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1 歴代支店長より100周年に寄せて 調 貿 殿 調 使

歴代支店長より100周年に寄せて - Bank of Japan...1 歴代支店長より100周年に寄せて 金 沢 支 店 開 設 百 周 年 を 迎 え る に 当 り 、 改 め

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歴代支店長より100周年に寄せて

金沢支店開設百周年を迎えるに当

り、改めて北陸経済の発展とともに

歩ませていただいた長い歴史の重み

を実感しております。

私が支店に勤務したのは昭和六十

年五月から六十一年十一月までの比

較的短い期間でしたが、日本銀行在

勤三十年のなかで最も印象に残って

います。伝統文化を身近かに感じ、

メリハリの効いた四季の変化(昭和

六十年は十二月中旬から三月下旬ま

で積雪、兼六園の桜の開花は四月中

旬)に魅了された一方、当時の北陸

経済は百年に一度の金融危機と表現

されている現下の情勢に劣らず厳し

いものでした。いわゆるプラザ合意

(六十年九月)に伴う円高誘導の時期

で、私が赴任したとき円は一ドル二

四〇円、離任するときには一四〇円、

僅か一年半の間に、百円も円高にフ

レてしまいました。合繊織物をはじ

め輸出依存度の高い北陸経済にとっ

て強烈なインパクトとなり、皆さん

から随分お叱りを受けました。円高

の地場産業への影響を報告する臨時

異例の支店長会議が開かれることに

なり、調査スタッフが鯖江の眼鏡業

界にヒヤリングに行った際、「自分で

殴っておいて痛いかどうか聞きに来

るとはけしからん」と言われたこと

を、そのまま会議の席上で披露した

ことを思い出します。「米国との貿易

不均衡是正のためにはやむを得な

い」、「最初輸出代金の目減りでデメ

リットが出るが、あとから輸入コス

トの低下を通してメリットが出てく

る」、「一国の通貨の価値が上ること

は基本的には良いこと」などと釈明

に努めましたが、為替相場の安定を

切望する皆さんに納得していただく

ことは出来ませんでした。一年半と

いう短い任期で、しかも最も厳しい

時期に金沢を離れることになり、後

髪を引かれる思いで一杯でした。

しかし、その後財政、金融両面か

らの思い切った景気刺激策を背景に

日本経済は予想外に早く立直りに向

かいました。北陸の地場産業も製造

工程の合理化や新製品の開発を推し

進め、力強く回復過程に入ったこと

が後任の村上支店長の支店長会議の

報告で確認でき、安堵したのを覚え

ています。

