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2001 年度早稲田商学学生懸賞論文 第一席 美術館のマーケティング 美術館のマーケティング 美術館のマーケティング 美術館のマーケティング 小川 裕之 2002 3 早稲田大学商学部卒業)

美術館のマーケティング - f.waseda.jp · 2章で、マーケティングという切り口から美術館の現状を分析し、第3章では、エクスペリ エンスという概念とそれが美術館に及ぼすインパクトについて考察した。

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2001 年度早稲田商学学生懸賞論文 第一席

美術館のマーケティング美術館のマーケティング美術館のマーケティング美術館のマーケティング

小川 裕之

(2002 年 3 月 早稲田大学商学部卒業)

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美術館のマーケティング美術館のマーケティング美術館のマーケティング美術館のマーケティング 小川小川小川小川 裕之裕之裕之裕之

目次目次目次目次

はじめに

第1章 美術館の成立

第1節 ミュージアムの歴史

第2節 欧米における近代的ミュージアムの誕生

第3節 日本におけるミュージアムの歴史

第2章 美術館のマーケティング

第1節 なぜ、美術館にマーケティングが必要なのか

第2節 マーケティングへの適用

第3節 美術館のマーケティング

第3章 美術館におけるエクスペリエンスの実現

第1節 エクスペリエンスとは

第2節 エクスペリエンス実現への戦略的アプローチ

第3節 美術館におけるエクスペリエンス

おわりに

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はじめにはじめにはじめにはじめに

今までは、日本の美術館しか知らなかったということもあり、美術館に行っても特に不

満を抱くことはなかった。ところが、2001 年の夏にアメリカに美術館巡りを中心とした旅行

した結果、日米の比較をすることができ、いくつかの疑問を抱くことになった。その中心は、

なぜ日本の美術館はマーケティングができていないのか、ということであった。

また、現在、私たち生活者を取り巻く環境は変化し、生活者の価値観も多様化してい

る。その結果、日本では、モノが売れない時代とか、マーケットが見にくい時代と言われる。

そういった現象は、少なからず美術館にも及んでいるのではないか、とも考えた。

この論文では、第1章で、美術館の歴史から、美術館の誕生背景について考察し、第

2章で、マーケティングという切り口から美術館の現状を分析し、第3章では、エクスペリ

エンスという概念とそれが美術館に及ぼすインパクトについて考察した。

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第1章第1章第1章第1章 美術館の成立美術館の成立美術館の成立美術館の成立 1

なぜ美術館は、存在するのか。それは、ニーズ(必要性)あるいはウォンツ(欲求)があ

るからだ。では一体、誰からのニーズであろうか。芸術作品を後生に残すため、あるいは

芸術振興につなげるための国家からのニーズ。それとも、美術に関心のある国民からの

ニーズによるものだろうか。この疑問に関し、美術館の成立背景から考察していきたいと

思う。

第1節 ミュージアムの歴史

ミュージアム(Museum)の語源は、ギリシャで詩や音楽等の学芸を司る女神のミューズ

( Muses )の神 殿 、ムーセイオンからきていると言 われる。日 本 語 で ミュージアム

(Museum)というと、美術館、博物館という2つの意味を含む。一般に、美術館であれば、

Museum of Art、あるいはギャラリー(Gallery)というように表現される2。しかし、大英博物

館(The British Museum)のように、そのコレクションに美術品を含むミュージアムも存在

する。そして、メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)などの美術館も、その

コレクションには、エジプト美術、兵器・よろいかぶと、楽器などをも保有し、日本の絵画

中心のコレクションとは一線を画す3。このように、美術館と博物館との明確な区分は難し

い。そのため以下では、美術館(Museum of Art)ではなく、より広義にミュージアムの成

立について見ていきたいと思う。

1 本章は、倉田・矢島『博物館学』[1997]を基礎にして書いた。 2 ナショナル・ギャラリーなどは、ミュージアムと同様に、規模の大きな美術館の意味合い

で使われている。しかし、ギャラリーは、もともと廊下のことで、美術館という総合的なもの

より、直接的な展示室を意味することが多い(本間 『現代美術 ・展覧会 美術館 』

[1988])。 3 Art を広義に芸術ととらえると幾つかの分野に分けることができる。観賞のための芸術

作品である、純粋芸術(Fine Art)。工芸作品などの応用芸術(Applied Art)。楽器も

Music と Museum は語源が同じであるということもあり、芸術に含まれる(井出『美術館学

入門』[1996])。

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紀元前 300 年、ヘレニズム時代のアレクサンドリアにあったムーセイオン(Museion)が

