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25 肩代 わ りの罪悪感 :フェルナ ン ド,∫. (2000) 1.は じめに :著者について InternationalJournalofPsychoanalysis 81 (2000 年) ,499 -512 頁 に掲載 された,フェ ルナンド(Fernando,Joseph.) の論 文,"TheBorrowedSenseofGuilt" を訳出 ・紹介するO 翻訳するにあた り,著者の了解を得た。著者か らいただいた情報 をもとに,略歴などを紹介 し ておこう1958 年,ス リランカに生 まれる。両親 ともに生物学者。1965 ,7 歳の時にカナダに転居す る。文学士,心理学修士号を取得 した後,モ ン トリオールのマギル大学で医学の学位 を取得0 1989 年以来, トロン トで個人開業 し,心理療法,精神分析治療 に従事 している。 トロン ト精 神分析協会 を卒業 し ,1995 年からは国際精神分析協会のメンバーとなる。現在, トロン ト精神 分析協会の副会長の職にあ り,後進の育成にも従事 しているO 本論文以外に,PsychoanalyticStudyoftheChild(1997,1998) ,お よび Psychoa nalytic Quarterly (2001)に自己愛関連の論文 を発表 している。 自己愛人格障椿 についての見識は, 本論文で も親の心理力動 を理解するにあたって活か されている。 この数年 は,防衛機 制 の過程 につ い て著 書 を執 筆 中で,そ こで は従 来 の 「欲 動 に対 す る防 衛」 と対照 させて, 「現実 に対する防衛」 (否認の防衛 denialdefenses)を取 り上げている。 またむろん種々の防衛が,心的外傷後の解離 した記憶や感情 とどのように相互作用するか も狙 上に載せている。この数年のうちに上梓する予定 とのこと妻帯 してお り,子 ども4 人(息子 2 人 と娘 2 人)の父親であるO幼少時,両親 とともに 2 皮, 日本 を訪 れた こ とが あ る とい う。 2. 欲動に起因する罪悪感 本論文の内容の骨子 としては,自己愛的な親が子 どもに自分の罪や罪悪感 を押 しつける (外在化する)ことで,子 どもの側に不合理な罪悪感が生 じるということである。その際,第 一義的な要因は,子 どもの側 にみ られる対象への批判 ・攻撃性ではない。子 どもは,親か らさ し向けられる罪悪感 を受容するのであるO子 どもがそうするのは,対象 を正当化することで対 象へ の失望 を閑却 し関係 を保持す るためであ る。 また愛 されていない とい う堪 えが たい現 実 を 否認するためである。3 つの症例が紹介 されてお り,理論的な議論 よ りもその詳細 に興味 をひ かれる論文であろうO ここでは理論的なことについて若干,補足説明 してお きたい。これまで精神分析 にあって, 罪悪感 といえば古典的理論ではエディプス ・コンプレックスでの罪悪感 (超 自我不安),クラ イン派では抑 うつ態勢での罪悪感が独 占的に論 じられて きた。 それは精神発達か らすると,ある種の達成 としての罪悪感であった。 したがって種々の病態

肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

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Page 1: 肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000)