今回の欧米諸国の金融危機に端を

発した世界同時不況は、大幅な円高

を伴い再び北陸経済を直撃していま

す。世界経済がバランスを取戻し、

前向きに歯車がかみ合ってくるには

まだかなりの日時を要するものと思

われますが、伝統文化とともに生ま

れ育ったモノ作りの英知、創意工夫

をフルに発揮され、再度逆境を克服

されることと確信しています。

百年に一度の金融経済危機の最中

に百周年を迎える日本銀行金沢支店

が広報活動の一層の充実を図り、北

陸経済の羅針盤としての役割を全う

すべく努力を重ねていくことを一先

輩として期待しております。皆様方

のこれまでと変わらぬご支援、ご鞭

撻をお願い申し上げます。

時雨去りありがたきかな陽の光

―家内が金沢在住中に詠んだ句です。

金沢支店には約二十年前、元号が

昭和から平成に改まった頃、二年半

勤務した。冬を三回過ごしたので雪

にまつわる思い出が多い。

雪の朝、開門前の兼六園を歩きま

わったのも貴重な思い出のひとつ

だ。その朝、兼六園の裏木戸がなぜ

か開いていて、ごく自然の流れでそ

の中にいざなわれた。人の足跡のま

ったくない無垢でたおやかな雪面、

朝日に映える見事な雪吊り。殿様の

雪見もかくやと思ったものだ。

とはいえ遊んでばかりいたわけで

はない。当時、北陸経済は一九八五

年の円高ショックから立ち直る過程

で、その情報を収集して分析するの

が重要な仕事であった。支店では私

が社長クラスを訪問して経営の状

況、先の見通しなど高い次元のお話

を伺い、他方で数名の調査スタッフ

を使って現場に近いなまの情報を探

らせていたが、その結果はなかなか

興味深いものであった。一九八六〜

八七年の段階でトップの方がまだ慎

重な見方を示しておられたのに対

し、現場に近い実働部隊の間ではす

でに最悪期を脱したという強気の見

方が有力になっていたのだ。北陸経

済の足腰の強さ、たくましさを痛感

したものである。事実、景気はこの

あと力強く立ち直った。

地元経済界にお世話になるだけで

はなく、全国ベースの情報をお伝え

するという形でできるだけお役に立

とうとし、経済講演ないし卓話を週

一〜二回のペースでやらせていただ

いた。午前福井、午後富山というス

ケジュールで、食事をとるのは移動

中ということもままあった。私が北

陸道のサービスエリアのうどん屋の

味に詳しいのはこうした事情によ

る。市民講座で講義をしたことも何

度かあったが、受講者の意識の高さ

円高と北陸経済の

巡り合わせ

棚橋

靖夫

(第三十六代支店長)

昭和六十年五月〜

昭和六十一年十一月在任

金沢 雪の記憶

村上

稱美

(第三十七代支店長)

