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2縫3葺塔肩 『大鏡』道 纏島大学教畜学鑛譲葉第?唾磐 24 問題の勝在 『大鏡』第羅巻「講大駆道隆」伝は、関白藤原道 の途を辿る申開自家の悲麟を鉢現した二人の入麺、子息 涯を嬉照釣に描いている。栄光から忍鍵・失意の生薩を終え して、「懸》中のさがなもの」と評された隆家の反骨の生は、『大鏡 場する諸群像の串で一際生彩を数っている。 まず、隆家の入梅繰は、次のように紹介される。 ぼき 十七にて中納言になむなどして、世中のさがなものといはれたまひ しとのの御わらはなは講書霧ぞかし。このあにどの、郷の〜し鯵に か〜蓼て、繊雲権守になむて、縫馬にこそはおはぜしか。さて、 麟殿砂かへ鯵給しお鯵、このとのものぼむたまひて、もとの中納書 にな鯵や、又・兵離郷などこそはきこえさぜしか。それも、いみε (詰 うたましみおはすとぞ、よ人におもはれたまへむし 隆家の伝を語るにあたむ、偉者は「饗中のさがなもの」と「たましみ」 の二語において隆家像の牲機を特籔づけようとする。 「さがなもの」は「さがなきもの」の賂であむ、辞書的意味は「手に 負えない人。讐やかましい者。姓悪者。ろくでなし。」の意であるとい う。藷幹をなす形容詞「さがなし」は「性格解よくない。ひねくれて、 いじわるで、手に負えない。物書いの穏当を欠くさま.いたずらだ。や んちゃだ。」などの意、類語-さがなめ」 (猛 悪な目。」の意である 『大鏡』では第五拳「遂展転」に遵長の法成寺 「諮きならがさがなめにも、た穿人とはみえさせ給はざ 「さがなめ」は「欠点をさがし立てる鰻、素心纏わるな幾 れて疑る。また.『栄花勅語』巻第三「さまぐのよろこび 兼の入麺を評して「け恐しきまで煩しうさがなうおはして」とあ (4) となく恐しく感じられる程意地悪く嚢やかましくおられて」と解さ いる。『栄花勅語』では隆家の人物像に触れて「それも、ふくた絵看な どの篠やうにいとさがなうおはすれど、これはさすがにぞ見え給ふ。」 と評されており、遵兼の子息福建については「いみじうさがなくて、安 くも書ひ懇はれ給はざ馨ししと記されている。これらの購携を見れば、 隆家の人鞠像を特籔づける「さがなもの」が、その人間性の欠点や蒼定 的灘面を強調する語であることは認められよう。 糧嚢本紀隠』長徳二年(九九六)亙月十六8条には、いわゆる長徳の 変の原露となった花由駝不敬事件が、次のように記されている。 みゑ 今夜。華由法皇密幸二故太政大臣燧徳公家一之間。内大駆井中納言 隆家鍵人等。奉レ購二法皇御在所㎜。 嘆栄穂麹語細巻第鰻「みはてぬゆめ」によれば、この事件は花虚醗が 為光の猿女の許に趨っていたのを撰周が三女と誤解して隆家に櫨談し、 隆家が醗を待ち伏せて威し矢を財させたのであるという。無鉄砲、簿若 (二)

『大鏡』道隆伝における隆家の位相...2縫3葺塔肩 『大鏡』道隆伝における隆家の位相 勝 倉 壽 一 24 纏島大学教畜学鑛譲葉第?唾磐 一

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2縫3葺塔肩

『大鏡』道隆伝における隆家の位相

纏島大学教畜学鑛譲葉第?唾磐24

一 問題の勝在

 『大鏡』第羅巻「講大駆道隆」伝は、関白藤原道隆の死とともに衰退

の途を辿る申開自家の悲麟を鉢現した二人の入麺、子息撃緯と隆家の生

涯を嬉照釣に描いている。栄光から忍鍵・失意の生薩を終えた撰周に対

して、「懸》中のさがなもの」と評された隆家の反骨の生は、『大鏡』に登

場する諸群像の串で一際生彩を数っている。

 まず、隆家の入梅繰は、次のように紹介される。

       ぼき

  十七にて中納言になむなどして、世中のさがなものといはれたまひ

                     ぼ 

  しとのの御わらはなは講書霧ぞかし。このあにどの、郷の~し鯵に

  か~蓼て、繊雲権守になむて、縫馬にこそはおはぜしか。さて、

                          タ

  麟殿砂かへ鯵給しお鯵、このとのものぼむたまひて、もとの中納書

  にな鯵や、又・兵離郷などこそはきこえさぜしか。それも、いみε

                       (詰

  うたましみおはすとぞ、よ人におもはれたまへむし

 隆家の伝を語るにあたむ、偉者は「饗中のさがなもの」と「たましみ」

の二語において隆家像の牲機を特籔づけようとする。

 「さがなもの」は「さがなきもの」の賂であむ、辞書的意味は「手に

負えない人。讐やかましい者。姓悪者。ろくでなし。」の意であるとい

う。藷幹をなす形容詞「さがなし」は「性格解よくない。ひねくれて、

いじわるで、手に負えない。物書いの穏当を欠くさま.いたずらだ。や

んちゃだ。」などの意、類語-さがなめ」も「あらさがしをする§。意地

        (猛

悪な目。」の意である

 『大鏡』では第五拳「遂展転」に遵長の法成寺建立の発顯を讃えて、

「諮きならがさがなめにも、た穿人とはみえさせ給はざめむ。」とあむ、

                          (3)

「さがなめ」は「欠点をさがし立てる鰻、素心纏わるな幾覇の駿」と解さ

れて疑る。また.『栄花勅語』巻第三「さまぐのよろこび」に藤原道

兼の入麺を評して「け恐しきまで煩しうさがなうおはして」とあむ、讐繕

                        (4)