高 森 淳 一

解 題

1.はじめに :著者について

InternationalJournalofPsychoanalysisの81巻(2000年),499頁-512頁に掲載された,フェ

ルナンド(Fernando,Joseph.)の論文,"TheBorrowedSenseofGuilt"を訳出 ・紹介するO

翻訳するにあたり,著者の了解を得た。著者からいただいた情報をもとに,略歴などを紹介し

ておこう。

1958年,スリランカに生まれる。両親ともに生物学者。1965年,7歳の時にカナダに転居す

る。文学士,心理学修士号を取得 した後,モントリオールのマギル大学で医学の学位を取得0

1989年以来, トロントで個人開業し,心理療法,精神分析治療に従事している。 トロント精

神分析協会を卒業し,1995年からは国際精神分析協会のメンバーとなる。現在, トロント精神

分析協会の副会長の職にあり,後進の育成にも従事しているO

本論文以外に,PsychoanalyticStudyoftheChild(1997,1998),および Psychoanalytic

Quarterly(2001)に自己愛関連の論文を発表 している。自己愛人格障椿についての見識は,

本論文でも親の心理力動を理解するにあたって活かされている。

この数年は,防衛機制の過程について著書を執筆中で,そこでは従来の 「欲動に対する防

衛」と対照させて,「現実に対する防衛」(否認の防衛 denialdefenses)を取 り上げている。

またむろん種々の防衛が,心的外傷後の解離した記憶や感情とどのように相互作用するかも狙

上に載せている。この数年のうちに上梓する予定とのこと。

妻帯 してお り,子ども4人 (息子 2人と娘 2人)の父親であるO幼少時,両親とともに2

皮,日本を訪れたことがあるという。

2.欲動に起因する罪悪感

本論文の内容の骨子 としては,自己愛的な親が子 どもに自分の罪や罪悪感を押 しつける

(外在化する)ことで,子どもの側に不合理な罪悪感が生 じるということである。その際,第

一義的な要因は,子どもの側にみられる対象への批判 ・攻撃性ではない。子どもは,親からさ

し向けられる罪悪感を受容するのであるO子どもがそうするのは,対象を正当化することで対

象への失望を閑却し関係を保持するためである。また愛されていないという堪えがたい現実を

否認するためである。3つの症例が紹介されており,理論的な議論よりもその詳細に興味をひ

かれる論文であろうO

ここでは理論的なことについて若干,補足説明しておきたい。これまで精神分析にあって,

罪悪感といえば古典的理論ではエディプス ・コンプレックスでの罪悪感 (超自我不安),クラ

イン派では抑うつ態勢での罪悪感が独占的に論 じられてきた。

それは精神発達からすると,ある種の達成としての罪悪感であった。したがって種々の病態

Page 2: 肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

26 天 理 大 学 学 報

はいわばそれを何らかの手段で回避することで生じるという立論だった。そのため多 くの場

令,罪悪感は肯定的文脈で論じられてきた。罪悪感の抵抗的側面,防衛的側面,病理的側面へ

の関心は概して乏しかった (ただし例外としては,うつ病と強迫神経症における罪悪感が挙げ

られる)。またそこには,「罪の文化」として,恥よりも罪悪感は人格に内在したものであり,

より価値ある精神的構成要素として評価する文化的偏向も関係していると思われる。

しかしながら肩代わりの罪悪感は,抵抗的側面が如実であり,その起源の外在性が顕著な罪

悪感といえ,エディプス ・コンプレックスでの罪悪感,抑うつ態勢での罪悪感とは性質を異に

する。Femandoも指摘するように,肩代わりの罪悪感は,道徳的マゾヒズムと深く関連して

いる。

実際のところ,臨床場面では,現象として色々な形態の罪悪感に遭遇するわけだが,これま

で,それらは概してエディプス的罪悪感のフアツサード,つまり非本来的なものとして扱われ

ていた。たとえばWinnicott(1956/1965)が紹介 しているBurtonの症例などは参考にな

る。

「ある8歳の男の子は,不安がますます高じて,ついには登校 しなくなってしまった。彼が

堪えがたい罪悪感に悩まされているのが明らかとなった。自分が生まれる以前に,きょうだい

が亡くなっており,そのせいで自責の念を抱いていたのだ。彼はその事実を最近知ったが,両

親はまさかそのことを気に病んでいるとは夢にも思わなかった。この事例では,長い分析治療

は必要なかった。数回の治療面接のなかで,障碍を引き起こしている,同胞の死への罪悪感

が,エディプス ・コンプレックスの置き換えであるのを少年は自覚した。彼は元来かなり正常

であり,この程度の援助によって再度,登校できるようになり,他の症状も解消 した」(p18

強調著者)。

この症例にみられる罪悪感がエディプス ・コンプレックスの置き換えでないというつもりは

さらさらない。ただ,ここに見られるようなエディプス ・コンプレックスへの還元的思考がメ

般に優勢で,それ以外の罪悪感に一次的存在意義を認めることが少なかったのではなかろう

か。

エディプス ・コンプレックスについて云々するのは古典的すぎるというのであれば,エディ

プス ・コンプレックスを抑うつ不安に置き換えてもよい。その場合,上述の還元的思考は,た

とえば以下のようになる。

「自分自身の (personal)罪について,償う能力を獲得することは,健康な人間の発達では

重要な段階のひとつである。 - ・しかしながら臨床場面では,偽 りの償い (false repara-

tion) に出くわす。それは患者自身の罪悪にきちんと対応していない償いである。 - ・この

偽 りの償いは母親との同一化によって現れる。そこで優勢な要因は,患者自身の罪悪ではな

く,母親の防衛である。抑うつと無意識的な罪悪感にむけて組織された母親の防衛こそが優勢

である。」 (Winnicott1948/1958p91)。

母親との同一化の指摘などは,ここで論じられる 「肩代わりの罪悪感」の議論と共通するよ

うだが,その動機が根本的に違う。それは自分自身の抑うつ不安を回避するという精神内界的

な理由による。つまり自己の破壊性が引き起こした結果を引き受けまいとする心理による。

「子どもの抑うつは,母親の抑うつが映り込んだものでありうるのが分かるようになった。

子どもは自分自身の抑うつから逃れるために,母親の抑うつを利用する。そうすることによっ

て,母親にまつわって偽の修復 (restitution),償い (reparation)を行なう。このため自分自

身 (の破壊性)に関連すべき修復能力が阻害される。というのも,その修復がその子自身の罪

Page 3: 肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 27

悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。

抑うつ態勢においては 「償い」 という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

果を直視できず,別のひとの行なうべ き償いを引き受けて,それで自分が本来担うべき償いの

責務を果 したことにする。論理学でいう 「論点相違の虚偽」のようなものだ。

母親との同一化は,内的緊圧を処遇するための手段でしかなく,一次的に対象関係が重要視

されているのではない。これはFreud,A.のいう攻撃者-の同一化 と同様である。そこで

は,対象との関係性は,不安に対処する方便でしかなく,第二義的である。

対象への破壊という意味では対象関係が視野に入ってくるが,一次的に重要なのは攻撃性と

いう内的欲動への罪責感 といえる。エディプス的罪悪感で弾劾されるのは,自己の性欲動であ

り,抑 うつ態勢にあっては自己の攻撃欲動である。いずれも内的欲動にまつわる罪悪感であ

る。

精神作用として投影,すなわち 「内在化」の至選が問題となる次元においては,こうした罪

悪感が焦点となってくるだろう。 しか しながら,問題の在 りかが 「取 り入れ」にある場合,例

えば道徳的マゾヒズムの場合では,罪悪感を欲動論から考えてゆくことの弊害は少なくないで

あろう。というのも概 して,「精神分析の主流を占める衝動理論は - ・自分に罪を着せよう

とする患者の傾向を助長し- ・子どもが性的,自己愛的に悪用されている事態を暴 くのでは

なく,ごまかし,わからなくしてしまうのに役立つ」からだ (Miller1981邦訳 p9)0

3.関係に起因する罪悪感

古典的な心理学では,人格は個 として囲い込まれたア トム的なものと暗黙に想定されてい

る。そして罪悪感はそうした意味での人格に内在すると考えられがちである。自我心理学 も,

個人を閉鎖 したシステムとして表象 し,その内面の心理力動を扱う。そのため開放系としての

自己,他者と共に有る自己や自他融合の世界を記述するにはあまり適 していない。罪悪感につ

いても,精神構造内の,つまり自我と超自我のあいだで生 じる葛藤とみるのが標準的な定式化

だった。

この点,Femandoの論 も大枠は自我心理学的枠組みに基づいており,読み手としてはもど

かしさを感 じなくもない。しかし,肩代わりの罪悪感をエディプス的罪悪感や抑うつ的罪悪感

のフアツサー ドとせず (Femandoの立場は自我心理学のようであるから,抑うつ態勢におけ

る罪悪感への論及はない),つまりそこへ還元せずに,それ自体独 自のものとして論 じる。ま

た個人内の自我と超自我 との緊張関係 といった見方に終始するのではなく,対人的相互作用へ

と目を転じている。その際とくに,自らの自己愛的欲求を充足するのに子どもを利用する親の

あり方を問題にする。

自己愛は,かつては自閉的な対象関係の存在 しない世界とされていたoLかし,実際は,Ko-

hutのいうように対象関係的でない方が稀である。罪悪感についても,一次的に対象関係起源

の罪悪感を考えても良いのではないか。抑うつ態勢での罪悪感は,エディプス的罪悪感に比 し

て対象関係にかかわる罪悪感ではないかという指摘 もあろうが,さきに述べたように,そこで

は内的な攻撃欲動がより重視されているO(エディプス的罪悪感で弾劾されるのは,自己の性

欲動であり,弾劾するのは他者の攻撃性 (去勢)であるO 抑うつ態勢では,自己の攻撃欲動が

弾劾されるものであり,愛と憎のアンビバレンスから罪悪感が生 じる。)

