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調(169)

資料紹介 『英名八犬士』(五) - Chiba Uopac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900056288/Jinbun39-07.pdf資料紹介 『英名八犬士』(五) ― 解題と翻刻 ― 木

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資料紹介『

英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

『南総里見八犬伝』の魯文による抄録本『英名八犬士』

を紹介してきたが、今回は大尾である八編を紹介する。

ダイジエスト

長編小説を抄録する才に闌けていた〈抄録家〉魯文が、

要領良く原本の行文を切貼りして作成していった方法につ

いては既に述べ来たったが、原本一〇六冊を手許に置いて

の作業であったことは疑う余地がない。その鈔録過程で書

写した筈であるから、用字の違い(誤字)や振仮名の省略、

仮名遣いの変更などを伴っている。その作業が如何にいい

加減であったかという事については、拙速を厭わずに注文

を次々こなしていた魯文の習作期(安政頃)の特徴である

かも知れない。

そもそも魯文が先鞭を付けた〈切附本〉自体が粗製濫造

され読み捨てられたジャンルではあったが、本書の諸本を

調べていくうちに、再三にわたって板木に手を入れて再刻

改竄再摺されていることが分かった。当初は錦絵風摺付表

紙を持つ切附本仕立の『英名八犬士』が初摺本だと考えて

いたが、実は短冊題簽を持つ袋入本『英名八犬士』が早く、

切附本(摺付表紙本)は袋入本の透写しを板下とする被彫

りに拠る再板本であることが分かった。その透写し時には

振仮名が省かれたり、板本の字が彫り毀されていたまま写

されていたり、挿絵の細部が変わっていたりと、決して注

意深く作業されたものとは思えない杜撰なものである。理

由は不明ながら、刊行後あまり時間の経たないうちに彫直

されているようである。が、全丁にわたって彫り直されて

いるわけではないので、その再刻箇所については今後精査

して報告する用意がある。

今回紹介する八編に関しても、前半部分は確実に被彫り

されている。さらに八編を改竄改題した袋入本『里見八犬

伝』では、他編と同様に序文や口絵を省いたのみならず、

本文冒頭一丁と二丁目の八文字を書き直し、原本の冒頭か

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ら五丁表の一行目の六文字迄を削除して強引に繋げてい

る。つまり、表丁の口絵を新刻しているのは他編と同様で

あるが、巻頭一丁目の板心が「一ノ三四」となっていて、

さとみはつけんでん

裏丁に「里見八犬伝八編

曲亭馬琴識﹇乾坤一艸亭﹈」と入

そのときちゆたい

せきせう

木した上で、冒頭部を「當下ヽ大ハ席上をつら��とうち

みめぐ

見巡らし……」と云う原本第三七回の文章を抄出して始め、

とみやま

しんへい

そのまま一丁半続けて五丁の一行目の冒頭「冨山にて親兵

ほとり

まい

衛ハ」までを書き換えて「義実の辺に参りぬかづきつゝ…

…」に繋げているのである。これはどう読んでみても文意

が繋がらない。

なお、この第八編は原本『南総里見八犬伝』の第九輯一

〇三回から第九輯第一八〇回までに相当する。ただし、

〈対管領戦〉や〈親兵衛の上洛〉に関して記事一切と〈回

外剰筆〉とが省かれている。

【書誌】

英名八犬士

八編

書型

中本一冊四十七丁

外題

「英名八犬士

第八大尾」

見返

なし

「安政三丙辰年暮秋

魯文敬白」(仁義禮智忠

信孝悌の文字がある数珠の意匠枠)

改印

﹇辰九﹈﹇改﹈〔安政三年九月〕

ゑいめいはつけんしたいはちしうけつきよく

内題

「英名八犬士第八輯結局\江戸

主人鈔録」

板心

「八犬士八編」

画工

記載なし

丁数

四十七丁

ゑいめいはつけんりやくし

尾題

「英名八犬畧志結局」

板元

記載なし

底本

服部仁氏所蔵本に拠った。

諸本

【初板袋入本】二松学舎・服部仁(六七欠)。

【改修錦絵表紙本】国文学研究資料館(ナ

―680

)・

館山市立博物館・林・高木(初二三六存)。初板に

対して改刻がなされている部分がある。

【改題改修袋入本】国学院・向井・山本和明・高

木(三〜八、七八、四)本は形態の類似から「日

本橋區\馬喰町二丁目\壹番地\文江堂\木村文

三郎」(高木本八巻末刊記)板と思われる。

更に後の改竄本として、見返に「佐々木廉助編輯\

里見八犬傳

八冊\東都書誌

淺草壽町

湊屋常

次郎板」とある国会図書館本(特

40

―597

)があり、

近代デジタルライブラリーで全丁公開されてい

る。外題は『里見八犬傳

壹(〜八)』、一巻の原

序と口絵を削って次の新序半丁を加える。

千葉大学人文研究

第三十九号

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さとみはつけんでん

じよ

里見八犬傳の序

ほうさう

たいしゆあはのかみよしさね

こく

ぬし

房総の大守安房守義実ハ、二ヶ國の主たりと

そのゐんえんつたな

かうほういまたつきす

云へども、其因縁拙くして、業報未不盡、

かあひじよふせひめ

がい

せう

きちく

ともなは

専愛女伏姫は人界に生を得ながら鬼畜に

おく

くわんをんげう

によぜちくせう

れ、冨山の奥に觀音經を力となし、如是畜生

ほつぼだいしん

これ

さとみ

はちゆう

さんらん

發菩提心、是ぞ里見の八勇士、みなに散乱の

ひら

いにしへきよくていおう

みやうさく

みな

根を開く、そハ故

曲亭翁の妙著にして、皆

よの

ところ

いま

たいくわん

はつさつ

つゞ

世人の知る所を、今や大巻を八冊に綴り、

よみやす

だいぜん

讀安からんを大全と爲るのみ。

(原文には句読点なく私意により補う)

さとみはつけかでん

内題に「里見八犬傳初編\佐々木廉助編輯」と入

木するも、二編以下は文江堂板と同じく

さとみはつけんでん

「里見八犬傳二(〜八)編\曲亭馬琴識」。八編

巻末の刊記は「明治十八年四月十一日御届\仝

十九年二月

日出版\編輯人

淺草壽町四拾三番

佐々木廉助\出版人

淺草壽町四十三番地

山本常次郎」とある。

【凡例】

一、基本的に底本の表記を忠実に翻刻した。濁点や振仮

名、仮名遣いをはじめとして、異体字等も可能な限り

原本通りとした。これは、原作との表記を比較する時

の便宜のためである。

一、本文中の「ハ」に片仮名としての意識は無かったもの

と思われるが、助詞に限り「ハ」と記されたものは、

そのまま「ハ」とした。

一、序文を除いて句読点は一切用いられていないが、句点

に限り私意により「。」を付した。

一、大きな段落の区切りとして用いられている「○」の前

で改行した。

一、丁移りは

」で示し、裏にのみ

」15のごとく数字で

丁付を示した。

一、明らかな衍字には〔

〕を付し、また脱字などを補正

した時は〔

〕で示した。

一、底本は服部仁氏所蔵本に拠った。

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『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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【序】

なにはづあさか

おさな

ふで

げんでん

くわひ

いちだいきしよ

難津浅香山の幼き筆もて。原傳一百八十回の。一大竒書

ちやうへん

せうくわんはづか

かきぬき

びしやく

なる長編を。小巻

僅八冊に。鈔録すなるハ。鉄漿柄杓に

とうめい

ひがた

きぬだちほうちやう

へいでん

東溟を干�となし。衣納裁刀に南山を平田に。なさまく

ほり

わざ

ひと

くだ

うかゞ

欲する業に等しく。管をもて天を伺ふのすさみにや有け

たゞくわんてう

もと

うしな

をもかげ

め。さりけれとも唯勧懲の基つ意を失はず。そが面影ハ

みるひとうま

やう

しくみ

くみ

おぼろげながら。看官倦ざることを要とし。脚色のから組

とき

ぐんりよとうそうこうせん

つまびらか

たるを觧ほどき。軍旅闘諍交戰を。細密にせざる巳而。

そも��さとみ

ほうゑい

ふさ

あんねい

とやま

たね

まき

里見十世の豊栄。總三州の安寧ハ。富山に種を蒔伏

ひめ

はつせい

はなさきみ

ぐそく

ゐせいのはらから

し。姫が芽ぐみの發生し。花咲実のる八犬具足。異胸因同

かえ

ぼたん

あざや

きゆ

きゝよく

じんきはつかう

根に帰る。牡丹の痣子も鮮かに。消る竒玉の仁義八行。

はつほうえいじ

しよてん

ちゆだいご

しんつうゆうせん

あとした

ゑのこら

八法永字の初點の。ヽ大悟を示す神通遊仙。其跡慕ふ狗児

こうなりなとげ

たいいんゆうせききよく

やまき

よみきり

かう

も。功成名遂て退隱幽栖局を結びし八巻の讀切。稿成名

うるゑせ

のり

やせいぬ

を賣僻作者。古人の糟粕を

まるのみ

に口を粘する門辺の痩犬。

かげ

かたち

ほへ

ごかうひやう

ふつ

ねぎまつ

影を形體と吠つゞく。御高評を尾を振て願奉るになん

安政三丙辰年暮秋﹇辰九﹈﹇改﹈鈍亭魯文敬白〔印〕〔印〕

【八編表紙】

【見返】

千葉大学人文研究

第三十九号

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【口絵第二図】2

【口絵第一図】1

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『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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さとみじつせうの

