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1 弘法大師山居詩研究 國立臺灣大學中文系教授 蕭麗華 中文摘要 山林作為隱逸空間,其實是從《楚辭.招隱士》、《莊子.刻意第十五》和《莊 子.天道第十三》就已經開始,但山居詩卻是僧人與道士隱居求道之下所展現的 特殊詩類。大部分六朝僧俗詩人的山居詩都是體現佛、道之求道思想的作品。自 從謝靈運完成〈山居賦〉之後,東漢以來由僧俗所開創的儒、道、釋三種「山居」 傳統,才得到三教合會式的呈現。 入唐以後,「山居詩」成為詩中一大類型,以「山中」、「山居」、「入山」 為題者,在《全唐詩》中就有 150 筆以上。本文綜合採集空海和尚詩歌作品共四 十八首,其中以「山居」為主調者,如〈遊山慕仙詩〉、〈入山興〉、〈山中有何樂〉、 〈徒懷玉〉等共八首,占其詩歌總數近五分之一,明顯可與六朝以來和初盛唐「山 居詩」相比照。 本文的考察發現,空海的山居詩在思想內涵上雖觸及三教合會,但實際上以 大日如來法身佛的法門一門深入,表現出以「山」為淨土,遠離俗世穢土的修行 方式。入山即入佛法身,這種密教的聖山觀念,與中國六朝到唐的僧俗的山居詩 迥異。 在詩歌意象上,空海山居詩呈現出以「雲」與「屋」的意象為象徵,這和中 國僧人山居詩的表現相同,但意象指涉的內涵則各有差異;在詩歌表現功能上, 空海和中國的山居詩同樣都有「自我抒情」與「問答應酬」兩種傾向,但中國的 山居詩人,酬答含蓄,言而不言,空海則大談佛理,法音宣流。

弘法大師山居詩研究 - 國立臺灣大學east-asia.blog.ntu.edu.tw/wp-content/uploads/sites/... · ている者は、《全唐詩》中には150筆以上あり、王績の〈山中敘志〉、王勃の

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    弘法大師山居詩研究

    國立臺灣大學中文系教授

    蕭麗華 中文摘要 山林作為隱逸空間,其實是從《楚辭.招隱士》、《莊子.刻意第十五》和《莊子.天道第十三》就已經開始,但山居詩卻是僧人與道士隱居求道之下所展現的

    特殊詩類。大部分六朝僧俗詩人的山居詩都是體現佛、道之求道思想的作品。自

    從謝靈運完成〈山居賦〉之後,東漢以來由僧俗所開創的儒、道、釋三種「山居」

    傳統,才得到三教合會式的呈現。 入唐以後,「山居詩」成為詩中一大類型,以「山中」、「山居」、「入山」為題者,在《全唐詩》中就有 150 筆以上。本文綜合採集空海和尚詩歌作品共四十八首,其中以「山居」為主調者,如〈遊山慕仙詩〉、〈入山興〉、〈山中有何樂〉、

    〈徒懷玉〉等共八首,占其詩歌總數近五分之一,明顯可與六朝以來和初盛唐「山

    居詩」相比照。 本文的考察發現,空海的山居詩在思想內涵上雖觸及三教合會,但實際上以大日如來法身佛的法門一門深入,表現出以「山」為淨土,遠離俗世穢土的修行

    方式。入山即入佛法身,這種密教的聖山觀念,與中國六朝到唐的僧俗的山居詩

    迥異。 在詩歌意象上,空海山居詩呈現出以「雲」與「屋」的意象為象徵,這和中國僧人山居詩的表現相同,但意象指涉的內涵則各有差異;在詩歌表現功能上,

    空海和中國的山居詩同樣都有「自我抒情」與「問答應酬」兩種傾向,但中國的

    山居詩人,酬答含蓄,言而不言,空海則大談佛理,法音宣流。

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    日文摘要 山林を隠逸空間とするのは、《楚辭.招隱士》、《莊子.刻意第十五》、《莊子.天道第十三》には既に始まっているが、山居詩は僧や道士の隠居求道を表

    現した特殊な詩類である。大部分の六朝僧俗詩人の山居詩が仏道の求道思想を

    体現した作品である。東漢以来、僧俗が創始した儒、道、釋の三種の「山居」

    の伝統から、ようやく三教合会式の呈現を得ることができたのである。

    唐に入って以後、「山居詩」は詩における一つの大きな類型となり、「山中」、「山居」、「入山」と題している者は、《全唐詩》中には 150筆以上あ

    り。この文章は空海和尚詩歌作品計四十八首がまとめて採られており、そのう

    ち「山居」を主なテーマにしているものは、〈遊山慕仙詩〉、〈入山興〉、〈山中

    有何樂〉、〈徒懷玉〉など、計八首であり、その詩歌総数の五分之一近くを占め、

    はっきりと六朝から初盛唐までの「山居詩」と対照することができる。

    本研究では、ことがわかった、空海の山居詩の思想の内包は三教合会に及

    ぶとはいっても、実際には大日如來法身仏法門の一門に深入することによって、

    「山」を淨土とし、俗世穢土から遠く離れる修行の方式を表現した。入山して

    すぐに入仏法身する、この種の密教の聖山観念と、中国六朝から唐までの僧俗

    の山居詩とは大いに異なる。

    詩歌のイメージにおいて、空海の山居詩は「雲」と「屋」のイメージを以

    て象徵とすることを呈現した。これと中国僧人の山居詩の表現は似ているが、

    イメージが指すものが内包するものにはそれぞれ違いがある。詩歌の表現の機

    能において、空海と中国の山居詩には同様に皆「自己の抒情」と「問答応酬」

    の二種の傾向があるが、中国の山居詩人が、酬答に含蓄を持たせ、言にして不

    言であるのに対し、空海は大いに仏理を語り、法音を宣流するである。

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    弘法大師山居詩研究

    台大中文系教授

    蕭麗華

    一、前言

    山林を隠逸空間とするのは、《楚辭.招隱士》、《莊子.刻意第十五》、《莊子.天道第十三》には既に始まっているが、山居詩は僧や道士の隠居求道を表

    現した特殊な詩類である。儒者が隠居する心情をとりあげないもの、例えば漢

    樂府〈陌上桑.《楚辭》鈔〉や〈梁甫吟〉などのような屈騷の伝統と失意在野

    の文士の歌以外は 1、大部分の六朝僧俗詩人の山居詩が仏道の求道思想を体現

    した作品である 2。たとえ陶淵明の「山澤居」3が儒士在野、文人隠居に属する

    としても、仙道仏理とは無関係である。しかしながら、謝靈運が〈山居賦〉を

    完成させた後、東漢以来、僧俗が創始した儒、道、釋の三種の「山居」の伝統

    から、ようやく三教合会式の呈現を得ることができたのである。

    謝靈運は〈山居賦〉で「山居良有異乎市廛。」「覽明達之撫運,乘機緘而理

    默。……仰前哲之遺訓,俯性情之所便。……謝平生於知遊,棲清曠於山川。(性

    情各有所便,山居是其宜也。《易》云:『向晦入宴息。』莊周云:『自事其心。』

    此二是其所處。)」「苦節之僧,明發懷抱,事紹人徒,心通世表。是游是憩,倚

    石構草。寒暑有移,至業莫矯。觀三世以其夢,撫六度以取道。乘恬知以寂泊,

    1 漢樂府〈陌上桑.《楚辭》鈔〉說:「今有人,山之阿,被服薜荔帶女蘿。既含睇,又宜笑,子戀慕予善窈窕。乘赤豹,從文狸,辛夷車駕結桂旗。被石蘭,帶杜衡,折芳拔荃遺所思。處幽室,

