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40 月刊下水道 Vol. 37 No. 11 日本下水文化研究会下水文化出前学校 誌上講座20講 ここが知りたい 水質管理体制不在を露呈した 利根川水質汚染事件 第1節 この事件が起こった正確な月日は分からない。 新聞報道からは、2012 年5月 17 日の2、3日前 である。記事(上毛新聞、埼玉新聞など)を整理 すると、事件の輪郭は次のとおりである。 「埼玉県本庄市の化学品製造会社“DOWA ハイ テク”(以下『D社』)が群馬県高崎市の廃棄物 処理業者2社に廃液の処理を委託した。廃液量は 66 tで、高濃度の HMT(ヘキサメチレンテト ラミン)を含んでいた。濃度は、1ℓ当たり370g。 2社のうち1社は、焼却処理を行っていた。他の 1社は、中和処理後、利根川の支流烏川に放流し ていた。烏川は、榛名山麓の水を集めて高崎市の ほうに流れ下る。この会社は上毛新聞によると“高 崎金属工業”(以下『T社』)である。 埼玉県企業局の水道部局の水質分析担当者は、 5月 17 日浄水の定期水質検査でホルムアルデヒ ド濃度の異常をキャッチし、上司に報告。ホルム アルデヒドは、発ガン性が指摘され、毒物劇物取 締法で劇物に指定されている。 上司は、同夜部内の懇親会に出る必要もあっ て、翌朝の分析結果を見て対応することにした。 翌 18 日、情報が水質調査担当の環境保全課に伝 えられた。河川での水質調査は、翌 19 日になった。 異常キャッチから2日経っていた。この間に汚染 水塊は流れ下り、測定地点の汚染濃度は既に低下 してしまっていた。 群馬県、千葉県でも 19 日までにホルムアルデ ヒドの異常を検出。このため、埼玉、群馬、千葉 の3県は、合計5ヵ所の浄水場で取水・給水の一 時停止に踏み切った。特に最下流の千葉県は、被 害都市が5市に及び、合計 34 万世帯が断水した。 被災者は約 87 万人。同県知事は、19 日自衛隊の 災害派遣を要請、政府は首相官邸の危機管理セン ターに情報連絡室を設置した。 汚染源の探索が開始され、発生源の所在位置が 群馬県の烏川上流に絞られた。こうして、D社と T社が浮上した。D社は、2003 年にも同じ問題 を起こしていた。T社は、D社から廃液の処理委 託を受け、処理後烏川上流に放流した。放流水の 中には大量の HMT が含まれていた。この汚染水 塊が流れ下るうちに下流に点在する浄水場で次々 に取水された。原水中の HMT は、浄化工程で 塩素と化学反応し、ホルムアルデヒドに変化した。 こうして高濃度のホルムアルデヒドを混入する水 道水が誰にも気付かれず給水された。 河川管理者は、緊急に事態の改善を図る必要性 から、利根川上流ダム群の貯水の緊急放流に踏み 切った。ダム貯水を一挙に放流し、汚染水塊を下 流へ押し流そうとしたのである。事態は、1週間 余り後には沈静化した。」 下水文化出前学校 代表 (大阪経済大学 名誉教授/水制度改革議員連盟 参与) 稲場 紀久雄 第 14 講 水質汚濁防止法制度論 -利根川水質汚染事件からその限界に迫る-

水質汚濁防止法制度論¬¬14講.pdfHMTが水質汚濁防止法(以下「水濁法」)上未 規制物質だったことである。D社は以前にも同 じ事件を起こしていたが、環境省はこの事件後

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40 月刊下水道 Vol. 37 No. 11

日本下水文化研究会下水文化出前学校

誌上講座20講 ここが知りたい!

水質管理体制不在を露呈した利根川水質汚染事件

第1節

 この事件が起こった正確な月日は分からない。新聞報道からは、2012 年5月 17 日の2、3日前である。記事(上毛新聞、埼玉新聞など)を整理すると、事件の輪郭は次のとおりである。