里見十將之圖

よしさね

第一世

里見治部大輔義実

あはのかみよしなり

第二世

里見安房守義成

よしみち

第三世

里見義通

かづさのすけさねたか

第四世

里見上總介実堯

よしとよ

第五世

里見義豊」

よしたか

第六世

里見義堯

さまのかみよしやす

第七世

里見左馬頭義康

よしより

第八世

里見義頼

よしひろ

第九世

里見義弘

あわのかみたゞよし

第十世

里見安房守忠義

武士の矢なみ

つくろふ小手の上に

霰たはしる

那須の

篠原

鎌倉右大臣」

【本文】

ゑいめいはつけんしたいはちしうけつきよく

英名八犬士第八輯結局

江戸

主人鈔録

ほど

さとみろうこうよしさねあそん

かのひきたもとふぢ

きやくあく

ことまこきみ

○さる

程に里見老候義実朝臣ハ彼蟇田素藤が逆悪の�孫君

よしみちてき

みかた

をもむき

義道敵の為にとりこにせられて躬方に利あらぬ趣

聞給ふ

かくむね

やす

たいさんじ

まう

ふせひめ

しんれい

物から左に右胸ハ安からてあすハ大山寺に詣で伏姫が神�

めうぢよ

いのら

よしなり

ぶうん

せうり

の冥助を祈ハ義成が武運芽出たく十全の勝利を得ぬる事も

しあん

まだき

ともびと

あらんと心ひとつに尋思し給ひ次の日の未明より伴當に

てるふみ

きんじゆ

よざう〔し〕きしもべ

いた

照文はしめ近習四五人のみこの餘雑色奴僕に至る四五十

ときうま

のりかの

ふもとぢ

人引倶しいとしのびやかに駿足にうち乗那冨山の麓路なる

まうで

ほんぞん

おが

ゐはい

しやうかう

大山寺に詣給ひ本尊を拝み奉り次に伏姫の位牌に焼香し

【本文冒頭】

千葉大学人文研究

第三十九号

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きねん

こら

こし

さんせん

て祈念を凝し給ふ事半�ばかり冨山の腰なる山河ハこの頃

にはか

かれ

われ

のぼり

たえ

俄に水涸たりと聞給ひ我ハ是より冨山に登て絶て久しき伏

なきつか

ほり

とも

おほせ

姫が墳墓を見まく欲すその心を得て」3伴せよと仰をみな��

さねあそん

承りてやかてかの山へぐしまゐらせけり。かくて義実朝臣

あかき

おもむ

かの

ハ馬の脚掻をはやめつ

やゝか

て冨山に赴きて那山河のほとり

あちこち

わた

ちつとも

に來つゝ那這と見亘し給ふに水ハ毫なかりけり。其時義実

おりたててるぶん

しもへ

とうみねもえそう

さくわん

馬より下立照文と奴隷らをこゝに畄め東峯萌三

こみなと

小松門

〔水〕

たこふねかい

きんしゆ

したか

ふみ

いく

蛸舩貝六三人の近習を従へみつから山踏し給ふこと幾町に

あとべ

はか

たむけ

か及ふ程に忽地後方を見かへりて姫が墓に水を手向る折

くみとる

とくはし

ばびしやく

たつさ

汲拿ものなし疾走りかへりて馬柄杓を携へ來つへしといそ

みち

かく

しう��

かし給へば今來し道へ走り去る。斯て義実主従三人リなほ

すみすて

いわむろ

やゝちかづ

ほど

も程ある伏姫の住捨られし出屈に稍近着かんとし給ふ程に

ひま

こかけ

つる

さつや

たつ

左右に間なき樹蔭より弦音高く射出す猟箭に先に立たる近

たかもゝひさ

さけ

たふ

習の二人リかたみに高股膝を射られて叫ひもあへす仆れけ

このま

あらは

くせもの

り。其時左右の樹間より顕れ出たる曲者四五人てに��

たけやり

われ��

せき

竹鎗打しこきやをれ義実」我們ハ昔年汝に亡されたる満呂

あんさいまたしんよ

うらみ

うけ

安西及神餘の為にけふこそかへす怨のほさき受ても見よや

のゝし

きそ

かゝ

けしき

と罵りて右左より競ひ蒐るを義実おめたる氣色もなくよら

つえ

すて

あだ

にらみ

バうたんと杖うち捨刀のこひ口くつろげつ冦を疾視て立給

かゝる

かた

かけ

こへ

ふ。浩処に傍へなる樹の蔭に又人ありて天地にひゞく聲

くせものら

しゆくゑん

ふり立やをれ曲者等無礼をすな里見殿に宿因ある八犬士の

ずいゝち

まさし

とゝま

よはゝ

はし

隨一たる犬江親兵衛仁こゝにあり住れやつと喚りて走り

〔お〕ほわらは

とも

あと

出來る大童あれハいかにと曲者等思はす倶に跡じさりして

すゝみえ

つゞ

てき

とく

たふ

左右なくハ進得ず。さりとて續く敵なけれバ疾打仆せと

たせい

たの

さやり

ひねり

動揺めきて多�を憑むつくり猛者鎗を拈てきそひかゝれど

ほう

はら

ふんゆうはやわざ

ども

へきゑき

親兵衛棒もて打拂ふ。向ふに前なき奮勇早業曲者毎ハ避易

なやま

ふし

てなむ

してうち悩されて伏たる中にいさゝか手並一人リの曲者こ

たけやりうち

まくゞ

にげうせ

たふ

れも竹鎗打おられ樹の間潜りて逃亡けり。親兵衛ハ倒れた

よたり

ふぢかづら

かたへ

る四名のやからを藤葛もてひし��といましめ傍の松につ

ちり

ほとり

まい

なぎ止め」4塵うちはらひ義実の辺に参りぬ。ぬかづき

まう

やつかれ

きこ

ばやしふさ

ひとりこ

つゝ稟すやう小可ハかねてより聞し召す山林房八が獨子

よば

いぬ

しん

まさし

きみ

やくなん

大八と呼れたる犬江親兵衛仁にて候也。君がけふの厄難

おんじん

おしへ

いさゝか

けんざん

を我恩神の教によりて聊

先途に達まゐらせ見参に入りま

これ

しんりよ

つゝが

つる事是又神慮によれるのみ。おん身に恙ましまさずいと

よろこば

たのも

よしさねきやうたん

しく候と世に憑しく見えにけり。其�義実驚嘆ありて

ぶゆう

たか

その武勇をかんじ給ひかゝる深山に誰はぐゝみて人となし

とは

やつがれわづか

あき

けん訝しさよと問れて親兵衛さん候小可纔に四ツなる�

わるもの

あやう

しんによ

悪漢に手ごめにせられて命危かりし折不思義に神女のま

ふせひめ

をきつち

いは

もりによりて此山につれさせ給ひ伏姫上の墳墓ある嵒

むろ

やと

しんれい

ころ

てならいどくしよきうばけんしゆつなに

宿としつ神霊に年来養はれ参り手習讀書弓馬釼術何くれ

おし

しゆれん

となく教へさせ給ひしかバ六年このかた手煉せしてなみな

ひめ

きにも候はす。斯て今朝しも姫神の示によりて仇をふせぎ

けんざん

けいくわいみなこれ

君に見参し奉り不思義の計會皆是神女のかごによれりと

をち

しんどうふたゝ

しゆつせ

やく

ろうかう

ゑつ

事遺もなく聞」【挿絵】〈神童再び出世して厄に老候に謁

(175)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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よし

おどろ

かん

よろこ

す〉」5」えあぐるにぞ義実しきりに駭き感じ事の歓び大か

しうねん

きんじゆ

しがい

たならす。又愀然と二人リの近習が死骸を見かへり給ふに

しん

こし

やくらう

ぬきすて

きつぐち

ぬり

ぞ親兵衛ハ腰につけたる薬籠の神丹を箭を抜捨て痍口へ塗

あま

そゝ

かいろくさくわん

又餘れるを口中へ沃き入るゝに死せりと見えたる貝六目

たちまちよみがへ

やかて忽地蘇生りていたみもあらずなりにけり。かくて親

かいろくさくわん

かのくせもの

がうもん

かしら

兵衛ハ貝六

等に命じて彼曲者等を拷問さするに頭立

まづちん

あんさいかけつら

また

あんさい

たる二人リの者先陳づるやう某ハ安西景連が再

おひ

にて安西

できすけかげつぐ

ひとり

出来介景次と呼なすもので候なり。と名告れバ又一個がい

それかし

まろ

のぶとき

うから

まろまた

しげとき

ふやう某ハ麿小五郎信�が同家にて麿復五郎重�と呼なす

もとふぢ

たてやま

者なり。年來素藤に扶持せられて舘山の城にありしが彼に

はくしやうまぎ

かたらはれて斯の如しと白状紛れなかりけり。其�樹か

しづか

げに人ありて徐に出て來にけるをみな��誰やと打見れハ

すなはち

さいぜん

にけだ

一人リの老翁也。�前槍を打折られて迯出す曲者きび

ひきたて

つゞ

ひとり

しくしばりて牽立來つ後」6方に續くハ一個の老媼也。斯

くせ

なは

さねぬし

まなさき

やつがれ

て老翁ハ曲者が索とりつめて義実主の目前へひきすえ小可

いぬやまとうせつ

さく

もと

おば

ハ犬山道節が父なる犬山道策か舊のけらい姥雪与四郎後に

よば

はべ

わか

神谷の

やす

平と喚れしものにて候。是に侍るハ拙妻にて音音め

と呼なしたる道節の

めのと母なりき。今より六年さきの秋荒芽

かくれが

ひつし

きは

ひく

山の隱家にてしか��の事により我々必死を究めつゝ曳手

ひとよ

ふたり

よめ

うじ

めうか

單節の両個の�を犬田主にたのみ置き家に火をかけ猛火の

ほど

けむり

うち

内におどり入らんとせし程に竒なるかな烟の中に一人リの

しゆつげん

すく

神女出現ありわれ��を救ひ給ふて此深山に來りしをり

千葉大学人文研究

第三十九号

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あり

すじやう

かたへ

犬江新兵衛此所に在てそが素性を打聞にき。さるほどに傍

つどひ

はじめ

を見れハ両個の�もつゝがなく又此深山に聚會たるその首

をはり

〔つゞま〕やか

はて

かん

もつとも

より尾まで筒約にまうすにぞ義実ぬしハ聞果て感心

いけとり

すさきむくざう

なみ

からず。彼生捕てつれ來しものハ洲嵜無垢三が外孫有磯波

をとこたて

もと

あそん

六といへる�客にてこれも素藤にそゝのかされて義実朝臣

うま

とば

せいやしんべゑたてやま

おもむ

を」【挿絵】〈馬を飛して星夜親兵衞舘山に赴く〉」7」討ま

ふせ

おきつち

まう

くせしなり。斯て義実主ハその日伏姫神の墳墓に詣で給ひ

ふもと

かう

すで

みな��を引倶して麓まで下向し給ひ既にして大山寺へつ

いけどり

もえ

ひか

かせ給ひ生捕五人ハ萌三に引しつゝ瀧田の城へぞ送られけ

しめ

きやく

る。されバ此夜ハ大山寺へ止宿を示され客殿に坐をしめ

ひとよ

よび

あとべ

て与四郎音音曳手單節等を召つとへ給ひける。おん後方に

ふみ

よしかい

さくわん

はべ

ハ照文景能貝六

等も侍りたり。其�親兵衛すゝみ出我

それがし

しばらくいとま

たま

たて

君願ふハ小可に権且暇を賜ひねかし。今より舘山へ赴き

ぞうし

て御曹司をすくひとり奉らんといふを義実見かへりてそハ

いた

せいきう

みち

ほど

又酷く性急なり。舘山までハ路の程十数里なるものを此夜

をか

おほ

しん

を犯してやられんや。あすハ瀧田へ領てかへり祖母妙真に

よう

くり

對面させんと思ふなり。はやるハ要なきわざにこそと繰か

とゞ

きか

じやう

へしつゝ制め給ふを新兵衛听ず又いふやう御諚でハ候へ

そく

たつと

きみつ

ども古語にも兵ハ神速を貴ぶとこそ聞えたれ。御方の機密

ひま

を敵に知らるゝ透これなしとすべからず。いかで��と

ひたすら

あつ

ざね

只管に忠義に厚き」8武勇

たましい

止るべくもあらざれバ義実

わづか

〔とゞめ〕

僅にうなづき給ひ和郎然までに思はゞ禁ハせねとその身

(177)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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ひとり

あやふ

びと

したが

かれら

すべ

かつちう

單ゆかんハ危し我伴黨を従はせん

。他們ハ都て甲冑の

ようい

いかゞ

とは

いな

准備なきを争何ハせん。と問れて親兵衛否伴黨の多きハ路

わつら

とう

にん

たり

次の煩ひあり。若黨一名と奴僕にて事足なん。願ふハ礼服

かし

とま

よし

一領を貸給ひねと申にぞ義実しからバとて苫屋景能を若黨

をば

とし姥雪与四郎を馬の口付と定め又照文を瀧田へ遣はし此

こと

赴を義成に通達せよ。と命ぜられしかバ倶に言

うけ

したりけ

さくわん

る。其�又義実主ハ貝六

目にいゝつけ給ひ差がえの刀

いしやう

衣裳ハさらなりみな親兵衛に給はりしかバやがて馬上に打

かい

しづ��

あゆま

たいまつゆん

またがり手綱掻くり徐々と歩せたるが与四郎

左手にと

りつゝくつわづらに従ふたり。其�親兵衛馬をとゞめて玄

くら

関にうちむかひ鞍の前輪に額づき俯すを義実観つゝ聲をか

あはれめで

なんぢ

けて遖愛たき勇士のありさま。我ハ明日より汝が吉左右

あけがた

とく

を瀧田の城に俟」つゝ在らん。暁天近し快ゆきね。と仰に

〔かいく〕

めぐ

新兵衛阿といらへて馬

拍れ乗遶らし見る間に出る山門に

をく

あとべ

つゞ

さげ

ちん

与四郎も又後れしと後方に續く景能照文。腰に提たる張燈

きら

ハ闇の蛍と晃めきてはやくも見えずなりにけり。

かくて

みち

○却説犬江新兵衛ハ照文と途を別ち景能与四郎を馬の左右

に従へて舘山の城にまたゝく間に走つけ一町ばかりこなた

おとなは

はゞか

より景能を走して喚門するに景能憚る氣色なく正門に

やうらう

すゝみて聲高やかに呼はる様篭城の人々にものいわん。只

まさし

むかへ

今國主のおん使犬江新兵衛仁來れり。城戸をひらきて迎

ふた

すゝめ

ずや。と再度三度おとのふ程に親兵衛も又馬を進て主僕三

ひら

おそ

ひと

人橋を渡しつ開くを遅しと待居たり。此�舘山の城兵等等

いぶか

まど

しく驚き且訝りのぞきの小窓よりかいま見るに思ふにも

あき

似ぬ主僕二人。あれハいかに。と呆れ惑ひつ。しか��と

もとふじ

つぐ

くはんじ

しば��

素藤に報るにぞ素藤完尓として屡うなづきそハ義成」9久

せめ

すべ

まゝ

しく攻あぐみせん術のなき随に義通とひき替に濱路姫を送

あく

かゞ

らんといふ和睦の使にこそあらめ。飽まで武威を赫やかし

きも

つぶ

てそやつに胆を潰させん。事の用意ハしか��にして

かやう��

はから

とゝの

しるべ

箇様に計ふべし。事整はゞ城内へ

そやつ奴を容れて案内をせ

とく��

うけたまは

よ我書院にて對

せん。

快せよ。といそがせバ承りぬと

いら

との

まか

応へつゝ走りて外

かた

へ退りけり。さる程に親兵衛ハ城の門

とゞ

しゆ

前に馬を駐めて主僕待こと半�ばかり。

やが

て城内よりくゞ

おしひら

り門を推開きいざおん使入り給へと大門をぞ開かせける。

をり

其�新兵衛ハ馬よりひらりと下立て門内にすゝみ入る程にのき

案内をしつゝ書院へと伴へバ景能と与四郎ハ倶に玄関の端

うしろ

きねん

場に居背後を目送りて心密に伏姫神の擁護を祈念したりけ

まう

る。却説犬江新兵衛ハ儲けの書院に赴きてと見れバ蟇田素

よしとも

藤はじめ左右の郎黨奥利本膳盛衡浅木

九郎嘉倶にいたる

かつちう

くつきやう

てやりなきなた

�共に甲冑をよろひ此餘究竟の力士四五十人短鎗薙刀」

たてやま

しろ

まさししふけう

ゐふく

さや

【挿絵】〈舘山の城に仁衆兇を威服す〉」10」の鞘をはづし

ぎやう

じりう

あまり

ぞうひやう

ゆみてつほう

て二行に侍立し一百有除の雜兵は弓鉄炮を手々に持て

まごびさし

そのときしん

孫廂の下に居ながれたり。其�親兵衛ゑしやくもなく床

よろひゞつ

しり

かけ

もとふぢぼつねん

の間なる鎧櫃を引出し尻うち掛て上坐に着しかバ素藤勃然

千葉大学人文研究

第三十九号

(178)