    終不見,天路險艱獨後來。表獨立,山之上,雲何容容而在下。杳冥冥,羌晝晦,東風飄遙神靈

    雨。風瑟瑟,木搜搜,思念公子徒以憂。」此詩代表漢代屈騷傳統之隱;〈梁甫吟〉說:「我所思

    兮在泰山。欲往從之梁甫艱。」代表失意文士之隱。晉代張華有〈招隱詩〉云:「隱士托山林。

    遁世以保真。」可見一斑。見逯欽立:《先秦漢魏南北朝詩》,(臺北:木鐸出版社,1983 年),

    頁 261、261、622。 2 例如漢樂府〈四皓〉云:「莫莫高山,深谷逶迤。曄曄紫芝,可以療饑。」〈吟歎曲.王子喬〉云:「王子喬,參駕白鹿雲中遨,參駕白鹿雲中遨。下游來,王子喬,參駕白鹿上至雲戲遊遨,

    上建逋陰廣裏踐近高。結仙宮過謁三台,東游四海五嶽山。」二詩代表漢初求仙、求長生的仙道

    之隱。逯欽立:《先秦漢魏南北朝詩》,(臺北:木鐸出版社,1983 年),頁 90、261。漢末從曹氏

    父子開始大量遊仙詩,都有仙山遠遊的遐想,如曹操〈秋胡行〉說:「我居昆侖山,所謂者真人。」、

    「願登泰華山,神人共遠遊。經歷昆侖山,到蓬萊。飄遙八極,與神人俱。」其他如曹植〈遠遊

    篇〉、〈仙人篇〉等。到了晉代郭璞的〈遊仙詩〉說:「青溪千餘仞,中有一道士。」、「綠蘿結高

    林,蒙籠蓋一山。中有冥寂士,靜嘯撫清弦。」都是仙道山居的表徵。見逯欽立:《先秦漢魏南

    北朝詩》,(臺北:木鐸出版社,1983 年),頁 350、434、865-866。釋氏山居則如釋支盾〈詠利

    城山居〉云:「五嶽盤神基,四瀆涌蕩津。」釋慧遠〈廬山東林雜詩〉云:「崇岩吐清氣,幽岫棲

    神跡。」竺法崇〈詠詩〉云:「山林之士,往而不反。」見逯欽立:《先秦漢魏南北朝詩》,(臺北:

    木鐸出版社,1983 年),頁 1083、1085、1090。 3 陶淵明〈和劉柴桑詩〉云:「山澤久見招。」〈始作鎮軍參軍經曲阿〉云:「心念山澤居。」見逯欽立:《先秦漢魏南北朝詩》,(臺北:木鐸出版社,1983 年),頁 977、982。

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    含和理之窈窕。」と考えている 4。謝靈運はこの詩の自註で《易》、《莊》を用い、

    また「苦節之僧」と言っている。ここから謝靈運が山居するのは、すなわち一

    介の儒者の明達撫運のためであり、反対に《易》、《莊》、仏理事心を以て、山

    居がもたらす寂泊窈窕を探し求めているのだということがわかる。《易》、《莊》、

    「仏」思想が心靈の玄遠を探し求めるというのは、後来の山居詩共有の思想を

    内包していると言うことができる。

    唐に入って以後、「山居詩」は詩における一つの大きな類型となり、宋代

    の姚鉉(967~1020)によって編纂された《唐文粹》卷十六下にはわざわざ「山

    居詩」の一類が取り入れられている 5。「山中」、「山居」、「入山」と題し

    ている者は、《全唐詩》中には 150筆以上あり、王績の〈山中敘志〉、王勃の

    〈山中〉、王維の〈李處士山居〉、杜光庭の詩〈山居三首〉や貫休の〈山居詩

    二十四首〉などが挙げられ、作品中に「山」の字があるものは更に数え切れな

    いほどある 6。

    日本の僧、空海(774-835)は奈良時代の末期寶龜五年(774)に、贊歧国

    多度郡(現在の香川県善通寺附近)に生れた。父親は佐伯直田公、母親は阿刀

    氏である。十五歲の時、空海は母方のおじである阿刀大足 7について漢詩文を

    学んだ。中国では武后が詩賦による官職への採用を始めてより、詩文を書くこ

    とに長じている者は皆人びとの尊敬を受けることができた。そして空海はちょ

    うど唐の貞元二十年(804)(日本の延暦二十三年)八月に遣唐使について唐に

    入って二年過し、期間中に中国福州—長安—越州など各地を訪問した 8。空海は

    入唐後まず長安の有名な西明寺で仏法を学んだ。彼が撰して書写した〈秘密曼

    陀羅經付法傳〉は彼が唐の貞元二十二年に長安の醴泉寺におり、般若三藏と牟

    尼室利三藏から仏法を学んでいたことを提示しているが、彼らは皆西域の高僧

    である。更に深く通暁した密法を探し求めるため、彼は西明寺の五六名の僧と

    ともに長安の青龍寺(屬佛教密宗)に向かい、惠果大師から密宗胎藏法と金剛

    界灌頂を受け、中国真言宗第八代宗主となり、同時に日本真言宗の創始者とな

    った 9。また並びに詩歌文学創作と理論の方面にて、《性靈集》と《文鏡秘府論》

    という重要な著作を著した。

    空海の漢詩はその詩文集《性靈集》に見えるが、他にも《經國集》に見え

    る《性靈集》未収の作品は、市河寬齋(1749-1820)によって編纂された《日

    4 謝靈運:〈山居賦〉,顧紹柏校注《謝靈運集校注》,(河南:中州古籍出版社,1987 年)頁 318-334。 5 欽定四庫全書《唐文粹》卷十六下「古調歌篇六」有「幽居」、「山居」兩類。(臺北市:臺灣商務印書館,1983 年)。 6 筆者根據「寒泉」網頁 http://210.69.170.100/s25/index.htm 中的《全唐詩》加以統計。詩中有山者,王維 161 筆、李白 402 筆、寒山 304 筆、皎然 255 筆、白居易 614 筆、貫休 235 筆、齊己 239