昭和六十一年十一月〜

平成元年五月在任

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巻 頭 特 集

にはいつも感服した。自分の父親の

ような年配の方が私の話を逐一メモ

しておられるのを見ながら、心の中

で”ありがとうございます“と言っ

たものである。同様に、地元名士の

方の教養の高さ、嗜みの深さをいつ

も敬服していた。金沢二十一世紀美

術館がこの土地につくられ、大きな

成果をあげておられることも、故な

しとしないと思っている。

自分でもほんの少しだが教養もど

きの経験をした。金沢支店内に百万

石句会というのがあって、そこに参

加して豊原月右先生の御指導を受け

たのだ。とはいえ、俳句の奥は深く、

私は駄句の山を築くことになる。そ

の一例。「雪つぶて」という兼題を

いただいた句会で、冬休みに遊びに

来た子供たちと雪合戦をしたことを

思い出して

幼な子に少しはずして雪つぶて

幼な子といっても中学生と小学生だ

ったが、その上の子はいまではもう

アラフォーだと嘆く。なにせ二十年

も前の話だ。

「雪」という兼題のときに神秘的

な雪の夜を思いつつ少しいたずらを

してみた。

寺町に今夜も出そうな雪おんな

駄句と笑うなかれ。支店長への配慮

もあったのだろうが、先生はよい点

をつけて下さった。

そして入行三年目の某君が次の句を

返してくれた。

念じても出るはずもない雪おんな

その某君はいまでは高名なエコノミ

ストとして国際的に活躍している。

ついでにもう一句

若き友送る宴の寒椿

転勤する某君の送別句会で詠んだも

のだ。月並みでキザな句と笑ってい

ただいて結構だが、この句はその日

の最高点をいただいた。

思い出は野外にも及ぶ。その頃セ

イモアスキー場が開設され、都市近

郊の最新設備のスキー場ということ

で、県も市も強く支援しておられた。

私も開場の式典にお招きいただいた

が、席上メインゲストである三浦雄

一郎氏とスキー談義をかわすうち

に、氏は私を上級者と勘違いされた

のか、一緒に滑らないかというお誘

いを受けた。格が違い過ぎると丁重

にお断りしたが、大スキーヤーとの

いっときの会話はスキーを愛する私

にとって大切な思い出となってい

る。もっとも、大スキーヤーと話を

しただけでスキーの技術が格段に向

上するものでもない。数日後、私は

このスキー場で転倒して両膝を捻挫

するアクシデントに見舞われた。大

事には至らなかったが、最近七十歳

の峠を越える頃から二十年ぶりに痛

み始めた。医師は加齢による膝の関

節の劣化とクールに診断するが、私

にはあの日の事故が原因と思われて

ならない。

雪の兼六園、円高ショック、俳句

会、大スキーヤーとの邂逅、いずれ

も夢のまた夢、四半世紀前のことだ。

しかし、膝が痛むたびにあの頃のこ

とを思い出す。金沢の雪の記憶を大

事にしていきたいと思っている。

日銀金沢支店は、明治四十二年三

月開設以来、大正、昭和、平成の四

世代、実に一世紀に亘り北陸の金融

経済の要めとして、ご活躍をされ、

輝かしい足跡を残して来られまし

た。支店職員の皆様方のこれまでの

ご努力に対し敬意を表しますと共

に、支店をこれまで陰日温にご支援、

ご協力下さいました行政、企業、地

域の皆様に、元日銀金沢支店長とし

ても心から感謝を申し上げたいと存

じます。

今、世界中が米国サブプライムロ

ーン問題を契機とした金融危機の伝

幡により、厳しい金融経済状況に置

かれています。グリーンスパン前F

RB議長は、「百年に一度の金融危機」

と言っておりますが、こうした困難

な金融経済環境は、金沢支店が見据

えて来たこの百年の間にも、日露戦

争終結後の反動不況、第一次世界大

戦後の大正不況、昭和初期の金融恐

慌、さらに太平洋戦争時や戦後の混

乱期、第一次オイルショック、バブ

ル崩壊平成不況など幾度も経験し、

その都度その混乱・困難を官民一体

となって克服して来た訳であります。

私が金沢支店長を仰せ付かってい

たのは、平成元年五月から平成四年

三月までの二年十ヶ月、平成バブル

のピーク(平成元年十二月末日 日

経平均株価三八、九一五円)からバ

ブルがはじけ好況の余熱が冷めてい

く時期(平成四年一月不動産融資総

量規制解除)でありました。この間、

公定歩合は年二・五%から矢継ぎ早

に五回引き上げられ、平成二年八月

六・〇%になったあと、退任時まで

に三回引き下げられ四・五%に、都

合八回の上げ下げを経験、株価も二

万円の大台割れ、ピーク比約半分ま

で下落致しました。金融経済界の皆

様にはご苦労の多かったことと存じ

ますが、その後の平成不況、そして

現在の苦難な時期(金利は実質ゼロ

金利、株価は一万円割れの水準)に

比べれば、未だ未だ恵まれていたと

地域金融経済の羅針盤

高柳

卓三

(第三十八代支店長)