となく恐しく感じられる程意地悪く嚢やかましくおられて」と解されて

いる。『栄花勅語』では隆家の人物像に触れて「それも、ふくた絵看な

どの篠やうにいとさがなうおはすれど、これはさすがにぞ見え給ふ。」

と評されており、遵兼の子息福建については「いみじうさがなくて、安

くも書ひ懇はれ給はざ馨ししと記されている。これらの購携を見れば、

隆家の人鞠像を特籔づける「さがなもの」が、その人間性の欠点や蒼定

的灘面を強調する語であることは認められよう。

 糧嚢本紀隠』長徳二年(九九六)亙月十六8条には、いわゆる長徳の

変の原露となった花由駝不敬事件が、次のように記されている。

                 みゑ              

  今夜。華由法皇密幸二故太政大臣燧徳公家一之間。内大駆井中納言

  隆家鍵人等。奉レ購二法皇御在所㎜。

 嘆栄穂麹語細巻第鰻「みはてぬゆめ」によれば、この事件は花虚醗が

為光の猿女の許に趨っていたのを撰周が三女と誤解して隆家に櫨談し、

隆家が醗を待ち伏せて威し矢を財させたのであるという。無鉄砲、簿若

(二)

(一

�j

23勝倉壽一深大鏡書道経伝における隆家の覆輯

無人で、銑の権威を無擁した「さがなもの」の典型的な行為であると言っ

てよい。しかし、欄大鏡』では花山銑不敬事樽に隆家が連座した事実を

「このあにどの(葎爆)~御の~し鯵にか㌧むて」と記すのみで、事件

の背戴泉には触れて》ない。

 また、第二巻「頼忠伝」には摂政兼家の孫として太政大駆藤原頼忠に

                 (糞

軽侮の慧度を取る隆家籐が語られているが、その蓉大な行為も「さがな

もの」の負の灘藤を描いている。}方、第三巻「縣輔伝」には左大臣道

長の権威に媛ぴる大議錠選手を「追従ぶかきおいぎつねかな。あな愛敬

               (雑

な」と唾棄する隆家像を描いている これは「さがなもの」の強烈な反

抗心を嶽いたものであろう。『古今著騰集』巻第十「家平鋳私権撲の事」

に、見欝周の据え力士宗軍と隆家の据え力士時弘が勝負して時弘がした

たかに投げられて気を失った時、隆家が饗賭しさに滋濾したエピソード

も、「さがなもの」の負けず嫌いな性格を鋳彿とさせる。

 一方、「たましみ」は、「騨輪転」に安秘の変における藤原學糞・兼遜・

兼家の謀略を撫擁して、次のように記されている。

                                  

  式離郷の窮みかどにみさせたまひなば、茜宮殿のぞうに…盤中うつ鯵

  て、源氏の齢さかへになむ雄ぺければ、郷舅達の、たましひふか

        お 

  く、非道に鐡おと~をばひきこしまうさせたてまつらせたまへるぞ

  かし。

                           (7)

 この「たましひ」は「才蕗輩愚痴。ここは、魂胆などが当たる。」と

解されて疑る。また、第三養「揮ア伝」では藤原行成の人霧像を評して、

「すこしいたらぬことにも、郷たましひのふかくおはして、らうノ\じう

しなしたま誹る禦歴てを脅・「豪き這「蟹轟障才

幹・才塑「精神恵密歯釜毳毳蘇る瞳栄薦塞睾娃

巻第五「濾ノ\の驚」に、醗流の折に醜懇を嬉した揮周に射して、「中

納言(注、隆家)こそかしこくおはせず成にけれ。猶正しゐはおはする

霧ぞかし」という糧評が記されてお鯵、「正しゐ」は「思懸のしっかりし

(盤)

た」と解されている。これらの爾鰭によれば、「たましひ(たましみご

は知恵・才覚・才気の意味に、内に魂胆。企みなどの意を含む愚慮分震

を表す誘として綿いられたことがわかる。

 無鉄確・傍若無人で「糧中のさがなもの」の評甥を取った隆家は、十

八歳の時の鐡雲左遷という政治的な挫新を経て、難恵・才覚を繕えた愚

痴深い入梅像へと変貌を遂げていく。『大鏡』の作者は、花山続不敬事

件への連座による左遷・帰京、さらに兵部騨への叙任、中納}言への復官

の記遽を踏まえて、「それも、いみじうたましみおはす」と》う獲麟の

評麟を記している。若隼時に決定的な政治的挫折を経た隆家の強鞍な気

骨、反骨の構神は、権力の形成に腐心する道長には無幌しえない政治的

な危験牲を帯びることになる。

嚢馨誓糞昇解糞響諄る公警鶏尊敦竪李

にかけた隆家の意地、三条駝の鱗撲の新の美装、万華の来襲への軍事的・

外交的韓癒、花由號との戦ごとなどから形成される隆家の伝は、「たま

しみ」を騰えた「嚢中のさがなもの」の反骨精神・政治的力量と、中開

嚢家の衰勢を独吟支えた隆家に麟する遵長の警戒と政治的な繋臨を記し

たものにほかならないひ

二 賀茂詣の逸話

 隆家の伝は、隆家の出雲左遷と帰京の記事に続いて、摂関の公式行事

である賀茂議の折に道、長が隆家を§分の車に乗せて、醗流の一件につい

て弁窮した逸誌を記している。

  あまたの太くの下臈にな鯵て、かたぐすさまじうおぼされなが

  ら、あるかせたまふに、舞賀茂詣につかうまつむたまへるに、むげ

                    ゑ

  にくだ鯵ておはするがいとをしくて、との~無くるまにのせたてま

  つらせたまて、御ものがた鯵こまやかなるついでに、…・

 隆家は従三位・中納言の位にあった長徳二年(九九六)騰月二十籔欝

「坐事左降霧雲権守」(『公郷補任輪)され、二年後の長徳懸年(九九八)