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あなむざん

せがれ

きやうたい

とく

と怒り噫無慙なる猴子が狂態。疾引おろさずや。と下知し

こゑもろとも

らうどうしそつ

どつ

きら

たる声共供に老黨士卒等咄とおめいてうち物を晃めかし

しん

うた

しん

つゝ新兵衛をおつとり込で撃んとす。�に竒なる哉親兵衛

ふところ

ひか

ものども

おもて

はた

うち

が懐より一道の光りさんらんして打向ふ兵毎の面を撲と撻

みな��すべ

もろこゑ

さけ

らうどう

しかバ大家都て射られ諸声高く苦と叫ぶ。老當力士も

おき

もとふじ

おどろ

とんぼかへ斗りてしばしハ起も得ざりけり。素藤も駭きながら突

ひきぬくた

ちかぜふたつ

うつ

しん

と身を起し引抜太刀風両段になれ。と丁と撃を親兵衛さわ

かへ

あふぎ

がず身を反して扇をもつて打落し組んとすゝむを引つけて

かたあし

しか

ふみふせ

ひるい

ゆうりき

おさ

めんしよく

片足に楚と踏伏たり。実に比類なき勇力に押れて面色土

こゑ

すく

さげ

の如くくるしき声をふりしぼりて者とも救へ。と叫ぶにぞ

ろうとうひそつ

こり

あんかん

やうやく我にかへりたる老當士卒も初に」11懲て安閑とし

しん

ぜん

とりなは

ひぢ

てながめてをり。新兵衛ハゆう然と力士が捨たる捕索の臂

もとふじ

きび

近にありけるをとるより早く素藤を緊しくしばりて動かせ

けうとう

ず。そがまゝ傍へに引つけて手下の兇黨等をゑらひなく

ひとじち

かうべ

たれこし

おそ

のりこら懲せバ保質とられて頭を低腰を屈ておのゝき怕れみな

かうさん

ほんぜんわん

降参をしたりける。されバ本膳碗九郎ハ走りて外面へ赴き

まづとま

かげよし

しん

おもむ〔き〕

らうじやう

つ。先苫屋景能に親兵衛が竒異武勇の事の赴き并に篭城の

しやうそつ

みなこうさん

つげし

しるべ

よしみちぎみ

ほとり

将卒が皆降参の義を報知らして案内して義通君の身邊へ

おんぞうじよしみちきみ

とうじやう

ぞ赴きける。爰に又里見御曹司義通君ハ久しく當城にとぢ

こめ

ぞくと

とまや

籠られ給ひしに此日思ひがけもなく賊徒本膳碗九郎が苫屋

かげよし

じやうへいすべ

かうさん

景能を倶して來つ城兵都て降参の事情を申ついそがはし

ひら

もうけ

しとね

こひのぼ

く囹圄を披き別間に出しまゐらせて儲の褥に請登すれバ景

(179)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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げんさん

しゆく

さていぬえしん

能やが

て見参して恙なかりしを祝し奉り扨犬江親兵衛が武勇

たいこう

すみやか

ほんぜんわん

大功の速なりし事の由告まうせバ本膳碗九郎等ハおさ��

いたは

なぐさ

勦り慰めけり。

たてやま

おんそうしよしみち

すく

まい

○かくて舘山の城内にハ」【挿絵】〈御曹司義通を救ひ参ら

しん

かげよしきぢん

うなが

よしみちきみ

きじん

よういとゝの

せて親兵衛景能帰陳を促す〉」12」義通君の御帰陣の用意

しん

だいい〔ち〕ばん

もとふじい

かうにんども

まづ

ひしかバ親兵衛下知して第一番に素藤以下の降人毎を先御

じん

ひく

しろ

ほくもん

よしみちきみ

のりものそひ

陣へ牽べしとて城の北門より出し遣し次に義通君の轎子添

とまやかげよし

ぐんみん

したが

ハ苫屋景能うけ給はり軍民百五十人従へたり。その�犬

しん

ばじやう

しんがり

ねり

およそ

ていたらく

江親兵衛ハ馬上にて殿して徐もて來ぬる。約事の為体

しらぬの

のぼりふたさほ

はんぞくしきたもとふじ

がうぶくけうとう

白布の幟両竿に叛賊蟇田素藤としるし又降伏兇黨としる

ふたり

ぐんみんさゝげ

まつさき

とゝき

せしを両個の軍民捧持て真先にぞすゝみたる。次に十時

ぐわん

ひらたほんさくおくりほんせんあさ

わん

ぎやくと

うしろて

頑八平田盆作奥利本膳淺木碗九郎等の逆徒二十四人を背手

たみ

おい

つぎ

もとふじ

ふと

なが

にいましめあまたの民が追立行めり。次に素藤を太く長き

すきまるた

くるま

おしたて

ぐんみん

杉丸太のうらにしばり付てからげて車に推立しを軍民二十

おんど

にぎ

人して是をひくに音頭をとり遣材唄をうたひていと賑はし

ねり

もとふじ

むね

うち

おも

さて

かの

く徐ゆきぬ。素藤ハ此�胸の中に思ふやう扨も彼八百比

いつこ

かげ

かく

丘尼ハ何方へ影を隠しけん。我斯なりしが知らざるか。知

すく

すべ

はじめ

ほど

かれこれ

たすけ

れとも救ふに術なきや。初の程ハ這那と助になる事多か

しるし

やく

むね

りしに今この折に効驗を見せぬハ益なかりきと」13胸にの

ほと

かうにん

みうきをやる瀬ハなかりける。さる程に降人等ハひかれて

ぢん

ほくもん

もりたかむねうらやすともかつぞう

したが

陣の北門に参りしかバ小森高宗浦安友勝雜兵あまた従へて

かうにん

つぼ

おい

とかく

ほど

よしみちぎみ

のりもの

出降人等を局の内へ追入たり。左右する程に義通君の轎子

千葉大学人文研究

第三十九号

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ちかづき

とうときすけあまざきてるぶんざうひやう

したか

とうもん

むか

近着來にけれバ東辰相蜑崎照文雜兵を従へて東門より迎

まうけ

むしろ

しるへ

ことぶき

のべ

ほと

へまゐらせて儲の席に案内をしつゝ

壽を演なす程しもあ

とうもん

ほとり

てるふん

らせず親兵衛ハ東門の頭にて馬より下りすゝみ入るを照文

まづしん

たいこう

よろこ

しるべ

いそかはしく立出て先親兵衛の大功の歓びをのべ案内をし

くだん

むしろ

ともな

しん

あらた

よしみちきみ

げんざん

て件の席に伴ひけれハ親兵衛又改めて義通君に見参して

きじん

よろこ

しばし

よしなり

きんしゆいくたり

帰陣の歓びをまうしけり。霎�ありて義成主ハ近習幾人

したが

かみくら

つき

よしなりぬしまづしん

よびちかつけ

せき

たま

従ふて上坐に著給へバ義成主先親兵衛を召近著て席を賜ひ

ねきら

さくこん

たいこう

労ひて昨今二度の大功を褒賞給ふ事大かたならず手つから

あはび

たまはり

くんしん

しゆく

せき

さけ

つゝしん

まう

打鮑を賜て君臣の義を祝し給へバ親兵衛席を避て謹で禀

たいめん

すやうねかふハはやく御對面あれかしとすゝめまうして

てるぶんかげよし

いざ

よしみち

みまへ

照文景能を心得さするに卒とて

やが

て義通に倶して御前に

しんしたいめん

かたみ

えつき

ぞ」出にける。かくて御親子對面あつて互に悦喜限りなく

しん

たいこうしんそく

きやうてきごうふく

親兵衛が不思議の大功神速にて勍敵降伏したることを

かんたん

びんぎときすけ

なたいめん

感嘆大かたならざりける事の便宜辰相等ハ親兵衛に名對面

たいこう

さん

うやま

こうきおは

ときすけ

よしなり

して大功を讃じ各ひとしく敬ふたる口誼訖りて辰相ハ義成

ぬし

もとふじ

ちゆうばつ

こひ

よしなり

うなづ

主に素藤等誅罸の事を請まつるを義成聞つゝ頷きてそも

しん

ひざ

又犬江に問給ふに親兵衛膝をすゝめて願ふハ我君格別の

じんせい

ほどこ

かれら

かうべ

つが

ついほう

仁政を施し彼等が頭を接しめてゆるして追放し給ふとも又

いか

こと��

かうべ

きりかけ

何ばかりの事をせん。よしや今

悉く首を斬梟給ふとも

とうけ

まつり

じんぎ

ぶとくおとろ

かんみん

當家の政事仁義にたがひて武徳衰へ給ふことあらバ奸民

かならずぶ

つぎ

そむ

じんちよ

はから

武を接て叛くもの多からん。願ふハ仁恕のおん計ひこ

だうり

いさめ

そあらまほしく候なれと道理をのへて諫まうせハその義を

たゞち

きよゆう

たかむねともかつい

したか

直に御許由あつて高宗友勝以下を従へ義通君ともろともに

たてやま

しろ

しん

ときすけ

ざうへい

つた

舘山の城に入給へハ親兵衛と辰相ハ雜兵に下知を傳へて先

もとふじ

ぐわん

ぼん

せんわん

すべ

かしら

きやうたう

つぼ

素藤と願八盆作本膳碗九郎等都て頭立たる凶黨を局の内に

すへ

こくしゆ

くわんけい

しか��

のりしめ

なんじらもしこの

ひき居さして」14國主の寛刑を恁々と言示し汝等若此義を

わす

たち

あくじ

その

けつ

忘れて立かへり來て悪事をなさバ其たびハ决してゆるさ

このしん

かぎ

たちどころ

とりく

じ。此親兵衛があらん涯りハ立地にみな屠戮せんとくりか

もとふぢならび

けうたう

ぬか

こうおん

みな

へしつゝいひこらせバ素藤竝に兇黨ハ額をつき洪恩を皆

しやうふく

そのときざうひやういくたり

したが

伏をしたりけり。當下雜兵幾人

下知に従ひ素藤等が

ひたひ

をち

いれぼくろ

きぬ

ぬか

おしふせ

そびら

しもと

あつ

いつひやく

額に遺なく黥して衣を脱しつ推伏て背に笞を中る事一百

をの��くつう

たへ

きやうくわん

こゑ

たゝ

に及びしかバ各

苦痛に堪ずして叫喚の声も立ずなるころ

ひきおこ

みづ

かうやく

そびら

しき

すべ

ついほう

これ

引起し水をあたへ膏薬を背に布て都て追放せられけり。是

さき

しん

ときすけら

くだん

いちぎ

ひくれ

このよ

まゝ

�先に親兵衛辰相等ハ件の一議に日暮たれバ此夜ハそが儘

ざいじん

くんこう

むね

うかゞ

つぎ

ぢんや

もとふじ

在陣して君侯に旨を伺ひ次の日陣屋をこぼたして素藤に

じせう

たみども

わか

よろこ

おん

自焼せられし民毎に頒ちとらせしかバみな��歓び恩を

はい

かさく

りやう

ほど

よしなりぬし

拝して家作の料にぞしたりける。さる程に義成主ハその日

ちやくなんよしみち

うま

ならべ

たてやま

しろ

いり

よしなりぬし

をはゆき

嫡男義通と馬を並て舘山の城に入給ふ程に義成主ハ姥雪

めしいだ

はやばしり

こう

ほめ

ひきでもの

たまは

いぬえしん

与四郎を召出して神行の功を賞て引出物を賜り犬江親兵衛

たうじやう

まも

ことくま

さだ

つぎ

いなむら

かいぢん

をもて當城を守らせ�隈なく定められ次の日稲村へ凱陣な

もとふぢさんちうそうあん

めうちん

し給ひけり。」【挿絵】〈素藤山中草庵に妙椿に逢ふ〉」15」

かく

よしなり

たてやま

たちさり

つぎ

よしみち

もろとも

○斯て義成父子ハ舘山を立去給ひし次の日義通と共侶に

たつた

しろ

おもむ

まづらうこう

けんざん

こたび

よろこ

瀧田の城へ赴きて先老候に見参しつゝ今般の歓びをまうし

よしさねぬしきえつ

いぬえしん

とやま

給へバ義実主喜悦大かたならず犬江親兵衛が冨山のはたら

(181)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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もとふじら