Neuman(1963)は,原初的関係が損なわれることで生 じる,「一次的な罪責感」に触れてい

る。

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28 天 理 大 学 学 報

「原初的関係の損傷に由来する母権的段階の一次的な罪責感は,『自分の母に愛されること

が良いことだ。ところが,お前の母はお前を愛していないのだからお前が悪い』という定式に

したがって形成される」(邦訳 p98)。したがって 「損なわれた原初的関係の愛の欠如とその欠

如を和らげようとする欲求は,-人間と世界に対する非難にはならず,むしろ罪悪感を引き起

こす.」 (ibid.p97)O

ドイツ語の罪,Schuldは,古高 ドイツ語の sculdに由来し,欠如,不足を意味する。自他

の未分化な原初的関係 (神秘的融即)にあっては,自分をとりまく環境側の欠損は即自己の欠

損を意味してもおかしくないだろう。

あるいはFairbairn (1943/1952)がいうように,子どもは対象を 「良い対象」として保持

するために 「愛情対象の中に巣くっているようにみえる悪の重荷を自らに引き受ける。こうし

て対象から悪を追放する」(p65)。これは悪い対象を内在化すると言うのと同様である。対象

への同一化が働いているが,そこでの動機は,先にふれたように,内的欲動や抑うつ不安を回

避するといった目的ではなく,関係性の保持がその第一義である。つまり,良い対象関係を保

持しようとして,自らの内側で他者正当化を試みるのである。これは先に述べた 「偽 りの償

い」が,自己正当化を動機にして対象と関係するのと対照的である。

以上を要するに,罪悪感は,従来一般に表象されてきたように攻撃性や性欲動に関連して人

格の内部から生起する以外に,つまり内的欲動の規範逸脱性とは別に対人関係 ・対象関係自体

を発生母体とするものが存在する。これは一着の心理学 (one-personpsychology)を越えたも

のだ.そして本論文の主題である,狭義の 「肩代わりの罪悪感」は,そうした対象関係を一次

的起源とする罪悪感と考えてよいであろう。

Fernandoは,まず肩代わりの罪悪感一般のうちに2つのタイプを区別する。つまり第 1

は,他のひとが感 じている罪悪感に同一化するタイプ。これが,狭義の 「肩代わりの罪悪感」

である。第2は,自らが他人に向けた告発の向きを自らに向け変えて,本来糾弾さるべきひと

が感ずるはずと思われる罪悪感に同一化するタイプ。いささか我田引水的になるが,前者は対

象関係を一次起源とする罪悪感であり,後者は2節で論じた,欲動に起因する罪悪感に属する

ものといえるだろう。

Fernandoは,自己愛的な人格障椙をもった親が子どもに外在化する点を強調する。ただ,

外在化するものが,罪なのか罪悪感なのか暖味な点がある。guiltには罪と罪悪感の同義があ

り,文脈により訳し分けたが,現象としては罪を外在化するのと罪悪感を外在するのとは一応

区別される。

前者はいわゆる責任転嫁,濡れ衣を着せるということである。この場合基本的に,子どもが

何らかの意味で状況に関わっていなければ成立しない。成人では,濡れ衣を着せられたからと

いって,本人自身が必ずしも罪悪感を感じるとは限らない。しかし,子どもでは罪ありとされ

れば,罪悪感を感じる。子どもの場合,当座,善悪の規準は親の判断と合致しているからだ。

ここでは罪と罪悪感の区別はない。(むろん,成人であっても罰せられる以上は罪があるはず

だと感じることもある。菟罪者における罪悪感をその例にあげることができる)。

後者では,罪悪感そのものを (投影同一化で)外在化するので,たとえば子どもが生まれる

以前の事態であっても,親が何らかの水準で罪悪感を抱いていれば,直接子どもに影響 しう

る。ここでは子どもが親からの自己愛的投影を引き受けさせられる。すなわち心理的次元でス

ケープゴートにされ,罪食い (sin-eater)の役割を押しつけられる。

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 29

4.罪 ・罪悪感を受容する動機 :対象救済的側面

"borrowedsenseofguilt"の訳語であるが,borrowedの訳として 「借 り受けた」,「お仕着

せの」,「押しつけられた」といったものも候補になるが,ここでは 「肩代わりの」とした。こ

れは,「肩代わりさせられた」と 「肩代わりした」の両方の意味を含む。

親からの外在化がもつ強制力を考えると,「押 しつけられた」が良いのかもしれない。実

際,著者の Femandoは,家族力動のなかで自己愛的な親からの外在化を強調する。同一事

態を主体の側から見て内在化するという表現もありうるが,内在化という用語は乏しい。外側

から強要されるというニュアンスが強いのだろう。

あるいは先に言及した,「偽 りの償い」という側面を強調するならば,訳語は 「借 り受け

た」が良いだろう。Fernandoの論文では,それに類する,肩代わりの罪悪感の防衛的使用に

ついて,若干ながらつぎのように言及している。「親の罪悪感の外延部となる事で,現実に自

分に存在する罪悪感や責任に直面,内在化せずに済ます - ・これはとくに青年期に見られ

る。」

子どもは対象からの愛情喪失を恐れて,親からの期待どおりに罪を引き受ける。内在化す

る。それは,「母親の病理と一致するように振舞えという圧力,そしてもしそれに合致しそこ

ねたら,母親にとって自分が存在 しなくなるという絶えざる脅威」(Ogden1982p16)がある

からだ。これは関係性の保持や見捨てられ不安として,Fernandoも指摘する。ここでは子ど

もに選択の余地はない。

しかし,そうした受動的側面に加えて,程度は様々かもしれないが,親の罪 ・罪悪感を自ら

引き受ける動機に能動的側面があると訳者は考える。外在化がなくてち,子どもの方から内在

化する場合というのもあるだろう。そのことを念頭において,borrowedの訳として,「肩代

わりさせられた」,「肩代わりした」の両方の意味を含む 「肩代わりの」とした。

紹介論文の内容を踏み越えるところもあるが,親の罪 ・罪悪感を引き受ける能動的動機につ

いて論 じておこう。そこには対象への愛他的な要因,すなわち対象孜活のための共苦

(Mitleid)が関わる。「見捨てられ不安」と対照して言えば,それは 「見捨てる不安」である。

Searles(1958/1993)は,このように述べている。

「子どもが最初期から対象関係的であるという点については,フェアバーン (1954)やクラ

イン (1955)と考えを同じくする。とはいえ,クラインのいう生得的な死の本能という概念は

信奉しない 。 ・・日常生活で子どもを観察することから,あるいはまた神経症的,精神病的

患者との精神分析的,心理療法的な作業から確信 していることがある。それは,愛すること

(lovingness)が,人間にとって人格の基本要素であるということだ。新生児はまさに愛する関

係性に心底,開かれて外界へ反応するのである」(p227)。そのため子どもは,「母親に責任を

感じるのみならず,母親を純粋に愛し,どうにかして統合された自我をもった十全な存在にす

るよう望む」。親への同一化から脱却して,「個体化することは,そうした母親を寸断するこ

と,見捨てて死にいたらせることを暗に意味」する(Searles1975/1979p385)。

個体化することに纏わる罪悪感については,Stolorow,Brandcha氏とAtwood(1987)も論

じている。

「(両親との)必要な杵を保持するための必要条件としてもっとも多く要求されるのは,小

児が,親のために,重要な自己対象機能を果たすことである。たとえば親が,小児との太古的

な一体感を一貫して要求するとすれば,より分化した自分らしさを求める小児の努力は,深刻

な葛藤と罪悪感の源となる。そうした情況における小児の側の受け止め方は,"自己 ・境界を

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30 天 理 大 学 学 報

設定する行為や自分にユニ-クな情緒的特性の表出は,両親によって,心理的に害を与えるも

のとして体験される"ということになるため,小児は,自分が,万能的に破壊的な存在だとい

う見方をするようになることが多い。小児を太古的な自己対象にしておきたいという親の側の

ニードに端を発する,この,自分は残酷で危険な破壊者であるという小児の自己観は,自己 ・

境界形成を妨害し,罪悪感と自己処罰の不朽の源となる。これが,古典的理論における "苛酷

な超自我"であり,"サディスティックな超自我前駆体"である」(邦訳 plO7f)。

Modell(1984)は,こうした罪悪感を 「分離の罪悪感」 (separationguilt)と呼んで以下の

ように述べている。

「母親的対象から分離することは,無意識では母親に死をもたらすと知覚されている」(p

69)。したがって,「罪悪感の内容は - ・他者を破壊 したいという願望に基づ くだけではな

く,自分には分離した存在となる権利がないという確信にも関連している。それゆえ,罪悪感

はどこかしら自己一対象の分化段階における発達の失敗と関連する,と想定するのも理にかな

ったことだろう」(p65)0

つまり自らが対象から分離し,個体化することは,対象を見捨てる,さらには対象に死をも

たらす罪深い行為として体験される。「一次対象から分化することには,痛ましい感情への愛

着を放棄することも含まれている。患者は親と結びついた感情に同一化 している」が,「そう

した感情とは,ある慢性的な宙やひどい沈痛といったものだ.つまり,もし自らが快活にOoy-

ous)なるとすれば,それは不忠実にも対象を見捨てること (abandonment)として体験され

る」(p68f)。対象を見捨てないでおこうとすれば,対象と同様の敷難辛苦をともに体験せざる

をえない。

愛する対象と死を共にしなかったことで感 じる `̀suⅣivorguilt"もまた,こうした文脈の罪

悪感として理解できるだろう。

さて,以上 「肩代わり」の動機について,受動的側面と能動的側面を述べてきたが,こうし

た状況はダブルバインド的である。子どもは期待されたとおりに,罪に同一化すればむろん罪

を引き受けることになる。しかし,それを拒否して自分自身の体験を生きるとしても,罪に陥

る。それは親からの自己愛的期待,さらには自らが抱 く対象救済の願望を裏切って,親を背後

にうち棄てたまま個体化 していく罪である。Fernandoが問題にする家庭状況は,実際は,親

から持ちかけられた悪としての自己定義を引き受けないならば,別次元で罪の意識 (「分離の

罪悪感」 (Modell1984)や 「偽 りの罪」 (Laing1961))が生じる状況である。