2総3隼6擁機島大学教育学誌論集繁雑号22

五月鰹8、東三条院詮子の脚継による大赦を受けて帰京した。その後、

}鍔二十三騒、麟参議藤原佐還の募去によむ代わって兵藻舞に任建られ、

長保獲年(一〇〇二)九月二十欝、「依三二光之怪異ス酪)左遷解官皆

復二本富一。」(『8本紀酪』)という詔によむ、暁月二十醒騒権中納言に

復した。したがって、この逸話は隆家が鐡雲から帰還後、権中納言に復

するまでの五年間、隆家の二十歳から二十醗歳までの購の事であったこ

とになる。この懸、道長は三十三歳から王十七歳、左大臣・内覧の宣鷺

を受けて癩堂の頂点に立って懸隼後から八年後の懸のことに権当する。

 隆家が趨雲左遷によ馨本官を停められた長徳二年遜月から、権中納言

に復した長傑鰻隼九月の懸に権中納書以上に昇任した者は、次のように

なる。

  藤原追綱 長徳二年藝月二十醗羅権中納書、長徳三年七月大納言・

      盈二盤

  藤原実費 長徳二年七月中納書、長操三年八月鍵二位・権大納霊

  平 惟仲 長徳二年七月権中納言・縫三位、長徳囲年正月転正、長

      保二年毘月正三位、長保三無正月大宰纏綿

  藤原時光 長徳二尊の隆家左遷時は参議・健三饒、長徳三尊七月中

      納書、長保三年歪月正三位

  藤原公任 長徳二隼の隆家左遷時は参議・正縢位下、長保三軍八月

      中納言、羅年十月正三位

  藤原斉信 長徳二年醤月二十睡騒参議・健鰻位上、長繰三隼八月権

      中納言、疑奪十月正三位

 これらの人事に、農ら主宰する購堂の体麟整備をはかる遂長の意講が

強く欝いたことは言うまでもあるまい。また、この購の一条膏後宮の動

きを見れば、長銀元隼(九九九)十一月一8、道長の女彰子が十㎜歳で

入内し、購月六騒に女御となったが、購8中宮定子は一条帝第】皇子敦

康を出産している。翌長傑二隼二月十B、彰子に立后の宣濤が下鯵、属

月二十五弩彰子が中宮に、定子は皇后と稼ざれることになった。そこに

道長の強い意陶が饑いたことは言うまでもない。瞬年霞月十八8、敦康

は親王蜜下を受けたが、十二得ナ六8皇后定子は皇女躾子を患産後醗観

した。二十五議であった。

 長徳元年(九九五)睡擁の道隆の薨去から六年、中開滋家は鐸周・隆

家の醗流事件に次いで、定子の鰻簿という悲麟に見舞われる。残された

拶震・隆家には、幼い敦康親王の存在が申麗自家の衰勢を麟復する唯一

の望みであった。 一方、念顯の彰子立后を果たした道長にとっても、唯

一の皇儲繰補である第一皇子敦康を擁する串縫自家の声望は傷むがたい

ものであった。賀茂議の場における道長の弁聡を記すこの談議は、罎上

のような政治的背景のもとに理解されなければならない。

 ところで、賀茂講は、露月の中の酉の8に行われる賀茂禅社の鱗祭

(葵祭)の前8、摂関が賀茂神娃に講でる公式行事を害い、『給葬抄』に

「懸月・中串縫・関濤賀茂議」とある。『公事根灘』「籔月・縫臼ノ賀茂

詣」の項には、次のように記されている。

  鱗度には、8次を捉ぴてこの事あむ。天禄二年九月慧六醤、摂政右

  大疑謙徳公賀茂議の事あむ。是摂関の人の、賀茂詣のはじめなるべ

  きぞ。この事は、必ず賀茂祭の蔚のRあることなり。主人は乗車に

             しろたへ

  て、地下殿上め藩駈あむ。白妙の御難、神宝、唐穫やうの霧をかた

         こともち す かさ ふかぐつ                    くき

  けもたさしむ。琴持、菅笠、深沓といふものを召しくす。上達藻軒

               がをひかつら   ね ぎ

  を?りね、娃蔚にて神拝あ鯵。葵桂を弥富持ちて参れば、これを冠

  にかく。東遊、家子、するが舞などあ鯵。

 この賀茂神社参詣が翻人の耳§を集める盛儀であったことについて賎

『枕草子』二一九段に「見ものは、臨時の祭。行幸。祭のかへさ.御賀

茂諸。しとあ鯵、『大鏡』でも第二巻「饒ア伝」の敦明親王東宮辞退事件

の叛、東宮無断に飼躾する遂長の行列について「かくおびた忙しく、賀

茂講などのやうに、郷さきのをともおどろノ\しうひ穿きて」と形容さ

れている。

 また、「道隆伝」に「鐸賀茂詣のBは、社頭にて三度の郷かはらけさ

(ごδ

(一

H)

2ま勝禽壽一躍大鏡垂道隆伝にお謬る隆家の綾糖

だま鯵てまいらするわざなるを」とあ鯵、『8本紀酪感に道隆の賀茂議

は次の二挺が記されている。

  蓬暦三隼睡月替一銭 甲申。摂政参雌議賀茂縫皿。

  歪暦五隼懸欝乎五8丙申。関白綾レ参二賀茂娃㎜。

 これに録して、遵長の賀茂議縁左大臣として廉堂を主宰した長徳二犀

から寛仁二尊の二十二年懸に八度紛記録が見られるが、寛弘三隼、長秘

三尊の賀茂詣は祭薄霧の参詣という麟鰹には健っていない。

  寛弘三尊醒月十六騒丁亥。縫臼左大臣賀茂議.(十醤麟乙酉。賀茂

              祭。)

  長秘三尊躍層廿六経辛巳。左大臣参4議賀茂社}。(十八B癸露。賀

              茂祭。)

 また、この談議に麗わる長徳醒年(九九八)から長保懸年(一〇〇二)

の五隼懸における道長参詣の記録は見られな鯵。賀茂講の記事は『簿堂

関白記』長保二軍鰻舞十三欝条に「庚申む醗参賀茂。而鼓身綴。不参。」、

『権記鮎羅霧条に「庚申、右簸議賀茂給云々」とあむ、この時は右大盤

藤原頭光が講でて継る。管見では、その勉に関係資料から該当時幾にお

ける道長の賀茂詣の記事は認められないのである。このことは、この説

話が鐸者のある意緩を帯びた麗構になるものであることを想定させる。

 談議のねらいは、こともあろうに賀茂神祇の擁祭麟欝に摂縫が薦る公

式行事である賀茂譜の摂に、美々しく連ねられた公郷らの列から、麟中

納言として車列の後方に連なる隆家を行事の主縷者である左大駆道長が

招いて、霞らの車に講車させたことにある。殿上人・上達部らの建梶の

中の幾来事であむ、道長の意鑓と車中におけるそめ言動はいやでも人々

の関心を集める。道長が攣周・隆家左遷の黒幕であるとする宮莚娃会の

(捻)