平成元年五月〜

平成四年三月在任

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歴代支店長より100周年に寄せて

言えるのかも知れません。

仕事以外では、金沢生活は他地域

では仲々経験の出来ない充実した毎

日でした。スポーツ(白山、立山登

山。大きなゴルフ大会取り切り戦で

得た高さ五十㎝以上の大優勝カッ

プ)、懐の深い文化に接し(お茶、

百万石句会、焼きもの作り)、さら

には友人達との名所旧跡巡り(舳倉

島、滋賀渡岸寺、北陸三十三観音霊

場巡り)、味わいのある金沢弁、思

い出は尽きません。支店長退任後程

なく、縁あって富山銀行に再就職し

た際、句会の先生から

波の花 再び波に 帰るあり

の句を頂戴したのは嬉しいことでした。

それにしても、地域において種々

頼りになるのは日銀金沢です。次な

る百年に向けて、北陸金融経済の正

しい羅針盤、金融経済界の精神的支

柱として、前川元日銀総裁のいう奴

雁の精神でご健闘頂きたく、心から

期待しているところです。

金沢支店開設百周年、誠におめで

とうございます。今でも天気予報で

金沢に雪マークが付くと兼六園の雪

景色が目に浮かび、懐しい思いがし

ます。

私が金沢支店に勤務したのは平成

四年三月から六年四月までの約二年

間ですが、当時はバブル崩壊後の不

況が進行する過程で、繊維や工作機

械のウエイトの高い北陸経済は大き

な影響を受けていました。日銀とし

ては累次の利下げを余儀なくされて

いましたが、ある日役宅に帰ると、

全く知らないご老人から電話があ

り、「これ以上の預金金利引下げは

金利生活者として死活問題だ」と強

く抗議を受けました。「利下げで日

本経済が回復すれば、その恩恵は国

民全体に均霑する」という抽象的な

説明では到底納得されず、長時間粘

られ困ったことを覚えています。

当時地元新聞社主催で毎年末、財

務局長、国税局長、日銀支店長の三

者で、翌年の北陸経済を展望する座

談会がありました。私は自分の考え

を率直に述べるようにしていました

が、翌年の同じ席で司会の方から、

「去年はもう少し景気のいい話をし

てほしいと思ったが、一年経ってみ

ると大体支店長のおっしゃる通りに

なりましたね」と冗談半分に言われ

たことがあります。

私の在任時期は中西県政の最後の

頃で、新県庁舎建設の話が持ち上が

っていました。その基本コンセプト

などを検討する委員会が設置され、

私も委員の一人に加えて頂きまし

た。曾野綾子さん、高橋治さん、岩

城宏之さんなど各界の錚錚たる方々

がメンバーになっておられたと思い

ます。審議の中で、想定されている

建設場所では来庁者用に広めの駐車

場を確保するのは当然のこととし

て、職員用にも若干スペースを設け

たい旨担当者が遠慮がちに説明する

と、曾野さんが「職員用も必要なの

だから、もっと堂々と主張したらよ

い」と発言されていたのが印象に残

っています。

最後に、中央銀行業務からはやや

離れますが、ある日地元経済界の

方々が数名来店され、「石川県の森

づくり」を民間主体で展開したいと

考えているので、そのフォーラムの

座長になってほしいと要請され、お

引受けしました。着任以来ロータリ

ークラブ等で環境問題の重要性に言

及していたのがお目に止まったのか

も知れません。支店の会議室で立ち

上げ準備の会合を二、三度開いた記

憶があります。離任後の動きはフォ

ローしていませんが、酸性雨や黄砂

の被害が大きい地域だけに、森づく

りが順調に進んでいることを期待し

ています。

私の在任期間は平成六年(一九九

四年)四月から九年(一九九七年)

二月であるが、この間の金融経済情

勢は、バブル崩壊からの脱出を図る

ため低金利政策(公定歩合は一・七

五%から〇・五%へ)、財政出動及

び住宅金融専門会社の破綻処理であ

った。北陸経済自体はバブルの程度

が低かったため落ち込みの度合いは

相対的には少なく、公共工事の支え

で小康状態を保っていたともいえ

る。問題は、大型商業施設の郊外へ

の進出、金沢城内にあった金沢大学

の角間への移転、さらには石川県庁

の移転構想による中心部の空洞化で

あった。この間、金融機関経営に関

しては、過去の不良資産や新規貸し

出し難がのしかかり相当厳しい状況

にあった。私自身、北陸財務局長と

は緊密な連絡を欠かさないようにし

た。平成九年秋以降、大手の証券会

社や金融機関の破綻が表面化し、そ

の後、北陸三県の金融機関にも公的

資金の投入や破綻が発生することに

なる。

一方、日本銀行への政府のスリム

金沢雑感

豊田

武久

(第三十九代支店長)

平成四年三月〜

平成六年四月在任

金融不安・地震・

あんずの詩

西田

一郎

(第四十代支店長)

