿

にある購符一塁塚は,小符根芋五翼薄妬(地覆駿

豆番号総§3/と講字磐(溝欝§のとにあ参,票藷

定の愛暴になって鵠る。共に地籍緩では箪地で,

i藪積は各欝歩,富三となっている。澄し東鰭の塚

は轟各円形,藩餐彗の塚1ま半円形に麟示され.,その欝1

蕪は淫懸ほどとなっている(第蓬麟/。

 無爵若窟一塁塚 若松城下の馨}分にあたる/罫黒

縫分の若宮一里塚は,地穰改藍錆の字霞纒では,

羅鱗若宮字視馨葺磐と字視麟南認との地所で,講者

至盤毒一鋒

繁尋籔 猿彗符一里塚

「            垂

         『

           す

           す

           で

    5ト 一一 ーー■一 一一 

i『=ヨーー

・雌 『

_ 山_一一

藤   童欄

 へも

2彗   鱒璃

←一」

併、~・i

二/i   壽

一はi畝歩,後煮はi畝§歩,共に喜喜の草地にな

っている。遵輪2問余の越後衡遵(藪下通義越街

遵〉を嫉んで,龍の概薄舞3は不等遊六角形,繭の

塚は苑弁状に襲示されている。安政5年の置海道

中纈晃配では,かわたの西に一里塚を醒示し,壕        ゆき下遜載越街道の絵緩では,観簿癒蟻の西穣寺と湯

1軽/黒醐に藥した涙嬌の橋本との襲に襲示され

ている。この一里塚は茜七馨驚の若窟稲荷社蹴返

で,そのすぐ藪方には若宮・新羅敷濁村の境を流

れる驚水鍵各がある(第2誕〉ゆ

 地籍緩を作製した鵜治鰺隼§月獲も,若宮一里

塚は官有の草地で,払下になっていなかった姥く

である。燈.し縁蔓7年善こ完成した三三方遵鐘各青書,すぐ

北灘を遜るが,それ隷この字醸纒・地籍瞬こは全

く示されていない.この地籍緩等は瞬治欝隼以鶴

の状態を示すのであろう。

 大連寺一里塚 大沼謬勝原字大連寺の一塁塚

は,高鑓から大内篠に霧う下野街道をはさんで,

大連寺道下鯵6と大連寺道上欝3とにある。薄れも

方形の窟窟草野であるが,ともに広さは6歩で,

第5騒大沼灘勝原大連寺の一里塚欝透  大遜紛無ま大連寺遵と,醸ま大連寺遵下

鰹離_為

錘盤照 劇_._ノ1瞬   鎗ii競・        1

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安懇擁雛1熱遵及び会津にお!ナる一里塚に臠する諸幾題 2§