ゐふく

たいこう

てるぶみ

ちうしん

き又舘山にて素藤等の威服したりし大功を照文か注進にて

きゝ

まゝ

いで

そんよろこび

聞たる随にいひ出て父子孫

歓をなんのべ給ふ。かくてそ

あさよしなりふ

たつた

しろ

さり

いなむら

かへ〔ら〕

のあけの朝義成父子は瀧田の城を辞し去て稲村へとて還よ

はなしふたつにわかるさるほど

ひきたもとふじ

から

しけい

せ給ふ。

話分両頭

尓程に蟇田素藤ハ辛くも死刑をゆるさ

ときすけ

ざうひやうら

ふなぢ

むさし

かた

おく

れて辰相が隊の雜兵等に水行より身ひとつを武蔵の方に送

つぎ

ひつじ

ころ

ふね

すみだがは

にし

きし

りやられ次の日未の頃にその舩ハ墨田川なる西の岸につ

くが

のぼ

おいはな

ざうひやうら

かへ

そのとき

きしかバ陸に登し追放ちて雜兵等ハ安房へ還りけり。其�

もとふぢ

なが

みぎは

はいくわひ

とき

うつ

なゝ

素藤ハあちこちと長き汀を徘徊しつゝ時も移りて七ツさが

ふねいつそう

こよひ

りになりにけりと見れバかしこにつなぎ舩一艘あり。今宵

あか

ひら

ふり

すがみの

ハあれに暁さんと

やが

て閃りとうちのりて見れバ故たる菅蓑

くつきやう

かい

ひきおこ

した

いつこ

わりこ

あり。こハ究竟と掻とりて引起せバ下に一箇の割篭ありて

ひら

いひ

てん

たまもの

開き見れバ飯と味噌あり。天の賜物」16かたじけなしと

たちところ

くら

つく

うまい

もと

つか

くせ

立処に啖ひ盡し

やが

て熟睡をしたりける。素より疲れし癖

いくとき

ねむ

とり

こゑ

よびさま

こつぜん

まなこ

ひら

なれバ幾�

睡りけん鳥の声に呼覚されて忽然と眼を開け

かのかはべ

つな

ふね

やと

バこハいかに彼河辺なる繋ぎ舩を宿としたるに似るべうも

まさ

さんちう

しんりんきかん

ほか

もの

あらず。こゝらハ正に山中にて深林竒巖の外に物なくつ

おも

もろて

せん

たゝず

ことはんとき

く��と思ひかねて両手をくみつ

ほゝう

然と彳む事半時ばか

さて

おぼつか

ひとざと

り。扨あるへきにあらざれバ覚束なくも人里をたつねゆく

たにかけ

くさのいほり

しんせき

にと見れハむかひの谷蔭にむすびかけたる草庵あり。人跡

たへ

みやま

すめ

あり

おも

絶たる深山にも住ハ住む人の有けるよ。と思へバさすかに

たのも

かしこ

いた

ほど

もろをりど

なかばなゝめ

ひら

憑しくやがて彼処に至る程に両折戸ハ半分斜に開きたり。

いり

うち

をなご

こゑ

おう

こた

すゝみ入つゝおとなへバ内にハ女子の声として応と答へて

千葉大学人文研究

第三十九号

(182)

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たちいづ

せうじ

ひきあく

これすなはち

立出る。やをら障子を引開れバ是

則ひとりの女僧なり。

もとふじ

まさ

ひきた

素藤を見ていふかしげにおん身ハ正に蟇田の大人にハあら

もとふじおどろ

さた

すや。といはれて素藤驚きながらまなこを定めてよく見

これべつじん

はつひやくひくにみやうちん

れば是別人ならず八百比丘尼妙椿なり。こは什麼いかに

うたが

とけ

とばかりになほ疑ひの觧」ざれバ左右なくハうちものぼら

もとふじ

いぬえ

めうじゆつ

ず素藤ハさきに犬江にとらわれしをさしも妙術ありながら

すく

やく

ゑん

めうちん

救はざりしハいかにぞや益なかりき。と怨ずれバ妙椿さこ

うなづ〔き〕

ことは

いつちやう

とき

そと頷きてしかいふハ理りなれど一朝にいひ釋かたかり。

まず

なぐさ

あし

こひのぼ

しば

をりたき

先こなたへと慰めて脚をそゝかし請登しゐろりに柴を折焼

ちや

かつあさいひ

もてなしなほざり

て茶をすゝめ且朝飯をすゝめたる。管待等閑ならざれハ

もとふじわつか

こゝろ

めうちん

かにかく

しだい

ものかた

素藤纔に心おちゐて又妙椿に云云とありし次�の物語れ

きゝ

てんがんつう

いちし

もら

バ妙椿は聞あへずそハはじめより天眼通もて一事も漏さす

みな

わか

のちかげ

たちかたち

いくたび

皆知れり。わなみ大人に別れて後影に立形に添ふて幾回

たす

ことおほ

いぬえ

となく助けし事多かりしにいかにせんあの犬江といふ

くしわらべ

ふせひめ

くしたま

まも

うへかんとく

れいぎよく

神童ハ伏姫の神靈が守れる上感得の靈玉あり。よりてわ

およぶ

かち

こと

なみも及べくもあらず勝をとる事かたけれバすくはさりし

とも

おゝ

しそつ

いのち

とりとゞ

かどおん身と倶に多かる士卒の命をそこに執畄めしハわな

ようこ

このところ

みが擁護したるなり。されバおん身を此所へつりよせたる

せいめうはしめ

おはり

うき

ひとつら

おも

もわなみが精妙始ありて終なき浮たる人と同列にな思ひ

いちぶしぢう

ときさと

もとふじゆめ

さめ

こと

給ひそ。と」17一五一十を觧諭せハ素藤夢の覚たる如く又

そも��こゝ

いつこ

ころ

ところ

いふよしもなかりしが抑

爰に何処にていつの頃より此

いほり

ねが

われ

たす

はぢ

きよめ

に庵をむすび給ひたる。願ふハ我を助け給ひて耻を雪るよ

(183)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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こひもとむ

めうちんさ

なくさ

しもかな。いかて��と請求れバ妙椿然こそと慰めてわな

たすけ

ため

いざのふ

すなはち

みおん身を資ん為にはる��こゝへ誘引たり。此地ハ

かつさ

がたてやま

いらず

みやま

はべ

上総なる羽賀舘山の間なる人不入の深山に侍り。

やが

てわな

ほうじゆつ

かのしろ

とり

おも

いぬえ

たてやま

みの法術にて彼城を取かへすべう思へども犬江めか舘山に

ふべん

ぬし

うたがは

とお

たけう

あらんかきりハ不便なり。かやつを主に疑して遠く他郷へ

はし

こときはめ

やす

そのひみつ

走らしなバとらん事極て易かり。其秘蜜ハしか��なり。

かやう��

ときしめ

もとふじめうちん

ふしおが

たの

箇様と觧示せバ素藤妙椿を伏拝みて憑むを妙椿おしかへ

かんだんとき

うつ

これ

もとふち

やしなは

このいほり

して閑談�を移しけり。是よりして素藤ハ養れて此庵に

あり

ほど

なれしたし

かぎ

つく

在りし程にいつしか妙椿と狎親みてたはけき涯りを盡しけ

しゆくもうむね

たへ

いで

かのほうじつ

うなが

るが宿望胸に絶ざれバともすれバいひ出て彼法術を促す

ほど

あるひめうちん

もとふぢ

ひごろ

さいそく

程に一日妙椿ハ素藤

さゝや

くやう日頃おんみに催促せられし

かのいぬえ

とふ

たてやま

しろ

かへ

いま

たいていよき

彼犬江めを遠さけて舘山の城をとり復すに今ハ大抵好ころ

いさゝかさすかた

いで

ゑんしよ

ひろ

よしなり

也。わなみハ聊

投方あれバ出」【挿絵】〈艶書を拾ふて義成

いぬえ

ひさ

犬江をとふざく〉」18」て五七日かへるへからず。久しきこ

かりそめ

いでゆき

とにハあらざるにるすし給へと苟且にこゝろえさしつ出行

けり。

いなむら

しやうない

えうくわい

○夫ハ扨おき安房の稲村にハ此ごろ城内に妖怪あり。

はまぢひめ

ほとり

たちあらは

まさか

濱路姫のねやの辺に立顕れたりけるを正可に見たといふ者

おほ

おり��

多かり。その折々に濱路姫おそわれ給ふ事大かたならず。

ちゝよしなりぬし

うちおとろか

りやうい

めし

いあん

たつ

されバおん父義成主ハ打驚せ給ひつゝ良医を召て醫案を尋

しよぶつじん

いの

こうけん

ね諸仏神を祈らし給ひけれどさせる効驗なかりけり。かゝ

ほど

はゝきみ

まへ

えんのぎやうじや

いわ

りし程におん母君あづまの前のさたとして役行者の石

むろ

まいり

ひとり

いじんよひ

しづ

参たるかへりに一個の異人呼かけて濱路姫のたゝりを鎮め

ほり

いぬへしん

たて

かれ

しよじ

んと欲せバ犬江親兵衛を舘山より召よせて彼が所持せる

れいきよく

ふし

すのこ

した

ふか

かつしん

�玉をかり姫上の臥給ふ簀子の下に深くうづめ且親兵衛

ひやうしやう

まもら

おんりやうたちところ

たいさん

に病床をうち守し給ひなバ怨�立処に退散せん。とのり

しめ

すさき

ゆく

たちまち

示して洲崎の方へ行かと思へバ忽地みえすなりにけり。

きとく

かゝる竒特に女房等ハかへるとやかてあづまの前に事しか

つげ

しんかう

あさ

こくしゆ

きこ

��と告まうせバ信仰いよ��浅からず國守に聞へあげ給

しかろう

めし

くだん

へハ義成主も」19おぼろかげながら四家老を召つとへて件

みな

とまや

のよしを議させ給ふに皆しかるべし。とまうしゝかバ苫屋

かげよし

つかひ

たてやま

めしよば

景能を使として舘山の城につかはし親兵衛を召呼れその

れいぎよく

した

うづめおか

はまぢひめ

まくらべ

�玉をかりえつゝすの子下に埋措し濱路姫の枕辺なる次

うへ

いたつき

の間夜づめをそさせ給ひぬ。是よりして姫上の病苦日夜に

たいら

とのい

きりよく

いよゝ平き給へバ親兵衛が宿直せしより氣力ハ日ごとに

すが

かづ

ゆあみかみあけ

清やかなれどもいまだ日数をへたるにあらねハ浴湯結髪ハ

こめ

たいめん

し給はず。なほたれ籠てをはしませハ親兵衛に對面し給は

とのい

しおくつき

たれかれ

よづめ

ゆる

しん

ず。宿直の醫師奥付の甲乙にハ夜詰を免し給ふ物から親兵

こと

つぎ

はべら

ふたおや

衛をのみ初の如く夜ハ次のまに侍したり。されハおん二親

はらからたち

よろこ

みやづかひ

にようぼう

よろこ

胞兄弟達の歓びいへバさら也。給事の女房等なべて歓び

ほと

とのい

なゝよ

いさまぬハなかりけり。さる程に親兵衛ハ宿直する事七夜

きこゝろうみつか

もよふ

さばかり氣心倦疲れてしきりにねむりを催せしをたへがた

ひちちか

すご

ばん

けれハ臂近なる双六盤を引よしてねるともしらずまどろみ

され

よしなりぬし

たい

けり。然バ又義成主ハ親兵衛が」参りたるより�七日とい

千葉大学人文研究

第三十九号

(184)

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むね

たゞ

ふ夜にいたりて何となくねくるしさに胸うちさわぎて平な

おほへ

はまぢ

いたつき

きゝう

らす覚給ひしかバこハ濱路が病着の危窮に及びしかさら

ものゝけ

たちあらは

なやますか

ずば又物怪の立顕れて悩

�。そも親兵衛ハいかにしけん

あんひ

たづね

みつか

まくらへ

おび

てしよく

安否を尋とはばやと自ら枕辺なる刀を帯て提燭をともして

すぎおく

おもて

あはひ

とさし

をし

いく間�うち過奥と表の間なる関の鎖を推給ふに思ふにも

ひら

いふかり

ふしと

似ず開きにけれハ訝なからすゝみ入りて濱路姫の臥房なる

ふしと

さゝや

次の間にきて見給ふに姫の臥房に男女の聶くこへしたり。

いふ

しりぞ

淺ましき事云へうもあらず。退かんとし給ふ程にゆくり

あし

てしよく

ほかげ

なく物ありて足にかゝるをとりあげて提燭の火光に見給ふ

おく

ゑんしよ

よしなり

ほつせん

たちまち

に姫より親兵衛へ送りたる艶書也。義成主ハ勃然と忽地い

たへ

かりに堪ざれバ先かやつらをてうちにせん。とはやる心を

をし

ぬきあし

しあん

推しつめ抜足しつゝ又臥房へかへり入給ひつく��と思案

ふんべつさたま

ゑんしよ

とくやきすて

あり。はやくも分別定りけれハくだんの艶書を疾焼捨ふ

まくら

けんくん

あく

たゝび枕につき給ふにたいどの賢君」20子明るを今やとま

た寐の床にわびしさ涯りなかりけり。かくてそのあけの朝

すで

ぶく

義成主ハ親兵衛を呼近つけ姫ハ既に本復に及びしかバけふ

つめ

ゆる

つき

けん

ありか

より夜詰を免すへし。就て我思ふよしあり。汝犬士の有処

ぐそく

ともな

をたづねて八人具足の日にあひ伴ふて帰るべしと路用の黄

金を手づから給ひて犬江にいとま給はりけれバ親兵衛ハ既

に一二の城戸を退きて思ふやう我君に仕へて三十余日彼折

つかさど

いむ

よりして兵権を一�に掌りしかハ忌事のありける�。今よ

り後幾程なく我義兄�なる犬士等にめぐりあふ日のありと

(185)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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ぬれぎぬ

