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六花寮100年祭の顛末
令和元年(2019年)6月8日に、新潟大学で「六花寮100年祭」を開催した。こ
れはその経過と卒寮生OB会のこれからを説明する報告書である。
【はじまり】
今回の記念祭を開催することになったきっかけは、或る卒寮生からの発信であった。現
在、卒寮生の間では同報メールを共有している。このシステムでは、一人が投稿すると登
録してある卒寮生約200名に同時に電子メールを配信することができる。昨年の春に当
該卒寮生より、「来年の4月は旧制新潟高校の創設100年目になる。六花寮の前身であ
る寄宿舎も同時期に発足しており、来年は六花寮の100周年になるのでは。誰か記念の
行事を行わないか」というメールが投稿された。このメールにより、私は六花寮100年
祭の幹事を引き受けることになった。
【準備と交渉】
全国に広く散らばっている卒寮生に参加を呼びかけるには一仕事なので、昨年(201
8年)5月から準備を開始した。先ずは、新潟大学本部に後援を依頼することにした。大
学後援の名義が使用できると、マスコミなどの対外的な協力が得られやすく、何かと便利
である。後援名義使用の許可は簡単に得られたが、許可条件は「事業にかかる費用は負担
しない」というものであった。国立大学が独立行政法人となったことから、財政的に厳し
いものがある、と推測された。
次に、会場の選定が問題となった。関屋にあった新寮は既に無く、大学の施設を借用す
ることになった。最初は旭町第2体育館を使用する予定であったが、現地はとても懇親会
に利用できるような施設ではなかった。100名近くが参加できるような適切な会場を希
望したところ、医学部大講義室を借用できることになった。こちらは舞台や音響機器も設
置されていて、誠に都合のよい会場である。しかし、医学部事務局より、「当日の使用料
3万円なにがしを徴収したい」と申し入れがあり、ガックリした。その後、どこからかの
ご配慮により、「使用料は無し」という決定があり、気分は持ち直した。会場は決定した
が、日時が問題となった。桜の咲く4月初旬を狙っていたが、4月、5月は大学側の行事
が立て込んでいるため、開催は6月初旬となった。
今回の記念祭の進行では、学務部学生支援課が対応し、大学との折衝や会場設営などに
ご協力頂き、大変感謝している。
【記念祭の告知】
卒寮生は全国に散らばっており、しかも、学部が違うため一括して告知する方法が無い。
全学同窓会では広報誌「雪華」を発行しているが、発行が毎年6月であることからタイミ
ングが悪いものであった。このため、各学部の同窓会に依頼し、各同窓会誌に掲載しても
らうと同時にホームページにも案内を載せてもらうことにした。医学部、歯学部、人文学
部、工学部、教育学部、農学部の同窓会誌に掲載して頂いた。特に、教育学部では、記念
祭のチラシを3千枚印刷され、同窓会誌と共に同封して発送していただいた。
また、地元の新聞社にも案内したため、読売新聞には2月22日に、新潟日報には3月
6日に掲載された。朝日新聞、産経新聞、毎日新聞は掲載されず。日経新聞は地方版が無
いため、そもそも掲載できなかった。新聞による告知でこの行事を知った卒寮生も多かっ
たようだ。
【参加者の面々】
同窓会誌、新聞などで記念祭を告知したのだが、当初は反応が悪かった。3月末の時点
で申込者は20名程度であり、余りの少なさに驚愕し、一時は開催を断念しようかと考え
た。しかし、5月になってバタバタと申込みが続き、90名以上となった。前回(201
1年)の廃寮祭では約220名であったことから比べると、半減した。その原因は、かっ
て居住していた寮舎が無くなったからではないかと思われた。前回は、寮舎が無くなる前
に一度見ておこう、という気持ちがあったのではなかろうか。
今回の参加者の最長老は、昭和24年に旧制新潟高校に入学された伊東正夫氏であった。
この日のため、全国寮歌祭で使用された羽織を着用して参加された。現在、伊東氏は老人
ホームに居住されてみえるが、娘さん(写真左)の車に同乗して来場された。70年以上
昔の寮生活を思い出され、万感の思いではなかろうか。
参加者の中で最北からの参加者は、北海道北見市からであった。車とフェリーを乗り継
いで18時間かけて到着したという。また、最南は長崎市と佐世保市からであった。卒寮
以来始めて新潟を再訪した、という人もみえた。全員が記念写真に納まっているが、ここ
に参加された人達はそれぞれ順調な人生を歩まれた方ばかりである。大成功をしたという
ことはないが、精神的にも経済的にも幸せな生活を続けられたと考えて良い。参加された
方は、同窓生に胸を張って再会できる自信を持たれているはずである。
【寮歌の斉唱】
教育学部附属小学校のグランドで記念撮影を行った後、全員で寮歌を斉唱した。卒寮生
にあっては、寮歌を歌わないことには宴が始まらないからである。寮歌を歌うことで、数
十年前の寮生活を思い出し、年齢に関係なく気分は青春に戻っていった。この時、若手の
卒寮生にストームをかけさせたところ、久しぶりの発声のため語句を忘れ、下手なストー
ムとなってしまった。次回はとちらないようにしっかり練習してきて欲しいものである。
グランドに中高年の親父が集まり、太鼓の音に合わせてドラ声で歌っているのを見た近隣
の住人は不思議に思われたかもしれない。
次いで、会場を医学部大講義室に移し、懇親会が始まった。経費の面から懇親会ではビ