噂は、権力形成に腐心する遵長の最も警蔵するところであった。隆家と

いう存在が問題なのではない。自らと第一皇子敦康を擁する中開自家の

遺髪の麗係を涯擁する嚢間の畷を意識し、その疑今藤と警戒を解く必要が

あった。

 衆人注梶の中で鋳の権力者道長の車に招かれて緯草し、主催者ととも

に賀茂神社に参議する名誉は、名門中麗嶽家、関白道隆の子息の誇鯵を

満廷させるであろう。道長が隆家を己の車に乗せて、醍流の一件につい

て農らの不関与を神かけて弁曝したという事実、中開窃家の遺兇饉家に

心翫参したという事実は、隆家のプライドを満廷させ、不満を秘らげる

とともに、当事者の隆家霧身から遵長の不関与を語らせるという効果を

生む。遵長の計算された演鐵であむ、巧みな人心鞍覆策である。學周に

は政治的力蚤も、それに講精し難待をかける勢力もないゆえに無観する.

葬精な政治力学である。

  「ひと㌧せのことは、.をのれが申おこなふとぞ、盤のなかにいひ倦

  ける。そこにもしかぞおぼしけん。されど、さもなかむし事な鯵。

  箆鷺ならみこと一露にてもくはへて侍らましかば、この郷縫にかく

  てまか鞍なましや。天道もみたまふらむ。いとおそろしきこと」~

  も、まめやかにのたまはせしなん、中ノ\におもてをかんかたなく、

  術なくおぼえしとこそ、のちにのたまひけれ。

 道長のねらいに隆家は気がついていたが、賀茂講の道筋で臆面もなく

農らの不関与を神かけて誓う遵長の厚顔な態度に呆れながら、それに航

する「さがなもの」の露は揮えざるをえなかった。それが醗流の地から

帰還した隆家の現実であむ、零落した中関白家の栄光め復活を幼レ敦康

親王の存在にかけた、隆家の霞重の姿でもある。道長の平然として賀茂

神娃の神威を蟹漉する言動を、隆家隷敦康立太子の望みが絶えた「のち

に」語ったのである。権力の趨勢を見据え、達観した者の「たましみ」

ある書翰であったのであろう。

三 刀伊の入寇

 『大鏡』の鐸者が「縫申のさがなもの」と評された隆家の政治的綾穣

を最も蟻的に語るのが、隆家の大宰大弐(事実は権麟)藍住時に起きた

2総3奪§月篠島大学教欝掌編譲葉第讐弩2§

刀葎賊の大憲への対応であろう癖

 寛弘七奪(}〇一〇) ㎜月二十九羅の轡周の死によ鯵、以後の中開自

家の声望は中納言・鍵二盤、三十二歳の隆家の璽属にかかっていた。し

かし、翌寛弘八葎(】〇三)六月の一条鞍の退盤、三条帝の践轟時、

敦康の立太子については有力な後見人がいないとの理密によむ、道長の

外孫敦成(}条院第二皇子)が立坑した。それから五年後の長秘五隼

(】

Z一六)正月の三条続の退猿、後】条帝(敦成)の践韓時にも、大

宮彰子の意購によむ敦康立太子の薄能牲は存窪した。しかし、三条帝の

醸疾と遵長による譲位の強要が続くなかで、三条帝の在鍵が矯いことが

予灘されたにもかかわらず、なぜか隆家は躯を離れ、灘ら望んで大宰権

麟として任地に邊いた。

 当時隆家が醸疾に憾んでいたことについては、『栄花勅語』巻第十二

「たまのむらぎく」に詳しい。雛頃隆家摂鰻疾を病み、治療の効果なく

籠居が続くのを遂長も心を薄め、残念に懇っていた。その新に大宰大弐

平窺繕が辞書を提識したので、激し》観望があったが、隆家は愚人によ

る醗病治療のために叙任を申請したところ、三条帝も中宮娘子も瞬情さ

れ、道長も「まことにおぼされば、こと人にあるべき事にあらず」との

意向によ鯵任命されたのであるという。

 しかし、『小盗記鮎の記載によれば、事憐はいささか櫨達する。隆家

は三条帝懸盤の翌長秘二尊(一〇一三)雛から臆病を患い、購書の購奪

八、九月の条に、

                ハ   き

 ・(長秘二年八月十三騒)更麗跳隣納書来談、多愁、§悪猶遂不念、

  為之簿麺者、有遠任之案、………

                パ  レ

 ・(懸奪九肩八欝)人疲権中納言隆家来談云、駈労目申分之七八減者、

  深青鎮西之翼、………

とあ鯵、綴疾を訴える隆家に実資は「遠任之案」を説いて、博多に来朝

する籍医の治療を勧めていたことがわかる。隆家の醸疾は快方に溝かう

こともあったが、購月十六総条には「今8(藤原)中納書隆家依月来§

病不参。」とあむ、三条市の土御鍔第への行事にも供奉しえなくなって

いた。

 翌長秘三尊(}〇一躍)二月、大宰大弐平幾信が辞書を差し超したの

で、隆家は醸病治療のために叙猛を競望した。

           み 

 ・ (蔑称三隼三月六経)Aマ覇顛喉雛鷲凝、不罵轟佳、翻督望尤深、競闘…瞬

  篠甚多、天気好、嬢府嬉等事斑、薄辞奉官銭否、是遂可難者事毯、

            パ   き

 ・(瞬年五月七鑓)入夜鞍察納言来談、多是鎮蓉事蜜、天気無動、鐙

  左購猶有遍縫者、:

 これによれば、三条市は終始その希望を瞬き騒げられたが、道長の鋳

 この一連の動きには、失瞬砂縫機に瀕した隆家の駿医治療顯望と、講

              及びいまだ声望育購い串縫衰家と九州在地

害・擁産の意志は強く、隆家の大宰権麟兼任が決定したのは十一月七8

の事であった。当霞の道長の麺置についても、実費は「陰騒等事左大難

奉行之、任麟事不軽、於郷薄層被狂歌」と難εている。

じく眼疾を病む三条市の疑椿、

勢力との結合を擁遠しようとする道長の意講との鰐立が存在したことを

推灘させる。磯大鏡』の記逐はその機緻を縫えていると言えよう。

  幾日のそこなはれ給にしこそ、いとノ‘\あたらしか鯵しか。よろづ

  につくろはせたまひしかど、えやませたまはで、舞まじらひたえた

  まへるころ、大弐の髄いできて、太くのぞみの\しむしに、「唐

  人のめつくろふがあなるにみせん」とおぼして、「こ、ろみになら

  ばや」と串たまふければ、三条院の郷時にて、又いとをしくやおぼ

  しめしけん、ふたこと、なくならぜ総てしぞかし。(略)まつ鯵ご

  とよくしたまふとて、箋紫人さながらしたがひ申たむければ、鰹の

  大弐十人ばかむが騒どにてのぼ鯵たまへむとこそ串しか。

 隆家の統治に封ずる九州在地勢力の心欝・人望と、十人分にも相当す

るその目覚まし籍騒きを強調して駆る.隆家の政治的力量を客観的に証

隣するとともに、遵長の警戒感が的中したことを継承している。(一

ワ)

鯵勝愈壽一一:慶大鏡逃道藝釜{叢叢こおける隆家の{壷餐…

 その隆家の統治能力と産地勢力の心騒を示すのが、寛仁三葬(一〇一

九)三月に起こった刀揮賊(女真人)の入憲への機敏な餐慈と、勇敢な

鍵きであった。いま、関幸彦氏のまとめに縫って刀馨入寇事緯の撮要を

           (灘

掲げると、次のようになる

 三月二十八欝 女真賎らが五十余艘で麟馬・壱簸に来襲。壱蛙守藤原

       還忠奮殺害される。

 暁月七欝   爾島民を殺酪後に、筑前国捨土・志濠・翠霞の諸鄭を

       侵酪、穀米を酪奪。

騒月八8

醒月九総

露月十一蒙

霞月十二獄

暁月士二8

騒月十七饗

騒月十八羅

羅月二十皿欝

蜜月二十七8

五月中旬

山⇔月二十毛几霞

九月

大宰府からの報告によれば、

 刀揮軍、能古島を襲撃。大蔵種材・藤原瞬範・単為賢・

藤原麟高・大蔵光弘・藤原友道らを警護訴に滋遣し、防

籍させる。

 刀葎軍、博多の警護翫に来襲。

 刀葎軍、筑繭醗早良葎・志摩部沿岸に再び来襲、

 蔭の麟に上陸。大神守宮・財部弘延合戦。平刮行・大

蔵種材・藤原致孝・平為賢・単為窓らも兵士を率い防戦。

 刀攣軍、灘麟露松浦郡を攻略し、源知合戦。刀撰賊退

却。 

大宰府の駅使、京都に到着。

 右大臣藤原公季以下が参内し、財策を協議。要害の警

護および神仏への摂薦の事が講ぜられる。

 大神宮騒下諸社(石清水・賀茂・松尾・平野・穰荷・

春嚢・大原野・大神・住吉)に奉瞥。

 刀葎鍼紡簿の官符を大宰府に下し、露天王寺で修法。

 退去後の刀攣軍、輯鮮半島の元山沖で蕩麗承軍によ鯵

壊滅。

 大宰癒からの勲功淫逸状について評議。

 捕虜二百七十人繋馬に送られ、戦後麺建完了。

       三遷懸にわたる戦縫で殺害された者三六

                           (一六)

                          (蚤)

羅名、被虜者二二八()名、生馬の鞍害は三五五頭に及んでいる。その激

戦のさまを『大鏡』は次のように記している。

    

  刀夷蟹のもの、にはかにこの醗をうちとらんとやおもひけん、こえ

                       タ

  きた鯵けるに、筑紫にはかねて霧帝聯もなく、大弐殿ゆみやのもとす

  ゑもしむたまはねば、いかぜとおぼしけれど、やまとご~ろかしこ

  くおはする人にて、筑後・艶羨・羅後丸蟹の人をおこしたまふをば

  さることにて、府の内につかうまつる人をさへをしこ鯵てた㌧かは

  せ結ければ、かやつがかたのものどもいとおほくしにけるは.さは

  いへど、家たかくおはしますけに、いみじか善しこと、たひらげた

  まへる殿ぞかし。おほやけ、大疑・大納言にもなさせ給雄べか善し

  かど、舞まじらひたえにたれば、た寸にはおはするにこそあめれ.

 月経賎の入寇という緊急事態に壷面した大宰府庁は、外敵に難して無

防騰の状態にあった。大弐隆家も「ゆみやのもとすゑもし磐たまはし撫

摂鹿家の鐵であったが、「やまとご\ろかしこくおはする人にて」甕ち

に九州の諸豪簾を奮起させ、太宰府庁の文官まで一毯となって激に当た

らせて撃退したという。

 ここに善う「やまとご、ろ」は、「やまとだましひ」に覇じく「霞本人

              霧)     、

露宥め知恵・才覚または思憲分警」の意であ鯵 隆家の人物像に麗して

髭れば、「さがなもの」の性格が知略と勇猛心として発現したことにな

る。また、刀欝賊を撃退せしめた隆家の統率力と勇猛心は、その軍事的

能力を客観的に証窮することになった。九州における「家たかくおはし

ます」名門中開自家の人気は、先に内大盤から大宰権麟に左降された撰

織への購鷲と、隆家の統治に蝿する九州在地勢力の心醸が璽な牲、道長

にとっては侮鯵がたい潜在的なカを形成することになる。

 一方、顯堂においても、隆家の功績を讃えて大難・大納言への登購・

昇任を要求する勢力が存在したが、帰蒙後の隆家は内嚢鐵佳をやめてい

たために、昇任の沙汰はなかったのであるという。この記事について、

目灘醗さくを氏はそこに「孤曝勢行賞の不公平一幾判…政治擬鵯」の麟式

2総3隼6鍔纒島大学鞍擦学灘譲葉第雑考雄

を捉え、頼遜政権への幾麟を読み取っておられる。

  魏縁に、国難を鋳いだ軍功も、公の交むがたえてしまった人の蟹家

  への大功は評懸されない、そのま~すておかれるのが、今の公の政

  治である、と明縢に捲鋳するのである。(略)懸ち、蝿麟になされた

                (饗

  頼遜の政治を携鵯するものである

                             (馨

 『公郷補憂』によれば、寛仁三年ナ二月隆家は権餓を辞して帰豪し

製隼後の治安三舞(一〇二三)十二月、二男経輪を弁官職に就捗るため

に中納言を退いた。隆家縁瞬年大蔵郷に任ぜられ、長元十隼(…〇三七)