〔とゞま〕

〔つかへ〕みち

ても此身に受たる濡衣を乾さずハ此地に住りて仕の途に入

ひそか

むね

るべからず。と蜜に胸をさだめつゝ瀧田の城におもむきて

わか

あいくわん

祖母妙真に今日逢ふて今日別れ哀歓こも��なるものから

つげ

びと

親兵衛祖父によしを告て名殘おしくも城を出爰より従者み

みなと

なかくし便宜の港口より出舩して古郷の下総なる市川さし

ふたゝびとく

りよ

て走らしけり。

再説

此日稲村の城内にハ義成主千慮を盡

めうちん

じゆつ

もとふぢ

さんとう

し」【挿絵】〈妙椿

けん幼

〔幻〕術をもて素藤の殘黨をまねぐ〉」21」て

たきやう

ゆうし

既に犬江を他郷へつかはし此義を四個の家老ハさら也有司

みやつかへ

おの��わ

給事の老女等に仰渡させ給ひしかバ各

事情を知らざれバ

いぶか訝り思はざるハなかりけり。斯て此次の日に濱路姫の床上

ころ

さい

の壽あり。又いぬる頃瀧田の城よりひき渡されたる安西

また

ごう

じやうぐわん

出來介満呂復五郎天津九三四郎荒磯浪六等帰降の情願

まこと

実事なるよしその聞えありしかバかゝるめでたき折なれバ

くだん

つみ

しやめん

つげ

件の罪人等を赦免あり此等落なく瀧田へ報知らし給ひけ

り。

ほど

もと

しらす

いほり

○さる

程に蟇田素藤ハ一人リ人不入の山の庵を守りて妙椿の

やよひ

こつぜん

かへるを待しに三月も既に盡る頃妙椿ハ忽然とかへり來て

いへるやうわなみおん身に示せし如く稲村へ赴きて法術を

ようくわい

とのい

もて城内に妖怪を出かし親兵衛をして濱路姫の宿直をさせ

おこ

とふ

たけう

義成にうたがひを起さして遠く他郷へ走したり。かやつが

こよい

すぐ

在らずなりたれバ舘山の城をとらんこと今宵一夜を過べか

ときほこ

らす。竒々妙々にはべらすや。と鼻おこめかして説誇れハ

たへ

あま

せんしんじゆつそも��

素藤悦び」22に堪ずしてあはれめてたき尼御前神術

たてやま

しろ

しゆつ

舘山の城をとりかへすにハ又是いかなる妙術あるや。と問

めうちん

さいく

りう��し

ふを妙椿聞あへず細工ハ流々仕あげを見ませ。と外の方に

まなこ

とぢ

じゆもん

とな

むかひ

立むかひ眼を閉て咒文を唱へバはるか前面の樹の間より

もとふじ

くわん

ぼんさくほんぜんわん

さき

たゝ

素藤か元の手の者願八盆作本膳碗九郎等を先に立して三四

いほり

には

もとふぢ

おどろ

百人庵の庭つどひたり。素藤ハ驚きながらいち��に

たいめん

べつご

いちふしゞう

こよひくわいけい

對面してその別後を問ひ一五一十を聞つゝも今宵會稽の

はぢ

ほり

羞を聞め

〔ママ〕

んと欲するに打物なくていかゞハせん。といふに

めうちん

じゆつ

もうふう

ふきおこ

妙椿いへるやう。その武具も我術あり。猛風を吹起して

たて

ひやうご

ふきやぶ

舘山なる兵庫を吹破らし味方の武具をとりかへさん。いで

こうげん

ときしめ

ふところ

にしき

ふくろ

おさ

みかそ

や効驗を見給へ。と説示して懐

�錦の嚢に攸めたる甕襲

ひたひ

をしあて

ねん

しゆもん

となふ

の玉をとり出して額に押當うち念じてしばし咒文を唱れバ

ときかせさつ

ふきおこ

いほり

には

かのものゝぐ

疾風颯と吹起り風のまに��庵の庭へ彼武具ハおち下れ

しうけうすへ

めうちん

きじゆつ

かん

ものゝぐ

バ衆兇都て妙椿の竒術を感ぜぬ者もなくやがて一同武具に

かた

しぶん

えうに

けんじゆつもとふじよ

きうじやう

身を固め�分ハよしと」【挿絵】〈妖尼の幻術素藤夜る舊城

をそ

ちんもとふぢそのて

ぞくへい

たてやま

しろ

からめて

を襲ふ〉」23」妙椿素藤其隊の賊兵三四百人舘山の城の後門

をし

くるわ

しの

に推よするに案内知つたる事なれバ二の郭まで潜び入りて

とき

どつ

つく

たんへい

せめたつ

しろ

しそつ

とも

おどろ

鬨を吐と發りつゝ短兵急に攻立れば城の士卒ハ倶に駭き各

すはだ

ふせ

たゝか

めうちん

けんじゆつ

素肌にて防ぎ戦ふとい

へども

妙椿か幻術にて其�数千に見ゆる

ふせ

おどろ

うた

物から防ぐに由なく驚きあはて撃るゝものぞ多かりける。

じやうない

しそつ

ぞくへい

うた

わつか

まぬか

されバ此夜城内の士卒大半ハ賊兵に討れ僅に命を免れし

おちうせ

かく

もとふぢ

たてやま

もの稲村へとて落亡けり。斯てぞ素藤ハ舘山をとりかへし

千葉大学人文研究

第三十九号

(186)

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いきほ

さかん

あへ

こくしゆ

はゞ

その�千餘騎になり�ひ壮になり敢て國主を憚からず。

すなは

めうちん

ぐん

にこう

そんしやう

ぐんぎ

ごたう

即ち妙椿を軍師として天女尼公と尊称し軍議の外ハ後堂を

ふじん

ほん

ぜんわん

ろく

つかさどらせて夫人の如く願八盆作本膳碗九郎に禄を多く

ちやう

はじめ

いやまし

くだん

よたり

がうみん

へいせん

せめ

し重用始に弥倍しばし

〔ママ〕

かバ件の四兇ハ豪民の米銭を責と

はきやく

しさい

うば

らんぼうかぎ

おどろ

おそ

り家を破却し資財を奪ふ乱妨涯りなかりしかバ駭き怕れや

たつさ

にげ

たきやう

はし

きんぐんさうどう

からを携へ逃て他郷へ走るも多かり。されハ近郡騒動して

ちうしんにんば

くし

ひく

くんしん

おとろ

あき

稲村へ注進人馬ハ櫛の歯を挽如く君臣上下驚き」24呆れて

すで

ひやうぎまち

ぬし

もとほりうちさだゆきとう

既に評議區々なり。恁くて又義成主ハ杉倉氏元堀内貞行東

ときすけ

きよすみ

よたり

ろうどう

まね

もとふぢさいはんせいばつ

辰相荒川清澄等の四個の老黨を便室に招き素藤再叛征伐の

きよすみ

うつて

まに��

事を議せらるゝに荒川清澄そが討手をのぞみにけれバ随意

ぐんひやう

しゆつぢん

いとま

たまは

たてやま

ゆるして一千五百の軍兵をさづけ出陣の暇を賜り舘山へ

おしよせ

かつせん

もとふぢ

めうちん

ようじゆつ

押寄しば��合戦に及ぶといへども素藤方妙椿の妖術あれ

あら

しやう

へい

とのだい

ぢん

バ荒川さらに勝利なく一たび兵をまとめ殿臺へと陣を引此

ちうしん

よしなり

むね稲村へ注進なすにぞ義成主ハ先の頃犬江をかにかくと

うたが

かのあ

まめうちん

じゆつ

まよは

疑ひしハ彼女僧妙椿の術もて我心を惑せたるかはかるべか

かきん

いかゞ

こうくわひ

らず。一期の瑕瑾を爭何ハせん。と後悔大かたならざり

かのてるぶみ

おばゆき

けり。是に�て彼照文と姥雪与四郎をもて犬江親兵衛又其

けんし

わかい

つた

余の犬士にも尋ねあはゞ我意を傳へて倶して來よ。と仰れ

てるふみ

もろとも

ともびと

びんぎ

みなと

おもむ

ハ照文ハ与四郎と共侶に伴當を引倶して便宜の港に赴き

かいせん

むさし

はし

つ。その夜海舩にとり乗て武蔵をさして走らすれバ与四郎

わづか

ひとり

ともひと

したが

ふね

のり

しもつけ

ハ纔に一個の伴當を従へて別舩に打乗」こハ下総なる市河

(187)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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はるけ