「埼玉県本庄市の化学品製造会社“DOWA ハイテク”(以下『D社』)が群馬県高崎市の廃棄物処理業者2社に廃液の処理を委託した。廃液量は66 tで、高濃度の HMT(ヘキサメチレンテトラミン)を含んでいた。濃度は、1ℓ当たり 370g。2社のうち1社は、焼却処理を行っていた。他の1社は、中和処理後、利根川の支流烏川に放流していた。烏川は、榛名山麓の水を集めて高崎市のほうに流れ下る。この会社は上毛新聞によると“高崎金属工業”(以下『T社』)である。 埼玉県企業局の水道部局の水質分析担当者は、5月 17 日浄水の定期水質検査でホルムアルデヒド濃度の異常をキャッチし、上司に報告。ホルムアルデヒドは、発ガン性が指摘され、毒物劇物取締法で劇物に指定されている。 上司は、同夜部内の懇親会に出る必要もあって、翌朝の分析結果を見て対応することにした。翌 18 日、情報が水質調査担当の環境保全課に伝えられた。河川での水質調査は、翌19日になった。異常キャッチから2日経っていた。この間に汚染

水塊は流れ下り、測定地点の汚染濃度は既に低下してしまっていた。 群馬県、千葉県でも 19 日までにホルムアルデヒドの異常を検出。このため、埼玉、群馬、千葉の3県は、合計5ヵ所の浄水場で取水・給水の一時停止に踏み切った。特に最下流の千葉県は、被害都市が5市に及び、合計 34 万世帯が断水した。被災者は約 87 万人。同県知事は、19 日自衛隊の災害派遣を要請、政府は首相官邸の危機管理センターに情報連絡室を設置した。 汚染源の探索が開始され、発生源の所在位置が群馬県の烏川上流に絞られた。こうして、D社とT社が浮上した。D社は、2003 年にも同じ問題を起こしていた。T社は、D社から廃液の処理委託を受け、処理後烏川上流に放流した。放流水の中には大量の HMT が含まれていた。この汚染水塊が流れ下るうちに下流に点在する浄水場で次々に取水された。原水中の HMT は、浄化工程で塩素と化学反応し、ホルムアルデヒドに変化した。こうして高濃度のホルムアルデヒドを混入する水道水が誰にも気付かれず給水された。 河川管理者は、緊急に事態の改善を図る必要性から、利根川上流ダム群の貯水の緊急放流に踏み切った。ダム貯水を一挙に放流し、汚染水塊を下流へ押し流そうとしたのである。事態は、1週間余り後には沈静化した。」

下水文化出前学校 代表(大阪経済大学 名誉教授/水制度改革議員連盟 参与) 稲場 紀久雄

第14講

水質汚濁防止法制度論 -利根川水質汚染事件からその限界に迫る-

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41月刊下水道 Vol. 37 No. 11

損害賠償請求訴訟に発展第2節

 この事件は、被害を受けた1都3県がD社に損害賠償を請求する民事訴訟事件へと発展した。新聞各紙の報道の概略は次のとおりである。

「埼玉県知事は、事件発生後2ヵ月経った7月 24日、定例記者会見で“D社に損害賠償を求める方向で検討”していることを表明。1都3県は、二次被害を防ぐため活性炭を大量投入。埼玉県の損害額は 4,000 万円。知事は、原因企業の法的責任を問うことは難しくても、損害賠償請求を通じて社会的責任を明確にする考えを示した。損害額の総額は3億円。内訳は、埼玉県以外は茨城県 600万円、東京都 1,500 万円、千葉県2億 3,900 万円。ほぼ1年後の 2013 年8月 30 日、群馬、埼玉、東京、茨城の1都3県はD社に約 6,360 万円の損害賠償を求める訴訟を埼玉地裁に提訴。さらに、千葉県および同県下の5市が同じく約2億 2,870 万円の損害賠償を千葉地裁に提訴した。4都県は、“D社が排出元としての注意義務を怠ったことは、民法上の不法行為である”と主張している。」 1都4県および被災都市は、敢えてこの問題に一石を投じ、社会的責任のあり方を世に問うた。この問題を下水道事業の側面で考えると、制度的に隠された汚染メカニズムが浮かび上がり、事態はさらに深刻であることが見えてくる。

この事件の何が問題なのか第3節

 この事件が利根川というわが国最大の河川で起こった広域的水質汚染事件であったことは言うまでもない。しかし、最大の問題は「制度化され、構造化された汚染許容体制が白日のもとにさらされたこと」である。このため、地方自治体も、厚労省、環境省、国交省も狼狽した。厚労省と環境省は、短期間に関係制度を微修正し、事態の沈静化に努めた。これまでの汚染許容体制は、少し変更されたものの、基本的には維持された。地方自治体が損害賠償請求訴訟を提訴した事実は、この