    筆,這些是唐詩中數量與內涵最有參考性者,特別是貫休有名的〈山居詩〉24 首並序,可為「山

    居詩」研究的重要參照。 7 阿刀大足是恒武天皇的皇子伊予親王的文學(講師),亦是當時著名的學者。 8 岸田知子:《空海と中国文化》(東京都:大修館書店,2003 年),頁 1-4。 9 李健超:〈空海、橘逸勢留學長安〉,《長安都市文化與朝鮮、日本》,(西安:三秦出版社,2006年),頁 144-156。

    http://210.69.170.100/s25/index.htm

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    本詩紀》五十卷に空海和尚詩歌作品計四十八首がまとめて採られており 10、そ

    のうち「山居」を主なテーマにしているものは、〈遊山慕仙詩〉、〈入山興〉、〈山

    中有何樂〉、〈徒懷玉〉など、計八首であり、その詩歌総数の五分之一近くを占

    め、はっきりと六朝から初盛唐までの「山居詩」11と対照することができる。

    これを以て空海と唐風詩歌との比較観察とすることは、むしろ日本の漢詩を研

    究する方式の一つであると言えるだろう。更に渡邊照宏によると、空海は二十

    四歲までの一介の優婆塞であった時期に、すでに「山嶽的修行者」であった 12。

    ここから山居での修行は空海の生命の重心であったことがわかる。故に山居詩

    が空海の漢詩を研究する上での着手点となることは、むしろ一つの重要な研究

    の核心であると言えるのである。同時に、このようなテーマは中国僧人の山居

    詩研究に一つの域外の参照点を探すこともできる。

    二、空海山居詩に現れる內包と形式

    空海が一生涯に入った山林には、優婆塞時代の吉野の金峰山、四国の石錘山 13、遣唐から帰国後の弘仁元年(810)に護國のため入山して修行した高雄

    山寺、弘仁七年(816)の敕賜の紀州高野山などがあり、最後は承和二年(835)

    高野山に入って終わっている 14。空海は大半の人生を山中で過したと言うこと

    もできる。彼の「山居詩」の主要な表現は〈南山中新羅道者見過〉や〈在唐觀

    昶和尚小山〉、〈秋山望雲以憶此心〉、〈遊山慕仙詩〉、〈贈良相公〉、〈入山興〉、

    〈山中有何樂〉、〈徒懷玉〉、〈納涼房望雲雷〉などの作品にあり、そのうちの前

    三首は《經國集》に見え、後五首は《性靈集》に見える。本文は《日本詩紀》

    がまとめて採っている《性靈集》と《經國集》の諸詩を照らし合わせている。

    《日本詩紀》所收の空海の詩は、皆空海が入唐してから帰国後までの創作であ

    り 15、我々はその特徴を帰納するために、首を追ってその内包と詩歌形式を分

    析することができる。

    〈在唐觀昶和尚小山〉の詩に云う:

    10 興膳宏:〈平安朝漢詩人與唐詩〉,見葉國良、陳明姿編:《日本漢學研究續探:文學篇》(臺北:台大出版中心,2005 年),頁 20。 11 空海延曆 12 年(西元 793 年)20 歲入吉野金峰山、四國石錘山和高野山等山中修行,延曆23 年(西元 804 年)31 歲入唐,大同 1 年(806),33 歲歸國,承和2年(835)62 歲的 3 月 21日在高野山入滅。一生在山中至少 30 年,入唐時間只有兩年,值初盛唐之間,所受唐風影響應該是六朝到初盛唐期間。有關空海生平可參考渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》

    「性靈集作品略年譜」,(東京:岩波書店,1986),頁 589-594。 12 「大學中退後、二十四まで一介の優婆塞、山岳修行者として四国、近畿一円の山岳聖地をめる。」渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 15。 13 見川口久雄:〈空海と大唐世界〉,《平安朝漢文学の開花-詩人空海と道真》,(東京都:吉川弘文館,平成三年[1991]),頁 62-63。 14 渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 15-17。 15 有關空海詩歌繫年,可參考渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 45-53、589-594。

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    看竹看花本國春,人聲鳥弄漢家新。見君庭際小山色,還識君情不染塵。16

    この詩は推測するに空海が延暦 23年(西元 804年)31歳で入唐し、大同 1年

    (806)、33歳で帰国する以前の作品であると思われる。詩中の山はただの小

    山であるが、空海和尚は、たとえ小山でも塵俗に染まらない情を顕すと考えて

    おり、ここに彼の「山」に対する意識中に遠離塵俗の概念があるのをみること

    ができる。〈南山中新羅道者見過〉の詩に云う:

    吾住此山不記春,空觀雲日不見人。新羅道者幽尋意,持錫飛來恰如神。17

    この詩は山居觀空を務めとしており、ここに求道者の本分をみることができる。

    渡邊照宏の「性靈集作品略年譜」の編年によれば、本詩は弘仁 9年、45歲で

    高野山にいたころの作である 18。全詩の末二句と詩題がそれぞれ対応していて、

    酬贈の意が込められている。

    以上の二首は七言絶句としては、平仄に舛錯があるかもしれないが、全体

    をみると律化漢詩の体に属するのは、明らかに唐詩の影響である。〈納涼房望

    雲雷〉は五言律詩であり、偸春格や疊字對などの対仗方式をよく用いている:

    雲蒸溪似淺,雷渡空如地。颯颯風滿房,祁祁雨伴颲。

    天光暗無色,樓月代難至。魑魅媚殺人,夜深不能寐。

    この詩は高雄山時代の空海の作であり、高雄山は現在の京都市右京区にある 19。

    推測するにこの詩は弘仁元年(810)から弘仁六年(815)までの高雄山に入っ

    た頃に書かれたものであろう。純粋に山居觀景を表現した作であり、山中の不

    安定な風雨気象を描いている 20。〈秋山望雲以憶此心〉は則ち七律であり、対

    仗の変化は多元的で、双擬対、数字対、当句対などがあり、ここに唐詩から学

    んだ痕跡をみることができる。詩に云う:

    白雲輕重起山谷,蒼嶺高低本入室。或灑或飛南北雨,乍飄乍散東西風。

    16 見市河寬齋編:《日本詩紀》卷十二,收於富士川英郎編:《日本漢詩》,(東京都:汲古書院,昭和 58 年),頁 113。 17 見市河寬齋編:《日本詩紀》卷十二,收於富士川英郎編:《日本漢詩》,(東京都:汲古書院,昭和 58 年),頁 113。 18 渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》「性靈集作品略年譜」,(東京:岩波書店,1986),頁 592。 19 詩作與高雄山等說明見渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 159-164。 20 日本學者岸田知子已經注意到空海的「山居詩」,但她提到的詩作只有三首,而且認為空海寫的是山中生活的艱苦與嚴酷,展現空海的修行信心。岸田知子:《空海と中国文化》(東京都:大