それは外在化の被害にあうといった単純なものではない。子どもは親から害を被るととも

に,愛も受ける。そして自らも意識的,無意識的に親を愛する。「肩代わりの罪悪感」では,

愛することが,対象の罪を自らに引き受けることと同等視されている。

心理的に問題なのは,精神的な外傷それ自体ではなく,「むしろ,子どもが両親を (愛 し)

恐れており,かつかばわねばならないため,外傷を外傷として生きることができない」ことに

あるのかもしれない (Miller1981邦訳 p311強調および括弧中挿入は引用者)0

5.転倒 した自己愛

罪 ・罪悪感を内在化する動機について,紹介論文の内容を超えて論 じた感があるが,以

下,紹介論文との関連で,転倒 した自己愛と逆転移について若干触れておこう。

転倒 した自己愛とは,論文中の症例 Aの発言,「責めを引き受けるだけの力がわたしにはあ

Page 7: 肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 31

るのだ」に見られるように,罪や答を引き受ける力に自己の価値を兄いだす姿勢である。否定

的な属性を付与され,罪悪感を抱かされ,当然低い自己価値感しか抱けない状況では,自己愛

の補償が,このような転倒した形で生じるのであろう。「憂きことのなおこの上に積もれかし

限りある身の力ためさん」(山中鹿之助の歌として知られるが,熊沢蕃山の作),という歌は,

この転倒した自己愛に馴染むものだろう。

そこでは,「人間のプライドの窮極の立脚点は,あれにも,これにも死ぬほど苦しんだ事が

あります,と言い切れる自覚ではないか」(太宰 :「東京八景」)と考えられている。

太宰はこんなことも述べている。「皆は,私を,先生,と呼んだ。 - 私には,誇るべき

何もない。学問もない。才能もない。肉体はよごれて,心もまずしい。けれども,苦悩だけ

は,その青年たちに,先生,と言われて,だまってそれを受けていいくらいの,苦悩は経て来

た。たったそれだけo藁-すじの自負である」(「宮森百景」)D「藁-すじの自負」が,ここでいう転倒した自己愛であるo

膿罪のためのスケープゴートとして 「撰ばれてあることの/侠惚と不安と/二つわれにあ

り。」これは,ヴェルレエヌの詩句であるが,太宰の 「菓」のエピグラムとして有名だ。購罪

の山羊として撰ばれてあることには,不安だけではなく悦惚,より心理学的にいえば自我肥大

も同伴 しやすい。これは,スケープゴートが先に論及した対象救済的側面をもっこと,さらに

元型的観点から言えばそれがメシア像と表裏一体であることを考え合わせれば,容易に知られ

るであろう。

神の子羊 (AgnusDei)たるイエス ・キリストは,人類の罪を購罪し,救済するためのスケ

ープゴートであった。逆は常に真ならずとはいえ,自らが購罪の山羊になることで,他者の罪

を拭い去りそのひとを悪から枚漬しうるという考えもまた,無意識にはあるのだろう。そし

て,それが愛であると考え (錯誤 した対象愛),そこに自らの自負を見出す (転倒 した自己

餐)0

6.逆転移について

最後に治療関係について付言しておこう。Fernandoは治療関係における逆転移で,治療者

が 「善」,「義」という役割を担わせられることから,治療者の自己愛が満足させられるという

側面 (これは逆抵抗ともいえる)を論じている。しかし,罪悪感に限らないが,自他の役割が

反転する形で,対象関係が治療場面で賦活することは多く,治療者が無意識的罪悪感を抱かせ

られる場面も少なくないのではなかろうか。ただこれは,クライエントの人格構造全体のあり

方に応じて,変わってくるのかもしれない。

以下,訳本文を提示するが,[ ]内は訳者の補足を示す。

<解題 引用 ・参考文献>

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32 天 理 大 学 学 報

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訳 本 文

(要 約)

無意識的罪悪感の病因および心理力動がどのようなものであるかを検討 してみた

い。その際,議論のための素材 として,成人を対象とする分析治療の事例を3イ紺まど

提示する。そしてどのような子どもたちが無意識的罪悪感を抱 くようになるのかを論

究する。すなわち,そうした子どもの家庭には極端に自己愛的な家族がいて-これは

通常親であるが-,自らの罪悪感を専 ら子 どもに外在化する。

親からほとんど愛されていないことや外在化の受け皿に利用されていることを,そ

ういった子どもはことごとく否認する。それに加えて外在化される罪悪感を受け容れ

るように訓練される。自己愛的な家族と子どもとの相互交流は長期間にわたって反復

されるが,罪悪感受容の訓練はそのなかで行なわれる。その際,子どもにとって主た

る動機づけとなるのは見捨てられ (abandonment)への恐怖である。

子どもが発達するとともに,強力な心理力動が発展 してゆき,無意識的罪悪感が固

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 33

走する。すなわち,子どもには関係のなかに愛情が欠けているという認識があるのだ

が,無意識的罪悪感を利用することで,こうした認識を否認する。きっと自分が悪い

にちがいない,子どもは自らにこう言い聞かせる。もし態度を改めさえすれば,関係

は上手くゆくはずだ,と。

無意識的罪悪感という概念が,精神分析の文献に最初に登場したのは,フロイト (1923)の

論文,「自我とェス」の脚注においてであった。これは良く知られたものである。そこでは,

無意識的罪悪感の技法上の取り扱い方が論じられている。フロイトは言う。

「無意識的罪悪感の妨害に対する闘いは,分析家にとって容易ではない。直接にせよ

間接にせよそれに抗うことはできない。しかし無意識に抑圧されているその根本の正

体を焦らずに明らかにしてゆき,しだいに意識的な罪悪感に変える作業は可能だ。こ

の無意識的罪悪感が肩代わりのもの (borrowed)ならば,つまり,かつて性愛的備給

の対象であった人と同一化したために生じているのなら,治療的に働きかけうる余地

が例外的に存在する。このように罪悪感を背負いこんでいるのは,しばしば,それが

放棄された愛情関係の唯一の名残であり,かつそうだとは認識されていないためであ

る (この心理過程とメランコリーで生じる過程との類似は明らかである)。もし無意

識的罪悪感の背後にひそむ,かつての対象備給を明るみに出せれば,赫々たる治療成

果があがるだろう。さもなければ治療の成功は覚束ない。」(p50,脚注)

肩代わりの罪悪感とは対象愛を同一化で置き換えるために生じるということが,明らかにフ

ロイトにとっての主眼点であった。フロイトの約束している赫々たる治療的成功という言葉

は,文脈と照らし合わせて受けとらねばならないだろう。患者が一夜にして癒されるという意

味でないのは確かだ。そうではなく,他の形態の無意識的罪悪感がいかに難治であるかを考え

合わせれば,肩代わりの罪悪感では,相対的に速やかに具合良く治癒するので,随分満足のゆ

くように思える,と言っているのだ。

フロイトが詳しく論じていない点がある。幼児期,対人関係のなかで体験する葛藤を解決す

.Ttは,それにはどういった要因が寄与しているのか。この論文で扱いたいのはその間題である。

筆者の論旨を簡単に要約すれば,その促進要因は親子関係にある。親にはある種の自己愛人格

障碍があって,自分の罪悪感 (guilt)を子どもに外在化する傾向が著しい。子どもは否認され

外在化された親の罪悪感に同一化するoそのため子どもは肩代わりの罪悪感を抱 くようにな

る。この主題をさらに論じてゆくまえに,フロイト以後,肩代わりの罪悪感について論じた文

献を通覧しておこう。

関 連 文 献

無意識的罪悪感が,筆者の経験からして,日常茶飯事であることを勘案すると,この主題に

ついて真正面からとりあげた文献がいかに少ないかは驚くばかりであるo若干あるとしても,

以下に見てゆくように,マゾヒズムという概念の一部として議論しているにすぎない。

ずいぶん以前の論文ではあるが,ランプル (1929)はある男性の症例を紹介している。患者

が7歳の時,父親が情婦を家に連れてきて,家族と一緒にすむことになった。患者は情婦と関

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34 天 理 大 学 学 報

係している父親にとって代わりたいと望んだが,この願望は去勢不安によって抑止された。そ

して父親の罪悪感との同一化-退歩したOこの同一化こそ.成人となった彼が抱える問題の根

底に横たわるものであった。彼は,強迫的に家庭の外で浮気を繰 り返して父親の醜行を行動化

する一方,同時に浮気相手から要求されることは何であろうと断ることができず,しまいには

お金を渡すはめになった。このように彼は父親の愚行を行動化 し,父親の代 りに (無意識裡

に)自らを処罰 していた。つまり父親が処罰されるべきだと彼が感 じた事に対 して,自らを罰

していたのである。

ランプルはこの事例について実に事細かに記載 しているが,そのなかには,筆者が強調した

い点がいくつか含まれているoそれらは,無意識的罪悪感に囚われた患者においてきわめて一

般的で重要なものである。第一に,実際に罪あるひとの反道徳的行為 (crime)を自らが行動化

する傾向。もっとも患者によっては,そうした行動化がほとんど目立たないこともある。第二

に,罪あるひとに同一化すまいとするあがき (グリーンソン1954)と,反対に退歩して,そう

した相手に帰属するはずの罪に同一化しようとする心の揺れ。ランプルは,この動揺の動機が

去勢不安であると強調 しているが,筆者の経験からすると,動機として同じく重要なのは,千

どもが罪ある親に幻滅することや,親を軽侮するのを蒔蹄うことにある。なぜなら子どもは大

人の落ち度をはっきりと見通しているからだ。最終的にランプルは,患者のなかで,原発性の

罪悪感と肩代わりの罪悪感が広範国にわたってどのように混合しているかに注目した。それは

むろん一般に実によくある現象だ。

もっと最近の著者に目を向けてみよう。レヴイ (1982)は,陰性治療反応の事例を提示して

いる。患者は罪の意識に苛まれている母親と同一化していた。ア一口ウ (1989)は,5歳のと

きに父親が家庭を棄てた女性患者について述べている。彼女は父親の悪行を行動化していた。

それは,父親が受けるべきだと彼女が感じた処罰を自らが代 りに受けるためであった。アイク

ホッフ (1989)は,親がナチスだった子どもに見られる肩代わりの罪悪感を論じた。彼らの親

は過去に自らがナチスだったことを否認 し,一切ロにしようとしなかった。ベレズ (1958)