には大蔵郷に大宰権麟を兼ね、長久二隼(}∩)蟹一)まで権麟の任にあっ

た。これらは形式的な綾任であったであろうか。

 ともあれ、『大鏡』め記述に頼遜政権への厳しい皮肉・嚢醤を読み取

りうるとしても、爆栗後の隆家が頼逓の主宰する廟堂への出娃を遠癒し

ていたとすれば、その背景はいかなるものであったのか。『大鏡』の作

者は、一条帝の退盛時、敦康霧王の立太子を実璽しえなかった帝の麺灘

を難じて「あはれの大葬大甕」と嘆声を発する隆家像を携き、晦堂に

「宮(敦康)の幾ことあ鯵て、この殿(隆家)舞うしろみもしたまはぜ、

天下めまつむごとはした\まむなん」と難待する勢力の存在したことを

記していた。敦康の懸盤と隆家の政治約手騰による政治の麟新を鞘待す

る勢力の存在こそは、遂長の最も警戒するところであった。

 しかし、敦康は隆家の大宰購在任中の寛仁二年手工鴛十七8、二十歳

で薨去しておむ、道長も購年二月九8、太政大駆を辞して政権を}男の

摂政・内大盤頼通に讀む、鋳摂政として晦堂に隠然たる影響力を保持し

ていた。したがって、刀撰賊を撃退せしめた隆家に寄ぜる糧聞の変わむ

ない士押望は、敦癒 亡きあとも一領妖{として瓢遜長・頼鷺逓には鞍篁散すべき人物

であったことを示すのであろう。大宰府からの勲功注進献に蝿する鰯堂

の鰐応の記載にも、道長方の警戒と策謀が暗示されている。

  このなかにむねと躰かへしたるものどもしるして、公家に奏せられ

  た鯵しかぱ、みな覚せさせたまひき。種轡は壱綾守になされ、其手

  は大宰監にこそなさせたまへ鯵しか。

 『小右記』によれば、寛仁三尊六月二十九欝の公郷定において、駿の

追討を命じた勅符の到達以鋳の軍功であむ、賞する必要なしと主張する

大納書公任、中納善行戚と、勅符到達以麟の事とはいえ、褒賞すべきで

あると主張する大納霊実資、権大納書斉信の主張が対立したが、賞する

ことに決したという。黒藪捧夫氏は、公任・行成が行賞に槙重であった

                   (馨

事精として勅符・官符の権威を挙げておられるが、大宰府庁から十一名

の勲功が注進されたにもかかわらず、離任者が刀解職に殺害されて空鷹

であった壱簸守に大蔵種樗が任晋られたほかに、襲賞の異捧的事実は詳

らかではない。

 これに籍して、『大鏡』にあっては、隆家の軍功は徹底的に無規する

}方、鞍縫に魯績あったその藻下や九州在地山豪族に対しては「みな賞せ

さぜたま」うたと記し、その異捧縫として種韓の壱鞍守叙任、その子息

光弘の大宰監任官を挙げて継るゆそこに、理由にならない理密をつけて

隆家の磯堂への登矯・昇任を離箆する一方で.隆家に心酔する藻下や九

州産地豪族を、磨く褒賞することによ鯵、講者の離反をはかる購堂の策謀

が暗示されていると見ることができよう。大蔵極秘の出費に纏わって承

平天覆の鼠に書及した聾者の意纒も、その擾点から検討されなければな

るまい。醒

 将門・純友共謀説の意義

 刀撰銭の撃退に軍功あった大蔵種無の議から、将門・純友の醜を語る

ことにはいかなる意味が込められているのか。種樗の串自に関わって、

純友の鼠を鎮定した父親の大蔵春実へ、さらに純友から将霞へという連

想による説話的興味嶽上のものが込められているとすれば、それはどの

ように考えられるべきなのか。

  この種材がぞうは、純友うちた塾しもの㌧すぢな弩。この純友嫁、

(一

オ)

2八)