平成六年四月〜

平成九年二月在任

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巻 頭 特 集

化要請から、支店及び事務所の陣容

の縮小も頭の痛い問題であった。こ

れに絡んで着任から九ヶ月となった

平成七年一月十七日早朝に発生した

「阪神淡路大震災」のことが忘れら

れない。正に金融は社会インフラそ

のものであり、日本銀行本支店・事

務所の存在価値は非常時対応やリス

ク回避の能力であるといっても過言

ではない。支店長の陣頭指揮のもと

神戸支店関係者の不眠不休の働きに

は頭が下がると同時に我が身の覚悟

に怠りがあるのではないかと自省

し、スリム化にも自ずと限界がある

と感じた。後日、北陸在住の旧友を

お招きした会合で、大先輩にあたる

市橋

保氏(故人、当時は福井銀行

会長)から「今回に次ぐ死者四千人

近くを出した福井地震(昭和二十三

年)の時は、途中の橋、道路が崩壊

したため金沢支店から日本銀行券の

緊急輸送をリュックに詰めて運んだ

経験がある」との回顧談を伺った。

福井及び富山には日本銀行の事務所

と地元銀行の金庫には日本銀行券の

寄託という備えもあるが、平時にあ

っても日本銀行の地域の砦としての

役割を忘れてはならない。

さて、私生活では自然、歴史と伝

統文化に満ちた北陸三県を満喫し

た。無粋な私でも文化人になったよ

うな錯覚に誘う雰囲気があった。早

春に輝く立山連峰、長く続く遠浅の

能登千里浜、栄華と悲劇を偲ばせる

越前朝倉遺跡などが忘れ難い。こう

した人の感性を呼び起こすソフトパ

ワーこそ地域活性化のキーワードと

思う。親しくさせて頂いた松本静夫

氏(都市環境マネジメント研究所会

長)が街作りのコンセプトとして

「学都」を提唱され、これに行政も

呼応し実績を挙げつつあることは喜

ばしい。

最後になるが、週末には支店長宅

のあった石引から広坂を下り、香林

坊へ抜ける道と犀川をよく散策し

た。犀川沿いの室生犀星の石碑に刻

まれた

あんずよ花着け地ぞ早やに輝け

あんずよ花着けあんずよ燃えよ

が心に残る。

「ふるさとは遠きにありて想うも

の」、季節が巡るごとに、あの素晴

らしかった金沢の生活を思い出しま

す。私は平成九年二月から二年八ヶ

月間赴任しました。この間、金融不

安や日銀バッシングなど様々なこと

が生じましたが、「嫌なことは早く

忘れる」を信条とする私にとって、

こうした事はすでに忘却の彼方にあ

ります。他方、加賀の歴史や文化は

しっかりと脳にインプットされてい

ます。就中、和歌や俳句の素養を植

えつけて頂いたことは、私のその後

の人生を変えました。

当時の支店長会議でも、北陸の景

気や経済を何度か詞華表現した記憶

があります。「降りみ降らずみの時

雨景気」はその一例ですが、これは

「神無月降りみ降らずみ定めなき

時雨ぞ冬の始めなりける」から採っ

たものです。私の報告を聞いて何人

かの役員が北陸らしさが出てよかっ

た、と述べてくれました。

金沢支店には詞華表現せずにはお

れない何かの力が働いているように

思います。その背景の第一は、高浜

虚子の五女である高木晴子さんが昭

和三十年代初頭の支店長夫人であ

り、百万石句会の基礎を築かれたこ

とです。この縁で虚子は金沢を何度

も訪れ、支店にも短冊がいくつか残

されています。

北国の時雨日和やそれが好き

(虚子)

この霰これが北陸日和かな(晴

子)

前句は犀川のほとりの句碑に刻まれ

ていますが、まるで父娘の二重唱を

聴くような美しさです。

第二は、更に古く、金沢支店が開

設された明治四十二年頃のこと。当

時隣家には著名な俳人・小春庵桃芽

(野代谷徳次郎)が住んでいました。

桃芽は金沢支店の行員の作句指導に

あたったようで、俳句は開設当初か

らの伝統といえるようです。そもそ

も小春といえば薬種・宮竹屋勝豊の

俳号で、元禄二年に芭蕉が奥の細道

の帰路来沢した際に、善美をつくし

て饗応した人物です。勝豊の死後、

小春庵は回りまわって、最後は桃芽

に伝わりました。庵は昭和六年に焼

失、庵額のみが隣の大久保家に残さ

れたといいます。私は在任中手をつ

くしてこの額を捜し求めましたが、

行方は杳として知れませんでした。

この桃芽は日銀敷地内の神木・タ

ブノキをこよなく慈しみ世話をした

と伝わっています。

磯の上のつままを見れば根を延えて

年深からし神さびにけり

(万葉集・家持)

万葉の「つまま」がタブノキですが、

鱗片に覆われた樹齢四百五十年の支

店の神木をみますと、まことに神々

しさを覚えます。しかも毎年花をつ

け実を結びます。私はその生命力に

金沢で培われた歌心

片木

(第四十一代支店長)