醒勝村持の草地の中にある(第5灘/。

 本宮一里塚 安達藻承宮字大篝ぴ)一里塚は,字

鰻図では一方が三角形ラ地方は長方形になってい

る。若し富;禽地でなければ,三角形の方は覧落し

かねない表現になっている。覆し地籍麟では共に

地§が一里塚で,三角形の28番地は欝歩,長方形

の3玉番地は§歩である。

 二本綴街道の北会津鄭鶴駕(下懸念}字馬寄6

も,纈長い三角形で騒示されている。ここには塚

が理存していて,塚の平鬱ぎ形は円形に近く,三角

形ではない。

② 地名と一塁塚

 瑠麻轟壷揚では,一村内に字壱墨壇と字壱里塚

と青書ある。鳶毒者は元一墨壇の所在地で争後者善ま新

一里塚の所在を示している。壷楊字一塁塚慧の藪

2§歩は,現存する楊枝一里塚の所在ま毯である。安

達郡仁井遜村の棄壱墾壇及び嚢壱里壇は,弱治窮

年迄一重塚があった。然し字名が一里塚又は一里

壇でも,その中夏)一塁塚の所在地が墾らかでない

ものもある。解達郡桑訴村の字一塁壇や安積都福

原村」)字壱塁壇はその趨で,字名でだけ,かつて

一里塚があった事を霧藷っている。

 安達郡南杉螢の字森壇や撃達都谷地村の字縁下

は,壇とか塚の称で一里塚の所査を藩示し,又実

際そこに一里塚があったが,壇ノ越などと養うの

に一婁壇がない場合もある。安達雛下成懇の大壇

の難く,近隣の一塁塚から税i里1こある場合1ま,

一塁塚所在に関わる地名と撤してよい。 こオtに霞

む地名が,一塁塚との距離が半里以内で,講じ道筋

にそっていれば,元一里壇の勝在が考えられる。

/3/一塁塚記載と字猿轡の作製無代

 三桑合儒繭の福島察では,瞬治§年幹事震から

韓毎に地種改琵の為の惣代人選鐵を行ない,惣代

人が灘量人を選狂し,耕宅地灘量グ)準騰を進めて

いた。題治9隼は耕宅地講査であるが,麟宅地内

に混在する蜜躰1菱蟹は,購鋳に調査をした。然し

鼠1躰原野のみの地所は,瞬治聾隼の躰野改毘で調

査された。字醸野取籔は夫々その時作製された。

 瞬治§年の調査は,講年§月須に一応終了した

とみられる。それは霧給費年の上水漂村地覆改正

中諸事撫緩に依ると,瞬年6馨鍵蔭鰭で,「其対々

実地検査トシテ跨務省営蝿濠鑓橋銭躾二村,全村

騒野取籔及反欝総計緩丈量緩共」灘掛官長惣代人

らが持参して,転籍轡丹治与蕊衛鴨方へ崖顕する

よう,で書夫舞舞第一区長から,水原・開谷・平石及

び永齢顯各村が通達を受けている。そしてε右鷺

六讐舞検査首尾髭根済」と記されているから,梼

参した野取騒(字酸実灘野取鋤や丈量鑛等の鐡

来栄えは上善尾だったと冤られる。瞬蔭慧鱈夫鄭

大森村涼今とあるから,大森でも麟様の検査を実

施したと推察される。

 この時の字鰻籔では,一塁塚は富有地とされ,

窪地で選示されている。串縫は私有又は公有σ)草

地あるいは耕宅地となっている場合もあるが,そ

れは字醸馨の完成が輯治蔦隼鋭鋒となった場合と

晃られる。福島渠で韓1墾治蓑奪12月,一塁塚及び              モ きその圭1の立本の払下髪関する選1達を識した.欝達

榔大立§村ではそれに健って,岡隼3月中に希望

考を募滲投票で払下人を選んで,払下の土牢をし

た。翌隼2月,隣村からの鶏合せに対して,票で

はヂ調査中」と蟹答する事にした。懸美都清水溝

轡では,岡穏年5焉25警,栂民が費沢鍛と東壇欝

との一里塚の払下を受けているから,大立難でも

その雛払下を受けたと見られる。

 桑文色センター蔵の字駿纒に慧,隣接地の字名

や方位等の記入もれを欝箋で旛摘され,補歪をし

ている事鱗も多いから,字靉靆の完成までには薄

戚の嚢寺馨を要したものもあると思われる。

 この字鰻籔の第梅毒字舞々の名称が字名となっ

た事は,衆知の事実である。中には馨麻羅縫麗村          うえ      したの麹銀字鰻懸で1ま塚上及び藤下が,地籍鰻では   つえ           した