露勝葱壽一:ζ大鐘嬢道隆藪にお曇る隆家の盤穏

  将鍔騨心にかたらひて、おそろしき事くはだてたるものなむ。将門

  は「みかどをうちと鯵たてまつらん」といひ、純友は「麗自になら

  ん」と、おなじく心をあはせて、「この轡界にわれとまつりごとを

  し、きみとな静てすぎんしといふことをちぎむあひて、ひと聾は蘂

  露にいくさをと、のへ、ひと鯵は齷齷の海に、いくつともなくお縁

  いかだをかずしらずあつめて、いかだのうへにつちをふせて、うへ

  きをおほし、よもやまの欝をつく蓼、すみつきて、お騒かたおぼろ

  げのいくさにどうずべうもなくなむゆくを、かしこうかまへてうち

  てたてまつむたるは、いみじきことなむな。それはげに人のかしこ

  きのみにはあらじ、王威のおはしまさんかぎむは、いかでかさる事

  あるべきと懇へど。

 樗霧・縄友が東灘よ鯵呼癒して中央政権に籔裁を企てたとする『大鏡篇

の記事は、将鍔・続友共謀謀反議として、承平天慶の畿の解萩に特異な

佳麗を占めている。今8、この爾者共謀議については『将闘記』や『貞

繕公記』などの記録類に共謀の事実を示す記載が晃られないことから、

歴史学にお》ても否定的な運解がなされている。

 しかし、『庫朝鍵紀』天慶二軍十二月二十九霞条に、信濃国から将鍔

謀反の報が到来したとの記事に続けて、

  又欝學与嫁藤続友。年来鍍二彼蟹一。集レ党結レ群。行二暴悪}。

  去廿六欝欝二簿繭介藤原子高㎜巳了。与二軍将鍔一合レ謙遜レ心。

  似レ行二銚事㎜。偽東西遣二警瞬使}。

とあむ、当時から共謀説が存在したことが推灘される。また、冊扶桑酪

記』天慶三年十一月二十一8条に湧引の「純友道詳記」に、

  欝豫檬藤原純友居嚢建披国㎜。為二海賊首皿。唯所レ受性狼戻為レ

  寒。不レ掬一㎜礼法一む多率二人衆一。常行一㎜南海出曝等羅々一。濫

  吹為レ事。暴悪之類縫二彼簸猛一。邊鍵稽多。揮縫取宮麹}。焼鱗

  亡官舎㎜。域レ之為二其韓暮之勤皿.遙麗二将門謀反之鐡一。亦

  企二鼠選一。

とあ鯵、将門謀反の報に接した純友がそれに噂癒すべく乱逆を企てたと

記されている。これらの記事によれば、『大鏡臨のいわゆる将轡・縫友

共謀謀庚議は董籍無穫な憶議とのみは藪定しがたい一応の成立撰礎を見

濃しうるのであるが、『大鏡』作者が刀撃賊の侵寇事件との聞達で樗羅・

縫友の謀反に言及した意纒は注目しておかなければなるまい。

 今羅、縄友の醜の原鐙をめぐる歴史学の学議は、『,瀬戸内の運輸業者蓑

海賊たちが、公郷たちに遍しい純友を撰いで}つの政治勢力となり、新

し婬会整遷移毒考髭葦登募る毒する驚豊彦艶

と、王痘家に総織された海運・交易業者の中心にあった純友が、承平の

海職を羅服させ、海運工父易権の承認を馨家に求めたと解する較療弘實

氏華ど・難難を焦点舞えた多あ鶉が籍る.芳、鼠農

霞を蟹徳軍罐の幌点から捉える下溝井龍彦氏は、「承平醜海賊」の鎮圧

に功績があ鯵、瀬戸内の諸国に土着した纏友・藤原文覚・藤漂遠方.藤

原威康ら「承平南海賊勲功者たちが」「かつて提霧[した勲功申請を政府

が黙殺しつづけたことに強い不満を抱」き、文元と講麟合子高との軌礫

                     (饗

を契機として、純友だちが蜂起したと説いている

 純友は長良流の藤原氏で、承平二隼頃に海麟追補のため静予豫に任ぜ

られ、承平六年(↓几三六)一帯月、仙購掻げ予縷}として海麟追補…の富ピ日を朴蟹鯵、

僻予警羅綾として下鶴して海賎の議霧工作にあたった。縁年六月には俘

予守讐追捕爵海道菱紀潔人と縄友の麟きによ蓉、蓉瀬戸内海地域の海賊

は澱属した。ところが、天慶二年(九三九)十二月、撰予に留住してい

た鈍友は、三尊余め漉黙ののち突然縫兵を率いて海に鐵た。いわ塗る藤

原純度の鼠の始ま鯵である。下向井氏は、この続友の公然蜂起の直後、

政織紋三無以上蔚の承平海賊の懸賞をあわてて給与し、土着勲功考らの

強い不満に応じようとしたと解している.

  聯有二除目 、海賊時牢二軍功一人等毯。(『壷信公記』天慶三年淫

  量二縫条)

 この時、純度に嬉しても鍵五位下を授けることが決定されたが、翌天

2欝3嘩6蔦福島大学教蕎学離譲葉第鞍懸絡

慶霧年六月の縄友の致死、十月の織綾平定まで醜は続いた。

 『大鏡』の偉者が刀撰餓の入寇事件から樗需・純友の醜に言及したに

ついては、隆家に録する冷遇、不公平な論功行賞が縫友の蔑を惹起した

原露と遜底するものを見ていたことが想定されよう。承平爵海賎軍定の

最高殊勲者としての名声、土養した謬予蟹で築き上げた軍事的声望と、

中央政府に鰐する積年の不濤が純友蜂起の原獲であったとすれば、朝廷

の不公平な譲勢行賞への不請と、中関白家の積隼の不遇感が九州の在地

勢力の声望と結びついた場合は、豪族らの心脹による隆家の統率力は特

需、純友に匹敵する。作者は、「さがなものしの露が幾判勢力に転化し、

頼通政権にとって手ごわ》勢力を形成する可能性をそこに見ていたので

はなかったか。隆家の軍功に鰐する徹底した無視と、縫の軍功者への手

耐難い褒賞の記遽紅顔還政権の策謀を暗示したと解する醒以である。

五 すて轟もの

 隆家の伝は次いで隆家と高麗醗との外交交渉、

麟堂の取り擾いを記す。

及び遊長の意陶による

  さて、壱鼓・蝿馬の蟹の人をいとおほく刀夷国にとむていきたむけ

  れば、新羅のみかどいくさをおこし総て、みなうちかへしたまてけ

  鯵。さてつかひをつけて、たしかにこの島にをくむ給へ惨けれぱ、

             き

  かの国のつかひには、大弐、金三百爾とらせてかへさせ結ける。こ

                          ゑ

  のほどの事も、かくいみじうした㌧め給へるに、入遽殿なをこの

    

