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『峨眉山月』 ゆらぐ 峨眉山にかかる半輪の秋の月。 李白が …峨眉山にかかる半輪の秋の月。李白が詩に託した風景と思い ゆらぐ 平

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Page 1: 『峨眉山月』 ゆらぐ 峨眉山にかかる半輪の秋の月。 李白が …峨眉山にかかる半輪の秋の月。李白が詩に託した風景と思い ゆらぐ 平

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君よ! あの月よ。ふた

たび

眺めやりたいと思っても

その姿はない。

月を見ぬまま渝ゆ

州しゅう

に下る

のだ。

誕生から蜀を出るまで

の李白

 

李白は長安元年

(七〇一)に生まれた。

母が太白星(金星)を

夢に見て生まれたので

字あざな

を太白としたと伝え

られる。出生地は二説、西域の條じ

ょう

支し

(異民族)・四川省の

青せい

蓮れん

郷きょう

(漢民族)があるも、どちらと決めるにも確実な根

拠はない。いずれにしても五歳頃に蜀に移り住み、そこで

少年から青年時代を過ごした。幼いうちから古典教育を施

され、その文才を発揮し、時の人物蘇そ

頲てい

をして『此の子天

才英麗なり・・・』といわしめた。又反面剣術を好み、任

侠徒に加わり人を殺めたこともあったという。李白二十五

歳に至るまでの暮らし方において注目すべきことは、自ら

仙人世界に憶れ、有名な道教徒、東と

厳がん

子し

を訪ね岷び

山ざん

にこ

悠久の名作シリーズ(1)

『峨眉山月』  李 白

  ”李白の叫びが聞こえる“

  

今に伝えられる峨眉山月の歌

 

杜甫とならぶ中国を代表する詩人、李白の作であるが、

彼の特徴であろうか。どういう状況で作詩したかを作品に

述べたがらないせいもあって、制作年代の確定しにくい作

が多い。李白が晩年の五十九歳の年に反乱軍に加わったか

どで南方の夜や

郎ろう

に流される途次、三峡の辺りに滞在した時

の作ではとの説も一部あるが、従来の李白研究者達の説に

よると、李白が少年時代から住みなれた蜀し

ょく

の地を離れて、

長江を下る旅に出た時の作であろうと概お

おむ

ね一致しているの

で、通説に従って李白二十五歳頃の作としたい。したがっ

て若き李白が大志を抱いて家郷を出立した時、峨が

眉び

山さん

にか

かる月に惜せ

別べつ

の思いを寄せた詩とみたい。

李白が詩に託した風景と思い

峨眉山にかかる半輪の秋の月。 

ゆらぐ平へ

羌きょう

江こう

の川面に

その影を落としながら、ともに流れてゆく。

舟は夜半に清渓を発って

三峡へと向こう。

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Page 2: 『峨眉山月』 ゆらぐ 峨眉山にかかる半輪の秋の月。 李白が …峨眉山にかかる半輪の秋の月。李白が詩に託した風景と思い ゆらぐ 平

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もったり、

戴たい

天てん

山ざん

の道

士らと交遊

したことで

ある。また

当時道教の

聖地とされ

ていた峨眉

山にも登っ

ている。若

い時代にお

けるこれら

のことがの

ちの李白の

思想形成に

重大な影響

を及ぼしたといえよう。そして二十五歳のとき自己の見聞

を広め、いつか官途について経世の才を発揮する手づるを

求めるためにいよいよ故郷の蜀の地をあとにすることを決

意した。

          

固有名詞が活かされた詩の特徴と溶け込んだ情景

 