壱整塚上及び壱璽縁下となっている事瀦もある。

 皇緩地誌纏纂で福島察でも地誌編揖掛が,各村

から地誌の原稿を提轟させた。明治欝隼提墨され        こ た鑑夫郡庭鰻軽地誌では,緯宅地を含む字は,新

字名で凝三載されているが,林野駿1箆縁霧i!年の事

であるから,縷1林漂聾は紹地名で記されている。

こうして庭壕村でも瞬治§隼には韓宅地を含む字

地縁,字隈籔が作製されていたと覧られる。

 この村誌の成稿は,膳夫・啓達溝孫で明治簸~盤

隼に完成した。この成稿でも耕宅地の分は新字名

で,乳麺棒馨{野の分は1響地名のままとなっている。

又叢達の地籍園で一墾塚の所産が確認できる韓で

は,藤欝村以外砦「壱里塚段驚坪数」が,鴫治9

隼講σ)新櫨に記載されている。これでこの字鰻野

取魍が弱治§年{乍成である事は萌らかである。

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3毒 趨島大学教篤学藻講箋韓琴・

/4/須賀辮の一里塚実灘緩と字醸籔

 須賀絹の一墨塚は婁鰯道中沿いに,字一塁壇藩

5及び轟久蟹境1こあ磐,騒揚足の史鋳である。地

租改正鋳の字酸馨では,一里壇嚢及び高久蟹境共

一里塚は穰示されていない。糧』し西撰彗の一聖壇西

で隷街道に沿って,纒約2閣ッ長総総問の厳木敷

がある故ッその露に一里塚が含まれていたのであ

ろう。醜連の麺く贈秘鐘年籍長が提鐵した調書で

は,一里塚の一方は一一量壇西5の董本数とされて

いるが,地方は轟久錘境で地番なしとある。

 この一里塚に絞まれた饗辮道中は,丈量緩で轄

5闘となっている。この衡遵は飽の薮舞舞は大方3

薦纒であるが,この蕊分は輪が広かった。字駿褻

ではこの衡遵に沿う高久隣境は民有躰である。こ                 ゆの一里塚を蟹捲定1こする時便った実灘褻(愛§書分

のbでも,街道は輪5鷺余で,轟久譲境鑓にも

纏2.5~3.銭闘の遊水敷が誕示されている。これで

地種鞍置醸こは高久襲境の壷木敷が騰落していた

事が判る。ここの一里塚は実灘籔では東灘とも

各々重水敷から3闘程外穫彗に食み墨していて,横

縦7閥程の不等辺多角影になっている(第6麟.

近隼鐸られた5§食分のi地籍灘薫騒でも,この一里

塚は不等辺多角形に騒示されている。実鰹は椿聾

に近い単襲形を持つこの一塁塚が,地騒化される

と不等辺多角形に騒示されるのである。地穏改琵

時の字銀露でみられる種々の単襲形も,宣なるか

なである。この地籍灘星園では藍本敷は,遵鶏の

申に含まれている。

 第6麟 須繋擁一里塚等実灘霞(原寸,単御講霧

嬉,一塁馳が卿怨,     2ノダ

     お

’1”饗陛旙藷 嘱鞭フ

一七影響馨   {為  !亨

          高 久 瞬 境

縫!福島青史欝 駐.i難~蔦2

鱒地築3§弩通達 叢島祭文婁F器捲,明治鴛年2月

 轡段蟹欝達謬大立賢村よウ鶏合せ

盈§縄一玉茎

麟 庭坂講匙誌 懸高察文書,驚237,庭藪婁漢1孫(庭坂

 と在庭藪との境鼻裁定£麗する諸文書}

緯 橿島票教毒序文駕諜蔵

至V 一里塚闘の題離の問題

 慶長§年の幕府の揚令で,一塁塚霧の遵法は3§

臨をi里とすると定められたから,一塁塚闘の露

程は総驚である筈である。また正保露絵麟で1ま「一

興出と郷との総,遵法,絵露二書付猴3とされて

いた。郷は郷村で,この琵羅こは主な街道では村落

闘の髭離も淫記されている。それは村落海の蕩札

場などを基点にしたとみられ.る。それ.で一塁塚閥

に村落がある場合は,そ紅らの闘の鐘離を集計す

ると,i霊になる様に書上げられている。内灘絵

騒では写違がなければ,大方その遜拳になってい

る。糧し安達蔀の濾井村と吉倉村との一里塚鷺は,

講述の難くi量尋欝賞こなっていた。

 一塁塚鷲に村落がなければ,内灘絵馨ではその

駒馨欝を滋己していない・当灘里であ、髭習うの省酷したと見られる。郷纒晃郷纈道之覚でも,

若松城下から桧漂米沢領境までの一重塚を,次の

難く記載している。

           七霧溝壱里塚より

   魏矯弐拾三薪余

           上高野付入饗

   髭闘拾弐鷺余

 覆是迄壱璽     下高野壱里塚

   鏡聞捨簿余

           森台付

   既賜弐拾六鑓余

 優是迄弐璽     笈趨村壱里塚

   鈍間塗三驚余

           沼上彎入ロ

   醜聞八丁余

           浜綺村 遽 塩籍村大橋

   魏翼三丁余

           塩僻村郷高札場

   鏡鶏捻弐丁余

 但是迄三甕     畷符一里塚

                 (以下鵜/

 ① 上道(上路)と阪東道

 かみみち 上道は鄭の道法,難ち上方の道法と言う意で,

蔽棄逡即ち醗舎道に対して綾欝された。関西では

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安鑓擁難1纏選及び会津にお1ナる一里塚1こ麗する諸幾題 3至

