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ISSN 2186-5183 愛知大学教職課程研究年報 2 0 1 6年 愛知大学 第6号 加藤鉦治教授退職記念号

愛知大学教職課程研究年報ISSN 2186-5183 愛知大学教職課程研究年報 2 0 1 6 年 愛知大学 第6号 加藤鉦治教授退職記念号 目 次 加藤鉦治(詔士)教授

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ISSN 2186-5183

愛知大学教職課程研究年報

2 0 1 6 年愛知大学

第 6号加藤鉦治教授退職記念号

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目    次

加藤鉦治(詔士)教授 退職記念

加藤鉦治(詔士)教授 近影・略歴・研究業績

研 究 論 文

お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育 加 藤 詔 士… 1

「学校の意義」に関する教材研究  -教育をめぐる思想・歴史の視点から- 加 藤 詔 士… 35

The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan Shoji KATOH… 53

日本の高校生を対象としたいじめの研究動向についての一考察 鎌 倉 利 光… 75

過渡期にある世界の教員養成  -ニュージーランドにおける教員養成制度変遷を事例に- 加 藤   潤… 83

対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容  -授業における「子どもの問い」と「学校的な問い」の意味、 を題材として- 前 原 裕 樹… 105

教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2 - 「マーケティング分野」 及び 「ビジネス経済分野」 並びに「会計 分野」を対象に- 冨 田 律 夫… 119

国語科授業を「デザイン」する力の必要性  -学力観の転換にむけて- 松 村 美 奈… 137

愛知大学教職課程の学生における教職の志望度と志望理由の関係について( 1 ) 岡 田 圭 二・梅 村 清 春… 147

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実 践 報 告

教師教育充実のための実践-成果と課題-( 1 )   1 .はじめに 岡 田 圭 二(編集)… 153   2 .教師教育充実の取り組み-全国の傾向- 加 藤 詔 士… 156   3 .教育実習・教員採用選考試験報告会の開催 加 藤 詔 士… 160   4 .「教職への途」連続セミナーの開催 加 藤 詔 士… 164   5 .外部講師による特別授業 加 藤 詔 士・渡 津 英一郎… 167   6 .『教職課程ハンドブック』の編集     -学生の主体的な学びを促すツールとしての可能性と課題- 前 原 裕 樹… 171   7 .教職イニシャル・レポートの活用     -学生の主体的な学びを促すツールとしての可能性と課題- 岡 田 圭 二… 175

資    料

1 .愛知大学で取得できる免許状の種類 ……………………………………………………………1812 .教職課程登録者数 …………………………………………………………………………………1823 .教育実習生数と教員免許状取得者数 ……………………………………………………………1834 .教員採用試験合格者数(在学生) ………………………………………………………………1845 .2015年度教職課程センター委員会 活動・参加記録 …………………………………………185

愛知大学教職課程研究紀要編集方針 投稿・執筆要領編集後記

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本 籍    愛知県本 名    加藤鉦治誕生日    1947(昭和22)年 2 月 6 日

[学 歴]1965(昭和40)年 3 月 愛知県立松蔭高校卒業1970(昭和45)年 3 月 名古屋大学教育学部教育学科卒業1973(昭和48)年 3 月 名古屋大学大学院教育学研究科修士課程(教育学専攻)修了1976(昭和51)年 3 月 名古屋大学大学院教育学研究科博士課程(教育学専攻)満了1988(昭和63)年10月 教育学博士学位(名古屋大学)取得

[職 歴]1976(昭和51)年 4 月 名古屋大学教育学部助手1982(昭和57)年 9 月 同大学を辞す1982(昭和57)年10月 兵庫県立神戸商科大学商経学部助教授1990(平成 2 )年 4 月 兵庫県立神戸商科大学商経学部教授1993(平成 5 )年10月 名古屋大学教育学部助教授1995(平成 7 )年 4 月 名古屋大学教育学部教授1996(平成 8 )年 4 月 名古屋大学大学院国際開発研究科教授兼担(~平成10年 3 月)2000(平成12)年 4 月 名古屋大学大学院教育発達科学研究科・生涯発達教育学講座教授

(大学院重点化による教育学研究科改組)2010(平成22)年 3 月 名古屋大学大学院停年退官2010(平成22)年 4 月 名古屋大学名誉教授2010(平成22)年 4 月 愛知大学法学部教授2017(平成29)年 3 月 愛知大学定年退職

加藤鉦治(詔士)教授 略歴

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共編著1 .『西洋世界と日本の近代化-教育文化交流史研究-』   (大学教育出版、2010年 5 月)全194頁。[吉川卓治と共編著]

論 文1 .「名古屋藩洋学校お雇いフランス人教師P.J.ムリエ」   加藤詔士・吉川卓治共編著『西洋世界と日本の近代化-教育文化交流史研究-』   (大学教育出版、2010年 5 月)42-65頁。

2 .「南清のグラスゴウ留学」   加藤詔士・吉川卓治共編著『西洋世界と日本の近代化-教育文化交流史研究-』   (大学教育出版、2010年 5 月)82-102頁。

3 .「後藤牧太の英国留学」   『英学史研究』第44号(日本英学史学会、2011年10月) 1 -25頁。

4 .「明治期グラスゴウ大学日本人留学生」   『関西英学史研究』第 6 号(日本英学史学会関西支部、2011年12月)21-53頁。

5 .「『稲むらの火』の教材化をめぐる研究」   『愛知大学教職課程研究年報』創刊号(愛知大学教職課程、2011年12月)15-30頁。

6 . 「Henry Dyer: Pioneer of Interchange with Japan-Focusing on his Friendship with Sakuro Tanabe -」

   『愛知大学教職課程研究年報』創刊号(愛知大学教職課程、2011年12月)31-42頁。

7 .「わが国におけるお雇い教師H.ダイアー研究-成果と動向-」   『関西教育学会年報』第36号(関西教育学会、2012年 6 月)31-35頁。

8 .「お雇い教師ヘンリー ・ ダイアー研究-わが国における成果と動向-」   『関西英学史研究』第 7 号(日本英学史学会関西支部、2012年 8 月)21-55頁。

9 .「武理恵『仏語入門』(明治 7 )-明治初期のフランス語学習書をめぐる考察-」    『愛知大学教職課程研究年報』第 2 号(愛知大学教職課程センター、2013年 2 月)11-

31頁。

研究業績一覧

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10.「Educational and Academic Interaction between Japan and Great Britain」   『愛知大学教職課程研究年報』第 2 号(愛知大学教職課程センター、2013年 2 月)33-53頁。

11.「荘田泰蔵のグラスゴウ大学留学」   『英学史研究』第46号(日本英学史学会、2013年10月)63-83頁。

12.「お雇い教師の歴史像をめぐる考察」   『愛知大学教職課程研究年報』第 3 号(愛知大学教職課程センター、2014年 3 月)17-42頁。

13. 「The Published Works of Meiji-era Educational Advisor Henry Dyer: Trends and Characteristic」

   『愛知大学教職課程研究年報』第 3 号(愛知大学教職課程センター、2014年 3 月)43-69頁。

14.「「帰国後のお雇い教師」をめぐる考察」   『関西教育学会年報』第38号(関西教育学会、2014年 7 月)46-50頁。

15.「お雇いフランス人教師ムリエの日仏交流推進活動」   『洋学』第21号(日本洋学史学会、2014年 7 月)195-246頁。

16.「お雇い造船学教師P.A.ヒルハウス-帰国後のH.ダイアーによる推薦-」   『関西英学史研究』第 8 号(日本英学史学会関西支部、2014年 9 月)53-69頁。

17.「宣伝ビラ『愛知教育博物舘設立趣意書』をめぐる考察」   『名古屋大学博物館報告』No. 30(名古屋大学博物館、2015年 3 月) 1 -10頁。

18. 「Events Commemorating the Scottish Educational Advisor W. K. Burton: Advancing Japan-Great Britain Relations」

   『愛知大学教職課程研究年報』第 4 号(愛知大学教職課程センター、2015年 3 月)13-30頁。

19.「お雇いフランス人教師P . J.ムリエの面影」   『愛知大学教職課程研究年報』第 4 号(愛知大学教職課程センター、2015年 3 月)31-40頁。

20.「ヘンリー・ダイアー-日本工学教育の組織化に貢献-」   木村正俊編『スコットランドを知るための65章』(明石書店、2015年 9 月)355-359頁。

21.「グラスゴウ大学創立450周年記念式典(1901)-明治日本とグラスゴウ大学の交流-」   『英学史研究』第48号(日本英学史学会、2015年10月)17-40頁。

22.「明治フランス語教育者・今村有隣-『仏語啓蒙』(明治15)の編者-」   『愛知大学教職課程研究年報』第 5 号(愛知大学教職課程センター、2016年 2 月)19-32頁。

23. 「Meiji-era Educational Advisor Henry Dyer’s Studies of Japan: His Work and its Special Characteristics」

   『愛知大学教職課程研究年報』第 5 号(愛知大学教職課程センター、2016年 2 月)33-56頁。

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24.「英国におけるヘンリー・ダイアー研究」   『関西教育学会年報』第40号(関西教育学会、2016年 8 月) 6 -10頁。

25.「世界に拓かれた近代日本教育-英学史研究の一視点-」   『東日本英学史研究』第16号(日本英学史学会東日本支部、2017年 3 月) 8 -19頁。

26.「お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本工学教育」   『愛知大学教職課程研究年報』第 6 号(愛知大学教職課程センター、2017年 3 月) 1 -34頁。

27.「『学校の意義』に関する教材研究-教育をめぐる思想・歴史の視点から-」   『愛知大学教職課程研究年報』第 6 号(愛知大学教職課程センター、2017年 3 月)35-51頁。

28.「The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan」   『愛知大学教職課程研究年報』第 6 号(愛知大学教職課程センター、2017年 3 月)53-74頁。

29.「帰国しなかったお雇い教師O.O.キール(その 1 )」(研究ノート)   『洋学』第24号(日本洋学史学会、2017年 4 月、75-96頁、予定)。

30.「ヘンリー・ダイアーと日本の工学」    吉見俊哉・森本祥子編『新・学問のすゝめ-東大教授たちの近代-』(東京大学出版会、

2017年 5 月予定)。

31.「帰国後のお雇い教師ヘンリー・ダイアー-日本教育の還元-」   『関西教育学会年報』第41号(関西教育学会、2017年 8 月予定)。

科研費報告書1 .『近代日本の実学人材形成の拠点グラスゴウにおける日本人留学生の実態調査研究』    平成21年度~ 24年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書、2013年 3 月、全287頁。

2 .『帰国後のお雇い教師H.ダイアー研究-教育文化還元活動と日本支援活動を中心に-』    平成26年度~ 28年度科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報告書、2017年 3 月、全174頁。

その他1 .「ヨングハンスとローレツ-西洋医学を伝えたお雇い医学教師-」    『日本外科学会雑誌』第111巻(臨時増刊号 2 )第110回日本外科学会定期学術集会抄録集(日

本外科学会、2010年 3 月)181頁。

2 .「スコットランドと夏目漱石」   『スコットランド便り』66(日本スコットランド協会、2010年 6 月) 9 頁。

3 .「だから書誌学はおもしろい !!:ヘンリー・ダイアー『大日本』の伝来をめぐって(講演記録)」   『大学図書館問題研究会誌』第33号(大学図書館問題研究会、2010年 8 月)39-55頁。

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4 .「日英教育文化交流史の研究」   『日本英学史学会報』No. 125(日本英学史学会、2010年 9 月) 2 頁。

5 .「ヨングハンスとローレツ-西洋医学を伝えたお雇い医学教師-(講演記録)」    『名古屋大学医学部第二外科140年史』名古屋大学医学部第二外科第二外科史編纂事業会、

2011年 2 月)53-61頁。

6 .「第四十五回福澤史蹟見学会 , 南木曽・名古屋・春日井・常滑・半田の旅」   『福澤手帖』第148号(福澤諭吉協会、2011年 3 月)28-32頁。

7 .『2010年度「教育実習・教員採用試験体験報告会」の記録-意義と課題-』   愛知大学名古屋校舎教職課程室、2011年 4 月、全44頁。[永田孝夫と共編著]

8 .『『求められる教師像』-教職課程委員会主催「教職への途」連続セミナー(第 2 回)の記録-』   愛知大学教職課程室、2011年 9 月、全38頁。[渡邊正と共編著]

9 .「教科書のなかの『稲むらの火』」   『日本古書通信』986号(日本古書通信社、2011年 9 月) 4 - 6 頁。

10.「チェンバレン・杉浦文庫-愛知教育大学の至宝-」   『日本英学史学会報』No. 126(日本英学史学会、2012年 1 月) 2 頁。

11.『奈良坂源一郎と愛知教育博物館 第22回名古屋大学博物館企画展・特別講演会』   (2012年 4 月)全52頁。

12.「「ヘンリー・ダイアー賞」の創設-お雇い外国人にちなんだ褒賞制度」   『日本英学史学会報』No.127(日本英学史学会、2012年 5 月) 3 頁。

13.「モリ・イガこと広瀬常-自立をめざした明治の女子留学生」   『日本英学史学会報』No.128(日本英学史学会、2012年 9 月) 4 頁。

14.「『福澤諭吉辞典』を読む(四)西洋文明を輸入・普及した「総合商社」」   『福澤手帖』第154号(福澤諭吉協会、2012年 9 月)31-32頁。

15.『望まれる教師像、教員採用試験の動向』   愛知大学教職課程センター、2012年10月、全67頁。[渡邊正と共編著]

16.「鉛筆と 「学びの風景」」   『別冊 ひろば』17号(愛知大学教職員組合、2012年 9 月) 4 頁。

17.「明治期のグラスゴウ大学留学生・荘田泰蔵-名誉博士号の授与-」   『日本英学史学会報』第130号(2013年 5 月) 4 - 5 頁。

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18.『望まれる教師像、教員採用試験の動向・新版』   愛知大学教職課程センター、2013年11月、全62頁。[渡邊正と共編著]

19.「創立50周年記念号に寄せて」   『関西英学史研究』第 8 号(日本英学史学会関西支部、2014年 9 月) 1 頁。

20.「「スコットランド工学殿堂」入り-お雇い教師ヘンリー・ダイアー-」   『日本英学史学会報』第139号(日本英学史学会、2016年 5 月) 3 - 4 頁。

21.「古山師政の浮世絵発見-エディンバラ中央図書館-」   『日本古書通信』第81号第8号(日本古書通信社、2016年 8 月) 4 - 6 頁。

22.「錦絵のなかの工部大学校」   『日本英学史学会報』第140号(日本英学史学会、2016年10月) 2 - 3 頁。

23.「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石(上)」  「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石(中)」  「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石(下)」   小山慶太編『漱石と「學鐙」』(丸善、2017年 1 月)123-143頁。

24.「帯で広がるぜいたくな読書体験」   『韋編』No.43(愛知大学図書館、2017年 2 月)4-5頁。

25.「教師教育充実のための実践-成果と課題(1)-」   「 2 .教師教育充実の取り組み-全国の動向-」   「 3 .教育実習・教員採用選考試験報告会の開催」   「 4 .「教職への途」連続セミナーの開催」   「 5 .外部講師による特別授業」[渡津英一郎と共筆]     『愛知大学教職課程研究年報』第 6 号(愛知大学教職課程センター、2017年 3 月)156-

169頁。

[上記は、すべて加藤詔士(筆名)にて執筆]

愛知大学赴任(2010年 4 月)前の研究業績については、下記を参照。 『名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(教育科学)』第56巻第 2 号(2010年 1 月)31-39頁。

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1

お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

1.近代日本の工業化とスコットランドの指導性

1)西洋教育情報の摂取

(一)

日本は開国するとき、西洋から学んで文明

の開化を図ろうとした。その西洋世界と出

会ったとき、特色ある姿勢がみられた。第一

は、開国を迫ってきた西洋から学んで文明の

開化を図ったことである。それも、実にさま

ざまな経路を通して開化をめざした。とくに

外国人教師や技術者の招聘、留学生の海外派

遣、使節団・調査団の海外派遣、万国博覧会

への参同、学術文献の輸入・翻訳という 5 経

路を通して , 西洋情報を摂取したことが注目

される(1)。

第二に、その西洋情報を摂取するさい、一

国だけでなく複数のモデルのなかから主体的

に選択して採り入れようとした。いくつかの

国から専門領域に応じて優れているところを

選択し、その長所を積極的に採り入れようと

した。「採長補短」「主体的摂取」という姿勢

である。これは、事前に学ぶべき学問領域に

ついて国ごとの比較検討がおこなわれていた

ということを意味している点で注目される。

この主体的選択という特色ある導入姿勢を

裏づける一史料がある。岩倉具綱「海外留学

生規則案」(明治 3 年12月)という文書(2)で

あって、そのなかの「留学国々修学ノ科目ノ

事」には、日本教育のモデル選択に関する興

味深い記述が見られる。その一に、「学徒ヲ

遣ス国々ハ英吉利、仏蘭西、孛漏生、荷蘭、

米利堅ノ五国ト定メテ分派留学セシムヘシ百

人ノ学徒ヲ十分シテ二分半ツゝヲ英仏孛ヘ遣

シ残リ二分半ヲ蘭米ヘ遣スヘシ・・・」とあっ

て、留学させるなら 5 カ国に限る、イギリス

以下の 5 カ国がいい、それも同じ比率で留学

させるのではなく , イギリス、フランス、プ

ロシアには 4 分の一ずつ、オランダおよびア

メリカには八分の一ずつの比率で派遣する、

という認識である。

その二は、「修学ノ科目ハ予メ各国ノ所マ マ

ニ従テ其概略ヲ掲載シタレハ各其能ニ従テ之

ヲ撰ムヘシ」という基本方針である。何を学

ぶかは「各国ノ所長」に従って選択するとし

て、下記の一覧表のような専門領域が示され

ている。英国は器械学や商法が優れている。

お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

加藤 詔士(法学部・教授)

英 吉 利 器械学、商法、地質金石学、製鉄法、建築学、造船学、牧畜学、済貧恤窮

仏 蘭 西 法律、交際学、利用厚生学、動植学、国勢学、星学、数学、格致学、化学、建築

独 逸 政治学、経済学、格致学、星学、地質金石学、化学、動植学、医科、薬制法、諸学校ノ法

荷 蘭 水利学、建築学、造船学、政治学、経済学、済貧恤窮米 利 堅 郵伝法、工芸法、農学、牧畜学、商法、鉱山学

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2

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

フランスは法律、交際学つまり国際法が抜き

ん出ている。ドイツなら政治学や経済学、と

いう特長づけがなされているのである。

要するに、学ぶべき学問領域についてすで

に国ごとの比較検討がおこなわれており、そ

のうえに各国の専門学の特長に応じて学問の

国籍を組みあわせて採り入れる、という姿勢

なのである。これは明治 3 (1870)年12月と

いう早い時期における世界認識、学問認識で

あっただけに、注目される。

このような「国選び」は、当時の世界の学

問地図からみるとかなり的確であったように

思われる。わが国は開国まもないころに、す

でにこのような世界認識をもっていたのであ

る。

(二)

このような世界認識ないし学問認識は、そ

の後、専門教育機関を創設するさいの根拠に

なる。工学については実際に英国がモデルに

され、後出のように、工学寮ならびに工部大

学校が設立され、ここに英国からH.ダイアー

(Henry Dyer, 1848-1918)等のお雇い教師

を迎えた。法律学はフランスにならって司法

省法学校(東大法学部の前身)が創設され、

フランスからG.E.ボアソナード(Gustave

Emile Boissonade, 1825-1910)、G.H.ブスケ

(George Hilaire Bousquet, 1846-1937) 等

の法学教師が招聘された。これは複数のモデ

ルのなかから採り入れるべきモデルを主体的

に選択したということであるのだから、注目

される。

こうした主体的で的確な「国選び」ができ

たのは、第一に、日本が植民地化を免れたこ

と、第二に開国以前から海外情報を、それも

質のよい西洋情報を丹念に受信していたこと

等の理由が考えられる。開国前には海外への

情報の「発信」はたしかに停止していたが、

海外からの「受信」については丹念におこな

われていたのである(3)。

その海外情報は、オランダが選別し整理し

て長崎の出島を通して伝えられていた。それ

も質のよい情報であった。 「19世紀中葉にお

ける各国の学芸の特徴をかなりよくとらえて

いる」(4)。だからこそ、日本は開国し世界に

登場したとき、それほど右往左往することな

く的確なモデル選択、すなわち「国選び」が

すばやくできたのであろうと考えられる。

2)英国モデルの選択

明治日本は工業化をめざすとき、工学なら

英国というモデル選択をした。英国は産業革

命を世界に先駆けて成しとげ、世界の工場と

しての地位を確立していた。英国のなかでも、

工業化が進展していたのはスコットランドの

グラスゴウであり、工学の研究と教育が進ん

でいたのはグラスゴウ大学であった。近代日

本の工学ならびに工学教育は、このスコット

ランドのグラスゴウとの関係を深めるなか進

展をみた。

そのスコットランドと日本の関係は、幕末

維新期の国際関係のなかで始まった。幕末に

いち早くスコットランド系の商社ジャーディ

ン・マセソン商会あるいはグラヴァー商会が

通商を求めてやって来たが、かれらは幕府を

支援したフランスを牽制する意味もあって長

州藩ならびに薩摩藩を支援し、その一環とし

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3

お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

て両藩の若者の海外留学を助けた。当然、英

国への留学である。文久 3 (1863)年5月な

らびに慶応 4 (1868)年 3 月のことであり、

密出国であった。

かれら留学生のうち、長州藩留学生5名の

なかの山尾庸三(1837-1917)ならびに伊藤

博文(1841-1909)の二人がとくにスコット

ランドとの関係をつなぐキーパーソンになる。

山尾はまずロンドン大学ユニヴァシティ・カ

レッジで工学および化学を学んだ。H.マセ

ソンの仲介で、同カレッジのA.W.ウィリ

ア ム ソ ン(Alexander William Williamson,

1824-1904)教授から庇護を受け工学や化学

を学んだ。 ついで、スコットランドのグラ

スゴウに赴いた。当時グラスゴウは世界でも

有数の工業都市であった。慶応 2 (1866)年

から明治元(1868)年までの 2 年間、昼間は

クライド河畔にあるロバート・ネイピア造船

所(Robert Napier’s Shipyard)の見習い工

として実地に造船技術を学び、夜間はアンダ

ソン・カレッジ(現在のストラスクライド大

学)に通って、自然哲学、無機化学、冶金学

などを履修した(5)。 この間、ヒルヘッド・

ハウスに下宿し、アンダソン・カレッジの音

楽講師G.ブラウン(George Brown)の世

話を受けた(6)。 伊藤は長州藩の外交姿勢を

懸念して半年で帰国した。

山尾と伊藤の二人は英国留学から帰ると明

治政府に出仕した。とくに工部省の創設と政

策に関与したことで、スコットランドと明治

日本は関係深いものになった。明治政府は殖

産興業と国家富強をめざした国づくりをした

のだが、これを主管したのは工部省であった

からである。

2.工部省の工業化政策1)公共事業の機構の創出

工部省は工業化を推進するために、主に二

つの事業を所管した。第一は公共事業の機構

の創出、第二は同事業を進める工学人材の育

成という事業である。

第一の公共事業については、鉱山、鉄道、

電信、道路、灯台、それに教育と実に幅広く

関与することで、殖産興業を先導した。それ

だけに工部省は明治政府の国家政策のなかで

他の省庁を圧倒する存在感を示している。官

雇外国人の人数の点でも月給の面でも、実に

圧倒的であった。あいつぐ官営事業払い下げ

のなか工部省事業は縮小され、独立部局とし

ては明治18(1885)年12月の廃省までしか存

在しなかった。この年工部省は廃止され、工

部省の各局は逓信省、農商務省、文部省に移

管されたり内閣直属になったりしたのだが、

それでも他の省庁を圧倒している。

ちなみに、官雇外国人の人数についてみる

と、明治元(1868)年から明治33(1900)年

までの総数は2400名、そのうち政府内雇用部

門別では工部省が第一位で 825名を数えた

(第二位は文部省で 367名)。 この工部省お

雇い外国人 825名のうち 553名が英国籍で

あった(第二位はフランス国籍で90名)。 そ

のなかでもスコットランド人が相当数含まれ

ていたと推定される。(なお、官雇外国人

2400名を国籍別でみると英国籍が一番多く

1034名を数えた。 二番目はフランス国籍で

401名、三番目はアメリカ国籍で 351名であっ

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

た。また、工部省内の部門別国籍においても、

本局41人はすべて英国籍であり、また鉱山局、

鉄道局、電信局、工作局、灯台局のいずれの

部門においても英国籍が一番多い)(7)。官雇

外国人の月給については、同期間の総額2050

円のうち、工部省は 825円で第一位であった。

第二位の文部省は289円、第 3 位の府県は201

円であるから、他を断然圧倒しているのであ

る(8)。

工部省で工業化を推進する第二の事業であ

る工学人材の育成事業を先導したのは、山尾

庸三であった。英国留学における体験と見聞

から、近代日本の建設には英国のように産業

を盛んにすることが第一と考え工学教育の計

画を立てた。工学の学校を設けて実学人材を

養成するという構想である。商業教育や農業

教育と違って、それまで日本には工学を教え

る人材など十分には育っていなかったのだか

ら、教師陣は留学先の英国から招くことに

なった(9)。

2)工学教師の選任

工学の教師陣を英国から招聘する計画は、

岩倉使節団の英国訪問のとき実行に移され

た。教師陣の人選は伊藤博文に委ねられた。

伊藤は同使節団の副使としてロンドンを訪問

したとき、山尾の依頼に応えて、まず随行員

の二等書記官・林董(1850-1913)を遣わし

て、ジャーディン・マセソン商会の支配人H.

マセソン(Hugh Matheson, 1821-1898)に

人選を委嘱した。マセソンは工部省のロンド

ン代理人であり、かつて伊藤博文や山尾庸三

ら長州藩英国留学生が英国へ密航するさいに

手引きをした間柄にあった。工学教師は英国

から雇うこと,ならびにその人選と雇入れに

ついてはH.マセソンに依頼するということ

は,明治 4 (1871)年11月12日に岩倉使節団

が横浜を出立するよりも前に,山尾と伊藤が

協議のうえ伊藤にゆだねられていた(10)。

マセソンは依頼を受けると、まず「親友」のL.

D.B.ゴードン(Lewis Dunbar Brodie

Gordon, 1815-1876)と協議した。そのゴー

ドンの勧めで伊藤はグラスゴウ大学教授W.

J.M.ランキン(William John Macquorn

Rankine, 1820-1872) を 訪 ね た。 明 治 5

(1872)年の秋のことである。ゴードンは

1840年にグラスゴウ大学に土木工学・機械学

講座ができたときの初代教授であり、ランキ

ンはその後任の教授である。伊藤はこのラン

キンを訪問し「工業を盛んにしたいが」と尋

ねると、ランキンは「若者を技術者に養成す

るためのカレッジを設立するのがよかろう」と

助言した(11)。この助言にもとづき明治 6

(1873)年12月工学寮(官制の改革にあわせて、

明治10年 1 月、工部大学校と改称)が設立さ

れる。その工学寮の都検(教頭)として推薦

されたのがH.ダイアーである。ランキン教

授の優秀な指導生であった。

ダイアーの選任に至る事情と経緯について

は、マセソン自身が書き残している。L.ゴー

ドンの死去(1876年 4 月28日)後の1877(明

治10)年 1 月20日付でゴードン夫人にあてた

書簡のなかで、下記のように記している(12)。

   何年も前に日本からはじめて留学生を

この国に数名派遣された後、そのうちの

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

一人で工部卿になられた方から1872年に

依頼を受け、江戸に土木・機械工学のカ

レッジを創立するため日本政府を手伝う

ことになりました。 私は教授たちを選任

し、給与額を定め、学習計画を策定し、

同校に必要となる図書や器具のすべてを

調達しなければなりませんでした。この

学校は、多くの日本の青年たちを教育し

て母国の公共事業に寄与できるようにす

るためのものであります。

   私にはこの任務は相当難しく、重大な

責務を伴うものであると感じられました

が、自身に対する限りない信頼を表する、

このうえなく温かい言葉で仰せ伝えられ

たので、任務の遂行を決心しました。私

は、尋ねたらきっとよい助言を与えてく

れると確信する友人を一人知っていまし

たので、すぐさまトッテリッジ(Totteridge)

ヘ馬車を走らせ、親愛なるご令兄に本件

に関する相談に伺った次第です。彼は私

が必要としていた激励を与えてくれまし

た。第一にすべきことは、日本政府が多

くの権限を付与したいと考えている都検

(教頭)の地位を引き受けてくれる人物

を確保することでしたが、ご令兄はグラ

スゴウ大学の故マックウォーン・ランキ

ン教授に連絡をとるよう勧めてください

ました。ランキン教授は、ご令兄が最初

の就任者となられました教授職の後継者

であります。この高名な御仁は当時病気

のため働けなくなっており、その後、ほ

どなくして亡くなられたのですが、何人

かの方を推薦して下さいました。そのな

かに、大学の教育課程をきわめて優秀な

成績で卒業した24歳の青年ヘンリー・ダ

イアーの名前がありました。後にダイ

アー氏から卒業証書および推薦状を受領

したさいは、すぐにご令兄の許に持参し

ました。彼がこの候補者の人格、才能、

学識を評価した際の熱意、そして一切の

躊躇なく、ダイアー氏がこのポストにふ

さわしいと発言された時のことを忘れる

ことはないでしょう。当初は別の高名な

教授がダイアー氏の都検(教頭)への適

性に疑念を抱かれていましたが、ルイス・

ゴードン氏はまったく迷われませんでし

た。その結果、懸念も消失し、ダイアー

氏の任命が正しかった、むしろそれ以上

の成果につながった、と申しあげられる

ことをうれしく思っております。

   その後すぐ、ご令兄と私は学習計画に

ついて話し合い、策定に際してウィリア

ム・トムソン卿ならびにロンドンのウィ

リアムソン教授からも助言が得られると

いう僥倖に恵まれました。追加の任命が

いくつか実施され、1873 年 1 月25日に

ご令兄は、幅広い経験にもとづいて徹底

して実際的な観点に立った、いくつかの

優れた覚書を送ってくださいました。 そ

れにはカレッジのカリキュラムに関する

きわめて貴重な提言が盛り込まれており、

後にその大部分が採用され実施された次

第であります。ご令兄がこの問題にどれ

ほど熱心に取り組まれたかを実証する目

的で、これらの覚書をお送りいたします。

2 年後に、日本政府から土木工学教授と

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

鉱物・地質学教授をさらにもう 1 人ずつ

派遣するよう要請を受けた際にも、選考

にあたってお力添えいただけるというご

令兄のご厚意に甘えさせていただきまし

た。その際にご推薦にもとづいて実施さ

れた二名の任命はこのうえなく満足のい

くものでありました。

上記のマセソン書簡では、後に「工部卿に

なられた方」すなわち伊藤博文から「依頼」

を受け、「江戸に土木・機械工学のカレッジ

を創立するため日本政府を手伝うこと」にし

たことをめぐって明記されている。

第一は、ダイアーの選任に至る経緯につい

てである。前記のように、設立されるカレッ

ジの「都検(教頭)の地位を引き受けてくれ

る人物を確保する」ため、まずグラスゴウ大

学の元教授ゴードンを訪ねて協議し、ゴード

ンの勧めでゴードンの後任教授ランキンに助

言を求め、ランキン教授の推薦によってダイ

アーが選ばれた。

第二は、ダイアー以外の教師の選任につい

てである。これについても、ゴードンならび

にランキンが関与している。ダイアーだけで

なくその他の教員スタッフも、ランキン教授

の人脈で編成されたと考えられる。その結果、

まず、明治 6 (1873)年 6 月 6 日、ダイアー

を含む英国人教師の第一陣 9 名が横浜に来着

した。W.E.エアトン(William Edward

Ayrton, 物理学、電信学担当)、D.H.マー

シャル(David Henry Marshall, 物理学)、E.

ダイヴァース(Edward Divers, 化学)、E.F.

モンデー(Edmond F. Mondy, 図学)、W.

クレーギー(Willaim Craigie, 英語)、A.キ

ング(Archbald King, 模型学)、G.コーリー

(George Cawley, 機械学)、R.クラーク

(Robert Clark, 図学)の諸氏である。ついで、

明治 9 (1876)年 3 月までに第二陣として 6

名が来日した。W.G.ディクソン(William

Gray Dixon, 英 語 )、 J. ペ リ ー(John

Perry, 土木工学)、R.O.ライマー・ジョ

ンズ(Richard O. Rymer Jones, 測量学・予

科)、J.ミルン(John Milne, 地質学)、G.

S.ブリンドリー(George S. Brindley, 工作

所・機械学監督)、G.ハミルトン(George

Hamilton, 予科)の諸氏である(13)。

第三に、マセソンは都検(教頭)のダイアー

ならびにその他の教師の選任だけでなく、工

学寮の教育計画の策定とカリキュラム編成、

教材・教具の調達についても関与しているこ

とである。そのさい、「ウィリアム・トムソ

ン卿ならびにロンドンのウィリアムソン教授

からも助言が得られ」ている。カリキュラム

については、ゴードン教授が具体案を示して

くれた。それは「きわめて貴重な提言が盛り

込まれており、後に、その大部分が採用され

実施された」ということである。ゴードンな

らびにランキンだけでなく、W.トムソン卿

(Sir William Thomson,1824-1907) や ロ

ンドン大学のA.W.ウィリアムソン教授ま

でもが関与していることも注目される。

ちなみに、ランキン教授はグラスゴウ大学

教授時代、現場で実務を積むことによる技術

者養成という英国で伝統的な方式が根強く残

るなか、現場での実践や知識の正確さと効率

性を高めようと腐心していた。現場における

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

技術や知識を理論化・抽象化し工学に関する

系統立った言説を形成しようとしたのであり、

これによりはじめて「大学のカリキュラムに工

学が確実に組み込まれる」ようになった。また、

工学の百科事典的な参考書、たとえば『応用

力学便覧』(1858)や『土木工学便覧』(1862)

等(14)を作成し、学生に現場での技術力が高ま

るよう理論的基礎を与えることを期したのであ

る。これは「英国で最初の試み」であり、の

ちにマンチェスター、ロンドン、ベルファスト

の市民大学においても「主要な工学入門書」

としてすばやく採用されることになる(15)。

第四に、ゴードンから送られた「カレッジ

のカリキュラムについてのきわめて貴重な提

言」とは、1873(明治 6 )年 1 月25日付でマ

セソンに送付された書簡のなかに示されてい

る。その提言の主要点をまとめると、おおよ

そ下記のとおりである(16)。

① カレッジの教育課程は 2 年もしくは 3 年

課程とする。年間40週の教育課程とする

と、講義は36週(180日)開設する。

② 教育課程は土木・機械工学、自然哲学、

数学という「工学の基本原理を学ぶ」課

程、ならびに「工学の実際的課程」から

構成される。

③ 教員組織は土木・機械工学教授、自然哲

学教授、数学教授、ならびに理論化学・

応化学、地質学・鉱物学、製図の教員か

ら構成する。かれら教員には、当初から

「教科書を指定して当該科目を教えるよ

う」義務づける。

④ 主要な開設科目の内容・教科書・開設時

間数は次のように構想する。

  1 . 土木・機械工学教授:週 8 時間担当。

   ・ 土木工学:週 3 時間開設。ランキ

ンの著書を使用する。

   ・ 機械工学:週 3 時間開設。ミル

(Mill)の著書を使用する。

   ・ 実地:週 2 時間開設。

  2 .自然哲学教授:週 8 時間担当。

   ・ 自然哲学:4時間開設。教科書はヴェ

ルデ(Verdet)、ルニョー(Regnault)、 

プイエ(Pouillet)、ミュラー(Muller)

著を使用。工学の学生にふさわし

い英語の教科書はない。

   ・ 基礎数学・力学(水力学、気体静

力学、波動、熱力学理論などを含

む): 2 時間開設。

   ・ 天文学一般: 1 時間開設。

   ・測地学: 1 時間開設。

  3 .数学教授

   ・ 数学(工学・機械学を専攻する学

生向けの数学): 5 時間開設。

   ・ 測量学(水準測量、曲線測定、器

具の調整、計測、計量など): 2

時間開設。

   ・ 測量・水準測量などの演習:でき

るだけ頻繁かつ長時間開設。

⑤ ダイアーは都検(教頭)あるいは学部長、

ならびに土木・機械工学教授に予定する。

氏 に は、 ド イ ツ の ハ ノ ー フ ァ ー

(Hannover)にある博物館を見学するよ

う推奨する。 同博物館は、ポリテクニ

クの創立者であり校長であり、関連の著

書があるK.カールマルシェ(Karl

Karmarsch, 1803-1879)の創設になる

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

ものであって、「器具、模型、機械材料、

屋根・石橋や鉄橋などの建造物、鉄道や

締め具など」が所蔵されている。

以上のように、ダイアー来日前の明治6

(1873)年 1 月25日という時期に、早くも日

本の工学カレッジの教育課程の編成と教科

書、ダイアーの担当科目などについて具体的

に構想されていたことが注目される。

3)工学人材の育成

工部省は工学寮(および工部大学校)とい

う工学専門教育機関を設立しここに英国人教

師を招いて工学専門教育を実施しただけでな

く , 今度は、留学生を英国に派遣することで

工学教育の「自立化」を期した。まず、工部

大学校の第1期卒業生23名を送り出した明治

13(1880)年、各科の成績優秀者11名を選抜

して官費留学させた。当然お雇い教師たちの

母国・英国への派遣であった。南清(土木学

専攻)、石橋絢彦(灯台学)、三好晋六郎(造

船学)、高山直質(機械学)、荒川新一郎(機

械学)、志田林三郎(電信学)、辰野金吾(造

家学)、高峰讓吉(化学)、近藤貴藏(鉱山学)、

小花冬吉(冶金学)、栗本廉(地質学)の諸

氏であって、このうち南清、三好晋六郎、高

山直質、志田林三郎、高峰讓吉の 5 名がグラ

スゴウへの留学であった。前 4 名はグラスゴ

ウ大学に、高峰はグラスゴウ・西部スコット

ランド技術カレッジ(現在のストラスクライ

ド大学)に学んだ。これ以降も両大学への留

学生は続いた。政府派遣ならびに民間派遣を

含めて、両大学に確かな記録が残っている留

学生は、明治期に限るとグラスゴウ大学では

50名、アンダソン・カレッジとその後身のグ

ラスゴウ・西部スコットランド技術カレッジ

では21名を数えた(17)。

スコットランド、そのなかでもグラスゴウ

に多数の留学生が学んだのは、グラスゴウは

造船業や海運業が盛況であり、またグラスゴ

ウ大学は機械学や造船学など工学系の研究と

教育が盛んであったことによるところが大き

い。そのグラスゴウから技術移転を図ろうと

したのである。 造船学の場合でいうと、最初

はグラスゴウのグラヴァー商会等を介した船

舶の購入、ついで三菱汽船あるいは日本郵船

等の民間造船会社の要請を受けた必要船舶の

調達、それから日本郵船初代総支配人であっ

た A. R. ブ ラ ウ ン(Albert Richard

Brown,1839-1890)を派遣して建艦工程の

監督あるいは日本人技術者や留学生を派遣し

見学させることによる技術の修得、さらには

スコットランド人教師ならびに技師の招聘に

よる船舶建造人材の育成という段階をへたの

ち、造船・造艦術の自立化が図られることに

なったのである(18)。

自立化を意図して、まず明治16(1883)年

には帝国大学工科大学に造船学科が新設され

た。その後とくに日清戦争以降になると造船

業の育成が図られるようになり、そのなか明

治30(1897)年 9 月から大正 9(1920)年 7 月

まで東京帝国大学にお雇い造船学教師が 2 名、

英国から招かれた。最初はP.A.ヒルハウス

(Percy Archibald Hillhouse, 1869-1942)、

続いてF.P.パービス(Frank Prior Purvis,

1850-1940)である。ヒルハウスはグラスゴウ

大学を卒業後、グラスゴウのポイントハウス造

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

船所(Pointhouse Shipyard)あるいはクライ

ド バ ン ク 造 船・ 機 械 会 社(Clydebank

Shipbuilding and Engineering Co.)の造船技

師であった。パービスもグラスゴウのジョン・

エルダー社(John Elder & Co.)ならびにブ

ラクウッド・ゴードン社(Blackwood and

Gordon)の造船技師であった。かれらは大

学で造船学を学んだうえに、造船技師として

の豊かな実務体験を必要とする、当時の造船

学で重要課題であった「船舶設計・船体製図」

の教育を担当し、日本人人材の育成にあたっ

た。ヒルハウスは、帰国後、グラスゴウのフェ

アフィールド造船・機械会社(Fairfield

Shipbuilding and Engineering Co.)の造船

技師を経て、大正10(1921)年にはグラスゴ

ウ大学の造船学教授に就任している(19)。

4)工学専門教育機関の設立

山尾庸三らの建議により工部省が明治4

(1871)年 8 月に設置した学校は工学寮と称し、

明治10(1877)年 1 月には工部大学校と改称

した。工学寮は明治 6(1873)年12月に竣工、

場所は東京・山手台地の南端、虎ノ門の高台

が選ばれた。現在の霞ヶ関の地である。 ゴシッ

ク式レンガ造りの 2 階建で、タワーがそびえ時

計塔が備えられた。大掛かりで重厚な校舎で

あって、工部省の意気ごみがあらわれている。

学内の備品は英国からの舶来品で調達され

た。学習も生活もすべて英国式。英国から

やってきた教師が出入りしている。しかも、

時計塔がそびえるゴシック式の赤レンガ造り

の高層建築であるというのだから、それだけ

で世人の関心を集めた。そのうえ、竣工前年

の明治5(1872)年12月には太陽暦に切り替

えられ、西洋式の時法が導入された直後のこ

とであるだけに、時計塔は西洋化の象徴とし

て人びとの関心の的になったはずである。工

学寮ならびに工部大学校は、あらたな時代を

象徴する新名所になったことで、いくつかの

錦絵に描かれることになる。長谷川竹葉『東

京名勝開化真景 虎門工学局』(明治20)、小

林清親『虎乃門夕景』(明治13)、井上安治『虎

ノ門工部大学校』(明治初期)などがある(20)。

工部大学校のこの校舎は関東大震災で消失

した。現在はそれを記念する「工部大学校趾

碑」だけが設置されている。同震災で焼け残っ

た本館左翼の建物の、赤レンガ、石材、鋼材

などから組み立てられた角柱である。裏面に

は同校の卒業生・曾根達蔵(1853-1937)の

手になる碑文がはめ込まれていて、「昭和14

年 4 月、工部大学校出身虎之門会作之」とあ

る。当初は会計検査院のわきにあったが、霞ヶ

関再開発が進められるなか、平成22(2010)

年10月、現在地(東京都千代田区霞ヶ関 3 -

2 )に移転されている(21)。

なお、工学専門教育機関として発足した工

部大学校は、その後、工部省事業の縮小にと

もない、所管や組織の変更をみた。明治18

(1885)年12月の内閣制度発足後の行政改革

によって工部省が廃止されたのにともない、

文部省に移管された。 翌明治19(1886)年の

3 月には、帝国大学令によって東京大学工芸

学部と併合され、帝国大学工科大学へ再編さ

れた。 帝国大学という総合制大学のなかに工

科大学が位置づけられたことは,世界の大学

教育史において特筆すべきことである。

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10

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

3.H.ダイアーと工学教育の組織化1)「努力立身の人」

(一)

スコットランドは、イングランドと違い、

宗教改革のあとカルビニズムの理念にもとづ

いた教区学校制度網が普及するなど、早くか

ら学校教育の広まりがみられ種々の学習機会

が開放されていた。ダイアーはこの開かれた

教育制度を大いに活用し、自身の進路を切り

開いた。

ダイアーは「鍛冶屋の子より努力立身の人」

として知られている。父ジョン(John Dyer,

1823-1891)は、『1841年国勢調査』では、

グラスゴウ近郊のコーク州ウィショウ

(Wishaw)に居住し職業は「一般労働者(Com.