世界最初のミュージアムだという説。あるいは、もっと古く紀元前五世紀、古典期アテネ

のアクロポリス神殿にあったピナコテーク(Pinakotheca)4や、アゴラ(広場)に作られたスト

アポイキレ(絵のある列柱館)がミュージアムの起源だという考え、または、そうしたものを

含めて古代ギリシャの神殿や宝物庫がその源流だという考えがある。あるいは、モノを集

め、それを見せたならば、より古く古代中国やバビロンに既に登場しているとも言う。

このように諸説あるが、現在のような広く一般に開かれたミュージアム、すなわち、調査・

研究、収集・保存、展示・教育を社会的役割とする機関となったのは、近代になってか

らである。とりわけ、現代のミュージアムのような公教育機関としての活動が前面に出てく

るようになるのは、1880 年代以降である(倉田・矢島 [1997])。

第2節 欧米における近代的ミュージアムの誕生

(1)ヨーロッパにおける近代的ミュージアムの誕生

ヨーロッパでは、市民革命を経て、「公共(Public)」の観念が成立し、近代公教育思

想が生み出される中、学校などと共にミュージアムが公教育機関として明確に位置付け

られた。その結果、ミュージアムが広く一般市民に解放されることになり、より充実したミュ

ージアムが求められるようになった。ここで、今日的な意味でのミュージアムが誕生した。

こうしたヨーロッパにおけるミュージアムの発展も、イギリスとフランスとでは異なり、さらに

ドイツ・北欧でも、それぞれの文化的背景や国民性から異なっている。イギリスでは、大

英博物館の創設とその発展もさることながら、地域の学術団体や地方政府による積極

的なミュージアムづくりが発展の大きな要因である。一方、フランスなどでは、王や教会の

収集したコレクションがあり、それを公開、保存することが制度的に整備されていくと共に、

発展をたどった。ドイツなどでも、フランス同様の道を歩む一方、自国の民族文化や各

地方の郷土の文化への強い関心が、野外民族博物館を発達させ、郷土博物館運動を

生んだ(倉田・矢島 [1997]参照)。

4 神々への願いをこめて碑文を刻んだり、絵が描かれた板であるピナクスが奉納されたと

ころで、美術館を意味するイタリア語のピナユテカ(pinacoteca)、あるいは、ドイツ語のピ

ナコテーク(pinakothek)の語源(並木・吉中・米屋『現代美術館学』[1998])。

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—ルーヴル美術館—

1973 年に創設し、200 年を超える歴史を持つ同美術館は、57,000 ㎡の展示スペース

に 30 万点を超える収蔵作品を持ち、大英博物館、メトロポリタン美術館と並び、世界三

大 ミ ュ ー ジ ア ム の 1 つ と さ れ る ( ル ー ヴ ル 美 術 館 日 本 語 版 ホ ー ム ペ ー ジ

http://www.louvre.or.jp/ 最終アクセス日:2002/5/11)。

ここに国王の絵画コレクションが集められたのは、17 世紀のことであり、戦地から略奪し

た美術品を持ち帰ったナポレオンの時代などを経て、創設に到った(西岡・福『美術館

ものがたり』[1997])。

—プラド美術館—

1785 年、自然科学博物館として建設が始まったが、ナポレオン軍の侵略による中断な

どを経て、1819 年、王室コレクションを集めた王立絵画・彫刻美術館として開館。1868

年の革命を経て国有化され、1912 年にプラド美術館と改称。開館当初の収蔵品は、約

300 点。現在は、絵画、彫刻、工芸品など約一万点を誇る。特徴的なのは、ヨーロッパ

の大美術館の中では、例外的に、略奪によるコレクションがないことである(読売新聞

2002/1/1 より)。

(2)アメリカでの近代的ミュージアムの誕生

ヨーロッパの大美術館の膨大なコレクションは、戦時下の中央集権的な帝国による強

奪と植民地からの略奪による部分が大きい。世界的規模の大美術館で、こういった経

緯なしで成立したものは、大半がアメリカに存在するものである。この違いは、設立の中

心的な担い手が国家によるものか、市民によるものかという点にある。作品があり、その

保管場所として誕生したヨーロッパの美術館。その一方で、歴史、伝統、美術品、いず

れも存在しなかったアメリカでは、作品のためではなく、人を育てる民主的な教育の場と

して誕生した。このようなことから、美術館教育が最も進んでおり、「アウト・リーチ」と呼ば

れる今まで美術館に来たことのない人への働きかけが盛んに行われている(倉田・矢島

[1997]参照)。

—ナショナル・ギャラリー—

ワシントンにナショナル・ギャラリーが創設されたのは、第二次世界大戦への参戦を目

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前に控えた 1941 年であった。創設者の実業家 A.W.メロンは、作品の収集と美術館の