ふなぢ

こゝ

しん

たき

へとて遥き水行をいそぎけり。爰に又犬江親兵衛は瀧田の

しろ

よりすけふうふ

たいめん

おや

はかしよ

城を出しより市河にいたり依助夫婦に對面して二親の墓所

まうて

りやうこく

はや

に詣夫より此処を辞し別れて両邦河原へ帰りゆく快舩に

のりふなぢ

はて

くがぢ

のぼ

打乗水行三四里を一�斗りに果しかバ

やが

て陸地にうち登り

あふきかやつさたまさ

らうしん

上野の原まで來にける程にはからずも扇谷

定正の老臣

こはこひごんのすけもりゆき

たかつぐ

しゆか

はな

ふらう

河鯉権佐守如が一子佐太郎孝継が主家を放れ浮浪したる

なのり

こう

つか

すゝ

つれ

に出合つゝ名告をなし里見候に仕へん事を勧め共に連立て

りやう

やと

ししやあまさきてるぶ

ゆきあひ

両邦に宿りをもとめはからずも安房の使者蜑崎照文に行會

てるふみあ

わどの

みぎやうしよ

しん

しん

しかば照文安房殿よりの御教書を親兵衛にわたすにぞ親兵

つゝしん

しよ

はい

てるぶん

とも

たかつぐ

つれだちはやふね

謹でその書を拝しやがて照文と倶に孝継と連立快舩に

のり

かづさ

たて

しろ

打乗て上総にわたり舘山なる城のからめてに來にける程に

すで

もや

こめ

ぬばたま

天ハ既に明たれども朝靄深くたち籠てなほ野干玉の烏夜に

ようい

くはやく

かゞり

きへ

うつ

似たれバ准備の火薬に篝火の消残りしを手早く」25移し先

しばくら

かけ

とき

こゑ

しやうない

ぞくとおどろ

柴庫に火を放つゝ鬨の聲をあげしかバ城内の賊徒駭きさ

はせかゝ

つぐ

てき

わぎて打物取て走蒐るを高継はじめその手のめん��各敵

やり

いくたり

つきふせ

ぞくへい

うた

を引請てはや鎗下に幾人か突伏られて賊兵等ハ撃るゝもの

しん

けむ

ぞ多かりける。此間に親兵衛ハ合図の烟りをあげるにぞ

とのだい

きよずみ

たかむねたちからはやとも

おしよせ

殿臺なる荒川清澄に森高宗田税逸友大手からめてより推寄

とき

こゑ

とは

すきま

ぞくと

來つ。鬨の聲をあげ矢を飛して透間もなく込入けれバ賊徒

しんたいきはま

たかつぐ

しん

ハ進退決りてうたるゝ者数を知らず。そが中に孝継ハ親

たすけ

やには

てき

きりたふ

兵衛が幇助にならんと思ふ物から矢庭に敵を斫仆し又一人

いけどり

しよいん

ほとり

を生捕

すなはち

て郷

〔ママ〕

をしるべにしつゝ書院の辺に打入けり。是

しん

うしろどう

おもむ

はしこ

つた

より先に犬江親兵衛ハ身ひとり後堂へ赴きて階子を傳ひぬ

あし

たかと

もとふぢ

よんべ

き足しつゝ�一の樓へうちのぼる事い

〔ママ〕

のあした素藤ハ昨夜

うしみつ

えふ

ふしと

めうちん

まくら

も丑三すぐる頃酔て臥房に入リしより妙椿と枕をならへ天

めうちん

ように

たいぢ

の明たるも知らざりしに妙椿に」【挿絵】〈妖尼を對治して

しん

ぞくしやう

とりこ

よび

親兵衞二たび賊将を擒にす〉」26」【挿絵】」27」呼さまされて

まくらべ

こし

かい

おこ

いそがしく枕辺なる腰刀を掻とりて身を起さんとせし程に

びやうぶ

おしひら

しん

もとふぢ

屏風をはたと推開きあらはれ出し犬江親兵衛。素藤あなや

にけ

ほり

しん

がみ

つか

よす

と逃んと欲すを親兵衛手早くゑり髪を左手に抓み引寄る。

めうちん

きすそ

ぬけいで

まぬか

そが程に妙椿ハ夜着裙より抜出て身を免れんとせし程に親

すか

もと

まゝ

なげふせ

はし

かゝり

めうちん

かたさき

兵衛透さす素藤をそが儘

だう

と投伏て走り蒐つ妙椿が肩尖丁

とりとめ

とく

れいきよく

ふくろ

ひかり

うた

と拿畄て疾とりいたす霊玉の守り袋をさしかざせハ光に撲

さけ

こゑもろとも

ねまき

しん

のこ

れし妙椿ハ苦と叫ぶ声共侶に閨衣ハそが儘親兵衛が手に残

かの

たかどの

には

りて彼身ハもぬけて樓上より庭へひらりとおつると見れバ

めうちん

こくき

おにび

あほみ

妙椿が身の内より一朶の黒氣涌出して鬼火に似たる青光あ

にし

きえ

あと

なり

り。見る間に西へなびきつゝ消て跡なく成にけり。さる程

もとふぢ

つい

しん

ため

らんかん

こへ

おと

に素藤ハ終に親兵衛の為に欄干をうち越てなげ落さるゝ事

たかつぐ

おさ

うごか

かた

一丈あまり。下にハ孝継心得て押へてちつとも動せす。傍

くるま

つる

なわ

いと

きび

に在あふ車井の釣べ索をひきよせて最も緊しく」28しばり

ばけあま

けり。さる程に親兵衛ハ彼妖尼妙椿かゆくゑんをさがすに

ちやうづばち

のきばに大きやかなる石の浄水盤あり。そが中に落たりと

より

見てけれバいそがはしくそがほとりに立寄手をさし入て引

ひと

いと

めだぬき

出すをみな��等しくうち見れバ最大きなる牝狸の既に死

千葉大学人文研究

第三十九号

(188)

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こげ

もやう

したるにぞありける。そがそびらハ焦ちゞれて模様たとへ

によぜちく

ほつぼだい

バ焼画の如く如是畜生發菩提心といふ八箇字のあらはれて

あざや

よま

いと鮮かに讀れしかバ人々訝る。親兵衛がいへるやうそれ

みつげ

くだん

がしさきに伏姫神の御告によりて知れる事あり。件の妖

はこく

尼妙椿ハむかし八房の犬を孚みける安房の冨山の牝狸なれ

づさ

ゑん

うら

バ彼毒婦玉梓か余怨その身に残るをもて國主御父子を恨み

つい

をこ

まつりて素藤をそゝのかし遂に両度の兵乱を起して今日に

れいきよく

ひか

うた

至れるなり。この牝狸霊玉の光りに撲れ死するにおよひ

しか��

しめ

て云云の八字を茲に示されしハ狸と倶に玉梓か餘怨この折

げだつ

ぼだい

觧脱して」菩提心に至れるを明地に知らしめ給ふ。こも神

とふと

変の大利益いとも尊き事ならずや。と語るを聞て人々ハ等

しやう

なは

しく嘆賞したりしかバさきよりきびし

いましめ

られて組子に索

おどろ

はぢ

かうべ

たれ

をとられたる素藤ハ駭き羞て頭を低てよくも見ず。また

いけどり

じゆ

くゝ

生捕の賊徒等ハみな珠数つなぎに括られて半死半生なりけ

ていたらく

くま

れバ只今妙椿が為体を見るもあり見ざるも有しに後にぞ隈

こう

なく聞知りける。かくて此よし里見両侯に聞へあげしかバ

さい

こう

御父子ハ親兵衛か再三の大功を感し給ふ事大かたならず。

わづか

ちうりく

是より纔一両日を歴て稲村の城内にハ素藤等を誅戮の沙

ならび

ぐわん

ほん

汰ありて素藤並に願八盆作本膳等を長須賀なる札の辻に

ほんぎやく

ざいれい

のり

みな

きら

ひき出し再度叛逆の罪戻をしか��と言示して皆悉く斬

をはり

けうしゆ

ぐんしゆ

こと

し畢て倶に梟首せられしかバこれを見る者群衆して日毎に

かんだん

さき

けん

間断なかりけり。是より先犬江親兵衛ハ七犬士を領て」29

(189)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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すみ

共に参らんとて去らんとせしを荒川清澄さま��にとゞむ

るといへども自餘の七犬士先だちて仕へん事本意にたがへ

もろとも

かなら

りとて孝継共侶これを辞しおもふに自餘の七犬士ハ必ず

ゆうき

くわひ

ちゆたい

いほり

結城に來會してヽ大法師の庵に在べしとて別れを告て出行

けり。

くわんしやうじゆ

○文明十五年四月十六日ヽ大法師の宿願成就して下総國

せんじやう

さう

かきつ

れいこん

城西と聞えたる古戦場の草庵に嘉吉に義死の諸�魂の菩提

どく

けち

くやう

とけ

すなはち

のために獨座不退の常念佛の結

ぐわん城

〔願〕

供養を遂んとす。

是五十年忌のとりこしにて嘉吉元年辛酉より今に至て四十

しゆきやう

三年念佛修行ハそのはじめより八十日ばかりに及ひたる。

すなは

せう

めい

此日ハ即ち諸将士の祥月亡日なれバなり。さる程に七犬士

あまかさき

ふく

をは

あした

ハ里見殿の代香使蜑嵜照文副使姥雪与四郎と倶にこの旦

辰の初刻にヽ大庵へ参會す。斯て供養ハ果しかバヽ大法師

〔ほつ〕す

ほとり

やかた

さいはん

ハ拂子をとりつゝ照文の坐邊に來て両舘より」【挿絵】〈再叛

ぞく

いけとつ

ふたのつぢ

けうしゆ

よせ

きやうくわん

の賊を生捕て申朋亭に梟首せらる〉」30」寄給ひぬる經

ならび

かうでん

よろこ

のべ

しちけんし

こうぎ

ものかたり

とき

並に香奠の歓びを演などして七犬士も口誼ありて物語に�

いぬえしん

こゝ

とも

まい

うつりそのゝち犬江親兵衛も爰につどひ共に安房へ参るべ

つれ

りがうとき

し。とてうち連て立出けり。されバ離合�ありて八犬士

ぐそく

たきた

しろ

よしさねぬし

けんざん

よしさね

具足し安房の瀧田の城にまいり義実主に見参なすに義実

けんし

ちか

ちけいこうめい

せう

犬士をほとり近くはべらせ智計功名を称じ給ひおの��

ちうきん

さかづき

たまは

おんめいためし

忠勤おこたる事なかれ。とて盃を賜する。恩命例あるべ

こと

けんしうさんど

およ

とき

からねバ八犬士ハ言

うけ

まうしつゝ獻酬三度に及ぶ�一人リ

千葉大学人文研究

第三十九号

(190)

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ごと

ひとこし

あたひ

とり

たまは

別に太刀一腰いづれも價千金なるを手づから拿て賜りけ

しきれい

ちゆ

ほうし

る。この式礼やうやくに果しかバヽ大法師を召させ給ふに

をりあまさきてるぶん

いなむら

ちうしん

ししや

此折蜑崎照文も稲村へ注進の使者に立しがかへりまゐり

とも

めさ

げんさん

よしさねぬし

ぬ。と聞えしかバ倶に召れて見参す。その�又義実主

ちゆたいほうし

くどくむりやう

てるぶみ

せうけん

しゆくめい

はた

きんろう

ハヽ大法師の功�無量。照文も又招賢の宿命を果しし勤労

ほめ

そのゝちうはゆき

めしいだ

さだゆきおほせ

つたふ

を誉させ給ふ。其後姥雪与四郎を召出して貞行仰を傳る

おんめい

すぎ

かんるい

やう」31そが恩命身に過たるに感涙をとゞめかねてうづく

はい

かく

げんざん

れいぎ

よしさねをく

しりぞ

まりて拝しけり。斯て見参の礼儀をはりて義実奥に退き給

はつけんしてるふみ

をん

はい

もろとも

まかりたつほど

ちゆたい

へハ八犬士照文ハ恩を拝して共侶に罷立程にヽ大与四郎

わか

はつけんし

べつま

けうぜん

ハ上下二間に別れつゝ八犬士と別間にて饗膳をすゝめら

おんけうことはて

いこひどころ

しりぞ

めうしん

る。かくて恩饗事果てみな��休息所に退き又妙真が

しゆくしよ

たちよりめうしん

ひくてひとよ

たいめん

よろこ

宿所に立寄妙真はじめ曳手單節等に對面してかたみに悦

つく

そのつぎ

ちゆたいてるぶみ

ひを尽しけり。其次の日八犬士ヽ大照文与四郎等ハ巳の

なかばすぎ

ころいなむら

しろ

まい

ほど

おの��

きのふ

半過たる頃稲村の城に参りけり。かゝりし程に各ハ昨日

ごと

ひろしよいん

よしなり

けんざん

はつししんしやう

にゑ

の如く廣書院にて義成父子に見参す。八士進上の贄ハ

りやうこう

たまものちや

れいけんし

いさほ

しやうび

ことば

たきた

こと

両公の賜物茶の礼犬士等の功を賞美の詞都て瀧田に異な

たゞ

とうたち

たまもの

かづ

まし

ごと

らず。但し當舘にてハ賜物の数を増て八犬士一人別にさね

よろひかぶと

そへ

けうぜん

くさ��

ちんみ

つく

よき甲冑を添られ又饗饌も種々の珎味を尽させ給ひける。

よしなりぬし

ときすけ

おほせわた

かくて義成主ハ又氏元辰相をもて八犬士に仰渡さるゝやう

いぬえしん

あらため

かつさたてやま

しやうしゆ

いましら犬江親兵衛をこたび又

改て上総舘山」の城主に

なほおほしめすむね

もろとも

なさる。しかれども猶思召旨あれハ七犬士と共侶にしば

たきた

しゆくしよ

とうけ

ため

いさほ

らく瀧田の宿所にあるべし。又七犬士ハ當家の為に功あり

(191)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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しん