Lab.)」とある。『1851年国勢調査』になると、

住所はグラスゴウ市ラナークシャ州ボズウェ

ル区ミュアマドキン村エディンバラ通32番

地、 職 業 は「 鋳 造 場 の 労 働 者(foundry

labourer)」とある。 このミュアマドキン村

こそダイアーの出生地である(22)。 この辺り

は1830年代に鉄および石炭が発見され、1839

(天保10)年にはJ.B.ニールソン(James

Beaumont Neilson, 1792-1865)が鉄工所を

創業してから製鉄・鉄鋼業が盛んになり、英

国各地から大勢の労働者が移住して来た(23)。

ダイアーの父もそうした一人であった。

その後ホリタウン(Holytown)、さらには

ショッツ(Shotts)に転居した。いずれも石

炭と鉄鉱石が大量に採掘されたことで発展し

た町である。 ショッツではショッツ鉄工所

(Shotts Iron Works)に勤務した。 同鉄工

所は前出のJ.B.ニールソンが開発した、

鉄鉱石を溶解して精錬する熱風法を導入した

ことで生産高は飛躍的に増大した(24)。

ダイアーは父が働くこのショッツ鉄工所に

付 設 さ れ た ウ ィ ル ソ ン 学 校(Wilson’s

Endowed School)に学んだ。 成績優秀であっ

たことから、系列の会社に勤め口が与えられ

た。

やがてグラスゴウ市内クランストンヒルに

あるジェイムズ・エイトキン社(James

Aitken & Co.)という鋳物工場に徒弟修業に

入った。 1863(文久 3 )年から1868(明治元)

年まで修業するかたわら、アンダソン・カレッ

ジの夜間学級に通った(25)。勤労者の学習の

拠点であったカレッジであり、現在のストラ

スクライド大学の前身にあたる。 5 年間の徒

弟修業が終わると、さらにグラスゴウ大学に

進んだ。

徒弟修業したジェイムズ・エイトキン社の

工場長A.C.カーク(Alexander C. Kirk,

1830-1892)は、ダイアーの修業ぶりについ

て下記のように報告している(26)。

   ダイアー氏は、主として組み立て工場

で、正規の徒弟修業を勤めました。

   徒弟修業の後半期には、機械に組み立

てられる種々の部品を製図するという重

要な任務をまかされ、しばらく製図室で

仕事をしましたが、この製図室では仕事

の理論面と営業面を熟知する機会があり

ました。

   本工場での製品にはボイラー、大型の

扇風機とポンプ、巻き揚げエンジン、あ

らゆる種類の補給装置が含まれていたの

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

で、実に多様な製品を見るというすばら

しい機会がありました。

   職工としての腕前は申し分なかったの

で、すばらしい仕事ができたばかりか、

素早く仕事をすることができました。

グラスゴウ大学はイングランドのオックス

フォード大学やケンブリッジ大学にみられる

入学あるいは学位取得のさいの宗教審査など

なく、勤労者にも門が開かれていた。また、

両大学が実験科学の教育には踏み込むことは

なかったのとは対照的に、実用科学が早くか

ら教えられていた。ダイアーは成績優秀につ

き奨学金を給付されている。1868(明治元)

年から1872(明治 5 )年までの在学中、1868

年度には物理学(Physica)および数学上級

コース(Mathematica-Seniore)を、1869(明

治 2 )年度には物理学(Physica)および機

械 学(Scientiae Machinalis) を、1870( 明

治 3 )年度は ラテン語初級コース(Latina-

Juniores)、ギリシャ語初心者コース(Graeca-

Tyrones)、機械学上級コース(Scientiae

Machinalis-Seniore)を、1871(明治 4 )年

度はラテン語上級コース(Latina-Seniores)、

ギ リ シ ャ 語 上 級 者 コ ー ス(Graeca-

Provectiores)、物理学(Physica)、博物学・

動物学コース(Natural History-Zoology)を、

そ し て1872( 明 治 5 ) 年 度 に は 倫 理 学

(Ethica)、論理学(Logica)、国語・国文学

(English Language and Literature)を、そ

れぞれ履修している。前半は自然科学系の、

後半は人文教養系の科目を重点的に受講した

ことになる。「在学中、夏期には作業所や建

設事務所で働いたし、時々アンダソン・カレッ

ジの夜間学級に出席して補充の学習をするこ

ともあった」。(27)

グラスゴウ大学では、在学中、成績優秀に

つき優等賞を毎年度受賞している。まず最初

の1868(明治元)年度には、「数学」上級コー

スにおいてクラス投票部門で二番になり「ク

ラス優等賞」を受賞し、また筆記試験部門で

は三番であった。「自然哲学」では実習・筆

記試験部門で二番であった。1869(明治 2 )

年度には、「土木工学・機械学」の製図部門

でクラス優等賞を受賞した。1870(明治 3 )

年度には「土木工学・機械学」の筆記試験部

門一番で「ウォーカー賞」を、同「土木工学・

機械学」の製図部門で「クラス優等賞」をそ

れぞれ受賞したし、さらに工学優等証

(Certificate of Proficiency in Engineering

Science)も取得した。1871(明治 4 )年度

の場合は、「実験物理学」で「アーノット賞」

を受賞、「自然哲学」の高等数学部門で一番

を占めた。最終年度の1872(明治 5 )年度に

は、『18世紀における科学の進歩に対する

ニュートン原理の影響(The Influence of the

Newtonian Principles on the Progress of

Science during the Eighteenth Century)』と

いう論文で最優秀論文賞「ワット賞」を受賞

した(28)。

このうち、1871年 4 月に授与された工学優等

証を試訳してみると、資料①の通りである(29)。

恩師のW.J.M.ランキンあるいはW.ト

ムソンらを含む大学評議会試験委員会から授

与されている。

徒弟修業においてもグラスゴウ大学におい

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

資料① グラスゴウ大学工学優等証

ても成績優等であったことから、恩師のラン

キン教授の推挙でお雇い教師に選ばれ、日本

にやって来ることになった。

(二)

ダイアーの履歴のうち , 本稿の主題との関

連で注目点が三つある。

第一は、グラスゴウ大学に修学しただけで

なく、 5 年間の実地修業を体験したことであ

る。徒弟となって実地修業するということは、

大学で学んだ知識や技術を実際の現場で実物

にあたって学ぶということである。しかも、

船の建造技術とか鉄工の技術とかについてだ

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

けの実修ではなく、帳簿のつけ方、ビジネス

のおこし方などに至るまで実地に学ぶのであ

るから、工学人材を育成する指導者として意

味のある体験となる。

第二は、アンダソン・カレッジの夜間課程

を履修したとき、そこに山尾庸三が学んでい

たこと、その縁から工部大学校の構想ならび

に経営のさい山尾の支援を受けることができ

た、ということである。「私の提案した計画

に山尾氏は心から賛意を表してくれ、何事に

つけ可能な限り親切な配慮を惜しまなかっ

た」と、ダイアーは次のように述べている(30)。

   私にとってうれしい驚きだったのは、

伊藤博文氏の後任として工部大輔を務め

ていた山尾庸三氏は、実はかつてグラス

ゴーママ

のアンダーソン・カレッジ(のちの

グラスゴーママ

・西部スコットランド技術カ

レッジ)の夜間クラスで見かけたことの

ある人物だったということである。 当時

の山尾氏は、グラスゴーママ

のネイピア造船

所で造船技術を実地に学んでいた。山尾

氏がグラスゴーママ

に滞在中、私はとくに個

人的なつきあいがあったわけではない

が、同じ時期にともにグラスゴーママ

で暮ら

していたということだけで、私たちはお

おいに意気投合したものである。

   ・・・・ 私の提案した技術者養成計画に

山尾氏は心から賛意を表してくれ , 何事

につけみずから進んで可能な限りの親切

な配慮を惜しまなかった。のちに『工部

大学校』と呼ばれるようになる工学寮カ

レッジ(工学校)が成功を収めたのは、

ほかならぬ山尾氏の努力に負うところが

まことに大きい。

第三に、グラスゴウ大学在学中の1870年、

ホイットワース奨学生(Whitworth Scholarships)

に選ばれたこと(31)、そして1868年同奨学生に

応募したさいに作成した履修計画『ホイット

ワース奨学金を受給する三年間の履修計画』(32)

には、エンジニアという専門職には専門分野

の学力ならびに実務能力だけでは十分でなく

幅広い教養教育も必要である、というダイ

アーが重視する教育観がすでにあらわれてい

ることである。

   技師および製図工として7年間ほどの

実習体験がありますので、今後 3 年間は、

そのほとんどを一般教育を修了しもっぱ

ら理論的学習にあてるつもりでありま

す。

   工学資格証明書の取得に必修であるグ

ラスゴウ大学工学課程を修了するととも

に、文学修士号を取得できる授業を履修

するつもりであります。

   教養課程では、古典および哲学には学

位取得に必要な時間をあてるだけにし

て、工学、数学、自然哲学の履修にでき

るだけ時間を充てたいと思います。

   このようにして、十分な一般教育を受

けるつもりです。それから、ラテン語を

履修したあと、重要な手段となる現代語

を急いで履修することができると思いま

す。

   教養課程を修めたあとは、資格試験で

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

古典および哲学の知識を必要とする学位

の取得へむけて進むつもりであります

し、また英国学士院の造船学修了証書の

取得をめざして挑戦するつもりでありま

す。

工学寮ならびに工部大学校という工学専門

教育機関では士族出身の学生が多く、ともす

れば実務を軽視する傾向がみられたし、専門

職はとかく思想や行動の偏狭さに陥りがちに

なるであろうから教養教育が不可欠である、

という観点は重要な意味をもつことになる。

ダイアーは工部大学校においても、また帰国

してからも専門職である「エンジニアに教養

教育が必要である」と一貫して説いている(33)。

2)H.ダイアーの工学教育構想

(一)

ダイアーの工学教育構想には、大きな特色

が認められる。

第一に、 6 年間という長期の教育課程を構

想し、修学期間を 2 年づつに区切り予科課程

(General and Scientific Course)、専門課程

(Technical Course)、 実 地 課 程(Practical

Course)の三段階としたことである。 1 ・ 2

年生の予科課程では英語、地理学、数学初歩、

機械学初歩、理学初歩、化学、図学(幾何図・

機械図)が、 3 ・ 4 年生の専門課程では土木

学、機械学、電信学、建築学、実用化学、鉱

山学、冶金学が教えられた。 5 ・ 6 年生の実

地課程では実地修業ならびに卒業論文ないし

卒業設計が課された。実地修業は主に工部省

が所管する各地の官営事業の現場に派遣され

研修を体験する、というのが基本的な教育課

程であった。

第二に、工学の専門課程の学科編成を土木

学、機械学、電信学、造家学、実地化学、採

礦学、鎔鋳学の 7 科にし、広い専門学科を配

した。明治15(1882)年に造船学が増設され

て8科になるが、当時、工学の専門学科をこ

れだけ細分化し揃えたところは類例がないと

考えられる。

第三は、理論と実践の結合をめざした教育

方法を採り入れたことである。サンドイッチ・

システムのことであって、大学における理論

学習と学内外での実修とを組み合わせた教育

課程編成である。具体的には、予科課程およ

び専門課程にあたる 1 年生から 4 年生までの

4 年間、毎年10月から 3 月までは大学で学習

し、 4 月から 9 月までは自分が専攻した分野

に関連する実修にあてる。学内施設、あるい

は学外にある付属施設である赤羽工作所に出

向いての実修である。この赤羽工作所では、

ヨーロッパ製工具の製作法ならびに使用法が

教えられた。 当時作成された目録『製造機械

品目』(1881)には、図解入りで工業技術製

品の図面と仕様、あるいは蒸気機関、船舶機

関、機関車用ボイラー、各種ポンプ、クレー

ン、各種工具などが掲載されており、これら

についての具体的な学習が構想されていた(34)。

最後の実地課程にあたる 5 年生 6 年生の 2

年間は、学外の現場での実地修業ならびに卒

業論文ないし卒業設計にあてられた。実地修

業はおもに工部省が所管する各地の灯台、運

河、港湾、鉱山、鉄道などでおこなわれた。

化学科の場合は桐生製紙場、栃木染藍所、王

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

子製紙場、大坂造幣局などで、電気学科は愛

知電灯会社、京都水力事務所、足尾銅山、函

館紡績所などで、それぞれ実修を体験した。

土木科の場合は常陸鉾田大貫の運河設計、船

河港八郎潟の設計など、「施工ではなく、測

量および設計に専念した」(35)。

ちなみに、工部大学校の第一回卒業式にお

ける演説のなかで、ダイアーは「有能な技術

者」の教育には英国で重視される「実地研修」

と独仏のポリテクニクスにみられる「科学的

訓練」の「両方のやり方の賢明なる結合が必

要とされる」と、下記のように所信を表明し

ている(36)。

   技術者(engineer)が受けるべき訓練

の本質について見解は顕著に別れている。

ある種の人たちは直面するすべての問題

を最も抽象的な方法で処理することがで

きず、また最も簡単な問題にさえ高等数

学を適用することができなければ技術者

の名に値しないし、仕事における実地経

験は二の次であると主張します。そうし

た技術者が多数フランスとドイツのポリ

テクニクスから毎年巣立っているが、か

れらはほとんどまったく実際的着想に欠

け、彼らの生み出す設計はほとんど、い

やまったく独創力のないことで際立って

おり、たいてい隣国人の模造によりなっ

ています。

   他の部類の人たちは、真の技術者とは

ハンマー、鑿、烏口を等しく達者に使い

こなす能力をもっていなければならな

い、科学的訓練はそれほど必要でないと

主張します。これは数年前まで英国で主

流の見解であり、今までに非常に良い結

果をもたらしてきています。しかし、そ

れはしばしば試行錯誤の高くつくやり方

であった。

   これら二つの見解はいずれも不十分な

ものであります。・・・有能な技術者を

養成するには、両方の組織のやり方の賢

明なる結合が必要とされるのである」。

卒業論文については、この実地修業を 6 年

生の「十二月中ニ終了シテ帰校後翌年一月ヨ

リ三月ニ至ル迄ヲ卒業試験ノ期間トス此試験

ニハ実修期間ノ報告書ヲ草シ専門科ニ関スル

論文ヲ作製」し、提出することになっていた。

また、「工事ノ意匠」も「仕様書ヲ添テ卒業

論文ト同時ニ出ス」ことが規定されていた(37)。

第四は、「施設や設備に特段の配慮をした」

ことである。学内に、図書館(Library)、物理

実験室(Physical Laboratory)、化学実験室

(Chemical Laboratory)、作業場 (Workshop)、

技術博物室 (Technical Museum)を付設す

ることの教育効果が自覚されていたし、学外

には付属施設として赤羽工作所が設けられ

た。観察・経験・実地という学習体験が重視

されていたのである(38)。

第五に、一般教養科目の教育が重視された

ことが特筆される。明治12(1879)年11月の

工部大学校第一回卒業式ならびに翌13(1880)

年の英語討論会において自身の教育論を講演

し た さ い、 そ れ ぞ れ「 専 門 職 業 教 育

(Professional Education)」ならびに「非専

門職業教育(Non-Professional Education)」

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

という演題で講じたが、 そのなかで、下記の

ように専門職人には教養教育が必要であるこ

とを訴えている。

しかも、「数学や物理の科目が専門に用い

られる他に、知的教養の目的のために有益で

あることを指摘しましたが、」と具体的に余

暇学習を奨励した(39)。

   諸君は自分の専門について一通り詳し

い知識を得たと思いますが、物事に対す

る広い公正な考え方で問題を処理するに

はなお大いに欠陥があります。それは公

共問題に関する諸君の意見は職業的な利

己主義と階級的な偏見によって歪められ

る傾向にあるからであります。

   諸君が文学、哲学、芸術、さらには自

分の専門職に直接役立たないような諸科

学にまったく門外漢であったならば、多く

の専門職人に見られがちな偏狭、偏見、

激情から逃れることはできないでしょう。

帰国後の1907(明治40)年 4 月、『グラス

ゴウ・ヘラルド』紙に寄稿した「大学教育論:

科学・技術の学習」においても、一般教育の

必要性を主張している(40)。

   私の言いたいことは、現代の技術教育

の最大の欠陥の一つは、学生にきちんと

した一般教育を与えていないと思われる

ことである。単に技術的に教育された人

間は、概して貧困な人間性の見本のよう

になっていて、彼らの主要な関心は自分

の小さな領域と金を稼ぐことに限られて

いる。仕事を離れた真の知的な喜びを知

らないように見えるし、知的にも道徳的

にも堕落しがちである

要するに、「政治、経済、文化に関する幅

広い教育を踏まえて、自らの社会的使命を的

確に認識し実現するという技術者像」が、ダ

イアーのなかにはあったのである(41)。

以上のようなダイアーの工学教育構想は、

ダイアーの推薦者 L. D. B. ゴードンが提示し

た前記のような構想と比べると、一段と拡充

した内容になっている。①教育課程は 2 年も

しくは 3 年ではなく 6 年間の課程になり、②

その編成も「工学の基本課程を学ぶ」課程な

らびに「工学の実際的課程」から成り、しか

も予科・専門・実地の三課程より構成されて

いる。③学科編成ならびに④教員組織につい

ても、一段と充実した構想である。⑤実地研

修、⑥実験室や博物室などの施設設備につい

ては、その意義が明確に自覚され、具体的に

提案されていることが特筆される。

(二)

以上のような教育課程を基本型とする工学

教育構想は、カレンダーのなかに具体化され

た。同カレンダーについて、ダイアーは日本

に向かう約 2 カ月の船旅の間その「草案作成

に没頭する毎日」であったこと、それを提出

したら「何の修正も加えられることなく日本

政府に採用され」たと下記のように述べてい

る(42)。工部大学校の教育の基本構想にかか

わる注目すべき記述である。

   私たちの一行は、一八七三(明治六)

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

年の四月初め、サウサンプトンを出港し

て日本へと向かった。船上の私は、東京

に設立される技術カレッジの講義内容や

授業時間割りなどをまとめたカリキュラ

ム『講義題目一覧表』(学課並びに諸規則)

の草案作りに没頭する毎日だった。その

甲か い

斐あって、私は日本に到着するとすぐ、

工部省の工部大輔宛に書き上がったばか

りの『講義題目一覧表』を提出すること

ができた。それは何の修正も加えられる

ことなく日本政府に採用され、『工学寮

入学式並学課略則』として工部省から発

表された。

ダイアーが明治 6(1873)年 6 月 6 日に「日

本に到着するとすぐ」提出したという英文カ

レンダーは、目下のところ確認されていない。

けれども、その内容は工部省が刊行した最初

の 英 文 カ レ ン ダ ー Imperial College of

Engineering, Tokei. Calendar. Session

MDCCLXXIII-LXXXIV(Tokei, Printed at

the College, 1873)と大差ないと考えられる。

同カレンダーは 6 年間の教育課程、 7 科から

成る専門学科の編成などダイアー構想の特徴

点が含まれており、工部省が前年 3 月 2 日に

布達した「工学校略則」とは大幅な相違点が

認められる(43)。また , ダイアーの選任に関

与したグラスゴウ大学教授L.D.B.ゴー

ドンが示した、前出の構想よりも一段と充実

した内容になっている。

工部省は、ダイアーが来着した翌明治 7

(1874)年の 2 月になると『工学寮学課並諸

規則 Imperial College of Engineering,

Tokei』と題する日本語のカレンダーを布達

した。 この『工学寮学課並諸規則』と1873

年の英文カレンダーを比較すると、表紙なら

びに内表紙の様式と図柄、表記が類似してい

る。本文の内容と構成、全79条からなる学則

も英語版とほぼ符合することが注目される(44)。

英文カレンダーと『工学寮学課並諸規則』

の内容や構成がほぼ符号しているということ

は、前者が印刷されたあと、それに基づいて

後者が作成されたことであり、またダイアー

の構想は工部省に受け入れられ、工部大学校

の前身である工学寮の教育課程あるいは学則

となったということを意味する。しかも、こ

の学則は「以後数次にわたって改正されたが、

基本において変更はなく、工部大学校の性格

を決定づけることになる」(45)。また、工部

大学校と東京大学工芸学部を併合して明治19

(1886)年 3 月に設立された帝国大学工科大

学では、専門教育の期間の短縮、実地研修の

縮小など修正点がみられるけれども、その学

科編成は「ほぼ工部大学校の編成を踏襲した」(46)。

したがって、ダイアーの工学教育構想は近代

日本の工学教育の原点になったと考えられ

る。

ダイアーの構想には彼の独創と思われる特

徴点がいくつかあるけれども、彼の提案が「日

本政府に採用された」のは、工部省の構想と

軌を一にするところがあったからと考えられ

る。工学を学校教育形態で教える、それも実

地研修とあわせて組織化する、西洋人教師を

招聘するなどという基本構想は、実はわが国

にはダイアーの招聘以前からすでに複数存在

していた。工部省お雇い教師E.モレル

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

(Edmund Morrell, 1840-1871)の「建築学校」

構想、大島高任(1826-1901)の「坑学寮」

構想、工部省の「工学校」構想である。ダイ

アー構想はこれら「日本側で積み上げて来た

構想」と同じ路線の上に立つものであったか

ら、意向が尊重されたと考えられる。そのさい、

ダイアーは「日本側の構想に関してあらかじ

め十分な情報を持っていた」であろうという

こと、とりわけ英国人教師の来日の同行者に

命じられた林董に付き添われて来日する船中

で、林を介して日本側の構想を知り得た可能

性があることを指摘するむきもある。 林は岩

倉使節団に随行中、伊藤博文が教師人選の交

渉をし終えたのち伊藤に依頼されて「実務を

遂行」したし、しかもダイアーら英国人教師

に付き添って日本まで同行している(47)。

(三)

ダイアーの工学教育構想は教育課程あるい

は学則のなかに採り入れられただけでなく、

実際の教育のなかに具体化された。工学教育

の実際については、これを受講した学生の回

想録のなかに記録されており、ダイアーの教

育構想は具体的に実現されたことがうかがわ

れる。しかも、ダイアーの特色ある教育構想

の意義について理解が深められていたことが

特筆される。

たとえば、志田林三郎(第 1 回生、電信学

専攻)は「工業ノ進歩ハ理論ト実験トノ親和

ニ因ル」という講演のなかで、下記のように

回想している(48)。

   工業ノ進歩ヲ企図スルニハ一般世人ヲ

シテ理論ト実験トハ必ズ相親和スベキモ

ノナリトノ思想ヲ抱カシムルノ必要ハ其

レ斯ノ如シ。因テ余ハ今此論文ヲ結バン

トスルニ臨ミ、此必要ヲ知ラシムルノ方

策ニ就テ一言スベキ事アリ。之ヲ英国ニ

徴スルニ近来理論実験ノ親和ヲ鞏固ナラ

シメタルハ諸大学ニ於ケル工学科ノ設置

及ビ英国協会等ノ力与リテ居多ナリト

ス。本邦ニ於テハ嚢ニ工部大学校ヲ設置

セラレ学理ノ応用ヲ教授シ理論実験ヲ研

究シタル而已ナラズ、学生卒業ノ後ハ鉄

道、電信、造船、採鉱等ノ実業ニ従事セ

シメ、世人ヲシテ理論ト実験トハ大ニ相

関係スルモノナリトノ思想ヲ惹起サシ

メ、随ツテ日本全国ニ於テ工業ノ面目ヲ

一新シタルハ実ニ其成蹟顕然タルモノナ

また、中原淳蔵(第 4 回生、機械学専攻)

の回顧録『六十年前の思出』には、下記のよ

うな記述が認められる(49)。

   教官は英国人殊に多数は蘇格蘭人なり

き。教頭のヘンリーダイエルは、日本に

来られたときは漸く二十六歳であつて、

曽て当時の工部卿山尾庸三氏の蘇国に留

学せし時の学友たりと云ふ。工部大学校

即 ち 旧 工 学 寮(Imperial College of

Engineering)の組織及学則は全然氏の

考案に成る。 而してその編制上の主義は

所謂独仏の学理的たるのと英国の実地的

なるとを折衷したる教育法である。氏は

常に次の如く工業教育に就いて主張せら

れ て 居 ら れ た。 独 仏 の 工 芸 学 校

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

(polytechnic)を卒へて社会に出る学生

は頗る多数である。 然し学理のみに偏し

たる教育を受けて居る丈で実地に迂闊で

あるから役に立たない。之に反して英国

では実地のみで人を作る。英国では工学

の如き実際的学問は机上で修得せしむる

ことは不可能である。如何にしても実地

で叩き上げなければエンジニーアを造る

ことは不可能であると云ふの議論が

千八百七十五年頃(明治十年)まで殆ん

ど英国の輿論であった程で徒に時を費す

こと多し。ダイエル氏は右の仏英の工業

教育法は何れも一方に偏して弊害がある

から何れにも偏せざる方法を採り前述の

如き工部大学校の学則を編制したのであ

る。今日まで我邦の帝国大学工学部の学

則は之に基いて居て余り改編せられて居

ない。年齢三十に満ずして組織的手腕を

有するダイエル氏の如きも亦稀なりと謂

ふべき歟

一方、教育と研究を熱心におし進めた同校

の英国人教師たちも、「まさに科学を基礎と

しながらも、実践性を重視した展開」をなし

ていた(50)。

もっとも、実地課程における現場での実地

研修については、実際には「各学科で等しく

実現しているわけではない」(51)。実修の場所、

作業内容、出張の件数、日数、派遣先など実

地研修の実態は、公式記録である『工部省年

報』、お雇い教師による報告書、実地研修を

終えた 6 年生が実習報告として提出した卒業

論文、卒業生の回想録などにみられるように、

かならずしも一様ではない(52)。また、専門

課程における現場での実修についても、学科

によっては校内実修に置きかえられる場合が

あった。このような現場実修の縮小は、「工

部省事業の縮小によって実習現場を失ったこ

とによると考えられる」(53)。

それでも、同時期に文部省が設置した東京

大学理学部における工学教育が「理論面に偏

し」最終 2 年間の「実地」課程が欠如してい

たのに対して、工部大学校では実地が重視さ

れ、しかも学理と実地をともに重視した総合

的な工学教育が目指されていたのであるか

ら、これは大きな特色として注目される(54)。

理論学習だけでなく実地も重視するという工

学教育の理念、ならびにそのような工学教育

の専門部局が早くから総合制大学の中心に位

置づけられていたことは、前記のように、日

本の大学の特色となる。

「理論と実践の結合」という特色あるこの

構想と実践は、ダイアーの徒弟修業を含む諸

体験、アンダソン・カレッジの夜間課程での

学習、母校グラスゴウ大学に学んだ体験、と

りわけ工学教授ランキンの授業や実験におけ

る経験に加えて、J.S.ラッセル(John

Scott Russell, 1808-1882)著『英国民のた

めの体系的技術教育』(1869)やJ.プレイフェ

ア(John Playfair, 1818-1898)著『大陸諸

国の産業教育』(1852)などヨーロッパ諸国

やアメリカの工業教育制度についての著作を

参考にして構想された、と考えられる(55)。

両書とも大陸諸国の技術教育の調査研究、そ

れとの比較による英国の技術教育の課題、英

国技術教育の不備による英国産業の威信の低

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20

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

下について指摘されている。

ダイアーは来日する前にすでに内外の技術

教育について調査研究をし、それらを参考に

して構想したと記している。「私は以前、世

界のさまざまな国の科学と工学の主だった学

習方法について詳しく調査し、またいくつか

の有力な教育機関の組織を研究してみる機会

があった。それは、イギリスの技術者教育を

前進させるために、私みずから真剣に取り組

んでみたいと考えてのことである。その結果、

この問題についてはどういうことが望ましく、

またどんなことが可能かについて、私はかな

り明確な構想をまとめることができた」(56)。

なお、校外における実地研修は工部省の廃

省後になると縮小傾向が顕著になるが , これ

についてダイアーは自著『大日本』(1904)

において次のように述べ、実地研修の意義を

説いている(57)。

  工科大学の運営は順調に進んだが、こと

実習教育については、工部省の管轄当時

ほどには機会に恵まれなかった。 学生た

ちは以前は工部省直轄の工場や工事場で

実習を体験できたが、今度はもっぱら民

間企業に実習訓練を依頼したり、官営工

場を訪ねなければならなかったのである

。 学生の教育のためばかりでなく、国の

利益という観点からも、実地の技術教育

についていっそう行き届いた措置を講じ

る必要がある。

3)ダイアー教育経営の成果

ダイアーの工学教育構想、ならびに工学寮

および工部大学校における教育実践はどのよ

うな成果があったかということも、検討すべ

き重要な課題である。

工学寮ならびに工部大学校は、明治 6

(1873)年 7 月に工学寮の名で開校してから

明治19(1886)年 3 月に東京大学工芸学部と

合併されて帝国大学工科大学となるまでの期

間中、入学生は合計493名。そのうち明治18

(1885)年末までの卒業生は 211名を数えた

(中途退学生111名、死亡18名)。卒業生の多

くは、「工部省の進める国営工業に従事し、

イギリス人教師に教えられた近代技術を定着

させることに寄与した」。その後、「産業革命

が進み、民間会社が発達するとその技術的

リーダーとなる者がふえた」(58)。

工部大学校は、第一に日本工業化をになう

指導的人材を育成した。官営工業における近

代技術の定着、ならびにエンジニアとしての

実践的能力の形成に寄与し、工業化人材の育

成にあたったのである。代表的な人物として、

ジアスターゼやアドレナリンの発見者・高峰

讓吉(第 1 回生、化学専攻)、東京駅、日銀

旧館などの設計者・辰野金吾(第 1 回生、造

家学)、赤坂離宮、奈良博物館、京都博物館

の設計者・片山東熊(第 1 回生、造家学)、

タングステン電球の特許取得者・藤岡市助(第

3 回生、電信学)、いのくち式渦流ポンプの

発明者・井口在屋(第 4 回生、機械学)、琵

琶湖疎水工事の設計監督者・田辺朔郎(第 5

回生、土木学)、下瀬火薬の創製者・下瀬雅

允(第 6 回生、化学)などの諸氏がいる(59)。

第二に、工部大学校の卒業生は工業化の面

だけでなく、教育の分野においても顕著な活

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

躍をした。 とくに工業教育機関の創立、経営、

教育に関与した者がいる。明治時代の工業教

育機関は、帝国大学工学部( 3 校)、高等工

業学校( 8 校)、中等工業学校(33校)、徒弟

学校その他の工業学校(74校)に分類される(60)が、そこの校長あるいは教員の輩出とい

う形で工業教育の進展に貢献したのである。

具体的には、帝国大学工学部の卒業生は帝国

大学工学部ならびに高等工業学校の、帝国大

学工学部ならびに高等工業学校の卒業生は中

等工業学校ならびに徒弟学校その他の工業学

校の、それぞれの校長や教員の供給源になっ

た。

たとえば、母校の帝国大学ならびに東京帝

国大学の教授になった者は14名いる。第 1 回

生では三好晋六郎、志田林三郎、辰野金吾、

第 3 回生では真野文二、中野初子、浅野応輔、

河喜多能達、垪和為昌、第 4 回生では野辺地

久記、井口在屋、山川義太郎、的場中、中村

達太郎、第 5 回生では田辺朔郎の諸氏である。

また、工業教育機関の学長あるいは校長に

なった者が 6 名いる。辰野金吾は東京帝国大

学工科大学学長、真野文二は九州帝国大学総

長、田辺朔郎は京都帝国大学工科大学学長、

小花冬吉(第 1 回生、冶金学)は秋田鉱山専

門学校校長、安永義章(第 2 回生、機械工学)

は大阪高等工業学校校長、中原淳蔵(第 4 回

生、機械工学)は熊本高等工業学校校長、大

竹多気(第 5 回生、機械学)は米沢高等工業

学校校長ならびに桐生高等染織学校校長に、

それぞれ就任した。そのほか、官立の学校では

ないが、野辺地久記(第 4 回生、土木学)は

岩倉鉄道学校校長に、的場中(第 4 回生、鉱

山学)は明治専門学校校長に就任している(61)。

かれらは、工部大学校で英国人教師から学

んだことをもとに英国人教師に代わって後身

の指導にあたった。 工業教育機関が拡張す

ると、高等工業学校などの教壇に立つ者が増

えた。エンジニアとしてでなくて、工業教育

家となって日本の工業化をになう人材の育成

にあたった人たちである。

工業教育家となったかれらの教育活動を見

ると、「ダイアーの工業教育観が至るところ

で姿を現わす」し、「ダイアー門下生として

の見識」が示されている。そのなかでも、琵

琶湖疎水事業を設計し監督した田辺朔郎は

「ダイアーの門弟中、最も深く恩師に私淑し

た」といわれる。田辺は「社会に尽くしてこ

そ、初めて技術者といえる」というダイアー

の指導を実践に移したのであった(62)。

日本の工業化をエンジニアとして担当する

人材を育成しただけでなく、学校教育機関に

おいて工業化人材の育成にあたる工業教育家

を輩出したことも、ダイアー教育経営の成果

として忘れてはならない。

4.英国への教育還元1)英国における工部大学校への関心

(一)

ダイアーが提案し工学寮ならびに工部大学

校の教育課程のなかに具体化された工学教育

構想は、実は英国にもヨーロッパにも単独の

モデルをもたない独自なものであった。それだ

けに、ダイアーを送り出した英国では強い関心

が示された。新聞・雑誌は早くから何度も取

りあげ、驚きと賛辞をもって報じている(63)。

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

管見の限り、最初の記事は『ネイチャー』

誌の明治6(1873)年 4 月 3 日の記事「日本

の工学カレッジ」である。岩倉使節団一行が

英 国 を 訪 れ、 江 戸 に 工 学 カ レ ッ ジ

(Engineering College)を設立するにつき助

言と援助を求めてきたこと、ダイアーが英国

とヨーロッパ大陸の教育制度についての幅広

い知識をもとに「総合的な教育計画」をすで

に構想していること、派遣する教師 2 名 D.

H. マ ー シ ャ ル(David Henry Marshall,

1848-1932)ならびにW.E.エアトン

(William Edward Ayrton, 1847-1908)がす

でに決定していること、工作機械、展示室、

作業場などを付設することについても計画さ

れていること、などを報道している(64)。

『エンジニア』誌(1873年 4 月11日)は、こ

の『ネイチャー』誌上の記事を再録して報じ

た(65)。『エンジニアリング』誌もまた、同年

4 月11日号で「工学カレッジ」設立計画案に

ついて詳しく報じた(66)。 ダイアー一行が日本

に向けサザンプトンを出港したのは明治6

(1873)年 4 月初めであったのだから、その

ころ早くも日本における工学教育のための学

校設立の動きに関心を示していたのである。

明治日本における工学教育の進展は、その

後も注目され頻繁に取りあげられた。しかも、

建物や敷地の配置、卒業式、入学試験・定期

試験などについても関心が払われ紹介されて

いる。おおむね好意的に紹介され、成功の物

語として語られている(67)。当時、西洋では

工部大学校のような総合的な工科大学はまだ

設立途上であったからであろう。

工学カレッジの設立と開校が紹介されるさ

い、英国にとっては学ぶべき教訓と受けとめ

られたことが注目される。 英国では1851年ロン

ドン万国博覧会および1867年パリ万国博覧会

をきっかけに、ヨーロッパ大陸諸国の追い上げ

と自国の先進工業国としての地位が脅かされ

つつあることが判明していた。識者たちは危機

感を抱き、学校教育形態での技術教育の組織

化を進めることが国家的な重要事であるとの認

識に至り、大陸諸国の実状についての調査研

究に乗りだしていた。 英国の技術カレッジの

モ デ ル と し て チ ュ ー リッヒ 工 科 大 学

(Eidgenössische Technische Hochschule

Zürich)を紹介したJ.ラッセル著『英国民の

ための体系的技術教育』(1869)、あるいは1881

(明治14)年にヴィクトリア女王によって任命さ

れ た 王 立 技 術 教 育 調 査 委 員 会(Royal

Commission on Technical Instruction)の『報

告書』(1884)などがその成果である(68)。また、

1853(嘉永 6 )年には科学技芸局(Science

and Art Department)が設置され国家政策と

して科学技芸教育の振興が図られたし、1875

(明治 8 )年にはケンブリッジ大学に機械学・

応用工学講座がはじめて設置されたことも特筆

される。

このようななか、東洋の日本における工学

専門教育機関の動向に対しても、それも英国

人の指導のもとで始められただけに、強い関

心が集まったのであろうと考えられる。

(二)

英国のなかでもイングランドが体系的な工

学教育の点で大幅に遅れをとっている間に、

日本では政府の主導による大事業がおこなわ

れている。工学寮ならびに工部大学校という

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

工学専門教育機関が設立され、「作業現場に

おける生の実務体験と結びついた高度な科学

的教育を提供している」。また、同校に見ら

れる「実習と理論がブレンドされた」教育シ

ステムは、英国のこれまでの試みを「まった

く凌駕する。英国はこれをまねるといい」と

いう記述までみられるのである(69)。

工学寮ならびに工部大学校における教育の

先進性の指摘と英国工学教育への批判という

論調は、『ネイチャー』『エンジニア』『エンジ

ニアリング』という当時の代表的な科学技術

雑誌において頻繁にみられる。ダイアーが工

部大学校に在任したころからあらわれている。

たとえば、『ネイチャー』誌は「日本の工学

教育」という記事(1877年 5 月17日)において、

イングランドは「体系的なエンジニア教育の

点で大変な遅れをとった。・・・・ そのための教

育機関が皆無なのである」。作業場における

トレーニングでは学習クラスや講義が与えら

れず、また試験もなく「大事な理論的訓練が

まったくなおざりにされている」。 一方、「ヨー

ロッパ大陸の制度はこれと対照的に理論は教

えるが実習をおろそかにしている」のが実状

である。実は「この両制度の賢明な結合、す

なわち科学と実務経験とが手を携えて機能す

ることによってのみ最良の成果が期待される。

このような最良かつもっとも健全な原理にも

とづいたエンジニア教育が、国家間の競争熾

烈の時代にはもっとも重要なのである。

・・・・・ イングランドがこの重要事項におくれ

をとっている間に日本政府による大事業がお

こなわれていた。 東京に工部大学校(Imperial

College of Engineering)が設立されたのであ

る。 それは作業場における生の実務経験と結

びついた高度な科学的訓練を提供している」(70)

と記述し、工部大学校における工学教育の先

進性について注目している。

『エンジニア』誌の記事「工部大学校」(1878

年 6 月28日、1877年 5 月18日)では、ダイアー

が編集した『1877年度大学要覧(Calendar)』、

ならびに都検ダイアーおよび各教師から提出

された活動報告書を含む1873年度から1877年

度までの『申報(Report)』を紹介すること

を通して、工部大学校の教育の実際と特色に

ついて説明している。 そして、工部大学校に

おける「実習と理論がブレンドされた」教育

システムは、英国のこれまでの試みを「まっ

たく凌駕する。・・・・・・ 日本国民のこの経験

は英国にとって有益であろう」という評価を

下している。また、工部大学校の「学生はヨー

ロッパに数多くある工科大学の学生よりも、

断然優れた実際的な教育の機会を有してい

る。・・・・・・ 英国民は日本人がヨーロッパの

各種の慣行や方式をすっかり採り入れてきた

ことに驚くが、その大学要覧(Calendar)を

見たらもっと驚愕するであろう。それを見る

と、英国における最優秀な技術教育制度が完

璧なまでに摂取され改良されている」(71)と

いう記述もみえる。

『エンジニアリング』誌の場合は、「東京の

工部大学校」(1877年 7 月27日)において、

具体的な教育課程編成について紹介し、その

編成におけるダイアーの指導性に言及すると

ともに、とくに製図学習および実験室におけ

る実習が重要視されていることを高く評価し

た。物理学実験室、化学実験室、冶金学実験

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

室、工学実験室が付設されたことを特筆し、

ロンドン大学ユニヴァシティ・カレッジの工

学実験室と「本質的に同質である」と評して

いる(72)。

工部大学校への関心はその後も続き、同校

が工部省から文部省へ移管されたこと、ある

いは帝国大学に吸収され帝国大学工科大学と

なったことについても、逐次、紹介されてい

る(73)。

2)教育改革のための言論活動

日本における工学教育の先進性と英国の立

ち遅れという状況のなか、ダイアーはお雇い

教師の任務を終え明治16(1883)年 6 月に日

本を離れて帰国の途についた。グラスゴウに

帰郷すると、日本での体験と見聞をもとに教

育改革について積極的に発言する一方、実際

に改革に参画することをとおして技術教育の

振興に関与した。当初ダイアーはグラスゴウ

大学教授就任を願い、1883(明治16)年なら

びに1886(明治19)年の造船学教授人事に応

募したけれども、二度まで失敗し(74)、それ

以降は、教育改革や社会改革に精力的に関与

した。

ダイアーの教育改革のための言論活動は、

公刊された著作に見る限り、初等・中等教育、

大学教育、技術教育の改革にかかわる言論活

動に大きく分けられる(75)。その中でも、技

術教育の改革のための言論活動がもっとも活

発であった。講演ならびに新聞・雑誌への寄

稿をとおした言論活動であって、下記のよう

な事例が認められる(76)。

①1883年11月    「グラスゴウおよび西

部スコットランドの必

要性を特に考察した技

術教育」(グラスゴウ

哲学協会における講

演)

②1887年 1 月 4 日  「グラスゴウ・西部ス

コットランド技術カ

レッジ」(『グラスゴウ・

ヘラルド』紙上の論説)

③1887年 2 月22日  「エンジニア教育論」

(スコットランド技術

者協会における講演)

④1888年 8 月    「グラスゴウ・西部ス

コットランド技術カ

レッジ」(『ネイチャー』

誌 上 の 論 説、『 教 育

ニュース』誌に再録)

⑤1889年 2 月    「建築技術者の養成」

(スコットランド技術

者協会における講演)

 1889年 9 月    「建築技術者の養成」

(スコットランド技術

者協会における講演)

⑥1889年10月    「大学の工学部」(ス

コットランド技術者協

会における講演)

⑦1893年11月    「グラスゴウおよび西

部スコットランドの技

術教育-回顧と展望

-」(グラスゴウ哲学

協会における講演)

⑧1905年      「広い視野からみたエ

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

ンジニアの養成と仕

事」(グラスゴウ技術

カレッジ科学協会にお

ける講演)

これらの講演ならびに論説には、下記のよ

うな論点あるいは特徴が認められる。

第一に、グラスゴウならびに西部スコッラ

ンドを考察の主たる対象としているが、比較

教育史的な視点からの考察がみられる。 日

本の工部大学校の体験ならびにお雇い教師解

約後に視察したヨーロッパ大陸の実状を考慮

に入れた考察である。

たとえば、1883(明治16)年11月の講演「グ

ラスゴウおよび西部スコットランドの必要性

を特に考察した技術教育」では、「私の提言

のなかには、私自身の体験の結果のみならず、

大陸諸国の制度のうち、私の観察のなかから、

あるいはフランスやドイツの教授たちとの討

論のなかから、我われの必要とする条件に合

致すると考えた部分を採用することを念じて

おります」と述べている。1887(明治20)年

2 月22日の講演「エンジニア教育論」になる

と、日本の工部大学校、アメリカのマサチュー

セッツ工科大学、パリのエコール・セントラ

ル等の諸事例を紹介するなかで、スコットラ

ンド、とりわけグラスゴウの技術教育の改革

をめぐって論じている(77)。

第二に、1886(明治19)年、グラスゴウに

あった四つの技術教育機関(アンダソン ・ カ

レッジ、同校付属のヤング応用化学講座 , 科

学技芸カレッジ , アラン・グレンズ学校)を

併合再編してグラスゴウ・西部スコットラン

ド 技 術 カ レ ッ ジ(Glasgow and West of

Scotland Technical College)が創設される

とき、アンダソン ・ カレッジ選出の6名の理

事の一人として実際に関与し、工部大学校の

諸種の体験にもとづいた発言をなし再編を先

導したことである。

まず、1886(明治19)年11月26日の枢密院

における女王勅令によって同カレッジの設置

が認められると、ダイアーはいち早く理事会に

おいて検討すべき事項について思索し , 1887

(明治20)年 1 月 4日地元の有力紙『グラスゴ

ウ・ヘラルド』に、授業を開始するための体制、

諸規則の作成、再編の方法、理念などについ

て自身の見解を表明した。同年 2 月22日のス

コットランド技術者協会における講演「エンジ

ニア教育論」では、技術教育のあり方につい

て詳しく論じた。日本の工部大学校など各国

の事例を紹介し、グラスゴウの新カレッジの

性格を論じ、専門学科の編成について提案し

た。最後の学科編成については、工部大学校

で編成した八つの専門学科に農学をあらたに

加えることを提案しているが、後述のように、

提案はそのまま採用されている。ダイアーの

構想が具体化されたことが注目される。

グラスゴウ・西部スコットランド技術カ

レッジが1887(明治20)年10月から授業を開

始すると、それ以降は同カレッジの編成と教

育の体制、現況について言及した。しかも、

工部大学校の体験を生かして同カレッジの編

成を先導したという発言が目立ってくる。

1888(明治21)年 8 月の『ネイチャー』誌上

の論説「グラスゴウ・西部スコットランド技

術カレッジ」では、既存の教育機関が再編成

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

され時代の要請にこたえるには多くの困難が

あったけれども、「全体としてはかなり立派

な体制作りがなされている」と評価し、昼間

部と夜間部それぞれの学科課程を紹介した。

初年度である1887年度の具体的な生徒数(昼

間部 168名、夜間部1771名)まで挙げている。

1889(明治22)年 2 月および 9 月の講演「建

築技術者の養成」では、「私は地球の両側に

できた二つのカレッジの編成に対して積極的

な役割を果たしました」と自賛したし、同年

10月の講演「大学の工学部」においては、グ

ラスゴウ・西部スコットランド技術カレッジ

の「理事の一人として、私は自分の提言をほ

とんど実現することができました」とまで述

べている。日本で実現したのは、後述のよう

に、学科課程の編成(専門学科の編成および

専門学の授業科目の編成)のほかに、整備さ

れた工学実験室の開設、実験ならびにグラフ

を活用した教育方法、学理と実地を結合した

サンドイッチ方式の導入などである(78)。

1893(明治26)年11月の「グラスゴウおよ

び西部スコットランドの技術教育-回顧と展

望-」ならびに1905(明治38)年10月の「広

い視野からみたエンジニアの養成と仕事」に

おいても、後出のように、工部大学校の体験

を生かすことができたことについて自信に満

ちた表明をしている(79)。

3)グラスゴウ・西部スコットランド技術

カレッジの創設

グラスゴウ・西部スコットランド技術カ

レッジが再編されるさい、ダイアーは講演な

らびに論説を通じて再編を先導する一方、ア

ンダソン・カレッジ選出の理事の一人として

参画し具体的に再編に関与した。

まず、1888(明治21)年 2 月 2 日、教務人

事委員会の要覧小委員会(Sub-Committee

of Calendar)の委員長に任ぜられ、学科課

程の編成ならびに教育課程の整備において

「重要な役割を果たした」(80)。ダイアーは『工

部大学校1879年度要覧』を寄贈し要覧の編成

に活用したほか、国内各地の教育機関の要覧

(Calendar)、 年 報(Report)、 講 義 要 綱

(Syllabus)などを集めて、教育課程の編成

に活かそうとした(81)。 その成果は『1888年

度 要 覧(Calendar for the Year 1888-89)』

となってまとめられた。前年度の『1887年度

要覧』を一段と充実した内容になり、全179

頁から全204頁に増補された。具体的にみる

と、『1888年度要覧』は①学科の増加(昼間

部は11学科から13学科へ、夜間部は27学科か

ら32学科へ)、授業科目の増加と再編、シラ

バスの充実ぶりがみられる。②各種の奨学金・

給付基金の案内、受賞者の紹介、在学生に推

奨される他機関(グラスゴウ大学、グラスゴ

ウ・アシニーアムなど)の授業の案内などを

新規に追加して、学習の充実と促進が図られ

た。そのほか、③図書館への寄贈図書、前年

度在学生の職業別一覧、本年度の昼間部・夜

間部の授業科目ごとの学生数などという記録

も付された(82)。

この『1888年度要覧』が刊行されると、ダ

イアーはこれをさっそく日本に寄贈した。国

会図書館に架蔵されている『1888年度要覧』

がその寄贈本と考えられる。表題紙には「明

治廿一年十一月二十日寄贈 H.Dyer」と記

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お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

されている(83)からである。

1887(明治20)年 9月21日には図書室・博物

室委員会(Libraries and Museum Committee)

が発足し、ダイアーはその委員長となった。

また、カレッジの昼間部の学生に対する資格

証明証(Diploma)の授与を構想し、グラス

ゴウ大学に働きかけて学位(Degree)授与

の道を開こうと尽力した(84)。

このグラスゴウ・西部スコットランド技術

カレッジの再編について、ダイアーは、後年、

自著『大日本』(1904)のなかで、「工部大学

校の教科課程をグラスゴウのこの大学に取り

入れた」と下記のように述べている(85)。

  一八八六年に私も参画したグラスゴーママ

西部スコットランド技術カレッジの創設

の経緯を振り返れば、教育史上の一つの

興味ある事実を発見することになる。こ

の大学は、グラスゴーママ

にあった科学教育

関係の四つの学校を併合再編したものだ

が、私はその際、日本の工部大学校の教

科課程をこの新しい大学に取り入れるこ

とができたのである。ちなみに、この大

学の前身校の一つであるアンダーソン・

カレッジと言えば、かつて日本人留学生

の山尾庸三氏-後日の工部省工部大輔

[のち、さらに工部卿]-と若き日の私が、

○専門学の学科編成

  工 部 大 学 校   グラスゴウ・西部スコットランド  技術カレッジ

① 土木学  Civil Engineering② 機械学  Mechanical Engineering③ 造船学  Naval Architecture④ 電信学  Telegraphy⑤ 造家学  Architecture⑥ 実地化学 Practical Chemistry⑦ 鉱山学  Mining⑧ 冶金学  Metallurgy

① Civil Engineering② Mechanical Engineering③ Naval Architecture④ Electrical Engineering⑤ Architecture⑥ Chemical Engineering⑦ Mining Engineering⑧ Metallurgy⑨ Agriculture

○土木学の授業科目

  工 部 大 学 校   グラスゴウ・西部スコットランド  技術カレッジ

① 高等数学 Higher Mathematics② 高等理学 Higher Natural Philosophy③ 土木学  Civil Engineering④ 機械学  Mechanical Engineering⑤ 地質学  Geology⑥ 測量学  Surveying⑦ 図学   Drawing Office

① Higher Mathematics② Higher Natural Philosophy③ Civil Engineering④ Applied Mechanics and Steam⑤ Geology⑥ Surveying⑦ Drawing Office⑧ Building Construction⑨ Laboratory⑩ One General Subject

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28

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

ともに夜間クラスの新入生として机を並

べたことがある学校であった。

   グラスゴーママ

・西部スコットランド技術

カレッジの『学課および諸規則』は、こ

の大学が私の日本での教育体験の成果を

導入したことを示している。

ダイアーのこの注目すべき記述を裏付ける

ように、グラスゴウ・西部スコットランド技

術カレッジの専門学の学科課程、ならびに専

門学のうちの、たとえば土木学の授業科目の

対照表(86)をみれば、その影響関係は一目瞭

然である。別掲のように、工部大学校の編成

をもとに構想され、それを一段と充実させた

内容になっている。

工部大学校から英国への影響は、ダイアー

に限らずほかのお雇い教師を介してもみられ

た。 E.ダイヴァース(Edward Divers, 18

37-1912, 化学)、J.ペリー(John Perry,

1850-1920, 土木学)、W.E.エアトン

(William Edward Ayrton, 1847-1908、電信

学)らの諸氏である。後年、ダイアーは、工

部大学校のこれらの教師たちは「現在ほぼ全

員が科学と教育の分野でよく知られた存在

で、在職中の者はみずからの研究活動で名を

上げているばかりでなく、日本で働いたとき

の経験を生かして、母国イギリスの科学技術

教育の環境作りに強い影響を及ぼしてもき

た」と述べている(87)。

要するに、明治日本は英国をモデルにして

工学教育の充実を目ざしたのだが、英国から

招いたお雇い教師たちが先導した工部大学校

から英国に「逆影響」があったということに

なる。これをブーメラン現象と呼ぶむきもあ

る(88)が、お雇い教師という「ヒト」の移動

を介した、このような興味深い関係と交流が

あったのである。

5.むすび 本稿は、近代日本の工学教育の成立と展開

におけるお雇い教師H.ダイアーの先導性を

めぐって歴史的な考察を試み、下記のような

諸点を明らかにした。

第一に、近代日本の工学教育は、スコット

ランドから招いたお雇い教師H.ダイアーが

先導して組織化された。彼はグラスゴウでの

徒弟修業、アンダソン・カレッジの夜間学級

ならびにグラスゴウ大学における修学、ヨー

ロッパ大陸の工学教育についての調査研究な

どをもとに特色ある工学教育を構想した。そ

の教育構想は工業化の推進を所管する工部省

に受け入れら、具体化された。その後の工学

教育体制の「基本型を組織した」ことになる

点で重要である。ダイアーの構想した「カリ

キュラムは、専門と教養の構造化、専門教育

の分割、理論と実践の組み合わせ、実験室、

作業場、博物館などの施設の重視といったい

くつかの点で、今日まで通じる先進性を備え

ていた」(89)。

第二に、ダイアーが指揮しその他の英国人

教師が指導した工学寮ならびに工部大学校

は、ダイアー退任後も、日本の工業化をエン

ジニアとして担当する人材を育成しただけで

なく、学校教育機関において工業化人材の育

成にあたる工業教育家を輩出した点において

も注目される。

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29

お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

第三に、ダイアーの工学教育の構想と実践

は、当時、単独のモデルをもたない独自のも

のであった。「その教育はフランスやスイス

などに実例のある学校における学理の教育と

イギリスに伝統的な実地での訓練を組み合わ

せ」、しかも「専門的職業教育と非専門職業

教育(教養教育)を両立させようとしたもの

で、世界に先例を見ない独創的なものであっ

た」という評価がある(90)。当時、英国は学

校教育形態での技術教育の制度化が国家的課

題であっただけに、日本におけるダイアーの

構想と実践は大いに注目を集め、新聞・雑誌

等で繰り返しとりあげられ紹介された。工部

大学校の教育と経営は英国の教育改革の有益

なモデルになるという評価まであらわれた。

第四に、日本における工学教育の先進性と

英国の立ち遅れという状況のなか、ダイアー

は帰国した。ダイアーはグラスゴウに帰郷後、

教育改革のための言論活動をとおして技術教

育の振興を先導する一方、郷里のグラスゴウ

において日本での実践の成果をもとに工学教

育の改革を先導した。グラスゴウ・西部スコッ

トランド技術カレッジが創設されるさい理事

の一人として参画し、工部大学校の成果を移

し入れようとした。近代日本は英国をモデル

にして工学教育を充実し工業化を目ざしたの

だが、お雇い教師ダイアーを介して日本から

グラスゴウに逆影響がみられたのである(91)。

[注]( 1 ) 尾形裕康『西洋教育移入の方途』野間教育研究所、

1961。松村正義『新版 国際交流史-近現代日本の

広報文化外交と民間交流-』他人館、2002、第 1 章、

参照。

( 2 ) 岩倉具綱「海外留学生規則案」、『太政類典』第一編

第十九巻 管制・文官職制五、所収(国立公文書館

蔵)。日本科学技術史学会編『日本科学技術史大系』

第 7 巻、第一法規出版、1968、35-36頁に再録。

( 3 ) 市村佑一・大石慎三郎『鎖国=ゆるやかな情報革命』

講談社、1995、参照。

( 4 ) 日本科学技術史学会編『日本科学技術史大系』第 7 巻、

前出、20頁。

( 5 ) Butt, J., John Anderson’s Legacy, the University of

Strathclyde and its Antecedents 1796-1996, Tuckwell

Press, East Linton, 1996, p.88.