この詩の見どころの一つは僅か二十八字の中に峨眉山、

平羌江、清渓、三峡、渝州と五つの固有名詞が入っている

というところにある。それにも拘か

かわ

らず不自然な感じは全く

ない。むしろ読者には峨眉山の麓の平羌江に映る美しい月

の影と、清渓を発して舟は渝州へ渝州へと下ってゆく様子

が彷彿とされる。

 峨眉山は今の四川省の中央部に位置する成都市から南へ

約百キロ程の所に有る。平羌江は峨眉山の北側から流れて

きて山のま東に当たる岷び

江こう

という川に合流する。そこから

四十キロほど南下した所が清渓である。今もここは清せ

渓けい

鎮ちん

という地名が残っている。そして清渓より岷び

江こう

を更に南へ

下ると長江と合流することとなり、この江こそ李白がこの

詩における目的地とする三峡への本流である。峨眉山から

三峡までの距離は八百キロともいわれており、ともかく向

かわんとする渝州までは、峨眉山から三峡までのほぼ中間

点と考えてよい。

終生忘れなかった峨眉山の月

 李白は故郷蜀を出て以後、長い遍歴の生涯にあって再び

帰る機会をもたなかったが、峨眉山に懸かる月の光はこ

とに忘れがたいものであったことが、残された数首の詩に

よって窺う

かが

える。うちの一首であるが李白は晩年湖北省の武ぶ

昌しょう

に滞在していた時、同郷の僧が都に上るのを送別する

十六句の長詩「峨眉山月、蜀僧晏の中京に入るを送る」と

岷山

戴天山

成都

峨眉山峨眉山清渓

洞庭湖

黄鶴楼岳陽

楼泊羅

長沙

西陵峡

瞿塘峡

巫峡

白帝城

嘉陵江

渝州

岷江平羌江

大渡河

四川蜀

長江

○○夜郎

太線は詩に詠まれているコース此

の詩が詠ま

れたと思われ

るところ

平羌江…長江上流の一支流で峨眉

山の麓を流れる。現在は

青衣江(

せいいこう)

呼ばれている。

清渓……峨眉山の東南にある岷江

沿岸の宿場にある町の

名前。

三峡……四川・

湖北省の境にある

長江の峡谷地帯。上流

から瞿塘峡(

くとうきょ

う)・

巫峡(

ふきょう)・

西陵峡(

せいりょうきょ

う)

の三つをいう。

渝州……今の四川省重慶(

じゅう

けい)

市。清渓と山峡の

間にある。清渓から約

四〇〇キロの地点。平羌

江…長江上流の一支流で

峨眉山の麓を流れる。現

在は青衣江(

せいいこ

う)

と呼ばれている。

清渓……峨眉山の東南にある岷江

沿岸の宿場にある町の

名前。

三峡……四川・湖北省の境にある

長江の峡谷地帯。上流

から瞿塘峡(くとうきょ

う)・

巫峡(

ふきょう)・

西陵峡(

せいりょうきょ

う)

の三つをいう。

渝州……今の四川省重慶(

じゅう

けい)

市。清渓と山峡の

間にある。清渓から約

四〇〇キロの地点。

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Page 3: 『峨眉山月』 ゆらぐ 峨眉山にかかる半輪の秋の月。 李白が …峨眉山にかかる半輪の秋の月。李白が詩に託した風景と思い ゆらぐ 平

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題する詩を作っており、その中で「我、巴は

東とう

三峡に在りし時、

西のかた明月を看て峨眉を憶う」と詠い出している。老い

た李白が若き日を回想し自らの目に映じた自然の姿を、ひ

たすら客観的に描いているところに、却って峨眉山の月に

万感の思いが込められていることが窺える。

鑑賞と研究

 「峨眉山」は成都市の西南に位置する名山で標高三、

〇九九メートル。蛾の触角のような形で峰が対立すること

からこの名があるという。「平羌江」はその山のふもとを

流れる川。「峨眉山」からは峻険な高山を、「平羌江」から

はゆったりした流水を、「清渓」からはすがすがしい雰囲

気を、「三峡」は舟旅の難所であると共に、実社会へ乗り

出す李白の前途への不安を連想させるなど、固有名詞の文

字が与える印象を巧みに生かせている。

 全体の鑑賞として、この詩は峨眉山にかかる月(故郷に

残した恋人)に心を残しつつも、希望と不安を胸に長江を

下る舟旅の情を詠じたものである。前半二句では山の上に

かかる秋の月の光が川の水に差し入る情景を凝縮して述

べ、後半二句は峨眉山の月に心引かれる心情を詠じている。

当時の人々には月を仰いで昔の偉人や遠く離れている家族

を偲び、又月に心を託すという習慣があった。結句の「君」

は月を擬人化した表現であろうが、「峨眉」が美しい女性

の眉を連想させることもあって、李白が離郷の際に別れを

告げた女性の存在を暗示したものと解される。李白は数多

くの望郷の詩を残しているが、こののち一度も故郷の蜀の

地に足を踏み入れていない。李白五十九歳の冬、永え

王おう

璘りん

乱に連座し、夜や

郎ろう

に流されたとき、三峡を遡さ

かのぼり白帝城の下

まで来たが恩赦にあうとすぐ長江を下っている。何か李白

の心にかかり、故郷に入るのを躊ち

ゅう

躇ちょ

させていたのだろうか。

一つの謎である。

悠久の名作シリーズ(2)

『白帝城』  李 白

  今も人の心を捉と

えてはなさない李白の詩

 白帝城は三峡の一つの瞿く

塘とう

峡きょう

という峡谷の所にある名所

で、漢の時代に公こ

孫そん

述じゅ

という将軍が、此処に砦を築き、「我

こそは白帝(西の帝王)なり」と号したところから、その

名の由来となった。この詩は李白が長江を下る旅に出た時、

一夜明けた早朝、白帝城を発ってより江陵までを、舟で下っ

たことを詠んだものである。

 この詩の制作時期を知る上において、李白が生涯をとお

して、この三峡を二度下っていることに注目したい。一度

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