すで

とうけ

つか

いましら

けるよし聞えたり。されバ親兵衛ハ既に當家に仕へ汝等ハ

とうごく

まい

をり

そのいさほ

いまだ當國に参らざりし折なれバおのづから其功に甲乙

こゝ

からう

なき事を得さるべし。爰をもて餘の七犬士ハ家老の

しもものかしら

かみ

じやうしゆかく

下兵頭の上たるべき城主格になさるゝ者なり。今よりし

たいこう

おの��

しろ

たま

ゐじつぜうち

て又大功あらバ各その城を賜ふべし。異日城地を給ふまで

すなはち

まかないりやう

つきふち

あておこなは

この

しよじう

八犬士の賄

料として月俸五百口を宛

行れ此餘所従の

りんじ

くんやくあら

ざつひ

みき

さため

人馬ハさら也。臨�の軍役有んをり雑費ハ右の定の外にて

まかな

つぎ

ちゆたいはうしあまざきてるぶん

めし

上のおん賄ひたるべしとなり。次にヽ大法師蜑崎照文を召

せうくわひ

いさほ

ほめ

もの

たま

おほ

そのつぎ

よせて八犬士を招會の功を誉て物を賜ふ事多かり。又其次

をばゆき

せき

めし

とやま

ほめ

に姥雪与四郎を別席に召よせて冨山以來の功を誉ておの

こと

おんしやう

たゞ

ともがら

��引出もの異ならず。此日の恩賞ハ只この毎のみならず

もとふぢせんごりやうと

せいばつ

をりうかう

しよし

もら

さきに素藤前後両度の征伐の折有功の諸士等」32漏さす加

そう

しよくじ

かくせき

かいなで

さうひやう

きん��

増せられ職事をのぼし格席をすゝめ泛なる雜兵にハ金銀

たま

おの��しな

かく

いなむら

まか

せいふ

を賜ふ事

差あり。斯て八犬士ハその日稲村を退る

ちゆたいほう

あい

てるぶみよ

もろとも

ひくれ

たきた

をりヽ大法師に相わかれて照文与四郎と共侶に日暮て瀧田

しく

つれたち

の宿所にかへり次の日もまだきより八犬士連立て大山寺へ

おもむ

したう

まう

かうでん

たてまつ

赴くに先伏姫の祠堂に詣で各香奠を献りやがてと山にうち

のぼ

おきつち

まう

いは

うち

けつか

ふ〔坐〕

登り伏姫の墳墓に詣ずるにヽ大ハ嵒

むろ

の内に結跏跌ざして

ときよう

こゑたか

とうとく

しう

読經の声高やかなれバその道�に修したるをかんたん各

そのひ

たち

其日ハ立かへりぬ。

さて

さとみこう

つか

くんしん

○扨も八犬士里見侯に仕へてより君臣礼あつうしてい

せいちう

よしなり

ところかた

よ��精忠をはけみしかバ義成父子むかふ所勝ずといふ

くわんはつしう

りようくわんれい

事なく関八州に武威をかゝやかしけるにぞ両管領をはじめ

しもふさむさし

ひたち

みやうあるひ

かう

として下総武蔵相模又ハ常陸の大小名或ハ和をなし降を

こひ

まつた

けんし

こう

おの��

乞けるも全く犬士等が功による所なり。とて各をまことの

じようし

あそん

城主になされそか上ならす義成朝臣に八人の御娘」ありけ

つま

けんし

れバこれをもて八犬士の妻たらしめん。と仰あるに犬士ら

つい

ひとりこと

さま��にいなみ申といへどもゆるされす。終に一人別に

たち

ふうふ

ほうさう

しみん

姫君達をむかへとり夫婦の中いとむつましく房総の四民

きやう

たの

とき

よしさねあそん

業を楽しむの�にいたり。そのゝち瀧田の義実朝臣ハ

ちやうじゆ

たも

たいわうしよう

とげ

そん

長壽を保ち給ひし上大往生を遂給ひけれバ義成朝臣父祖

せんせい

りやうみん

の行を次て善政をもつばらとし給ひ家士良民をめぐむ事

あいし

ごと

しみん

した

愛子の如くなれバ士民又君を慕ふ事赤子のはゝをしたふご

まこと

みなまんざい

とく誠にめでたきさがのみつゞきて皆萬歳をとなへけり。

めうしんら

さとみどの

ばくたい

ふちよ

よつ

あんらく

をい

こゝに与四郎妙真等ハ里見殿の莫大の扶助に依て安楽に老

やしな

たいわうじよう

とけ

かいなで

を養ひこれも大往生を遂たりとぞ。その余

泛のともがら

あくにん

ほろ

せんにん

さか

しそん

悪人ハのこりなく亡び善人ハいよ��栄へ子孫長久して

はつけんし

をこな

まな

くんふ

ちうこう

つく

八犬士の行ひを学ひ君父に忠孝を盡しけるとなん。

だいだんへん

大團圓」33

めいおう

ゆうきらくじやう

その後明應九年四月十六日ハ結城落城の六十回忌と義実

あた

へんめいし

さんけい

公の十三年忌に下るをもて義成主ハ延命寺へ参詣あり。

すきくらほりうちきんしゆ

ともからともひと

べうぼせうかうはて

しゆう��きやくでん

杉倉堀内近習の毎伴當たり。廟墓焼香果て主従

客殿にあ

けんし

とも

この

ほたんくわ

さきみち

かうふう

り。犬士も友にはんべりぬ。這にはに牡丹花の開満て香風

ふくいく

そのときち〔ゆ〕たい

馥郁たるに義成主ハはしちかくいましける。其時ヽ大

千葉大学人文研究

第三十九号

(192)

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しんそう

ぢうぢ

ねんしゆつ

ほうみやくでんとう

臣僧に住持しぬる事十八年をへたり。念戌に法脉傳燈し

いとま

たまは

こひもふ

よしなり

その暇を賜らまく此ぎゆるさせ給へかし。と請禀せバ義成

そのせいくわんいま

とゝ

まつそハおきわれうたかひ

ところ

きゝつゝ其情願今さら禁めがたし。先其置我

疑おもふ所

へん

かく

こちねん

あらは

ある

あり。禅師ハ忽焉として隠れ又忽然として顕るとか。或ハ

とやま

いは

ぜんし

〔読経〕

こへきこ

うかつのみ

おと

富山の嵒

むろ

に禅師のどけうの声聞へ又木を穿鑿の音のみ

その

そのこと

して其かたちを見たる者なしときく。いかに其事ありや。

とは

ちゆたい

しか

あいらく

さかひ

まぬか

こうぞうほうへん

と問れてヽ大ハ然なり。喜怒哀楽の境を免れ好憎褒貶に

けねん

あし

しゆ〔つ〕ほつ

掛念せされハ脚地をふまず雲にのるにあらざれとも出

はつけんくそく

さとみりようこう

はいけん

ちゆたいてるふみ

不思ぎ」【挿絵】〈八犬具足して里見両侯に拝見すヽ大照文

うばゆき

とも

姥雪も倶にす〉」34」の妙を得しハ我すら知らず。

るに文

このしらはま

なみ

くしまろき

いさゝか

明十六年の冬這白濱に濤の打寄ける異圓材あり。是を

けづりとり

ぢんこう

とやま

いは

おさめおき

削拿て焼試るに沈香なりけれバ富山の嵒

むろ

に藏置其後

しんそういとま

とくきやうすぎ

きざみしゆみ

臣僧暇ある毎に

むろ

にいたり讀経過て其材を刻須弥の四天

こぶつ

ざい

じゆすいちれん

王と廿五

ぼさつ

と廿五の古佛を作り奉り其餘材にて數珠一聯

きざみえ

すで

ぶつ

たい

かいげん

を刻得たり。既に佛

ぼさつ

五十體ハ開眼しまつりしが四天王

ハいまだ開眼を得す。這ハ八犬士に乞ふて八箇の玉もて

ぎよくがん

ほり

のべ

玉眼にせまく欲す。と述けるにそ八犬士進出て臣等八人

かんどく

きのふのこらずき

が感得の玉の文字昨日不殘消失て白玉となるのみならず身

ぼたんくわ

うす

このつき

みなきえうせ

にある牡丹花の痣子年々に薄くなり本月に至りて皆消耗て

このあ

ふせひめうへ

跡なく做りぬ。此玉此痣子あるをもて伏姫上の御子としれ

たうやかた

めしつかは

こう

きゆ

ゑんのぎやうじや

當舘に徴使れ功做りて文字も痣子も耗る事

役行者と

ふせひめがみ

とうで

まもりふくろ

のせ

とも

伏姫神の利益ならんと各玉を拿出つゝ護身嚢に打載て倶

(193)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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ちゆたい

にヽ大に返しけり。是によりてヽ大四天王を安房の」35

しぐう

おさめしてんづか

ふつぞう

のこきりやま

うへ

四隅に斂四天塚と做するを議し五十�の佛像を鋸山に植

ぶつしゆ

はか

よしなりぬし

いなむら

しろ

かくて

て仏種を殘す事を量り義成主ハ稲村の城へ帰りけり。恁而

はつけんし

しくう

おさめねんしゆつ

とてい

とも

八犬士ハ四隅に至りて四神王を斂

念戌ハ徒弟等と倶に

のこぎりやま

ふつそう

りやうき

ねんじゆつ

ぢうぢ

山へ佛像をう

づめ

両義全く事果ぬれバ念戌を二世の住持と

まうさ

いなむら

しろ

してヽ大ハ退院の歓びを禀んとて稲村の城に來にける折八

くんへん

ちゆたい

のちしんそうしゆくがんとけ

犬士も君邊に侍りける。ヽ大ハ礼果て後臣僧宿願遂て

とやま

げんざん

かき

つげもうす

富山に入ハ見参ハ今日を涯りなれバ告禀義ハ姫君を

くわんぜおん

おく

かのいわ

さしふた

そう

ぜう

ほり

觀世音の奥の院とし那嵒

むろ

を鎖垤ぎて臣僧ハ定に入まく欲

わとの

しよく

ことも

ゆす

す。といゝつゝ八犬士を見かへりて和殿等も職を児子に譲

いんいつ

り致仕して隱逸を楽まざるや。いふべき事ハ只是のみ。と

おは

こつぜん

かたち

いひも訖らず忽然として容ハあらずなりにけり。是により

かん

その

だいばんじやく

て親兵衛念戌ハ富山の嵒

くつ

に行見るに那

むろ

にハ大盤石もて

口を塞ぎ其石に一首の古歌をしるしたり。

とひ

そらゆくくも

○こゝも亦浮世の人の訪來れバ空行雲に身をまかせてん」

はんべ

さたん

たへ

【挿絵】」36」斯の如くに侍る。と聞て義成嗟嘆に堪ず。

さてはいくたびとふ

かな

つひ

この

やみ

原來幾度訪とても對面稱ふべからず。とて竟に這議ハ已に

ちゆたいぜん

わかれ

のぞみ

けり。

程に八犬士等ハヽ大禪師の別に臨ていはれし義の

ことは

たいゝん

まつりごと

すへ

理りなれバ倶に退隱の心あり。是より後國の政ハ都て四

ゆづ

家老に相譲りて折々出仕しぬるのみ。四家老ハ杉倉堀内東

しそん

そうぞく

しゆくん

荒川這子孫久しく相續したるのみならず八犬士も主君の姫

めとり

おの��

こども

ともし

上達を娶しより各

男女児に匱からず。

が中に犬江親兵

千葉大学人文研究

第三十九号

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まう

うひ

衛ハ十八才の時より子を擧けて二男一女あり。冢子ハ犬江

しん

あらたむ

真平父退隱の後親兵衛と改。二男犬江大八といふ。後依助

まさし

うつ

の養嗣となる。親兵衛仁舘山の城に移り住し�より妙真

むかへ

つく

しづをひめ

しうと

を瀧田より迎拿て孝養を盡し静岑姫もよく岳母に仕へけ

たら

まかり

る。妙真ハ何足ざる事もなく七十八才にて身故ぬ。只親兵

かけ

たん

衛に闕たる所ハ静岑姫不幸短命にて三十九才の秋身故ぬ。

この

によし

是年親兵衛三十才」37真平十三才二男大八十一才女子ハ八

せつ

うい

才也。又犬山道節忠與ハ三男二女あり。冢子ハ犬山道一郎

むね

中心後道節と改む。二男ハ落鮎餘之七有種が養嗣となり三

ゑん

ちうそう

くう

ふたり

むすめ

男ハ出家し後延命寺の住持となり道空といふ。両個の女ハ

めあわせ

かいけん

力次郎尺八郎に妻けり。又犬飼現八兵衞信道ハ三男一女あ

のりと

せう

り。冢子ハ犬飼玄吉言人後に現八と稱す。二男ハ犬飼見兵

のぶ

かすぬか

衛道宣後に滸我の政氏に仕ゆ。三男ハ甘糟糠助こは上総望

ごふり

陀郡の郷士とす。女の子ハ大学の冢子角太郎に妻せり。

やすより

まさより

又犬田豊後悌順二男二女あり。冢子ハ犬田小文吾理順と名

せい

づけたり。後に豊後と称す。二郎は本姓那古氏を名のらせ

よりあき

ひとゝなる

て那古小七郎順明といふ。成長の後下総なる行徳の郷士

むすめ

とす。両個の女児ハ犬江真平犬江大八に妻せけり。又犬塚

しなのもりたか

よび

信濃戍孝も二男二女あ〔り〕。冢子ハ犬塚信乃戍子と喚做し

はつけんし

みす

せきじやう

たり。」【挿絵】〈八犬士等簾をへだてゝ赤縄をひく〉」38」

しなの

しよう

まさし

むすめ

めと

ほんせい

後に信濃と称す。犬江仁が女児を娶りぬ。二郎ハ本姓大

ばんせうもりさと

なる

塚を名のらせて大塚番匠戍郷といふ。成長の後武蔵なる大

(195)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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よしたう

めあは

塚の郷士とす。一女ハ犬川義任が子に妻せ一女ハ犬田小文

つま

しもつけたねとも

吾の妻とす。又犬坂下野胤智ハ二男ありて女の子なし。

うひこ

〔阪〕け

のたねかど

よび

冢子ハ犬塚毛野胤才と喚なしたり。後に又下野と称す。二

あいばら

おほとたねよし

しもふさ

郎にハ本姓粟飯原を名告らせ首胤栄といふ。こハ下総へ

かうし

ながさの

よしとう

遣して千葉の郷士とす。又犬川長挾荘介義任は一男二女あ

のりとう

よびな

さうすけ

しやう

り。男子ハ犬川額蔵則任と喚做したり。後に又荘助と称

ばんせう

めあは

あまさき

よめ

す。一女ハ犬塚番匠に妻せ一女ハ蜑崎照文の孫夫とす。又

まさのり

うひこ

のりまさ

犬村大角礼儀ハ二男二女あり。冢子ハ犬村角太郎儀正と

よびな

しよう

しようかくのりたけ

喚做したり。後に大角と称す。二郎ハ赤岩正学儀武と

なのら〔せ〕

あかいは

ごうし

いぬがひけんきち

めあは

名告せ下野赤岩の郷士とす。一女ハ犬飼玄吉に妻せ一女

つま

こども

とみ

ハ那古小七郎」39の妻とす。八犬士かくの如く児子に冨て

さいほうおろそ

かく

ちやくしよしみち

且その才貌疎かならず。恁て義成世を去給ひて嫡子義通

けんりやう

も又賢良の君なれバ諸臣皆たのもしく思ひたりしに不幸

たんめい

このときよしみち

ちやくしたけわかまるなほおさな

短命にて其世久しからず。這時義通の嫡子�孺丸尚穉か

よしみち

いろとつくまろこの

さねたか

りしかバ義通の遺命によりて弟次麿這時ハ里見二郎實堯

かり

よつぎ

たけわかひとゝな

といひしを假に嗣とす。�孺成長らバ家督をわたすべしと

いふじゆんやうし

たぐひ

さねたか

定めらる。俗に云順養嗣の類なり。實堯則四世の國主に做

さはれ

ざま

りて上総介に任せらる。遮莫其心術父兄に似す勇あれども

やぶさか

よろづ

きび

しりぞ

にて萬に惨しかりけれバ罪なくして退けらるゝ者多か

そのとき

びようさん

かんしつ

たんかふ

りけり。當下八犬士ハ延命寺へ廟参の折閑室を借て商量し

とも

まい

さねたか

ぬる義あり。其後四五日を歴て倶に稲村の城に参りて實堯

こひまう

すで

かく

主に請稟すやう。臣等年既に六十にあまりて猶恁て候はゞ

千葉大学人文研究

第三十九号

(196)