は,私生児として生まれた子どもについて述べている。母親は私生児を産んだという失態につ

いて自らが感じる罪悪感 guiltを子どもに投影した。子どもは,母親のものであるこうした態

度を取 り入れ,同一化 した。ギヤバードとトウェムロー (1994)は,母一息子の近親姦の事例

を分析 して,その詳細を提示している。母親が少年である息子を誘惑して,二人きりの機会を

お膳立てする。父親がそこを不意打ちする。父親を前にして,母親は犠牲者の役回りを演 じ,

父親は息子を折艦する。のちに患者 (その少年)は,自らを突き崩して駄巨=こしてゆく顕著な

傾向を見せた。それは明らかに,外傷的状況を反復する傾向に基づ くだけでなく,彼の感じて

いた罪悪感をも表明していた。彼は,本質的には母親の悪事であるはずの事柄に罪悪感を感 じ

ていたのだ。

最後の2つの事例 (つまり,ベレズの事例とギヤバー ドとトウェムローの事例)からは,親

が子どもに自分の罪 guiltを外在化しているのが明らかに分かる。そのような外在化は,ほか

の事例でも存在 したのかもしれない。あるいは存在 しなかったかもしれないが,その点につい

ては何 も記載されていない。たとえばランプル (1927)は,患者と父親との相互交流について

は,ほとんど何も語っていない。

肩代わりの罪悪感を直接あつかう文献に加えて,侵襲的な親による外在化と子どもの側のさ

まざまな防衛とのあいだで繰り広げられる一定の相互作用については,マゾヒズムと児童虐待

に関する分析的文献のなかでしばしば記述されてきた。バーリナ- (1947)は,マゾヒズムを

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 35

複雑な防衛機制として記述した。その機制では,愛情対象のサディズムが,マゾヒストによっ

て自分自身に向けかえられている。罪悪感が防衛として使用されているのを指摘して,バーリ

ナ-はこう述べた。「子どものもつ罪悪感情は,親が抱 くいわゆる無意識的罪悪感の代理を果

たす。それは,愛情対象としての親を喪失するのを恐れて,親の罪責を理解しないでおこうと

する防衛である」(p476)。メナーカー (1953)は,彼女の事例で同様の心理力動を指摘 して

いる。この手の患者は,愛情剥奪によってもたらされる苦痛を自覚することへの防衛として自

分を定める (self-devaluation),と言うO プレナン (1952)は,家庭で,たえずいじめられ,

けなされていた若い女性の事例をとりあげて,欲動と防衛の相互作用がおりなす複雑な布置に

ついて記述した。プレナンはバーリナ-などを批判する。マゾヒズムを自我の防衛に還元しよ

うとしているからである。そうではなく,マゾヒズムは自我と超自我とイドの諸側面が複雑に

相互作用して多重決定される性質のものだという。マゾヒズムの大枠の理解という点からは,

筆者はプレナンに同意する。ただしバーリナ-とメナーカーの洞察は重要だと考える。

しかしながら,マゾヒズムの込み入った性質を勘案すると,肩代わりの罪悪感を別物として

取 り扱う方が望ましいであろう。肩代わりの罪悪感がマゾヒズムの心理力動で重要な役目を果

しているのはもとより明らかである。それは,ほとんどのとは言わないまでも,多くの患者に

当てはまる。さらに年代が下って,ノビックら (1987)は,マゾヒズムの本質が,打ちのめさ

れる空想の固着にあることをつきとめたOその空想はとくに幼児期に親から軌 潮 在化を受け

たことで生じる。ただし,病的な空想形態が生じるには,ほかの要因も一役買っているとい

う。クーン (1992)もまた,子どもが親から利用される状況を論じ,自己愛的な対象関係の家

族のなかで育った患者の治療例を示している。この例では,親自身が担うべき責任を子どもに

肩代わりさせていた。こうした雰囲気のなかで,「子どもは 『劉 bad 。n。の役回りを引き受

ける。邪険な親から愛されるためにである」 (p48)。

本論文では,肩代わりの罪悪感とマゾヒズムとの関連という複雑な問題には立ち入らない。

それが重要でないからではなく,臨床的に,そして理論的にはなはだ厄介な入り組んだ問題を

はらむからだ。そこで,肩代わりの罪悪感へ至る [対人的]相互作用と防衛がどのようなもの

であるのか,単純化しすぎるかもしれないが,まず明確に押さえておくのが最善だと考える。

肩代わりの罪悪感とほかの心理力動や問題点との複雑な相互関連がどのようであるかを概念化

するのは,その後が良いだろう。これから事例を提示するにあたって,その点をとくに強調し

ておきたい。というのも,事例の提示からは一面的なあるいは還元主義的な印象を受けるかも

しれないからだ。つぎのことに留意してほしい。ここでは肩代わりの罪悪感の力動に関連する

素材のみを提示しており,実際の患者は,どんなひとでもそうであるように,それ以外のもっ

と多くのこころの動きをみせるものである。

臨 床 素 材

これから3つの分析治療のなかから素材を提示しよう。肩代わりの罪悪感の力動と病因を議

論するうえで,叩き台として役立つだろう。

最初の患者,A は20代後半の女性である。週3回の頻度で,寝椅子を使った治療であっ

た。夫から自由になれないという理由で援助を求めて来談した。夫は自己中心的で,邪険であ

ざけるような態度をとり,彼女に性的な関心をもっことがないため,彼女はすでに夫のもとか

ら離れたい一心だった。しかし,夫があれこれ口実を言って,追いすがってくることに,なぜ

かしら抵抗できなかった。こうした譲歩は,つねに手痛い失望に終わった。つまり,夫の態度

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36 天 理 大 学 学 報

は以前とまったく変わらなかったのだ。

この男性はこれまで波乱に富んだ浮気を頻々と繰 り返 してお り,A との結婚 までに3回の

離婚歴があった。彼には用心するようにと彼女は友人から忠告されていた。しかし,素直に従

えず,どうしようもなく彼に惹かれた。Aにとってはもちろん,彼女の友人の幾人かにとっ

て一目瞭然だったのは,夫が彼女の父親と瓜二つであるということだ。Aの父親 も同様に,

自己中心的で,言葉の暴力をふるう男性であった。そのせいで A と母親は悲惨な生活を強い

られたのだった。

夫と父親との関連性を知 り,治療のなかでそのことを掘下げていっても,Aには何 ら変化

が見られなかった。夫の面倒はみなくちゃいけないと今でもすごく感 じます,これまで母の面

倒をみなくちゃいけないといつも感 じていたのと全 く同じように,と語った。Aはいつ も母

親の肩をもって父親に対抗 し,ごく幼いときから,生活のなかで母親の苦境をどうにか助けよ

うとしていた。

A と夫 との関係で印象深いことがあった。夫が明らかに彼女の父親の役割を行動化 し,す

なわち具体的にいえば呑んだくれて,ほかの女性 とほっつき歩き,さげすんだり,知らんぶり

したりするのだが,度外れた罪悪感を抱 くのはAの方であった。Aは自分が良くない行為 と

みなしたこと,たとえば夫と別れた後に,夫が他の女性 とぶらつくことなどに並々ならぬ罪悪

感を抱いた。夫がいかにして自分の罪を外在化 し,まさに自分のやっていることでもって彼女

をたえず非難しているかを治療のなかで吟味 した。それでもなお,なぜこの外在化を彼女が受

けいれるのかは,ようとして知 りえなかった。

彼女の抱 く罪悪感と夫との相互作間を検討 したセッションが数回続いたあと,彼女は夫 と一

緒にやってきた。そして言った。夫を愛しているってことをもっと話 したいんです。自分の怖

れと罪について話 したい,そして責めを引き受けるだけの力がわたしにはあるんだと言いたい

んです。こうしたことを考えてゆくなかで彼女は気づき,こう述べた。彼の声を耳にする時,

どんなに自分が恐怖するか,それは,まるで自分がそれまで何か悪事を働いていたかのようで

す。治療者がこれに関連 して何か思い浮かびませんかというと,まったく同じことがパパとの

あいだでも何度かあった,と言った。パパは夜中遅 くまで酒盛 りのどんちゃん騒ぎ,酔っ払っ

て帰宅。そして,私にどこをほっつき歩いてたんだと言い,どうせ株でもない奴らとたむろし

てたんだろう,少 しは家に居て母さんの面倒 も見ろ,と叱 りつけたんです。

「そうやってお父さんはまさに自分が しでかした悪事でもってあなたを責めたてた」,と治

療者が伝 えると,彼女はこう返答 した。数日前に母に電話 をしました。落ち込んでいるよう

で,どうかしたのと尋ねると,「ほら例の,昔からの問題 さ,父親との。でも,あんまり話せ

ないよ。なんせ,隣の部屋に父親がいるからね」。彼女の話をここまで聞いてきて,不意に治

療者はある考えに捕われた。「そうか,父親はまだ生きてるんだ。もう亡 くなったように思っ

てたが。」この考えは,疑いようもなくわたし自身の問題に関連 していたが,同時にAがこれ

まで父親についてはほとんど語らずにきたせいでもあった。事実,それ以前にはこうした事柄

にはふれてこなかった。つまり両親は少し離れたところに健在で,実家とは定期的に電話でや

りとりをしているという事実にである。

「母はそう言ってから」,Aは話 し続けていた。「『知ってるだろうけど,お前の父さんはま

ったくめちゃくちゃだよ。父さんはお前が自分 と口をきこうとしないと言ってるよ。』わた し

ってほんとにいかれてるわ。『いますぐパパを電話口に呼んで。』と言いました。母は父を呼び

にいったのですが,5分以上も待たされてようやく父が電話口に出てきました。出てきた父は

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 37

ひどくぶっきらぼうで,素っ気ないんです。わたしにこれっぽっちも気を遣うなんてことをし

ないのが父です。」

父親が自分の罪を,Aの幼少時からAに外在化しつづけ,さらに今もそれが続いているこ

とが明白となった。分析のなかでこうした問題点をさらに吟味することで,Aが父親の罪だ

けでなく母親の難点 (Crimes)に同一化していることが,明らかとなった.母親の難点とは,

ひ弱で父親に辛抱するしかなかった点である。さらに分かってきたことだが,これに加えて両

親とも浮気しており,それに対する罪悪感にもAは同一化していた。Aの肩代わりの罪悪感

にみられる2つの側面には違いがあった。つまり父親との早期の関係は,父親の罪悪感への同

一化に置き換えられており,そのせいで彼女は,まったくと言っていいほど父親について考え

たり,語ったりしなかったのだと思う。一方で,母親とより深い関係を保持しており,母親と

の同一化はより一層深く,複雑なもので,同一化の内容には罪悪感のみならず人格の多くの側

面が含まれていた。

記述してきた治療の初期の時点で,Aは父親との関係を父親の罪悪感への同一化で置き換

えており,この置き換えは,かなり単純に父親が終始自分の罪を彼女に外在化したことに基づ

くと思われた。そしてこうした彼女の傾向が,ひとの罪を引き受けるのに間違いなく一役買っ

ているようだった。しかし他の決定困がのちに浮かびあがってきた。彼女は自らが知覚するこ

とに否認という防衛を打ち立てていた。より正確に言えば,軽度の自我の分割を使用して自ら

の知覚を認めないようにしていたのだ。つまり父親は過度に自己中心的で,実際のところ彼女

のことなどこれっぽっちも気にかけておらず,せいぜい彼女の出来を友人に自慢する程度でし

かなかった。Aはこうした事実を認めまいとしていた。父親が罪をこちらに外在化してくる

のを受容し,罪を肩代わりしていたが,それが否認の強力な後押しとなった。そのため,酷薄

だったり思いやりがなかったりするのは,父親ではなくて,つまるところ自分だと感じること

が可能となっていた。

上記の面接から約半年後のあるセッションで,彼女はこう切 りだした。今一緒に住んでいる

男性 (夫のことではない)が怒るのを,自分がひどく恐がっているのに気づくようになりまし

た。きのうの晩,彼が流しの縁にグラスを置いていたのをひっくり返してしまって,粉々に割

れたのを見るなり,彼がどう反応するかたまらなく恐ろしくなったんです。

患者 :どうしてそんなに恐ろしく感じたのか分からない。

分析家 :ええ。その出来事を考えると何がこころに浮かんできますか。

患者 :グラスが落ちるのを見て,ほとんどスローモーションのようでしたけど,恐 くなった

んです。実のところ,最初は彼に腹が立ったのを思いだします。なんて不注意なんだろうっ

て。グラスを流しからほとんど落ちそうな具合に置くのが,彼のいつもの癖で,そのくせ,そ

れで何かあるとひとを責めるんです。

分析家 :それで最初は彼に腹がたった。

患者 :ええ。

分析家 :で,どうなったの?