建設に要した費用を全額負担しながら、同美術館をナショナル・ギャラリーと命名した。

また、同美術館には、当時、敵国であったイタリアやドイツの作品も収蔵された。これには、

優れた芸術文化は人類の共通の資産とみる精神が根底にあったと考えられる。そして、

それは、ナショナル・ギャラリーのみならず、美術館の存在を支える共通かつ基本の理念

であると言えよう(西岡・福 [1997])。

—ボストン美術館—

同様に、ボストン美術館が、日本人すらその価値を十分に認識していなかった時代か

ら収集を行い、世界最大級の日本美術コレクションを築いたのも、こうした精神によるも

のであろう。同美術館は、1876 年に創設され、その際に、教育もその使命として掲げら

れた。その収集品は、百万点を超え、あらゆる分野と地域と時代の美術品が一同に収

められている(西岡・福 [1997])。これらの動きには、アメリカの自由で創造的な文化によ

るところが大きいであろう。

—スミソニアン協会—

16 の博物館・美術館と 1 つの国立動物園があり、1 億 4 千万点の文化遺産や標本な

どが保有されている世界最大のミュージアム群である。その数は、日本の国立博物館と

美術館7館の総収蔵数の千倍にのぼる。スミソニアンは、英国の科学者ジェームズ・スミ

ソニアンが「知識の向上と普及」のために米国に遺贈した基金により 1846 年に創設され

た。すべての施設を一般公開し、入場料は全て無料、年中無休で運営されている。内、

9 つのミュージアム(国立動物園を含む)のあるワシントンの中心地、国立モールには、ナ

ショナル・ギャラリーも存在し、同様に入場無料である。

第3節 日本におけるミュージアムの歴史

「保管」という機能に限って見れば、正倉院は、八世紀以来、聖武天皇遺愛の品々な

どを収めて今日に到る。しかし、日本人が近代的ミュージアムを目のあたりにするのは、

1860 年の遣米使節団の際である。そこに同行した福沢諭吉の『西洋事情』により、ミュ

ージアムが広く一般に知られ、「博物館」という訳語が定着したとされる。実際のミュージ

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アムづくりは、1867 年のパリの万国博覧会に派遣された者を中心に、維新後の明治新

政府の中で進められていった。そして、1871 年に旧湯島大聖堂の大成殿で開催された

第一回内国勧業博覧会を引き続き公開する形で、1872 年に日本で最初の「博物館」

である文部省博物館が誕生した(倉田・矢島 [1997])。

現在、日本国内でのミュージアムの数は、都道府県教育委員会の登録を受けた博物

館と、博物館に相当する施設として文部科学大臣又は都道府県教育委員会の指定を

受けた施設を合わせると 1,045 館(1999 年現在)に及ぶ。その内、美術館は、353 館、

その他、博物館と類似の事業を行う施設が 4,064 館ある(『文部科学白書(平成 13 年

度)』)。

-国立西洋美術館-

収蔵品の大半が、松方正義の息子、松方幸次郎の購入によるものであるため、「フラ

ンス美術松方コレクション」とも言う。とりわけ、モネのコレクションは、「睡蓮」を始め、国際

的にも優れたものである。戦前に購入されたこのコレクションは、第二次世界大戦下に

敵国資産としてフランス政府に差し押さえられ、返還までに 15 年近く要している。同美

術館は、このコレクションの返還の条件としてフランス側の要請で 1959 年に創設されたも

のであった。しかしながら、ゴッホの『寝室』などは、返還されないままに終わった。設立以

来、西洋美術を専門とする唯一の国立美術館として、購入や寄贈によってコレクション

を拡充し、現在では、中世末期から 20 世紀までの美術作品およそ 4000 点を所蔵して

いる。

また、国立西洋美術館のある上野公園には、他にも、東京都美術館、上野の森美術

館、東京藝術大学大学美術館の 4 つの美術館と、科学博物館、東京国立博物館、上

野動物園があり、国内で有数のミュージアム集積地と言える。

—東京都美術館—

東京都美術館は、美術団体専門の貸館としてのギャラリーの歴史を刻んできた。改新

築する際に、本来のミュージアムとしての美術館にすべきだという要望が起きたが、現在

も主体を占めているのは、貸ギャラリーとしてのスペースである。日本には、多くの美術団

体が存在している。これは、画廊で個展形式にて発表するのが主流である外国の美術

界とは大きく異なっている。その違いを象徴しているとも言えるのが、同美術館である。

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第2章第2章第2章第2章 美術館のマーケティング美術館のマーケティング美術館のマーケティング美術館のマーケティング

マーケティングとは、「価値を創造し、提供し、他の人々と交換することを通じて、個人

やグループが必要とし欲求するものを獲得する社会的、経営的過程」である(P.コトラー

[1997: 5])。この章では、前章で述べた美術館の成立背景を踏まえ、なぜ美術館にマ

ーケティングが必要なのかを述べ、美術館のマーケティングについて考察していきたいと

思う。

第1節 なぜ、美術館にマーケティングが必要なのか

(1)美術館の果たすべき役割

美術館の成立過程は、コレクションから発展したヨーロッパ型と、市民からのニーズから

発生したアメリカ型とに大別することができる。日本の場合、ヨーロッパのようなシーズ志

向ではなく、ニーズの発生から誕生を果たした点では、一見、アメリカ型のようであるが、

そのニーズは、市民ではなく、国家から発生したものである5。いずれにせよ、ニーズ先行

型であるために、現在の美術館を形成しているのは、その使命や事業領域によるところ

が大きかったのではないだろうか。そこで、美術館のマーケティングの必要性を考察する

前に、美術館の使命を改めて明らかにしたいと思う。これは、企業であれば、事業領域

(domain)に該当するであろう。

現在の美術館は、教育施設として公共性を帯びている。そして、その美術館を支える

思想は、アメリカの美術館で顕著に見られるように、芸術は人類共通の資産であるいと

いう精神に基づく。国際博物館会議(ICOM)6の初代議長ジョルジュ=アンリ・リヴィエー

ルは、ミュージアムを「知識の増大、文化財・自然財の保護と発展、教育、文化を目的と

して、自然界、人間界の代表的遺産の収集、保存、伝達、展示を行う社会的施設」と

定義した。日本では、博物館法により、博物館の定義、活動内容が定められている。

5 ニーズ志向が「はじめに顧客ありき」であるのに対して、シーズ志向とは「はじめに製品

ありき」である。つまり、市場や顧客とは、関係なしに製品を作ることを言う。美術館であ

れば、はじめに作品ありきというケースがこれに該当するであろう。 6 国際博物館会議(ICOM)は、国際連合の専門機関の1つである国連文部科学機関

(ユネスコ)のもとに 1946 年に設立された博物館及び博物館職員に関する機関である

(並木・吉中・米屋 [1998])。

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「博物館」とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保