( 6 ) 三好信浩『増補日本工業教育成立史の研究』風間書房、

2012、277-278頁。Cobbing, A.,‘Yamao Yôzô (1837-

1917): A Pioneer of Meiji Education’, in Cortazzi, H.,

com. & ed., Britain & Japan: Biographical Portraits,

Vol. VII, Global Oriental, Folkestone, 2010, pp.21-22.

( 7 ) H.ジョーンズ「グリフィスのテーゼと明治お雇い

外国人政策」、A.バークス編・梅渓昇監訳『近代化

の推進者たち』思文閣出版、1990、218頁、219頁、

226頁。

( 8 ) 同上、223頁。

( 9 ) 三好信浩『増補日本工業教育成立史の研究』前出、

465-468頁。

(10) 「工学寮トマセソン商会ノ関係」、旧工部大学校史料

編纂会編『旧工部大学校史料附録』虎之門会、1931、

48-49頁所収。 林董『後は昔の記他-林董回顧録』

東洋文庫、1969、42頁。三好信浩、同上、468頁。

(11) Checkland, O.,‘The Iwakura Mission, industries and

exports’, in Cobbing, A., et. al., The Iwakura Mission

in Britain, 1872, Suntory and Toyota International

Centres for Economics and Related Disciplines,

London School of Economics and Political Science,

London, 1998, p.38(加藤詔士・宮田学編訳『日本の

近代化とスコットランド』玉川大学出版会、2004、

76頁所収)。

(12) Constable, T., Memoir of Lewis D. B. Gordon: Late

Regius Professor of Civil Engineering and Mechanics

in the University of Glasgow, T. and A. Contable,

Edinburgh, 1877, pp.186-188より再引。 同書簡は坂

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30

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

本賢三『先端技術のゆくえ』(岩波新書、1987、105

-110頁)で一部が紹介されている。

(13) 旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料附録』

前出、74頁。 三好信浩『増補日本工業教育成立史の

研究』前出、269頁、276頁。

(14) Rankine, W. J. M., A Manual of Applied Mechanics, C.

Griffin, London & Glasgow, 1858. Do., A Manual of

Civil Engineering, C. Griffin, London, 1858.

(15) Meade, R.,‘Translation of a Discipline, The Fate of

Rankine’s Engineering Science in Early Meiji-era

Japan’, The Translator, Vol.17, No.2, 2011, pp. 216-

218.

(16) Constable, T., Memoir of Lewis D. B. Gordon: Late

Regius Professor of Civil Engineering and Mechanics

in the University of Glasgow, op. cit., pp.225-228,

‘Appendix, Letter on Japanese College’.

(17) 拙稿「明治期グラスゴウ大学日本人留学生」、日本英

学史学会関西支部『関西英学史研究』第 6 号、2011

年12月 , 21-53頁。同「グラスゴウと明治日本-スト

ラスクライド大学における日英交流-」、日本英学史

学会『英学史研究』第42号、2009年10月、15-37頁、

参照。

(18) 北政巳『国際日本を拓いた人々-日本とスコットラ

ンドの絆-』同文舘、1984、第 7 章第 4 節:日本国

グラスゴウ領事ブラウン、参照。

(19) 拙稿「お雇い造船学教師P.A.ヒルハウス-帰国

後のH.ダイアーによる推薦-」、日本英学史学会関

西支部『関西英学史研究』第8号、2014年 9 月、53-

69頁。

(20) 長谷川竹葉『東京名勝開化真景 虎門工学局』1887(東

京都港区立資料館藏)。小林清親『虎乃門夕景』1880

(『小林清親東京名所図』二玄社、2012、114-115頁

に再録)。

(21) 拙稿「工部大学校趾碑」『日本英学史学会報』No.133、

2014年 5 月、3-4頁、参照。

(22) 1841 Census, Parish of Cambusnetham, Wishaw,

Scotland. 1851 Census, Parish of Bothwell, Village of

Muirmadkin, No. of Householder’s Schedule 32,

Scotland.

(23) Wilson, R., Bygone Bellshill, Richard Stenlake

Publishing, Ochiltree, 1995, p.3.

(24) 岩田武夫「旧工部大学校史料参考記事」、旧工部大学

校史料編纂会編『旧工部大学校史料附録』前出、21

頁 所 収。 Muir, A., The Story of the Shotts: a Short

History of the Shotts Iron Company Limited, the

Shotts Iron Company Limited, Edinburgh, [1952],

pp.11-12. 拙稿「工部大学校お雇いスコットランド人

教師ヘンリー・ ダイアー-『努力立身』の生涯-」『名

古屋大学大学文書史料室紀要』第13号、2005年 3 月、

1-29頁。

(25) Dyer, H., Dai Nippon, the Britain of the East, Blackie

& Son, London, 1904, p.2(平野勇夫訳『大日本、技

術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像』実業之

日本社、1999、33-34頁)。

(26) Dyer, H., Selections from Testimonials Presented by

Henry Dyer, C. E., On the Occasion of His

Appointment as Principal of the Imperial College of

Engineering, Tokio, Japan, Feb. 1873, p.15 に所収。

(27) Dyer, H., ‘The Training and Work of Engineers in

Their Wider Aspects: Introductory Address; by

Henry Dyer, Glasgow Technical College Scientific

Society, October 21st 1905’, Transactions of Glasgow

Technical Scientific Society, Vol.2, 1905-06, p.6.

(28) 拙稿「工部大学校お雇いスコットランド人教師ヘン

リー・ダイアー-『努力立身』の生涯-」前出、17

-18頁参照。

(29) Dyer, H., Selections from Testimonials Presented by

Henry Dyer, C. E., On the Occasion of His

Appointment as Principal of the Imperial College of

Engineering, Tokio, Japan, op. cit., p.3 に所収。

(30) Dyer, H., Dai Nippon, op. cit., pp.2-3(平野勇夫訳『大

日本』前出 , 63頁)。

(31) ただし、ダイアーは学生部門ではなく労働者

(workmen)部門で選ばれている。 3 年間、年 100ポ

ン ド の 奨 学 金 を 授 与 さ れ た。 Low, D. A., The

Whitworth Book, Longmans, Green & Co. Ltd.,

London, 1926, p.34, p.151.

(32) Dyer, H., Selections from Testimonials Presented by

Henry Dyer, C. E., On the Occasion of His

Appointment as Principal of the Imperial College of

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31

お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

Engineering, Tokio, Japan, op. cit., pp.12-13 に所収。

(33) Dyer, H., The Education of Engineers, Imperial

College of Engineering, Tokei, 1879, p.47(梅溪昇・

中山泰「ヘンリー・ダイエル『技術者の教育』」、梅

溪昇『お雇い外国人の研究』下、青史出版、2010、

534-556頁に所収)。三好信浩『ダイアーの日本』福

村出版、1989, 91-93頁。 同『増補日本工業教育成立

史の研究』前出、289-290頁。

(34) 東京赤羽工作分局編『製造機械品目』東京赤羽工作分

局、1881。

(35) 和田正法「工部大学校における化学科の位置付け-

実地教育の分析から」『化学史研究』39巻 2 号、2012

年 6 月、65頁。同「工部大学校土木科の実地教育-

石橋絢彦の回想録から」『科学史研究』53巻269号、

2014年 4 月、60頁。旧工部大学校史料編纂会編『旧

工部大学校史料・同附録』青史社、1978、109頁。高

橋雄造・間島正裕編『工部大学校・帝国大学工科大

学電信学科・電気工学科明治年間卒業論文及び実習

報告リスト』東京農工大学高橋研究室、1991。

(36) Dyer, H., The Education of Engineers, op. cit., pp.1-2

(舘昭『東京帝国大学の真実』東信堂、2015、36-37

頁。 ただし、訳文は一部修正)。

(37) 旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料・同

附録』前出、179頁。「工部大学校学課並諸規則(明

治十八年四月改正)」、旧工部大学校史料編纂会編『旧

工部大学 校史料・同附録』同上、312頁より再引。

(38) 三好信浩『ダイアーの日本』前出、86-87頁。

(39) Dyer, H., The Education of Engineers, op. cit., p.47(梅

溪昇・中山泰「ヘンリー・ダイエル『技術者の教育』」

前出、539頁。ただし訳文は修正)。

(40) Dyer, H. , ‘University Reform: Scientif ic and

Technical Studies’, The Glasgow Herald, April 12,

1907, p.9. 三好信浩『ダイアーの日本』前出、92-93

頁より再引。

(41) 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通

史一』東京大学出版会、1984、670頁。

(42) Dyer, H., Dai Nippon, op. cit., p.2(平野勇夫訳『大日本』

前出、33頁)。

(43)三好信浩『増補日本工業教育成立史の研究』前出、

265-266頁、270-271頁参照。

(44) 同上、273頁。

(45) 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通

史一』前出、939頁。 舘昭『東京帝国大学の真実』前

出、第二章 4 ・ 5 参照。

(46) 三好信浩『増補日本工業教育成立史の研究』前出、

271-273頁。『東京大学百年史 通史一』同上、658

頁。 和田正法「工部大学校創設再考」『科学史研究』

50巻258号、2011年 6 月、87-89頁。

(47) 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通

史一』同上、658頁。和田正法「工部大学校創設再考」

同上、90頁。ダイアーは「私が初めて日本の歴史に

ついて学んだのは、七三[明治六]年、日本に赴任

する船上で同行してくれた林子爵からで、その講義

はきわめて興味深いものだった」と記している(Dyer,

H., Dai Nippon, op. cit., p.116. 平野勇夫訳『大日本』

前出、160-161頁)。

(48) 志田林三郎「工業ノ進歩ハ理論ト実験トノ親和ニ因

ル」『工学会誌』67号、1887年 7 月、449-450頁。

(49) 中原淳蔵『六十年前の思出』中原淳蔵、1930、18-

19頁(三好信浩『日本工業教育発達史の研究』風間

書房、2005、102-103頁より再引)。

(50) 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 通史

一』前出、670頁、679-680頁。 Imperial College of

Engineering (Kobu-Dai-Gakko), Tokei. General

Report by the Principal for the Period 1873-77,

Printed at the College, Tokei, 1877, p.29.

(51) 和田正法「工部大学校土木科の実地教育-石橋絢彦

の回想録から」前出、50頁。

(52) 和田正法、同上。同「工部大学校における化学科の

位置付け-実地教育の分析から」前出。

(53) 舘昭『東京帝国大学の真実』前出、42頁。

(54) 東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史 部

局史三』東京大学出版会、1987、 6 頁。

(55) Russell, J. S., Systematic Technical Education for the

English People, Bradbury, Evans, Co., London, 1869

(菊池大麓訳『職業教育論』文部省編輯局、1884).

Playfair, L., Industrial Instruction in the Continent:

Being the Introductory Lecture of the Session 1852-

53, 1852. Dyer, H., ‘The Training and Work of

Engineers in their Wider Aspects: Introductory

Page 44: 愛知大学教職課程研究年報ISSN 2186-5183 愛知大学教職課程研究年報 2 0 1 6 年 愛知大学 第6号 加藤鉦治教授退職記念号 目 次 加藤鉦治(詔士)教授

32

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

Address’, Transactions of Glasgow Technical

Scientific Society, Vol.2, 1905-06, pp.4-5. 北政巳『国際

日本を拓いた人々-日本とスコットランドの絆-』

前出、42頁、44頁、57頁、61頁。 三好信浩『ダイアー

の日本』前出、75-78頁。

(56) Dyer, H., Dai Nippon, op. cit., p.2(平野勇夫訳『大日本』

前出、33頁)。 別の講演でも「グラスゴウ大学時代に、

英国、ヨーロッパ大陸、アメリカにおけるエンジニ

アの育成方法について特別の調査研究をしていまし

た」と述べている(Dyer, H., Introductory Address

on the Training and Work of Engineers in their

Wider Aspects, Technical College, Glasgow, 1905-06,

pp.10-11)。

(57) Dyer, H., Dai Nippon, ibid., p.90(平野勇夫訳『大日本』

同上、135頁)。 舘昭『東京帝国大学の真実』前出、

51頁。

(58) 三好信浩『日本工業教育発達史の研究』前出、620-

622頁。

(59) 同『増補日本工業教育成立史の研究』前出、310-

320頁、第22表「明治期における工部大学校卒業生の

主要業績一覧」。

(60) 同『日本工業教育発達史の研究』前出、623頁。

(61) 同上。

(62) 同上、624-628頁。拙稿「Henry Dyer: Pioneer of

Interchange with Japan - Focusing on his

Friendship with Sakuro Tanabe -」『愛知大学教職

課程研究年報』創刊号、2011年12月、31-42頁参照。

(63) 拙稿「英国からみた工部大学校」、江藤恭二編『比較

教育史の総合的研究-近代日本教育の確立過程にお

ける欧米教育の受容に関する比較史的考察-』No.1

(文部省科学研究費総合研究(A)研究成果報告書)、

1980年 3 月、37-49頁参照。

(64) ‘An Engineering College in Japan’, Nature, April 3,

1873, p.430.

(65) ‘An Engineering College in Japan’, Engineer, April

11, 1873, p.214.

(66) ‘Engineering Progress in Japan, Establishment of a

College for Civil Engineering at Yeddo’, Engineering,

April 11, 1873, p.253.

(67) ① ‘Engineering Education in Japan’, Nature, May 17,

1877 , pp .44-45 . ② ‘The Imperia l Col lege of

Engineering, Tokei, Japan’, Egineering, July 27, 1877,

pp.74-76. ③ ‘The Imperial College of Engineering,

Tokei’, The Japan Weekly Mail, Nov. 15, 1879, pp.1552

-1553、④ ‘Modern Japan - Industrial and Scientific,

No.XIII -The Training of Engineers’, Engineer, Dec.

3, 1897, pp.544-545、その他。拙稿「英国からみた工部

大学校」前出。

(68) 三好信浩『日本の産業教育』名古屋大学出版会、

2016、53頁。 広瀬信『イギリス技術者養成史の研究』

風間書房、2012、154-155頁。

 大陸諸国を調査研究した二書は、いずれも訳出さ

れ文部省から刊行されている。① Russell, J. S.,

Systematic Technical Education for the English

People, op. cit.(菊池大麓訳『職業教育論』前出)。 ②

First Report of the Royal Commissioners on

Technical Instruction,Eyre and Spottiswoode,

London , 1884 . Second Repor t o f the Royal

Commissioners on Technical Instruction,ibid.( 文

部省訳『技芸教育ニ係ル英国調査委員報告』文部省

編輯局,1885~89)。

(69) C. W. C.,‘Engineering Education in Japan’, Nature,

May 17, 1877, pp.44-45. ‘Imperial College of

Engineering, Tokei, Japan. Calendar for Session

1877, Prepared by Henry Dyer, C.E., M.A.B., &c.,

Printed at the College’, op. cit., p.345.

(70) ‘Engineering Education in Japan’, op. cit., pp.44-45.

(71) ‘Imperial College of Engineering (Kobu-Dai-Gakko),

Tokei, (1) Calendar Session 1877-8, (II) Reports by

the Principal and Professors for the Period 1873-77’,

Engineer, June 28, 1878, pp.462-463. ‘Imperial College

of Engineering, Tokei, Japan. Calendar for Session

1877, Prepared by Henry Dyer, C.E., M.A.B., &c.,

Printed at the College’, op. cit.

(72) ‘The Imperial College of Engineering, Tokei, Japan’,

op. cit.

(73) ‘Editorial Notes’, Nature, March 4, 1886, p.424; March

25, 1886, p.496; March 34, 1886, p.130; July 8, 1886,

p.224.

(74) 三好信浩『ダイアーの日本』前出、170-178頁。

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33

お雇いスコットランド人教師H.ダイアーと近代日本の工学教育

(75) 拙稿「お雇い教師ヘンリー・ダイアーの著作」、名古

屋大学教育学部教育史研究室『教育史研究室報』第

12号、2006年12月、1-32頁、とくに 7 - 8 頁参照。

(76) 三好信浩『ダイアーの日本』前出、136-151頁参照。

それぞれの文献は下記のとおり。

① ‘Technical Education, with Special Reference to

the Requirements of Glasgow and the West of

Scotland’, Proceedings of the Royal Philosophical

Society of Glasgow, Vol.15 (1883-84) pp.18-47.

② ‘The Glasgow and West of Scotland Technical

College’, The Glasgow Herald (4 Jan. 1887) p.2.

③ ‘On the Education of Engineers’, Transactions of

the Institution of Engineers and Shipbuilders in

Scotland, Vol.30 (1887) pp.127-215.

④ ‘The Glasgow and West of Scotland Technical

College’, Nature, Vol.38 (30 Aug. 1888) pp.428-429.

The Educational News, No.13 (20 Oct. 1888)

pp.736-737.

⑤ ‘Training of Architects’, Proceedings of the Royal

Philosophical Society of Glasgow, Vol.20 (1889-

90) pp.66-86.

⑥ ‘On a University Faculty of Engineering’ ,

Transactions of the Institution of Engineers and

Shipbuilders in Scotland, Vol.33 (1889-90) pp.15-

54.

⑦ ‘Technical Education in Glasgow and the West of

Scot land : a Retrospect and a Prospect ’ ,

Proceedings of the Glasgow Philosophical Society,

Vol. 25 (1893-94) pp. 23-51.

⑧ ‘The Training and Work of Engineers in Their

Wider Aspects: Introductory Address: by Henry

Dyer, Glasgow Technical College Scientific

Society, October 21st 1905’, Transactions of

Glasgow Technical Scientific Society, Vol.2 (1905-

06) pp.1-23.

(77) Dyer, H., ‘The Training and Work of Engineers in

Their Wider Aspects: Introductory Address’, ibid.

三好信浩『ダイアーの日本』前出、137頁。 Dyer, H.,

‘On the Education of Engineers’, ibid.

(78) 以上の「教育改革のための言論活動」の第 2 点につ

いては、主に三好信浩『ダイアーの日本』(同上、

142-146頁)をまとめて記述した。

(79) Dyer, H., ‘Technical Education in Glasgow and West

of Scotland: a Retrospect and a Prospect’, op. cit.

Do.,‘The Training and Work of Engineers in Their

Wider Aspects: Introductory’, op. cit.

(80) Butt, J., John Anderson’s Legacy, the University of

Strathclyde and its Antecedents 1796-1996, op. cit.,

p.97.

(81) The Glasgow and West of Scotland Technical

College Calendar for the Year 1888-89, Robert

Anderson, Glasgow, 1888, pp.35-36. 同書には受領図書

一覧があっ て、『工部大学校1879年度要覧』の受領に

ついては下記のように記されている。

「Henry Dyer, M.A., B.Sc., C.E. - Imperial College

of Engineering, Tokei: Calendar, 1879-80.」

(82) The Glasgow and West of Scotland Technical

College Calendar for the Year 1888-89, ibid.

(83) Ibid. 国会図書館の蔵書番号は[292- G465]。

(84) 三好信浩『ダイアーの日本』前出、146-147頁。

(85) Dyer, H., Dai Nippon, op. cit., p.11, p.13(平野勇夫訳『大

日本』前出、42-43頁、45頁)。

(86) 三好信浩『ダイアーの日本』前出、148-149頁。

(87) Dyer, H., Dai Nippon, op. cit., p.4(平野勇夫訳『大日本』

前出、34-35頁)。

(88) 三好信浩『ダイアーの日本』前出、「IV 教育実験のブー

メラン現象-イギリス人教師の持ち帰ったもの」。

(89)吉見俊哉『大学とは何か』岩波書店、2011、126-127頁。

(90) 三好信浩『日本の産業教育』前出、162頁。

(91) 本稿は、拙稿「ヘンリー・ダイアーと日本の工学」(吉

見俊哉・森本祥子編『新・学問のすゝめ-東大教授

たちの近代-』東京大学出版会、2017年 5 月刊行予定)

と重複するところがある。紙幅の都合で十分論証し

得なかったところなどを補充した。

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35

「学校の意義」に関する教材研究

1.はじめにいま学校が大きく変わりつつある。信頼性

の低下が進むなか、その在り方についての検

討が続けられ、具体的な改善方策がくりかえ

し提案されるに至っている。

たとえば、平成25(2013)年12月の中央教

育審議会答申『今後の地方教育行政の在り方

について』では学校の組織運営について検討

され、学校の自主性・自立性の確立ならびに

特色ある学校づくりの実現のための施策が進

められた。

また、グローバル化や情報化の急速な進展、

ならびに子どもをとりまく複雑化・困難化し

た課題に的確な対応をするため、「教職員に

加えて、多様な背景を有する人材が各々の専

門性に応じて、学校運営に参加することによ

り、学校の教育力・組織力を、より効果的に

高めていくことがこれからの時代には不可欠

である」という認識に至っている。 それに応

えて、平成27(2015)年12月には、中央教育

審議会から『チームとしての学校の在り方と

今後の改善方策について』という答申が示さ

れた。学校の在り方を考えるにあたっては、

学校と家庭ならびに地域社会との関係も視野

に入れることが必要であることから、同じ平

成27(2015)年12月、『新しい時代の教育や

地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・

協働の在り方と今後の推進方策ついて』とい

う答申もまとめられた。

新しい時代に求められる学校の在り方をめ

ぐって推進されている以上のような改革は、

教職課程の授業において当然取りあげるべき

主題となる。「教育原論」という授業科目に

おいても、教育の基本理念、子どもの心身の

発達と学習の過程、教師の役割と職務などと

ともに、学校、とりわけ現代の学校の現状と

改革は取りあげるべき必須の主題となる。

2.「教育原論」の構成と内容(一)

「教育原論」という授業は、「教育職員免許

法施行規則に定める区分」一覧によると、主

に「教育の基礎理論に関する科目」のうち「教

育の理念並びに教育に関する歴史及び思想」

を扱う科目と位置づけられている。

「教育の基礎理論に関する科目」としては、

この( 1 )「教育の理念並びに教育に関する

歴史及び思想」とともに、( 2 )「幼児、児童

及び生徒の心身の発達及び学習の過程(障害

のある幼児、児童及び生徒の心身の発達及び

学習の過程を含む)」、ならびに( 3 )「教育

に関する社会的、制度的又は経営的事項」が

含まれる。本学ではこれに対応する授業科目

として、( 1 )「教育原論」「学校と教育の歴史」、

( 2 )「教育心理学」「発達心理学」、( 3 )「教

育制度論」「教育社会学」をそれぞれ開設し

ている。

以上のような「教育職員免許法施行規則に

「学校の意義」に関する教材研究-教育をめぐる思想・歴史の視点から-

加藤 詔士(法学部・教授)

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36

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

定める区分」一覧、ならびに本学で開設して

いる授業科目に鑑み、筆者は「教育原論」の

授業を担当するにあたり、その構成と内容を

おおよそ下記のように構想している。

①教育の意義( 1 )教育の語義・概念

②教育の意義( 2 )教育と人間発達

③教育と社会( 1 )教育と社会化

④教育と社会( 2 )人間一年早産説

⑤教育と社会( 3 )野生児

⑥学校( 1 )学校の誕生と普及

⑦学校( 2 )近代学校の成立と変容

⑧学校( 3 )現代学校の改革

⑨教育の思想( 1 )教養主義・人文主義

⑩教育の思想( 2 )子ども中心主義思想

⑪教育の思想( 3 )近代公教育思想

⑫学校・教育の革新( 1 )座席

⑬学校・教育の革新( 2 )黒板

⑭学校・教育の革新( 3 )掃除

⑮まとめ-学校・教師・子ども-

本稿は、この「教育原論」において取りあ

げるべき「学校」という主題、そのなかでも

とくに「学校の意義」について理解を深めさ

せる教材を紹介し検討する。

(二)

「教育原論」のなかで、「学校」という主題

をめぐる講義の内容を構想するさい、念頭に

置いたことがある。第一に、教員養成学部あ

るいは教育学部ではなく、本学のような一般

大学の教職課程における「教育原論」として

開設されていること、しかも第二に、「教育

原論」は教職課程を履修しはじめる最初の学

期から履修可能な科目として位置づけられて

いること、第三に、本学教職課程では「学校

と教育の歴史」「教育社会学」「教育制度論」

という授業科目も、「教育の基礎理論に関す

る科目」として開設されていること、第四に、

前記のように、平成27年12月21日に、中央教

育審議会から答申『チームとしての学校の在

り方と今後の改善方策について』が出された

こと、しかも同答申ではあらたな学校像なら

びに教師の環境整備が提示されていることで

ある。

このようなことを念頭に、「学校」という

単元における講義については、試行錯誤のす

え、下記のような構成と内容を構想した。

( 1 )学校の誕生と普及

( 2 ) 現代の学校につながる近代学校の成

立・変容・改革

( 3 )現代学校の現状と改革

( 1 )では学校の意義、特質、機能と役割、

( 2 )では近代社会の特色、近代学校教育の

普及と基本的性格、現代社会における学校の

変容、( 3 )では現代学校とその教育環境の

変化、現代日本の学校教育の現状と課題、「新

しい学校」「開かれた学校」づくり、「チーム

学校」構想による学校改革を、それぞれ主要

な講義項目とした。

平成27(2015)年12月には、前記のように、

学校のあり方にかかわる二つの中央教育審議

会答申が出されたのであるから、これからの

教師に対してはこれについても講義すべき項

目となる。その内容と方向性は、教育再生実

行委員会における論議等を通じて知られてお

り、これまで講義のなかで言及してきたけれ

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「学校の意義」に関する教材研究

ども、とくに答申『チームとしての学校の在

り方と今後の改善方策について』は学校の現

状と課題が総括され、しかも今後の方向性

(「チームとしての学校像」ならびにそれを実

現するための 3 つの視点)が具体的に示され

ているだけに、「学校」という主題をめぐる

講義のまとめのなかで取りあげるにふさわし

い項目と考えられる。

なお、「学校の意義」をめぐる講義という

なら、学校の機能と役割(社会化、選抜と配

分とその正当化)、あるいは学校の特質(家

庭教育・社会教育との異同、生涯教育との対

比)についても取りあげるべき事項と考えら

れるが、これらについては別に「学校の機能

と役割」ならびに「学校の特質」という項目

を特設して講じた。

以上に鑑み、一般大学の教職課程における

講義であるだけに、講義の内容も説明素材に

ついても、専門的にならずできるだけ具体的で

身近に感じられる教材がふさわしいと考えられ

る。身近な教材といっても、日本だけでなく海

外の、現在と過去における学校の意義を、し

かも先進国だけでなく発展途上国における学

校の意義についても理解を深めさせる教材を

用意し、どこでもいつでも学校は意義あるもの

であることについて理解させることを期した。

このようなことを思量し、「学校の意義」

をめぐる教材として、下記の 5 点を用意した。

  1 )漫画『サザエさん』のなかの学校

  2 )「米百俵」の故事

  3 ) シャーロック・ホームズ物語のなか

の学校

  4 ) トニー・ブレア首相「優れた教育は

第二のパスポート」

  5 )マララ・ユスフザイ「教育こそ最強」

以下、順にその概要を記す。

3.「学校の意義」をめぐる教材1)漫画『サザエさん』のなかの学校

(一)

いま学校への信頼が揺らいでいる。不登校

とか学校病理とかいう現代用語も生まれてい

る。

かつて学校は今以上に信頼され尊敬される

対象であった。「登校」あるいは「下校」と

いう漢字表記に象徴されているように、学校

は仰ぎ見るような高みにあって、人びとの日

常の生活のなかにしっかり位置づいていた。

それだけに、小説はもちろん、漫画やアニメ

にも頻繁に取りあげられている。昭和の国民

的漫画『サザエさん』においても、学校に関

わる話題がしばしば取りあげられている。学

校は磯野家の生活のなかにしっかり位置づい

ていた。

漫画『サザエさん』は、戦後日本の庶民生

活のなかの笑いや哀歓を描いた国民的な家庭

漫画である。国語辞典の見出し語に採用され

ているほどである。『広辞苑』の場合、最新

版(第 6 版、2008)ではじめて採用され、次

のように説明されている(1)。

  さざえさん【サザエさん】長谷川町子原

作の漫画。一九四六年(昭和二一)から

夕刊フクニチで、五一年からは朝日新聞

で連載。三世代同居家庭の主婦サザエさ

んを中心に庶民の暮しをユーモラスに描

く。のちテレビ・アニメ化。

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

連載は昭和21(1946)年から昭和49(1974)

年までだから、実に30年近くも、戦後日本の

「庶民の暮マ マ

し」が取りあげられている。いわ

ゆるストーリー漫画ではなく、比較的独立し

たエピソードから成る。取りあげられるトピ

ックスは時代背景を象徴するものが少なくな

い。しかも、日々の暮らしのなかの出来事が

戦後史とからめて描かれているから、歴史

的・社会史的素材として貴重である。のちに

単行本にまとめられ、全68巻を数える(2)。

漫画『サザエさん』が学校の意義を考える

教材となりうる理由の第一は、学校をめぐる

トピックスが何度も取りあげられていること

である。学校が人びとの生活のなかにしっか

り位置づいていることのあらわれであって、

その時々の学校教育で話題になったであろう

ことが取りあげられている。その内容は時代

を象徴するものが少なくない。

第二に磯野家の人びとは歳をとらず、いつ

までもカツオは小学校 5 年生、ワカメは小学

校 2 年生という設定だから、時代の変化のな

かで学校の変貌、学校の出来事の移り変わり

がはっきり分かる。終戦直後から30年近くの

間の、子どもを取り巻く学校や家庭の生活な

らびに地域環境の変化を、「定点観測」する

ことができる(3)。

漫画では、カツオとワカメは毎朝、玄関を

出ると門を右に折れて学校にむかう。公立の

小学校である。友達の家に立ち寄って誘い合

わせて学校へ行くけれども、集団登校ではな

いであろう。

しかし、時代が変貌するなか、二人の学校

生活にも変化があらわれる。まず、二人は転

校している。戦後の経済成長にともないサラ

リーマンの転勤が増えるなか、磯野家も父親

のマスオの勤務地が九州から東京へ変わるこ

とになり、それにともないカツオとワカメは

東京の学校へ転校した。九州の学校は木造建

築であったが、東京の学校は 3 階建以上の鉄

筋校舎であった。教育設備も充実していた。

立派な設備をもち、きれいな化学実験室や50

メートル・プールも備わっていた(第62巻、

第61巻)。 学校の施設設備の充実ぶりが分か

る。

また、東京の学校は高層の校舎になるが、

安全対策が万全でなかったのか、「カツオが

教室の窓際でボール遊びをしているときに、

友達が 2 階の窓から落っこちてしまった。幸

いなことにその子は肥満児だったので、窓の

下にあったバスケット・ゴールに引っ掛かっ

て一命をとりとめた」という場面が描かれて

いる(第53巻)(4)。校舎建築の高層化にとも

ない転落などの学校事故がおこるようになっ

たであろうこと、また戦後しばらくすると子

どもの肥満という問題もおこってきたなか、

取りあげられたであろうと考えられる。 『サ

ザエさん』では、そうした学校の変容、子ど

もの変化が巧みに取りあげられたのである。

もう一つ、彼らの学校は特別活動(教科外

活動)が盛んであって、学芸会あるいは修学

旅行が重視されている。修学旅行では、カツ

オは 5 年生のとき広島に行っている(第56

巻)。一方、学芸会ではお婆さん、たぬき、

一休さんなどの役を演じた(第26巻、第29巻、

第45巻)。ワカメがおばあさん役のときカツオ

が相手役のおじいさん役を演じたこともあっ

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「学校の意義」に関する教材研究

た(第26巻)(5)のだから、これは、学年や学

級の枠を超えたオープン・エデュケーション

がすでに取り入れられていたことになる。

国民的な漫画『サザエさん』に描かれてい

るように、学校は戦後の人びとの生活のなか

に大きく位置づけられていたのである。

なお、学校生活だけでなく、家庭や地域で

の生活についても変化の諸相が描かれてい

る。当初、カツオの生活のなかには勉強、遊

び、労働が「バランスよく重なり合って存在

した」が、やがて1960年代から、とくに昭和

45(1970)年の大阪万博を過ぎるころから受

験戦争が登場しはじめ、「外遊びよりも家の

中でテレビを見たりしている場面が目につく

ようになる。家事手伝いはあいかわらずやっ

ているが、お祭りなど地域行事や近所づき合

いでの出番は減っていく」。その代わり「受

験戦争を示す話題がひんぱんに登場する」。

越境入学、塾通いなどといった話題である。

カツオの場合は、家庭教師がつけられたり(第

37巻)、塾をサボってサザエさんに叱られた

り(第51巻)といったことが取りあげられて

いる(6)。

(二)

漫画『サザエさん』のなかの学校は戦後の

小学校である。中学校の、それも現代の中学

校を舞台にした漫画『鈴木先生』もまた、学

校について関心を持たせその意義を考えさせ

る格好の教材になる。『サザエさん』と同じ

ようにごく普通の、中学校教師の視点から描

かれているからである。 日本で数多い「鈴木」

という名字を題目にしていることが象徴して

いるように、普通の中学校教師の日常が描か

れている。

この漫画『鈴木先生』は平成17(2005)年

6 月 7 日号から平成23(2011)年 1 月18日号

まで雑誌『漫画アクション』に連載され、現

代の、21世紀はじめの中学校が舞台である。

のちに単行本にまとめられ、全11巻となって

刊行された(7)。平成23(2011)年 4 月25日

からテレビドラマ化されたが、そのときの

キャッチコピーは「誰も正解を教えてくれな

い。それが学校だ」であった。

鈴木先生は問題を抱える生徒を愛と情熱で

もって救う熱血先生ではなく、ごく普通の教

師である。鬱屈したものをいっぱい抱えこみ、

日々自問しながら生徒を指導するあり方を模

索している、悩み多き中学校教師である。先

生が生徒に恋心をもつシーンもある。それだ

けにリアルさがある。

鈴木先生は中学校 2 年A組の担任で、国語

の教師である。図書委員会の顧問でもある。

最初は独身、やがて結婚するが「さずかり婚」

であった。

鈴木先生はクラスの席決め、給食のおかず

の取り分け、思春期の子どもの性のことなど、

日常的な問題を相手に格闘する。しかし、熱

血指導ではない。地道な指導を真摯に続け、

何事も生徒自身が納得するまでよく考えさせ

て行動できるように導びこうとする、そんな

教師である。望ましい教師像を形成するさい

に参考になるであろう。

2)「米百俵」の故事

(一)

「米百俵」の故事とは、戊辰戦争で窮乏し

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

た長岡藩がその窮状を見かねた支藩から届い

た米百俵を売却した金で学校を建て、人材を

育成しようとした故事である。

長岡藩は戊辰戦争のさい奥羽越同盟に加わ

り戦ったが、官軍の前に落城し焦土と化した。

藩主が帰順を願い出て取り潰しは免れたけれ

ども、禄高は 7 万 5 千石から 2 万 4 千石に

なったことで、藩士の家庭は食事にも事欠く

ことになった。武士の体面など維持できない

ほど困窮した。そのなか、明治 3 (1870)年

春、支藩の三根山藩から米百俵の支援が届い

た。長岡藩の大参事小林虎三郎(1828-

1877)はその米を売却した代金をもとに学校

を建て、人材を育成することで藩の立て直し

をすることを企図した。藩の首脳も小林の意

見を容れて米を分配することはしなかった。

藩士はこれに怒って小林邸へ乗りこみ、抜刀

して米百俵の分配を迫った(8)。

このような故事を山本有三(1887-1974)

が戯曲『米百俵』に仕立てあげ、昭和18(1943)

年に上演された。その後、教科書『小学校国語』

(日本書籍、1965)の教材に採用される(9)。

平成13(2001)年の 5 月になると、小泉純一

郎首相が最初の所信表明演説のなかで、「今

の痛みに耐えて明日を良くしようという『米

百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今

日の我々に必要ではないでしょうか」と米百

俵の故事を引用し、「新世紀を迎え、日本が

希望に満ち溢れた未来を創造できるか否か

は、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志

と決意にかかっています」と訴えた(10)こと

で現代によみがえり、同年 7 月に新潮社から

再版本が出版された(11)。「米百俵」は「骨太

の方針」「聖域なき改革」などとともに同年

度の新語・流行語大賞の年間大賞を受賞した。

歌舞伎にも仕立てられる(12)など、広く知ら

れるようになった。

「米百俵」の精神は、海外でも評価され受

けつがれている。ドナルド・キーン(Donald

Keene、1922-)の翻訳により英語版『One

Hundred Sacks of Rice』が刊行されたこと

がきっかけで、海外に広まった。中米のホン

ジュラス共和国の場合は、スペイン語劇「米

百俵」が各地で公演されたし、日本の政府開

発援助(ODA)による学校整備プロジェク

トで、全国に「米百俵学校」と名づけられた

公立小中学校の新築や増改築が進み、これま

でに120校を超えた。目標の100校を突破した

ことの記念式典が、2017年 3 月、東京で開催

された(13)。

(二)

講義では、この山本有三『米百俵』(新潮

文庫、2001)を素材に用い、支援として届い

た米百俵の配分を求めて小林虎三郎大参事宅

に押しかけた藩士たちと小林大参事との応酬

の場面から、資料を作成した。とりわけ百俵

の米をもとに学校を建て、学問をおこし人物

を養成すれば「後年には一万俵、百万俵にな

るか、はかり知れない」と考える小林大参事

のせりふは、「教育は国家百年の計」を象徴

するということに着目して、資料①のような

教材を作成した。

同教材を活用するさい、時代背景、物語の

概要についての説明とともに、学習主題であ

る学校の意義、教育の意義を説いている箇所

を確認させることで、関心を喚起した。

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41

「学校の意義」に関する教材研究

資料①

山本有三『米百俵』(一九四三)

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42

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

「米百俵」の故事の意義を説くには、「米百俵」

のその後についても当然言及すべきである。

第一は、米百俵の売却金をもとに「国漢学校」

が開校され、やがて坂之上小学校、旧制長岡

中学校の設立に至ったこと、ここから小金井

良精(1859-1944)、小野塚喜平次(1872-

1944)、山本五十六(1884-1943)などの逸材

が生まれたという史実である。人材の育成策

として、学校の開設とともに、育英事業の充

実ならびに医術修業のための長崎への内地留

学が奨励されたことも特筆される。

第二は、輩出された逸材をめぐる紹介であ

る。逸材の輩出は学校教育の成果を具体的に

物語るけれども、逸材たちの生涯にも教育上

示唆に富む生き方が含まれているだけに注目

される。なかには自己の体験にもとづいた名

言、とくに人材の育成ならびにチームの組織

化という教師教育に有益な、心にしみる名言

が残されている場合があるのだから、これら

を教材化することが望まれる。

前出の逸材のなかでは、山本五十六が部下

の育成や組織の指導者としての体験にもとづ

いて数々の名言を残していることで知られて

いる。とりわけ「やってみせ、言って聞かせ

て させてみせ、ほめてやらねば、人は動か

じ。話し合い 耳を傾け 承認し 任せてや

らねば 人は育たず。 やっている姿を感謝で

見守って 信頼せねば 人は実らず」という

名言は、人を育てるためのマネジメントスキ

ルとして多くの示唆に富んでいる。人あるい

はチームを動かすコーチングのすべてが網羅

されている。しかも、コミュニケーション能

力(話し合い、傾聴)ならびに人にまかせる

マネジメント力(承認、委任)もまた人材の

育成や組織の成長を促すうえで必要不可欠で

あるということが、簡潔に言い表されている。

教師教育における名言の一つとして、いつも

心にとどめおきたいものである。

教材「米百俵」の故事を活用して学校の意

義、教育の意義を説明するとき、もう一つ補

説すべきことがある。米百俵の故事はけっし

て虎三郎個人の先駆的な英断で誕生した訳で

はなかったという史実である。「その歴史的な

本質は、逆賊となった長岡藩が、忠誠の証と

して維新政府の求める教育政策を誠実に履行

することにあった」。長岡藩は維新政府に抗

して惨敗しただけに、虎三郎たち長岡藩首脳

は国民皆学を旨とする学校教育の普及という

「維新政府の御意向を真摯に受け止め」、その

教育政策を忠実に履行しようとしたのであっ

た。このような史実をもとに、「米百俵」とい

う物語に仕立てられたということである(14)。

3)シャーロック・ホームズ物語のなかの

学校

(一)

英国の探偵小説で、A.C.ドイル(Arthur

Conan Doyle, 1859-1930)作シャーロック・

ホームズ物語には、学校がしばしば登場して

いる。『海軍条約文書事件(The Adventure

of the Naval Treaty)』(1893)という短編小

説の場合は、公立の小学校を「灯台だよ。未

来を照らす灯だ。」とホームズに語らせ、学

校の意義に言及している。

依頼された事件を解決し終えてロンドン郊

外から鉄道で帰る途中、クラッパム・コモン

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「学校の意義」に関する教材研究

駅近くでのこと。 近隣の屋根に比べて一際高

くそびえ立つ建物をみつけたホームズに、次

のように語らせている(15)。

  ・・・まもなく、私たちは疾走するポー

ツマス線の車中の人となった。ホームズ

は深く物思いに沈みこみ、クラパム乗換

駅を過ぎるころまでは、ほとんど口を開

かなかった。

  「こんなふうに家々を見おろしながら、

高架線でロンドンに入るのは、なかなか

愉快なことだね」

  あたりの眺めは、ごみごみしたものだっ

たので冗談だろうと思っていると、ホー

ムズがすぐに説明をはじめた。

  「あの、スレートの屋根がつらなる上に、

あちこちにそびえ立つ大きな建物を見た

まえ。鉛色の海の上に浮かぶ、煉瓦の島

みたいじゃないか」

 「公立の小学校だよ」

  「きみ、あれは灯台だよ。未来を照らす

灯だ。ひとつひとつが、何百という輝か

しい小さな種子をふくんでいる莢さや

なの

さ。あの中から、より聡明な、そしてさ

らに優れた大英帝国がとびだしてくるん

だ」

シャーロック・ホームズが活躍した19世期

末から20世紀初頭の英国といえば、大英帝国

の栄華に陰りがみられ社会は沈滞ぎみであっ

た。そのなか、政府は競争相手国であるドイ

ツやフランスにならい、学校教育の振興に関

与し始めたころであった。イングランドとウ

エルズは1870(明治 3 )年に、スコットラン

ドは1872(明治 5 )年に、最初の初等教育法

を制定し学校教育の義務化に乗り出した。そ

の1870年教育法で規定された公立の小学校

を、ドイルは英国の「未来を照らす」灯台に

なると期待し、また「ひとつひとつが、何百

という輝かしい小さな種子をふくんでいる莢さや

なのさ。あの中から、より聡明な、そしてさ

らに優れた大英帝国がとびだしてくるんだ」

と、公立小学校の成果に大きな期待を寄せた

のである。

1872(明治 5 )年というと、日本ではちょ

うど「学制」が発布され義務教育が制度化さ

れた年である。英国は産業革命を世界に先駆

けて成しとげ、世界の工場としての地位を築

いてきたのだが、1851年ロンドン万国博覧会

ならびに1867年パリ万国博覧会をきっかけ

に、競争相手国のプロシアやフランスの躍進

に危機感を抱いたことから、両国のような国

家による学校教育の制度化、ならびに学校教

育形態での技術教育の組織化が国家的重要事

であるという認識が高まってきた頃であっ

た。学校教育に国が関与し始め政策課題とし

て取り組むようになったのである。

作者のドイルは学校教育が早くから普及し

ているスコットランドのエディンバラの出身

であるだけに、公立の小学校が設立されたこ

との意義に着目し、小説のなかで「未来を照

らす灯台」あるいは「輝かしい小さな種子を

ふくんでいる莢さや

」と表現したと考えられる。

ちなみに、同じ英国でも、スコットランドは、

イングランドと違い、宗教改革のあとカルビ

ニズムの理念にもとづいた教区学校制度が構

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

想され普及するなど、早くから学校教育が広

まり国民の学習機会が開かれていた(16)。

(二)

シャーロック・ホームズ物語の作者A.C.