    修館書店,2003 年),頁 124-129。

  • 7

    唯有一廬湛不變,千年萬歲顏色同。欲言□□傍煙色,天水合暉秋月通。21

    白雲は山中より起き、嶺色の蒼翠は室に入っている。この風雨の中の湛然不変

    の一廬はまさにこの心であり、心が太虚を内包するため、天水と合暉し、秋月

    と通明するのである。これは純粋に道を悟る者の言である。

    以上の《經國集》中の三首のうち、二首は編年することができるが、一首

    はいつの作かわからない。〈納涼房望雲雷〉は《性靈集》に見えるが、推測す

    るにはやや時間がかかる。以下のその他の作品は皆《性靈集》に見えるが、全

    ていつの作なのかはわからない。しかし《性靈集》のほとんどの作品が皆帰国

    以後の作であるは確定できる 22。《性靈集》卷一開卷の作である〈遊山慕仙詩〉

    の詩に云う:

    高山風易起,深海水難量。空際無人察,法身獨能詳。……

    華容偷年賊,鶴發不禎祥。古人今不見,今人那得長。

    避熱風岩上,逐涼瀑飛漿。狂歌薜蘿服,吟醉松石房。

    渴湌澗中水,飽吃煙霞糧。白朮調心胃,黃精填骨肪。

    錦霞爛山幄,雲幕滿天帳。子晉淩漢舉,伯夷絕周梁。……

    眷屬猶如雨,遮那坐中央。遮那阿誰號,本是我心王。

    三密遍剎土,虛空嚴道場。山毫點溟墨。乾坤經籍箱。……23

    これは一首が 54句の長きにまで達する五言古詩で、日本の渡邊照宏、宮阪宥

    勝の校注によると、この「高山」は本覺の立場からの、諸仏の比喩であり、「風」

    は三毒五欲の煩惱を指し、「法身」は大日如來を指す 24。ここからこれは入山

    して修行することをうたった作だとわかる。作者は山中で密教大日如來の智慧

    を仔細に観察し、肉体生命は有限であり、たとえ修練を積んで仙になることが

    できたとしても、「華容…」「鶴發…」とあるように、長生不死を得ることはで

    きないと知る。詩中には道教、仙術、方術(例えば「煙霞」、「白朮」、「黄精」

    など)が出てくる。仙道を以て眷屬とし、毘盧遮那仏を以て心王とし、身、口、

    意の三密中にあまねく満ちる刹土において、道場を荘厳している。全詩は《老

    子》や《莊子》、《神仙傳》、史傳典故、《坐禪三昧經》、密教經典などの文句に

    出現し、三教融合して以て密教に參修する山居生活を意味している。

    これ以外のその他の四首は皆「山居」を以て良岑安世(よしみねのやすよ)

    との酬酢を内包している。〈贈良相公〉の詩に云う:

    21 此詩首聯入句一般作「蒼嶺高低本入室」,筆者認為這是一首偷春格的七律,推測空海原作應是「蒼嶺高低來入室」,後人因書法辨認造成訛誤。見市河寬齋編:《日本詩紀》卷十二,收於富

    士川英郎編:《日本漢詩》,(東京都:汲古書院,昭和 58 年),頁 116。 22 23見渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 159-164。 24 參考渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》卷頭注 22、23、27,(東京:岩波書店,1986),頁 159。

  • 8

    孤雲無定處,本自愛高峯。不知人裏日,觀月臥青松。忽然開玉振,甯異

    對顏容。宿霧隨吟斂,蘭情逐詠濃。傳燈君雅致,餘誓濟愚庸。機水多塵

    濁,金波不易從。飛雷猶未動,蟄跂匪閉封。卷舒非一己,行藏任六龍。25

    渡邊照宏、宮阪宥勝の校注によれば、この詩の「孤雲」は空海の自喩であり、

    空海自身である雲が山を愛し、誓いを立てて「傳燈…」「濟愚…」を務めとす

    るところにも、梵行をみることができる。しかし詩題と詩中にある「忽然開玉

    振」などの言葉や、詩〈序〉に云う「良相公投我桃李,餘報以五言詩一章。」

    からこの詩は良岑安世へ贈られた作でもあるとわかる 26。〈入山興〉の詩に云

    う:

    問師何意入深寒?深嶽崎嶇太不安。上也苦,下時難,山神木魅是為癉。

    君不見、君不見:京城御苑桃李紅,灼灼芬芬顏色同。一開雨,一散風,

    飄上飄下落園中。春女群來一手折,春鶯翔集啄飛空。

    君不見、君不見:王城城裏神泉水,一沸一流速相似。前沸後流幾許千,

    流之流之入深淵。入深淵,轉轉去,何日何時更竭矣。

    君不見、君不見:九州八島無量人,自古今來無常身。堯舜禹湯與桀紂,

    八元十亂將五臣;西嬙嫫母支離體,誰能保得萬年春?貴人賤人惚死去,

    死去死去作灰塵,歌堂舞閣野狐裏,如夢如泡電影賓。

    君知不,君知不:人如此,汝何長?朝夕思思堪斷腸。汝日西山半死士,

    汝年過半若屍起。住也住也一無益,行矣行矣不須止。去來去來大空師,

    莫住莫住乳海子。南山松石看不厭,南嶽清流憐不已。莫慢浮華名利毒,

    莫燒三界火宅裏,抖擻早入法身裏!

    この詩中の「癉」は、日本語の注をつければ「いへ」であり、家屋があるとい

    う意味である。詩中では良相公(良岑安世)から空海への、なぜ寒山の中に暮

    らすのかという問いで始まり、空海は山神木魅を以て高所に築いた家とし、山

    居を代表させる。山居からは京城御苑の花開き花落ちる無常を観察することが

    でき、王城神泉の千流入淵の変化をみることができ、九州八島の無量の生命の

    夢のごとく泡のごとき有様を悟ることができ、浮華名利の毒、三界火宅の苦を

    理解することができる。詩中の「南山」、「南嶽」は皆高野山を指す 27。全体

    からいえば、これも一つの良岑安世との贈答詩である。〈山中有何樂〉の詩に

    25 渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 171。 26 參考渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》卷頭注 19、23、33、35,(東京:岩波書店,1986),頁 170-171。 27 引詩與批註都見於渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 172-173。

  • 9

    云う:

    山中有何樂,遂爾永忘歸。一秘典百納衣,雨濕雲沾與塵飛。徒饑徒死有

    何益,何師此事以為非。君不見、君不聽:摩竭鷲豐釋迦居,支那台嶽曼

    殊廬。我名息惡修善人,法界為家報恩賓。天子剃頭獻佛馱,耶娘割愛奉

    能仁。無家無國離鄉屬,非子非臣孑安貧。澗水一抔朝支命,山霞一咽夕

    穀神。懸蘿細草堪覆體,荊葉杉皮是我茵。……曉月朝風洗情塵,一身三

    密過塵滴。奉獻十方法界身。……大虛寥廓圓光遍。寂寞無為樂以不。

    この詩も良岑安世との問答であり、この山は高野山である 28。インドの摩竭山、

    靈鷲山は釋迦の居るところであり、高野山は空海の居るところであり、空海は

    この山居で、息惡修善人を名乗り、山居はまさに法界を家とし、「曉月朝風」

    を用いて「情塵」を洗い去り、身、口、意の三密の修行を完成させ、十方法界

    に献上し、虛空の大円鏡智を成就させた。川口久雄はこの詩は空海が「大日如

    來の自己存在」を体現するために書いたと考えている。言い換えれば、空海の

    この詩の自己は宇宙の万象の中に存在している 29。

    〈徒懷玉〉の詩に云う:

    問師懷玉不肯開,獨往深山取人咍。君不聽、君不聽:調御髻珠秘靈台,

    宜尼良玉稱沽哉。方圓人法不如默,說聽瑠璃情幾抬。古人學道不謀利,

    今人讀但名財。輪王妙藥鄙為毒,法帝醍醐謗作災。夏月涼風,冬天淵風。

    一種之氣,嗔喜不同。蘭肴美膳味旡變,病口饑舌甜苦別。西施美咲人愛

    死,魚烏驚絕都不悅。同與不同,時與不時。升沈贊毀默語君知之知之。

    知之名知音知音知音蘭契深。

    日本の渡邊照宏の解釈によると、この詩中の「玉」は真言宗の秘密の教えを指

    し、向かった深山もまた高野山であり、この中の「君」もまた良岑安世を指す 30。

    高野山は京都の南方にある。空海は真言宗密法の玉を懐いて、孔子の待價而沽

    とは違い、世に入りてすすんで名利を求めた。そして默法を以て凡情を制御し、

    28 引詩與批註都見於渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 174-176。 29 川口久雄說:空海の雑言詩は「山中に何の楽しびがある」という詩題で、世俗の人が山中禪居の空海の問いかけるのに答えるかたち。……自照の山居詩だ。それは中國六朝以來の世俗

    文學の系列に屬しよう。しかし同時に神仙の窟房をめぐる高野の山の空も雲も、山中の鳥やけ

    ものたちもすべてがかれのために給仕してくれる存在だという認識に貫かれる。家もなく國も

    ない。彼をめぐる森羅萬象、彼をめぐる宇宙空間、それらはすべて大日如來を體現する彼自身

    のためにある。いいかえばその宇宙空間、森羅万象の中央に彼が存在する。見氏著:《平安朝

    の漢文學》,(東京都:吉川弘文館,昭和 56 年 11 月)頁 21。 30 引詩與批註都見於渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 176-177。

  • 10

    升沈贊毀の心を取り除いた山居に去り、出世して秘密の靈台を追い求めた。

    空海の〈辭少僧都表〉にある「空海從弱冠及知命,山藪為宅,禪默為心。」31

    から空海は生涯山林を以て志としていたことがわかる。以上の七首の詩の内包

    からいえば、空海の「山居」の意識には遠離塵俗があり、仏法修行、特に真言

    宗密法を以て、大日如來毘盧遮那仏の法身を成就させることを境界としていた。

    「山」は彼の「家屋」、「心宅」、「一廬」であり、これはあまねく満ちる刹土の

    荘厳なる道場である。

    〈遊山慕仙詩〉の一詩には三教を融合して密教に參修するという特色があ

    り、明らかに中国六朝の格義仏教の影響がある。その他は則ち空海自身が高野

    山に隠居して修行し続けたことを明らかにしており、その法門の独特性を内包

    している。空海は密教を以て金剛灌頂一門に深入したほか、三教合会の僧であ

    ったことは、《三教指歸》の一書の書名並びにその序に知ることができる。彼

    は《三教指歸.序》で「聖者驅人,教網三種,所謂釋、李、孔也。雖淺深有隔,

    並皆聖説。若入一羅,何乖忠孝。」32と言っており、ここから彼が儒、道、釋

    を理一分殊の異なる段階としてみなしていたことがわかる。

    三、空海「山居詩」と唐風伝統との比較

    《性靈集》の全名は《遍照發揮性靈集》であり、「遍照」は毘盧遮那

    (Vairocana)大日如來の意を取っており、「發揮」は《易.文言傳》の「六爻

    發揮」から取っており、「性靈」は《顏氏家訓.文章篇》が云うところの「原

    其所積文章,標舉興會,引發性靈。」から取っており、ここから本書には即ち

    釋道、易学、儒家の文章の經國の意が内包されているとわかる 33。このような

    三教合会の山居文学は、基本的には中国六朝以來の、謝靈運〈山居賦〉の意が

    内包しているようなものと一致している。しかしながら、空海は密教金剛灌頂

    の法門を以て、一門に深入し、「法身」仏、「毘盧遮那仏」(大日如來)の智慧

    を探し求めた。入山し、法身に入ることによって、塵世穢土から遠く離れる方

    式、は中国大乘仏教思想の本色ではない。詩歌の運用の方面では、空海は山居

    詩の問答酬酢を以て、中国山居言志の詩歌の特質とも大きく異なる。本節では

    「思想の内包とイメージ」と「詩歌の機能と応用」の両方から空海の「山居詩」

    と唐風伝統との違いを比較したい。

    (一)思想の内包とイメージ

    前にも述べたが、現存する空海の詩作品のほとんどは基本的に遣唐の時期と帰国以後の作品であり、「山居詩」はとりわけそうである。ここから多くの

    31 『聾瞽指帰』によれば吉野の金峰山や四国の石鎚山などで修行したことが伺える。また後年、「小僧都を辞する表」(天長元年)において「弱冠(20 歳)より知命(50 歳)に及ぶまで山藪を宅とし禅黙を心とす」と述べていることからも、若い頃から一貫して山林を志向していたことが

    わかる。渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 249-251。 32 渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 85。 33 參考渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 36。

  • 11

    唐風を模倣した痕跡があるであろうことが推測できる。日本の学者、田云明は

    以下のように考察する:

    日本上代の文人に愛読された『文選』、『芸文類聚』「隠逸」を繙くと、

    「京華遊俠窟,山林隱遯棲」(『文選』「遊仙詩七首」第一首、郭景純)、

    「隠士托山林,遁世以保真」(晋張華招隠詩、『芸文類聚』「隠逸」)