管し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、

レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関

する調査研究をすることを目的とする機関

(博物館法第二条より抜粋)

つまり美術館は、「芸術作品を収集・保存し、科学的な調査・研究によって収集資料

の価値を確定し、あるいは価値を高め、その収集資料の展示・公開による教育をその役

割とする機関」と定義できるだろう。

この美術館の定義と欧米の美術館の理念から考えると、より多くの顧客を開拓すること

が、美術館の重要な使命の1つであろう。日本では、文化庁によって芸術文化の振興や

優れた美術品の鑑賞機会を増やすための取組みが行われている。その活動の1つとし

て、2001 年 12 月 11 日に、小中学生向け国立美術館や国立博物館の常設展の観覧

料金を無料にする措置が発表された。しかし、欧米の場合、公費で運営されているミュ

ージムは、子ども、大人を問わず常設展は無料と言うケースが多い。それと比較すると、

まだまだ十分とは言えないのが現状であろう。そもそも、現在も低料金であるのだから、

美術館に来てもらうためのコスト面以外のアプローチ、例えば、展示解説(guide tour)、

講演(lecture)、講座(course of lecture)、実技教室(workshop)などに力を入れた方が

よいのではないだろうか7。アメリカの美術館を見て歩いた時に強く感じたのが、展示解説

の充実である。1日に数回、時には、日本語で行われていた。

また、日本の現代美術の創造を自らの手で果たしていくことも、重要な役割であろう。

現在、浮世絵や古美術が世界的にも高い評価を得ているが、それは、日本人の手によ

るものではなく、外国人の手によるものなのだから。

(2)なぜ、美術館にマーケティングが必要なのか

前述した使命、とりわけマーケットの開拓という役割から、マーケティング導入の必要性

が浮かび上がってくる。事実、1956 年、ニューデーリーで開かれたユネスコの総会にお

7 国立西洋美術館の常設展観覧料: 小・中学生 70 円(20 人以上の団体は 40 円)

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いて、「ミュージアムはより広い層、特に労働階級の人々を引き付ける方法を考慮すべき