条里麟施行時からi璽を3§驚としていた。尤も条

里の里は6霧灘方の区域の事であるが,それが長

さでも3縫移をi里とした。これに帰し麗棄では後

年まで§欝をi量としていたので,3暮露をi璽と

する上遵紅射して,6臨をi墨とするのを駿東遵

と呼んでいた。この販東道は新記の八十璽越や六

十里越の解説でも知られている儲

 箋州でも一塁塚を3§驚玉里で築く事になって,

上遵が使欝される様になるが,ま二道と欝欝して一一

部では叛東道も可成後量まで硬灘されたと思われ

る。メートル法施背後も舞懸緒飛と言うが難くで

ある。この3§1警i璽のi麟は,各彗薦であるが,そ

のi弱は現在の麺く麟尺の6飛かどうかは,俄に

籔定できない。

② 道法難定霧の間竿の長さ

 地覆酸箆時6)i閣は6飛で,字鞭騒で縁懸尺の

冴甥って麟とする薯砥っていた・然るに欝夫鄭村々沿革地形及雑表では,戸数人賑等絹絵

§隼i薄1嚢講の軍属本籍戸数及びその人数を誌

載している故,蚤鋳の事鋳を示す資料と晃られる

が,億矢部各村とも,霞丈量法は「六尺壱歩 三

百歩壱反」としている。これは麟馨を§尺i分(歩〉

としたと需う意で,江戸幕府が早くから検地菰{更

覆した瞬竿の長である。尤も実際の癒積計算では,

このi分を塗てる搬い方もしていたと需う。

 返縫に各地で使灘された検地竿は,蓋開を§尺

5サ, 6尺3寸, {3尺2寸, §尺i分などと,時

によ穆地方に依って違っていた。二本松藩での近

置の新濁検地では,i闘を6尺5寸とした。それ              ぽは本宮地方史で引絹した石盛鷺竿1こ,

 一,天和二成年 下縫村検地 竿六尺一分の事

   石盛共二箋強代の事

 一,購年郷領申新遜御陵綾地の定 竿六尺五寸

   の事事 馨馨溝薮1耀共毒こ竿除の事

            さげぴとあるので辛彗る。この鋳,下樋韓の本醗は§尺

i分の闘竿を綾絹して,慶高本醗欝奪石余となっ

た。これで下縫村は新検の村となる。然し瞬年中

二本松鑛内の新遜は§尺5噛竿で検地を実施して

いる。この§尺5寸は又二本松鑛での綾雛1謬}(坪緩

又は坪枠)の内法でもあって,6尺§寸内法の枠

は古綾の村で硬罵され,6尺査分内法の枠は新検

の村で嚢稽された。その為吉検の村の後地も6尺

5寸竿を縫縮したと誤解する人が鐵たと思われ

る。こうして隅領内の文禄綾地では,6尺3渉竿

を綾絹したとするが,それは6飛3寸であろう。

二奉松籟内で吉験と穢しているのは,大方文禄験

地の事で,一部で寛永窮の綾地で高が多少改めら

れた村もある。それ改憲検の村慧丹羽氏入部雛藷

の本:露轟の鑛の村である。難し吉綾の村でも新綴

は劉紅綾地している。元禄9年鋭鋒可成の数の栂

で本震の再検地をやって新綾の握となった。新検

の轡は大方改鐵高があるが,申には減蕎の村もあ

る。一般には叢検の村は縄蓮があるので,穣晃雛

の内法を§尺5陸としたのであろう。この§飛§

寸は古検の検地竿の長さではない。

 三春藩でも新蟹の検地には6飛5寸竿を優った

が,ここでも文禄綾地は6尺3す竿を{吏欝したと

思われる。太懇穣地の黐竿に臠しては,轟郷光寿の論謎があ嚢,購氏1ま文禄3年以降は一率に§尺

3す竿を獲饗したと見ている.この太閤綾地の縫竿につい鴛,近選献糠描石その惣撰羨

があって,一部の入は6飛5サ竿を使ったとして

いた。それに就いては襲嚢地方総濠や地方飛鰹録

の著1者らが,騒饗の根嚢玉もな秘事」とし,太閤穣i地

は6尺3寸“竿を優零したとする。特に譲露地方紀

原では,検地条欝等幾つかの証擁をあげて6尺3

寸竿を整った事を論証している。薩摩鑛の文禄検モの

地でも基準とされた震度を醗示する娠が残されて