平成九年二月〜

平成十一年十月在任

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歴代支店長より100周年に寄せて

感動し、在任中に市民の皆様に苗の

頒布を行いました。その苗も十年近

く経ち、各ご家庭で大きく育ってい

るでしょうか。

歌心がそそられる支店生活でした

が、その後気の向くままに俳句や短

歌を詠んでいます。もう少し溜まれ

ば句集でも出そうかな、と心ひそか

に夢を描いています。

日銀金沢支店開設百周年、誠にお

めでとうございます。心からお慶び

申し上げます。金沢支店は一世紀に

亘る歴史のたすきをつないできた訳

ですが、その一端に参加できた事を

とても誇りに思っています。

私が金沢に赴任したのは平成十一

年十月の辞令でした。当時は金融機

関の不良債権問題が未解決というこ

ともあって、日本経済全般としては

低迷基調を脱していませんでした

が、若干明るさを増しているという

状況でした。着任後お目にかかった

経営者の方々から、予想していた以

上に前向きの話を伺うことができ

た、というのが率直な印象でした。

そうした元気な企業の動きを分析

したところ、いくつかの共通点が浮

かび上がってきました。一つの流れ

は製品の機能面に関わるもので、

「小型化」、「軽量化」、そして「高速

化」の動きでした。もう一つは新分

野開拓の動きで、「環境」、「健康」、

それに「高齢化」に関わるものでし

た。これらをローマ字で表すと頭文

字はいずれも「K」となります。私

はこれらの「六つのK」について、

「機能面の三K」と「新分野の三K」

と整理して、企業が今後の発展方向

を検討する上で、一つの指針になる

ものと考えました。

さて、その後十年近くが経過し、

現在、北陸経済は米国のサブプライ

ムローン問題に端を発する国際金融

危機と、それに伴う急激な景気の悪

化に直面しています。今回の景気後

退は信用バブルの破裂による世界的

な信用収縮を伴うものだけに、今後

の調整局面は深く、かつ長期化する

のではないかと危惧しています。

こうした厳しい局面で生き残りを

図っていくためには、各企業が自社

製品の付加価値を高め、差別化を進

める必要がありますが、今後の企業

戦略を考える上で、改めて「六つの

K」が参考になるものと思います。

北陸の企業の持つ高い技術力によ

り、「機能面の三K」を一段と高度

化できます。また、新製品や新サー

ビスの提供に当たっては、「環境」

や「健康」、「高齢者」関連のマーケ

ットは拡大の一途であり、ビジネス

チャンスは益々増加しています。

特に、北陸の企業にとっては、中

国との地理的、歴史的な関わりの深

さが強みになると思っています。中

国経済についても世界的な景気後退

の影響は不可避と思われますが、過

去数年に亘る高度経済成長に伴い、

国内における所謂中産階級もかなり

育ってきており、高付加価値商品に

対する購買力も高まっています。中

国に関しては、従来は繊維や眼鏡な

どを中心に、安価な商品の供給基地

として、北陸の企業の競合相手とい

う認識が主流だったように思われま

すが、今後は「六つのK」を活かし

た商品の有力な輸出市場としても、

期待できるものと思います。

日銀金沢支店の新世紀は、「百年

に一度の金融危機」とも呼ばれる、

大変厳しい環境の下でスタートする

ことになりました。北陸経済の前途

は決して予断を許さないものと思い

ます。ただ、人間も企業も厳しい環

境の下でこそ、真の実力が磨かれる

と聞いています。難局に向けた北陸

企業の更なる挑戦を期待していま

す。

日銀金沢支店が開設百周年を迎え

る。誠に慶賀の至りである。この一

方で、世の中は百年に一度と言われ

る全世界的な経済危機に逢着してお

り、ここ北陸地方も、企業倒産が相

次ぐなど、埒外にはない。

ただ思い返すに、小生が赴任した

平成十三年五月は、バブル崩壊後の

混乱が終息し切れておらず、金融不

安はむしろ地方へ広がりを見せてい

た時期であった。そして、地元の石

川銀行が破綻した。加えて、中国の

急速な経済成長が、逆に地場産業の

繊維、メガネ、アルミ建材等を追詰

めかねない勢いを見せ、地域経済は

疲弊色を強めていた。

こうした中、平成十四年の金沢商

工会議所等主催の新年互礼会では次

のような一句を詠ませて頂いた。

飽き欲せば 厳しさをこそ

寒仕込み

これは、当地の方々に、表面的な

穏やかさの中にも、困難をむしろ糧

として、将来の飛躍を狙う熱意と進

出の気風を看て取ったからだ。事実、

今改めて「六つのK」で

難局に挑戦を

八木

哲雄

(第四十二代支店長)

平成十一年十月〜

平成十三年五月在任

信用の種蒔き重ね老

舗入り

鈴木

(第四十三代支店長)