    など、山林隠逸の詩句が散見する。ここで注目されるのが、「山林」と

    いう言葉が常に「京華」「世」といった「世俗」を表す語と対照させて

    詠み込まれていることである。

    自然そのままで客観的に存在する「山林」を「世俗」と対照的に捉える

    ことによって、「山林」が文学空間として再構築されるのである。この

    「世俗」と「山林」との止揚が、中国山林隠逸詩の表現特色と言えよう。34

    ここから日本の上代の文人は受《文選》、《藝文類聚》などの詩文総集の影響を

    受けていること、また「山林」と「京華」の相反する対照的な観念があること

    がわかる。「自然」は客観的存在であるだけではなく、また文人によってとら

    えられた「世俗」と対照をなす文学空間なのである。我々は、空海に《文選》、

    《藝文類聚》などのような文人入山の伝統に倣う部分があると推測できる。し

    かしながら空海の〈遊山慕仙詩.並序〉に云う:

    昔。何生郭氏。賦志遊仙。格律高奇。藻鳳宏逸。然而。空談牛躅。未說

    大方。餘披閱之次見斯篇章吟詠再三。惜義理之未盡。遂乃。抽筆染素指

    大仙之窟房。兼。悲煩擾於俗塵。比無常於景物。35

    ここから、空海はこの〈遊山慕仙詩〉を書くにあたり、確実に《文選》卷二十

    一の何劭、郭璞の「遊仙詩」の影響を受けているとわかる 36。しかし彼は「何

    生郭氏……惜義理之未盡」と考えており、これは空海が彼の〈遊山慕仙詩〉に

    は何劭、郭璞より一層の思想の内包があることを自認していることを示してい

    る。我々がもし何劭と郭璞の「遊仙詩」を対照するならば 37、そこに二人の重

    34 田云明:〈『懐風藻』山林隠逸詩から『古今集』「山里」歌へ〉,《言葉と文化》第 12 號,

    2011 年,頁 83-100。 35 渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 159。 36 此詩根據渡邊照宏注 5 的解說,認為與《文選》卷二十一何劭、郭璞「遊仙詩」有關。見渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 158。 37 《昭明文選》有遊仙詩,搜晉何劭一首,郭璞七首。何劭〈遊仙詩〉詩云:「青青陵上松。亭亭高山柏。光色冬夏茂。根柢無雕落。起士懷真心。悟物思遠托。揚志玄雲際。流目矚岩石。羨昔王子喬。友道發伊洛。迢遞陵峻嶽。連翩禦飛鶴。抗跡遺萬裏。豈戀生民樂。長懷慕仙類。眇然心綿邈。」郭璞〈遊仙詩〉凡十九首,《昭明文選》收錄七首,其三詩云:「翡翠戲蘭苕,容色更相鮮。綠蘿結高林,蒙籠蓋一山。中有冥寂士,靜嘯撫清弦。放情淩霄外,嚼蕊挹飛泉。赤松臨上游,駕鴻乘紫煙。左挹浮丘袖,右拍洪崖肩。借問蜉蝣輩,寧知龜鶴年。」可見六朝遊仙之作都受到道教求仙風氣的影響。李善注雲:「凡遊仙之篇,皆所以滓穢塵網,錙銖纓紱,飡霞倒景,餌玉玄都,文多自敍,雖志狹中區,而辭無俗累。」見《昭明文選》卷五,(臺北:學海出

  • 12

    点が道教求仙にあることがわかり、それもまさに《説文解字》が言うところの

    「屳,人在山上貌,從人山。」38であり、《抱朴子》の所謂「入深山之中」、「餐

    朝霞以沆瀣,吸玄黄之醇精。飲則玉醴金漿,食則翠芝朱英,居則瑤堂瑰室,行

    則逍遙太清。」39の入山修煉である。空海は則ち「渇湌澗中水,飽吃煙霞糧。

    白朮調心胃,黄精填骨肪。」の道教修練を描いた後、毘盧遮那仏を心王とし、

    身、口、意の三密中にあまねく満ちる刹土において、道場を荘厳する大日如來

    の法門に回帰する。

    儒者が入山するのは隱遁して身を全真に保つためであり、道士が入山する

    のは仙になるためであり、空海が入山するのは仏門に入る「法身」の修行を実

    践するためである。空海の山居詩は「法身仏」40の実践方式であると言うこと

    ができる。〈遊山慕仙詩〉の詩は中国の仙術・道術を合会させ、また違った特

    徴を持たせている。それは〈序〉の中にある「大仙」の二字である。大仙とは

    仏であり、神仙思想の仙とは異なる 41。〈贈良相公〉や〈入山興〉、〈山中有何

    樂〉、〈徒懷玉〉などの四首と良岑安世との酬答対話の山居詩には、皆このよう

    な仏教思想の基底がある。これと六朝三教合会の山居詩、盛唐の王維(701-761)、

    李白(701-762)、寒山(約 691-793)、皎然(720-798?)、白居易(772-846)ら

    の山居詩とは皆異なる 42。王維は禅宗と華嚴思想を主とした山居である 43。李

    白が山を愛するのは、道教徒の求仙への渇望である 44。寒山と皎然は天台宗の

    僧であり、密教の法門にはまだ突出していない。白居易は則ち莊禪合一を進路

    とし、すでに南宗禅の思想に入り込んでいる 45。唐風山居詩との比較をしてみ

    ると、空海には三教合会或いは仏教思想を基底とした相似性があり、また日本

    の密教法門を創始した特殊性がある。川口久雄はこれは古代仏教山林修行が持

    版社,1977 年)頁 410-412。 38 中國仙道傳統的「仙」字原作「僊」,《說文解字》云:「僊,長生僊去」;《說文解字》又曰:「屳,人在山上貌,從人山。」所以《釋名.釋長幼》也說:「老而不死曰仙,仙,遷也,遷入

    山也,故其制字人旁作山也。」《說文解字》言:「真,僊人變形而登天也。」王雲五:《叢書集

    成簡編.釋名》卷三(台北:商務印書館,1966),頁 43。 39 葛洪著:〈對俗〉,《新譯抱朴子》,(台北:三民書局,2001),頁 75。 40法身佛(自性身;梵文:dharmakāya,藏文:chos sku),佛的三身之一。是將佛性人格化,象徵佛法絕對真理無所不在,無所不含。法身以其永恆、普遍、寂靜、圓滿而起著至真、至善、至