ールしか提供されないため、各自地元の銘酒を持参されてきた。寮で学生生活を過ごして
いた時には金がなく、飲む日本酒は二級酒(当時は一級、二級の等級があった)であった。
社会人になって余裕が出たのか、この日に持参された酒は吟醸酒や高級ワインばかりであ
った。
【学長からの祝辞】
懇親会が始まる前に、新潟大学学長の髙橋姿氏より祝辞があった。この日、学長からの
説明で私は始めて知ったのだが、新潟大学の学生数が1万人以上で、地方大学としては学
生数が多い方であるとのことであった。また、地方大学特有の問題が山積みしており、そ
れらを解決していかなければ今後の発展が望めないとも言われた。全国には大学と名の付
く教育機関は1,600校もあり、日本は学歴社会となっている。これからは、地方の大
学でなければできない教育をすることで特色を打ち出す必要があるかと思われた。
私の学生時代では、学長は雲の上の存在であり、入学式で遠くからチラリと拝見した経
験しかない。もっとも、入学して半年もしたら学生運動が始まり、授業に出席することが
無くなったせいもあるが。今回、学長と間近でお会い出来たのは良い体験であった。
【来賓の祝辞】
懇親会には参議院議員の森裕子氏が参加され、祝辞を述べられた。森氏は人文学部に入
学されたが結婚などで学生生活は8年であったとのこと。当時の学費が3千円であった、
ことなどの思い出を語られた。
今回の懇親会では、会場を盛り上げるため卒業生の中から有名人を来賓として招待する
ことを画策した。地元で有名な歌手グループねぎっこ(Kaede 、工学部卒)を呼ぼうとし
たが、ワンステージ30万円ということで、最初から断念。衆議院議員の西村智奈美氏に
連絡したところ、多忙であることで辞退された。その代わり、激励状が送られてきた。プ
ロレスラーのマッスル坂井氏(大学院卒)、俳優の西村元貴氏(農学部卒)に案内状を送
付したが無しのつぶてだった。BSN新潟放送の現社長の佐藤隆夫(法文学部卒)にも案
内状を送付したが、「六花寮で生活したことがない」との理由で、自筆の丁寧な手紙で辞
退された。しかし、「当日に取材クルーを会場に回して、テレビ番組で放映する」との有
り難い内容も文面にあった。
【長老OBの参加】
この日の参加者は90名以上であったが、西大畑にあった木造の旧寮での生活体験者は
9名だけであった。長老の3名に登壇していただき、殆どの参加者が知らない旧寮での思
い出を語って頂いた。写真左から、小林雄司氏(1953年入寮)、村山清一氏(195
7年入寮)、築井仁氏(1958年入寮)。小林氏は新寮のあった金衛町の町会長を長年
努められた。築井氏は旧制新潟高校の学帽を被られて参加された。
【軽音楽サークルの演奏】
懇親会では大学の軽音楽サークル「CRESCEND」による生演奏があり、会場を和
やかな雰囲気にしていただいた。その昔の大学のサークルにも音楽グループが存在してい
た記憶がある。当時はフォークソングが全盛期の頃で、楽器はギター1本程度であった。
最近の音楽サークルでは高価な機材が必要で、色々と大変なようである。
【これからのOB会】
2時間あまりの懇親会はあっと言う間に終わり、閉会後も会場に残って懇談を続けられ
ていた。職場や住居が全国に散らばり、滅多に会うことができないからであろう。次回は
何時に再会できるかもしれず、話は尽きないものであった。散会した後は、それぞれのグ
ループが古町、駅前の居酒屋に繰り出し、二次会となったようである。
さて、今回の記念祭を開催するにあたり多少の問題があった。それは五十嵐にある現在
の六花寮のことある。現寮は男女混在、全館個室となって寮歌が歌われなくなった。これ
までのような男性のみ相部屋という寮生活が無くなり、六花寮の伝統が絶えてしまった、
という意見が出た。旧制高校以来の六花寮生の精神は、関屋の寮舎が廃止となった201
1年(平成23年)の段階で終了した、と嘆く卒寮生もいた。このため、六花寮は201
1年に終わっており、100年目は無いというものであった。
しかし、寮の形態は時代の流れにより変化していくものであり、致し方ないものである。
その時代の社会情勢や環境により、学生の嗜好や生活実態は変化していく。社会の変化に
合わせて寮生活も変えざるを得ないものであり、変えなければ次の時代の波に乗り遅れる
ことになる。伝統や文化は一定ではなく、常に変化していくものである。そもそも、関屋
の六花寮でも創設から廃寮になるまで47年の期間があり、最初の入寮生と最後の入寮生
の間には50歳近い年齢差がある。親子以上の年齢差であることから、学生生活の過ごし
方、体験が全く違っている。同じ卒寮生といっても、年代が違うため話題が噛み合わない
は当然のことある。これから50年後になれば、最後の卒寮生も80歳近くとなり、その
頃には寮歌を歌える人は極めて限られてくるであろう。しかし、それで良いのある。時の
流れと共に思い出は消えていくものである。
今回の六花寮100年記念祭は無事終了した。前回の廃寮祭の際にも幹事を務めさせて
頂いたが、次回の節目には私の体力が維持できないと判断し、今回で幹事の大役は引退す
ることに決めていた。しかし、宮木義博氏(1983年入寮、工学部)が次回の幹事を引
き継いで頂けることになった。次回は5年後に、宮木氏の音頭で六花寮OB会を開催する
ことに決定した。皆様お身体に気を付けられ、次回も元気な姿で再会したいと存じます。
2019年7月1日
〒163-8644 東京都新宿区新宿郵便局私書箱57号
日比 恆明(1968年入寮、工学部)