政府の一連の対応に敢えて一石を投じたものと思える。 そもそもこの事件を刑事事件とし、D社やT社に刑事責任を問えなかった理由は何か。少なくとも千葉県下では約 87 万人もの県民の生活を脅かした大事件である。刑事責任を問えない理由は、HMT が水質汚濁防止法(以下「水濁法」)上未規制物質だったことである。D社は以前にも同じ事件を起こしていたが、環境省はこの事件後も HMT を規制物質に加えなかった。このため、2012 年時点では HMT を含んでいても水濁法上は合法だったのである。 新聞報道によれば、両社の契約書には「HMTが廃液に含まれていることを示す記述が見当たらなかった」。しかし、規制対象外の物質の記載がないからと言って、この契約行為が不法だと言い切れるか。むしろ、水濁法にHMTを追加しなかった環境省の責任こそ問われるべきではないか。私は、原告は厳しい立場に置かれることを承知の上で提訴に踏み切ったと想像する。 それにしても「上司が部下から水質異常を報告されておりながら、同夜の懇親会を気にして対応を翌日に回した」ことには驚いた。河川水は、留まることなく流れている。浄水場の浄化工程の水とて同じ。このため、水質は、時々刻々変化しており、キャッチした時を逃せば適切な対応ができない。これは、専門家なら常識だ。しかし、この上司は、いともあっさり翌日回しにした。こうして、初動段階で対応が遅れ、事態は悪循環に陥った。 利根川のような広大な河川流域は、多数の地方自治体で構成されており、浄水場や下水処理場が広範囲に数多く点在している。当然、自治体や事業体間の情報交流や連携活動は難しい。水濁法は、

「常時監視」の責務を知事に担わせており(第 15条)、都県境を越えた広域的対応には限界がある。まして、水濁法の規制物質でない場合においておやである。水道法を所管する厚労省は、各自治体の水道部局とのパイプはあるが、それもまた個々の水道事業に限られる。一方、河川法第 29 条には「河川管理上支障を及ぼす行為の禁止」規定が

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42 月刊下水道 Vol. 37 No. 11

ある。しかし、所管省の国交省には直接水質管理責任を担っているという意識は乏しい。広域的水質汚染事件は、こうした体制で解決できるのだろうか。

この事件が下水処理区域で起こったら

第4節

 「HMT が塩素と反応してホルムアルデヒドに変わることは、水濁法の想定外の事態」だと言う。HMT は、樹脂や合成ゴムを製造する際に使われ、有害でないと言われる。“果たしてそうか”ということは別にして、HMT が外界に排出された時、塩素に遭遇する機会が絶対にないと断言できるか。 私の脳裏には次のイメージが直ぐに浮かんだ。

「下水処理区域内のある工場から HMT を含む排水が下水管に排出された。このHMT含有排水は、流れ下って下水処理場に入り、最終的に塩素消毒された。HMT は、この段階で塩素と接触し、ホルムアルデヒドを形成した。そして、処理水となって放流された。下水処理場の下流に浄水場があって、河川水を取水していた。取水された原水には、当然ホルムアルデヒドが混入している。こうして、通常より高濃度のホルムアルデヒドを含む水道水が給水された。だが、誰にもこの事実は分からない(図-1は、河川の場合との比較図)」。 規制内容は、下水道法も水濁法と同じである。仮にD社が廃液を希釈しつつ下水管に流し続ければ、下水処理場でホルムアルデヒドが産生され続けただろう。“HMT と塩素とが接触しない”と言う水濁法の想定自体が現実的でない。 下水道という基幹施設で、二つの物質は絶えず接触し、ホルムアルデヒドを造り続けている可能性がある。水濁法と下水道法に構造化された汚染許容体制が浮かび上がる。水質管理を軽視した下水道は、巨大汚染源と化す危険性がある。管理責任体制を明確にしなければ、将来禍根となるだろう。

政府が進めた対策とその限界

第5節

 環境省は、事件勃発の翌6月「利根川水系にお

ける取水障害に関する今後の措置に係わる検討会」を設置し、水濁法、廃棄物処理法等における制度的対応を検討し、その後水濁法の施行令を改正してHMTを指定物質に追加した。同改正令は、同年 10 月1日から施行された。 厚労省は、7月「水道水源における消毒副生成物前駆物質汚染対応方策検討会」を発足させ、翌年3月『水道水源における消毒副生成物前駆物質汚染対応方策について』を公表した。この報告書によると、ホルムアルデヒドを生成し易い前駆物質として、PRTR 法第1種指定化学物質からHMT を含む3物質、同じく指定外物質から5物質を上げている。合計8物質も存在したのである。