    美的救度眾生的作用,根據《密跡金剛力士經》,法身佛也指人先天所具有的佛性(又稱法性、

    法、如來藏、真心、本覺),是人能夠成佛的內在原因和根據。密宗視毗盧遮那佛即「大日如來」

    (摩訶毗盧遮那,梵文 Mahāvairocana)為理智不二的法身佛,為密宗尊奉的主尊之一。 41 田云明說:「それは仏教の立場に立つ空海が、仏教思想に基づく大仙界が神仙思想に基づく小仙界より優位であることを主張したいところに由来する。」〈『懐風藻』山林隠逸詩から『古今集』「山里」歌へ〉,《言葉と文化》第12號,2011年,頁90。 42 唐代僧俗詩人的山居詩作以上列諸家為多,空海(774-835)入唐正值白居易活躍於詩壇時期,因此以上列諸家為比較對象。 43 參考蕭麗華:〈試論王維宦隱與大乘般若空性的關係〉,《台大中文學報》第 6 期。1994 年 6 月。蕭麗華:〈禪與存有-王維輞川詩析論〉,收入《佛學與文學》,(臺北:法鼓文化出版社,1998年),頁 89-119。 44 蕭麗華:〈出山與入山:李白廬山詩的精神底蘊〉,《台大中文學報》第33期,頁185~223。 45 蕭麗華:〈白居易詩中莊禪合論之底蘊〉,《唐代詩歌與佛學》,(臺北:東大圖書公司,1997 年)。孫昌武:〈白居易與洪州禪〉,《詩與禪》,(臺北:東大圖書公司,1994 年版),頁 201-220。

  • 13

    つところの「虚空藏求聞持法」の実践であり、このような修行法は山中に長期

    にわたって滞在する必要があり、また「空閑靜處」や「淨室」、「塔廟」、「山頂」、

    「樹下」などの五条件を満たす場所が必要であり、修行者は上半月苦行し、下

    半月本寺歲で三藏經典を閲読すると考えている 46。

    詩歌のイメージの方面に至っては、空海は七首の山居詩中で「白雲」、「孤

    雲」のイメージを以て自らを歲え、山嶽修行者として、山を以て家屋、心宅、

    廬舍とするイメージを創造した。これは彼が自己と法界とを合一させる「法身」

    仏法門であり、「毘盧遮那仏」(大日如來)を追い求める目的である。彼は一種

    の「山」を以て淨土とし、俗世穢土から遠く離れる修行の方式を創造した。「こ

    の『入山』は『入法身』つまり仏門に入ることを意味している。」47これと中

    国の僧人山居とは大きく異なっている。

    中国の山僧はもちろん「白雲」と「家屋」のイメージを創り上げた。例え

    ば祁偉の〈從禪意的“雲”到禪意的“屋”——禪宗山居詩中兩個意象的分析〉は

    言う。「白雲與茅屋是禪宗山居詩中最具典型性的意象。……白雲深鎖茅屋所形

    成的封閉自足的世界,茅屋成為能含容大千世界的心性的象徵。」48しかしなが

    ら中国仏教の中の白雲のイメージは変動的な心念の象徵であり、禅者が入山し、

    求めるのは禅が定める清淨の心であり、法身如來があまねく法界の法門とは自

    ら異なる。更に簡単に言えば、これは禅法と密教との違いである。

    (二)詩歌の機能と形式について

    中国における詩歌伝統の中で、「詩以言志」は《詩經》以來の詩用の伝統である。学者は六朝時期の詩歌は「個人の抒情」と「個体意識の詩用」であり、

    唐以後「集体意識の詩用」に戻ったと考えている 49。もし屈騷、六朝〈遊仙詩〉

    と謝靈運〈山居賦〉が皆「個人の抒情」と「個体意識の詩用」と言うならば、

    つまり空海の〈納涼房望雲雷〉や〈秋山望雲以憶此心〉、〈遊山慕仙詩〉の三詩

    は或いはこのような機能の作品であったのかもしれない。しかし、〈南山中新

    羅道者見過〉と〈在唐觀昶和尚小山〉の詩題に見える「新羅道者」と「昶和尚」、

    詩中に発生するひそやかな対話は、もはや純粋な抒情詩ではない。〈贈良相公〉

    や、〈入山興〉、〈山中有何樂〉、〈徒懷玉〉の四首は完全に酬答対話の作であり、

    これらもまた純粋な抒情詩ではない。ここから空海の山居詩は詩歌の機能にお

    46 川口久雄從蘭田香融氏的〈古代仏教における山林修行とその意義〉一文(『南都仏教』第四號、昭和三十二年)得到這個概念。見川口久雄:〈空海と大唐世界〉,《平安朝漢文学の開花-

    詩人空海と道真》,(東京都:吉川弘文館,平成三年[1991]),頁 62-63。 47 田云明:〈『懐風藻』山林隠逸詩から『古今集』「山里」歌へ〉一文認為:空海「山」詩で

    は、「世俗」が穢土視され、「山林」が浄土へ行くための修行の場と捉えられる。これはただ山林隠逸詩の表現借用にとどまらず、仏教思想を導入するために山林隠逸詩を再構築したのである。政治的日常からしばらく離れ、山水を楽しむ官僚貴族の「山」詩に比べて、山林修行の実践者である空海の仏教的無常観に基づいた「山」詩のほうが、より一層「山」への指向性が強いことはいうまでもない。《言葉と文化》第12號,2011年,頁83-100。 48 祁偉:〈從禪意的“雲”到禪意的“屋”——禪宗山居詩中兩個意象的分析〉,《文學遺產》2007 年第 3 期。 49 顏崑陽:〈論唐代「集體意識詩用」的社會文化行為現象 ——建構「中國詩用學」初論〉,《東華人文學報》第一期。1999 年 7 月,頁 43-68。