平成十三年五月〜

平成十六年三月在任

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巻 頭 特 集

その後、中国を巨大な需要マーケッ

トの出現という観点から見直し、棲

み分け商品開発に腐心するとか、需

要家ニーズを徹底的に分析して新た

な商品、営業体制(例えば、少量多

品種、即時対応等)を構築するとい

った動きが広まった。こうした創意

工夫、努力の結果、平成十五年の新

年互礼会では次のように詠んだ。

蒔きし種土膨らませ春を待つ

この間には援軍もあった。NHK

大河ドラマ「利家とまつ」の放映だ。

また、新県庁舎や能登空港等の大型

公共工事が集中した効果も大きかっ

た。更に「まち博」といった官製で

ない大型イベントが街の活性化に役

立ったことを忘れてはなるまい。当

店の敷地内には、樹齢四五〇年とも

いわれている御神木のタブの木と稲

荷神社があるが、当店有志一同で、

神社を全面改築したうえ、霊域を整

備し、市民要望に応えて「まち博」

の散策イベントに参加し、好評を頂

いた。小生はこの他、「蕎麦学と饅

頭学」という屋台講座を開かせても

らった。とにかく街の方々とは、転

勤族の方々も含め、ずいぶん広く深

くご交誼頂いた。この関係は、プラ

イベート的にも未だに続いており、

誠に有り難い限りだ。

こうした中、うれしかったのは、

街の方々の努力の結果を、在任中に、

例えば「当地繊維業界に回復の兆し」

と銘打った本店報告等の形で、全国

に発信し得たことだ。更に、平成十

六年新年には次のような俳句を詠む

ことが出来た(これは日銀支店長会

議の席上でも紹介)。

こたびこそ手繰り寄せなむ宝船

現状の経済情勢は確かに厳しい

が、この街の人々には、前述のよう

に、困難をものともせず、創意工夫

と努力で切り抜けていく熱意と智恵

がある。もちろん日銀金沢支店は、

信用面を中心に全面支援の構えのは

ずだ。そうであれば、「また発車台

に戻っただけ」と気持ちを切替え、

お互い力を合わせて新たな百年の一

歩を踏み出してみようではないか。

私が、金沢支店に在任した平成十

六年三月から平成十九年七月までの

三年四ヶ月は、いざなぎ景気を上回

る戦後最長の景気回復の過程にあ

り、北陸経済も製造業が牽引する形

で回復を続けた時期であった。とく

に、コマツやその関連企業、工作機

械メーカーなどが、急激な需要拡大

に戸惑いつつも、生産能力の引上げ

を企図して、設備投資を積極化して

いたことが印象に残っている。一方、

企業部門と家計部門、大企業と中小

企業の間では二極化が進んでおり、

「金沢支店が毎月公表している景気

判断と実感は大きく違う」というご

指摘も少なくなかった。このため、

毎月の記者会見や各種の講演会で

は、景気実態をできるだけ丁寧に説

明するように心掛けたところであ

る。一

方、金融情勢は比較的安定して

おり、とくに懸案事項はなかったが、

金沢支店としては、平成十六年十一

月に行った新札への切り替えが大き

な仕事となった。昭和五十九年以来

二十年振りの改刷であり、支店を挙

げて取り組んだが、大きなトラブル

もなく、北陸の隅々まで新しい紙幣

が行き渡った時には、ホッとしたこ

とを覚えている。

この間、金沢では、平成十六年十

月に金沢二十一世紀美術館、平成十

七年三月に金沢駅前・もてなしドー

ム、平成十八年四月に山側環状道路

が完成したほか、平成十六年暮れに

は北陸新幹線の金沢延伸(平成二十

六年度末まで)が本決まりになるな

ど、長年の取り組みが次々と結実し、

地域活性化に関する議論が盛り上が

った時期でもあった。私も経済団体

などから声を掛けて頂き、金沢や能

登の活性化に向けていろいろな提言

を行ったほか、金沢支店が事務局を

務めている石川県金融広報委員会で

も、銀行協会と共催で、金沢二十一

世紀美術館において金融教育イベン

トを開催するなど、地域と一体とな

ってさまざまな活動をするように心

掛けた。

ところで、日銀では、百周年(昭

和五十七年十月)当時の前川総裁が、

記念誌の中で「日銀は我が国の金融

経済において奴雁の役割を果たすべ

き」という趣旨のエッセイを書かれ

たことがきっかけで、「奴雁」とい

う言葉が広まったことがある。「奴

雁」とは、福沢諭吉の書物に出てく

る言葉で、「雁の群れの中で、仲間

を外敵から守るために常に周囲の状

況を眺め、情勢に変化がある場合は、

いち早く警鐘を鳴らす役割を担って

いる一羽の雁」のことである。

金沢支店も、この百年間、北陸の

「奴雁」として当地の金融経済の発

展に何がしか貢献してきたものと考

えているが、今後とも、その役割を

担い、地元から頼りにされる存在で

あり続けることを大いに期待してい

る。

北陸の奴雁たれ

佐藤

毅一郎

(第四十四代支店長)

平成十六年三月〜

平成十九年七月在任

記事中に掲載した各氏の顔写真は、

金沢支店長在任当時のものです