である」と要望され、1960 年のユネスコ総会では、ミュージアムをあらゆる人が活用できる

ようにするための方法に関する勧告が採択されている。

また、従来は合理的なマネジメントとは無縁とされてきた地方行政にも、最近、マーケ

ティング手法を導入する動きが広まっている。この背景には、市民の生活意識が高まり、

各種の政策や行政サービスにも顧客志向を求める声が高まってきたことなどがある。

より広義に、マネジメントの視点から見てみるとどうなのだろうか。博物館経営(Museum

Management)は、当然、ミュージアムの誕生以来存在しているはずである。しかし、明確

に博物館経営論というものが、形成されたのは、1960 年代のアメリカにおける博物館運

営の中からだとされる8。日本では、1990 年代に博物館経営論の必要性が提唱され始

めた。その背景としては、社会的な各種のインフラストラクチャーの整備が一段落しつつ

あること、文化的なインフラストラクチャーの整備という指向性が生み出されたことなどが

挙げられる。いずれにせよ、まだ、マネジメントの必要性が提唱されてから長い年月を経

ておらず、国や地方自治体の文化行政に位置付けられているという性質上からも、合理

的なマネジメント手法が確立、導入されていない。

第2節 マーケティングへの適用

言うまでもなく、非営利組織の美術館と営利団体にも、類似点がある。だからこそ、マ

ーケティングというフレームワークに対応させて考えることができるのである。最大の類似

点は、その保有する資源を最大限に利用して、最大限の効果を上げようとしている点で

ある。以下、美術館の持つ教育機関という性質とサービス業という性質について考察し

ていきたい。

(1)教育機関としての美術館

政策マーケティングについて、従来のマーケティングに対応させて考えると、図1のよう

になる(古田隆彦[2001]『宣伝会議』掲載の図を見やすくした)。

8 南博史によれば、ミュージアム・マーケティングは、英国で 1970 年代後半から議論さ

れ始めたと言う(大堀・小林・端・諸岡『ミュージアム・マネジメント』[1996: 70])。

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これは、国家のニーズ

により誕生した美術館に

ついても同様に考えるこ

とができるであろう。とりわ

け、日本のミュージアム

は、施 設づくりばかりが

先行し、博物館の実質と

しての博物館活動を充

実していないとの指摘が

あることからも、早急に考

えなければならない問題であろう。これは、博物館を単なる施設としてしか認識していな

いことに起因する。小売業における店鋪の完成同様、本来、博物館の完成は、出発点

に過ぎないのである。つまり、顧客のニーズに合わせた品揃えと宣伝、美術館であれば、

常に充実したコレクションとその展示、利用者のニーズに応えた活動や情報の提供が必

要なのである。もちろんそれには、開館後の十分な予算が必要不可欠である。

(2)サービス業としての美術館

あるいは、美術館をマーケティングの観点から見ると、サービス産業とも言えるであろう。

ここで言うサービスは、製品の付属サービスではなく、むしろ、レジャー産業に近いものと

言える。最近まで、サービス企業のマーケティングは、メーカーに比べ遅れていた。これ

は、正式なマネジメントやマーケティング技術を駆使していないかったことやサービス・ビ

ジネスには、従来のマーケティングの手法がそのまま活用できないことによる。美術館に

関して言えば、「公共性」というものが重視され、非営利企業の側面を持ち合わせている

ことも大きいだろう。しかし、これからの“サービス経済化の時代”には、非営利組織もそ

の経営組織としての有効性が問われているため、サービス業との意識を持っていくことが

少なからず要求されるだろう。

サービスには、大きく4つの特性がある。まず、物理的製品のように、購入前に見たり、

触ったり、味わったりすることが出来ない、「無形性」。次に、サービスの生産と消費は、

同時に行われるという、「非分離性」。そして、提供者、時間、場所によって大きく左右さ

れるという「変動性」。最後に、サービスは、在庫できないという「即時性(消滅性)」の特

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性がある。

また、サービス・マーケティングにおいては、Product(製品戦略)、Price(価格戦略)、

Place(立地戦略)、Promotion(販促戦略)の 4Pに加えて、インターナル・マーケティング

とインタラクティブ・マーケティングが必要とされる。前者は、顧客満足を実現するため、サ

ービス支援担当者と顧客接客担当者が一体になって業務を推進することである。後者

は、顧客接触を行う従業員の技術を指す。

図2は、倉田・矢島『博

物館学』において、博物

館活動が図式化された

ものである。この図では、

調査・研究が中核で、続

いて収集・保存、最後に

展示・教育となっている。

しかし、利用者本意、す

なわち、マーケティングの

視 点 から分 析 すれば、

展示教育が、中心部を占めるべきではないだろうか。そういった意識を持つことが、マー

ケティング実現への第一歩につながるであろう。

第3節 美術館のマーケティング

(1)なぜ人は美術館に来るのか

美術館の利用者について考察するとどうなるのだろうか。よく美術館を利用する人たち、

いわゆるリピーターは、既に関心のある少数の限られた人たちではないだろうか。こういっ

た人達は、美術館の取組みに関係なく、来館するであろう。美術館のマーケティングを

考察するにあたっては、新規に来館する人を増やす。あるいは、初めて来た人に、再度

来館してもらうことが重要になる。

では、なぜ人は美術館に来るのだろうか。これには、大きく 4 つの要因があると考えられ

る。まず、周りに、例えば親、美術の関心のある人がいるといった環境的要因。次に、一

種のスタータスとして鑑賞に行く階層所属意識。そして、マスコミの影響。最後に、流行

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に乗ろうとする欲求があると考えられる。

(2)美術館

美術館の評価は、概ね、そのコレクションと施設によって決まる。マーケティングで言え

ば、前者が Product に、後者が Place に相当するだろう。施設とは、「ある目的の為に設

けられた設備」を意味し、そこで行われる活動や機能を支える建物やそれに付随する設

備、つまりハードウェアということである。美術館であれば、建物と幾つかの目的や機能を

実現できる部屋が該当する。それに対して、コレクションと提供されるサービスがソフトウェ

アになるだろう。

国立美術館数館を見てみると、それなりの量のコレクションを収蔵し、また、年々、国費

によりコレクションを拡充している。そのコレクションを常設展示したり、外部へ貸し出した

りしている。その一方で、外部からの借用作品による一時的な企画展を行っている。この

常設展と企画展との二本立て方式がそのまま、日本の地方公立美術館における展覧

会事業の一般的方式となっている。

ルーヴル美術館や大英博物館などは、コレクションのうち評価の高い作品を公開し、