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けんろ

ふさ

たいいん

賢路を窒くの恐れあり。いかで致仕して退隱せ」【挿絵】〈八

ひめたちおの��はつけんし

ほり

ぐそく

人の姫達

八犬士に嫁す﹇呂文﹈〉」40」まく欲す。愚息

かく

めしつかは

れんしよいつゝう

等ハ右にも左にも召使せ給ふべくもや。といふ連書一通を

さねたかすなはちそのしようくわん

まか

けんし

まゐらせしかバ實堯

情願に儘せて犬士等にハ身の

いとま

たまは

その

ちぎやうおの��ごせんぐわんもん

たまは

とも

暇を賜り其子等にハ釆邑

五千貫文を賜りて倶に

おほものかしら

そのじやうち

みなめしかへ

あらた

おの��そのしゆじやう

とうにん

大兵頭とす。其城地ハ皆召返して改めて各

其守城の頭人

めい

かくて

とやま

おのへ

くわんおんどう

たるべしと命ぜらる。恁而八犬士ハ冨山の峯上なる觀音堂

かたはら

いほり

むす

かつどうきよ

おい

やしなは

なゝたり

ひめうへたち

の側に庵を締び且同居して老を養まくす。七個の姫上達も

あひしたが

なき

けんし

おの��これ

いさ

相従はんとてうち泣給ひしを犬士等

是を諫めて冨山

ふせひめうへ

のぼ

ゆる

ハ伏姫上の御事ありしより女人登る事饒されず。いかでお

とゞま

こども

やしなひ

うけ

これ

をや

たのし

ん身等ハ留りて児子の養を受給へ。是も又親たる者の楽み

ねんごろ

なくさ

ひとり

したが

ゆる

すて

にあらずや。と叮寧に慰めて一人も従ふことを許さず。既

ふうふ

わかれ

のぞむとき

おの��そのこども

けうくんいけん

にして夫婦父子別に臨�八犬士

其児子に教訓遺言し

つれだち

とやま

いた

やまこもり

ふた

いで

はる

ふもと

て連立つゝ冨山に至り山居して二たび出ず。春ハ麓の

はなとり

とも

あき

おのへ

もみぢ

なつ

たにかは

みづ

花鳥」41を友とし秋ハ峯上の丹楓

しとね

とす。夏ハ溪川の水

むす

ふゆ

まとひ

おちば

たく

とも

てんめい

たのし

を掬む。冬は爐に團坐して落葉を焼のみ。倶に天命を樂み

うきよ

わす

かく

はたとせばかり

ほど

浮世の事を忘るるに似たり。恁て二十稔許を歴ぬる程に

つい

くわしい

あり

をり��こども

しもべ

をく

竟に火食せずや有けん。折々児子等が奴隷をもて贈りぬる

よねしほいしよう

いま

えう

うけ

ときけんし

ひめたち

米塩衣裳も今ハ要なしとて受ず。この時犬士の妻たる姫達

としおの��すで

をひ

しだい��

みまか

そのおつと

ハ年

既に老て漸々に身故り給ひしかども其良人たる

はつけんし

いま

いた

までかんしよくおとろ

みね

のぼ

たに

くだ

とぶとり

八犬士ハ今に至る迄顔色

衰へず峯に上り谷に下るに飛鳥

やす

いほり

まれ

きこ

のち

よりも易げにて庵に在る事稀なり。と聞えしかバ後の

(197)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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はつけんし

とも

こゝろもと

おも

あるひおの��ともひと

八犬士等ハ倶に心許なく思ひて有日

伴當を將てうち

つれたち

とやま

いほり

いた

おや

もりたかたねともまさしまさのり

連立て冨山なる庵に至りて親を訪ふに戍孝胤智仁礼儀

よしのりたゝとものぶみちやすより

かね

これ

こと

つど

いほり

うち

義任忠與信道悌順等ハ豫て是を知る如くうち聚ふて庵の内

すで

さだま

たねともしよし

むか

いましら

に在り。既に坐定りて胤智諸子に向ひて汝等いまだ思は

よしなりあそんゑんめいじ

けんし

ほたんくわ

す」【挿絵】〈義成朝臣延命寺に犬士等と牡丹花を見る〉」42」

よとくおとろ

ないらんまさ

おこ

や先君御父子の仁義の餘�

衰へて内乱將に起らまくす。

このゆへ

いさめ

いれ

あやうきなか

みたるゝなか

這故に諫ても容られず夫

危邦にハ入らす乱邦には居らす。

この

われらやたり

とうしよ

あだし

這故に洒家八名ハ當所を去りて他山に移らまくす。汝等

なん

たけう

もりたかたゞとも

盍ぞ倶に致仕して共に他郷へ去ざるや。といへば戍孝忠與

まさしまさのりよしたうのぶみちやすより

おの��

いまし

やう

おしへさと

礼儀義任信道悌順も各

其子を警めて異口同様に教諭せ

かんるいそゞろ

かしこ

かうべ

ば後の八犬士等ハ感涙坐にさ

しくむまでにし

ゆくねん然と畏みて頭を

たれ

とも

かうべ

もたぐ

あやし

低てありける程に其事やうやく果しかバ倶に頭を擡るに怪

やたり

おきな

こつゑん

いへの

ふくいく

ゐかう

むべし八個の翁ハ忽焉とあらず做りて室中に馥郁たる異香

しき

かを

そのゆく

かくねん

連りに熏るのみ其適ところを知るよしなけれバ皆愕然とお

したち

しゆつ

どろきて原来ハ大人達ハ仙術をや得給ひけん。然しも廣き

このやま

いづこ

さし

たづ

さいくわい

ねかは

這山を那里と投て索ぬべき。猶再會こそ願しけれとうち

すべ

もろとも

咳くのみ。せん術な」43けれバ共侶に山を下りて次の日

いな

おの��やまひ

かこつ

いとま

たまは

れんしよ

連暑の

〔署〕

願書稲村の城へまゐらせ各

病に推けて身の暇を賜

かへ

やから

たづさ

たきやう

その

りて釆邑を返し宅眷を携へて是より久しく他郷にあり。其

のちいくほど

とう

さねたか

そのいろね

みち

ひとり

よしとよ

くわくしつ

後幾程もなく當主実堯と其兄義通の獨子里見義豊と確執

おこ

ぼうそうはた

しづか

のちつい

さねたかうちじに

起りて房総果して静ならず。後竟に實堯戰歿し義豊も亦ま

うた

よしたか

なり

あんど

た撃れて義堯の世に做しかバ士民安堵の思ひをなしぬ。其

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第三十九号

(198)

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たか

たづ

しき

これ

まね

�義堯ハ後の八犬士の有所を索ねて連りに是を招ぎしかバ

せひなくやから

かづさ

犬士等ハ只得宅眷を将て上総の九瑠璃へかへり來つ。然れ

おの��おひ

あへ

つかへ

つか

よしたか

とも各

老を告て敢て仕途に就ざりけれバ義堯すなはち其

こども

めし

ちぎやうおの��

くわん

たまは

児子三世の八犬士を召出して釆邑

五千貫文を賜りて

とも

おほものかしら

この

おなじな

ゆうちけい

倶に大兵頭とす。這八犬士も父祖と同称にて武勇智計も又

よしたかよしひろ

ぐんちん

父祖に劣らず義堯義弘二世の國主に仕て軍陣に

のぞ

む毎に

せんこう

ちゆたいほうしとやま

あと

ゑいか

のこ

戰功」【挿絵】〈ヽ大禪師富山の跡をうづめて詠歌を殘す\

こゝもまた浮世の人のと〔ひ〕くれバ空ゆく雲に身をまかせ

ばんどう

あげ

てん〉」44」あらずといふ事なく其名を阪東にぞ揚にける。

ほど

よしたかあしかゝよしあきら

とも

さる程に天文十一年秋七月義堯足利義明と倶に下総の

こくぶだい

ほうじやううしつな

たゝか

よしあきら

そのとき

やはた

國府臺に北條氏綱と戦ふ。義明ハ當時上総の八幡にあり。

さがきやうゆう

たゝか

其性驍勇にして智力なし。この日の闘戰ひ初ハ勝に乗る

つひ

やわた

やぶ

うちじに

よしたか

といへども竟に八幡の隊より敗れて義明ハ陣歿す。義堯

はいそう

かへ

かつしかはんぐんかさい

うしな

敗走して上総に還る。是より葛飾半郡葛西を失ふ。上総も

しよじやうしゆ

そむ

おほ

くわいしゆ

よしたか

亦諸城主の叛く者多かり。真里谷信政魁首たり。義堯則

しいづ

ちうばつ

うちじに

しよじやうしゆ

そむ

ち椎津の城を攻て信政を誅伐す。信政戰歿して諸城主の叛

くだ

よしたか

へいきん

よしたか

く者皆降る。義堯又上総を平均せり。かくて義堯ハ天文二

みまか

よしたかそつ

よしひろ

よしひろ

きやうゆう

十年に卒りぬ。義堯卒して其子義弘嗣ぐ。義弘も又驍勇

たゝかひ

まのかみ

にん

ぬき

にして且闘戦を好めり。則左馬頭に任ぜらる。上総の佐貫

きよじやう

よしひろ

よしより

とも

へい

を居城とす。弘治二年義弘其子義頼と倶に」45兵を將て江

わた

さがみ

みうら

せめ

たゝ

よしひろ

たゝか

を渡して相摸の三浦を攻て北條と戦かふ。義弘大ひに戦ひ

かち

がう

りやく

りやうぶん

克て三浦四十八郷を畧す。是より久しく里見の封内とす。

(199)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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ゑいろく

よしひろ

ほうてううじやす

こくふたい

たゝか

〔いた〕

まけ

永禄七年義弘又北條氏康と國府臺に戦ふ。義弘大くうち屓

こくぶだい

しろおち

つか

ほうてう

て國府臺の城陥入る。是より下総ハ里見に属ずみな北條の

のち

たゝか

者になりぬ。是より後も北條氏と戦ひ已まず。天正六年

よしひろそつ

より

すなはちあわのかみ

にん

おにもと

義弘卒して義頼嗣ぐ。

安房守に任ぜらる。又鬼本を

きよじやう

わぼく

うぢまさ

むすめ

めあは

居城とす。天正五年北條氏と和睦して氏政の女を妻せら

ぎやぶ

をだはらぜい

せめ

あんど

る。其後和義破れて小俵兵に攻らる。十八年以後始て安堵

よしよりしゐのじゞう

じゞう

ぢよ

す。この時義頼四位侍従たり。是より後三世皆侍従に叙せ

より

じゞう

とな

そつ

らる。因て時の人安房の侍従と唱ふ。義頼卒して其子

さまのかみ

やす

たて

きよじやう

やす

左馬頭義康嗣ぐ。安房の舘山を居城とす。義康の子安房

たゞよし

いた

ひとりよしとよ

のぞ

守」【挿絵】」46」忠義に至りて十世なり。獨義豊を除きて

いふ

とうじらくはく

ふらう

とり

せき

ひがし

九世と云。當時落魄たる浮浪の身をもて鶏がなく関の東に

もとひ

ひら

ひら

つい

たいしよこう

のぼ

さとみうじ

て基を開き地を啓きて竟に大諸侯に做り登りしハ里見氏と

ほうてううじ

ほうてううじ

さとみ

おほ

くに

北條氏のみ。北條氏ハ里見に倍して多く國を獲たれども

そううんうじつな

やす

まさ

なほ

のちたへ

さとみ

ぼうそう

早雲氏綱氏康氏政氏直五世にして後絶たり。里見ハ房總二

つた

よしさね

なり

しゆんとくじんぎぜんせい

國なれども十世に傳へしハ義實義成二世の俊�

仁義善政

よけふ

たみ

これ

しんちやう

まこと

の餘馨にて民の是を思ふ事深長なりし所以なるべし。誠

びだん

に是美談ならずや。

ゑいめいはつけんりやくし

英名八犬畧志結局

【摺付表紙】

【見返し】

千葉大学人文研究

第三十九号

(200)

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【奥目録】

改刻本表紙

改刻本口絵

(201)

『英名八犬士』(五)―解題と翻刻―

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【改刻本刊記】

【改刻本冒頭】

千葉大学人文研究

第三十九号

(202)