いて,それを基準とし,6尺3寸をi闘として灘

る事が暁鶏されていた。会津の換地条目でも基準

が示された筈であるが,残されていないので不明               である。然し会津古今貢納式§録では,天豊中以

羨芦名氏の時から「地之方寸六尺三寸ヲ壱闘ト云ヨ

としている。建梅の場合は東経が六尺§寸,中京

麗が暮尺3寸,江戸匿1難ち醗舎閥が6尺となって

しきる。地積の丈量と遵裳去の護彗量フ酵, これと覆1じカ・

どうかはう検討してみる必要があろう。

元禄碑,噸翻手になる膣雛謬,では

麟尺6尺§寸をi幾とし,露程を灘るに零いると

している。こグ)概説では6尺3寸を京鷺としてい

るが,「毎麓碧妻二1灘,直隠一籏 其灘藝1“寸 訴半之

醗一懸 則得二寸 以減六尺五寸余六尺三寸ゴと      しきみ記述している。懸の中心線から畳工数:を置いた次

の閥の中心線まで慧尺であるが,態の纒1ま魂噛で

あるから,その半分の2すを講難で差引くと懸鷺

は鴛尺6サ,難ち畳一枚は§飛3寸だとする。こ

の§尺3一寸は懇積灘量善こ篤いると震う。

 天保警年覆の籔園地方紀原でも,里程を量るの

に6尺3寸の間竿を繕いると記述している。道程

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32 蕎島大学教欝単離論集婦馨

を灘るこの方式が,鞍遵や会津でも採羅されたか

どうかは,史料上では墾らかでない。然し飯にこ

の方式に依ると.至墾1ま懸飛6饗を茎鷺とした場

合に換算して,i里2.鱒馨繋こなる。それは甑5÷

6二玉.{違3で,書分3塵の増となる故である。鑛轟

絨下の箋州道中筋で,五十還・郷野霞各一漿塚闘

が纒上距離が1璽2.鱗},若松城下購近で瀧沢・若

宮各一塁塚閣がi漿3.2窮であるのは,近邊褥難,

饗:州でも6尺5寸竿を健矯して,道程を灘つたの

ではないかと考えさせる。

第i表裏頻連中4〉一塁塚.藩産と縄臨の欝灘纏

懸  驚 韓“字毒慰産灘訂下蔭方織こ覧て左澱・ 縫醸の欝灘魑

撃達疑麟×鷺ノ翻暮 ×雛ノ齢i l                >玉里2.§町ノヌ 藤 田昏.天王纏壱毅 ×鍵辮講欝 i,,谷懸×邉分i尋 ×塚灘 1                、。一>工が2.i鐸

     l            l                >蕪3艶範霧 桑 癬1一量魑縫番馨尋 素壌地番不彗慾

                >…玉.璽     む嶽鐵鐙 随b査 ぜ一難i㌧> 32購

ll欝欝讃 委鍵訓諭漂1欝ノノ 濤承舞1〉・費沢2i   4康壇2玉

                >盈f縫.書ノノ拶浅緋×至幸灘 ×倖遺賢                >星が2。膨’安達 鳶 魯1×薬鑵5至  ×諏訪窮玉                5>玉撃5.7犀が 漣井1台解購  道醤欝病

が一f麟大盤毒磯  餐  i〉誘∫f5・㍗

                、>  3暮控     }

諜杉誓ド饗灘1に欝lllll∫’ 鉱井縷1×蓉壱婁穂奪×東壱雛壇§                套響欝

無目簸卜隷羅轍海青簾社あ絹>垂,,2.3,’

ノノ趣劇藤2 一難懸磯1>i,,轟.4,,ノノ

ノノ

岩瀬

ノ、諸

嚢溝ノ声

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ノ’

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雪割×小饗24×纏臨i卜 35瀦匿 !l籍メ、.聾ノロ2護  ×箋嬬磁   k  l                l、、藷董ノノ3.唾ノ’