患者 :たぶん,自分を押しとどめたみたい (沈黙)。

分析家 :彼を批判しだして,それから自分を押しとどめてしまったのかな。もし,考えを進

めていたら,何にしても彼の良くないところをあれこれ考えはじめたかもしれませんね,普段

は考えないようにしていることを。自分を押しとどめた。でも,批判はどこかへ向かわざるを

えないから,自分に帰ってきたCそこで,彼が自分の不注意に腹をたてるんじゃないかと怖 く

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38 天 理 大 学 学 報

なった。

患者 :ええ (実に生き生きとして)0

治療者から示唆をうけて,彼女はそうした考えの道筋を辿 り始めた。そして今の同棲相手

が,いかに無責任で思いやりがないかを績々語った。それから再びいかに自分がめちゃくちゃ

にしてしまっているか,いかに自分のせいで関係がうまくゆかないか,について話しだした。

分析家 :また自分の方へ向きを変えたようにみえるけど。

患者 :そうですね。でも今話していることは本当のことじゃないですかO

分析家 :ほんとうのことでも,防衛に使われるってことはありますよ。彼がふたりの関係を

めちゃくちゃにしているのが,まさにはっきりしだしたところで,その非難を自分自身に向け

変える,そんなふうに見えます。おそらく,なぜそうなるのかはわからないでしょうが。もし

思ったまま非難してしまうと,そのあと彼のみせる思いやりのなさが苦痛だから。それより

は,自分が罪悪感を感じ自分の方が悪いんだと思う方が,まだしもだと思う。

Aは泣き始めた。そんな気持ちはまるで堪えがたいと。そうして,子どもの頃,まるで愛

されていないと感 じていたことを語った。それから子ども時代のあるエピソー ドを思い出し

た。それは,父親がテレビで若いフィギュア ・スケートの選手をみていた時,どの子もなんて

かわいいんだろうと言ったことだった。自分は父親からそんな言葉を一度も懸けてもらったこ

とがなく,それどころかその部屋に居ることさえも気づいてもらえずに,どんなに悲しく孤独

を感じたか。ふたたび彼女はたちまち自分自身を責め始めた。私は両親にもっとこまめに便 り

をすべきだったのに。治療者はここでも,そのようにして肩代わりの罪悪感を防衛的に使って

いるのを指摘した。Aは愛されていないという苦痛を猛烈に感 じた。それから,Aはそのセ

ッションで上司が彼女にとても批判的なことに触れ,そのやりとりについて述べた。

分析家 :そのことがとくに気に懸かるんですね。そうなるのは興味深いことだと思います

よ。もし,どういうことでそうなっているかが分かるなら。その女性の上司は,あなたが有能

なのをずいぶん妬んでいるし,自分の容姿についてもかなり不安に思っている。

患者 :でもこの種のことをどう理解していったらいいんですか。原因は私にある,とただそ

う思えるだけです。どうしたらひとのことをそんなふうに批判的に見られるようになるんです

か。

彼女はかなりやけになってこう言った。治療者は彼女を救い出したい衝迫と一種の絶望感を

味わっていた。こうした感情は,ふたりがこの領域をくり返し調べ続けて以来,一度も感じた

ことのない,ふたりにとって初めてのものだった。突如,それは現実離れしすぎているという

考えが湧き上がってきた。そこで思わずこう言っていた。「でも,上司についてそんなふうな

批判はしませんでしたよ,わたしは。あなたが以前にしたんですよ。あなたが言ったことを私

はただ繰り返しただけです。」

患者 :おかしいわ。それって友達が言うこととおんなじです。友人は,わたしが前にこぼし

た主人の愚痴をこちらに反復 して言ってくるんですよ。わたしは言ったことさえほとんど忘れ

てしまってるのに。

分析家 :どうなっているか分かりますかO上司からの批判がひどく気にかかることを二人で

話していたんですね,その時,以前自分が彼女をどう思ったかを覚えていないなんて,不思議

ですね。そのうえ,それをわたしの方が洞察したのだと思ったことも。自分の才能は他人に投

影し,一方,ほんとは他人が持っている欠点や失敗は自分の方に引き受ける。

Aはこの言葉にうたれた。しかし,またしてもたちまちのうちに,ひとの本質を見抜 くと

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,J.(2000) 39

か,他の人に立ち向かうなんて,とてもできっこないという話しの方に逸れていった。それは

嘆願するような調子を帯びていて,まるで私からの助けが必要なのだと言わんばかりの口調だ

った。まさにこの種のやりとりを通じて,肩代わりの罪悪感の心理力動が治療関係に直接,入

り込むのである。そこでは,ある能力や良い資質は分析家に外在化される。そして患者は,分

析家が感じて然るべき感情を内在化し,罪と責任を感じる。

うえに詳述したやりとりのあいだ,その場に現象する知覚,非難,防衛の相互作用がとくに

目についた。そしてそれを解釈 した。読者も同様にこうした点に関心をもたれたかもしれな

いOあるいはそうではなく,転移/逆転移の問題はどのように顕在化したのだろう,と思われ

たかもしれない。肩代わりの罪悪感の顕著なたいていの患者と同様,Aは,変わることなく

協力的で,分析の進行をすすんで助けてくれた。私としては,A とのセッションを楽しみに

していた。分析の時間は早く過ぎ,彼女が素早く私の解釈を受け取るのに満足を覚えた。ただ

私の反応は,強度の理想化転移を向けてきた患者の場合ほどには強くなかった。そうした場

令,誰であれ万能感に溺れてしまう危険がたえずつきまとう。Aが私の解釈を受け入れ,棉

微化するにつれ,むしろ自信を覚えた。自信過剰に陥りかねなかった。肩代わりの罪悪感の強

い患者は,たいてい,治療者からの介入を容易に受け容れる。しかし,経験からすれば,それ

だからといって,分析的作業を純粋に進めるのは困難だ,と諾ヵ、ら決めてかかる必要は必ずし

もない。Aの事例およびこれから提示する治療作業の一端から,患者が特定の視点を持つよ

うに,治療者が訓練しているといった印象をもたれるだろう。確かに,この手の患者の場合,

そうした危険性が存在する。というのは,的外れの解釈なら患者の方でそれを訂正してくれる

といったごく普通のことがないからだ。患者が解釈に同意するからそれは正しいと思って,自

信過剰に陥ったりしないよう注意しなくてはいけない。少なくとも分析の序盤ではそうだ (ち

っともこれほどの分析治療でもつねに当てはまるというのではない)。同時に,過剰に協力的

であるからといって,すぐさまそれに何か対応すべきというのでもない。むろんこうした態皮

は肩代わりの罪悪感に関わる性格の一個u面ではある。かわりに,性格特性が緩んでくるよう

に,肩代わりの罪悪感の根底にある防衛を十分,分析 しなければならない。そうすれば,患者

はかつて外在化してくる親に奉仕したのと同じように,分析家を世話し,いい気分にしてあげ

なければといった肩の荷を降ろすことができる。上述したように,このような患者を前にして

分析家は心地良さを感じるが,筆者の経験では,この感覚に引きづられて,普段に比べて不注

意に,また教えがましくなりやすい。そうなってしまうと,子どものせいにして,自分がいっ

そう心地良く感じたり,うぬぼれたりした親のやり口を引き写すことになってしまう。

Aの分析と対照的なのが Bの事例だ。Aの場合,肩代わりの罪悪感は初期から顕在化 して

いて,それを分析することで治療過程が深まった。Bの場合は,治療終結の局面でのみ,肩

代わりの罪悪感が表面化 した。Bは20代の,知的で魅力的な女性であった。週に5日の治療

であった。彼女の主訴は,多 くの点でA と類似している。彼女は何年も前につきあっていた

彼氏の虜になっていた。彼は同時に何人かの女性と交際するのが常だった。他の特徴 として

は,それに加えてつき合っている女性を支配し,完全に意のままにしたいと思っており,実際

そのように振舞っていた。Bの場合も他の女性と同様であった。そして事実,そのために彼

と緑を切ったのだ。Bは,彼が見かけどおりのひどい人間かどうかを際限なく考えつづける

事に心を奪われていた。優しかったときのことがしきりに思い出されるのだった。A とまっ

たく同じように,Bもとどのつまりは自分が悪いのだと感 じていたO思いやりがなくて冷淡

だったのは自分の方なのだろう,と考えた。かつての彼氏は,まったく操作的で彼女の罪悪感

Page 16: 肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

40 天 理 大 学 学 報

を利用して自分の責任を逃れ,自分ではなくて,彼女の方に問題がある,あるいは彼女が間違

っていると思い込ませていた。

むろんこの事例では多くの要因が関達し複雑に相互作用していた。そこには患者のマゾヒズ

ムおよび自分は例外として扱われたい願望などもあった。しかし,ここでは,治療終結期にな

って現れた罪悪感と彼氏から決別できないという点にのみ話しを絞ろう。

この時点で,すでに5歳の誕生日前後に起きたある事件の影響がすっかり明らかになってい

た。彼女は家族みんなと一緒にいて,父親の運転する自転車の前の荷台に乗っていた。7歳の

っていた。自転車の荷台で,彼女の言葉を借りれば 「まるで飛んでるみたい」に感じた。母と

姉の属する退屈な世界を後にして,自分が 「男の子の一員」になったように感じた。歌を歌っ

て足をぶらつかせた。父親にそのことを喋り始めると,父親は危ないから足をぶらつかせるの

は止めなさいと注意したOつぎに思い出せるのは,自分がなぜか地面に投げ出されて意識がぼ

おっとしているところだった。足が前輪のスポークスにはさまれて,足首を骨折 していたの

だ。この事件の後,数日間,入院するはめになった。

この事件はBにとって狭義の意味での心的外傷となっていた。つまりBの刺激障壁 (stimu-

lusbarrier)は大規模に打ち破られ,自我機能が一時的に停止したのだ.のちにこの記憶は二

次的に性愛化 (sexualisation)された。つまり自我における超自我への関係が性愛化されたの

である.このように外傷体験で生じた一連の出来事は別の形に置き換えられ,生涯にわたって

反復する傾向が生じていた。外傷体験のもつこうした諸側面はすべて広範囲にわたって分析さ

れて,人生の目標を追及することにおいても,親密な関係をもっことにおいても自由度が増し

たところで,治療の終結が決められた。

しかし,この後の終結期に,かつての彼氏への強迫的なこだわりがふたたび顔をのぞかせ

た。再度分析していくうちに,件の事故の後,見舞いにきた父親がとても怒っていて責めたて

るような顔つきだったと話すにいたった。それはちょうど,彼氏が不誠実で彼女をないがしろ

にしているのを非難したとき,彼が腹をたてて彼女を責め立てたのと似ていた。

分析家 :たぶん,事故のことでお父さんがあなたを責めているように感じたんですね。

患者 :ええ,実際とんでもないことだ,と感じていました。事故のせいで家族の休暇を台無

しにしてしまったんですから。まるですべてを台無しにしてしまったように感じました。それ

は,罪の意識に捕らわれたときに今でもよく感じる感覚です。

分析家 :でもお父さんは大の大人でしょう。そんなふうに自転車に子どもを二人も乗せたこ

とには,少なからぬ責任があるように思えます。

患者 :ええ,今はそれが分かります。でもそのときは父の言いつけに背いたように考えたん

です。だって足をぶらつかせるのを止めるように言われたわけですし。それで責任はわたしに

あるって- (沈黙)-あのう,これって,この話をするときに今までいつも言ってたことです

よね。でも,考えてみると,実際は,父が注意したところの記憶はないんです。

分析家 :じゃ,その話はどこから出てきたんでしょう。

患者 :父です。事故の後,罪悪感をひどく感じているみたいでした。父からそういうふうに

聞かされたんです。

事故の記憶を掘下げてゆくにつれて,だんだん明らかになってきた。Bは事故の罪を引き

受けていた。それは父親の理想的なイメージを保護するためだった。それほどまでに彼女は父

親と親密だったのだ。その時点で彼女の目から見て父親のこのうえなく重大な罪とは,事故の

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 41

責任なんかではなかった。それは,責任を彼女に押しつけようとした卑怯なやり口と裏切 りで

あった。彼女は,嘘の人生といって悪ければ歪曲の人生において,彼氏を責めることやひとを

非難することに正当性を感じられないでいたが,それを支える強力な基盤は,何にもまして,

つぎのような思い込みにあった。自分は嘘つきだ,そしてそれは罪だ。この罪悪感は彼女の実

際の行為に基づくものではない。彼女は実際には徹底して誠実であった。しかし,父親の罪 guilt

に同一化してそう感じていたのだった。

突然に劇的に生じた父親への失望を分析することが,肩代わりの罪悪感を解きほぐすうえで

中心課題となった。一方,Bの父親はAの父親ほどには自己中心的でなかった。しかし,自

分の罪 guiltを外在化する,わけてもBと妻に外在化するきらいがあったのである。そのこ

とは記しておくべきだろう。分析での作業からは,こうした外在化のエピソードが,大小とり

まぜて,Bの幼児期に日常茶飯事だったのが明らかとなった。

それ以前に,怒りの側面は取り扱われていた。姉への怒りであり,一姉は子どもの頃,彼女

にいぼり散らしていた一,むろん様々な理由による両親への怒 りであった。Bはまた分析家

に対しても強烈な怒りを爆発させた。その怒りの起源をたどると,わけても攻撃者への同一化

へと行き着いた。その心理機制において,彼女は姉あるいは父親の役柄を引き受けて,いじめ

られて感じる屈辱感への防衛として,分析家に先制攻撃をしかけていた。治療のこの時点です

でに,Bの肩代わりの罪悪感は分析され,またその動機が父親にがっかりするという苦痛を

回避することにあるのが明らかとなっていた。さらなる深層が攻撃性と関係 して,明るみに出

てきた。酷い扱いをうけたために深刻な自己憐偶の感覚が生じており,これをなだめるために

父親が感ずべきであった罪悪感をBが代 りに体験 していたのである。彼女にとってこのあわ

れな犠牲者の自己イメージは,自明のものであった。この自己イメージが,自分勝手で攻撃的

な衝動を隠蔽し,否定するのに大いに役立っていた。

すでに述べたように,上述の記述に焦点化するため,また紙幅の都合上,本論の主題にとく

に関連する生育歴と心理力動の側面のみを取り上げた。このために,患者たちが単なる犠牲者

だという印象を与えるのではないかと危倶する。もし犠牲者であるならば,そうしたことが浮

上してきた時には,それを率直に取上げることが重要であろう。さもないと,患者の親がとっ

た行動を永続化することになるだろう。患者の親は責めを負うべき人物として,常に患者を名

指ししていたのだから。患者はむろん責任を引きかぶる用意ができていて,自分のなかに悪を