ドイルは日本とも関係が深い(17)。とりわけ

日本の英語教育との関係が注目される。

第一に、シャーロック・ホームズ物語は英

語教育の教材としてしばしば使用されている

ことである。文章は平易で、歯切れがよくて

読みやすい。ストーリーは簡潔で構想力に富

むということで、評価が高い。明治から昭和

初期までに発行された高校用の英語教科書で

は人気の教材であったし、今でも根強い人気

である(18)。

第二に、この「コナン・ドイルの探偵小説

を愛読し、大いにコナン・ドイルに私淑し」

ただけでなく、実際にドイルを訪ねて会談し

た英語教師がいたことである。その英語教師

の「英文はおもにコナン・ドイルの感化を受

けて居ると申して差支えなかろう」といわれ

る。安藤貫一(1878-1925)といって , 同氏

の「本領は英文を書くことであり、この点で

はまさに天才的であった。手本としたのは

Conan Doyle である」(19)。

安藤は鹿児島第一中学校(現在の鹿児島県

立鶴丸高校)に勤務中の明治42(1909)年 7 月、

島津久賢(1881-1926)男爵が洋行するとき

案内役として随行した。 滞英中の明治43

(1910)年 1 月20日に、ロンドンのピカデリー・

ホテルでドイルと会談している。安藤は夏目

漱石の小説『吾輩は猫である』(1905)の 4

章までの英訳版『I am a Cat』を仕上げ、こ

のとき、それを持参した。これらのことは「コ

ナン・ドイル先生を訪ふ」という訪問記にま

とめ、英語・英文学研究雑誌『英語青年』に

発表している(20)。

第三に、英語教師ではないが、東京帝国大

学のお雇い衛生工学教師W.K.バルトン

(William Kinninmond Burton, 1856- 1899)

を介した、ドイルとの関わりも特筆される。

工業化を進めていた明治日本は、コレラや赤

痢などの伝染病の予防につながる近代的な水

道の建設が急務と考え、水道施設の進んでい

た英国のロンドンで技師として水道事業にた

ずさわっていたバルトンを招聘したものであ

る。 そのバルトンはドイルと同郷で幼なじみ

であり、バルトンはドイルに日本の見聞や情

報を書き送って執筆を励ましていたというこ

とである。実際ドイルの小説には箪笥、甲冑、

花瓶、柔術など「日本の事物がかなり出て来

る」(22)。

ドイルは、それに応えて『ガードルストー

ン商会(The Firm of Girdlestone)』(1890)

をバルトンに献じている。「旧友、東京帝国

大学教授ウィリアム・K・バートン氏に」と

記されている(23)。 また、『空き家の冒険(The

Adventure of the Empty House)』(1903)の

なかで、ホームズが滝から落下しながら助

かったのは「日本の格闘技、バリツ」の心得

があったからだと設定している(24)。英国は

対ロシア政策の一環として日本と同盟を締結

した(1902年)こともあって、英国人の日本

への関心は高まっていたという背景もあるで

あろう。

コナン・ドイルと日本との以上のような関

わりについての話は、余話として興味を呼び

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「学校の意義」に関する教材研究

がちである。

4)トニー・ブレア首相「優れた教育は第

二のパスポート」

(一)

英国の第73代首相トニー・ブレア(Anthony

Charles Lynton Blair, 1953- )は、教育を国

内改革の最優先課題としたことで知られる。

1997(平成 9 )年 5 月に首相に就任する前の

労働党大会における演説では、「政府の最優

先課題を三つ挙げろと尋ねてほしい。教育、

教育、教育だ」といって喝采を浴びた。首相

就任後の演説では「優れた教育を受ければ、

それが『第二のパスポート』となり、知識を

基盤にする社会を生き抜く強力な身分保証に

なる」と、国民にむけて訴えた(25)。教育ある

いは学校の意義を高唱した名言である。

第一の演説は、ブレア政権を財務相として

支えたJ.G.ブラウン(James Gordon Brown、

1951- )氏による「子どもは人口の20パー

セントだが、未来の100パーセントだ」とい

う名言とともに知られている。第二の演説は,

英国が実際は今なお身分制が根強く残る社会

であるだけに大きな意味を持つ。 学校で優れ

た教育を受け成績優良であれば身分や家柄に

関わらず立身出世できるということ、またこ

れからの知識基盤社会では「強力な身分保証

になる」ということは、国民にとって開かれ

た社会を展望する力強いメッセージになった

にちがいない。まさに現代英国における学校

の機能と役割を的確に表現している。

(二)

学校の意義、教育の意義を高唱したブレア

の教育政策では、国民が常に学習し続け時代

の変化に追いついていくことができるよう、

広く社会全体の学力向上が目ざされた。具体

的には、政権 1 期目では初等教育段階におけ

る基礎学力の形成を重視し、「リテラシー・

アワー」の義務化など、初等学校で読み書き

計算能力を向上させるカリキュラム改革をお

こなった。 2 期目以降は中等教育段階の改革

に移行し、「将来の学習と就業で必要な核と

なる普遍的な学習・経験は保障し」つつ、「学

校やカリキュラムの多様化と選択」の範囲を

広げることを企図した。 3 期目の2005(平成

17)年 5 月の議会では、「教育は現在も政府

の最優先事項である」こと、政府は学校の選

択と質が向上するような教育改革をおこな

い、すべての人びとの教育水準の改善をさら

に発展させるという決意が述べられた(26)。

ブレアの以上のような学校観と教育政策

は、1970年代末以降における英国の教育改革

のなかに位置づけてみると、その特色がよく

わかる。

英国は手厚い福祉国家政策を長年続けてき

たことから社会の大停滞を招いたが、そのな

か1979(昭和54)年に誕生した保守党のサッ

チャー政権は、経済においても教育において

も競争原理を導入した改革を押し進めた。そ

の結果、経済自体は活気を取り戻しはじめた

が、一方では、貧富の格差の拡大、若者の長

期失業の増加、犯罪の増加が進み、学校間の

競争による学校現場の疲労と萎縮が顕著にな

った(27)。

ブレア政権は、この経済の活力を維持しつ

つ、貧困や格差の背景にある社会構造に目を

向け、政府がこれに積極的に関与することで

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

悪循環を断ち切ることが必要と考えた。子育

て支援、就労支援などといった自立支援策を

打ちだしたのである。M.H.サッチャー

(Margaret Hilda Thatcher、1925-2013)が

貧困の一因は勤労意欲の減退にあると捉えて

自助努力(自助による自立救済)を促したの

に対して、ブレアは競争社会の前提であるス

タートラインを揃えて「機会の平等」を打ち

だし、就労による自立を国民に求めた。教育

レベルの低い、向上心に欠ける、労働熟練度

の低い者には、まず何よりも知識とトレーニ

ングが必要であり、そのための教育が重要に

なる。また、変化の激しい現代社会であるだ

けに、若者であれ年配者であれ母親であれ、

変化に対応できる能力と心構えが必要にな

る。政府はそのための自立支援策を次々打ち

だし教育機会を用意したのだった。たとえば、

貧困者については、職業訓練をおこないスキ

ルを身につけさせ、就労可能性を高めたうえ

で労働市場に送り出すことに重点がおかれ

た。学校教育の面では、初等教育段階におい

ては基礎学力の向上を、中等教育段階では学

習と教授の質を上げ学校やカリキュラムの選

択の範囲を広げることで、将来の学習と就労

の必要性に応えようとしたのである(28)。

教育の再生が目ざされ格差社会が問題に

なっている日本には、ブレアの教育政策は示

唆するところが少なくない。

5)マララ・ユスフザイ「教育こそ最強」

(一)

日本や英国のような先進国では、学校は国

の政策課題を実現する重要な装置であり、個

人にとっては自助による自立救済の確かな手

段であり強力な身分保証であった。それが発

展途上国になると、学校にはまったく別の意義

が認められる。無知、貧困、抑圧、テロなど

と闘う唯一の解決策になるという意義である。

パキスタンの活動家で2014年度ノーベル平

和賞を受賞したマララ・ユスフザイ(Malala

Yousafzai, 1997-)の一連の活動には、発展

途上国における学校の意義にかかわる発言が

頻繁にみられる。発展途上国における子ども

たちの劣悪な教育環境について告発し、すべ

ての子どもに平等の教育機会が拡大するよう

支援をという提言をするさい、学校の意義を

知らしめる名言がいくつか見いだされる。

マララは、最初、2009(平成21)年に、自

由に学校へ通えない日常を綴ったグログを匿

名で始めた。やがて海外のメディアで「すべ

ての子どもたちに教育を」と訴え続ける。そ

れから、そのブログ「パキスタンの女子生徒

の日記」を使い、地元のイスラム過激派によ

る女子教育の抑圧を告発し女子が教育を受け

る権利を訴え続けたことで、注目を浴びるこ

とになった。

2013(平成25)年の 7 月12日には国連に呼

ばれ、総会会議場で演説した。女性の権利と

女子の教育を中心に演説し、学校教育の重要

性について世界に訴えかけた。テロリストは

銃弾で私たちを黙らせようとしたが失敗し

た。すべてのテロリストや過激派の子どもた

ちにも教育を受けさせてほしい。「みんなが

団結して教育を求めれば、世界は変えられま

す」。ペンと本を手に取ろう。「知識という武

器を持ちましょう」。それこそが最強の武器に

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47

「学校の意義」に関する教材研究

資料②

マララ・ユスフザイのノーベル平和賞受賞演説(二〇一四年十二月)

なるとか、「ひとりの子ども、ひと

りの教師、一冊の本、そして一本

のペンが、世界を変えるのです。

教育こそ、唯一の解決策です。ま

ず、教育を。」という訴えは、広

く共感を呼んだ(29)。2014(平成

26)年度には、それらの活動の継

続と勇気に対しノーベル平和賞が

授与された。同年12月10日のノー

ベル平和賞受賞演説においても、

少女の教育の必要性や平和を訴え

た(30)。『わたしはマララ-教育の

ために立ち上がり、タリバンに撃

たれた少女-』、『マララ:教育の

ために立ち上がり、世界を変えた

少女』などの手記においても、学

校の意義、教育の重要性を訴えて

いる(31)。

以上のように、マララの発言ない

し著作には学校の意義について理

解を深めさせる素材が少なくない。筆者は、そ

のうちノーベル平和賞受賞演説について、資料

②のような教材(32)を作成した。2016(平成28)

年度から中学校で使われている英語科、社会科、

家庭科の教科書でもマララが取りあげられてお

り(33)、学校の意義にかかわる教材も含まれる。

資料②のノーベル平和賞受賞演説を活用し

て学校の意義を説明するとき、筆者は二つの

ことに気づかせるよう留意している。第一は、

「私たちの未来はまさに教室にあった。私た

ちは一緒に座り、本を読み、学んだものでし

た。」「ひとりの子ども、ひとりの教師、一冊

の本、そして 1 本のペンが世界を変えるので

す」(34)と言うように、学校に行くことは自

分の未来を切り開き、やがては世界も変えら

れるという認識である。誰も彼も学校に通う

わが国では、学校に行くことの意義を自覚す

ることは少ないだけに、学校の「教師は子ど

もの未来に触れている」こと、「教師の前に

いるのは子どもではなく未来である」という

ことを自覚させる、格好の素材になるように

思われる。

第二は、知識を得ることで未来を開き世界

を変えられるということだけでなく、学校で

一緒に生活し学ぶということで「私たちは平

等なのだ」という観念が体得されることの意

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

味である。マララは学校がもつこの意義を確

かに認識している。10年後、20年後には何を

しているかを尋ねられたとき、彼女は次のよ

うに応答している(35)。

  すべての子どもたちが学校に通っている

姿を見ていたいです。それが私の望むこ

とです。多くの学校を建て、この目で見

てみたいのです。学校に行くというのは、

単に教室で本を読むことではなく、学ぶ

ことを通じて、新しい世界と出会うこと

だと思います。大切なのは、友達と机や、

いすを並べることで、みんな平等なのだ

と学ぶことなのです。黒人でも白人でも、

イスラム教徒でもヒンズー教徒でも、お

金持ちでも貧しくても、そんなことは重

要ではなく、私たちは平等なのだと教え

てくれるのです。私は、それを実現する

ためにも政治家になりたいんです。

社会が不平等であっても、学校のなかで平

等の観念を体得する機会があることは、子ど

もたちに異なる価値原理を気づかせることに

なる。明治初頭の日本の小学校がそうであっ

た。社会生活の現実では身分に対応したさま

ざまな不平等がまだ残っていたのに、「学制」

(明治 5 年)における国民皆学という理念の

もと子どもたちは小学校に登校した。その小

学校という教育の場においては、基本的に身

分ではなく学習の進度と等級が支配的であっ

た。学級の編成、座席あるいは座列などは学

習の進度と等級、あるいは年齢で決定された

のであった。こうした分相応でない序列や居

場所を日常的に体験することが続けば、平等

意識が醸成され開かれた社会の形成が促進さ

れるという大きな意味をもったはずである(36)。

今、わが国では、学校はかつてほど平等化

装置としての役割を期待されなくなったとい

う調査結果がある(37)。そうであるなら、教

師になったら、学校あるいは学級がもつこの

ような平等の理念を育むという意義を念頭に

おいた学級経営、あるいは児童生徒への支援

をしてほしいものである。

(二)

「学校教育こそ最大の国家安全保障につな

がる」という観点から、学校に大きな期待が

かけられている国もある。 エジプトの場合

がそうであって、今、日本式の学校教育を導

入することで教育改革を進めようとしてい

る。平成28(2016)年 2 月および 3 月に大統

領が来日し、日本に教育分野での協力と指導

を求めている。

エジプト社会では、目下解決すべき重要課

題が二つある。チームワーク・道徳観・民主

的思考を育成すること、および「知識偏重傾

向の強いエジプトの子どもたちの考える力を

育み、最終的には若者をイスラム過激思想か

ら守る」ことである。その具体的な対処法と

して、日本の学校教育にみられる掃除や日直

が着目され、それらを取り入れることで「愛

国心やチームワークを教える」ことが構想さ

れている(38)。

日本の学校は、このところエジプトだけで

なく新興国で注目を集めている。学校の制度

や組織への関心というよりも、学校のソフト

面が注目されている。そのなか、文部科学省

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「学校の意義」に関する教材研究

は他省とともに「日本型教育の海外展開官民

協働プラットフォーム」(仮称)を設立し、

平成29(2017)年度から、日本独特の学校教

育の仕組みを新興国に「輸出」する取り組み

を始めようと計画している。輸出されるのは

「主にソフト面だ。クラス内で役割を分担す

る掃除や給食、集団で練習を重ねる運動会や

部活動、防災訓練などは海外では珍しく、協

調性などをはぐくむ手段として評価する新興

国は少なくない」。動物の飼育、花壇の世話

などについても、協力しあって課題に取り組

む姿勢を醸成するという点で、高い評価を受

けている。とくに教育システムが確立してい

ない国から、注目を集めている(39)。

このような日本型学校教育の新興国への輸

出は、日本の学校の独自性が再認識されるこ

とにつながる。また、海外展開は国際貢献の

一環として推進されるのだが、日本の学校を

国際的な視点から見つめ直し、相対的に認識

するきっかけになるだけに注目される。

4.むすび「学校の意義」について論ずるには、いく

つかの視点と事項が考えられる。①社会化、

選抜と配分およびその正当化という学校の機

能と役割、②家庭教育、社会教育、生涯教育

と比較してみた学校教育の特質、③学校の誕

生から普及、近代学校の制度化と変容、現代

学校の現状と改革という歴史的変遷、などと

いった視点と事項である。これらを論ずるこ

とで、学校の意義について社会学的、制度的、

歴史的な説明をすることができる。

ただし、一般大学の教職課程の入門的な科

目として位置づけられる「教育原論」のなか

で「学校の意義」をめぐって講義する場合、

その内容はきるだけ幅広く興味深いトピック

スを用意し、あまり専門的にならないように

概説するのがふさわしいと考えられる。

筆者は、そのような考えから、日本だけで

なく海外の、それも先進国だけでなく発展途

上国の、現代だけでなく過去における学校と

その意義をめぐる興味深い教材 5 点を用意

し、学校はいつでもどこでも「意義」あるも

のであることを講義することに腐心した。本

稿はその教材「学校の意義」をめぐって考察

したものである。

日本ではいま学校への熱い期待は薄れ信頼

性が低下しがちであるけれども、学校はいつ

でもどこでも「意義」あるものなのである。

日本の学校、とりわけそのソフト面は新興国

で注目され、輸出されようとしている。

[注]1 ) 新村出編『広辞苑』岩波書店、2008、第 6 版、1118頁。

2 ) 長谷川町子『サザエさん』全68巻、姉妹社、1980-

1983。

3 ) 樋口恵子『サザエさんからいじわるばあさんへ-女・

子どもの生活史-』ドメス出版、1994、95頁(朝日文庫、

2016、92-93頁)。

4 ) 東京サザエさん学会編『磯野家の謎、おかわり』飛鳥

新社、1993、64頁。

5 ) 同上。

6 ) 樋口恵子『サザエさんからいじわるばあさんへ-女・

子どもの生活史-』前出、98頁、114頁、117頁(朝日

文庫、前出、95頁、112頁、114-115頁)。

7 ) 武富健治『鈴木先生』全11巻、双葉社、2011。

8 ) 坂本保富「美談『米百俵』の誕生とその真実-日本の

教育近代化と『米百俵』の主人公・小林虎三郎の軌跡-」、

信州大学全学教育機構教職教育部『教職研究』 1 、

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50

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

2008、9-36頁、参照。

9 ) 山本有三・石井庄司編『小学国語』 6 - 2 、日本書籍、

1965。

10) 首相官邸「第百五十一回国会における小泉内閣総理大

臣所信表明演説 平成十三年五月七日」(http://www.

kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2001/0507syosin・・・・」)

11) 山本有三『米百俵』新潮文庫、2001。 初版は、同『米・

百俵、隠れたる先覚者 小林虎三郎』新潮社、1943。

12) 2001年歌舞伎座で上演。 9 月公演『米百俵』、主演は中

村吉右衛門。

13) 竹元正美『「米百俵」海を渡る』日之出出版、2004。

Yamamoto, Y. (Keene, D. trans.), One Hundred Sacks

of Rice: a Stage Play, Nagaoka City Kome Hyappyo

Foundation, Nagaoka, c1998.「米百俵の精神 海を越

え、ホンジュラスに学校建設、100校突破」『中日新聞』

2017年 3 月 3 日、12頁。「ホンジュラスの『米百俵』を

祝う、100校開校記念」『中日新聞』2017年 3 月 5 日、

34頁、その他。

14) 坂本保富「美談『米百俵』の誕生とその真実-日本の

教育近代化と『米百俵』の主人公・小林虎三郎の軌跡-」

前出。

15) C.ヴァイニー(田中喜芳訳)『シャーロック・ホーム

ズの見たロンドン-写真に記録された名探偵の世界』

JICC出版局、1990、114頁(河出書房新社、1997、

106-107頁)より再引。

16) 北政巳『近代スコットランド社会経済史研究』同文舘、

1985、277-288頁。

17) 河村幹夫『コナン・ドイル-ホームズ・SF・心霊主義』

(講談社、1991)の「 9 .ドイルと日本」参照。

18) 水野雅士『シャーロッキアンへの道-登山口から五合

目まで』青弓社、2001、55頁。江利川春雄『日本人は

英語をどう学んできたか-英語教育の社会文化史-』

研究社、2008、76頁。

19) 磯辺弥一郎「安藤貫一氏を憶う」『英語青年』第53巻第1号、

1925年 4 月、19頁。出来成訓「英文家 安藤貫一」、日本

英学史学会『英学史研究』第10号、1977、107頁(同『日

本英語教育史考』東京法令出版、1994、394頁に再録)。

20) 出来成訓「英文家 安藤貫一」同上。 和田長丈「『我

輩ハ猫デアル』を最初に英語訳した安藤貫一」『大学図

書館問題研究会誌』第26号、2004年 6 月、51-59頁。

高橋智朗「安藤貫一とジェローム」、立正大学英文学会

編『英文学論考』第 1 輯、1957、41-43頁。

21) 安藤貫一「コナン・ドイル先生を訪ふ」『英語青年』第

25第 1 号(1911年 4 月 1 日) 20-21頁 , 第25巻第 2 号

(1911年 4 月15日)45頁、第25第 3 号(1911年 5 月 1 日)

68-69頁、第25第 4 号(1911年5月15日)93-94頁。

22) 植村昌夫『シャーロック・ホームズの愉しみ方』平凡

社、2011、208頁。 河村幹夫『コナン・ドイル-ホーム

ズ・SF・心霊主義』前出、201頁、197頁。

23) A.C.ドイル(笹野史隆訳)『ガードルストーン商会』

下、エミルオン、2006、170頁。

24) A.C.ドイル(笹野史隆訳)「最後の事件」、同『空

き家の冒険』下、エミルオン、2010、9頁。A.C.

ドイル(日暮雅通訳)「空き家の冒険」、同『シャーロッ

ク・ホームズの生還』光文社文庫、2006、21頁。

25) 佐貫浩『イギリスの教育改革と日本』高文研、2002、

191頁ほか。

26) 吉田多美子「イギリス教育改革の変遷-ナショナルカ

リキュラムを中心に-」『レファレンス』2006年11月号、

99-112頁参照。

27) 阿部菜穂子『イギリス「教育改革」の教訓-「教育の

市場化」は子どものためにならない-』岩波書店、

2007、岩波ブックレット No. 698。

28) 藤森克彦「エコノミスト・リポート、『第 3 の道』の模

索、トニー・ブレア繁栄と失墜の10年」『週刊エコノミ

スト』85巻31号、2007年 6 月12日、85-87頁参照。望

田研吾「イギリス労働党ブレア政権の教育改革」、同『21

世紀の教育改革と教育交流』東信堂、2010、所収。

29) 「国連本部でのスピーチ」、マララ・ユスフザイ、クリ

スティーナ・ラム(金原瑞人・西田佳子訳)『わたしは

マララ-教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれ

た少女-』学研マーケティング、2013、418-424頁に

所収。『CNN English Express』編集部編『[対訳]マ

ララ・ユスフザイ 国連演説&インタビュー集』朝日

出版社、2014、参照。

30) 「マララさん ノーベル平和賞受賞演説」『中日新聞』

2014年12月12日、 7 頁。「マララさん 平和賞受賞演説

(要旨)」『朝日新聞』2014年12月11日、11頁。

31) マララ・ユスフザイ、クリスティーナ・ラム(金原瑞人・

西田佳子訳)『わたしはマララ-教育のために立ち上が

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「学校の意義」に関する教材研究

り、タリバンに撃たれた少女-』前出。マララ・ユス

フザイ(道傳愛子訳)『マララ:教育のために立ち上が

り、世界を変えた少女』岩崎書店、2014。

32) 「マララさん ノーベル平和賞受賞演説」前出より作成。

33) 「注目話題・著名人も登場、マララさん・東京五輪・羽

生選手」『日本経済新聞』2015年 4 月 7 日、35頁。「『マ

ララさん』幅広く登場」『毎日新聞』2015年 4 月 7 日、

23頁。

34) 「マララさん 平和賞受賞演説(要旨)」前出。「国連本

部でのスピーチ」前出。

35) 「マララ・ユスフザイに関する名言集・格言集」

(meigen:keiziban-jp.com/malala より)。

36) 高木靖文「学習環境の伝統知」、梶田正巳編『授業の知、

学校と大学の教育革新』有斐閣、2004、所収、参照。

37) 『学校教育に対する保護者の意識調査:ダイジェスト:

Benesse 教育研究開発センター・朝日新聞社共同調査

2012』ベネッセコーポレーション Benesse 教育研究開

発センター、2013、参照。

38) 「エジプトが日本教育導入、小学校で掃除、日直」『中

日新聞』2016年 4 月 6 日(夕) 2 頁。

39) 「「日本式教育」輸出します-文科省、来年度に新組織」

『日本経済新聞』2015年 9 月16日、42頁。

 本稿の構成について、藤井基貴先生(静岡大学准教授)

より有益なご教示を得た。記して多謝する。

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

I. The Opening of Japan’s Educational System to the West and the Role of Foreign Educational Advisors

(1)A great many foreigners were involved in Japan’s quest to open up to the outside world

to become a modern nation. Many foreign teachers likewise contributed to the establishment

of modern systems of education in Japan. Bringing Western models of education to the

country, these educators facilitated the modernization and independence of education in

Japan through their respective duties, e.g. the practice of education, the management of

schools, and proposals concerning educational matters.

Foreign teachers drove advances in modern Japanese education in a multitude of fields,

but the four outlined below are particularly noteworthy.

To begin with, foreign teachers made major contributions by way of leading the drive to

organize specialized educational institutions, and by teaching at these institutions. As Japan

was opening to the outside world, “Based on the idea that it was necessary to have human

resources with practical scientific training to make the nation richer and more powerful, the

first order of business was to organize systems of specialized education.”1 At the national

government (imperial) level, under the Ministry of Education were established the Kaisei

Gakkō (Western Studies School) and the Tokyo Medical School, under the Ministry of

Engineering were established the Kōgakuryō (School of Engineering) and the Imperial

College of Technology, under the Office of the Hokkaido Development Commission was

established the Sapporo Agricultural College, under the Ministry of Justice was established

the School of Law, and under the Home Ministry was established the Komaba School of

Agriculture. As for sub-national public and private schools, this period also saw the

establishment of the Seimi-Kyoku (Chemical Institute), the Shōhō Kōshūjo (Commercial

Studies Institute), the Keio Gijuku (now Keio University), the Mitsubishi Nautical School, and

other institutions that responded to the needs for human resources with practical training

in the “Western sciences.” In all of these instances there were foreign educators working in

advisory capacities.

Second, in response to the policy need to improve the education of the citizenry, foreign

The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

Shoji KATOH (Faculty of Law, Professor)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

advisors led efforts to systematize, for example, normal education, physical education, choir

education, and women’s education.

Third, it should be noted that by contributing to the formation of new notions of women’s

education and leading the drive to establish women’s colleges, foreign educational advisors

played a major role in the modernization of education for women in Japan.

Fourth, we must not forget the tremendous contributions of these foreign advisors to the

modernization of education and industry in numerous other ways by virtue of them serving

as public and private school teachers at local schools throughout the country.2

(2)Of the four areas mentioned above, Henry Dyer (1848-1918) was most involved in the first,

i.e. Meiji-era efforts to establish specialized educational institutions and systems, and in the

context of the opening up of Japanese education, he was responsible for many striking

achievements. Dyer came to Japan from Scotland as an educational advisor in the employ of

the Ministry of Engineering, which guided the modernization of industrial technologies in

the newly minted nation, and from 1873 (Meiji 6) to 1882 (Meiji 15), he served as Principal of

Kōgakuryō and its successor the Imperial College of Engineering, and was involved in

engineering education as Professor of Civil and Mechanical Engineering. In these roles, Dyer

greatly contributed to the systematic organization of specialized engineering education. He

planted in Japan an ideal of engineering education that emphasizes practical training. He

also ensured that, from their inception, Japanese universities housed engineering

departments, and in this sense, one could call Dyer the father of Japan’s system of

engineering education.3

For these efforts and achievements as an educational advisor to the Ministry of

Engineering, the Meiji government inducted him to the Third Grade Order of the Rising

Sun. As recorded in the Decoration Bureau’s Gaikokujin Jokun-roku (Record of Conferment

on Foreigner Nationals’, published in 1892 (Meiji 25)), this was the highest honor

bestowed upon a British civilian.4 According to the citation dated April 6, 1882 (Meiji 15)

from Marquis Sasaki Takayuki in charge of Engineering to Prince Sanjō Sanetomi, Director

of the Decoration Bureau, the reason for his recommendation to the Order was that, at the

Imperial College of Technology, “He has worked [at the college] for nearly ten years, has

distinguished himself in his diligence, and has made meritorious contributions throughout

his tenure.” Attached to the citation recommending him to the order is a “Summary of

History of Service”. It reads:

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

   Henry Dyer, Principal of the Imperial College of Engineering, is a Doctor of

Engineering from Great Britain who, on the invitation of our Government arrived in

Tokyo on June 3, Meiji 6 (1873), accepted his order from the Marquis (Minister) of

Engineering, and was appointed to the position of Principal of Kōgakuryō. To begin

with, engineering is a project that our Empire had never embarked upon, and at this

time, even though he was given complete responsibility for tasks such as the

establishment of school buildings, the formation of the syllabus, and the regulations

accompanying them, through extraordinary diligence and based on expertise gained

over many years, he first chose the syllabus and regulations, then devised good plans

for the structures of the school buildings and positions of the classrooms. He likewise

developed careful preparations for the placement of all equipment, machinery, and

books. He managed the school with perseverance, and with each passing day and each

class of students the students did in fact increase. He then separated the courses into

two, teaching both civil and mechanical engineering himself, and in supervising each

faculty member responsible for teaching these subjects, he never failed in making the

rounds to each classroom at least several times a day, even when the wind and rain

struck harshly…His fatherly way of guiding his students transcended arguments about

the old and new styles of education, and if there by chance happened to be something

wrong, there was no situation in which he would not immediately offer personal

guidance and instruction to his students. As a result, he has earned respect from all of

them, and this has been the case for the near decade from Meiji 6 to this present year;

specifically, not a day has gone by in which he failed to strive as a teacher, and rarely

has there been a student of his that has been indolent. Rather, they all strive to educate

themselves under him as best they can. Principal Henry Dyer’s meritorious

achievements to establishing of the Imperial College of Engineering, as well as his

contributions to the fortunes of our country not just today but into the future, are far

from few.5

One must not forget that, in addition to his contributions as a foreign educational advisor,

Dyer maintained relations with Japan even after returning to his home country, and

furthered efforts to strengthen Anglo-Japanese relations and friendship. Those efforts led to

remarkably successful results, and in February 1908 (Meiji 41) Dyer was conferred the

Second Class of the Order of the Sacred Treasure. The conferment citation states that, even

after returning to Scotland, “Among school teachers and Ministry of Education-sponsored

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

exchange students traveling from Japan to Great Britain, there have been more than a few

who, while staying in Great Britain, have benefited from Dyer’s various indefatigable efforts.

In particular, during the battle with Russia, from beginning to end Dyer expressed a

favorable demeanor with regard to the Government of the Empire, and continually issued

reports useful to the Empire, thereby imparting upon the Empire great benefit. These and

other contributions by Dyer have been considerable.”6

II. “The Son of a Blacksmith”Henry Dyer was invited to Japan as an educational advisor, where he worked as the

principal of two specialized educational institutions, namely Kōgakuryō and the Imperial

College of Engineering. He also served as a professor of civil and mechanical engineering,

and in this capacity he was responsible for school administration. He provided educational

guidance and contributed to the organization of specialized engineering education. As noted

in the citation above, as “engineering [was] a project that [the] Empire had never embarked

upon,” he not only “chose the syllabus and regulations,” but was also tasked with “[devising]

good plans for the structures of the school buildings and positions of the classrooms” and

“[developing] careful preparations for the placement of all equipment, machinery, and books,”

tasks which he carried out skillfully.

It became known among the student body that Dyer was “born the son of a blacksmith

and achieved success in life through his own efforts.”7 It was also known that his success

was also due to his having been “selected as a student on a Whitworth Scholarship for

academic excellence while at a technical college in Scotland.”8

The Whitworth Scholarship was established John Whitworth (1803-1887), who played a

leading role in inventing and improving machining technologies. Using the money he had

amassed from his inventions and improvements, in 1868 Whitworth set up a yearly

endowment of £3,000, from which was disbursed £100 annually to each of 30 students who

demonstrated excellence in the theory and practice of mechanics. Through this scholarship

scheme, a path to higher education opened up to poorer engineers who would otherwise not

have the funds to advance in their education. In 1870, at the University of Glasgow, Dyer

became the first Scot to win a Whitworth Scholarship, which he was able to receive for

three years.9 It was said that “[only] students with excellent academic performance are

chosen, so a Whitworth Scholar is a person of distinction.”10 Dyer had numerous other

illustrious academic achievements as well. For example, as I outline below, in 1872 he was

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

awarded an Arnott Prize, a prize for introductory physics, for which he received £15. There

are also records of him winning a Walker Prize for engineering and shipbuilding and a Watt

Prize for astronomy, among others.

Dyer was working as a foreign educational advisor in Japan around the time that Samuel

Smiles’ Self-Help (1858) was translated and published in Japan under the title Saikoku Risshi-

hen (“Accounts of self-made people in Western countries”) (1871, Meiji 4), and became as a

popular source of inspiration for young people. The book argues that success in life can be

achieved by setting goals and working diligently and tirelessly toward them. Given that it

was a major best-seller at the time,11 it is likely that Dyer was respected as a self-made man.

There is little doubt that it also appeared as such to his students.

III. Dyer in the Census(1)

Was Dyer truly the son of a blacksmith? According to the Census, as I outline below, his

father was, in fact, a “foundry labourer,” and his grandfather was a “furnace keeper” at an

iron works. What is more, it appears that the family moved several times to seek

employment. In each year of his time at the University of Glasgow, Henry Dyer himself

listed “Engineer” in the “Father’s Occupation” space in the Glasgow University Album.12 It is

unlikely, however, that his father was a highly-skilled master workman. It is thought that,

“Henry Dyer’s family origins were humble and his background was not one of wealth or

privilege.” 13

Let us look more concretely at Henry Dyer’s family’s background, their places of

residence, and Dyer’s educational history. The birthplace of Henry Dyer’s father, John (1823-

1891), was actually not Scotland but Ireland, because his father was a soldier and was

serving in Ireland at the time of John’s birth. In the 1841 Census, his father’s address is

listed as Wishaw, Cambusnethan, County Cork, Scotland. John’s occupation is listed as “Com.

Lab.” (short for “common labourer”). The household consisted of nine persons: Dyer’s

grandfather Henry (45 years old; “Army Pensioner”), his grandmother Mary (45 years old),

his father John (18 at the time), who was also the eldest son, and seven children (15- and

6-year old brothers, twin 10-year old sisters, and 3- and 2-year old sisters).14 (His grandfather

Henry is listed as having been in the military, but later he is shown to have worked as a

“furnace keeper” at an iron works.)15

In the records for the 1851 Census, however, the family’s address has changed to

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

Glasgow. Their address in the city was 32 Edinburgh Road, Village of Muirmadkin (now

absorbed into the town of Bellshill), Parish of Bothwell, Lanarkshire16. They likely made the

move in search of employment and a better life.

Dyer's father John was 29 years old at the time of this census. His occupation is given as

“foundry labourer.” Dyer’s mother Margaret was 28 years old. She was the daughter of

Robert Morton, a farmer and carrier in Bothwell. They were married in 1848.17 Their first

son was Henry Dyer, who was 2 years old at the time of the 1851 census. Their first

daughter Janet was later born (6 months old at the time of the census). A lodger (21 years

old) is also recorded as living with them (Table 1).18

It was in Muirmadkin, on the outskirts of Glasgow, that Henry Dyer was born. Located 12

kilometers to the southeast of Glasgow, it was a sleepy village facing the River Clyde

between Bellshill and Mossend. It had previously been a center of hand-woven textiles, but

with the discovery of iron and coal in the 1830s, related industries developed in the area and

the local economy experienced a sudden boom. Especially after the founding of the Mossend

Iron Works by James Beaumont Neilson (1792-1865) in 1839, the first iron works in the area,

iron and steel manufacturing became the chief industries, and many laborers came from all

parts of the UK.19 Dyer’s father was likely one of them.

Subsequently, they moved for a time to Holytown,20 which developed as the result of the

discovery of large deposits of coal and black band ironstone,21 but around 1857 moved again

to Shotts. Southeast of Glasgow, their address here was 135 Springhill, Village of Stane,

Parish of Cambusnethan (modern-day Springhill, Stane, in the town of Shotts). Shotts was a

small industrial town that developed after the Shotts Iron Works opened in 1802, where coal

Table 1. The Dyer Household in the 1851 Census

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

and iron ore were mined nearby.22 It seems that “[Dyer’s] father worked in the large and

successful Shotts Iron Works.”23 This iron works saw a dramatic increase in production

volume driven by the increase in demand for pig iron due to the Napoleonic Wars, as well

as the introduction of the hot-blast process to smelt and refine iron ore, a process that was

developed by James Beaumont Neilson.24 Of Dyer’s father John, “It is not known exactly

what type of job he had, although descendants claimed that he was the manager of the

Works.”25

Around this time, Henry Dyer attended Wilson’s Endowed School, which was an auxiliary

school of the iron works. Because he received high marks, he would be granted

employment at an affiliated company.26

The 1861 Census saw no change in address; the family was still at 135 Springhill. Dyer

was 12 at the time, and his occupation is listed as “Scholar,” but he would eventually enter

into an apprenticeship at a foundry run by James Aitken & Co. in Cranston Hill, Glasgow,

which specialized in the manufacture of boilers for massive vessels.27 It is probable that the

Dyer family moved to Glasgow to accommodate young Henry’s apprenticeship.28

By the 1871 Census, the family had moved to 449 St. Vincent Street, Glasgow. The

address is west of Glasgow Central and on the north side of the shipyards that sprawl along

the right bank of the River Clyde. Dyer’s father’s occupation is listed as “Engine Fitter at

Works.” Henry Dyer was 22 years old, and his occupation is given as “Arts Student.” He

commuted to the University of Glasgow from this address, and every year following his

admittance in 1868 he provided the university with this address.29

In 1873 (Meiji 6), Dyer would be invited by the Japanese government and leave Glasgow.

In his absence, his parents resided at 128 Dunbarton Road, Glasgow. The listing is in the

western edge of the Kelvingrove area, near Gasgow University. By the 1881 Census, Dyer’s

father John (58 years old) had retired and is listed as a “Retired Engine Fitter.” He is shown

occupying the residence with Dyer’s mother Margaret (58 years old) and a domestic servant

(20 years old).30

(2)Upon finishing his tenure as a foreign educational advisor in Japan and returning to

Scotland, Dyer first resided in Lenzie. Situated 12 kilometers to the northeast of Glasgow

city center, Lenzie developed with the opening of the Edinburgh and Glasgow Railway and

stations along its lines in 1842. In the 1850s, the railway company constructed housing near

Lenzie Station for people commuting to Glasgow and issued free commuter passes to Lenzie

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

residents. Moreover, construction on the plumbing system was completed in the 1870s,

which led to the further development of Linzie as a residential neighborhood for

commuters.31 Dyer was one of those who sought to find a house here.

That house still stands in a spacious compound surrounded by woods on the south side of

Lenzie Station. The house is built in a classical style, with semicircle windows. Houses of the

same type line the streets, and it is apparent that they were built as suburban housing.

Henry Dyer lived here with his wife, Marie E. A. Ferguson (1848-1921), the three sons and

one daughter born while they were in Japan, and most likely his parents as well.32

Around 1885 or 1886,33 the Dyers moved to 8 Highburgh Terrace in Glasgow. Just to the

northwest of the University of Glasgow, the address now corresponds to 52 Highburgh

Road. This is the house that Dyer finally settled in.34 It was a two-story townhouse with an

attic and a semi-basement, and had a garden with old trees in the back.35 The 1891 census

indicates that it had 12 windowed rooms.36 It was a large household, with a total of 10

people: Dyer, Marie, their four children, Dyer’s parents, and two housemaids. Dyer (42 years

old) listed his occupation as “Civil Engineer,” and that of his father John (68 years old) as

“Retired, Mechanical Engineer.” The birthplace of his four children (Charles, 14; Robert, 12;

James, 10; and Marie, 8)37 is given as “Tokio, Japan”38 (Table 2).

Table 2. The Dyer Household in the 1891 Census

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

It is worth noting that the townhouse at 8 Highburgh Terrace became a gathering place

where Anglo-Japanese exchanges were facilitated. First, it was a place where graduates of

the Imperial College of Engineering such as Tanabe Sakurō (1861-1944) and Sone Tatsuzō

(1852-1937), and leaders of Japanese industry such as Iwasaki Hisaya (1865-1955), visited,

renewed old friendships, and sought guidance. Sakurai Jōji (1858-1939) and Iijima Isao (1861-

1921), who were sent by Tokyo Imperial University to attend the Ninth Jubilee of the

University of Glasgow, held in 1901 to celebrate 450 years since its establishment, stayed at

Dyer’s house.39 Second, when Dyer used his experiences in Japan to push educational

reforms in Glasgow, conducted studies of Japan, assisted Japanese students studying in

Glasgow, served as the Financial and Industrial Liaison of the Japanese Empire, and

otherwise promoted Anglo-Japanese exchange,40 it was from or at this house.41

IV. Dyer’s ApprenticeshipAlthough Henry Dyer was a graduate of the University of Glasgow, he had been

apprenticed before entering the university. His background of not just having studied at a

university but also of having trained in practical skills as an apprentice is particularly

worthy of note in light of his later efforts. The fact that, as Principal of the Imperial College

of Engineering, he envisioned and put into place a distinctive educational syllabus called

the “sandwich course,” which placed hands-on training between layers of theoretical study,

seems to this author to be related to his background as an apprentice.

Dyer’s interactions with the actual work in the field began when he was a young boy. As

mentioned above, Dyer’s family lived in Shotts, where the young Dyer attended Wilson’s

Endowed School, which was attached to the Shotts Iron Works, where his father worked.

Robert McNab, who was a teacher at the school, describes Dyer as follows:

   He exhibited uncommon perseverance and industry, which, combined with an

excellent memory and natural talents of the highest order, enabled him to take the

foremost place in his respective classes, and at the annual examinations carry off all

the first prizes.

   He was taken from school to one of the offices in connection with the Shotts Iron

Works, in which he continued for some years, and where his knowledge of figures was

put to a practical test, giving him an accuracy in calculation which no mere school drill

could confer.

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

   On his father's family removing to Glasgow he acquired a knowledge of practical

engineering in one of the largest establishments of that city.42

What McNab calls “one of the largest establishments of that city,” where Dyer gained his

“knowledge of practical engineering,” was the foundry of James Aitken & Co., where in

1863, at around the age of 15, he began an apprenticeship. It was the foundry manager

Alexander C. Kirk (1830-1892) 43 who took responsibility for instructing Dyer. Kirk gave

Dyer the following high praise:

   Owing to his superior ability and intelligence, I employed him very often in drawing

in the work on the castings, &c., for the erectors and machines, and latterly I

employed him in the Drawing Office, where by his assiduity and attention he made

rapid progress. I have a very high opinion of his steadiness,perseverance, and talent for

engineering studies, and his qualifications as a workman.

Kirk described Dyer as having qualities of assiduity, steadiness, perseverance, and

attention, and said, “Owing to his superior ability and intelligence,” he could look forward to

a very promising future.44

Thomas Kennedy, who was the chief of workmen at the foundry, likewise had glowing

praise for Dyer, saying:

   During his last year he was employed more as an assistant to me in drawing in and

in getting the work forward for the erectors and machine men. He was paid a higher

rate of wages than the other apprentices owing to his superior intelligence and ability.