森窓陣西擁欄難董鋼1須賀華1壱鷺麟聾の内釜矧  未詳   耀  懸

美稲聚譲灘鎧輩蚤群小麟 猿F翻3 ず壱難i㌧).烹購.2//

欝墨隷轟萱譲譲iζ・冤i凱

皮籠1三輪台  一里霞地番遡届き壌織襯2§ 瞬輸  1>惑35・5謬

蓬 ×難 地欝が一豊塚とあるも紛 ノ羅 地盤が草野とあ

 るも紛

!3}一塁塚濁の靉靆計灘の結果

 2万5千分のi地形露上で一里塚題の距離を灘

るために,字醸騒で各一里塚の位置を確認し,地

形露上にプ窟ットした。この計灘にはなるべく平

壌地で,道筋に変更がなく,昼っ麟新の少ない所

欝8毒一i翌

第2表 主として会濠盆地の一塁塚

灘 購樽・字毒鰹窪灘ま穆寿糠こ塁て講鱗震緩講蚤灘鐘

会津 縫 沢、籍薫に軽車ヒあるも不覆  i

ガ黒噸籔 鵬欝 に婆欝ノメ 龍賎合酢造㍊§  大慰繕  1

湾灘海老纏榛磯騒礪趨勢7 レi勲・卸

ll報1×霧劉、g驚難、1ζ繕1

ノ} 隻移劇×灘貌5 革製  …坂蓬髪馨ヂ

鞭計1灘㌧灘ll柔1鷺響η雛・符籔し五百薄25 プ五百灘毒 1> 3翻

羅笈滞下灘淋鞠i>茎疇.7灯ノノ鞭船瀬鰹3 搾鰍2 1>亙f’2.7拶会津裡曙レ飛礫5§ 麟1騨癖

λ,一 装巣ホ評㎜!奉麟ヨ>翌ノ’3・鍵                1〉P緯。7厚鳩車難㌧鎗磯鷹測 1騨.劇》鷲、、大鍵、,1欝均

                一懸難解こ難搬も礁.卜〉輝玉里i§暮露大沼 新愛敷1》中十二神2  癩蕎客主軽罰     l          i>茎ノ緯・毒!『拶境鰍寺懸 臨麹 …〉P∫2、7,ノ厚  鱗  原1 火遷寺違警総   大運寺遵窯玉鍵1

潮懸野晒天慰×無麟1>麟.護欝会津愚鶴 饗量》僕養遜2奪        1

淀 ③棒 2舞彗符 3下姦野 紛七嚢町各一里塚

 ・竃輝…賀霧鷺詑よ鯵i璽2.3晦 竃/霧i黛愛簿

 ×、〆馨 第i表に講む

を選ぶ事とした。密縫薬は勾醗や屈麟が弱題にな

るからである。 カーブメーターで馨十潔馨した{嚢の5

懇平均と箆矯で計る方法の比較もやったが,余!)

大差巌なかった。然し計溝上の誤差もあ誓うる。

各街道の一塁塚所窪地及び…墨塚観距離は第i表

及び第2表に示してある。

 これでみるとi.里未満の一里塚薦距離をもつ区

間も多少あるが,そ轟は藏叛していた遵霧を道酪

改修で直線駕した為に,鋲離が縮まったものとみ

謙る・轡羅縷欝を越蟻区織あ彗湊川道中の小猿遜(安積講と笹鱗懸で1ま・塵線窮

離でもi璽婆.8繰こ達する。会津の米沢街道の笈ねオン  しもこうや

巽㌧騨騨植鞭離哩%驚属じく熊倉・樟(縫麗)閥も壷鑿逢簿余である。絶し二本

訟城下蹴返での吉倉・油井麗及び濾井・下成遜(大

壇、)闘は特選」)事薦があっての事で,それに就い

ては前1こ述べてある。最も頻度が轟いのはi里董

騨からi墾2.§瞬までである。6尺3寸をi闘と

すれば,§、§÷§⇒.絡で容疑至闘夢)聖里に換算す

Page 15: 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題...安蟹携雄二鍍遊及び会津における一鰻塚に囃する譲靉靆 欝 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題

安甕祷難:健遵授び会津にお謬る一塁塚に絶する羅翼題 3馨

るとi璽i.8霧糞こなる。満第7図 会津薦藩蕊の衡遵と一塁塚

れで太鷺綾地の毒殺3寸

竿で,距離を濁ったかと

も考えられるが,今後σ)

検討に挨つ外ない。

轡 一塁塚醗羅からみ

 た麟道の系粥

 …里塚醍羅を子綴にみ

ると,近饗;窮鞘の主な鶴

街道とそグ)一塁塚渥置の

系翼が顧る。会津衛遜部

のそれに就いては,沼瞬

街道6)鞍説で述べた遜1)

である。薦幾遍撃では若松

城下の拳蟹鱗舞麓から,

飯寺・本郷・大内・藤島

経義で,一里塚は五十里

へと続いている。縷島ま

での南山通むは上野驚で

もあ鯵,懸島から、ヒ野驚

は遜逸し験戸綜・患馨・

浜野・桧枝絞をへて上野

遷に商う。一漿塚もその

類で醍置されている。鐸

南郷筋では蜜舞から浜野

癖      懲      鎗鋤

       4  き還啓

   れ讐越罐   レr一

六入㌔憶

膨     で    ヒ     マ     曳     一     解毒

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、、ぎく,》《.ノ

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   書驚  襲      生      蜂 、  唱う   ヤ                  サ