その他の作品は、いろいろと活用されているが、これらはあくまで例外的である。巨大な

常設展と同時に様々な企画展を行っている美術館として、メトロポリタン美術館やナショ

ナル・ギャラリーなどがある。この観点から見て、理想的なモデルケースとして考えられる

美術館として、メトロポリタン美術館がある。メトロポリタン美術館の予算は、日本円に換

算して、百数十億に及ぶと言う。しかし、その予算の内、N.Y.市の負担額は、わずか 10

数%と言う。では、残りの予算は、どこから拠出されているのだろうか。それは、ミュージア

ム・ショップの売上、寄付金や募金、資産運用、会費の収入などにより運営されている。

これは、自分達の美術館は、自分達で守り育てていくという意識による。その結果、メトロ

ポリタン美術館は、自己成長を続けている。それは、膨大な収蔵作品数から見ても明ら

かであろう。それにくらべると日本の意識は、まだまだ不十分であろう。

いずれにせよ、今までミュージアムは、実物中心の展示に力を入れてきており、それは、

今後も続くであろう。しかし、その一方で、近年、ミュージアムでは、参加体験型の展示

が増えてきていると言うのも特徴である。そのように、ミュージアムは開かれたものとなり、

幾つかの形態へと発展を遂げている。それは、庭園型の美術館であり、エコ・ミュージア

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ムである9。

(3)プロモーション

いかに優れた美術館が出来ても、顧客に知ってもらわなければ、来てもらえない。そこ

で、広告などでプロモーションを行う必要がある。企画展においては、短期的には集客

効果が見込める、従来の4マス媒体(テレビ、ラジオ、新聞、雑誌)を駆使した広告活動

も友好手段であろう。しかしながら、多くの美術館においては、その「公共性」から、パブリ

シティが有力なプロモーション手段と考えられる10。

また、インターネットも美術館においては、有効なプロモーション手段と考えられる。イン

ターネットで、展示作品や風景を公開することにより、事前に概要を分かってもらうことが

でき、来場するまでどういった展示か分からない「非分離性」による事態を避けることがで

きるからだ11。

ルーヴル美術館のホームページには、日本語版が用意されており、ルーヴル美術館の

内部や周辺の雰囲気を感じてもらう意図で制作されたヴァーチャルツアーも行われてい

る。

ルーヴル美術館日本語ヴァーチャルツアー

(http://www.louvre.or.jp/louvre/QTVR/japonais/intro2.htm 最終アクセス日

2002.5.5)

9 ミュージアムに当事者や来館者のみならず、地域のエコロジー(生態系)をミュージア

ムに取り込もうという動きである。 10パブリシティとは、企業や団体が、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、など各種の媒体(客観

的な報道機関)に対して、その意図している方針、商品の特質などの情報を自主的に

提供することにより、対象媒体の積極的な関心と理解のもとに、広く一般に報道してもら

う方法、およびその技術をいう(亀井監修[1998: 185])。 11 「非分離性」とは、サービスの生産と消費は、通常、同時に行われ、分離することが出

来ないことを示す(P.コトラー[1997: 434])。

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MoMAでも、現代アートを動画によって紹介しているページがある12。

MoMA online project

(http://www.moma.org/docs/onlineprojects/) 最終アクセス日 2002.5.5

いずれも、動画を駆使したものである。動画を使用出来るというのは、インターネットの

特性の1つであるが、近年のインフラの向上により、最近、その動きが顕著になっている。

12 正式名称は、ニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, New York)。

通称、モマ(MoMA)と呼ばれる。1929 年の設立。「新しいアートを見せるためには、新し

い理念をもった美術館が必要だ。」という考えのもと、三人の女性の手によって誕生した

(西岡・福[1997])。

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第3章第3章第3章第3章 美術館におけるエクスペリエンスの実現美術館におけるエクスペリエンスの実現美術館におけるエクスペリエンスの実現美術館におけるエクスペリエンスの実現

これから美術館は、どのように変化していくのだろうか。その方向性として、ここでは、ポ

ストモダン・マーケティングの概念の1つ、エクスペリエンスを取り上げた。

第1節 エクスペリエンスとは

我々、生活者の価値観の多様化が進み、情報や商品は、もはやその存在だけでは魅

力を感じてもらうことができないし、他社との差別化もできない。それらを価値あるもの、あ

るいは、魅力的なものにするには、一体何をすべきなのだろうか。また、製品の価値を測

る尺度は、これまでも様々なものがあった。しかし、人気のサービスや商品の中には、今

までの価値尺度では説明できないものもある。それを紐解く鍵となるのが、エクスペリエン

スであり、エモーション13ではないだろうか。では、一体、エクスペリエンスとは、なんなので

あろうか。B.J.パイソンと J.H.ギルモアは、その著書『経験経済』[2000: 29-29]で、コーヒ

ー豆を例にとって、エクスペリエンスをおおよそ次のように説明している。

コーヒー豆と言うコモディティを収穫し、先物市場で売ると、カップ一杯で、一セントから

二セントにしかならない。ところが、加工業者がこれを炒って、粉にひき、そして製品とし

て食料品店に納めれば、価格はとたんにカップ一杯当り五〜 二五セントに跳ね上がる。

同様に、ひいた豆を、レストランやコーヒーショップなどでコーヒーを提供すると言うサービ

スは、カップ一杯あたり五十セントから一ドルになる。こうしてコーヒーは、やり方次第では、

コモディティ、商品、またはサービスという三つの異なる経済的オファーのいずれにもなり

うる。そして、それに対応して、顧客がオファーに見出す価値も、三種類の異なる価値帯

を形成する。同じコーヒーを、五つ星のレストランや高級エスプレッソ・バーで提供すると

どうだろう。こうした場所ではコーヒーを注文すること、入れること、消費することという一連

の行為そのものが雰囲気を良くし、劇場にいるような効果もあるので、消費者はカップ一

杯のコーヒーに二ドルから五ドルの間の料金を喜んで支払う。この第四のレベルに達す

13エモーションとは、「感情」「感性」「感覚」「情緒」を意味し、商品を通じ、どのように消

費者のエモーションを喚起できるかということが要求される(匿名「エモーショナルマーケ

ティング」[2000])。言い換えれば、広義に見ると「経験」を実現するための、1つのアプロ

ーチ手段としてとらえることができる。

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るビジネスは、コーヒーを買うという行為を独自の「経験」として提供し、これによって価値