Kennedy also added, “During that time he conducted himself in a most exemplary

manner. He is a good workman, sober, steady, and industrious.”45

V. Night SchoolIt is particularly worthy of note that during his apprenticeship with James Aitken & Co.,

Henry Dyer took classes in the evening. The night school he attended was at Anderson’s

College, just to the north of the Glasgow City Chambers. Founded in 1796, the college has

a long tradition and record as a center of learning for people who want to study while

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

working. Anderson College is now the University of Strathclyde.46

Dyer had been very interested in Anderson’s College since he was a young boy. When he

was in the village of Muirmadkin, he happened to hear from a local chaplain accounts of

success about people who had attended Anderson’s, and this left a deep impression upon

him. The three that he heard were about the chemist Thomas Graham (1805-1869), the

explorer David Livingston (1813-1873), and the petrochemical manufacturing pioneer James

Young (1811-1883). When Dyer first ventured to Glasgow, he immediately found his way to

the college, located on George Street, and visited its museum.47 Dyer recalls, “A few years

later, when I came into town to complete my apprenticeship, I took the first opportunity of

joining the evening classes.”48 There is little doubt that, with an eye to the future, his resolve

was strong.

It should be noted that, around this time, Anderson’s College offered “popular lectures” in

introductory mathematics, chemistry, natural philosophy, astronomy, physiology, and botany,

but Dyer states, “practically none of the applications to engineering or industry generally

were taken up in the classes.”49

After his apprenticeship was completed, Dyer advanced to the University of Glasgow.

Founded in 1451, it is one of the most historied universities, but it was in transition from a

university centered on the liberal arts to one focused on practical sciences. As part of this

transformation, the university established a chair of civil and mechanical engineering in

1840, becoming one of the first universities to do so. In the autumn of 1870, the university

moved from the old campus on the High Street to its current location on Gillmorehill.50 Dyer

studied at the university for five years, beginning in 1868, but he says that during this time,

he was “taking work in the shops or drawing offices during the summer, supplemented by

an occasional evening class in Anderson’s College.”51 He thus continued to emphasize not

just theoretical study but hands-on, practical experience as well.

In addition to having attended night school at Anderson’s College, there was another

important connection to Anderson’s for Dyer. Specifically, it was that there he attended

classes with Yamao Yōzō (1837-1917), one of the Japanese students who were smuggled out

of the country in violation of its seclusion law to study in Great Britain, who would go on to

hold high posts in the Ministry of Public Works. In his work Dai Nippon (1904), Dyer gives

the following recollection:

   I was pleasantly surprised to recognise in Mr. Yamao, the Acting Vice-Minister of

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

Public Works, a man whom I had seen as a student in the evening classes of Anderson's

College, Glasgow (now incorporated in the Glasgow and West of Scotland Technical

College) , when he was learning the practice of shipbuilding in Napier's yard. I did not

make his personal acquaintance during his stay in Glasgow, but his connection with

that city gave us much in common. I wish to bear testimony to the whole-hearted

support which he gave to all my proposals for the education of engineers, and to his

personal kindness on every possible occasion.52

By obtaining help from Yamao, who happened to be a classmate at Anderson’s College,

Dyer managed to be successful in both the administrative and educational aspects of the

Imperial College of Engineering.

VI. Dyer as a Whitworth Scholar of the University of Glasgow(1)

Dyer entered the University of Glasgow as a full-time student in 1868, “on the completion

of my apprenticeship,” he writes.53 In the Glasgow University Album, in his own hand he

listed his age as 20 years old, his birthplace as Lanarkshire, his father’s name as John, and

his father’s occupation as “Engineer.” There are few changes to the substance of subsequent

album entries from this time to the time he graduated in 1872. As previously stated, he

continued to report to the university his father’s profession as “Engineer.”54

During his time as a student at the University of Glasgow, from the 1868 to 1872, the

subjects and courses that he took, according to the University of Glasgow-Class Catalogue,

are as follows.55 From this we can see that in the period corresponding to the first half of

his five years at the university, Dyer’s took courses focused mainly on the natural sciences,

and in the latter half he took courses with a focus on liberal arts and the humanities.

 Session 1868-69: Classe Physica

Classe Mathematica-Seniore

 Session 1869-70: Classe Physica

Classe Scientiae Machinalis

 Session 1870-71: Classe Latina-Juniores

Classe Graeca-Tyrones

Classe Scientiae Machinalis-Seniore

 Session 1871-72: Classe Latina-Seniores

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

Classe Graeca-Provectiores

Classe Physica

Natural History Class-Zoology

 Session 1872-73: Classe Ethica

Classe Logica

English Language and Literature

In addition to the subjects and courses that Dyer took, his performance in them is

likewise interesting. There are two documents that survive that tell of his performance.

The first is the Glasgow University Calendar, a yearly publication that lists the history,

teaching faculty, and class outline for each course offered, as well as “Bursaries, Exhibitions

and Scholarships” and “Prize Lists” noting the names of the students who have won them.

The table below shows a summary of Dyer’s course records extracted from this document.56

His marks are excellent. He earned not only the Watt Prize, but the numerous other awards

and prizes, beginning in his first year at the university.

 Session 1868-69:

  Mathematics (Senior Class): For General Eminence in the Business of the Session,

voted by the Students, No.2 [Class Prizes]

  Mathematics (Senior Class) : For Excelling at Examinations in Writing during the

Session, No.3.

  Natural Philosophy : For Genera l Eminence in the Exerc i s e s and

Examinations during the Session, No.2.

 Session 1869-70:

  Civil Engineering and Mechanics : For Written Exercises [Class Prizes]

 Session 1870-71:

  Civil Engineering and Mechanics : For an Examination in Writing. No.1 [Walker

Prizes]

  Civil Engineering and Mechanics : For Written Exercises [Class Prizes]

  Civil Engineering and Mechanics : Certificate of Proficiency in Engineering Science

 Session 1871-72:

  In the Faculty of Arts : For the Encouragement of the Experimental Physics [Arnott

Prizes]

  Natural Philosophy : For Examination on Higher Mathematical Class, No.1.

 Session 1872-73:

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

  The Best Essay : “The Influence of the Newtonian Principles on the Progress

of Science during the Eighteenth Century” [The Watt Prize]

In 1872, Dyer’s final year, the University of Glasgow first began offering academic degrees

to students specializing in engineering. Dyer was one of the first group of students to take

a B.Sc. degree at the university.57

The second document that offers insight into Dyer’s performance is one that he himself

authored, titled Selections from Testimonials Presented by Henry Dyer, C. E.―On the

Occasion of His Appointment as Principal of the Imperial College of Engineering, Tokio,

Japan, February, 1873. As the title suggests, it is a collection of letters of recommendation,

certificates of marks, etc. that Dyer put together when applying for the position of Principal

of the Imperial College of Engineering. It is a short pamphlet, consisting of only 16 pages.

The pamphlet contains a “List of Degrees and Special Prizes” he earned at the university,

a “University of Glasgow Certificate of Proficiency in Engineering Science,” a “University of

Glasgow, Class of Civil Engineering and Mechanics, Certificate of Attendance, Session 1869-

70” and “University of Glasgow, Class of Civil Engineering and Mechanics, Certificate of

Attendance, Session 1870-71,” both of which were drawn up by Dyer’s professor William

John Macquorn Rankine (1820-1872), and ten letters of recommendation, including letters

from Professor Rankine, Thomas Kennedy, and Alex C. Kirk, the latter two of whom, as

mentioned above, mentored Dyer during his apprenticeship.

The document shows that Dyer completed the course of study in mathematics, natural

philosophy, inorganic chemistry, geology and mineralogy, and civil engineering and

mechanics, all of which are required for earning a Certificate of Proficiency in Engineering

Science, that he passed the exams for these subjects, and that he also was deemed to have

sufficient skill in drawing. The pamphlet likewise demonstrates that he earned the degrees

of M.A. and B.Sc., a Certificate of Proficiency in Engineering Science, and won two

Whitworth Bursaries, a Whitworth Scholarship, an Arnott Prize for Natural Philosophy, a

Walker Prize for Engineering and Shipbuilding, a Watt Prize for Astronomy, a Thomson

Scholarship for Experimental Science, and First Prize in Sr. William Thomson’s Higher

Mathematical Class.58 The “University of Glasgow, Class of Civil Engineering and Mechanics,

Certificate of Attendance, Session 1869-70” states that his lecture attendance was “Perfectly

regular,” that his performance on oral examinations was “Excellent,” and that of his written

exercises was “Most excellent. Marks, 100 per cent.” Professor Rankine’s remarks on the

certificate characterize Dyer as “A most able and distinguished student in every respect.”

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

Dyer’s “University of Glasgow, Class of Civil Engineering and Mechanics, Certificate of

Attendance, Session 1870-71” attest to a similarly splendid performance: “Perfectly regular”

for attendance, “Excellent” on his oral examinations, “Most excellent. Marks, 100 per cent”

on his written exercises, and Rankine’s remarks describing Dyer as “A highly-distinguished

student. Gained the first Walker Prize for a written examination. Marks, 95½ per cent.”59

As outlined above, Dyer had an impressive background, having gained practical

experience in the field by training as an apprentice, and then going on to study and earn

degrees in the natural sciences and arts at the University of Glasgow. What is more, he

performed excellently in both his apprenticeship and his academic studies, receiving high

praise for his character, innate abilities, and knowledge, which led Rankine to recommend

him for the position of Principal at the Imperial College of Engineering. As Dyer was equally

talented in both logical academic study and practical applications, so it is easy to conclude

that he was precisely the sort of person that Japan was looking for at the time.

(2)Among the prizes and awards that he received during his time at the University of

Glasgow, Dyer was particularly proud of having been selected as a Whitworth Scholar. Dyer

included in the aforementioned Selections from Testimonials Presented by Henry Dyer, C. E.

a letter he had written to the Secretary of the Department of Science and Art of Great

Britain, which was responsible for administering the scholarship, dated October 1, 1870―

when Dyer was a third-year student―detailing his study plans, as well as the letter of

decision dated September 26 of the same. The letter comprised a “plan of study during the

three years which I hold the Whitworth Scholarship,” a plan which he had drawn up

together with Rankine. As the following excerpt shows, Dyer hoped to achieve mastery of a

broad range of disciplines.

   As I have already spent nearly seven years in practice as an engineer and

draughtsman, I propose to devote the three years almost entirely to theoretical studies

as well as completing my general education.

   I propose to complete the engineering course of Glasgow University necessary for the

certificate of C.E., and at the same time I will take the classes for the degree of M.A. In

the Arts course I will only devote as much time to classics and philosophy as enable me

to get the degree, and all my available time will be spent in the study of Engineering,

Mathematics, and Natural Philosophy.

   I will thus get a good general education, and after studying Latin I will be able to

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

proceed rapidly with the study of the modern languages to which it is a key.

   I will also be enabled by this course to go in for certain degrees which require as a

preliminary a knowledge of classics and philosophy. I propose also to go in for the

Diploma of the Royal School of Naval Architecture.60

It is clear from the above that even at this early period Dyer had begun to form a

philosophy of education61 in which even for specialized professionals such as engineers it

was not enough to have academic abilities and practical skills in one’s own field of specialty,

it was also necessary to have a well-rounded liberal arts education as well.

At specialized engineering education institutions such as the Imperial College of

Engineering, many of the students were descended from warrior classes, and it is likely that

there was a tendency to dismiss practical experience. Particularly because professionals

tend to succumb to bigotry in thoughts and actions, the emphasis on liberal arts education

here possesses a particular significance. When Henry Dyer served in the post, he always

stressed the importance of engineers having a liberal arts education. For Dyer’s advocacy of

the importance of liberal arts education for professionals, see Miyoshi Nobuhiro’s. Dyer

no Nippon.62

VII. Dyer as a Self-made Man throughout his LifeIn this paper, so far I have focused chiefly on the major events in the first half of Henry

Dyer’s life and career, particularly his family’s background, residences, and educational

history. In doing so I have given special attention to the notion that Dyer was the son of a

blacksmith who found his own success in life, as a graduate from the Imperial College of

Engineering expressed this sentiment in his memoirs. The time frame we are interested

in here is the period until he is invited to Japan as a foreign educational advisor.

In the following, I have analyzed the censuses for the respective years, documents related

to Dyer’s daily life and academic studies as shown in Selections from Testimonials Presented

by Henry Dyer, C. E., and other documents such as the Class Catalogue and Album in his

student days at the University of Glasgow. The findings of these investigations are

presented below.

To begin with, the job of Henry Dyer’s father is given as “labourer at work" and

“mechanic” in the Census entries, though it is likely that he was a relatively low-wage

unskilled worker. The family moved several times probably to find employment and to be

better off, first seeking, first seeking work at the Shotts Iron Works, then moving to the

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

suburbs of Glasgow, including Muirmadkin, Holytown, and Shotts. Moreover, on several

occasions the family moved to within the boundaries of Glasgow.

Secondly, amidst this environment, it appears that Henry Dyer increased his interest in

practical applications. As an extension of this, he began an apprenticeship at the foundries

of James Aitken & Co. In this respect, Dyer was able to take advantage of multiple learning

opportunities. To begin with, Dyer attended a primary school that was affiliated with the

Shotts Iron Works, where he achieved great marks. Furthermore, during Dyer’s

apprenticeship, he chose to study at Anderson’s College, which was a center of learning for

workmen. It was a coincidence that Yamao Yōzō, in an effort to gain knowledge and

experience in order to guide the industrialization of Japan, was also attending this night

school, when Dyer was invited by the Japanese government and given responsibility for the

administration and education at the Imperial College of Engineering. In the future he

would come to rely on Yamao’s full assistance.

Third, after Dyer completed his apprenticeship and became a full-time student of the

University of Glasgow in 1868, he distinguished himself as an outstanding student in terms

of marks. In roughly the first half of his five-year period of study at Glasgow, Dyer sat a

range of classes mainly focused on the natural sciences, and in the second half he took a

variety of classes focused on the liberal arts. For his excellent performance he received

numerous prizes, and the scholarships he received enabled him to concentrate on his studies

further. Among these awards, Dyer was particularly proud of being selected as a recipient

of a Whitworth Scholarship, a scholarship scheme that offered opportunities for study to

engineers without the financial means to do so otherwise. As Dyer received excellent marks

in both his apprenticeship and his university studies, Rankine recommended him for the

position of Principal of the Imperial College of Engineering, which would lead to his

appointment in Japan. In addition to Rankine, numerous people volunteered to testify to

their positive opinion of Dyer’s character, abilities, and knowledge.

In short, “Henry Dyer’s family origins were humble and his background was not one of

wealth or privilege.” Nevertheless, through excellent academic performance and the use of

scholarships, Dyer was not only able to attend night school at Anderson’s College, he was

able to study as a full-time student at the University of Glasgow. What is more, he gained

extensive experience in the field through an apprenticeship. In this sense, Henry Dyer was

a truly self-made man.63

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

〔Notes〕1. Miyoshi, N., Nihon Kyōiku no Kaikoku: Gaikoku Kyōshi to Kindai Nihon (The Opening of Japanese Education:

Foreign Teachers and Modern Japan), Fukumura Publishers, 1986, p.115.

2. Ibid., “II. Gaikoku Kyōshi to Kindai Gakkō ― Gakkō Soshiki no Kindai-ka” (“School Education and Modern Schools:

School Organizations and Modernization”), which presents brief descriptions of the most notable educational advisors

who were active in the respective fields.

3. Miyoshi, N., Zōho Nihon Kōgyō Kyōiku Seiritsu-shi no Kenkyu ― Kindai Nihon no Kōgyō-ka to Kyōiku (A History of

Industrial Education in Modern Japan: Industrialization and Education in Modern Japan, Expanded), Kazama

Shobo, 2012. See, among others, Chapter 5, “Kōbu Daigakkō no Kōgyōkyōiku” (“Industrial Education at the Imperial

College of Engineering”).

4. Decoration Bureau, Gaikokujin Jokun-roku (Records of Conferment on Foreigner Nationals), 1892, p. 267. This

document lists 147 foreigners from a total of 32 countries as of January 1, 1892. See Katoh, S., “Nichi-Ei Kōryū no

Suishin-sha Henry Dyer no Jokun” (“The Decoration of Henry Dyer, a Promoter of Anglo-Japanese Relations”), in

Nihon Kosho Tsushin, Vol. 879 (15 October 2002), pp. 20-22.

5. “Request for Guidance in the Matter of the Desire to Confer an Award upon the Briton Henry Dyer,” and “Outline

of the History of Henry Dyer’s Services,” reproduced from Umetani, N. (ed.), Meiji-ki Gaikokujin Jokun Shiryō Shūsei,

(Collection of Historical Materials on the Conferment of Decorations upon Foreign Nationals ) Vol. 1, Shibunkaku, 1991,

pp. 281-282.

6. “On the conferment of decorations to 98 people, including the Honorable Charles S. Fairchild,” from Umetani, N. (ed.),

ibid., Vol.4, p. 426.

7. Iwata, T., “Kyū Kōbu Daigakkō Shiryō Sankō Kiji,” (“Informative Articles on Historical Materials about the Former

Imperial College of Engineering”), Kyū Kōbu Daigakkō Shiryō Hensan-kai (eds.), Kyū Kōbu Daigakkō Shiryō Furoku

(Appendix of Historical Materials about the Former Imperial College of Engineering), Toranomon Kai, 1931, p. 21.

8. Ishibashi, A., “Kaiko-roku (Sono 2)” (“Memoirs (Part 2)”), ibid., p.232.

9. Oxford Dictionary of National Biography, Vol.58 (2004) pp.786-789. Dyer, H. (ed.), “John Elder” Chair of Naval

Architecture and Marine Engineering, Glasgow University, 1886, Henry Dyer, 1886, p.13. Miyoshi, N., Dyer no Nippon

(Dyer’s Japan), Fukumura Publishers, 1989, p. 60. For details such as the history behind the establishment of the

award, the rules, names of winners, their backgrounds, etc., see Low, D. A. (ed.), The Whitworth Book, Prepared by

the Whitworth Society, Longman, London & N.Y., 1926. According to this work (p.32, p.34, p.151), Dyer received in

1868 “the Whitworth exhibitions” (£25) from the endowment, and in 1870 was awarded at the Whitworth scholarship,

though not as a student but rather in the scheme for laborers.

10. Ishibashi, A,, “Kaiko-roku (Sono 2)” (“Memoirs (Part 2)”), op. cit., p.215.

11. Smiles, S., Self-Help, with Illustrations of Character and Conduct, John Marry, London, 1859. Nakamura, M. (trans.),

Jijoron (“Self-Help”), Suharaya Mohei, Tokyo, 1870. Takeuchi, H. (trans.), Jijoron (“Self-Help”), Mikasa Shobo, 1988, p.

244.

12. In the Glasgow University Album, Session 1868-69, his album number is listed as “356,” his name as “Henry Dyer,” his

age as “20,” his place of birth as “Lanarkshire,” his father’s Christian name as “John,” his father’s employment as

“Engineer,” his field of study as “Arts,” and his year as “1.” For details about his entry in the Glasgow University

Album (housed in the University of Glasgow Archives), see Table 3.

13. Hart, L. & Hunter, R., “Henry Dyer―A Man with a Mission”, The Henry Dyer Symposium (Tokyo), March 18-19, 1997,

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The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

The University of Tokyo, School of Engineering, p.43. Katoh, S., “Henry Dyer Symposium,” Kyōiku Shakai-shi Kenkyū-

shitsu Nenpō (Annual Bulletin of the Research Office for the Social History of Education), Nagoya Daigaku Kyōiku

Gakubu Kyōiku Shakai-shi Kenkyū-shitsu, Vol. 3 (November 1997), p. 58.

14. The 1841 Census, Parish of Cambusnethan, Mishaw, Scotland.

15. The 1841 Census gives “Army P.,” i.e. army pensioner, but the death certificate for John lists his occupation as “Furnace

Keeper in Iron Works” (1891 Deaths in the District of Partick in the County of Lanark, No. 589).

16. 1851 Census, Parish of Bothwell, Village of Muirmadkin, No. of House-holder’s Schedule 32, Scotland.

17. Margaret Dyer’s death certificate shows her father Robert Morton’s profession to be “Farmer and Carrier.” (1907,

Deaths in the District of Partick in the County of Lanark, p.211). Henry Dyer website by Robin Hunter (http://

www.henrydyer.org.uk/) ( 26 Aug. 2004).

18. The 1851 Census, op. cit. The details of Dyer’s family as they are listed in the 1851 Census are shown separately in

Table 1.

19. Wilson, R.,Bygone Bellshill, Richard Stenlake Publishing, Ochiltree, 1995, p.3.

20. Inferred from the notation in the 1861 Census of Dyer’s younger brother Robert (age 5 at the time) having been born

in Holytown, Lanarkshire. 1861 Census, Parish of Cambusnethan, No. of Schedule 135.

21. Cormack, I. L., Old Bellshill: with Mossend, Holytown and New Steventon, Ian L. Cormack, Glasgow, 1981, p.4.

22. Muir, A., The Story of Shotts: a Short History of the Shotts Iron Company Limited, The Shotts Iron Company Limited,

Edinburgh, [1952], pp.1-2. “Shotts, A Village Built on Coal and Iron", Henry Dyer website by Robin Hunter (http://

www.henrydyer.org.uk/)

23. Hart, L. & Hunter, R., “Henry Dyer―A Man with a Mission”, op. cit., p.43. Katoh, S., “Henry Dyer Symposium,” op.

cit., p. 58.

24. Muir, A., The Story of Shotts: a Short History of the Shotts Iron Company Limited, op. cit., pp.11-12.

25. Hart, L. & Hunter, R., “Henry Dyer―A Man with a Mission”, op. cit., p.43. Katoh, S., “Henry Dyer Symposium,” op.

cit., p. 58.

26. Hart, L. & Hunter, R., “Henry Dyer―A Man with a Mission”, ibid., pp.43-44. Katoh, S., “Henry Dyer Symposium,” ibid.,

pp. 58-59.

27. Cooper, J. N., Simply Anderston, the Story of a Glasgow Burgh, Vista of Glasgow, Glasgow, 1979, p.27.

28. 1861 Census, Parish of Cambusnethan, No. of Schedule 135, op. cit.

29. 1871 Census, Civil Parish of Barony, Parliamentary Burgh of Glasgow, No. of Schedule 101.

30. 1881 Census, Ref. No. 609880, Barony, Lanark, Scotland (quoting from General Register Office for Scotland, FHL Film

0203661 GRO Ref. Volume 644-9 EnumDist 27, p.1).

Table 3. Henry Dyer in the Glasgow University Albums

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

31. “Lenzie (Local History) ”, “Commuting to Glasgow (Local History) ”, http://www. eastdunbarton.gov.uk/.

32. Henry and Marie Dyer were married in Yokohama on May 23, 1874, a few days after she arrived in Japan. Marie

was the eldest daughter of Duncan Ferguson of 8 Havelock Terrace, Paisley Road, Glasgow. See, The Glasgow

Herald (9 June 1874), p.1. Marriage Solemnized at Her Britannic Majesty’s Legation at Yokohama, 23rd May 1874,

and Katoh, S., “Henry Dyer no Kekkon” (“Henry Dyer’s Marriage”) in UP, Vol. 304 (February 1998), pp.16-20.

 Marie was born in Saint Lucia, which was a British Colony. See, 1891 Census, Civil Parish of Govan,

Parliamentary Division of Patrick, Lanarkshire, No. of Schedule 168, Scotland.

 Her father D. Ferguson was either a goldsmith or a self-employed jeweler. (The marriage certificate for Henry and

Marie Dyer lists her father’s occupation as “Goldsmith,” ( Marriage Solemnized at Her Britannic Majesty’s Legation at

Yokohama, 23rd May 1874, op. cit.) but his Register of Deaths gives “Jeweller (Master)”). See, 1875 Deaths in the

District of Govan Chunch in the County of Lanark, No.71.

33. As for the Dyer family address, the Post Office Lenzie Directory for 1884-1885 gives Dunrowan, Lenzie, but the Post

Office Glasgow Directory for 1886-87 shows that they had already moved to 8 Highburgh Terrace, Partick. (Post

Office Lenzie Directory for 1884-1885, William Mackenzie, Glasgow, 1884, p.1198. Post Office Glasgow Directory for

1886-1887, William Mackenzie, Glasgow, 1886, p.749)

34. Katoh, S., “Epitaph of Henry Dyer: Pioneer of International Interchange between Britain and Japan,” Historical Society

of English Studies in Japan, History of English Studies in Japan, Vol. 36 (October 2003) pp. 57-72.

35. Tanabe, S., “Moto Kōbu Daigakkō Token Dyer Sensei wo Tofu,” ( “Visiting Professor Dyer, Former Principal of the

Imperial College of Engineering”), Kōgyō no Dai-Nippon, No. 1, Vol. 5 (December, 1904 ) p. 30.

36. 1891 Census, Civil Parish of Govan, Parliamentary Division of Partick, Lanarkshire, No. of Schedule 168, Scotland.

In the 1901 Census, the house is listed as having 12 windowed rooms. For details of the Dyer household from the

1891 Census, see Table 2.

37. Charles Henry (1876-1950), Robert Morton (1878-1936), James Ferguson(1880-1940), Marie Dyer (1882-1958). The Dyers

had their first child (John Ferguson) on July 12, 1875 while in Japan, but he died on November 26 of the same year.

The Daily Advertiser (14 July 1875) p.2, (27 November 1875) p.2.

38. 1891 Census, op. cit.

39. Katoh, S., “Henry Dyer to Tanabe Sakurō” (“Henry Dyer and Tanabe Sakurō”), in UP, Vol. 340 (February 2001), pp.

6-11. Nakanishi, Y., Nihon Kindai-ka no Kiso Katei (Basic Processes in the Modernization of Japan), Vol. 2,

University of Tokyo Press, 2003, pp. 454-455. In addition, Fujita Shigemichi (a graduate of the Imperial College of

Engineering and at the time a train department head for Nippon Railways) visited in 1896. Ishikawa, K., Fukuzawa

Yukichi-den (Biography of Fukuzawa Yukichi ), Vol. 4, Iwanami Shoten, 1932, pp. 670-671. Katoh, S., “The Ninth

Jubilee of the University of Glasgow (1901): Ties between Meiji-era Japan and the University of Glasgow,” Historical

Society of English Studies in Japan, History of English Studies in Japan, Vol. 48 (October 2015) pp. 17-40.

40. Katoh, S., “Meiji-ki ni okeru Glasgow Daigaku Nihongo Shikaku Shiken,” (“Japanese Language Preliminary

Examinations at the University of Glasgow in the Meiji-era”) in Shinoda, H. and Suzuki, M. (eds.), Kyōiku Kindai-ka no

Shoso (Various Aspects of the Modernization of Education), University of Nagoya Press, 1992, pp. 201-221. Katoh, S.,

“Nichi-Ei Kōryū no Suishin-sha Henry Dyer no Jokun,” op. cit., pp. 20-22. Miyoshi, N., Dyer no Nippon, op. cit.,

Chaps. V and VI, and other documents.

41. What follows is a (partial) summary of the addresses of the Dyer family residences as seen in the Census.

1841 Census, Wishaw, Parish of Cambusnethan,Scotland.

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73

The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji Japan

1851 Census, 32 Edinburgh Road, Village of Muirmadkin, Parish of Bothwell,Glasgow, Scotland.

1861 Census, 135 Springhill, Village of Stane, Parish of Cambusnethan,Glasgow, Scotland.

1871 Census, 449 St. Vincent St., Civil Parish of Barony, Parliamentary Burgh of Glasgow, Scotland.

1881 Census, 128 Dumbarton Rd., Barony, Lanarkshire, Scotland.

1891 Census, 8 Highburgh Terrace, Glasgow, Scotland.

1901 Census, 8 Highburgh Terrace, Glasgow, Scotland.

1911 Census, 8 Highburgh Terrace, Partick, Glasgow, Scotland.

42. “From Mr. Robert M’Nab, F. E. I. S., Wilson’s School, Shotts Iron Works”, in Dyer, H., Selections from Testimonials

Presented by Henry Dyer, C. E., On the Occasion of His Appointment as Principal of the Imperial College of

Engineering, Tokio, Japan, February, 1873, Henry Dyer, 1873, p.16.

43. At the time, “Kirk was a young and energetic engineer who had just completed his apprenticeship at Napier’s

Shipyard,” (Kita, M., Kokusai Nihon wo Hiraita Hitobito―Nihon to Scotland no Kizuna [The People who made Japan

International―Bonds between Japan and Scotland], Dobunkan, 1984, p.39). “Kirk, Alexanderv Carnegie”, in Boase, F.,

Modern English Biography, Vol. II (1965) p.243. Checkland, O., “Scotland and Japan 1860-1914: a Study of Technical

Transfer and Cultural Exchange”, in Nish, I. (ed.), Bakumatsu and Meiji: Studies in Japan’s Economic and Social

History, London School of Economics, London, 1981/2, p.64, n.16.

44. “From A. C. Kirk, Esq., Memb. Inst. C. E., &c.”, in Dyer, H., (ed.), Selections from Testimonials Presented by Henry

Dyer, C. E., On the Occasion of His Appointment as Principal of the Imperial College of Engineering, Tokio, Japan,

op. cit., pp.14-15.

45. “From Thomas Kennedy, Foreman to James Aitken & Co.”, in ibid., p.14. Dyer, H. (ed.), “John Elder” Chair of Naval

Architecture and Marine Engineering, Glasgow University, 1886, op. cit. In this work as well (op. cit.), he is recorded

as having apprenticed at James Aitken & Co.

46. Butt, J., John Anderson’s Legacy, The University of Strathclyde and its Antecedents 1796-1996, Tuckwell Press,

East Linton, 1996. Katoh, S., A History of Mechanics’ Institutes in Great Britain up to the 1850’s, Institute of

Economic Research, Kobe University of Commerce, 1987, Chapter 1.

47. Dyer, H., “The Training and Work of Engineers in Their Wider Aspects: Introductory Address; by Henry Dyer,

Glasgow Technical College Scientific Society, October 21st 1905”, Transactions of Glasgow Technical Scientific Society,

Vol.2 (1905-06) p.5. Do., Introductory Address on the Training and Work of Engineers in Their Wider Aspects,

Technical College, Glasgow, 1905, p.5. This incident is mentioned in Miyoshi, N., Dyer no Nippon, op. cit., p.63.

48. Ibid.

49. Ibid.

50. Brown, A. L. & Moss, M., The University of Glasgow: 1451-1996, John Smith & Son, Glasgow, 1996, and others.

51. Dyer, H., “The Training and Work of Engineers in Their Wider Aspects: Introductory Address; by Henry Dyer,

Glasgow Technical College Scientific Society, October 21st 1905”, op. cit., p.6.

52. Dyer, H., Dai Nippon, the Britain of the East, a Study in National Evolution, Blackie & Son, London, 1904, pp.2-3.

Hirano, I. (trans.), Dai Nippon, Gijutsu Rikkoku Nihon no Onjin ga Egaita Meiji Nihon no Jitsuzo, Jitsugyo No

Nihon Sha, 1999, pp. 33-34.

53. Dyer, H., “John Elder” Chair of Naval Architecture and Marine Engineering, Glasgow University, 1886, op. cit., p.5.

54. Glasgow University Album, Session 1868-69, 1868. Glasgow University Album, Session 1869-70, 1869. Glasgow

University Album, Session 1870-71, 1870. Glasgow University Album, Session 1871-72, 1871. Glasgow University

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74

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

Album, Session 1872-73, 1872. These documents are housed in the University of Glasgow Archives.

55. University of Glasgow, Class Catalogue Session 1868-69, Robert Maclehose & Co., Glasgow, 1868, p.17, p.19.

University of Glasgow, Class Catalogue Session 1869-70, ibid., 1869, p.17, p.22. University of Glasgow, Class Catalogue

Session 1870-71, ibid., 1870, pp. 6, 13, 23. University of Glasgow, Class Catalogue Session 1871-72, ibid., 1871, p.8, p.11,

p.18, p.41. University of Glasgow, Class Catalogue Session 1872-73, ibid., 1872, p.14, p.16, p.23. These documents are

housed in the University of Glasgow Archives.

56. The Glasgow University Calendar for the Year 1869-70, James Maclehose, Glasgow, 1870, pp.135-137. The Glasgow

University Calendar for the Year 1870-71, 1871, p.142. The Glasgow University Calendar for the Year 1871-72, 1872,

p.152. The Glasgow University Calendar for the Year 1872-73, 1873, p.155, p.168. The Glasgow University Calendar for

the Year 1873-74, 1874, p.165. The title of the paper for which Dyer earned the Watt Prize is “The Influence of the

Newtonian Principles on the Progress of Science during the Eighteenth Century.” These documents are housed in the

University of Glasgow Archives. The first-in-class distinction in the table is chosen by fellow students taking the same

class.

57. The Glasgow University Calendar for the Year 1872-73, ibid., Appendix 1. Dyer, H., “John Elder” Chair of Naval

Architecture and Marine Engineering, Glasgow Univeraity, 1886, op. cit., p.6.

58. Dyer, H., Selections from Testimonials Presented by Henry Dyer, C. E., On the Occasion of His Appointment as

Principal of the Imperial College of Engineering, Tokio, Japan, February, 1873, op. cit. The documents on file are as

follows, in order: The pamphlet is reproduced in Miyoshi, N., Dyer no Nippon (Dyer’s Japan), op. cit., among other

sources.

 ・List of Degrees and Special Prizes.

 ・University of Glasgow, Certificate of Proficiency in Engineering Science.

 ・University of Glasgow, Class of Civil Engineering and Mechanics, Certificate of Attendance, Session 1869-70.

 ・University of Glasgow, Class of Civil Engineering and Mechanics, Certificate of Attendance, Session 1870-71.

 ・Testimonials.

 An obituary in The Glasgow Herald (26 September 1918, p.4) states that “He passed through the Arts curriculum

with distinction, his name appearing in the prize-list twelve times.” Dyer, H., “John Elder” Chair of Naval Architecture

and Marine Engineering, Glasgow University, 1886 as well lists Dyer and other receivers of awards (pp. 5-6). The

notation, however, differs from that of the Glasgow University Calendar.

59. Dyer, H., ibid., pp. 4-5.

60. Dyer, H., Selections from Testimonials Presented by Henry Dyer, C. E., On the Occasion of His Appointment as

Principal of the Imperial College of Engineering, Tokio, Japan, February 1873, op. cit. pp.12-13.

61. Miyoshi, N., Dyer no Nihon, op. cit., pp.91-93, and others.

62. Miyoshi, N., Zōho Nihon Kōgyō Kyōiku Seiritsu-shi no Kenkyu ― Kindai Nihon no Kōgyō-ka to Kyōiku (A History of

Industrial Education in Modern Japan: Industrialization and Education in Modern Japan, Expanded ), op. cit., pp. 289-

290.

63. The present paper overlaps to a considerable degree with Katoh, S., “Kōbu-Dai-Gakko Oyatoi Scotland-jin Kyōshi

Henry Dyer - “Doryoku Risshin” no Syōgai (Henry Dyer, Scottish Teacher at the Imperial University of Engineering,

Tokyo (Kōbu-Dai-Gakkō)―His Life toward Self-actualization),” Bulletin of Nagoya University Archives, Vol. 13 (March

2005), pp. 1-31, but is in fact revised and expanded version of that article.

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75

日本の高校生を対象としたいじめの研究動向についての一考察

1.はじめにいじめの問題は学校教育において見過ごす

ことができない重要な問題である。文部科学

省では、いじめの認知(発見)件数に関する

調査を毎年実施しているが、最近の報告とし

て、平成26年度に実施された児童生徒の問題

行動等生徒指導上の諸問題に関する調査の結

果(1)によると、いじめの認知(発見)件数

は小学校において12万2721件、中学校におい

て5万2969件、高等学校において 1 万1404件、

特別支援学校において963件であった。また、

全体の件数については、前年度(平成25年度)

よりも増加しており、いじめの認知件数につ

いては小学校が最も多く、次いで中学校、高

等学校、特別支援学校の順で少なかった。

上記のいじめの認知(発見)件数に関する

調査を踏まえ、いじめとは何か、という問い

や、いじめの問題に対する対応について検討

することが必要とされよう。そこで、いじめ

とは何か、という問いについて検討する場合

において、いじめの定義について理解するこ

とが重要である。現在、いじめの定義に関し

ては様々な見解が挙げられる。文部科学省(2)

によると、いじめとは「児童生徒に対して、

当該児童生徒が在籍する学校に在籍している

等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の

児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与

える行為(インターネットを通じて行われる

ものも含む)であって、当該行為の対象となっ

た児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。

なお、起こった場所は学校の内外を問わな

い。」と定義されている。これ以外のいじめ

の定義の一例として、森田・清水(3)によると、

いじめとは「同一集団内の相互作用過程にお

いて優位に立つ一方が、意識的に、あるいは

集合的に他方に対して精神的・身体的苦痛を

与えていることである」と定義されている。

一方、いじめの問題に対する対応のあり方

に関して多様な観点に基づき検討することが

重要とされている。例えば、いじめる側やい

じめられる側の言動に対する心理的理解、い

じめに対する指導の態勢づくりのあり方等に

ついて検討することが求められよう。また、

いじめの問題に対する具体的な取り組みの一

例として、ソーシャルスキルトレーニングや

感情を統御することを目的としたプログラム

等の有用性について示唆されている(4)。

以上のように、いじめの定義についての理

解、そしていじめの問題への対応について検

討されつつ、小中学生を対象としたいじめの

研究がこれまでに数多く報告されている。例

えば、森田ら(5)は、小学 5 年生から中学 3

年生と保護者、教師を調査対象とし、いじめ

を受けている子どもやいじめを行っている子

どもの現状や、いじめに対する教師の対応の

現状等について検討した。また、下田(6)は、

小中学生を対象としたいじめに関する心理学

研究を収集し、その研究の動向について考察

日本の高校生を対象としたいじめの研究動向についての一考察

鎌倉 利光(文学部 准教授)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

した。その一方、小中学生を対象としたいじ

めの研究数と比較すると、高校生を調査対象

としたいじめの研究数は少ない状況である。

この理由の一つとして、先述の調査(1)にお

いて報告されているように、高等学校のいじ

めの認知件数が少ないことが考えられる。し

かし、小中学校と比較して、高等学校におけ

るいじめの認知件数は少ないとはいえ、高等

学校においてもいじめが生じているという現

状は無視できない。このことから、高等学校

におけるいじめの諸相について考察すること

が重要である。そこで、本稿では高校生を対

象としたいじめの研究動向について概観し、

高校生におけるいじめの諸相に関して考察し

ていきたい。

2.高校生におけるいじめの被害経験、加害経験の割合を調査した研究概要

先に述べたように、文部科学省によるいじ

めの認知件数に関する調査において(1)、高

等学校におけるいじめの認知件数が報告され

ているが、次に、文部科学省の調査以外の高

校生におけるいじめを受けた(被害)経験や

いじめ加害経験の割合について報告した調査

研究例について、以下に述べていきたい。

安藤・朝倉・中山(7)は、2001年に高校生

を対象とし、問題行動や信頼感に関する質問

紙を用いた調査を実施した。この研究では、

女子、男子のいじめを受けた経験、部活にお

いていじめを受けた経験数等について調査を

行った結果、女子の場合、いじめを受けた経

験があると回答した者が17人(全体の割合

3.6%)、部活においていじめを受けた経験が

あると回答した者が 9 人(全体の割合1.9%)

となり、男子の場合、いじめを受けた経験が

あると回答した者が24人(全体の割合5.5%)、

部活においていじめを受けた経験があると回

答した者が 9 人(全体の割合2.0%)であった。

また、三島(8)は、2007年に実業高校在籍の

高校生を対象とし、学級全体からのいじめを

受けたと感じた(「ときどき感じた」、あるい

は「感じた」と回答した者)経験数、親しい

友人からいじめを受けたと感じた(「ときど

き感じた」、あるいは「感じた」と回答した者)

経験数等について調査を行った。その結果、

女子の場合、学級全体からのいじめを「とき

どき感じた」、あるいは「感じた」と回答し

た者が328名中10人、親しい友人からいじめ

を「ときどき感じた」、あるいは「感じた」

と回答した者が328名中18人、学級全体から

のいじめと親しい友人からいじめの双方を

「ときどき感じた」、あるいは「感じた」と回

答した者が328名中 7 人であった。一方、男

子の場合では、学級全体からのいじめを「と

きどき感じた」、あるいは「感じた」と回答し

た者が215名中 6 人、親しい友人からいじめ

を「ときどき感じた」、あるいは「感じた」と

回答した者が215名中 8 人であった。また、

西田(9)は、2008年11月から2009年 3 月にか

けて、中学生と高校生を対象とし、いじめ被

害体験、加害体験の割合、これらの体験と家

庭関連要因との関連性等について検討した。

その結果、高校生男子において「いじめ被害

体験のみ」が3.1%、「いじめ加害体験のみ」

が5.9%、「いじめ被害・加害体験ともにあり」

が1.6% を示し、高校生女子において「いじ

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77

日本の高校生を対象としたいじめの研究動向についての一考察

め被害体験のみ」が3.2%、「いじめ加害体験

のみ」が2.2%、「いじめ被害・加害体験とも

にあり」が0.7% を示した。

以上の研究結果について概観すると、高校

生活においていじめを受けた経験があると回

答した高校生の割合はかなり低いと考えられ

るが、それでも高等学校においていじめが存

在しているという現状は無視できないといえ

る。その一方で、立場の違いによりいじめに

対する認識が異なる可能性が指摘されてい

る。この可能性に関連した研究として、安藤・

朝倉・小林(10)の研究が挙げられる。安藤ら(10)

は、高校生、養護教諭、母親を調査対象とし、

上記の三者におけるいじめに対する認識の評

価等について比較した。主な結果として、高

校生の女子は男子よりも、いじめに関する具

体的な行動(仲間からの排除、嘲笑等)に対

して、いじめであると認識する傾向が有意に

高いことが明らかにされた。また、高校生、

養護教諭、母親との間において、いじめの当

事者的、第三者的立場に基づき何をいじめと

みなすか、といったいじめの捉え方が異なっ

ていることを示した。以上の結果を踏まえ、

安藤ら(10)は、何をいじめとみなすか、といっ

たいじめの捉え方に関する問題に対して、高

校生、教師、親の同意を得るための努力が必

要であることを示唆している。以上の知見か

ら、いじめの経験の有無等に対して回答する

調査を実施する場合、回答者の個人差及び回

答者間(生徒、教師、保護者等)におけるい

じめの認識の相違について留意することが重

要であると考えられる。

3.高校生におけるいじめの被害経験、加害経験に関連する要因

次に、高校生を対象とした調査研究におい

て、いじめの被害経験や加害経験に関連する

要因について検討した研究例について概観し

たい。

(1)いじめの被害経験と健康保持及びスト

レスへの対応能力(Sense of Coherence)

戸ヶ里ら(11)は、高校生を対象とした追跡

調査を用いて、健康保持及びストレスへの対

応 能 力 を 表 す Sense of Coherence(SOC)

と小学校、中学校、高校時代の経験(例えば、

部活動の経験やいじめられた経験等)や分か

り合える友人の数等との関連性について検討

した。主な結果として、小学校時代にいじめ

られた経験がないと回答した高校生群の

SOC は、調査期間を通じて高い値を維持し

ていることが明らかにされた。また、SOC

が調査期間を通じて低い値を示した高校生群

は、小学生や中学生の時期にいじめられた経

験があり、友人関係がうまく構築されておら

ず、そして高校生の時期においても学業や友

人関係等に関して成功した経験が得られてい

ないことが示された。ただし、上記の結果を

解釈する場合、小中学校時代の経験に関する

要因(いじめの経験等)については、調査対

象者である高校生の回顧による方法を用いて

いることに対して留意する必要があると考え

られる。

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

(2)いじめの加害経験、被害経験と仮想的

有能感

松本・山本・速水(12)は、高校生における

いじめの被害経験、加害経験と仮想的有能感

(自己の直接的なポジティブ経験に関係なく、

他者の能力を批判的に評価・軽視する傾向に

付随して習慣的に生じる有能さの感覚)との

関連性について主に検討した。その分析結果

の一つとして、仮想的有能感の高い仮想型と

全能型においては、いじめ加害経験や被害経

験が多かった一方、仮想的有能感の低い萎縮

型と自尊型においては、いじめ加害経験や被

害経験が少ないことが明らかにされた。以上

の結果から、いじめの加害経験や被害経験と

仮想的有能感のタイプとの間に有意な関連性

がある可能性が考えられる。

(3)いじめの被害に対する感じ方と友人関

係指向性、学級適応感

三島(8)は、学級全体からのいじめや親し

い友人からのいじめの被害に対する感じ方と

友人関係指向性、学級適応感との関連性につ

いて主に検討した。その結果の一つとして、

学級全体からのいじめの被害を強く感じてい

る高校生ほど、親しい友人に対する不安や気

がかりを強く感じていることや学級適応感が

低いことが明らかにされた。また、親しい友

人からのいじめの被害を強く感じている高校

生ほど、自分の存在や行動が級友や教師から

承認されているという感覚が弱いことが明ら

かにされた。

(4)いじめの被害体験、加害体験と家庭関

連要因

西田(9)による高校生を対象とした調査で

は、いじめ被害体験と有意な関連性がみられ

た要因として、父母の同居、最も年齢の近い

同胞との年齢差、同居している大人からの暴

力体験であることが明らかにされた。そこで、

片親と同居している生徒群や両親とも同居し

ていない生徒群よりも、両親と同居している

生徒群のほうがいじめの被害のリスクが低い

ことや、同胞のいない生徒の群よりも 1 ~

3 歳差の同胞がいる生徒の群のほうがいじめ

被害のリスクが低いことが示された。また、

いじめ加害体験と同居中のおとなからの暴力

との間に有意な関連性がみられた一方、いじ

め加害体験と両親との同居や最も年齢の近い

同胞との年齢差との間においては有意な関連

性はみられなかった。上述したいじめ加害体

験と同居中のおとなからの暴力との間に有意

な関連性がみられた、という結果について考

察すると、いじめの加害体験がある生徒は、

家庭内においておとなからの暴力を受ける被

害者となっている可能性が考えられる。

(5)小学校高学年に親しい友人から受けた

いじめの経験の影響

三島(13)は、高校生を対象とし、小学校高

学年の時期における親しい友人から受けたい

じめが現在(高校生)の時期における友人関

係や高校生活に対する適応感に与える影響に

ついて主に検討した。その結果の一つとして、

小学校高学年の時期において親しい友人から

のいじめを受けた高校生群は、小学校高学年

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日本の高校生を対象としたいじめの研究動向についての一考察