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◇楼

上三儀

 纂猿蘇

豊 く

娠、

F 露1ず 一里 塚1→繰鵬鞭し蒙

iも・麟翻

に海って東撰を通るが,浜野であわさる嚢翻街道

もある。この西撰彗街道の一里塚馨,浜野南方の一

筆塚から灘ってっ浜野・鴇巣・秘泉田・黒谷・只

発・鮭津軽霞で八十璽越へと築かれている。

 南鐵遷馨の大内穂斐方で,藪下から南下する下

野街道が,南廷毒通町擁こあわさるが,この遵籏の一

塁嫁鑑大内篠鍔蕪1の一里塚から灘って,大内鰭・

毒野・高議経由で懇躰に向って築かれている。羽

替の一里塚縁新記で村義にあると鑓されている

が,羽林から媛下一塁塚へ1ま鱒露余.海老沢一塁

塚へは28i弩余で近過ぎる故,この下野街道」)一塁

塚は,越後街道のそれとは霧系列である。

 白滝街道後び越後街道の一塁塚の系列に就いて

は,賎違の通参である。越後街道の気多筥で分数

する越後嚢孝巽遠(謬琴匙遵〉は,藪下一塁塚から瀦1

って気多宮一整塚その地を築いたとみられる。越

後街道の舟渡晶里塚も,気多宮一里塚も気多富の

分華箋点かろ等羅茎難壁こあるからである。こうして郷

津・縫谷・濃淡・積鬱・蒲生と一塁塚が続いてい

る。蒲生一里塚は蒲生瞬講義で,蒲生本螺からみ

ると叶津寄に築かれていた。この蒲生から叶津経

由で八十箋越へと衡遵慧繋がるが,次の一璽塚は

入舞津の藝にある。新記では蒲生から時津まで欝

簿,時津から入時津まで鍾購と記しているが,そ  なかだいら

れは中平までで,一塁塚がある入叶薄縁更にそ夢)

薩8霧余になる。それ故蒲生から入幹津までi塁

尋麟となるが,図一と計灘では重量簸購余で遠遍ぎ

る。又只見の一塁塚は貯津から慧織余の霧にある

から,これと蒲生一里塚との疑離縁3董購程で近遺

ぎる。それ数越後裏街道の一里塚の系殉ま蒲生一

里塚までで,只見・叶津・八十璽越の系舞とは.

驚城からの行程と購様購系列である。

 銀鐡街道では畢賀驚凝北を基点として,一里塚

を築いたと見られる血そして下蒐井・松壌・軽警  まつがした  すなごはろ  おおたに  ダかた ふざわぐち

沢・鞍下・砂子療・大谷・開方・布涙嚢へと続い

ている。僻南絹篩に量ると小秣から片貝の端郷の

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3垂 懸鶴大学教育学離論集麟弩 欝蓼§・…絶

筆8醤 会津誌棄離の街遵と一塁塚

藪下

灘躰

人達寺

冴講譲

/            ,一、ズ

’        ・   一ノ

ノ~2 ~気、.  /一   ..

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  、凱    『一       簸

死・捨象緯簾羅一一』「  炎醗.     /~

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             、肇        議逡

            亀、争         噺 ・

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                      .警懸念     覇

            能弩  き薫  .輩“灘

                 準 譲舞 . 露輩.畢     本繹

            醤  騨符       .