と価格を元のコモディティよりも二桁以上引き上げる。

これは、生活水準が向

上するにつれ、生活者が

要求するものが変化して

いくということである。パイ

ソンとギルモアは、図3の

よ う な グ ラ フ を 描 い た

(p.119)。従来のマーケ

ティングは商品の機能、

品質、サービスの利便性

ということを中心的な価

値としてきたが、現在求められているのは、機能や利便性を超えたより高い 次元の価値

の提供である。そうした価値であるエクスペリエンスという概念 を中心に据えたマーケテ

ィングによって消費者に「感動」と「共感」を提供し、価格競争ではないやり方で成長して

いくための具体的な方法が求められていると言える。

つまり、「経験」とは、過去のモノではなく、今、ここで感じることのできる、「忘れられない

思い出に残る体験」を意味しているのである。

エクスペリエンスを実現した最たる例は、スターバックス社であろう。同社は、1971 年に

コーヒー豆の販売店としてスタートした。それが今や、単に美味しいコーヒーというサービ

スの提供のみならず、コーヒーの香りの中で味わえるひととき、つまりコーヒー・エクスペリ

エンスを提供している。

では、エクスペリエンスとは、製造業における概念なのだろうか。いや、そうではない。パ

イソンとギルモアの『経験経済』(p.29)によれば、エクスペリエンスを提案したのは、ウォル

ト・ディズニーだとされる。彼の構想したウォルト・ディズニー・ワールドは、単なる遊園地で

はなく、世界最初のテーマパークであった。そこでは、五感に訴えかける作品をステージ

ング(舞台化)し、それぞれのゲスト(顧客)に固有の経験を創出した。

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これは顧客にとっての経験は、さまざま

な次元でとらえることができることによる

(図 4参照、パイソン・ギルモア [2000:

65])。

横軸が、顧客参加度であり、縦軸が、

顧客との経験の関係性、状況性を表す。

この二つの軸の組み合わせにより、経験

の娯楽、教育、脱日常、審美という4つ

の領域に分けることができる 14。娯楽的

経験とは、五感を動員して受け身で吸収する状態で、もっともイメージしやすい領域であ

ろう。次に、教育経験とは、顧客の積極的な参加によって実現する知識やスキルの習得

を意味する。そして、脱日常経験とは、顧客自身がその経験に没頭し、積極的な参加

者となる状態である。最後に、審美経験とは、顧客がそこに存在することのみを求める状

態を意味し、顧客はまったく受け身のまま経験にのめり込んでいく。なお、もっとも理想

的な経験は、4つの領域にまたがり、二つの軸が交差する点に集中しているという。

第2節 エクスペリエンス実現への戦略的アプローチ

では、エクスペリエンスの実現に向けてどのようにアプローチしていけばよいのだろうか。

コモディティ化した商品やサービスを経験化させるには、「マス・カスタマイゼーション」をし

なければならない。そのためのアプローチとして、パイソンとギルモアの『経験経済』では、

「演劇」をモデルに説明がなされている。

マス・カスタマイゼーションとは、個々の顧客の希望通りのことだけをするということを意

味する。具体的には、顧客を個人として「特定」していること(=まさにその顧客が求める

時に生産される)、質において「特有」であること(=その顧客の個人的なニーズに合うよ

14 シュミットの『経験価値マーケティング』 [2000]では、SENSE(感覚的経験価値)、

FEEL(情緒的経験価値)、THINK(創造的・認知的経験価値)、ACT(身体的&ライフ

スタイル経験価値)、RELATE(集団(社会)・文化と関連する価値)という5つの価値要

素に分類している。

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うに考えられている)、顧客に利益を与えるという目的に「特化」していること(=それ以上