  齢殿をすてぬものにおもひきこえさせたまへるな警。さればにや、

  量にも、いとふ参すてがたきおぼえにてこそおはすめれ。みかどに

  は、》つかはむま・くるまのみつ・よった癖るときある。又、みち

  もさむあへずたつお鯵もあるぞかし。

 森克己氏の解説によれば、B本が天智天皇二軍(六六三)露栂江の戦

いに敗れて朝鱗半島から撤退して、新羅が半島を統…して以来、慧羅関

係は次第に険悪にな馨、九世紀になると新羅海賎がたびたび九州を襲い、

略奪を行ったので、8本政癒は新羅に警戒心を強めた。この不鑑感、警

戒心は十轡紀にな辱古岡麓が興っても穣強いものがあった。そめ不緩感と

警戒心が解けだしたのは、寛仁三葎雪月に起こった刀解織の護憲事件で

あむ、五月中旬、高麗は兵艦千余隻をもって刀懸賎を撃退し、縫本人捕

虜三百余人を奪醒して送還し、六薄高麗から霧人送綾鄭子良を来朝さぜ、

8本男女二百五十九人を送還してきた。鄭子衰が簿馬に来着すると高麗

に録する疑惑も解け、政磨ではその優遇法を評議し、鄭子良の帰麟に鰹

                     (識

して政癒の返牒を遣わし、禄魎を給することにした

 刀浄戴の侵寇に関わる隆家の一連の越理を見極めたうえで、やおら繭

摂政道一長が登場する。その隆家に対する麺遇が「すて轟もの」であった、

進長の登場の意義について、§趨遜氏は次のように議かれる。

  論功行賞の場では、名をあげなかった入遜殿がここに鐵てくる。そ

  れも、「すて掩者」である。羅家的大功があっても隆家を霞めて大

  納言、大窪なぞにしてはならぬ。活かさず、殺さず、いい醸減にあ

  しらう道長を、読者に認識させる、作者手練のみせ場である。

 刀解織への鰐悠において、隆家がその軍事的能力と人心掌握の度量に

よ鯵九州在地勢力を心鰻させ、さらに外交的麺理能力を証隣したのに対

し、遵長は隆家を翻に呼び邊え、薬に鎧いて監視する必要を感じた。η

攣撃退時の塘績は無撹し、九州に置くことで勢力を定着する藏に藻に召

還する。遵長の隆家建遇は、懐柔策によ磐その不満は畷較しつつ、実質

的な力を与えることは極力擁達することであった。欝ずて濤もの」は、

帰京後の隆家の微妙な数槍を的確に表現して疑る。隆家は帰京後も中納

言の地縫にあったが、頼通政権の中で騰光を浴びることなく、霞無役の

治安三年十二月に中納言を辞している。そこにも、遂長の醗が涯がれて

“たのであろう。

                  (、平成紅丁五年嚢月トエハ§逗又運)

(一

縺j

(二〇)

蔦勝禽壽一:ζ大鐡道経伝にお謬る隆家の縫穣

 〔注〕

(i)『大鏡』本文の離縁は、嚢峯古典文学大系『大鏡熱に醗載の棄鱗本に鍵

 る。

(2)冒本国語大辞鍵(昭鞍轡+九尊〔一九七讐、小学雛)に鑓る。

(3)傑鏡張罵著『大鏡全評毅・下熱(昭秘五十難葎〔一九七鬼〕、学燈被)

 三八六醤ハO

(魂)蓉庫畜典文学大系『栄花鞠藷・上幅(綴軽薄講・出中総絞蓬)一〇五頁

 頭蓬.、

(5)勝禽壽一蔓大鏡蘇太政大難頼忠転の賭銭…公綬三麟謙の盤麗をめぐっ

 て一」(「羅一鶴大脳畢教資温干無罪鱗魂集」↓八十・二葉、単ふ旗幾年二九九七〕六鱗月)

 参黙。

(6)勝禽塾竺 轟大鏡益締輪転一選子像をめぐって…」(「譲文」獲十三讐、

 単繊七隼二九九五〕†二燈)参賑。

(7)腺飯弘覇著『大鋳金評蒙・上総(昭憩五十騒葎〔一九七九〕、小学館)

 鱈二七頁。

(8)8本吉典文学大系『大鏡』 一蟹三頁頭注。

(§)録薮氏(?)著書、五三五頁。

(欝)籍編8本古典文学全集『大鏡』(平成八年二九九六〕、小学館) 一八

 九頁頭涯。

(猛)雛材博講著『栄葎霧誌全涯毅工臨(曙穂懸十六奪2九七一〕、驚購書

 護)八十頁.

(穏)勝倉壽一軽大鏡熱道隆伝に諮ける隆家と公儀の確執」(「解毅」蓉手荒

 巻三・残考、平成十五年〔二〇9議羅月)参難。

(捻)『栄薦辮語』逢第鱈「みはてぬゆめ」には、威し実事緯を蔭ら恥じた花

 由院の「この事激らさじ、後代の騎な鯵」という慧海が記されて詰む、

 『小春記熱長徳二隼二月十一8条に濾左大臣道長による謬溺.隆家の罪名

 勘購の韓定の痙における諸郷の縫鋳が「溝塵繧嵯」と記されている。

(腫)関幸彦著『賎吏㊧誕生・薮東の兵どもの夢蘇(無縫Kブックス、平成十

 一奪〔一九九九〕)叢「反蹴一籔棄の夢一」に鑓む、 一部撫筆した。

(懇)『小石記温鷲蒼L三鼎ヰ↓⇔月二・す・兀8条。

(憾)(2)に講じ。

(欝)目擁遜さくを著『大鏡論旨漢文芸律家圏における政治幾縄の系譜臨(曜

 秘五予鰻奪〔一九七選〕、風懇書虜)八五二頁。

(鰺)縫家の帰寒月嚢は不明であるが、触小巻記総覧仁三隼十一月二十三欝条

 に隆家の権麟辞書が返翻されたとの記載藩あり、『公郷補猛臨によれば瞬

 隼十二月二十一8、中納言藤漂行成が大宰権纏を兼任している。

(欝)黒極紳夫著『単安王朝の窟建被会臨(軍威七隼〔一九荒五〕、毒灘弘文

 館)鷺五「『刀攣の入寇温と藤療育成」。

(騰)福懇豊彦著『中盤成立難の軍麟と内鼠幅(平成七隼〔一九九五〕、吉灘

 弘文館)夏三「藤療続演とその護」。

(盤)籔漂弘欝蕃『藤療続友』(率成十}年〔一兎九九〕、善購弘文餓)。

(22)下溝聾罷彦「天慶藤療縫友の鼠についての政治史的考察」(「8本史醗

 究士二毯八号、平成三隼皿九九ご)。

(器)森克己著『続難宋貿易の醗究も(聡秘五ナ隼〔一九七五〕、露書鷲付会)

 酔弟二十土工血単-鬱鬱工父渉と刀撰賊の{米{越」。

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