の時期において親しい友人からのいじめを受

けていなかった高校生群よりも、現在(高校

生)の時期において学校に対する不適応感を

強く抱いていることや、友人に対しても不安

や懸念を強く感じていることが明らかにされ

た。ただし、以上の結果に関する解釈する場

合、上記の研究において高校生が過去の小学

校高学年の時期の回顧による調査を実施して

いることに関して留意する必要がある。

4.高校生を対象にインターネットによるいじめについて調査した研究概要

先に述べたように、文部科学省によるいじ

めの定義(2)では、いじめに相当する心身の

苦痛を与える行為として、インターネットを

通じて行われるものが含まれている。また、

近年では、スマートフォンの普及により、多

くの子どもがインターネットに接している機

会が多いと思われる。このような傾向に伴い、

インターネットの普及に伴い、インターネッ

トを通じたいじめの問題が生じている可能性

が考えられる。以上の観点を踏まえ、高校生

におけるインターネットによるいじめの問題

に関して検討した研究例について、次に概観

したい。

原田(14)は、高校生を調査対象とし、パソ

コンと携帯電話を用いたインターネットの使

用、伝統的いじめとインターネットによるい

じめの併存、インターネット上のいじめの傍

観者の経験、インターネットによるいじめに

対する支援のニーズ等について検討した。分

析の結果、ほとんどの高校生は、メールやブ

ログといったインターネットを利用した経験

を有していた。また、インターネットによる

いじめを見たことがある(傍観者)は、調査

対象者全体の 7 %程度であり、その内容は、

悪口、誹謗・中傷、インターネットによるい

じめと伝統的いじめの併存、インターネット

の荒しであった。また、インターネットによ

るいじめに対して学校で受けたい支援に関し

ては、半数以上の調査対象者が教師からの支

援や学校におけるネットいじめに関する教育

の実施を望んでいることが明らかにされた。

原田(15)は、高校 1 年生を対象とし、いじ

めの予防を目的としたソーシャルスキルト

レーニングによるプログラムの効果について

主に検討した。分析の結果、一部の尺度(ソー

シャルスキルの下位尺度である解読、主張性、

感情統制)の統計学的に有意な効果が得られ

た一方、ソーシャルスキルの他の下位尺度、

自尊心、共感的感情反応に関する尺度につい

ては有意な効果は得られなかった。この結果

を踏まえ、共感性の向上やネットいじめ予防

を焦点にあてたプログラムの開発や工夫が今

後必要であると示唆された。

また、インターネットにおけるいじめの被

害に関連する要因について検討されている。

青山(16)は、高校生と大学生を対象とし、イ

ンターネット上のいじめとインターメット依

存、携帯電話依存、ひきこもり親和性との関

連性について主に検討しており、その結果の

一つとして、インターネット上のいじめの被

害経験の度合いとひきこもり親和性、イン

ターメットや携帯電話への依存傾向との間に

おいて有意な正の相関があることを明らかに

した。また、藤・吉田(17)は、インターネッ

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80

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

ト上のいじめの被害経験を受けたことがある

人(高校生、予備校生、大学生、短大生、専

門学校生、大学院生)を調査対象とし、イン

ターネット上のいじめ被害により高まったい

じめ被害の脅威認知が無力感を経て、イン

ターネット上のいじめ被害時における相談行

動を抑制することを明らかにした。ただし、

以上の研究(16,17)においては高校生だけを分

析対象とした統計学的検定を行っていないこ

とから、上記の研究結果(16,17)について、高

校生にみられる一般的な傾向として捉えるこ

とに関して留意する必要がある。

5.おわりに最後に、本稿の内容を総括しながら、今後

の検討課題について以下に述べておきたい。

高校生におけるいじめの件数やいじめられた

経験の割合に関して概観すると、その件数や

割合は小中学校と比較してかなり低いことが

示されている。このように高校生のいじめの

件数等はそれほど多くないとはいえ、いじめ

に対して傍観するのではなく、いじめをやめ

るように仲裁する、といった高校生の行動意

識が高まるように指導することは学校教育に

おいて重要である。このことから、例えば、

高校生がいじめを見聞したときに、傍観者的

態度をとったのか、あるいは、いじめの被害

者を援助したのか、といった問いについて検

討することが必要とされよう。ただし、先述

したように、高校生のいじめの件数はそれほ

ど多くないことから、高校生がいじめを見聞

した経験率が非常に少ないと考えられる。こ

のことに関して留意しつつ、今後は、多面的

な観点により、高校生を対象としたいじめの

調査研究を行うことが求められよう。

次に、本稿では、高校生におけるいじめの

被害経験、加害経験に関連する要因やイン

ターネットに関するいじめの問題を検討した

これまでの諸研究について概観した。以上の

先行研究の諸知見が高等学校におけるいじめ

の問題に関する指導を行う場合において活用

されることが望まれよう。また、上記の研究

の諸知見を含めたいじめの問題に関して、教

育関係者のなかで議論していくことも求めら

れよう。この一例として、教職員向けのいじ

めの研修会のなかで、専門家による講座や

ワークセッション等を実施することが挙げら

れる。このような研修会のあり方に関して、

新井(18)は、いじめに対する認識を深めるこ

と、いじめに気づく感性を高めること、いじ

めに対する効果的な取り組みの振り返りと新

たな取り組みを案出すること、組織的な体制

づくりと対応の実際に関する事例研究、学校

危機を想定したシミュレーション等によって

構成されている研修会を通じて、教育関係者

がいじめへの対応に関する共通理解を得るこ

とができると指摘している。

以上に述べてきた検討すべきいくつかの課

題が残されていることを踏まえ、高校生を調

査対象としたいじめに関する先行研究の諸知

見がいじめの問題への対応や予防のあり方を

検討する際において活用されることを期待し

たい。

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81

日本の高校生を対象としたいじめの研究動向についての一考察

引用文献( 1 ) 文部科学省 平成26年度「児童生徒の問題行動等生徒

指導上の諸問題に関する調査」における「いじめ」

に関する調査等結果について 文部科学省初等中等

教育局児童生徒課

( 2 ) 文部科学省 平成25年度「児童生徒の問題行動等生

徒指導上の諸問題に関する調査」等の概要

( 3 ) 森田洋司・清水賢二 1986 いじめ -教室の病い-  

金子書房

( 4 ) 松尾直博 2002 学校における暴力・いじめ防止プロ

グラムの動向  -学校・学級単位での取り組み- 

教育心理学研究、50 ( 4 )、487-499。

( 5 ) 森田洋司・滝充・秦政春・星野周弘・若井彌一(編)

1999 日本のいじめ -予防・対応に生かすデータ集

- 金子書房

( 6 ) 下田芳幸 2014 日本の小中学生を対象としたいじめ

に関する心理学的研究の動向 富山大学人間発達科

学研究実践総合センター紀要  教育実践研究、 8 、

23-37。

( 7 ) 安藤美華代・朝倉隆司・小林優子 2004 高校生の問

題行動と対人関係における信頼感の関連  学校保健

研究、46、44-58。

( 8 ) 三島浩路 2009 高校生にみられる「いじめ」行動と

「いじめ」に関連する要因 現代教育学部紀要、 1 、

119-128。

( 9 ) 西田淳志 2010 思春期・青年期の「いじめ」に影響

を与える家庭関連要因の検討 発達研究、24、147-157。

(10) 安藤美華代・朝倉隆司・小林優子 2003 高校生の「い

じめ」の認識に関する研究-高校生・養護教諭・母

親間の比較検討- 学校保健研究、44 ( 6 )、508-

520。

(11) 戸ケ里泰典・ 小手森麗香・山崎喜比古・佐藤みほ・

米倉佑貴・熊田奈緒子・榊原(関)圭子 2009 高校

生における Sense of Coherence (SOC) の関連要因の

検討 -小・中・高の学校生活各側面の回顧的評価

と SOC の10 ヶ月間の変化パターンとの関連性- 日

本健康教育学会誌、17 ( 2 )、71-86。

(12) 松本麻友子・山本将士・速水敏彦 2009 高校生にお

ける仮想的有能感といじめとの関連 教育心理学研

究、57 ( 4 )、432-441。

(13) 三島浩路 2008 小学校高学年で親しい友人から「い

じめ」の長期的影響 -高校生を対象にした調査結

果- 実験社会心理学研究、47 ( 2 )、91-104。

(14) 原田恵理子 2013 高校生におけるネットいじめの実

態 東京情報大学研究論集、17 ( 1 )、9-18。

(15) 原田恵理子 2014 学年全体を対象としたソーシャル

スキルトレーニングの効果の検討 東京情報大学研

究論集、17 ( 2 )、1-11。

(16) 青山郁子 2014 高校生・大学生におけるインター

ネット・携帯電話依存、ネットいじめ経験とひきこ

もり親和性の関連 教育研究、56、43-49。

(17) 藤桂・吉田富二雄 2014 ネットいじめ被害者におけ

る相談行動の抑制 -脅威認知の観点から- 教育心

理学研究、62 ( 1 )、50-63。

(18) 新井肇 2013 危機感を教職員間で共有する -予防

策としての「いじめ問題研修会」 児童心理 8 月号、

125-129。

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83

過渡期にある世界の教員養成

はじめに教員養成(ITE: Initial Teacher Education)

は大学教育がふさわしいのか、それとも教育

現場中心の徒弟的訓練(apprenticeship)で

行うのがふさわしいのかという、古くて新し

い議論がある(Furlong, 1988. Child, 2013. 佐

藤,2008)。近年、この議論は政府の教員養

成政策をめぐって再燃している(加藤,

2016、イギリスの事例参照)。それらを概観

すると、世界の教員養成動向は三つの政策議

論に分けられるだろう。

1 ) 大学学部から学卒後(post-graduate)

での養成に昇格。

2 ) 大学での養成から学校現場中心での養成

(school-based)への移行。

3 ) 教員養成者(teacher educators)の職

業的アイデンティティと資質の定義。

いいかえれば、教員養成とは、どのレベル

で、どの場所で、そして、誰によって、どの

ようなカリキュラムで行われるべきかという

問題である。

たとえば、イギリスでは、大学における教員

養成を縮小し、現場での養成に移行させようと

する過激な政策が実行され、大学教育学部の

危機が取りざたされている(加藤,前掲)。 一方、

すでに修士レベルに昇格しているフィンラン

ドや学部と学卒レベルが混在するアメリカに

倣って、我が国でもかつての民主党政権下で

修士化案が浮上したが、政争の中に消えて

いった。一方、教員養成学部スタッフは、研

究者と実践的訓練者との間で自らの職業的ア

イ デ ン テ ィ テ ィ の 危 機 に 陥 っ て い る

(Murray. & Kosnik., 2011. Ellis et al, 2013)。

つまり、世界の教員養成政策動向は、一定

の方向に収れんすることなく、むしろ、政治

イデオロギーとして利用される言説とアカデ

ミズムによる反証の乱立状態にあるといって

よいだろう。

そこで、本論では、時に政治的になりがち

なこの議論を原点に戻って再考してみたい。

原点に立ち返るとは、もともと教員養成が師

範学校のような職業的教育機関から大学に

移った過程に注目することである。本論が事

例として取り上げるのは、ニュージーランド

の教員養成変遷である。なぜなら、他の先進

国と異なり、ニュージーランドの教員養成が

大学教育に移行したのは、最終的には2006年

のことであり、それまでは、教員養成カレッ

ジにおける 2 年または 3 年の養成で教員を輩

出してきたからである。したがって、大学に

おける教員養成は、現在もまだ、アカデミッ

クな研究中心カリキュラムと教育実習を中心

とする教科教育とが完全に統合されていな

い。いわば、この原初的な形態を見ることに

よって、共通の問題を抱える我が国の教員養

成改革に何らかの示唆が得られるのではない

だろうか。そこに本論の目標を設定してみた

い。

過渡期にある世界の教員養成-ニュージーランドにおける教員養成制度変遷を事例に-

加藤  潤(文学部・教授)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

第1章 戦前教員養成システムの歴史的変遷第1節 入植初期から国家的教員養成の構築

へ-1877年教育法成立まで

ニュージーランドは現在でも人口約480万

人の小国である。そもそも18世紀、イギリス

を始めとするヨーロッパ諸国からの入植が始

まったニュージーランドは、19世紀なかばま

ではどこの国の植民地でもない、政府不在の

状態だった。したがって、イギリス、フラン

ス、ロシア、中国からは商業目的の入植者が

社会制度不在のまま増え続けていた。ところ

が、もともと、この地にはマオリ族(Maori)

が居住しており、部族ごとに村を形成し、そ

の長(tribe chief)が強い統率力をもって治

めていた。

この地をいち早く植民地化しようとしたイ

ギリスは、1840年、マオリ族との間で植民地

化合意のための条約(ワイタンギ条約:

Treaty of Waitangi)締結を急いだ。この条

約については、当時の総督、Hobson が性急

に部族への説明を終え、文字を持たなかった

マオリ族の入れ墨を印章としてサインさせた

という経緯があり、のちに、土地返還要求が

起き、法廷闘争となっている(Waitangi

Tribunal)。また、当時、イギリスへの不信

感ゆえにサインを拒んだ部族もいたため、こ

の植民地化はニュージーランド社会の汚点と

なり、現在に至るまで葛藤が続いている。

当時の教育実態に目を移すと、1840年当時、

すでに学校教育は地方行政下で行われてお

り、そこでの教員の需要もあった。しかしな

がら、全国を統括する中央教育官庁はなく、

地方(province)自治制の下での教員養成が

存在していたにすぎない。一方、先住民であ

るマオリ族への教育は1867年の先住民教育法

(Native Schools Act)の下に植民地政府が

進めることになったが、同年、貧困犯罪者子

供法(Neglected and Criminal Children

Act)という耳慣れない法律も成立している。

そこから見えるのは、49年から起きたゴール

ドラッシュの陰で、荒廃し貧困化したマオリ

族の子供たちを白人社会に同化させようとす

る国家の意図である。それと平行して、入植

当初から続いていた宣教師(missionary)に

よるマオリ教育も残っていた。ここでは、マ

オリ族の子供をキリスト教に改宗させるのが

唯一の目的だった。

1870年代に入ると、裕福な地方の反対を押

し切る形で、地方自治制(province)が順次

廃止されていった(1875年)。その直後、

1877年に教育法(The Education Act)が出

され、教育省(Department of Education)

が統括機関となった。これによって初めて国

家教育制度が施行されたといえる。ただ、ま

だ地方自治が強く残り、全国 6 つの地域では、

カリキュラムも教員資格基準もばらばらの状

態だった。地域は互いに優秀な教員を引き抜

くという、いわば競合関係にあったという

(Openshaw & Ball, 2006. p. 103.)。

すくなくとも、国家教育法を機に、学校教

育と宗教教育が未分化な時代から、新しく国

民形成教育へと踏み出したことは間違いな

い。つまり、地方(province)への帰属意識

の強かった市民にナショナルアイデンティ

ティを内面化する手段として学校教育が位置

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85

過渡期にある世界の教員養成

付けられたのである。したがって、同法では、

初等教育(primary education)を、 1 )無

償(free)、 2 )普遍(universal)、 3 )義務

(compulsory)とした。さらに、同法では政

府によって教員養成が提供されることが規定

され、翌1878年、政府によって「教員資格と

教員養成に関する基準」が設けられている

(Stephenson, 2009. p. 8.)。

第2節 教員養成カレッジの拡大-1877年

~1974年

19世紀前半までの教員養成といえば、初等

教員のほとんどが、本国のイギリスとほぼ同

じように、学校現場で見習い教員(pupil-

teacher)として訓練されていたにすぎなかっ

た。その後、国家教育法成立から1881年まで

の 5 年間で 4 つの教員カレッジ(Training

Colleges)が各地に設立された(Dunedin,

1876. Christchurch, 1877. Wellington, 1880.

Auckland, 1881. )。初期の教員養成機関には、

training college, teachers training college と

いった呼び名があったが、のちに teachers

college、さらに、college of education に変

わっていく。

教員カレッジは、教員養成実習校(normal

schools)と呼ばれる現場初等教育機関で実

習しながらの養成である。これがそれ以降百

年間近く続くニュージーランドの教員養成の

プロトタイプとなっていく。並存していた見

習い教師制度は、地方教育庁(education

board)が有給雇用する形でなされていたが、

安い給与での労働搾取だという批判に晒され

た。にもかかわらず、この方式は最終的には

1930年代まで存続していた(McLean, 2009. p.

58.)。

初等教員に比して、中等教員の養成はあい

まいなものだった。大学学部を卒業した学生

が、何の資格もなしに中等教員になるという

状態がかなり長く続いていた。1911年になっ

てやっと、学部卒業後一年の教員養成コース

が始まったに過ぎない。先に触れた教員カ

レッジに中等教員コースがすべて配備される

のは1960年代になってからのことだった。

こうした状況がもたらした問題を指摘して

おけば、19世紀末から60年以上続いた地方の

有給見習い教員制度と国家による教員カレッ

ジ制度が並立し、それが教員養成の専門職化

を遅らせた点にあるといえよう。そこでは、

教職はあくまで職人(trade)か、せいぜい

準 専 門 職 と み な さ れ て い た の で あ る

(Openshaw & Ball, 2006. p.105. )。

遅れていた教員養成カリキュラムの標準化

と教師の地位改善に必要な政策は、地方によ

る養成を廃止し中央集権化することだった。

この作業が始まるのは20世紀初頭である。

1903年から、政府視学官の George Hogben

を中心に教員養成改革が始まる。改革の結果

は1905年に政策化され、これがその後50年に

わたって、ニュージーランドの教員養成の大

枠となった。改革の骨子は、以下の点にある。

1 ) 教員カレッジ政策を文部省(Department

of Education)に集権化する。

2 ) 教員カレッジは 2 年制とし、現場教育と

大学でのパートタイム学習で補完する。

3 ) 4 年間で行われていた見習い教員制度を

2 年に短縮し、その後、教員カレッジ、

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

大学に進学するルートを開く。

Hogben の改革の意図は教員養成の高度

化、ひいては教職の専門職化だったが、実際

には、大学で提供される理論科目と教員カ

レッジでの授業実践科目とは乖離したまま

だ っ た(Openshaw & Ball, 2006. p.

107.)。

1920年代、政府は教員の質向上のために教

員カレッジの改革に乗り出した。具体的には

教員カレッジに人件費予算と教員資格授与権

を与え、大学の助力なしの独自養成をめざし

た。だが、これも理論と実践が中途半端に教

えられるカリキュラムに終わってしまい、実

質的な転機が訪れるのは、戦後になってから

となる。

ただ、戦後改革の布石として戦前に注目す

べき動きが二つあった。ひとつは、教員養成

の長期化と専門職化に向けて教員組合団体が

提言を出していた点、もうひとつは、44年の

教育会議に基づいた政府報告書(Mason

Report)がそれに触れていた点である。44

年 の 教 員 組 合 提 案 は 教 員 養 成 審 議 会

(Consultative Committee on Teacher

Training)に提出されたが、その中では、教

員養成と教員資格授与に大学(University)

が責任を持つべきだとうたわれている

(Mclean, 2009. p. 60. )。 ま た、Mason

Report は、「現代の初等教育ニーズに対応す

るためは、 2 年の教員カレッジ教育と1年の

試雇用期間だけでは不十分だ」といっている

(Openshaw & Ball, 2006. p. 108.)。

ところが、実際には、このどちらも実現せ

ず、ニュージーランドの教員養成が教員カ

レッジから大学に昇格する時期は大幅に遅れ

ることになる。

第2章 教員養成の大学教育化までの道のり第1節 人口急増への対応と遅れる大学昇格

化 -戦後から1960年代まで

戦前の時点で、教育関係者の認識が教員養

成の大学昇格で一致していたにもかかわら

ず、その後、さらにこの実現を遅らせる状況

が生まれていた。それが、戦後のベビーブー

マーである。生徒急増対策として、一年制の

教員養成コースが設けられ、臨時の教員カ

レッジが新設された。これらは高度成長期の

日本で、工業系大学に一年制の理科教員養成

所が設けられたのと同じである。伝統的な教

員養成カレッジは後に大学と統合されるが、

この時期の増設カレッジは短命で終わってい

る。たとえば、終戦直後、オークランド郊外

に作られた Ardmore Teachers’ College は、

48年に開設し約8500人の教員を輩出したが、

74年にその役割を終えて閉校している。

こうした社会状況の中でも、教員養成を大

学に昇格させるべきか否かの議論は、政府教

育審議会で常に議論されていた。ただ、いく

つかの審議会の勧告は、大学のアカデミズム

での理論的教育と教員カレッジでの実践的訓

練との間で揺れていた。たとえば、1951年、

政府審議会(consultative committee)では、

戦前から出されていた大学での教員養成拡大

は否定され、教員カレッジが初等・中等の教

員養成を担当すべきだとされた。続く、1956

年(Pary Report)、1961年(Currie Report)

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過渡期にある世界の教員養成

では、逆に、大学と教員カレッジの統合が勧

告されている。ところが、教員カレッジをコ

ントロールする地方自治体と大学を管轄する

国の双方は、いずれも統合によって権限を失

うことに難色をしめした。これが、ニュージー

ランドで教員養成が大学化される時期を、他

国に比べてはるかに遅くした遠因であること

は間違いない。

一方で、先の Currie Report は、教員カレッ

ジの地位を大学と同等だと定義したうえで、

統合によって大学が教員養成により大きな責

任を負う必要があると勧告している。この

Currie Report が、政府の教員養成政策とし

て正式に採用され、政府教員養成審議会

(National Advisory Council on the Training

of Teachers)が具体策を出していった。お

りしも、ベビーブーマーの急増が一段落し、

本格的な教員養成改革に乗り出す素地も生ま

れていた。

1960年代後半から始まる教員養成改革の内

容は、以下の二つに集約できるだろう。

1 ) 教員カレッジでの養成をすべて3年制課

程にする。

2 ) 教員養成カリキュラムに、よりアカデミッ

クな科目を導入する。

当時、教員カレッジの施設設備は貧弱なも

のだったし、スタッフのほとんどが現場教員

経験しかもたないことから、科目内容は教科

教育法の域を出なかった。特に急増期には、

たとえば、ウエリントンの教員カレッジでは

設備不足から、学生が通信教育で授業を受け

な け れ ば な ら な か っ た ほ ど だ っ た

(Openshaw & Ball, 2006. p. 110.)。

先の政府方針を受けて、1969年、Dunedin

の教員カレッジが初めて 3 年制の教員養成課

程の実践報告を公表した。だが、皮肉にも、

報告の内容は教員養成の長期化に否定的なも

のだった。報告では、イギリスでの研究報告

も引用しながら、多くの校長が一年プラスし

ても教員養成の質はそれほど変化していない

と考えていると結論づけている。つまり、戦

前戦後を通じて出されていた教員カレッジと

大学の統合は、カレッジ自体がその価値を見

いだせないまま70年代以降に持ち越されるこ

とになったのである。

第2節 進まない教員カレッジと大学教育の

統合-1970年代以前

1960年代、教員カレッジと大学の統合は実

現しなかったが、実態としては両者の相互乗

り入れは徐々に進んでいた。具体的には、1 )

教員カレッジに在籍しながら、大学の科目履

修生となる学生数、または、 2 )大学に在籍

しながら教員カレッジの履修生となって教員

資格(特に中等教員)取得を目指す学生数は

かなり多くなっていた。たとえば、1964年時

点でいえば、全国 9 つの教員カレッジに在籍

する学生総数は4691人(うち、初等:3970人、

中等:721人)だったが、これとは別に、

1739人の学生が大学に在籍しながら教員カ

レッジでおもに中等教員資格取得を目指して

いた(Pollock, 1990)。にもかかわらず統合

が進まなかったのは、教員カレッジの運営主

体が複雑だったことが原因だと考えられる。

その複雑性とは以下のような二重行政に起因

していた。

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

1 )6 0年代、運営主体は地方教育委員会

(board of education) か ら 理 事 会

(college council)に移され、スタッ

フ採用、カリキュラム開発は自律的

にできるようになっていった。

2 ) カレッジの組織的政策、学生のリクルー

トと選抜、定員は文部省(Department

of Education)が握っており、背後に

は財務省による安価な教員養成への圧

力もあった。

いわば、地方自治体、教員カレッジ、文部

省(大学管轄)がみつどもえになり、足並が

そろわなかったのが戦後教員養成の実態だっ

たのである。それでも、70年代後半までには、

大学と教員カレッジは学位プログラムを共有

し、部分的に相互乗り入れが可能になって

いった。同時に、60年代以降、英語(母国語)

と教育学の科目を大学で受けることが教員資

格で要求されるようになったことから、両者

は共有プログラムを少しずつ増やしていった

のだった。

教員カレッジと大学の統合を促進したひと

つの外圧は、教員カレッジの廃校危機だった。

先にも触れたが、ベビーブーマー対応として

増設された教員カレッジの在籍数は、ピーク

を迎える74年には7779人だったが、少子化が

定着する1985年には2703人まで減っている

(op. cit.)。その間、増設された教員カレッジ

のうち 2 校が閉校、他の二つが統合され、計

3 校が減った。少子化は90年代にいったん二

次急増期を迎えるが、その間に教員カレッジ

は新たな道を模索する必要に迫られたのだっ

た。

こうした状況の中で、70年代の後半から80

年代にかけて、教員養成改革に関する政府審

議会報告が矢継ぎ早にだされる。最初は79年

の Review of Teacher Training(通称、Hill

Report)だった。Hill Report では、大学教

育の必要性が勧告されている。しかしながら、

同時に、アカデミックな理論科目拡大によっ

て、教員カレッジで行っている実践的内容が

犠牲になることへの懸念も示されている。

Alcorn(2015)によれば、タスクフォース

メンバーの全員が教員キャリアの人材だけで

構成されていたことが、大学教育への移行を

逡巡させていたという。

続くのが、86年、Quality of Teaching(通

称、Scott Report)だが、この報告内容は、

その直後に出され、ニュージーランド教育史

上最もドラスティックな教育改革を進めた、

88年答申、Administering for Excellence(通

称、Picot Report)に吸収されているので、

ここでは Picot Report でどのような教員改

革が促進されたかを、節をあらためてみてみ

たい。

第 3節 教育の市場化改革の中で変化する

教員養成-Tomorrow’s Schools のインパ

クト

Picot Report の内容は、翌年、首相ランゲ

自身の名前で出された政策表明、Tomorrow’s

Schools の名で知られている。これが90年代

以降、この国の教育の市場化を促進させた代

名詞となっている。ここでは、もとの Picot

Report から教員養成に関する勧告を整理し

てみたい。同報告書の内容で注目すべき点は、

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過渡期にある世界の教員養成

以下の諸点だと考えられる(Department of

Education, 1988. pp. 65-67.)。

1 ) 80年代に進んでいた教員カレッジと大学

の相互乗り入れを一層促進し、教職に

職業準備と共に、高い学問と研究を提

供すべきである(professionalisation)。

2 ) マオリ族を始めとするマイノリティ教育

への配慮と多文化共生について、大学

で専門的に学ぶ必要がある(equity)。

3 ) 教育カレッジの運営を文部省から自律

的にし、予算範囲内で定員管理、入学

選抜を自由に行えるようにすること

(devolution)。

4 ) 同時に、教員カレッジを、大学の傘下で

半独立的な教育学部(semi-autonomous

schools of teacher education within

universities)とすること(amalgamation)。

ここにはじめて、大きな教育改革の流れの中で

教員養成が大学に昇格するきっかけが生まれたと

いえる。同年、もう一つの報告(Hawks Report)

が出されているが、そこではPicot Report と矛

盾する、教員カレッジと大学の統合に対する懐疑

的な見解が出された。しかしながら、89年に公布

さ れ た 教 育 法(Education Act) で は、

Tomorrow’s Schools の内容が全面的に実現し

ている。この改革の骨子は、初等中等学校を

自主経営(self-management)に任せ、地方

教育行政を廃止するという過激なものだっ

た。これが世界でも早い時期に行われた教育

のプライバタイゼーション(privatisation)

だといわれるゆえんである。文教行政のスリ

ム化と学校の自由裁量拡大をうたって始まっ

た改革だが、その後の動向は、むしろ文部省

(新たに変わった Ministry of Education)が

様々な学校基準や資格チェック機関を設置

し、新たなコントロールが生まれたともいえ

る。

教員養成についても同じことがいえる。す

なわち、教員カレッジは ERO(Educational

Review Office(後に、NZTC: New Zealand

Teachers Council)によって視察・評価され

るようになったのである。また、教員資格は

NZQA(New Zealand Qual i f i cat ions

Authority)にゆだねられた。教員カレッジは、

地方教育局を離れ自主経営に任されると、こ

れまでの馴れ合い文化から一気に競争環境に

投げ込まれ、学生募集や教員獲得で他校との

競争を余儀なくされた。Openshaw & Ball

(2006)は、これを「専門的リーダーから企

業リーダーへの変化を迫られた」と表現して

いる(op.cit, p.116.)。

教員養成カリキュラムと教員資格の基準化

については、教育の硬直化とテクニカル化を

招くとして批判されたが(Alcorn, 1999.

Openshaw & Ball, 2006)、養成内容の監査と

資格基準の厳格化はさらに進んでいった。な

ぜなら、Tomorrow’s Schools 改革が導入し

たアカウンタビリティ(accountability)の

裏付けが、指標化されたカリキュラムとパ

フォーマンス(成果)への責任だったからで

ある。当初、教員カレッジの自由度が高まる

と歓迎していた校長たちは、厳格化の一途を

たどる政府コントロールに対して、次第に疲

弊していった(Alcorn, 2015. PPTA, 2008.)。

一方、大学と教員カレッジの統合は、着実

に進んでいった。まず、教員カレッジは隣接

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

大学とジョイントの学位取得プログラムを提

供するようになった。しかし、学位授与権は

大学が握っており、そのためにカレッジが教

育実習(practicum)や時間割調整をやらな

ければいけないことには不満が残っていた。

そこで、1990年の教育法改正(amendment)

では、教員カレッジに独自の学位授与権が付

与された。1995年には、オークランド教育カ

レッジで 3 年制の教育学学士号(BEd)プロ

グラムが設置された。この間に各教員カレッ

ジは独自に名称を College of Education と変

更していた。ようやく、大学との統合の機が

熟してきたのである。

最初の統合は Massey 大学 と Waikato 大

学で90年代の初めに行われている。Waikato

大学の創立50周年史には、80年代からのジョ

イント養成が下地となって、91年という早い

時期に統合を実現させ、カレッジは大学の教

育学部(School of Education)となったこと

が 記 さ れ て い る(University of Waikato,

2010.)。各教員カレッジも NZQA に認可さ

れた学士プログラムをもち、事実上の高等教

育機関となっていった。最終的には、2006年

までにすべてのカレッジが隣接大学との合併

(amalgamation)を完了し、ここに長い歴史

をもった大学と教員カレッジの二元的教員養

成の歴史が終わった。

しかしながら、組織的に合併して誕生した

教育学部は、政府の教員養成基準強化と学問

的研究対専門職養成の葛藤の中で、今もまだ

模索状態が続いているといわざるを得ない。

そこで、この国の教員養成が現在抱える問題

点を次章で検討していきたい。

第3章 現在の教員養成を取り巻く社会環境

- theory vs practice

教員養成は現場の徒弟制で行うべきか、そ

れとも大学教育で行うべきかという議論、い

い か え れ ば、 理 論 か 実 践 か(theory or

practice)をめぐる議論は、制度的にみれば

2006年の大学教育への移行によって一つの通

過点をみたといえる。しかしながら、現実に

は、三つの課題を抱えながらの再出発であり、

それは今も続いている。

①  教員養成教員(teacher educators)の

職業アイデンティティが確立されないま

ま、アカデミズムとボケーショナリズム

が高等教育機関の中に雑居している。

②  教員養成に関するコア・カリキュラムが

なく、現場と大学との連携体制も定型化

されていない。

③  Tomorrow’s Schools 改革以降、量的指

標によって測定される業績評価(stock-

taking)が強まり、現場教員の社会的地

位低下、過剰労働が進み、教師の専門職

化が進まない状況がある。

まず、① についてみてみよう。ニュージー

ランドが教育制度の基礎とした旧宗主国イギ

リスでは、すでに大学が担当していた教員養

成が保守党政権の教育政策によって廃止され

つつある。つまり、教職の専門職性を実践面

のみで定義すれば、2010年、当時の文部大臣

の M. Gove が全国学校大会でいったように、

熟練教師(master craftman)から徒弟的

(apprenticeship)に学ぶのが最良の方法と

いうことになる(加藤,2016)。こうしたイ

ギリスでの考え方は、前章でみたように、

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過渡期にある世界の教員養成

ニュージーランドにおいても過去の審議会報

告に盛り込まれるほど根強い。

一方、教員カレッジと大学統合の結果生ま

れ た 教 員 養 成 現 場 で は、 教 育 学 研 究

(educational reseach)と教師教育(teacher

education)の間で、教育学部スタッフのア

イデンティティ再定義が行われつつある。

2006年から現在までの十年間は、教員カレッ

ジが統合された全国 8 つの大学が国際競争の

中で研究志向を強め、大学院レベルのプログ

ラムを拡大させた時期だった。この状況下で

生まれた教育学部の旧カレッジの教員たち

は、自分の職業アイデンティティを、「教師」

から「教師であり研究者」へと修正しなけれ

ばならなかった。その過程で、教員養成が現

場から離れていくのではないかという懸念を

抱えていたという(Ell, 2011.)。

この点で注目したいのは、教育学部におけ

る教員養成スタッフの職業アイデンティティ

については、すでに実証研究が出始めており、

そこでは、アカデミズム志向の強い古くから

の大学教員が実践的研究テーマを取り入れ、

一方で、実務家教員キャリアからのスタッフ

は、新たに実証的な教育実践研究成果を出す

必要性に迫られている状況が明らかにされて

いる点である(Cunn. et al, 2015. Ellis. et al,

2013.) 。

①から派生する問題が、②の大学における

養成プログラムの未確立である。現在、これ

は政府主導による基準強化によって進められ

ている。すなわち、教員養成を統括する

NZTC(New Zealand Teachers Council)が、

養成機関のプログラム内容をきめ細かくコン

トロールするようになったのである。具体的

には、視察(panel visit)を通じて、入学生

の選抜方法と質、学生の基礎学力(読み書き、

計算)、実習期間と大学教員の訪問内容と回

数等、すべてにわたっての調査と学生へのイ

ンタビューを行い、その結果に基づいて教員

養成機関としての認可(accreditation)を出

すようになった。じつは、この方式は、ニュー

ジーランドでこそ近年になって整備された質

コントロール手法だが、イギリスではすでに

1990年代から行われていた。そこでの経験と

は、教員養成機関が過酷な視察(imspection)

と学生募集に汲々とし、教育学部スタッフが

疲弊していることである(加藤,2011)。こう

した他国の経験は一切考慮されることなく、

ニュージーランドの教員養成政策は全く同じ

道を後追いしているといわざるをえない。

とはいえ、教員養成学部、教員資格組織

(NZTC)からは、教員養成プログラム開発

に関する分析が近年出始めている。たとえば、

教育実習、実習中の指導教員役割、ITC 活

用などに関する先行研究を精査した報告書が

NTZC か ら も 出 さ れ て い る(Lin. P. &

Wansbrough, 2009.)。この中では、現行のガ

イドラインで20週とされている教育実習期間

の割り振り(placements)や大学訪問教員

(university visiting tutors)の役割などにつ

いての先行研究が紹介されている。

いずれにせよ、開発途上である大学におけ

る教員養成カリキュラムの最も困難な点は、

限られた学部養成期間で、理論と実践(theory

and practice)をいかにバランスよく配置し、

即戦力として現場に送り込むかという点にあ

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

る。そのためには、アカデミズムの中で育っ

た研究スタッフと実践キャリアからのスタッ

フとの協力関係を築き上げることが先決だろ

う。

もう一つの問題が③である。つまり、教員

の過酷な労働条件と社会的地位の地盤低下が

教員離れを起こし、それが、教員養成機関に

重荷となっている。これが、養成カリキュラ

ム開発と専門職定義を遅らせている遠因に

なっていると考えられる。③については、教

員の社会的地位、需給関係、労働条件など、

様々な要素が複雑にからんでいることから、

一つの図式を描いてみたい。

  pupil-teacher 以来の伝統的な教員

の社会的地位の低さ(教職は craft

である)。

        ↓

  相対的に低い教員の給与→都市貧困

部、理科系での慢性的教員不足

        ↓

 教員志願者の低学力

        ↓

  多様なニーズを抱え込む教員の過剰

労働→教員離職(悪循環)

        ↑

 ・ 政 府 学 力 達 成 目 標(National

Standard)達成圧力(accountability)

 ・ マイノリティの低学力解決(Maori,

Pacifika issues)

 ・ 自 主 経 営 学 校(self-managing

schools)による事務負担

③は、いってみれば教員養成機関の問題と

いうより、社会環境問題であるが、歴史的に

みれば、教員の地位向上や専門職定義をなお

ざりにしてきた事実が、教員カレッジと大学

の統合をここまで遅らせた結果ともいえる。

じつは、こうした教師の職業環境を改善して

く れ る と 期 待 さ れ た の が Tomorrow’s

Schools 改革だった。したがって、教員組合

は当初この改革について、学校や教師の自由

裁量が増えると歓迎していた。ところが、実

際には増えつづける事務負担と生徒の学力問

題、社会的差別問題のすべてが、アカウンタ

ビリティという名の下に、学校、教員の責任

とされ、彼等の物理的、精神的負担は大きく

なっているとして、その後見解を翻している。

(PPTA, 2008年)。とりわけ、2010年から導

入された学力基準(National Standard)は、

現場にプレッシャーになっている。2016年 5

月、文部省から過去 3 年間の学力変化データ

が発表されるやいなや、新聞紙上では「学校

は ち ゃ ん と や っ て い る の か(Is schools

working)」という見出しでの社会的バッシ

ングが始まった(New Zealand Herald. May.

2, 2016)。文部省のデータでは、250万ドル

(200億円)以上を費やした成果は、義務教育

生徒の読み(reading)の達成度で、0.1%(達

成度、78.0%)、計算(maths)で0.9%(達

成度、75.5%)、筆記(writing)で0.9%(達

成度、71.4%)の伸びがあったにすぎない。

むしろ問題なのは、達成度の人種別格差が解

消していないことである。たとえば、白人

(Pakeha)とマオリ族(Maori)では、読み

の達成度はそれぞれ、84.3%と68.8%という

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過渡期にある世界の教員養成

大きな格差をみている。

教員と学校をめぐる社会的バッシングは、

教員志願者減少に拍車をかけ、過去 5 年間で

は、教育学部志願者が25%減少し、大学入学

指標となる NCEA(National Certificate in

Educational Achievement)のAランク成績

を取得する志願者が理系、ビジネス系に進学

するため、教育学部では B ランクの学生を

入学させなければならなくなっているという

(New Zealand Herald. May. 4. 2016.)。さら

に、大学入学資格試験結果に対する親の期待

の高まりが、現場教員にプレッシャーとなっ

ている(ibid. May. 19. 2016)。

教員養成制度とカリキュラムの改革には、

こうした社会状況の改善が前提となると考え

られる。したがって、今後の教員養成制度動

向は、きわめて政治的なプライオリティの位

置づけに左右されることは間違いないだろ

う。

ここまで、ニュージーランドの教員養成を

めぐる歴史的変遷と現在の課題を指摘してき

たが、これらを今一度、グローバルな視座の

中に入れて考えてみたい。それというのも、

先進各国の教員養成改革が、今、指針を失い

つつあるからである。市場原理で進められて

きた1980年代後半以降の教員養成改革は、イ

ギリスでもニュージーランドでも教員の士気

を低下させ、教員離れが起きている。翻って、

我が国の状況を見てみると、教員養成改革は

政争の中で浮沈を繰り返し、ほぼ停滞状態が

続いているといわざるをえない。今後、我が

国の教員養成改革が動き出すためにも、一つ

の正当な方向付け(rational orientation)が

必要だと考える。

最終章では、この課題を念頭に置きながら、

教員養成制度改革には今後何が必要なのかを

議論し、若干の政策インプリケーションとし

ておきたい。

第4章 教員養成は誰が行うべきか第1節 大学化が遅れたニュージーランドの

メリット

これまでにも繰り返し触れたが、この国で

教員養成が完全に大学化されたのは2006年以

降のことである。現在でも若干のポリテクニ

ク(職業専門学校)、私立教員養成機関で教

員資格を出しているが、基本的な養成機関は

大学の教育学部(faculty of education また

は、college of education)である。しかしな

がら、緒に就いたばかりの大学における教員

養成には、 3 章で述べたように様々な内外の

問題が積算している。ただ、 ニュージーラン

ドの教員養成制度が利点をもっているとすれ

ば、それは二つの点にある。

①  政治イデオロギーによる教員養成のコ

ントロールが他の先進国に比べて遅れ

ており、その分、大学の自律的な教員

養成改革の余地が大きい。

②  現在、全国 8 つの大学の教育学部は、

その前身が教員カレッジであるか、以

前からカレッジと連携を持っていた学

部であることから、教員養成はどの教

育学部においても主要な役割を果たし

ている。

とりわけ、①の政治イデオロギーに関して

は、他の先進国では、これまでさらされてき

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

たネオ・リベラリズム改革の影響が大きい。

過去40年間のアメリカにおける社会環境を振

り返った Bullough (2014, p.474.)は、ひとこ

とでいえば、この間の教員養成を取り巻く状

況 変 化 は、 教 員 養 成 の 政 治 主 導 化

(politicialisation of education)であるという。

具体的にアメリカでは二点で政治主導されて

いったという。 1 )『危機に立つ国家(Nation

at Risk)』以降、連邦政府による教員養成へ

の介入が強まった点、そして、 2 )ネオ・リ

ベラリズムの浸透によって、教員のパフォー

マンスを生徒の学力向上で測定する量的評価

基準が導入されつつある点である。

この過程で、教員の専門性の根拠の一つで

ある自律性(autonomy)が、アカウンタビ

リティの名の下に崩れていく。例として出せ

ば、2002 年 以 降 の NCLB(No Child Left

Behind)政策によって政府介入はさらに強

くなっている。例えば、NCLB と同時にほぼ

同 時 に 設 立 さ れ た 財 団 法 人、ABCTE

(American Board for Certification of

Teacher Excellence)は、学卒者に自動車免

許取得のような集中訓練と試験を課し、教員

資格を出すプログラムを提供しはじめた。こ

れは大学での教員養成が大学外の機関と競合

し始めている実態を表している。

その点でいえば、ニュージーランドは、政

府が教員養成への介入をためらっているとい

える。それというのも、1988年 Tomorrow’s

Schools 改革における教育システム分権化が

そのためらいの遠因となっていると考えられ

るからだ。すなわち、その時点で、旧文部省

(Department of Education)は解体され、新

文部省(Ministry of Education)はシステム

規模を大幅に縮小し、権限を現場に移譲した

からである。それ以降の教員カレッジと大学

との統合(amalgamation)が、全国 8 大学

で時期もその統合形態も全く異なったのは、

その間の教員養成改革が政府主導でなされた

のではなく、むしろ、歴史的な流れの中で必

然的にカレッジと大学の連携が強まったとこ

ろに、政府審議会の勧告が出された結果だと

考えられる。したがって、比較的高い自律性

をもったまま、現在、大学がどのような教員

養成ルートを提供すべきかを模索している。

ただ、一方で、いったん自主経営(self-

managing)に任された学校には、政府主導

の国家水準が導入され、教師たちの重荷と

なっている状況については先に触れた。この

状況が教員養成にも影響してくるものと思わ

れる。すなわち、アメリカが1980年代以降経

験した Nation at Risk や NCLB のように、

教師のパフォーマンスを上げることで生徒の

学力向上を引き出す政策が教職生活を圧迫す

るのである。これらの政策では、大学という

リベラルなアカデミズムでの養成はむしろ弊

害として見られる。大学からの教員養成排除

が起きたイギリスでも、背景には政府の大学

不信が流れている(加藤,2011、2015参照)。

こうした大学の自主的な教員養成改革は、

デメリットしては全国の足並みがそろわない

ことだが、むしろ、②で指摘した歴史的経緯

がもたらすメリットの方が大きい。すなわち、

教員カレッジを母体とする教育学部では、ス

タッフ構成、付属学校の存在、現職教員の情

報・研修機能など、教員カレッジで出来上がっ

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過渡期にある世界の教員養成

た蓄積を活用できるのである。もちろん、こ

こには、いまだに解決されていない、教師の

専門性とは何かという議論をめぐって、

theory と practice の確執が残されているが、

各大学は現在、教員養成カリキュラムと教員

養成者(teacher educators)の養成につい

て様々な模索を行っている。

そこで、本論では最後に、教員養成者とは

何かに焦点をあててみたい。具体的には、全

国最大規模を持つオークランド大学教育学部

を事例にしながら、これからの教師教育改革

の方向性と教師の専門性定義について検討し

てみたい。

第2節 教師の専門職性と教員養成教員の資

質をめぐって

これまで、ニュージーランドの教員養成史

をたどり、さらに先進諸国の教員養成動向に

照らし合わせてみた。一見複雑に見える現代

の教員養成課題は、じつは、あるキーワード

ををめぐって繰り広げられていると考えられ

る。キーワードとは、「教師の専門性」、そし

て、その水準を決める「教員養成者(teacher

educator)の資質」である(Child, 2013)。

つまり、どの機関が、どのような知的バック

グラウンドをもった人材が教員養成を担当す

べきかという議論が教師の専門性定義と密接

に関連しているのである。逆にいえば、それ

らが定義できれば、必然的に大学 vs 現場の

方向性、さらに、養成カリキュラムにおける

理論 vs 実践の配分が明らかになってくると

いうことである。

先にも触れたが、現在、各国の大学では、

教員養成者(teacher educators)の職業的

アイデンティティが拡散しつつある(Ellis.