見つけ出す。そして分析家を容易に引き込んで,その悪を叱責する役回りを演じるように仕向

ける。

しかし同時に,一通り,この全てに責めを負う傾向が分析されたならば,患者自身の攻撃衝

動,サディズムと自己中心性にアプローチすることがより実り多いものとなる。それはBの

例に示されたとおりである。しかしながら,こうした患者の分析が単なる2段階の手順を踏む

というわけではない。第一に患者は十人十色で,肩代わりの罪悪感に関連して,かりに一つの

ことだけを取り出してきてもその周辺には実に多 くの問題が存在している。また肩代わりの罪

悪感と患者自身の衝動性には,幾重もの防衛が纏わりついており,それだけでも複雑で入り組

んでいる。

つぎにCという女性の事例を紹介しよう。この分析の主たる焦点のひとつに,陰性治療反

応があげられる。それは沈黙と面接にやってこないという形で現れた。行動のある決定因が明

らかとなり意識化され,治療に多少なりとも進展がみられると決まって,それが生じるのだっ

た.Cは30代の作家であった。反復する哲とある困った傾向のために援助を求めて来談 し

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42 天 理 大 学 学 報

た。彼女は自分でその傾向をはっきり認識はしていたが,制御 しえないでいた。それは,自分

をひどいめに遇わせるひととかかわりあいになってしまうということだった。彼女の生育歴と

分析過程は通常の事例よりもずいぶんややこしい。ここでは主題にかかわる出来事だけを抜き

だして詳細に提示するが,実際はそれだけでもかなり複雑である。

Cには1歳半年下の妹がいる。妹には軽度の知的障椿があった。母親は暴君じみていて,C

を蹴ったり叩いたりして身体的に虐待しがちであった。父親は魅力的だが自己愛的なひとで,

母親から守ってくれることはまったくなかった。

2,3歳頃の出来事をCは思い出した。妹は乳母車に乗ってポーチのところにいた。妹が

乳母車を足で蹴ったので,乳母車は動きだした。動きだした乳母車はポーチから一続きの長い

階段を駆けくだって地面まで行き,転倒してしまった。その時,母親はベッドで寝ていた。母

親はなにやかや理由をつけて,ベッドにもぐりこむのがしばしばで,一日のうち大半をそこで

過ごしていた。乳母車から転落した妹を拾い上げてくれたのは隣の人か通 りがかった人だっ

た。

Cが大人になってからこの事件を母親に尋ねた際,母親は,唐突に 「ええ,もうその前か

ら駄E]になってた (sti印 じゃない。知ってるでしょ」と言った。障樽のことはおくびにもだ

さなかったのに,である。Cの子どもの頃,母親が何度か言ったことがある。事件が起 きた

時,寝ていたのはCだった。だからCは事件を正確には覚えていない,というのである。妹

の障椿について母親のもっていた公式見解は,出生時の酸素欠乏であった。しかし,妹が学童

期の頃,家庭医が妹の出産に立ち会った産科医に手紙を書き送ったことがあったが (その頃ま

でに一家は別のところ-引越 ししていた),産科医からの返信には,分娩はまったく正常で,

出生時 Cの妹は完全に健康であったと記されていた。

乳母車からの転落事故がもとで欠陥が生じたのかもしれない。しかしもっと確かなことは,

Cと母親の二人ともが,原因は出生時の酸素欠乏にある,それがありのままだと信 じていた

ことである。とはいえ,母親は事件が起きた時,自分が眠り込んでいたことの罪を,自分の身

代わりとして Cの肩に背負わせようとしていた。分析中にもっとも持続 したCの反応は,症

倒的な睡魔に襲われることだった。それはある意味でロにすべきでない事柄が話題になったあ

とに生じた。

Cの眠気と母親が自分の罪を外在化しようとしたことのあいだには何か関連があるのでは

ないかと疑った。が,眠気の抵抗分析は,一向にはかどらなかった。しかしながら,眠気に先

立つ身体的な反応といくつかの夢,連想から,4歳頃に受けた扇桃摘出手術-とたどりつい

た。リブトン (1962)が指摘 しているように,他の病気と違い扇挑摘出手術を受ける前に,千

どもは実際のところ身体的に少しも問題がない (これはCにもあてはまる)。そのため子ども

は手術の後で,手術を受けさせられたことと自分の葛藤やより深刻な恐怖とを (因果的に)結

びつける理屈を頭のなかであれこれつ くり出す。Cの場合,手術を母親から指示された処

罰,つまり心理的な去勢として理解したことが明らかになってきた。なぜそのように理解した

のであろうか。それは,彼女は妹がどうして障碍をもつにいたったかの事実を知っていたから

であり,むろんエディパルな願望と原光景の空想を抱いていたからであった (彼女は妹の事故

とそれらを融合させていた)。扇桃摘出の手術開始の際,口に被せられた麻酔用のマスクは

「酸素欠乏」を意味した。つまり,それは母親の主張では妹の障碍を引き起こしたとされる

「酸素欠乏」と重なり合った。最終的にCは麻酔で 「眠ったひと」にされたのである。これ

は事故が起きたときに眠っていたのはCだったという母親の主張とあたかも符合するかのよ

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 43

うだった。

扇桃摘出手術について分析したおかげで,Cの罪悪感,処罰を求める無意識的願望は減少

し,ひいては陰性治療反応は減少していった。これは大部分,手術の外傷とそれをめぐって空

想した筋書きのために,妹の事故について罪責感が形成されていたからであった。またそのた

めに罪責感が消えずにいたからである。ただし,彼女が抱いた事故への罪責感は,母親の罪責

感を肩代わりしたものであった。

しかしながら,話はこれで全てではない。Cの母親は非常に自己愛的で,Cに自分の罪を

肩代わりさせるのは常のことだった。この罪の肩代わりはA,Bの父親にも当てはまる。母

親は,Cをお気に入 りのスケープゴー トに利用 していた。Cの母親はA,Bの父親に比べて

ち,ずっと精神的な障樽の程度がひどく,はるかに虐待的であった。殴る蹴るに加えて,幼児

期に外傷となるような渓腸を無理強いしていた。それは Cが3歳から6歳にいたるまで続い

た。母親は棒石鹸から断片を切り取ってそれをCの肝門に手荒に押 し込んでいた。こうした

品腸にまつわる全体的雰囲気は,サディスティックな性的攻撃の雰囲気で,そのせいで,終生

にわたるマゾヒスティックな母親への愛着が Cに生じた。このマゾヒスティックな愛着は,

肩代わりの罪悪感と入り混じり,それを強化した。その帰結は,抑うつ感情,自己破壊行為,

陰性治療反応であり,母親から心理的に分離できなくなったのはむろんのことである。

こうした事柄を示すものとして最近の出来事から一例を挙げておこう。Cは,妹が快適な

環境に恵まれた郊外の公的施設に思いやりのあるスタッフと一緒に暮らせるようずいぶんと骨

を折った。すると母親はその施設を訪問し,見え透いた難癖をつけて大騒ぎをひき起こした。

妹がそのスタッフから虐待されていると難話したのだった。それからCに電話をかけた。母

親はあてこすりやら露骨な非難でもって,虐待の責任はCにあるという気にさせた。つま

り,Cがむりやり妹をそんな恐ろしい所へ行かせたせいで,妹が酷い目にあわされたのだと

いう気にさせたのである。そのため Cの心のなかでは,自己糾弾とそれへの反論が代わる代

わる生じて休まる暇もなく,希死念慮が生じてきた。実のところ,妹は公的機関の介入によっ

て母親からひき離されたのである。ふたりの仲はよほど悪く,そのせいで妹が母親に身体的な

暴力をふるうにいたるからだった。Cはそのことをよく知っていたので,妹にとって新 しい

環境で暮らす方がはるかに幸せになるのを重々,承知していた。しかし彼女にはマゾヒズムと

肩代わりの罪悪感のもつ牽引力に抵抗するだけの強さが欠けていた。自分が無力なせいで妹は

虐待を受けたのだ。だから妹を虐待したのは母親ではなく,自分なのだと感じるようになって

いた。

ここまでCの反応について述べてきた。肩代わりの罪悪感は,そこで重要な心理力動では

あった。しかしこれまでの記述によって,彼女の分析にとってそれが主要テーマだと主張した

いのではない。実際,分析の後半段階で明らかになったように,Cの中核的な葛藤は,母親

への性的な愛情,男根期段階の愛情と母親の死を願う願望およびその否認とのあいだで生じて

いた。この深く抑圧された葛藤は転移の中に色濃く表れた。その分析を行なうことによって,

自分がひどい日にあう関係に陥るという性向は劇的に減少した。

討 議

ハルトマンとローウェンスタイン (1962)は,指摘 している。親が押 しつけてくる指令,

規則に加えて,子どもは親に向けた自分自身の批判をも超自我に内在化する。もしこれが一般

的に当てはまるならば,一筆者はそう考える-,そして批判が当初は子どもから親に投げかけ

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44 天 理 大 学 学 報

られていたとしても,のちには子ども自身に向け変えられるとしたならば,肩代わりの罪悪感

はどこにでも生じるように思われる。しかしながら,さらに良く考えてゆくと,実際には 「肩

代わりの罪悪感」という術語には異なる2つの意味合いが含まれているのが分かる。つまり,

第 1には,ひとは他のひとが実際に感じている罪悪感 guiltに同一化できるということ。第

2には,他のひとが感じて然るべきだと考える罪悪感 guiltに同一化できるということ。[他

のひととは,自らが非難を向ける人である。]これは,当初他人に向けた告発の向きを変え,

自分自身がその告発の標的になれる,というこぎ警Oこの第2の意味あいはハルトマンとロー

ウェンスタインの記述した心理過程と対応しているoそれは少なくとも中程度には一般のひと

にも見られ,意外なことに予想以上の頻度で目にする。これに対して,第 1の意味あい,つま

り他の人の罪悪感 (feelingsofguilt)に同一化することは,肩代わりの罪悪感のより狭い定義

である。その意味での肩代わりの罪悪感も発症率が高いとはいえ,一般のひとにも遍在すると

いったことはきっとないだろう。

「肩代わりの罪悪感」の2つのタイプそれぞれに該当する事例が,先行の文献に認められ

る。ア一口ウ (1989)とランプル (1927)の患者はともに,父親に向けて感じた非難を自分自

身に向けかえたように見える (むろん,もうひとつのタイプの肩代わりの罪悪感も存在した可

能性がある)。興味深いのは,両者ともに行動化への傾向が強かったことである。親が実際に

感じている罪悪感と同一化した [つまり第1のタイプの]患者だと,この傾向は存在するとは

いえ,それほど目立たない。そのような患者の例は,レヴイ (1982)とクールニュ (1983)

(アイクホッ7 1989にも引用されている)が提示 している。クールニュは,子どもにおけ

る,往々にして見過ごされてしまうある種の同一化の力動を記述しているoそれは,親が自分

の親の死に対する服喪過程で感じる罪悪感に子どもが同一化する力動である。

肩代わりの罪悪感に2つのタイプを区別したが,つぎに第3のタイプを記述 しよう。表面

上,ここには,子ども自身の親-の糾弾が含まれるように見える。しかし,よく検分してみれ

ば,それは感じ取られた親の罪悪感-の同一化であり,これがある一定の変形を遂げたものだ

というのが分かる。筆者の述べた患者の3人ともが,この範時に入る。

このタイプの一例を挙げるとすれば,患者 Bを思い返してもらうとよい。Bの父親は,自

転車事故の責任を負うまいとしたo最初,Bはそのために父親を責めていて,そういう父親

への非難をことごとく内在化しているようにみえた。しかしながら,実態を理解するための鍵

は,つぎのようなことを考慮することである。つまり,Bの父親は事故にいたく罪責感を感

じており,実のところ,この場合に限らず他の大半の場合でも,罪悪感につきまとわれるのは

父親そのひとであった。しかし,父親はこの罪悪感をことごとく外在化で取り扱っていた。

[親の側に見られる]罪悪感のこうした取 り扱いについてはアンナ ・フロイト (1936)が記

述している。彼女は,攻撃者への同一化を論ずる際に,それを道徳性の兆しとして論じた。超

自我の圧力が生起してくるにつれて,罪悪感が人格に圧し迫ってくる (outrage)。そこで自分

の罪悪感を誰か他のひと,つまり自分に圧迫感を与える(outrage)ひとに外在化するので

岩驚。筆者は他のところで,自己愛人格障碍の特徴として,この構造的不安定さについて述べ

た。すなわち超自我は統合が不十分で未熟であり,罪悪感は十分,内在化していない。そのた

め罪悪感は容易に外在化してしまう。Bの父親は,Aの父親,Cの母親と同様,罪悪感を外

在化する傾向が著しかったoB,Cの事例では,主として単一の出来事がどのように分析され

たかを詳細に提示 したわけだが,そこでは親が自分の罪悪感を引き受けまいとしていたDこう

した強調は的外れではない。というのは,こうした出来事は他の外傷体験やより一般的な問題

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肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 45

を単に隠蔽しているだけではないからだ。それゆえその出来事を分析する事が,肩代わりの罪

悪感を解消するにあたって中心課題であったからだ。強調されるべきこととして,言及した患

者の3人ともが外在化の雰囲気のなかで成育していることが挙げられる。そこではひとりの親

が自らの過誤や悪事に責任をとらない傾向が顕著であった。加えて重要なことは,それぞれの

患者が家族のなかで,専ら親の外在化を受ける標的とされた事実であるo

自己愛人格障碍のひとは周囲のひとに外在化する全般的な傾向がある一方,親や同胞の立場

になると,外在化を行なうのに散漫な形ではなくもっと安定した形を発展させがちである。そ

こではひとりあるいは複数の決まった家族が専ら標的にされる。ほかの家族はお目こぼしに与

るかもしれず,場合によっては,そうしたひとの自己愛的領域内に取り込まれ,特別扱いを受

けるかもしれない。その場合,実際に責任逃れが許容されうる。筆者は別の論文で (1998),ふた

こうした2タイプの関係について臨床例を提示したことがある。ブローデイは,この種の家族

について詳細な納得のゆく論述をものしている。そのなかで,家族構成員が極端に自己愛的で

あること,また外在化する親と子どものあいだの杵が極端に強靭であることに触れている。ブ

ローデイはこう述べる。

「あるがままに実在する子どもは,リビドー化されていない [すなわち,肯定的関心の対象

とならない]。その子は母親から,『かのような子ども』 (as-ifchild)として扱われる。つま

り,その子が母親の投影を現実化して実証した場合にのみ,反応してもらえる。まさに実存体

験そのものこそが,自己愛的関係性によって変質させられてしまう。強靭な関係性の中核にあ

るのはこうした現象だ。」(1965,p180)