            葦     、    優駿

                      華華   畢夢  大連寺.  暮・

.  ・ψ

 -豊ノ

    簿1串 饒、   毒2縫盟讐

警 i 2 3 唾 5里

臭覚一重壇へ    ピ  \串癒澱 ビ    、

氾濫で癖されたと見え,

地穣改正蒔の字鰻纒では

酵蓄;窪不羇である。

1董}手代末家文書 騰史の

 遵会津米沢嚢道議蹴

12/橿鳥青史資料叢書蟹

 費.至~§i

鱗 轡残瘡蓋 本塞地方史

 P蓬5§ 畷輩畢跡穣勇こ

韓 轟擁光寿 豊欝秀着の

 綾地 岩波講座 舞牽歴

 史

聯 新昇自薦 蟹渋溝答,

 溝窟秀堅 地方新書

鰻 朝羅鼎五鼎 懇聖地芳

 紀漂,大看久敬 地方凡

 擁鍛.L

緋 安良城盛紹 太懇換地

 と鷹羅誓箏葦 駐.董34~

麟 会津着払毒馨書館藏

鰯 中根璋 簿原発繹 露

 本経済大輿第魂

雛 福観察図書館藏

む す び

根木渥6)一塁塚まで矯系譜である。この撥水麓一

漿塚は字石欝下蓬5にあったと晃られるが,この遵

を南進すると,露羅宇台麓方の一里塚に霧う。

 その闇華こは饗・客旅翼のへっ馨があって,逓雛      へっむ擁莫醸こはこの轟をさけ,菜6)尾根を越えて南進し

た。崖下を還る遵でも台一塁塚まで玉璽7瞬余も

ある。尾擾を越えると璽に露離は難iびる。この饗

のへっ吾)は欝欝・静龍爾郷の境であっただけでな

く亨一墨塚氈鹿や新記での若訟織下からの行程を

濁る場台でも,境界となっていた(第客纒)。                      い..牙鶴嘩餅繋蜘北鰹点として・鋸合・八綴・更科・長逝・猪藤代・麟灘・閥脇・傷

捜と一塁塚が醗麗されている。猪苗代新臨で分鼓

する福農街道ではシ猪蓄代車鑓の一塁塚から,白

本城・酸購野・大原・高森・横海と続いている(第                     8醗〉。これ隷瞬治3隼差墨の猪苗代爾緩絵纒でも

萌示されている。長瀬籍絵雛の醗灘一里塚などは.

   、

           鋤 家縫実語の寛文7隼

会津での一重塚権築の記事は,会津で窮めて一里

塚を築いた事を,意練している訳ではない.

轡 寛文7隼会津の馨湧街遵及び越後街道で,一

婁塚を築いたが,会津の遵にはそれ以前幾1こ一興

塚が存在した事を示す誕鑓がある。それ1ま無代字

発一里壇,神指の擾壇.猪苗代字一里壇,壼楊字

一墨壇及び南会塩沢拶)字一重譲等である。

麟幕癒6)癒合を受けて,慶長§隼婁擁でも一里

塚を築いた事は,三重年表・饗1根秘鑑及び二本松

領の年代諸等にも配達されているα

(撰 慶長9年塁粥道中では,El本:嬌を基点にし,

会津では若松城下の零賀簿籔麓を基点として,一

墾塚を築いたとみられる。

嬢 寛文7年会津での一里塚構築は,巡見使を違

えるための改修又は再築とみられ,又寛文欝隼八

霧i野一塁塚築造は,大連寺一塁塚の場合と霧様に,

水害に依る縛直しとみられる。

Page 17: 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題...安蟹携雄二鍍遊及び会津における一鰻塚に囃する譲靉靆 欝 仙道及び会津における一里塚に関する諸問題

安眠祷錐:麟道及び会津にお1ナる一里塚に臠する諸鷲題 卿3

3

({券 地産轟酸茎甕爵に一墾塚は官有舞甕とさ津t, 瞬治亙i

年以降払下げられたものもある。 こσ)時点で一里

塚は姿を消したものが多い。こうして明治初年の

耕宅地の字漿野取繕は,罎福島察で畷治9年に完

成していた。然し地籍緩は講i5隼以降に講製され

たが,その記載内容は釜緩に記されている年月欝

と一致するとは醸らない。その内容の時間的罷係

は震の史料で確かめないと,正確を窮し得ない。

(71一一攣塚は上道鄭ち3麟}をi塁として, 董墾毎

に築かれたが,そ」)縛の闘竿は6尺ではなく,§

尺5寸1~こは6尺3寸であったと懸わオしる。 こσ)事

は今後の懸究に残された問題の一つである。

 鰹記 この調査を進めるにあた1),須資縫毒の

戸石清一氏,磁島祭文匙財保護審議委員看)中村五

鄭氏の協力で,貴重な資料が入手できた。ここに

厚く謝意を表す。   (紹和載年8月24響饒稿/

So搬e p董ob至e懸s o簸出e Ml至εβosts塗Se簸do&撮A孟z嵐

                           R3ts穫。 YaS縫3.

(i)丁鼓e籏量dε搬黙認2繰ゴCO登ce盤eδwl撫t鼓e鵬str疑ct懸0董t藪e盤量獅ostsl簸7蛮ye&ro重

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(2》 丁飴醗難e夢osts塗Se甑董(〉3盤{重Ai斑werεco簸st澱。艶{墨塗癒e9撫ゆ{κ麗漉0蔭y()ギ(墨er o{議e

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(3/ 丁数e co簸s重rt玉ctlo葺。{慮e艱難e奮}osts aceo盤擁s墾e巖繊翫e董st o蓄Aき〉r星置搬出ε7撫。{κ{z泌観塗

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