et al, 2013)。これが教師の専門職定義を混沌

とさせているともいえる。教師の専門職定義

は、政府の文教政策にとっても喫緊の課題で

ある。なぜなら、政府が定義する教師の専門

職性は、各国が競っている学力水準の向上を

実現する、教師のパフォーマンスだからであ

る。

すなわち、教員養成機関が目指す専門職性

と政府のそれとの間には、確執といえるほど

の乖離があるのである。したがって、現在、

教育現場では、両者が共通ゴールを目指すモ

ラールは醸成されない状況にある。ある意味

では、政策に対して教師の自律性が高いとも

いえるが、それは、60%前後で安定している

教員組合加入率を背景としたストライキによ

るプロテストに他ならず、教育をめぐる生産

的議論にはつながらない。

かつて、Apple(2005)は、市場イデオロギー

を 批 判 す る な か で、 教 師 の 自 律 性 が、

licensed autonomy(資格型自律性)から

regulated autonomy(規制型自律性)に変

化したことを指摘している。つまり、いった

ん資格を得ると、教育における裁量権を移譲

される自律性から、つねに政府の目標や基準

によって量的に外部評価されながらの自律性

に変化したというのである。なぜなら、教師

の専門性を裏付ける、現場裁量の自由度の中

身と大きさが、政策によってアカウンタビリ

ティへと置き換えられつつあるからである。

では、この「教師の専門性」について、ニュー

ジーランドでの状況はどうだろう。まず、そ

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

もそも、「専門職」とはどう定義できるのだ

ろう。専門職定義をレビューした橋本(2006)

から、ある程度の共通項を上げると、①長期・

高度の養成プログラム、②資格制度、③ 倫

理綱領、④専門職集団、⑤自律性(autonomy)

が要素となる。また、OECD は教師の専門

性についての調査指標として3点を挙げてい

る。① Knowledge base、② Autonomy、③

Peer networks である。ニュージーランドの

専門性は2013年調査では、OECD35か国中 4

位にあるが、これがそのままこの国における

教師の専門性の実態というのは、先に触れた

教員不足の現実からも早計な判断だろう。

このなかで①がおそらく現在各国で課題と

なっている、大学における教員養成プログラ

ムに関する要素だろう。いいかえれば、この

要素についての理念型とカリキュラムを確立

した国が、最も安定した教員養成システムを

持つことになるだろう。それは、ひいては、

教員の自律性、地位、報酬へとつながり、最

終的には政策担当者がめざす現場の教育水準

の向上が実現する可能性がある。つまり、教

師、教員養成者、政府がそれぞれ対峙するの

ではなく、ある程度同じ価値ベクトルに向

かって安定的に取り組む教員養成システムが

最も生産性が高いという点については、異論

のないところだろう。この、合意モデルとも

いうべき教員養成を目指して、歴史の新しい

ニュージーランドにおける大学教育学部は、

様々な模索の中にある。

本論では、教員養成者とはどのような知的

バックグラウンド(knowledge base)と経

験(career)を持った人材がふさわしいのか、

すなわち、教員養成学部スタッフはどのよう

にリクルートされるべきかについて、オーク

ランド大学教育学部という狭い窓口から検討

してみたい。つまり、教員養成者の知識バッ

クグラウンドから、教師の専門性を逆照射し

ようという試みである。

第3節 オークランド大学教育学部のスタッ

フ構成からみる教師養成者の理想型

すでに述べたように、オークランド大学教

育学部は、長い歴史をもつ教員カレッジとの

統合を経て成立した学部であることから、学

部生のほとんどが教員免許(certificate)ま

たは資格(diploma)を目指している。ただ、

教員カレッジからのスタッフが全員教育現場

の出身であり、実践的訓練を重視するの対し

て、教育社会学、教育哲学など、人文社会科

学から研究者キャリアのみを経てきたスタッ

フは、教員養成より研究へのコミットメント

が高い。

まず、学科構造を示してみよう。現在、教

育 学 部(Faculty of Education and Social

Work) に は、 ① Critical Studies in

Education, ② Curriculum and Pedagogy, ③

Counseling, Human Services and Social

Work, ④ Learning, Development and

Professional Practice, ⑤ Te Puna Wananga

の 5 学科があるが、③は Social Work 部門、

④は現職教育サービス中心、⑤はマオリ学部

であることから、①、②が純粋な教育学部と

いえる。なかでも①は批判的教育学科という

斬新な名前を冠していることからも、研究志

向の強い学科といえる。そこで、この学科の

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過渡期にある世界の教員養成

教員35人の内、詳細な履歴書(biography)

を内部公開している30人のスタッフの経歴を

見てみることにする。このねらいは、まだ発

展途上にある教育学部のスタッフが、研究と

教育実践をどのような配分でキャリアに持っ

ているのかを探ることである。

まず、地位の内訳をみると、1)教授

(professor) 2 人、 2 ) 准 教 授(associate

prof.) 5 人、 3 ) 上 級 講 師(senior

lecturer) 6 人、4 )講師(lecturer) 10人、5 )

助 教(graduate teaching assistant) 4 人、

その他(名誉教授(honorary prof.)、研究員

(research fellow)等) 3 人、となっている。

これらの履歴から次の 2 点に注目したい。1 )

前歴公開している30人のうち、どれだけが現

場教員キャリアをもっているか。 2 )教員養

成教員としてのキャリアルートとして、特定

のパターンがあるか。

履歴を詳細に読んでいくと、前歴の記述か

らは特定できないスタッフを除いても、ほぼ

9 割が小中学校の教員経験をもっている。特

に、キャリアルートとして着目したいのは、

4 )講師 10人のうち 3 人が、 5 )助教の 4

人はすべてが、同時に Ph.D candidates とし

て在学していることである。助教たちは現職

教員を経験した後、大学院生として入学して

いる。さらに、他のスタッフも現職経験者が

多いことを加味すると、教育学部スタッフの

キャリアでは、明らかに教員経験者が博士学

位取得したのち、業績を積みながら講師以上

の階梯を登っていくルートが定着している。

さらにそのことを明らかにするために、以下

に、具体的なスタッフの履歴を抜粋してみた

い。

① P(男性、教授)

ニュージーランド、イギリスで15年ほど、

初等中等学校で教える。進歩主義的教育を目

指して、演劇を授業に導入する活動にかか

わった後、人権保護団体を設立し、演劇によっ

て家庭内暴力、PTSD の克服をめざした。こ

うした活動の後、本学に採用された。応用演

劇論(applied theathre)を主催、担当。

② C(女性、准教授、2016年時点の学科長)

ニュージーランド、イギリスで小学校教諭

をへて、クライストチャーチの教員カレッジ

教員になり、大学とカレッジの統合に伴って

オークランド大学教育学部に移籍してきた。

教育哲学、教育学研究方法論(research

methodology)などを担当。

③ E(女性、准教授)

20年間、小中学校での経験。現在も兼務で

現職教育にかかわっている。サモア、トンガ

教育、開発教育を担当。

④ R(男性、上級講師)

アメリカで学部教育の後、カリフォルニア

の小中学校で 5 年教諭。フルブライト奨学生

として修士課程でオークランド大学に留学、

Ph.D 取 得 後 採 用 さ れ る。 開 発 と 教 育

(Education and Development)を担当。

⑤ A(女性、上級講師)

11年間、小学校教員の後、オークランド教

員カレッジの教員を経て、大学教員。現在も、

Ph.D 学生としても在籍しながら学位取得途

中。パシフィッカ(Pasifika: 南太平洋諸島)、

アジアの教育を担当。

⑥ M(女性、講師)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

幼稚園経営を長く経験したのち、大学に採

用。講師を務めながら、2019年に Ph.D 取得

予定。パシフィカ(Pasifika)の幼児教育を

担当。

⑦ D(男性、助教)

アメリカ生まれ、オークランド大学で教員

資格取得後、小学校教諭、副校長(deputy

principal)を経験した後、修士課程を経て、

現在、Ph.D candidate を継続中。アフガニ

スタンの教育と政治がテーマ。

⑧ B(男性、助教)

6 年間高校の歴史教師の後、「対立として

の歴史」をテーマに Ph.D 取得中。オークラ

ンド歴史教育協会理事も務める。

これらの履歴を見ると、インブリーディン

グ(inbreeding)との誹りを受けかねないが、

内部の研究水準は非常に高く、スタッフのす

べてが何らかの国際的共同研究プロジェクト

に参加している。研究方法論についての講習

が常に開かれ、スタッフ、院生がともに研さ

んを積む体制ができている。大学全体として

も、 成 果 主 義 予 算 配 分 制(PBRF:

performance based research funding)によっ

て、質をコントロールしている。PBRF は政

府によって2003年に開始され、定期的に個人

の業績査定(インパクト指数)を行い、それ

の総計点に応じて学科の予算配分を決める評

価方法である。この手法については、在庫調

査式業績管理(stock-taking)だとの批判も

あるが、その是非はともかく、教員のアカデ

ミックな生産性は高い。もちろん、教育につ

いても査定が行われる。現在、正規スタッフ

は、研究 4 割、教育 4 割、行政 2 割のエフォー

トを課せられ、研究中心教員や教育に比重を

置いた教員など、雇用契約によって様々な貢

献度が設定されている。

これまでみてきたスタッフ履歴の概要から

いえるのは、現職教員から問題意識を持った

人材が大学院に再入学し、そこで今度は研究

対象としての教育という視点で再訓練される

キャリアパターンである。このリクルート方

法には、内部の研究に対する厳しいエートス

と評価システムが不可欠である。先に触れた

ように、オークランド大学教育学部では大学

全体として研究水準向上運動を行っており、

これが学部への業績プレッシャー(量)と倫

理基準(質)になっていることは間違いない。

こうして、今後も、現在の助教が業績を積

みながら学位取得と業績を積み、講師へと昇

格していくだろう。助教の研究プロジェクト

の多くは指導教官(supervisor)との共同で

あることから、ある意味では互いの業績を上

げるという互恵関係が成り立っているともい

える。この半インブリーディング型採用方式

については、学内でなんら見直しの機運はな

い。むしろ、このシステムが、多様な現職経

験者を大学に呼び込むインセンティブになっ

ていることも事実である。オークランド大学

教育学部が、教員養成と教員養成教員の両方

を同時に訓練する高等教育機関として営みを

続けていることは、我が国の教員養成教員の

職業アイデンティティが拡散している状況に

示唆を投げかけている。本論では、オークラ

ンド大学教育学部という一事例からの仮説で

しかない。しかしながら、たとえば、Gunn

et al.(2011)は、現場教員と研究者の二つ

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過渡期にある世界の教員養成

の資質を備えた人材(dually qualified)が、

教員養成者として生き残る可能性が高いこと

を、ニュージーランドでの聞き取り調査から

結論づけている。

前章でも述べたが、皮肉にも教員養成の大

学化が遅れたこの国の状況が、むしろ、学校

現場-教員カレッジ-大学のコラボレーショ

ンを温存し、それが後に教員養成教員のキャ

リアルート定型を形成しつつあると結論づけ

てよいだろう。

おわりに-我が国へのインプリケーション戦後、開放制教員養成制度が発足して以来、

たびたび教員養成改革と教師の質向上につい

ては政策議論がなされた。1984-88年の臨時

教育審議会報告では、多様な人材を現場に登

用する道が提言されている。しかしながら、

文教政策はしばしば政治力学に左右され、浮

沈の激しい領域でもある。近年でも、2009年

4 月から開始された免許更新法は(免許法改

定は07年)、同年 9 月の政権交代とともに消

えるかに見えたが、非自民政権はそれを実施

する間もなく、短命に終わった。同時に2007

年民主党マニフェストで掲げられた教員資格

の修士課程化案も同じように消えていった。

民主党政権時の教員養成に関する諮問の答申

は、復活した保守政権の下、2012年に出され

た。そこでは、「教職生活の全体を通じた教

員の資質能力の総合的な向上方策について」

と題して、新たな免許区分と教員研修の強化

がうたわれている。

だが、その後の現実は、各大学における教

員養成課程の生き残りをかけての暗中模索

と、自治体による自前の更新講習拡大をみた

にすぎない。すなわち、養成と研修を自前で

行おうという、日本版の school-based initial

teacher training が進む一方で、大学教職課

程がまだ養成カリキュラムの理念型を提出で

きない状況が続いている(加藤,2016)。

こうした我が国の状況を鑑みると、先にみ

たオークランド大学教育学部の試みは示唆に

富んでいる。それは単純な示唆である。すな

わち、教員養成教員(teacher educator)とは、

どのような人材であるかを定着させることに

よって、教師の質、教育学部の存立基盤を安

定したものにできる可能性があるということ

である。

そもそも、占領下の教育刷新委員会という

外圧によって師範学校の大学昇格と開放制教

職課程が実現した我が国の教員養成現場に

は、その後、教員養成教員とは何か、教師の

専門性とは何かという議論と政策実験を行う

素地が育たなかったのではないだろうか。そ

の点でいえば、ニュージーランドでは、いわ

ば現場と一体だった師範学校(教員カレッジ)

と大学の統合が21世紀に入って実現するとい

う特殊事情が功を奏しているといえる。なぜ

なら、それが外圧や強い内政圧力によって行

われたのではなく、両者の葛藤と協力関係の

結果だからである。

現在、我が国に必要なのは、ニュージーラ

ンドが経験したような、現場と大学のすり合

わせではないだろうか。そのためにも、現職

教員から教員養成教員へのキャリア・チェン

ジ・ルートを、大学院の中に築き上げていく

ことが急務だろう。現在の教職大学院がそれ

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

を目指しているとも、その機能を果たしてい

るともいえないことは明らかである。した

がって、今後、教員養成教員を養成するため

の大学院プログラム開発が早急に望まれる。

この点を本論が持つ政策的インプリケーショ

ンとしておきたい。

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についての事例分析-その歴史社会的背景とわが国へ

の政策インプリケーション―」『名古屋外国語大学外国

語学部紀要』第41号。

加藤潤(2015) 「教職課程の衰退期における社会人対象教員

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101

過渡期にある世界の教員養成

養成の可能性-イギリスの教員養成制度改革から学ぶ

ものとは-」『愛知大学教職課程研究年報』第 4 号。

加藤潤(2016) 「新たな教員養成システムに向けての試行-

イギリスにおける大学排除政策に対する生き残り戦略

を事例に-」『愛知大学教職課程研究年報』第 5 号。

橋本鉱市(2006)「専門職の『量』と『質』をめぐる養成政

策-資格試験と大学教育」『東北大学大学院教育学研究

科研究年報』第54集、第 2 号。

付記:本稿は、愛知大学海外研修制度、および、文部科学

省科学研究費、基盤研究(C)課題番号:25381155(研

究代表者、今津孝次郎)による研究成果の一部である。

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102

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

AcknowledgementI couldn’t imagine this paper would be accomplished without the backing of those people

who were helpful through my writing not only in terms of knowledge exchanges and

comments but also daily support in every moment of my stay in the Auckland University.

This is why I owe much of this study to all of the staff and the graduate students as well.

I would like to express my gratitude to Carol Mutch(then Head of CRISTIE: the school of

Critical Studies in Education) as a representative of all. Her warm hosting of my visiting

scholar status was a booster as well as a catalyst which has driven me to dig into ITE

deeper and comparatively.

AbstractThis paper discusses a long standing question in ITE(Initial Teacher Education), that is,

what is the optimal combination of theory and practice for the best teacher education? In

order to approach this contested task, we firstly overviewed New Zealand history of ITE

which has followed different trail from any other advanced countries. Then we make a brief

comparison between New Zealand and Japan in terms of their shift of ITE from teacher

training institutions to universities.

The findings from this analysis can be summarized in two provisional conclusions. First

New Zealand ITE was integrated into university education rather late compared to other

advanced countries. This delay was not a lag behind but an advantage which allowed them

to keep a balanced relationship between teaching practice and pedagogical theory because

ITE here was rooted in Teachers College which used to have close linkage with local

schools. Most of the other advanced countries including Japan are on the cusp of shifting

ITE from HEIs(Higher Education Institutions) to school based training, as epitomized in

recent ITE reform in UK. Secondly Japanese ITE reform was originally driven by

GHQ(General Head Quarter) during the occupation period. This reform instantly abolished

pre-war semi-professional ITE in “Shihan-gakko” which was perceived as secondary

education. This historical fact made Japanese society negligent of the discussion on theory

and practice. The lack of precursor conflict between pros and cons of ITE in HEIs (Highen

Initial Teacher Education in Global Transition-A case study on ITE in Aotearoa/New Zealand -

Jun KATO (Centre for Teacher Education, Aichi University. Japan)

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過渡期にある世界の教員養成

Education Institutions) created a discrepancy between ITE curriculum and practice. With

this unsolved issue, Japanese ITE has been undertaken in theory oriented university

education without any examinations on the relevance and validity of professional training.

This comparison requires that Japanese ITE needs to construct an optimal balance of

theory and practice from scratch in the light of current global trends.

(Corresponding author. Email: [email protected])

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対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容

1 問題の所在1- 1 教育方法学分野の対話的事例シナ

リオの到達点と課題

これまで、教員養成課程における対話的事

例シナリオの意義やその効果に関して、いく

つかの研究が行われてきている。より多くの

分野・領域の事例を作成する必要があるとと

もに、対話的事例シナリオを用いた実践にお

ける学生の学びを可視化する方法が求められ

ている。

教育方法学分野に関する事例シナリオにつ

いては、「子ども理解に関するもの」(森脇健

夫他,2013、守山紗弥加,2015)や「教師の

権威・権力に関するもの」(前原,2015)など、

すでにいくつか存在するが、「どのように授

業を構想するか」に関する事例シナリオは未

開発であった(1)(2)(3)。また、事例シナリオ

を用いた実践における「学生の学びの可視化」

についても、ワークシートの個別分析やテキ

ストマイニングによる分析によって、学生が

これまで形成していた暗黙的な観について

は、ある一定程度明らかにすることはできた。

しかしながら、学生の観の変容がどのような

対話の中で、どのようにして起きるのか、と

いった評価の側面は不十分であった。特に、

対話的事例シナリオの評価は、講義における

学生の学びのプロセスや学生の観の変容はも

ちろん、事例そのものや授業者の教授行為も

含めた上でする必要がある、と指摘されてい

る(4)。(根津知佳子他,2016)

そこで、本研究では、以下 3 点を明らかに

することを目的する。 1 つ目は、教育方法分

野、とりわけ授業論に関する対話的事例シナ

リオ作成の試みとその意義についてである。

2 つ目は、事例シナリオと対話した学生の学

びに関して、ルーブリック評価を用いた可視

化を試み、学生がどのような授業観を形成し

ているのか、そして、その授業観がどのよう

に変容したのかについてである。 3 つ目は、

よりよい対話的事例シナリオ実践および学生

の学びを可視化する評価方法のためのさらな

る改善方法についてである。

1- 2 教育方法・授業論において、「子ど

もの問い」と「学校的な問い」を扱う理由

まず授業とは、「文化内容を組織した意図

的な営み」と定義することできる。しかし、

教師がその意図に基づいて、一方的に授業を

進めるのでは、子どもの学びの観点からみて

も、質の高い授業とは呼べない。なぜなら、

そのような授業が子どもの学びに必要な子ど

もの主体性を奪う可能性があるためである。

藤岡信勝(1987)は、授業書(5)通りに教

師が進めていこうとする授業の特徴として、

次のように説明する。

対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容-授業における「子どもの問い」と「学校的な問い」の意味、を題材として-

前原 裕樹(経営学部・助教)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

(前略)②「問題」にはじまる一ステップの結末が、クローズド・エンドである。すなわち、a「問題」には正解があるb その正解を教師は知っているc 最後にはその正解が子どもに知らされる

③子どもは「問題」を解く主体である。いいかえれば、a 問題を発見する主体b 問題を提起する主体であるとはみなされていない。子どもは自由に、何でも考えることが許容されているが、それはすべて教師の与える「問題」の枠内における自由にすぎないのである。

藤岡が授業の特徴であげている② a「正解

がある」ことは、子どもの考えや回答に対し、

「教師が賞罰(サンクション)を与える」、と

いったことにもつながっていくだろう。

こういった特徴の授業に長い間さらされる

と、授業そのものや教育文化内容に対する子

どもの興味関心は低下し、教師の提示する発

問や課題に対して自由に考えたり発言したり

することに萎縮してしまい、やがては教師が

提示する発問や課題を義務として課題解決を

遂行するような、受動的学習者にしてしまう

恐れがある。

こういった現象は、授業における「隠れた

カリキュラム」(6)と言えるだろう。つまり、

授業において、教育内容に関する子どもの興

味関心を置き去りにし、教師が一方的に授業

を進めることで、子どもを受動的な学習者に

してしまう。そして、このような暗黙的な人

間形成に関し、無自覚のまま授業を構想する

ことは、子どもの学びを低下させたり、学び

から逃走させたりしてしまう可能性がある。

もちろん、生活科や総合的な学習の時間に

おいては、子どもの興味関心を軸としてテー

マを設定し、探究的な授業を構想し、展開す

ることは可能である。しかしながら、教科教

育においては、子どもの興味関心だけでは授

業は成り立たない。質の高い授業を構想する

には、教師が教育文化内容と子どもの興味関

心をすりあわせることや結びつけること、子

どもの興味関心を高めるために、子どもに出

会わせる材を検討すること、などもその際に

は必要となる。

ブルーナー,J.S(1968)は、子どもの興

味に関して、次のように述べる(7)。

 生活教育がいつも児童の興味に合致すると考えるのは、センチメンタリズムにすぎない。(中略)興味というものは、つくりだすことも、刺激して伸ばすこともできるのだ。

以上のことから、授業づくりにおいては、

子どもの興味関心から発せされた「子どもの

問い」と教師が子どもに教えたいと思いをこ

めた教育文化内容に関する「学校的な問い」

の双方が必要であり、教師はこの 2 つの問い

を意識しながら、授業を考えていく必要があ

る。

そこで、教育方法論第 2 回目の講義では、

「子どもの問い」と「学校的な問い」をキーワー

ドとし、以下に説明する事例シナリオと対話

する過程で、学生が自らの授業観に気づき、

ガイディング・クエスチョンや他者と学ぶこ

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対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容

とを通して、学生の授業観の変容を促すこと

を目的とした。

2 授業およびシナリオの概要第 1 回目の講義では、学生に対して、子ど

もの頃に不思議だったことを思い出させ、そ

の上で「子どもの不思議はいつごろ・どうし

て消えてしまうのか」と尋ねたところで、講

義を終えた。そして、第 2 回目は、「授業に

おける『子どもの問い』と『学校的な問い』」

を軸とした事例シナリオとの対話を通して、

双方の問いの意義や役割を理解し、どのよう

に向き合い、どのような授業を構想していく

必要があるか、を考える契機とし位置づけて

いる。

2- 1 講義のめあて

第 2 回目の講義で、学生に提示しためあて

は、以下のとおりである。

第 1 回目で、子どもの不思議が消滅する仮

説として、学生からは、「忙しくなったり、

他に気になることがあったりして、些細なこ

とが気にならなくなったから」「わからない

ということが恥ずかしくて、疑問に思うこと

をやめたから」「先生や親に教えてもらって、

解決したから」など、様々な考えが出ていた。

2̶ 2 シナリオ材とガイディング・クエ

スチョン

その上で、次のような対話的事例シナリオ

を学生に提示し、ガイディング・クエスチョ

ンを提示した。今回、事例シナリオ材として

用いたのは、ドラマ「エジソンの母 第 1 話」

である。(TBS系列 金曜22時~ 放送日:

図 1 めあての提示(学生による板書)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

2008年 1 月11日)ドラマの概要は以下である。

主人公の鮎川は東京都杉並区内の公立小 1 年

の担任教師である。世界的な発明家、トーマ

ス・エジソン並みの才能を持つ(と言われて

いる)小学生の少年・花房に引っ掻き回され

ながらも、懸命に奮闘する鮎川先生と児童と

の格闘をコメディタッチで描く、というもの

である。そのうち、学生に提示したのは以下

の場面である。

2 - 3 学生に提示する事例シナリオの

場面

 若い女教師、鮎川先生が担任している小学校 1 年生のクラスに、転校生の男子児童、花房くんが新しく転入してくる。鮎川先生は、校長先生から、その児童が少し変わっている、と聞き、最初少し不安であったが、その男子児童がみんなの前で自己紹介する様子をみて、普通の子でよかった、と安心する。 その後、 1 時間目の算数の授業で、鮎川先生はクラスの児童に対して、「この頁(教科書の挿絵)にネコは何匹いますか?」と、描いてあるネコの数を問う発問をする。クラスの子どもたちはその数をそれぞれ数え始めるが、すぐに花房くんが「はい」といって挙手する。その様子をみて、周りの子どもたちは「すごい」

「早い」「もうできたの」といって驚いたようである。そこで、鮎川先生は、花房くんを指名する。すると、花房くんは次のように言う。「先生、このネコだけひげがありません」。それを聴いた副担の先生や周りの子どもたちは、「あ、ほんとだ」といって花房くんに同調する。教師は、その発言に対して、「ネコの数を数えて、足してください」という。すると、花房くんは、「足し算って何」「なんで足し算をするのか」「 1 + 1 がなぜ 2 になるのか」など、いろいろな疑問を矢継ぎ早に教師に投げかける。教師はこれら花房くんの質問に対して、窮してしまう。

以上が事例シナリオの場面についてであ

る。この場面を事例シナリオとして設定した

理由は、以下である。すなわち、学生(教え

る側)にとって、「 1 + 1 = 2 」という理解

は当たり前となっており、それを子どもに教

えるというのは、一見するととても簡単なよ

うに思える。しかしながら、「 1 + 1 = 2 」

という理解に関して、子どもは疑問を持つた

め、それを教えようとすると、教育方法やそ

の文化内容および教科専門に関する知識が必

要であること、子どもの思考や発達段階を理

解する必要があることを学生に気付かせるこ

とができる、と考えたからである。

加えて、教育や教師に対してネガティブな

要素を含む事項については、ドラマやフィク

ション作品をシナリオや材として用いるよう

にしている。なぜなら、実際の教師の事例か

ら学生が教育や教師をネガティブに捉えるこ

とで起こる、教師への不当なバッシングや批

判的な眼差しを持たせてしまう可能性を危惧

するからである。反対に、ポジティブな要素

を含む事項については、実際の実践映像や記

録等をシナリオ材として用いるように心がけ

ている。

2 - 4 講義の流れおよびガイディング・

クエスチョン(以下、GQと表記)

①  まず、鮎川先生からの問い(例えば、「こ

の頁の中に、ネコは何匹いますか」)を、

『学校的な問い』、花房くん(子どもから)

の問い(例えば、「このネコだけひげが

ありません(⇒どうして、このネコだけ

ひげがないの?)」「 1 + 1 はどうして 2

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対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容

になるの?」)を、『子どもの問い』と、

便宜上定義し、確認する。

②  次に、GQ 1 . として、鮎川先生は、花房

くんに「 1 + 1 はどうして 2 なの?」と

訊かれた際、どのように答えていたら・

どのような方法で教えていたら、よかっ

たと思いますか?と尋ねる。

③  次に、GQ 2 . として、『学校的な問い』

と『子どもの問い』のそれぞれの特徴を

あげ、違いはどこでしょうか 、と尋ねる。

④  個人の考えをワークシートに記入させ、

その後グループで意見交流をさせる。話

し合いが早く終わったグループに板書を

するように指示する。

学生の意見が出たところで、授業者である

前原から GQ 1 、 2 に関し、以下それぞれ補

足説明をする。まず、GQ 1 の子どもに算数

の足し算を教えることについては、坪田耕三

(2014)の指摘を踏まえ、以下に示すような

教科内容に関する教える側の事前理解および

子どもの認識の発達に関する理解が必要なこ

とを伝える(8)。

1 . 「1」の概念理解2 . 数字の順次性3 . 数えるべき対象の明確化4 .  数感覚(具体的操作による、数の増

加・集合イメージ)

続いて、GQ 2 の「学校的な問い」につい

ては、以下の特徴を伝える。

①「問い」には正解がある② その答えは、教師の手中にある(用意

されている)③ 回答に対し、サンクション(賞罰や評

価)がある

そして、これら特徴により、「本来、問い

を『発見する』主体であった子どもは、学校

的な問いの中で、やがて問いを『解く』主体

へすり替わり、いつしか不思議を抱かなく

なっていく」という教育方法・授業論的子ど

もの不思議が消滅するメカニズムを、第 1 回

目で扱った講義の課題や学生が考えてきた仮

説と関連づけながら解説する。

その上で、最後の GQ 3 として、授業者で

ある前原が授業観察で出会った、実際の授業

図 2 GQに対する学生の考えの板書(学生による板書。 1グループ分)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

における子どもの問い発生場面(9)を提示し、

本講義で学んだことを活用して対処方法を考

えさせる。以下その場面と GQ 3 である。

 小学校低学年の話です。夏休みの登校日、授業の冒頭で、児童の夏休みの過ごし方を聞き合っています。その時、ある児童が花火を見に行ったことを語ると、他の児童が、「先生、どうやって花火に色をつけてるの?」と聞いてきました。 さて、この時に教師は、子どもの問いに対し、どのような対応をしたでしょうか?本日の内容を踏まえ、予想してみましょう!

ワークシートの記入が終わった後、力量の

あるベテラン教師の対応例として、以下 2 つ

を解説する。1 つ目は、『みんなはどう思う?』

とクラス全体で問いを共有し、子どもに考え

を尋ねるといった教授行為をしており、その

ことから、「個別対応せず、問いをクラス全

体で共有し、思考を促すこと」、2 つ目は、『実

は、理科室にあるものを使うと、色をつける

ことができます。理科は 3 年生でやりますの

で、それまで楽しみにしていて下さい』といっ

た教授行為から、「理科や科学(=教育内容・

文化)に対する興味を持たせつつ、子どもの

好奇心を継続させようとすること」である。

以上の 2 つを解説し、講義は終了する。

3 ルーブリックによる学生の学びの可視化

上記の事例シナリオにおける学生の学びを

可視化するために、以下の方法によって分析

を行った。分析の対象にしたのは、「教育方法

論」第 2 回目を受講していた学生76名分の講

義終了後のリフレクションの記述である。受

講している学生の学年内訳は、2 年生65名、

3 年生10名、 4 年生 1 名である。それらの学

生の記述を全て起こし、「教員養成型 PBL の

対話的事例シナリオのためのルーブリック」(10)

を活用して分析を行った。(表 1 、 2 )その観

点のうち、本実践においては①「他者との対話・

他者理解」、②「自己との対話・相対化」、③「学

習の統合・自分化/普遍化」、④「観の変容」

の 4 項目について分析した。

ルーブリックの観点 学習項目

(第 1 の観点)シナリオとの対話

問題の捉え方文脈性問題の複雑性の捉え直し

(第 2 の観点)他者との対話

他者理解相対化

(第 3 の観点)自己内対話

普遍化・自分化観の変容

表 1.ルーブリックの観点と学習項目

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対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容

まず、学習項目①「他者との対話・他者理

解」について評価するにあたり、文章中にお

いて「グループ」「個人名」などの記述があり、

なおかつ「自身の考えとの違い言及する言葉」

があったのもについて、段階 2 とした。具体

的には、以下のような記述がみられた。(下

線等は筆者)

 今日の講義で、子どもの “ どうして? ”という問いにどのように答えれば、子どもが理解するのかということについて学んだ。今日、グループワークで、“ 子どもたち自身で考えさせて答えを出す ” という意見が出て、自分が考えた答えよりもとても納得でき、また、自分が将来このような問題にあったとき、使ってみようと思った。学校的な質問ばかりして、子どもの問いをうまく結びつけられないと、子どもが次第に興味をもたなくなると聞いて、責任を感じた。大人が思っている以上に、子どもは不思議を感じていることが多いと思うので見逃さないようにしたい。

表 2.対話的事例シナリオのルーブリック(全体)

学習項目 4 3 2 1【他者との対話】他者理解

ガイディングクエスチョンに即して、他者の意見を理解しながら、事象を解釈することができる。

ガイディングクエスチョンに即して、事象を解釈しながら自分の意見を述べることできる。

ガイディングクエスチョンに対する自身と他者の意見の相違に気づいている。

ガイディングクエスチョンに対して、自分の意見を述べることができる。

3- 1 学習項目①「他者との対話・他者理解」の分析

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

 今回の問いは答えがたくさんある問いであり、グループワークから自分では思いつかなかった答えがたくさん出てきた。インターンやチューター活動での自分の生徒への対応は学生の個か全体か一方しか見れていなかったように思えます。今回のように力量のある教師の考え方のまねごとでもいいから、自分のものとして使えるようにすべきだと思うし、考え方ができるほど子どもと触れ合うことも大切だと感じました。子どもの考えは1つのことに留まらず、さまざま変化します。ですが一貫してそれに対する答えはある程度は存在すると思います。それを少しでも多く吸収することが大切だと思いました。

 グループワークを通して、学校的な問いと子どもの問いの違いがたくさんわかった。自分とは違う意見が聞けて勉強になった。学校の問いには客観的で子どもの問いは主観的と考えている学生がいて、なるほどと思った。今のうちから児童・生徒への対応の仕方をしっかり考えておくと将来教師になったときに、余裕をもって対応できるので、もっと対応を

考えたいと思った。発展課題については、私が考えた対応を初任者そのものだった。学校的な問いと子どもの問いを結びつけることをこれから意識して生活していきたいと思った。また、個だけに教えるのではなく、クラス全体で共有することで、クラスの一体感がでると思うし、花房くんがクラスメイトにけむたがれることもないだろうと思った。

以上の分析からは、学生全体ののうち、

10%程度しか他者に関して言及していないこ

とがわかった。次に、学生の記述をみると、

「“ 子どもたち自身で考えさせて答えを出す ”

という意見が出て、自分が考えた答えよりも

とても納得でき」「グループワークから自分

では思いつかなかった答えがたくさん出てき

た」「グループワークを通して、学校的な問

いと子どもの問いの違いがたくさんわかっ

た。自分とは違う意見が聞けて勉強になった。

学校の問いには客観的で子どもの問いは主観

的と考えている学生がいて、なるほどと思っ

た」というような自分と他者の考えの違いに

気づいていることがわかる。しかしながら、

他者の考えに対して、そこから自分の意見を

付け加えたり、他者の考えに納得できていな

い、というような葛藤のある記述はみられな

かった。

【他者と自己との対話】相対化

自己や他者の考えを適切に分析し、対話の文脈を重視している。

自己や他者の考えを対話の文脈内で意識している。

自分の経験を相対化しようとしている。

自分の経験で文脈を理解しようとしている。

3- 2 学習項目②「他者と自己との対話:相対化」の分析

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対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容

次に、学習項目②「他者と自己との対話:

相対化」については、文章中において「被教

育経験および教えの経験の登場」があるもの

について、段階を 2 とした。具体的には、以

下のような記述がみられた。

 子ども独特の問いについて私も受けた

ことがある。塾で国語か英語の授業をし

ているときに、理科の質問で「何で惑星

があるのか?」その他諸々聞かれたとき、

理科が苦手な上に、わからなかった事が

あった。力のある教師のように学年を越

えた、学校と子どもの問いに結びつけて

あげられたら良かったと思い、またその

ためには、少しずつ知識も必要なのでは

ないかと考えた。「 1 + 1 = 2 」という足

し算を教えるためには、まず「 1 の概念

理論、数の順次性、教えるべき対象の明

確化、数感覚」を知っていることが前提

だということは初めて知りました。今ま

で 1 + 1 = 2 は当たり前だと思っていた

のはこの 4 つが自分の中に存在するよう

になったからだったのかと気づきまし

た。学校的な問いは生徒を受動的にさせ、

好奇心を失わせる悪い問いなのかと思い

ましたが、そうではなくて、もっと質の

高い、子どもの問いにつながる様な問い

にすれば良いのだと分かった。最後の発

展問題で自分は個人対応になってしまっ

ていた。個と全体のバランス感覚のもて

る教師になりたいと思いました。

 小学生の頃、「 1 + 1 = 2 」は、おはじきを使ったりして理解していたが、花房くんのように疑問に思う児童もいるので、自分が教師になったとき、良い対応にするために、今日の講義はとてもためになった。自分も小学生の頃、授業中に疑問に思うことがあると、すぐに質問していて、その当時の先生に、「その疑問を夏休みの自由研究やってみるといい」と言われて、自由研究をやったことがあり、先生は児童に答えをみつけさせることもいいのかなと思った。

学生の記述をみると、「子ども独特の問い

について私も受けたことがある。塾で国語か

英語の授業をしているときに、理科の質問で

『何で惑星があるのか?』その他諸々聞かれ

たとき、理科が苦手な上に、わからなかった

事があった。力のある教師のように学年を越

えた、学校と子どもの問いに結びつけてあげ

られたら良かったと思い、またそのためには、

少しずつ知識も必要なのではないかと考え

た」といった自身の教え経験と繋げて考えた

り、「自分も小学生の頃、授業中に疑問に思

うことがあると、すぐに質問していて、その

当時の先生に、『その疑問を夏休みの自由研

究やってみるといい』と言われて、自由研究

をやったことがあり、先生は児童に答えをみ

つけさせることもいいのかなと思った」と自

分の小学校の頃を思い出したりしていること

がわかる。そして、そういった自身の経験と

講義の内容を照らしあわせ「学校的な問いは

生徒を受動的にさせ、好奇心を失わせる悪い

問いなのかと思いましたが、そうではなくて、

もっと質の高い、子どもの問いにつながる様

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

な問いにすれば良いのだと分かった」という

ように、子どもに教える方法や授業構想に必

 「 1 + 1 = 2 」ということを思い込んでいたことを実感して、改めて自分には子どもの思考がないのだなと思いました。「発見する」ことから「解く」姿勢に変化したという見解を聞いてとても納得しました。今、教師の行う授業で求められているアクティブラーニングは、これを阻止するための対策なのかと思いました。どうしても 1 人から聞かれたら、その 1 人だけに答えを言ってしまいがちですが、今日の授業を受けて、 1 人だけの問題にしないことを学びました。これは少し悪い例ですが、誰かが悪いことをしてしまった際、クラス皆で考える姿勢と重なるのかなと思いました。「理科の授業で・・・」の返しかたはとても尊敬しました。思い返すと印象に残っている先生たちは、そのように興味・好奇心を消してしまわないような反応をしてくれていた気がします。花房くんのような生徒に対して、どのような対応ができるかが教師の力量の試されるところなのかなと思いました。インターンに行っていますが、子どもの何で?をうまく継続させてあげたいと思いました。

学習項目 4 3 2 1【学習の統合】自分化・普遍化

複数の分野・領域を統合させて、新たな課題を提示できる。

複数の分野・領域を意識して、課題解決しようとしている。

他の分野・領域とのつながりを意識している。

他の分野・領域への関心が低い。

3- 3 学習項目③「学習の統合・自分化/普遍化」の分析

要な要素について理解していることがわか

る。

次に、学習項目③「学習の統合:自分化・

普遍化」については、「別の分野・領域との

関連」の記述があったものを段階 2 とした。

具体的には、以下のような記述がみられた。

 自分がそういうものなのかと理解する

子どもだったので、そういうふうに考え

る人もいるのかと逆に驚きました。今回

は算数の話だったけれど、私自身は国語

の物語を読んで心情などという問題の時

に「先生が書いたわけではないのに、な

んで先生の答えが正解何だろう」と思っ

たことがあったことを思い出しました。

人に教える時、算数など答えのしっかり

したものより国語などの方が難しいのか

もしれないと思いました。

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対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容

学生の記述をみると、「私自身は国語の物

語を読んで心情などという問題の時に『先生

が書いたわけではないのに、なんで先生の答

えが正解何だろう』と思ったことがあったこ

とを思い出しました」「どうしても 1 人から

聞かれたら、その 1 人だけに答えを言ってし

まいがちですが、今日の授業を受けて、 1 人

だけの問題にしないことを学びました。これ

は少し悪い例ですが、誰かが悪いことをして

しまった際、クラス皆で考える姿勢と重なる

のかなと思いました」と述べており、事例シ

ナリオとの対話の中で、自身の教科と繋げて

考えたり、学級集団づくりに適応して考えた

りしていることがわかる。そして、それらと

本時で学んだことと関連させながら、「人に

教える時、算数など答えのしっかりしたもの

より国語などの方が難しいのかもしれないと

思いました」と自身の教科の特性を考えたり、

「アクティブラーニングは、これを阻止する

ための対策なのか」といった異なる分野・領

域の概念について自分なりに解釈しようとし

たりしていることがわかる。

学習項目 4 3 2 1観の変容 他者の観を理解

し、自らの観を再認識し、変容を自覚できる。

対話を通して、他者の観と自らの観の相違を認識できる。

対話を通して、自らの観を意識し、形式化できる。

対話を通して、自らの観に暗黙的に気付いている。

3- 4 学習項目④「観の変容」の分析

次に、学習項目④「観の変容」については、

文章中において「衝撃を感じたことがわかる

語句」「自身の考えの変化をあらわす語句」「葛

藤をあらわす語句」があったものについて、

段階 2 とした。具体的には、以下のような記

述がみられた。

 自分は知っているからといって、全部を子どもに教えてしまうのはだめだなぁと気づけた。自分で疑問を見つけて、自分で答えを見つける努力をさせず、安易に疑問を解決してしまえば良いと今まで自分は思っていた。疑問になることは大事だけど、自分で解決しようと考えることはずっと子どもの力になる。問題解決能力は将来困難に当たったときに乗り越える力にもなるだろうと思う。なので、

最後にやった学校的な問いと子ども的な問いをつなげ疑問を継続させるベテラン教師のやり方はすばらしいなと思った。私も意図しない状況になっても対処できるそんな教師になりたいなと思う。

 ビデオの中の子ども、花房くんの「 1+ 1 はなぜ 2 なのかという問いに対して、自分はそれは決められたことだから、という言葉で解決しようとしていた。これでは花房くんの学習意欲やなぜと思う探求心をなくしてしまう原因となることを知り、非常にショックだった。数学者の先生の元カレも言っていたが、「 1 + 1= 2 」というのは算数の中のルールであって、全てではないのだ。今回の授業

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

は、自分の中ですごく、なるほどなと思うものだった。個人的だけにならず、全体を意識し、さらに子どもの学習意欲をひきたてる答え方をしなくてはならない。答えを知っていてもそうするべきだということを知り、非常に勉強になった。

学生の記述をみると、授業観について、「安

易に疑問を解決してしまえば良い」「決めら

れたことだから、という言葉で解決しよう」

というような自身の観に気づいており、また

講義を通して、「疑問になることは大事だけ

ど、自分で解決しようと考えることはずっと

子どもの力になる」「子どもの学習意欲をひ

きたてる答え方をしなくてはならない。答え

を知っていてもそうするべきだ」と子どもが

学ぶことの意味を自身の言葉であらわしてい

る。

以上のことから、本事例シナリオが、学生

の授業観の変容を促し、新たな授業観を構築

するための契機となっていることがわかる。

4 本研究の到達点と課題本研究で明らかになったことは以下 3 点で

ある。

まず、 1 点目は、暗黙的に形成されていた

学生の授業観について、「教師がある知識や

考えを教えるもの」「教師の話を聴く、受動

的なもの」と捉えている学生が複数いたこと

である。事例シナリオによって、そういった

自身の暗黙的な観に気づき、その授業観に加

えて、「子どもの考えや意見に向き合うこと

の重要性」に気づき、より包括的な授業観へ

と変容したと考えられる。また、講義の最後

に力量あるベテラン教師の理念と方法を知る

ことにより、授業づくりの構想だけでなく、

子どもの問いに対する即興的な対応も身に付

けることが可能となり、学びのある授業を構

想・展開することにもつながると考えられる。

しかしながら、その一方で、ベテラン教師の

理念と方法を伝えたがゆえ、学生の考えの多

様さが失われ、 1 つの方向に収束してしまっ

た、と捉えることもできる。実際に学生の感

想からは、「自身の考えややり方が間違って

いた」と解釈してしまう学生もいた。よって、

最後の GQ については、提示するか否かも含

めて検討が必要である。

また、授業論的子どもの消滅メカニズム、

のより深い理解のためには、理論的な説明も

補足する必要がある。例えば、メーハンが指

摘した「I - R - E」構造(11)を用いて、今

回の現象を解説することにより、学生に教育

方法論の理論の重要性に気づかせ、授業づく

りの原理を獲得させることも求められるだろ

う。

次に、 2 点目は、学生は他者との対話につ

いて振り返ることが困難という点である。そ

の困難さの理由としては、多くのグループが

きちんと意見の交流をしているが、単なる意

見の表明になっている可能性が考えられる。

そのため、他者の意見が自分の心に響くもの

になっていない、と考えられる。よって、グ

ループワークにおける話し合いの方法やその

意義について説明すること、考えの対立や葛

藤が生まれるような GQ の設定が必要だとい

える。ただし、他者の記述がない学生も、話

し合い活動自体は丁寧にしており、この点に

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対話的事例シナリオによる学生の授業観の変容

ついては、他者との対話を記述評価だけでな

く、話し合われている内容について、その活

動をパフォーマンス評価の観点から分析する

必要もあるだろう。

そして、 3 点目は、学生は事例シナリオと

対話することにより、自身の被教育経験や教

え経験と結びつけながら、自身の観を振り返

ることができる点である。特に観は授業要素

(目標・教育内容、材、教授行為、学習者把握)

に一貫性を与えるもの、であり、授業づくり

において重要な概念である。よって、学生の

観の変容や講義における学びを解釈するため

に、引き続き、学生の過去の被教育経験や教

え経験を評価することの意義やルーブリック

の観点および学習項目について検討するとと

もに、事例シナリオ自体の妥当性や講義の展

開の改善も行っていく必要がある。

付記: 本稿は、科学研究費基盤研究(C)「教員養成型

PBL 教育における対話型事例シナリオの作成と評

価方法の開発」研究代表者:山田康彦、課題番号:

15K04996の成果の一部である。

脚注および引用・参考文献( 1 ) 森脇健夫他「対話型事例シナリオによる教員養成型

PBL 教育」『京都大学高等教育研究』19、2013、

pp.13-24

( 2 ) 守山紗弥加「教室の中の子ども」山田康彦『PBL

教育における対話型シナリオの開発研究』

平成24年度~ 26年度科学研究費助成事業 基盤研究

(c)研究成果報告書、2015、pp.33-36

( 3 ) 前原裕樹他「教職課程において、教師の権威・権力

をどのように教えるのか:対話型事例シナリオの作

成と実践・「23分間の奇跡」を材にして」『愛知大学

教職課程研究年報』 4 、2015、pp49-62

( 4 ) 根津知佳子他「教員養成型 PBL 教育の課題と展望(XII)

対話型事例シナリオ教育の到達点と評価方法の開発」

『第22回大学教育研究フォーラム発表要旨集』2016

( 5 ) 仮説実験授業で用いられる一種の指導案のこと。「問

題」を中心に構成され、「質問」「研究問題」「練習問題」

「原理・法則(の説明)」などの構成要素からなる。

詳しくは、以下を参照のこと。稲垣忠彦、藤岡信勝

他『岩波講座 教育の方法 3  子どもと授業』岩波

書店、1987、pp.182-183

( 6 ) 教育学者のフィリップ・ジャクソン(Jackson,P.E.)