バーガーとケネディもまたこの手の相互作用について詳述しているが,それは読むものに強

く訴えかける。その相互作用は,一見知的に遅れているように見える子どもとその母親の間

で,ときに見られるものだった。そうした母親は子どもが端から知的に遅れているものとして

接し,「自己イメージのあらずもがなの面を取 り除くために,子どもを利用していた」(1975,

p302)。バーガーらが言うには

「われわれが研究した子どもたちは,母親から割り当てられた役割を異様なくらいに

唯々諾々と受容していた。この従順さは,安全感を失いたくないこと,相互作用の芽

があるならどんなものが基になっているとしても,母親とのかかわりは手放したくな

いといった気持ちから,でたものである」(p304)O

ノビックら (1970)も外在化が顕著に現象している,そのような家族の例をいくつか提示し

た。興味深いことに,子どもが分析的治療のなかでずいぶん変化して,外在化のもたらす現実

をもはや受容しなくなったとき,専ら子どもに外在化することで自らの精神的安定をはかって

いたらしい他の家族が,かなりひどい精神的破綻をきたした。

外在化を受容する動機として関係性の保持を,先行研究の引用によって先に示したが,それ

につけ加えておきたいことがある。提示した事例の何れにも,肩代わりの罪悪感を存続させる

特異な家族力動が見られた。つまり,罪悪感を患者に外在化する家族が (ほとんどは親だが,

時折,同胞からの外在化が重要なこともある),極端に自己愛的で,相互的関係性よりも力に

もっと関心があり,子どもに対 して別人格として配慮することが露ほどもない。ごく早期か

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46 天 理 大 学 学 報

ら,子どもは親の人格のそうした側面をことごとく否認するようになる。そして親は自分のこ

となんかまるで気にもしていないという現実をあらかた否認する。この否認は実際のところ自

己防衛的性質のものだ,と筆者はしばしば考えた。というのも,まるで愛されていないという

恐ろしい真実が現実化して押しつぶされるといったことのないように自分を守り,発達を保障

可能にするためだ。肩代わりの罪悪感はこうした否認を下支えする。すなわち,結局のところ

思いやりがなくて拒否的なのは自分の方で,もし,しでかしているさまざまな悪事をやめて良

い子になりさえすれば,関係は良くなるはずだ,子どもはそう感じるだろう。筆者の患者の場

令,この否認を分析することは通常,首尾よくいった。それは現時点において生じている,ひ

どく自己愛的なひととの関わりを転移外解釈で扱うことを通じて達成された。肩代わりの罪悪

感が防衛的に使用されているため,その分析がなされるまでは,通常,多大な抵抗が働いて,

まるで気にかけてもらえなかったことから目をそむけようとする。罪悪感の防衛的使用が分析

された後にはじめて,否認は崩れてゆく。それは今現在の関係と人格形成的作用を果たした早

期の関係の双方においてであるO 肩代わりの罪悪感は本質的に複雑な防衛であり,幾つかの防

衛機制 (否認,判断の抑制および選択的同一化による内在化)が含まれ,それらが同時あるい

は継時的に使用される。(攻撃者への同一化 (アンナ ・フロイト 1936)に類似したあり方であ

る。)その分析は根本的には防衛分析である。しかしながら,防衛の転移といったような問題

を季んだ複雑さがいくらかある。紙幅も残り少ないので,その主題についてきちんと論究する

のは,別の機会に譲るとしよう。その際には肩代わりの罪悪感を取り扱う際の技法上の問題を

中心に据えよう。

しかしながら,議論を締めくくるにあたり,ここで技法的な問題のあらましを手短に述べて

おきたい。これまでの議論で明らかになったように (そうであればよいのだが),肩代わりの

罪悪感には基本的側面が2つある。第 1に発達上の障碑。そこには行動と自己表象の歪曲が伴

っている。歪曲は,外在化する親から見捨てられるのではないかという恐れから生じたもので

ある。第2にこの変質した自己表象が防衛のために利用されることである。子どもは親からの

愛情が明らかに欠如しているにもかかわらず,その事態を否認しようとするが,その際,変質

した [悪としての]自己表象を防衛的に使用 して否認を下支えするのである。このことはすで

に述べた通りである。肩代わりの罪悪感を防衛のために利用する別の基本様式は,親の罪悪感

の外延部となる事で,現実に自分に存在する罪悪感や責任に直面,内在化せずに済ますことで

あるO これはとくに青年期に見られる。そのため成人期-の移行があらぬ方へ逸れて行ってし

まうO 肩代わりの罪悪感を分析するにあたって,最初にしなければならないのは,他人の至ら

なさを絶えず歪曲,否認し,相手からの外在化を受容してばかりいるあり様に注意を向けさせ

ることだ。その際,他者からの外在化を受容する事が,防衛的役割を果たしていることも理解

してもらう。防衛が転移してくることで,患者は治療者のもつ欠点もまた否認する。これは派

手な理想化転移ということではなくて,もっと微妙なものとして現象する。たとえば,分析家

が解釈で少しへまをしでかしたすぐ後に,患者は,自分は解釈がうまくないんです,とこはす

だろう。経験上からいえば,親からの愛情欠如の否認を徹底的に透見してゆくにつれ,肩代わ

りの罪悪感は全面的に流動化してゆく。つまり,それまでは肩代わりの罪悪感がこうした理解

を払いのけるような防衛として機能し,また防衛の転移として実際は分析家に属する塀庇を否

認し自らが行動化していたわけだが,その点において変化が生じるのである。

本論文では肩代わりの罪悪感を3つのタイプに分類 した。第1のタイプは自覚され表出され

たほかの人の罪悪感に同一化すること,第2は他の誰かが感ずべきだと思った罪の意識を感じ

Page 23: 肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

肩代わりの罪悪感 :フェルナンド,∫.(2000) 47

ることであった。筆者は3つの事例を提示 し,それらを前 2着 と区別 して,第3のタイプとし

た。しかし,ここで敢えて述べるならば,一見,他の2つのタイプに属するようにみえる事例

でもい くつかは実際,この第 3のタイプに属する。文献に提示されたケースの大半はこの点に

ついて判断の しょうがない。というのも,早期の親子の相互作用について情報が不充分だから

だ。こうした特定の力動が重要であると主張するにいたったのは,まさに筆者の経験による。

ここで提示 した3つの事例と,このほか疑いようもなくこのタイプに属する事例を3例経験 し

ている。一方,肩代わ りの罪悪感があ りながら,親が自己愛的で外在化をするといった病因の

ない事例は経験 していない。3,4イ柳こ遭遇 したあとではじめて,本論文で論 じた要因の重要

性が徐々にわか り始め,以来,データを理論に合わせて無理や り裁断することのないよう細心

の注意を払ってきた。むろんそれでも筆者の側に無意識的なバイアスがなかったとは言えない

だろうが。誤った結論を引 き出す可能性がほかにあるとしたら,この種の臨床的研究には付物

の,少数例でしかないというサンプリングのまずさであろう。ただ,こればか りは-臨床家だ

けでは如何 ともしがたいことで,多 くの臨床家との共有体験によってのみ克服 しうるものだ。

ほかの臨床家が各自の臨床的資料 と照らし合わせて,ここで提示 された筆者の考えを裏づける

なり,修正するなりして くだされば幸いである。

これ以前,「悲哀 とメランコリー」(1917)で,フロイ トは,愛情関係が自己愛的な基盤の

うえに築かれていたならば,実に容易に同一化へ と退行 しうると述べた。そして,肩代わ りの

罪悪感 という過程のなかで大々的に展開されているのは,そうした自己愛を基盤とする愛情関

係であると述べている。

訳 註

訳註 1:ここでフェルナンドが念頭に置いているのは,「悲哀とメランコリー」(1917)でフロイト

が述べた,以下のような議論であろう。

「メランコリー患者のさまざまな自責の訴えを根気よくきいていると,しまいには,この訴えのう

ちでいちばん強いものは,自分自身にあてはまるのは少なく,患者が愛しているか,かつて愛 した

か,あるいは愛さねばならぬ他の人に,わずかの修正を加えれば,あてはまるものであるという印象

をうけないではいられない。 - このように,自己非難とは愛する対象に向けられた非難が方向を

変えて自分自身の自我に反転したものだと見れば,病像を理解する鍵を手に入れたことになる」(邦訳

p141『フロイト著作集6』人文書院)。

こうした経緯をフロイトは 「自己愛的同一視」という用語で説明しようとする。つまり,愛情対象

との対象関係が軽侮や失望によって動揺すると,自我は対象喪失の不快感を防衛しようと放棄した対

象と自我を同一視するOこのように対象と自我の一部が同一視されるために,対象へ向けた攻撃性が

自分自身へと向けられる。つまり,「患者は自己処罰という回り道をとおって,もとの対象に復讐する

ことができる」(同書 p143)。

訳註2:「攻撃者との同一化」が超自我発達の初歩的な段階を示すとして,アンナ ・フロイト(1936/

1966)は,以下のように述べている。

Page 24: 肩代わりの罪悪感:フェルナンド, · 肩代わりの罪悪感:フェルナンド,∫.(200) 27 悪に関わるものでないからだ」(ibid.p92強調引用者)。 抑うつ態勢においては「償い」という心性が重要であるが,自らの破壊性が引き起こした結

48 天 理 大 学 学 報

・ (子どもが)自分たちを罰する目上の人の威嚇と自己を同一化する時,彼らは,超自

我の形成に向かって,大事な一歩を踏みだすことになる。つまり,彼 らの行動を批判する他

人の考えを内在化するのである。子どもはこの内在化の過程を反復 し,彼のしつけに責任を

負う人びとの性質を取 り入れ,性格や意見を自分のものとしてゆくことによって,絶えず超

自我形成のための材料を準備 しているわけである。だがこの時点では ・- 内在化された批

判が,すぐさま自己批判へと変化されることはない。 - 内在化された批判は,自分自身

に対する批判とならず,外界へと向けられてしまう。攻撃者との同一化は,新 しい防衛過程

によって,外界に対する積極的な攻撃に引き継がれる」(邦訳 p92f『アンナ ・フロイ ト著作

集 第 2巻 :自我と防衛機制』(岩崎学術出版社))。

そして,批判を内在化させる過程が完遂せず,超自我発達がこうした中途の段階にとどまっている

ひとも少なくないという。こうしたひとは,自己批判や罪の意識によって喚起される不安に耐えるこ

とができない。

く文 献)

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