図-1 HMTと塩素─浄水場と下水処理場─

給水区域

給水区域

塩素塩素

下水処理場

塩素

浄水場

浄水場

水道水

水道水

取水(ホルムアルデヒド含有)

処理水放流

ホルムアルデヒドに変化

HMT含有下水

HMTHMTT社

廃液

ホルムアルデヒドに変化

取水(HMT含有河川水)

下水処理区域内の工場排水

下 

水 

河    

D社

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43月刊下水道 Vol. 37 No. 11

 厚労省の担当者は、水質汚染事件について次のように書いている。

「ホルムアルデヒドのように長期的な健康影響を考慮して水質基準が設定されている項目については、基準値超過が継続すると見込まれる場合を水質異常時とみて所要の対策を図るべきとされている。(略)。突発的に短期間かつ小幅な基準超過が発生した場合において、それぞれの水道事業者が摂取制限または煮沸勧告を伴いつつ給水を継続することを選択肢の一つとして適切に判断できるよう、必要な措置を検討している」(『利根川水系における水道水質事故を踏まえた対応』、生活と環境、34 ~ 35 頁、平成 26 年5月号) これでは、今回の水質汚染事件関係者の行動が間違っていたとなじっているようなものではないか。水道使用者には、高齢者、妊婦の方、新生児、病弱な方等、いろいろな人がいる。そのような人々の上に思いを馳せることのない言説は、「生命の水」を供給する立場のものではない。 水道事業者が給水停止等の措置に踏み切らざるを得ない事件は毎年 80 件程度起こっている。水道水を日常的に使わざるを得ない国民にとって、この実態は危機的である。水濁法は、正しく機能しているのか、疑われる。

利根川水質汚染事件の示唆するもの

第6節

 この水質汚染事件が私達に伝える教訓を以下に整理する。⑴  河川流域全体を対象にした水質管理体制の欠

如。水濁法は、知事に水質の常時監視を委ねているが、河川流域全体を対象にしていない。

⑵  広域的水質汚染事件の解決責任者の不在。現体制では環境省はもちろん、厚労省、国交省などどの省も問題解決の責任を担っていない。

⑶  水質汚染事件を立件するため立入調査権などの権限の不備。警察による事件捜査との連携を図る必要がある。

⑷  河川流域内の地方自治体の連携体制の不備。

利根川には6都県で構成する「利根川荒川水系水道事業者連絡協議会」があるが、その活動は水道事業者の情報交換であり、限定的である。水濁法に基づいたものではない。

⑸  水濁法と下水道法に分かれた工場排水監視体制への疑問。特に下水道管理者による監視体制は、自己監視とも言えるだけに注意すべきである。

⑹  上記の両法とも規制項目が少なく、大部分が合法となる制度。HMT は、未規制であったが、類似物質は8種類もあった。化学物質は数万種類が市場流通しており、農薬もまた何百種類と存在する。規制対象は、その中の数十にも及ばない。どうしたことだろうか。

⑺  担当職員の責任意識の希薄さ。水質汚染事件の解決は、発見直後の初動段階の行動の適否にかかっている。責任感が乏しいと、初動段階の対応が遅れ、事件解決は困難になる。

何をなすべきなのか第7節

 利根川水質汚染事件は、水濁法の限界を白日の下に晒した。仮に水質テロが勃発すれば、現体制ではなす術がない。さらに、国民は、微量な化学物質で常時健康リスクに晒されている。この危険は、人間だけでなく、すべての生物に及んでいる。生命の尊厳を軽視すべきでない。これで高度な文明社会と言えるか。 新水道ビジョン(平成 25 年3月、厚労省健康局)は、「水源を同じくする流域単位の水道事業者において、連携した水源保全の取組み」を提起している。一方、今年5月に発表された新下水道ビジョン(案)には、この種の記述が見当たらない。さらに水濁法分野は無言である。これがわが国の現実である。 幸いにも「水循環基本法」が7月1日施行された。この基本法が的確に運用されれば、上記の諸問題に解決の糸口を与える。そうなることを心から祈るものである。