  • 14

    いて応酬の機能に向かう傾向があることがわかり、これは或いは六朝から初盛

    唐までの応制詩の影響かもしれない。

    中国の山居詩の中で、南朝.陶弘景の〈詔問山中何所有賦詩以答〉の詩に

    「山中何所有?嶺上多白雲。只可自怡悅,不堪持贈君。」とあり、50王維の〈寄

    諸弟妹〉の詩に「山中多法侶,禪誦自為群。城郭遙相望,唯應見白雲。」とあ

    り、51李白の〈山中問答〉の詩に「問余何意棲碧山,笑而不答心自閑。桃花流

    水窅然去,別有天地非人間。」とある 52。これらの作品には皆この種の問答の

    言い回しがあり、空海が山居詩で以て良岑安世と酬答していたことは特別な独

    創ではなく、詩歌機能の中にもともと備わった伝統であることは明らかである。

    しかし、陶弘景の「不堪持贈君」、李白の「笑而不答」は、皆言而無言、蘊藉

    含蓄であり、山居の悟りは自ら不言の中にある。空海の諸詩は多くの名相言教

    を提出しており、求道詩の含蓄不言とは大きく異なっている。

    興膳宏は空海の〈入山興〉の一詩の開頭と李白の〈山中問答〉が似ていて、

    〈入山興〉と〈山中有何樂〉の形式が歌行体であり、「君不見」を使用してい

    ること、三五七言の雜言語句を造成することは、空海が李白の影響を受けてい

    るという一、二の証拠であると考えている。〈入山興〉中に描かれた人生の無

    常や盛極と衰退、繁華が瞬く間に消え去るというのも、劉希夷の〈代悲白頭翁〉

    の影響である 53。また、川口久雄は空海の詩〈山中有何楽〉と、敦煌本「山僧

    歌」には似ている部分があると考えている 54。そして《懷風藻》時期で比べて

    みると、空海が活躍した弘仁朝の詩人はすでに比較的正確に律絶詩体を学んで

    おり 55、上節の空海の山居詩の体製形式からも彼の受けた唐風の影響の痕跡を

    みることができる。

    再び日本漢詩文の発生の背景から言えば、日本漢文学の第一のピークは大

    和、奈良朝から平安前期までである 56。この時期の詩歌の機能は皆応制に属す

    る作品であり、それらは日本で最も早い詩歌総集《懷風藻》や嵯峨天皇の敕命

    によって撰された《淩雲集》、《文華秀麗集》、淳和天皇の敕命によって撰され

    50 見逯欽立:《先秦漢魏南北朝詩》,(臺北:木鐸出版社,1983 年),頁 1813。 51 見《全唐詩》第 4 冊,128 卷,(北京:中華書局,2009 年),頁 1303。 52 見《全唐詩》第 5 冊,178 卷,(北京:中華書局,2009 年),頁 1813。 53 興膳宏:〈平安朝漢詩人與唐詩〉,見葉國良、陳明姿編:《日本漢學研究續探:文學篇》(臺北:台大出版中心,2005 年),頁 24-25。相同的論點重見於興膳宏:〈日本漢詩史における空海〉,《中國文學理論の開展》,(大阪市:清文堂,2008 年),頁 370-371。 54 川口久雄認為空海詩另一方面有山居冥想之作,如前頭所述之〈山中有何楽〉,和敦煌本「山僧歌」有相似之處,可見其南山禪居生活之體驗與靜謐自然之觀照。(空海詩のもう一面に山居冥

    想の作がある。たとえば前述の『山中有何楽』ときは、敦煌本「山僧歌」と似ているところがあるが、

    南山禪居の生活体験と靜謐な自然観照がみられる。)川口久雄:《平安朝の漢文學》,(東京都:吉川

    弘文館,昭和 56 年 11 月),頁 45。 55興膳宏:〈日本漢詩史における空海〉,《中國文學理論の開展》,(大阪市:清文堂,2008 年),頁 356。 56 川口久雄:《平安朝の漢文學》,(東京都:吉川弘文館,昭和 56 年 11 月),頁 5-6。

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    た《經國集》などの「敕撰三詩集」からもみることができる 57。空海の詩はち

    ょうどこの二天皇の時期のもので、学者は彼の最初の詩文は皆応制の作である

    と考えている 58。〈贈良相公〉や〈入山興〉、〈山中有何樂〉、〈徒懷玉〉の四首

    の詩中の「良相公」は良岑安世であり、彼は平安時代初期の貴族で、桓武天皇

    の皇子である 59。これと道教茅山宗の開創者、陶弘景が齊高帝の詔問に答えた

    〈詔問山中何所有賦詩以答〉、李白が朝中に仕える俗人に答えて作った〈山中

    問答〉の境地は似ている。山居の詩人が、山中で悟ったその境地を以て王侯貴

    族の問いに答えるというのは、詩歌の機能である酬答の応用ではあるけれども、

    しかしその中の自然観照と生命の悟りには、また凡俗からかけ離れた境界があ

    る。まとめて言えば、これは平安前期の漢詩文界が神仙玄学を思慕し、密教世

    界に傾倒しているということであり、特に宮廷と僧団の来往が甚だ密であるこ

    とや、梵門の風雅の現象が注目される 60。空海はその中でこの現象を具体的に

    呈現した僧なのである。

    四、結論

    六朝から初盛唐までの山居詩を辿って観察してみると、中国山居詩の源流に儒道釋の三種の思想の影響の痕跡を発見することができる。文人山居は、多

    くは「道不行」のためであり、山林に入り、老荘を以て自適した。道士山居は、

    則ち修練して仙になり、長生不死を得るためであった。僧人山居もまた修行の

    ためであったが、ただし六朝から唐に至り、三教合会と大乘仏教の環境の下で、

    山居する僧の多くは莊禅兼修と儒道釋融合の特質を呈現した。

    空海の山居詩の思想の内包は三教合会に及ぶとはいっても、実際には大日

    如來法身仏法門の一門に深入することによって、「山」を淨土とし、俗世穢土

    から遠く離れる修行の方式を表現した。入山してすぐに入仏法身する、この種

    の密教の聖山観念と、中国六朝から唐までの僧俗の山居詩とは大いに異なる。

    詩歌のイメージにおいて、空海の山居詩は「雲」と「屋」のイメージを以

    て象徵とすることを呈現した。これと中国僧人の山居詩の表現は似ているが、

    イメージが指すものが内包するものにはそれぞれ違いがある。詩歌の表現の機

    能において、空海と中国の山居詩には同様に皆「自己の抒情」と「問答応酬」

    の二種の傾向があるが、中国の山居詩人が、酬答に含蓄を持たせ、言にして不

    言であるのに対し、空海は大いに仏理を語り、法音を宣流するである。

    空海の山居詩には明らかに唐風の影響の痕跡があるのだけれども、六朝詩

    57續方惟精著、丁策譯《日本漢文學史》(臺北:正中書局,1969 年)。 58 後藤昭雄說:「最初の部分は詩文制作の契機についていう。……具体的には嵯峨天皇と淳和天皇のそれである。」後藤昭雄:〈『性霊集』-秀逸の漢詩文集〉,《国文學:解釋と鑑賞》第 66卷,第 5 號。 59 渡邊照宏、宮阪宥勝校注:《三教指歸、性靈集》,(東京:岩波書店,1986),頁 573。 60 川口久雄說:「平安前期の漢詩文の世界に神仙玄學への思慕と密教的世界への傾斜が指摘せられるが、なかんずく宮廷と僧団との交歓、梵門の風雅の現象が注目される。」《平安朝の漢文學》,(東京都:吉川弘文館,昭和 56 年 11 月)頁 43-45。

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    人の一様の三教合会のように、彼の〈遊山慕仙詩〉は何紹、郭璞の影響を受け

    ている。唐人から律、絶、歌行、五古の方式の表現を学び、彼の〈入山興〉の

    開頭と李白の〈山中問答〉、〈山中有何楽〉、敦煌本〈山僧歌〉は似ているが、

    空海がまだ出家していない、入唐する以前は山居で修行してさえいればよかっ

    たのに、入唐した二年の期間は、顯教禅法に満足せず、反対に密法を学んだ。

    こうして密教の考え方によって形成した独特の山居の内包は中国詩歌の山居

    詩の伝統とは全く異なっている。