でもそれ以下でもなく、顧客が求めることのみに的確に対応している)という条件がある。

つまり、企業にとって「マス・カスタ

マイゼーション」とは、自らの顧客を

経験的価値と出会わせる新たなス

テージを提供するものである。カス

タマイゼーションは、顧客の我慢を

減らすもので、四つのアプローチが

あるとされる(図5参照)。協同型カ

スタマイズとは、無理矢理選ばされ

ることへの我慢を解消する手法で、

企業が顧客にとって必要なものを判断する際に、顧客と直接にやりとりをするプロセスを

とる。適応型カスタマイズは、多すぎる選択肢に対する我慢を解消するため、商品または、

サービスを顧客の希望通りにカスタマイズする。顕在型カスタマイズは、外見への我慢を

解消するもので、規格化された商品あるいはサービスを、異なった仕方で提示する。そし

て、潜在型カスタマイズは、わずらわしい繰り返しに対する我慢を解消するため、顧客に

気付かれず、カスタマイズされた商品やサービスを提供するものである。

では、演劇化とはなんなのであろうか。経験経済において、仕事は劇であり、ビジネス

活動は、ブロードウェイや野球場のパフォーマンスに匹敵すべきだとされる。大事なのは、

劇(=仕事)をビジネスモデルと

認識することである。その結果、

ありきたりの仕事でさえ、顧客を

とりこにすることができる。演劇に

も4つのアプローチ手段がある

(図6において、パイソンとギルモ

アが作 成 した図 を参 考 にしよ

う)。

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第3節 美術館におけるエクスペリエンス

2001 年 8 月に、アメリカを旅行し、ナショナル・ギャラリー、ボストン美術館、フィラデルフ

ィア美術館、シカゴ美術館、メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館を訪れた。そ

こでは、構えることなく鑑賞することができ、時間を経つのも忘れ、一日中美術館で過ご

したことも多々あった。旅行先という非日常であったことを差し引いても、名画を見せると

いうのではなく、楽しんでもらおうという環境であった。今にして思えば、エクスペリエンス

が提供されていたのではないだろうか。大袈裟に言えば、本来、美術館というのは、エク

スペリエンスを実現するのに最適の舞台かも知れない。

ここで、美術館をエクスペリエンスの視点から、可能性と課題の両面について簡単に考

察しておきたいと思う。

(1)空間をエクスペリエンスのステージに

非日常的な空間はそれだけで、「空間エクスペリエンス」を実現する。その観点から見

ると、美術館はまさに「空間エクスペリエンス」に絶好の条件である。というのも、美術館の

薄暗い落ちついた環境が、非日常的であるし、外観も個性的である。アメリカの大美術

館は、ローマ神殿を思わせるものであり、例えば、ボストン美術館では、日本画のコレクシ

ョンは、偏見を助長する恐れはあるが、障子のあるという日本風の部屋に展示されてい

た。他にも、建物内部に、古代神殿や日本庭園を再現している。

空間レベルで最も成功した例は、ラスベガスであろう。ラスベガスというと一昔前はギャ

ンブルとギャングの街というイメージが強く、家族での旅行などでは敬遠されたものだが、

この10年ほどの間に、大きな変貌を遂げている。大企業やエンターテインメント産業が

次々に大規模なカジノ&リゾートホテルを建設し、町全体が巨大なディズニーランドのよ

うなエンターテインメント空間になっている。感動の「エクスペリエンス」を提供することで経

済発展をとげるという典型例がここに見られる。特筆すべきは、前述した4つの E をバラン

スよく実現している点であろう。

このことは都市(地域)の活性化の問題、さらにはエコ・ミュージアムに代表される美術

館のある街づくリを考える上でも参考になるだろう。ミュージアムという文化的アクセントを

中心に、周辺地域へと和やかな計画に発展し、拡散する。こうした町は、個性を持ち、

多くの人が訪れ、経済的にも活性化につながることが考えられる。つまり、美術館のある

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町全体を空間としてとらえれば、アメリカのスミソニアンのミュージアム群、国内に目をや

れば上野公園が目につく。また、箱根にある彫刻の森美術館も野外に作品を展示する

オープンな美術館として、ピクニック客に来た人達を違和感なく取り込んだことは評価で

きるだろう。

(2)美術館のエクスペリエンスに向けて

前述してきたことから、美術館にエクスペリエンス実現の可能性を確かめられたと同時

に、課題も浮き上がってきた。最大の課題としては、従業員がビジネスは劇だと振る舞う

ことである。前述した4つの劇の型(図6参照)は、どれかに特化すればいいと言うもので

はなく、場面に合わせ、随時対応しなければならないものである。これは、非常に困難で

ある。というのも、美術館の職員、とりわけ学芸員はその主たる業務が顧客接触ではなく、

調査・研究、収集・保存にあるからだ。それは(図2)からも明らかである。

また、前述した4つの経験領域(図3参照)に関しては、教育的経験に偏ることなく、い

かにバランスをとるかという点が求められるであろう。

今後、美術館が現状に満足することなく、変革を進めていけば、美術館も、営利企業

がビジネス成功のヒントを探るエクスペリエンスのモデルケースとなる可能性を含んでいる

であろう。そのためには、まず、営利企業やアメリカ、イギリス、フランスなどの美術館の優

れた点を取り入れる必要があると思われる。

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おわりにおわりにおわりにおわりに

美術館の果たしてきた役割は、過去、現在、未来と変化してきている。その背景は、美

術館自身の変革なり成長であったり、我々生活者の変化であったりした。いずれにせよ、

美術館がこれまで果たしてきた社会的役割は、大きいものであった。そしてそれは、これ

からも続いていくであろう。それは、私たち生活者を変化させたことや、無名画家の発掘

などである。これからも美術館は、これまでと同様に、進化を続けていくであろう。その進

化には幾つかのパターンがあるだろう。ただ、どれが正しく、どれが間違い、ということでは

ないだろう。つまり、複数の真実があるのだろう。

この論文で、美術館の過去、現在、未来と鳥瞰することができたのではないかと思って

いる。また、美術館のマーケティングという既存の研究が十分でない分野を研究すること

で、オリジナリティを出すのとともに、マーケティングについて、自分なりに理解を深めるに

到った。

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最終更新日 2001.12.17、最終アクセス日 2002.1.11

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国際博物館会議(ICOM)(http://www.icom.org)