の造語。無意図的・暗黙的な人間形成の作用のこと。

( 7 ) ブルーナー,J.S 橋爪貞雄訳『直感・創造・学習』

黎明書房、1969、p.182

( 8 ) 坪田耕三『算数科授業づくりの基礎・基本』東洋館

出版、2014、pp.8-10

( 9 ) N 大学附属小学校での公開研究会において、筆者が

観察した 1 場面を取り上げた。

(10) 根津知佳子他「教員養成型 PBL 教育における対話的

事例シナリオ教育の評価方法の開発」『三重大学高等

教育研究』第23号、2017(印刷中)

(11) メーハン , H(1979)が明らかにした、授業における教

師の発問構造。「I-R-E」は、I(teacher Initiative)、

R(student Response)、E(teacher Evaluation) の

頭文字から取っている。

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教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

1 はじめに28年度に入学した学生は、現行の高等学校

学習指導要領による教科書(現教科書)を履

修済みである。周知のように、教科 「商業」

においては、分野の名称が 「マーケティング

分野」「ビジネス経済分野」「会計分野」「ビ

ジネス情報分野」になり、科目構成は20科目

となった。基礎的な内容とともに、これまで

以上に各分野における専門性の深化が図られ

ている。「マーケティング分野」は、マーケティ

ング・商品開発・広告と販売促進の 3 科目、「ビ

ジネス経済分野」は、ビジネス経済・ビジネ

ス経済応用・経済活動と法の 3 科目になった。

このうち、「商品開発」と「ビジネス経済」

は新設科目である。特に、両分野とも、商業

を取り巻く環境の変化を注視した上で、サー

ビス経済化、グローバル化、ICT化、起業

家精神、地域産業の振興・創造、倫理観や遵

法精神などを念頭に置き、現在のビジネスの

諸活動の理解をはじめ知識・技術の習得そし

て活用、さらに探求的な学習を求めている。

また、ミクロ経済やマクロ経済における基

礎的な内容の充実も視野に入れていることも

意識しておく必要がある。「会計分野」は、

26年度に考察済みであるが(当該研究年報参

照)、より多くの専門的な内容を取り入れて

いる。ところで、教員採用選考試験を受験す

る昨今の学生は、旧指導要領による教科書(旧

教科書)で学び、現教科書は履修していない。

しかし、現在、高校現場の授業は現教科書を

使用している。そんな中、愛知県公立学校教

員採用選考試験における「受験案内」(1)には、

第一次試験の教科専門Ⅰは「基礎的知識」、

第二次試験の教科専門Ⅱは「専門的知識」と

示されている。こうしたことから、受験生に

とっては、履修していない現教科書との関わ

りを分析する必要性が生ずる。かくして、今

回の研究実践は、教科専門Ⅰ及び教科専門Ⅱ

について、現教科書から見た過去問題の分析・

考察及び新しい問題研究に着眼点を置くこと

とした。初めに、今年度実施分(平成29年度

同問題)まで過去 7 年分について、「マーケ

ティング分野」 及び 「ビジネス経済分野」 の

科目を分析・考察の上、次に同分野及び「会

計分野」について予想される問題と解答の作

成を取り扱うこととしたい。なお、26年度か

ら「会計分野」の問題について全問正解を目

指し実施している簿記実践演習は、以上のこ

とを考慮に入れ展開していきたい。

2 現教科書からとらえた「マーケティング分野」及び「ビジネス経済分野」の出題動向

教科専門Ⅰ及び教科専門Ⅱの問題につい

て、今年度実施分まで過去 7 年間を分析した。

マーケティング ・ 商品開発 ・ 広告と販売促

教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

- 「マーケティング分野」 及び 「ビジネス経済分野」 並びに「会計分野」を対象に-

冨田 律夫(非常勤講師)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

進 ・ ビジネス経済 ・ ビジネス経済応用の現教

科書について次の手順によった。(「経済活動

と法」は昨年度分析済み、当該研究年報参照)

( 1 )現教科書(実教出版発行)の目次を

示し、出題箇所に用語を示した。    に、

次のように、正しい答(正答)または解答肢

(正答でないもの)を表記した。

例  ㉙Ⅰ季節商品 ㉙⇒29年度、Ⅰ⇒教

科専門Ⅰからの出題、季節商品⇒正答

   ㉙Ⅰ定番商品(斜体) ㉙⇒29年度、Ⅰ⇒教科専門Ⅰからの出題、定番商品⇒正答であるとともに、他の教科書

(マーケティング ・ 商品開発 ・ 広告と

販売促進 ・ ビジネス経済 ・ ビジネス経

済応用のいずれか⇔当該教科書と略

記)にも掲載されていることを示す。

掲載されているすべての教科書の目次

に、同様に表記した。

   ㉙Ⅰ季節商品 ㉙⇒29年度、Ⅰ⇒教

科専門Ⅰからの出題、季節商品⇒解答

肢の一つ

   ㉙Ⅰ定番商品(斜体) ㉙⇒29年度、Ⅰ⇒教科専門Ⅰからの出題、定番商品⇒

解答肢の一つであるとともに、他の教

科書(当該教科書)にも掲載済みを示

す。掲載されているすべての教科書の

目次に、同様の表記をした。

   ㉙Ⅱリベート ㉙⇒29年度、Ⅱ⇒教

科専門Ⅱからの出題、リベート⇒正答

   ㉙Ⅱリベート(斜体) ㉙⇒29年度、Ⅱ⇒教科専門Ⅱからの出題、リベート⇒正答であるとともに、他の教科書(当

該教科書)にも掲載済みを示す。掲載

されているすべての教科書の目次に、

同様の表記をした。

( 2 )教科専門Ⅰは、選択式( 4 つの中か

ら正答を 1 つ選ぶ)につき、上記のように正

答とともに解答肢を記載した。解答肢は出題

傾向を考察する際、有用と考え掲載した。

( 3 )教科専門Ⅰは、正答のほか、解答肢

は 3 つあるが、当該教科書の範囲外すなわち

他の科目に属する場合などがあり、年度別の

数が合わないこともある。

( 4 )教科専門Ⅱは、記述式につき正答の

み記載している。解答肢の記載はない。

( 5 )29年度から、教科専門Ⅰ・教科専門

Ⅱについて、それぞれ正答、解答肢の順にし

た。

( 6 )正答または解答肢が、当該教科書の

複数箇所にある場合、 1 箇所に搾って掲載し

た。

( 7 )出題動向の考察は、初めに「ビジネ

ス基礎」で学習済みの用語を記述した。同科

目は、原則履修科目とともに「基礎的な科目」

に位置づけられ関連を注視したいためであ

る。

( 8 )マーケティング

(図01)現教科書「マーケティング」 実教出版 目次及び正答・解答肢(2)(7)(14)から(27)

第 1 章 現代市場とマーケティング  1  現代市場の特徴

   1  現代市場のメカニズム   2  消費の動向

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教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

    ㉗Ⅰグリーン購入   3  生産の動向    ㉙Ⅰサービス経済化    ㉙Ⅰ生産の合理化    ㉙Ⅰ生産の国際化    ㉙Ⅰ商品のソフト化   4  流通の動向    ㉗Ⅰ大規模小売店舗立地法    ㉗Ⅰ大規模小売店舗法    ㉕Ⅱカテゴリーキラー  2  マーケティングの概要   1  マーケティングの発展    ㉙Ⅰソーシャルマーケティング    ㉙ⅡCSR    ㉘Ⅰディ ・ マーケティング    ㉘Ⅰエコロジカルマーケティング    ㉘Ⅰオーダリーマーケティング   2  マーケティングの内容と手順    ㉙Ⅰマーケティングリサーチ    ㉙Ⅱ商品計画第 2 章 市場調査  1  市場調査の意味   1  市場調査の必要性   2  市場調査の内容    ㉘Ⅰ国内総生産  ㉔ ⅠGDP  2  市場調査の手順   1  状況分析   2  予備調査   3  本調査  3  実体調査の方法   1  調査方法の決定    ㉖Ⅰ全数調査 ㉕Ⅰ集落抽出法    ㉕Ⅰ多段階抽出法    ㉕Ⅰ有意抽出法 ㉕Ⅰ層化抽出法   2  資料収集方法の決定    ㉙Ⅰテストマーケティング    ㉖Ⅰ事実調査 ㉖Ⅰ動線調査   3  変化をとらえる調査方法    ㉖Ⅰパネル調査  4  市場調査の実習   1  実習のねらいと事前準備   2  実習の手順と注意点   3  報告説明会の開催と追跡第 3 章 消費者行動  1  消費者行動と購買   1  消費者による問題解決行動としての購買   2  購買とマーケティング活動    ㉘Ⅱ AIDAS理論   3  購買意思決定に影響を及ぼす要因  2  購買意思決定過程   1  問題認識(動機づけ)   2  情報探索と情報収集

   3  選択肢の評価   4  購買行動   5  消費・使用と購買後の評価  3  製品のライフサイクルと普及   1  製品のライフサイクル    ㉗Ⅱ成長期   2  製品の普及と顧客層の変化第 4 章 販売計画  1  販売計画と販売予測   1  販売計画の必要性   2  販売予測  2  販売計画の立案・実施・統制   1  販売計画の立案    ㉘Ⅰトータルマーケティング    ㉗Ⅰトータルマーケティング   2  販売計画の実施と統制第 5 章 製品計画  1  製品計画の概要   1  商品計画の内容   2  製品計画の重要性   3  製品計画の内容   4  流通業者による商品開発    ㉗Ⅱプライベートブランド商品   5  製造物責任と環境保全    ㉗Ⅱ製造物責任法    ㉔ⅡReduce    ㉔ⅡReuse    ㉔ⅡRecycle  2  製品ミックスと製品政策   1  製品ミックス   2  製品政策第 6 章 仕入計画と商品管理  1  仕入計画   1  仕入計画の意味   2  仕入計画の手順   3  仕入計画の内容    ㉙Ⅰ促進商品 ㉙Ⅰ定番商品    ㉙Ⅰ季節商品 ㉙Ⅰ名声商品    ㉗Ⅰ当用仕入 ㉗Ⅰ集中仕入    ㉗Ⅰ共同仕入 ㉗Ⅰ大量仕入    ㉓Ⅰ定番商品  2  商品管理   1  商品管理の意味   2  在庫管理    ㉘Ⅰ POSシステム    ㉕Ⅰ POSシステム    ㉓Ⅱリードタイム   3  商品の物的管理第 7 章 販売価格  1  販売価格の決定   1  販売価格の意味   2  販売価格の種類と構成

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

    ㉘Ⅰ統制価格 ㉘Ⅰ生産者価格    ㉘Ⅰ競争価格 ㉘Ⅰ管理価格   3  販売価格の決定    ㉔Ⅰ値入率25%    ㉔Ⅰ原価率の計算結果80%    ㉔Ⅰ利幅率の計算結果20%    ㉓Ⅰ需要志向型の価格決定法    ㉓Ⅰ原価志向型の価格決定法    ㉓Ⅰ競争志向型の価格決定法    ㉓Ⅰ環境志向型の価格決定法   4  販売価格の決定に影響する要因  2  価格戦略   1  価格戦略の意味   2  卸売価格政策    ㉗Ⅰ機能割引(業者割引)    ㉗Ⅰ季節割引 ㉗Ⅰ数量割引    ㉗Ⅰ現金割引 ㉖Ⅱリベート   3  価格の維持・安定政策    ㉙Ⅱ価格指導制 ㉗Ⅱカルテル   4  小売価格政策    ㉕Ⅰ慣習価格政策 ㉕Ⅰ正札政策    ㉕Ⅰ名声価格政策    ㉕Ⅰ均一価格政策 ㉕Ⅱ端数   5  新製品を発表するさいの価格政策   6  小売価格の表示第 8 章 販売経路  1  販売経路の設定   1  販売経路と販売経路政策の意味   2  販売経路の形態   3  販売経路を設定する基準   4  販売経路政策の種類    ㉙Ⅰダイレクトマーケティング    ㉗Ⅰダイレクトマーケティング    ㉓Ⅰ特約販売経路政策    ㉓Ⅰ開放的販売経路政策    ㉓Ⅰ制限的(選択的)販売経路政策    ㉓Ⅰ直接販売経路政策  2  販売経路の強化   1  販売経路の強化の方向性   2  販売経路の系列化    ㉙Ⅱチャネルリーダー    ㉘Ⅰボランタリーチェーン    ㉘Ⅰコーポレートチェーン    ㉘Ⅰフランチャイズチェーン   3  販売経路の短縮化   4  販売経路の効率化    ㉙Ⅰ EDI    ㉗Ⅰサプライチェーンマネジメント    ㉕Ⅰ EDI   5  販売経路の多様化   6  流通業者の立場と対応    ㉗Ⅰロジスティクス    ㉕Ⅰ ECR

第 9 章 販売促進  1  販売促進の重要性   1  販売促進の役割   2  販売促進の内容   3  販売促進のすすめ方    ㉘Ⅱプッシュ戦略    ㉖Ⅱプロモーションミックス    ㉖Ⅱプッシュ戦略  2  広告   1  広告の意義    ㉗Ⅱ日本広告審査機構(JARO)   2  広告の計画と実施    ㉘Ⅱメディアミックス   3  広告の種類    ㉘Ⅰノベルティ広告    ㉘Ⅰ DM広告  ㉘Ⅰ POP広告    ㉘Ⅰクーポン広告    ㉘Ⅰチラシ広告    ㉖Ⅰノベルティ広告    ㉖Ⅰ購買時点広告(POP広告)    ㉖Ⅰ直接広告    ㉓Ⅰ POP(広告)   4  PR 活動とパブリシティ戦略    ㉗Ⅰメセナ活動    ㉓Ⅱメセナ活動  3  販売員活動   1  販売員活動の特質   2  販売員活動の手順    ㉘Ⅱクーリングオフ   3  販売員に必要な資質と知識   4  販売員の管理  4  ブランド   1  ブランドの意味   2  ブランドの展開   3  ブランドのライフサイクル   4  ブランドの機能  5  信用販売   1  信用販売の意義   2  信用販売の種類   3  信用販売のむずかしさ   4  クレジットカードによる販売   5  社会的問題への対応  6  その他の販売促進   1  販売サービス    ㉖Ⅰデビットカード    ㉖Ⅰプリペイドカード    ㉖Ⅰ電子マネー    ㉖Ⅰクレジットカード   2  プレミアム販売   3  消費者の組織化   4  イベントの開催重要用語のまとめと解説さくいん

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教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

 ● 出題動向-考察と問題研究

 ア 当該科目に示される用語のうち、「ビ

ジネス基礎」には「CSR、国内総生産、プ

ライベートブランド商品、製造物責任法、R

educe、Reuse、Recycle、

POS システム、値入率、ボランタリーチェー

ン、コーポレートチェーン、フランチャイズ

チェーン、サプライチェーンマネジメント、

クーリングオフ、デビットカード、プリペイ

ドカード、電子マネー、クレジットカード」

などの記述がある。(12)(13)

 イ 現教科書の相当な箇所から出題され

ている。今後は、現教科書において内容を充

実した箇所たとえば、市場調査に関する内容、

消費者行動の特徴や意思決定そして購買行

動、販売予測や消費者保護などについて出題

が見込まれる。問題研究として、予想される

用語を次に示すものとする。紙面の都合によ

り、問題文の形式「次の説明文に該当する用

語を解答せよ」を踏まえ、「整理番号  用語

の説明文 (用語の解答)」とする。(7)

①当該業界内での各企業の力関係を示す有

力な指数、各企業の売上高/当該業界全体の

売上高*100で求める(市場占有率)②抽出

方法の一つで、母集団からまさしく任意に標

本を抽出する方法(単純無作為抽出法)③商

品が便益を生み出すために備わっているとさ

れる性質や特徴のこと(属性)④販売予測の

方法の一つで、過去の売上実績に基づいて将

来の売上高を予測する方法(売上高実績法)

⑤有名メーカーが生産開発し、全国に広く販

売されている商品(ナショナルブランド商品)

⑥マーケティング目標の実現に向けて、当該

企業が市場に供給する製品の最適な組合わせ

(製品ミックス)⑦標準の在庫高を設定した

上で、最低在庫量と最高在庫量を決めて発注

のタイミングを図るとき、最も有利な一回あ

たりの発注量(経済的発注量)⑧新製品の価

格戦略の一つで、新製品にかかった費用を早

く回収するため、高額所得者層を標的として、

導入段階で設定する高い価格(上澄吸収価格

または初期高価格)⑨販売の締めくくりとし

て、顧客が気がつかないでいる用品や当該関

連商品について、その必要性の有無を確認す

ること(テストクロージング)⑩全国の都道

府県や主要都市に設けられている消費者保護

や啓発・相談などを目的として活動を行って

いる機関(消費生活センター)⑪実施した活

動内容や成果を分析し、その結果や改善点を

その後の活動に反映させること(フィード

バック)

( 9 )商品開発

(図02)現教科書「商品開発」 実教出版 目次及び正答・解答肢(3)(8)(14)から(27)

第 1 章 商品と商品開発序 節 第 1 章で学ぶこと    ㉖Ⅱ商品開発第 1 節 商品の多様化  1 .商品の成り立ちと範囲  2 .技術革新と商品

  3 .経済の国際化と商品  4 .消費生活の変化と商品  5 .地球環境の保全と商品第 2 節 商品開発の意義と手順  1 .商品開発の意義   ㉘Ⅰステークホルダー

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

   ㉖Ⅰステークホルダー  2 .現代社会における商品開発   ㉙Ⅱ CSR  ㉖Ⅰ CSR   ㉖Ⅰコンプライアンス  3 .商品のライフサイクル   ㉗Ⅱ成長期  4 .商品の評価と商品の改良  5 .商品開発の手順第 1 章 練習問題第 2 章 商品の企画序 節 第 2 章で学ぶこと第 1 節 環境分析  1 .商品を取り巻く環境  2 .マクロ環境の分析  3 .ミクロ環境の分析第 2 節 商品開発の意思決定と開発テーマの決定  1 .商品開発の意思決定  2 .開発テーマの検討第 3 節 市場調査  1 .市場調査とは  2 .市場調査の内容  3 .市場調査の方法  4 .市場調査の手順第 4 節 商品コンセプトの立案と商品企画書の作成  1 .商品コンセプトとは  2 .商品コンセプト立案の手順   ㉙Ⅰアイデアマップ   ㉙Ⅰブレーンストーミング   ㉙Ⅰ KJ法 ㉙Ⅰ水平思考   ㉗Ⅱ KJ法 ㉔Ⅱ KJ法   ㉓Ⅱブレーンストーミング  3 .商品企画書の作成とプレゼンテーション第 2 章 練習問題第 3 章 商品の開発序 節 第 3 章で学ぶこと第 1 節 商品の仕様と詳細設計  1 .商品の仕様   ㉔Ⅰ仕様書  2 .詳細設計  3 .コンピュータによる設計と評価第 2 節 試作品の作成と評価  1 .試作の目的  2 .試作品の作成  3 .試作品の評価第 3 節 開発商品のテスト  1 .機能テストと消費者テスト   ㉙Ⅰ機能テスト  2 .消費者テストの方法   ㉙Ⅰ使用テスト ㉙Ⅰ官能テスト  3 .市場テスト   ㉙Ⅰ市場テスト第 4 節 事業計画の立案

  1 .事業計画の立案の趣旨   ㉕Ⅱ Price(販売価格)  2 .価格の設定  3 .流通経路の立案   ㉓Ⅰ特約販売経路政策    (特約流通経路政策)    ㉓Ⅰ開放的販売経路政策    (開放的流通経路政策)   ㉓Ⅰ制限的販売経路政策    (制限的流通経路政策)   ㉓Ⅰ直接販売経路政策    (直接流通経路政策)  4 .販売促進の立案   ㉘Ⅱメディアミックス   ㉘Ⅱプッシュ戦略  ㉖Ⅱリベート   ㉖Ⅱプロモーションミックス   ㉖Ⅱプッシュ戦略  5 .財務計画の立案  6 .事業計画書の作成とプレゼンテーション第 3 章 練習問題第 4 章 商品開発とデザイン序 節 第 4 章で学ぶこと第 1 節 デザインの基礎  1 .デザインの役割   ㉙Ⅰユニバーサルデザイン   ㉕Ⅱユニバーサルデザイン  2 .デザインの種類  3 .商品開発と関わりの深いデザイン  4 .デザインの基本ルール第 2 節 パッケージデザイン  1 .パッケージデザインとは   ㉔Ⅱパッケージデザイン  2 .パッケージデザインの制作第 3 節 グラフィックデザイン  1 .グラフィックデザインとは   ㉘Ⅰ POP広告  ㉘Ⅰカタログ   ㉘Ⅰポスター ㉘Ⅰチラシ   ㉘Ⅰリーフレット ㉔Ⅰカタログ   ㉓Ⅰ POP(広告)  2 .グラフィックデザインの制作第 4 章 練習問題第 5 章 商品開発と知的財産権序 節 第 5 章で学ぶこと第 1 節 知的財産権の内容  1 .知的財産の保護の重要性   ㉘Ⅱ知的財産権  2 .特許権の内容  3 .実用新案権の内容  4 .意匠権の内容  5 .著作権の内容   ㉙Ⅰ著作権50年 ㉘Ⅰ公表権   ㉘Ⅰ同一性保持権

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教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

   ㉘Ⅰ氏名表示権 ㉘Ⅰ複製権  6 .商標権の内容  7 .不正競争防止法の内容   ㉗Ⅰ不正競争防止法第 2 節 知的財産権の取得  1 .知的財産の権利化の意義  2 .知的財産権の取得手続き第 3 節 知的財産権の活用  1 .独占的販売  2 .ライセンス   ㉙Ⅱアウトソーシング   ㉗Ⅰアウトソーシング第 5 章 練習問題第 6 章 商品流通と流通を支える活動序 節 第 6 章で学ぶこと第 1 節 流通の仕組みと市場  1 .流通の役割   ㉖Ⅰ荷役 ㉔Ⅱ時間的隔たり  2 .流通の仕組みとその変化  3 .流通系列化  4 .商品流通における市場の役割と課題  5 .卸売業者の種類   ㉖Ⅰ商社(総合商社)   ㉖Ⅰ元卸売商(元卸売業者)   ㉖Ⅰ二次卸売商(二次卸売業者)   ㉖Ⅰ集散地卸売商(集散地卸売業者)  6 .小売業者の種類  7 .業態ごとの流通戦略第 2 節 売買業者の商品計画  1 .卸売業者の商品計画と今後の方向  2 .小売業者の商品計画と今後の方向

  3 .プライベートブランド商品の開発   ㉗Ⅱプライベートブランド商品第 3 節 流通手段の多様化  1 .無店舗販売   ㉙Ⅰダイレクトマーケティング   ㉗Ⅰダイレクトマーケティング   ㉖Ⅱ電子商取引  2 .商品の特性に応じた流通第 4 節 物流と流通を支えるその他の活動  1 .物流の働きと仕組み   ㉗Ⅰモーダルシフト ㉖Ⅰ輸送   ㉖Ⅰ保管 ㉕Ⅱモーダルシフト  2 .金融・保険の働きと仕組み   ㉗Ⅱ製造物責任法  ㉔Ⅰ生命保険  3 .情報通信システム   ㉘Ⅰ POSシステム   ㉕Ⅰ POSシステム第 6 章 練習問題第 7 章 総合実習  1 .商品開発演習のねらいと演習の手順  2 .商品開発実習巻末資料 プレゼンテーション  1 .プレゼンテーションとは  2 .プレゼンテーションの種類  3 .プレゼンテーションの留意点  4 .プレゼンテーションの流れ  5 .プレゼンテーション資料の作成  6 .プレゼンテーション実習重要用語のまとめと解説さくいん

 ● 出題動向-考察と問題研究

 ア 当該科目に示される用語のうち、「ビ

ジネス基礎」には「ステークホルダー、CS

R、コンプライアンス、仕様書、カタログ、

アウトソーシング、荷役、時間的隔たり、商

社(総合商社)、元卸売商(元卸売業者)、二

次卸売商(二次卸売業者)、集散地卸売商(集

散地卸売業者)、プライベートブランド商品、

モーダルシフト、輸送、保管、製造物責任法、

POS システム」などの記述がある。(12)(13)

 イ 新設科目であり、「ビジネス基礎」で

学習した用語を除くと控え目に出題されてい

る。今後は、商品の企画、開発、提案及び知

的財産権の内容などについて出題が見込まれ

る。問題研究として、予想される用語を紙面

の制約から前記科目の形式により図示する。

(図03)出題が予想される用語(8)

①消費者主義の発展として、消費者自身が、日常生活において環境問題を意識し、地球環境に配慮した商品を選択・対応していこうとする考え方(グリーンコンシューマリズム)②開発する商品の価値や特徴を、消費者にわかりやすく簡潔に表現したもの。ターゲット、ベネフィット、シーンで構成される(商品コンセプト)③企業活動において必要とされる人的資源、物的資源、資金、情報のこと(経営資源)④企業の業績の向上や成長に貢献すると予想される環境の状況、

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

(図04)現教科書「広告と販売促進」 実教出版 目次及び正答・解答肢(4)(9)(14)から(27)

(10)広告と販売促進

企業にとってプラスの効果をもたらすものを「機会」という。一方、企業の業績の向上や成長を妨げると予想される環境の状況、企業にとってマイナスの効果をもたらすもの(脅威)⑤社内で商品コンセプトの商品化について承認を得るため、商品コンセプトの魅力や特徴を文書の形式でまとめたもの(商品企画書)⑥商品開発において、企画内容の特徴や魅力に決定権をもつ責任者たちに対し、的確に伝え理解してもらうための表現手段・技法のこと(プレゼンテーション)⑦企業において、損失がゼロとなり利益が出てくる時点を分析すること(損益分岐点分析)⑧文字の書体について、「商品開発」は明朝体、「商品開発」はゴシック体、そのほか「商品開発」は(POP体)⑨消費者の注意を引きつけ(人目を引きつける)、購買意欲を刺激するために意図的につくられるデザインのポイント(アイキャッチ)⑩知的財産権には、特許権、実用新案権、商標権、意匠権、著作権がある。創作・開発された商品 [ 工業製品 ] のデザインを保護する権利(意匠権)⑪独自に創作したアイデアやデザイン、キャラクター、ネーミングなどを有償にて使用させる契約(ライセンス契約)

第 1 章 販売促進1 節 販売促進の概要  1  販売促進とは   ㉖Ⅱ販売促進   ㉕Ⅱ Price(販売価格)  2  販売促進と消費者ニーズ   ㉙Ⅰセグメンテーション   ㉘Ⅰターゲティング  3  販売促進とブランド   ㉘Ⅰステークホルダー   ㉖Ⅰステークホルダー  4  販売促進の新しい展開   ㉘Ⅰコーズ ㉗Ⅰメセナ(活動)   ㉓Ⅱメセナ活動2 節 消費者行動の理解  1  説得と態度  2  効果的な説得  3  購買過程   ㉔Ⅱ AIDMA(の法則)3 節 販売促進の戦略と具体的活動  1  販売促進の戦略   ㉘Ⅱプッシュ戦略   ㉖Ⅱプッシュ戦略  2  セールス - プロモーション   ㉙Ⅰリテール - プロモーション   ㉙Ⅰトレード - プロモーション   ㉙Ⅰ消費者プロモーション第 2 章 広告1 節 広告の概要  1  広告とは  2  広告の種類  3  広告の機能2 節 広告計画の手順と内容  1  広告計画とIMC  2  状況分析   ㉗Ⅱ SWOT分析   ㉗Ⅱ PPM(分析)

  3  広告コンセプト   ㉙Ⅰブレーンストーミング    (ブレインストーミング)   ㉓Ⅱブレーンストーミング    (ブレインストーミング)  4  広告表現の決定  5  広告制作の手順  6  メディアの選択   ㉙Ⅱバナー広告   ㉘Ⅰノベルティ広告   ㉘Ⅰ DM広告  ㉘Ⅰ POP広告   ㉘Ⅰチラシ  ㉖Ⅰノベルティ広告   ㉖Ⅰ POP広告   ㉕Ⅱバナー広告   ㉓Ⅰ POP(広告)  7  メディア・プラン   ㉘Ⅱメディアミックス  8  広告効果の測定 特集 広告デザインの技法 実習 1  広告計画の立案と広告制作第 3 章 広報1 節 広報の概要  1  広報とは  2  広報の種類と役割  3  広報の仕事と組織2 節 広報の具体的活動  1  商品広報  2  企業広報   ㉙Ⅱ CSR  ㉙Ⅱフェアトレード   ㉙Ⅱスポンサーシップ   ㉘Ⅰスポークスパーソン   ㉖Ⅰ CSR   ㉖Ⅰコンプライアンス3 節 効果的な広報  1  効果的な広報の考え方  2  効果的な広報の方法第 4 章 店舗の立地と設計

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教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

1 節 店舗の立地  1  店舗立地とは  2  立地の選定条件 実習 2  立地分析2 節 店舗の設計  1  店舗設計とは  2  店舗設計の計画   ㉕Ⅱカテゴリーキラー  3  店舗レイアウト3 節 商品の棚割と陳列  1  棚割の方法  2  陳列の方法 特集 ディスプレイの種類   ㉙Ⅰ定番商品  ㉔Ⅰオープン陳列   ㉓Ⅰ定番商品 実習 3  店舗分析 特集 POP広告のデザイン 実習 4  POP広告の制作第 5 章 販売員活動1 節 販売員活動の概要  1  販売員活動とは  2  販売員活動の種類   ㉖Ⅰ BtoB  ㉖Ⅰ BtoC   ㉔Ⅰ BtoB  ㉔Ⅰ BtoC   ㉓Ⅰ BtoC  ㉓Ⅰ BtoB  3  組織における販売員2 節 販売員活動の方法  1  販売員に求められる役割と知識  2  効果的な販売方法   ㉘Ⅱクーリング - オフ

 特集 接客の心がまえと敬語 実習 5  店舗販売観察 実習 6  販売ロールプレイング 特集 セールス - プロモーション第 6 章 時代に応じた販売促進1 節 新しい販売促進  1  消費者ニーズに応じた販売促進   ㉙Ⅰダイレクトマーケティング   ㉘Ⅰカタログ   ㉘Ⅰクーポン(広告)   ㉗Ⅰダイレクトマーケティング   ㉖Ⅱ電子商取引  ㉔Ⅰカタログ  2  新しいメディアによる販売促進  3  新しい方法による販売促進2 節 販売促進の規制  1  規制の意義  2  規制の種類   ㉗Ⅱ日本広告審査機構(JARO)  3  法規制の具体的内容3 節 販売促進の課題  1  消費者対応の重要性  2  法律に基づいた消費者対応   ㉘Ⅱクーリング - オフ 8 日間   ㉗Ⅱ製造物責任法  3  制度に基づいた消費者対応   ㉔Ⅱ国際標準化(機構)   ㉓Ⅱピクトグラム  4  自主性に基づいた消費者対応重要用語のまとめと解説さくいん

 ● 出題動向-考察と問題研究

 ア 当該科目に示される用語のうち、「ビ

ジネス基礎」には「ステークホルダー、CS

R、コンプライアンス、BtoB、BtoC、

クーリングオフ、カタログ、製造物責任法」

などの記述がある。(12)(13)

 イ 現教科書の相当な箇所から出題され

ている。今後は、現教科書において内容を充

実した箇所たとえば、販売促進と顧客満足の

実現に関する内容が充実されたことにより、

それを踏まえた内容などが見込まれる。問題

研究として、予想される用語を紙面の制約か

ら前記科目同様に図示する。

(図05)出題が予想される用語(9)

①競合商品がある中において、カテゴリー内で自社の商品にとって有利な位置づけを行うこと(ポジショニング)②広告表現において、表現の一貫性を持たせ広告の雰囲気を統一するルール(トーンアンドマナー)③消費者が接触する企業情報との接点。新聞、テレビ、ラジオ、インターネット、広告など(コンタクトポイントまたはタッチポイント)④予算の決め方の一つで、前年や過去の平均的な売上高に一定の比率をかけて算出する方法(売上高比率法)⑤自社の商品を、新聞の記事やテレビ番組などメディアに取り上げてもらうための情報提供や働きかけ(商品広報またはパブリシティ)⑥企業の情報発信、問い合わせや苦情への対応、不祥事の際の記者会見などの活動(企業広報またはコーポレー

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128

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

(11)ビジネス経済

(図06)現教科書「ビジネス経済」 実教出版 目次及び正答・解答肢(5)10(14)から(27)

トコミュニケーション)⑦投資家への情報提供と関係づくりのためのコミュニケーション。自社への投資を呼びかけるための活動(インベスターリレーションズ)⑧社内報やイントラネットなど、企業内の従業員のモチベーションを高める目的で行われる広報活動(インターナルコミュニケーション)⑨企業のブランド価値を高めると同時に社員の意識の統一を図っていくためにデザインや言葉 [ ロゴやスローガン ] によって目に見える形で簡潔に表現したもの(コーポレートアイデンティティ)⑩商品の品揃え、価格の決定、仕入計画、棚割、陳列といった一連の業務(マーチャンダイジング)⑪グルーピングした商品群をどこの売り場に、どれくらいの配分で陳列(配置)するかを決める一連の作業(ゾーニング)⑫棚割の最終段階で、個々の商品をどこに何列並べるかを決定すること(フェイシング)⑬陳列する位置で、最もとりやすい商品の高さ、目線よりもやや低い場所のこと(ゴールデンライン)⑭職場内で、上司や先輩の仕事を見ながら知識や技能、言葉遣いを学ぶ実習形式の教育のこと(OJTまたは職場内教育) ⑮消費者がよりよい商品やサービスを選択でき、不利益を受けないようにするため、不当表示や過大な景品類の提供が行われないように、その防止を目的として定められた法律(景品表示法)⑯消費者の利益を守るため、国や地方公共団体、企業の責務について定めた法律。消費者の権利を尊重し、自立を支援することが含まれる(消費者基本法)

第 1 章 市場と経済  1 節 資源配分のしくみ   1  さまざまな財   2  資源配分メカニズム    ㉕Ⅱ家計   3  市場メカニズム   4  効率的な資源配分   5  組織による資源配分   6  市場と組織   7  市場経済と計画経済  2 節 現代の市場経済とビジネス   1  現代の市場    ㉘Ⅰ POSシステム    ㉗Ⅰ金融ビッグバン    ㉖Ⅱ自給自足 ㉕Ⅰ間接金融    ㉕Ⅰ直接金融    ㉕Ⅰ POS(システム)    ㉓Ⅰ 1986年イギリスの証券市場改革 「ビッグバン」   2  市場と競争第 2 章 需要と供給  1 節 需要の概念と需要の変化   1  財と市場   2  需要の概念   3  最適な消費行動   4  効用と消費量の関係   5  需要の変化   6  代替財と補完財   7  需要の弾力性  2 節 供給の概念と供給の変化   1  供給の概念   2  限界費用   3  企業の最適生産   4  供給の弾力性第 3 章 価格決定と市場の役割

  1 節 価格決定のしくみ   1  市場の均衡   2  均衡の変化  2 節 市場の役割と課題   1  市場経済における財と生産要素の配分   2  不完全競争と独占   3  不完全競争と寡占   4  自由競争と政府   5  不完全競争と独占的競争   6  政府の規制と課税   7  市場の限界 Advance 情報の非対称性 Advance ゲーム理論第 4 章 経済成長と景気循環  1 節 GDP(国内総生産)   1  付加価値と GDP    ㉘Ⅰ国内総生産  ㉔Ⅰ GDP   2  日本の GDP   3  GDP と豊かさ    ㉗Ⅱ為替レート   4  国民総生産    ㉙Ⅰ国富  ㉕Ⅱフロー    ㉔Ⅰ GNP   5  資本ストック  2 節 経済循環   1  家計と企業    ㉘Ⅱ可処分所得   2  政府と外国   3  三面等価    ㉘Ⅰ国民純生産  ㉘Ⅰ国民所得    ㉕Ⅱ三面等価  ㉔Ⅰ NI    ㉔Ⅰ NNP  3 節 物価と実質 GDP   1  物価指数

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129

教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

   2  物価上昇率   3  インフレーションとデフレーション    ㉘Ⅰギャロッピング - インフレーション    ㉘Ⅰクリーピング - インフレーション   4  実質 GDP と経済成長率  4 節 経済成長   1  日本の経済成長   2  経済成長の要因   3  日本経済を成長させるもの  5 節 景気変動とインフレーション   1  景気指標    ㉘Ⅰ一致指数 ㉘Ⅰ先行指数    ㉘Ⅰ遅行指数   2  景気変動の要因   3  物価変動の要因    ㉘Ⅰディマンド - プル - インフレーション    ㉘Ⅰコスト - プッシュ - インフレーション   4  国際化と景気変動   5  景気変動の弊害   6  物価変動の弊害第 5 章 経済政策  1 節 財政   1  政府の役割

   2  混合経済体制   3  国の予算制度   4  社会保障制度    ㉔Ⅰ労働者災害補償保険   5  税    ㉘Ⅱ直間比率   6  財政赤字と国際   7  地方財政    ㉘Ⅱふるさと納税  2 節 金融   1  ポートフォリオ選択   2  直接金融と間接金融   3  貨幣   4  日本銀行    ㉙Ⅱ強制通用力   5  預金通貨とマネーストック   6  準備預金制度    ㉙Ⅱ準備預金制度    ㉙Ⅱマネタリーベース   7  信用創造   8  金融政策重要用語のまとめと解説さくいん

 ● 出題動向-考察と問題研究

 ア 当該科目に示される用語のうち、「ビ

ジネス基礎」には「家計、POS システム、

金融ビッグバン、自給自足、間接金融、直接

金融、国内総生産、為替相場、強制通用力」

などの記述がある。 (12)(13)

 イ 新設科目であり、「ビジネス基礎」で

学習した用語を除くとやや控え目に出題され

ている。今後は、現教科書において内容を充

実した箇所たとえば、需要と供給、景気循環

と経済政策に関する内容などについて出題が

見込まれる。問題研究として、予想される用

語を紙面の制約から前記科目同様に図示する。

(図07)出題が予想される用語(10)

①まったく新しい技術や考え方、方法などを取り入れることにより、社会に大きな変化をもたらすこと(イノベーション)②非常に多くの企業が存在し、差別化されていない財(商品)が取引される市場(完全競争市場)③売り手として数社の企業が存在し、その企業によって占有されている市場(寡占市場)④消費量が増えれば増えるほど限界効用が減っていく法則(限界効用逓減の法則)⑤生産量が増加すればするほど限界費用が増加していく法則(限界費用逓増の原則)⑥利潤が最大になるように、企業が生産量を決めること(最適生産または利潤最大化)⑦超過需要が発生した場合における売り手に有利な市場に対して、超過供給が発生した場合における買い手に有利な市場(売り手市場と買い手市場)⑧売り手と買い手のいずれかが、片寄った状態になり、市場で競争が制限される状態(不完全競争)⑨自ら市場価格を決定できる者。独占企業は自由に価格の設定ができる(プライスメーカー)⑩自由競争が激しさを増し、同種の企業が適正な利潤を確保できないほどの過度な競争が行われている状態(過当競争)⑪物価指数が1年間にどれだけ変化 [ 上昇もしくは下降 ] したかを表す割合、 数値(物価上昇率)⑫経済活動の活発さを示す指標として、実質GDPの1年間の増加率のこと(経済成長率)⑬経済活動の停滞 [ 不況 ] とインフレーションが同時に発生している経済状況(スタグフレーション)⑭国や地方公共団体の財政について、歳入と歳出のバランスが保たれていること、またはそのための規範(財政規律)⑮貸し手が、手もとの資金を多様な金融資産にどのように振り分けるか選択すること(ポートフォリオ選択)⑯市場に流通する現金通貨及び日本銀行が市中銀行から預かった当座預金を合計した額(マネタリーベース)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

(12)ビジネス経済応用

(図08)現教科書「ビジネス経済応用」 実教出版 目次及び正答・解答肢(6)(11)(14)から(27)

第 1 章 サービス経済化とサービス産業  1 節 産業構造の変化と労働   1  産業構造の変化    ㉙Ⅱアウトソーシング    ㉗Ⅰアウトソーシング    ㉖Ⅱエンゲル係数    ㉓Ⅱエンゲル係数   2  労働市場の変化   3  消費構造の変化    ㉘Ⅱ可処分所得  2 節 サービス産業の現状   1  経済の発展とサービス産業の現状   2  対個人サービス産業の現状   3  対事業所サービス産業の現状   4  新しいビジネスチャンスの発見第 1 章確認問題・調べ学習第 2 章 経済の国際化  1 節 企業の国際化・グローバル化   1  国際化からグローバル化へ   2  グローバル化の主体   3  わが国の企業のグローバル化   4  地域経済統合    ㉙Ⅰ地域経済連合    ㉗Ⅱ ASEAN(東南アジア諸国連合)    ㉗Ⅱ EU(欧州連合)    ㉓Ⅱ APEC ㉓Ⅱホーク首相  2 節 国際化の進展と国際収支   1  国際収支の構造    ㉙Ⅰ国際収支 ㉙Ⅰ対外資産    ㉕Ⅰ貿易 ・ サービス収支   2  国際収支と国内総生産    ㉘Ⅰ国民純生産  ㉘Ⅰ国内総生産    ㉘Ⅰ国民所得  ㉘Ⅰ国民総所得    ㉕Ⅱ三面等価(の原則)    ㉔Ⅰ GDP  ㉔Ⅰ GNP    ㉔Ⅰ NI  ㉔Ⅰ NNP   3  債権国と債務国    ㉙Ⅰ国富  3 節 貿易の利益と課題   1  貿易の役割    ㉙Ⅰ緊急関税制度 ㉖Ⅰ保護貿易    ㉔Ⅰ WTO   2  貿易構造の変化    ㉖Ⅰ垂直貿易 ㉖Ⅰ産業間貿易    ㉖Ⅰ企業内貿易  4 節 国際資本移動   1  国際資本移動の形態   2  国際資本移動の役割   3  金融のグローバル化

    ㉙Ⅱタックス ・ ヘイブン   4  アメリカとヨーロッパにおける金融問題   5  世界経済の安定を目的とした金融規制    ㉙Ⅰ金融規制改革法 ㉔Ⅰ IMF  5 節 外国為替   1  外国為替のしくみ    ㉗Ⅰニクソンショック    ㉗Ⅱ(外国)為替相場   2  外国為替相場の変動要因   3  外国為替相場の種類   4  為替リスク第 2 章 確認問題・調べ学習第 3 章 金融市場と資本市場  1 節 金融取引の発達   1  金融取引とは何か   2  金融取引の現状  2 節 貯蓄と投資の動向   1  直接金融と間接金融    ㉙Ⅰ信用金庫 ㉙Ⅰ信託銀行    ㉙Ⅰ損害保険会社 ㉕Ⅰ間接金融    ㉕Ⅰ直接金融    ㉔Ⅰ預金準備率(操作)   2  貯蓄と投資の意義   3  わが国における貯蓄と投資の動向  3 節 金融市場と資本市場の役割   1  金融市場とは    ㉔Ⅰ公開市場操作   2  資本市場とは    ㉘Ⅱ上場 ㉘Ⅱ公開買付  4 節 金融市場と資本市場の課題   1  金融市場・資本市場を支える行政組織    ㉙Ⅰ金融商品取引法 ㉙Ⅰ公的資金    ㉗Ⅰ金融ビッグバン    ㉖Ⅰディスクロージャー    ㉓Ⅰ1986年イギリスの証券市場改革 「ビッグバン」   2  経済の国際化と金融市場・資本市場の課題第 3 章 確認問題・調べ学習第 4 章 企業経営  1 節 企業経営の特色   1  自由な競争と日本的経営   2  財務的特質と企業間関係   3  雇用慣行の特色   4  集団的意思決定   5  わが国企業経営の課題  2 節 企業経営と外部環境   1  少子高齢化と人口減少への対応   2  国民生活の変化への対応   3  国際化の進展と規制緩和への対応   4  情報社会への対応

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131

教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

    ㉘Ⅰ POSシステム    ㉖Ⅰ BtoB  ㉖Ⅰ BtoC    ㉖Ⅰ CtoC ㉖Ⅱ電子商取引    ㉕Ⅰ EOS    ㉕Ⅰ POS(システム)    ㉔Ⅰ BtoB  ㉔Ⅰ BtoC    ㉓Ⅰ BtoC  ㉓Ⅰ CtoC    ㉓Ⅰ BtoB  ㉓Ⅰ EOS  3 節 企業の社会的責任   1  企業の社会的責任とその動向    ㉙Ⅱ CSR  ㉖Ⅰ CSR   2  企業の社会的責任とコーポレートガバナンス    ㉘Ⅰステークホルダー    ㉖Ⅰコンプライアンス    ㉖Ⅰステークホルダー    ㉔Ⅱコーポレートガバナンス  4 節 企業の海外進出と経営   1  企業の海外進出の現状   2  企業経営の現地化と地域社会への貢献    ㉖Ⅰ合弁会社 ㉓Ⅱ合弁会社第 4 章 確認問題・調べ学習

第 5 章 ビジネスの創造と地域産業の振興  1 節 起業の手続き   1  起業の意義    ㉗Ⅰベンチャービジネス    ㉗Ⅰ独立ベンチャー   2  経営理念の作成   3  起業にさいしての支援制度   4  株式会社設立の流れ    ㉔Ⅰ定款 ㉔Ⅰ発起設立    ㉔Ⅰ商号  2 節 新たなビジネスの展開   1  わが国の新たなビジネスの現状   2  新たなビジネスの考察    ㉙Ⅰコストプラス法  3 節 地域ビジネス事情   1  地域ビジネスの動向と地域の資源   2  地域産業振興をめざした地域ビジネスの立案第 5 章 確認問題・調べ学習重要用語のまとめと解説さくいん

 ● 出題動向-考察と問題研究

 ア 当該科目に示される用語のうち、「ビ

ジネス基礎」には「アウトソーシング、国内

総生産、為替相場、間接金融、直接金融、上

場、金融ビッグバン、ディスクロージャー、

POS システム 、BtoB、BtoC、Ct

oC、CSR、ステークホルダー、コンプラ

イアンス、コーポレートガバナンス」などの

記述がある。(12)(13)

 イ 現教科書の相当な箇所から出題され

ている。今後は、現教科書において内容を充

実した箇所たとえば、経済のグローバル化、

世界経済の動向及びビジネスの創造や地域産

業の振興に関する内容などが見込まれる。問

題研究として、予想される用語を紙面の制約

から前記科目同様に図示する。

(図09)出題が予想される用語(11)

①全国の公共職業安定所における求職者数に対する求人数の割合・比率(有効求人倍率)②働いて得た所得から所得税や住民税、社会保険料を差し引いた可処分所得のうち消費にあてられる割合と可処分所得のうち貯蓄にあてられる割合

(消費性向と貯蓄性向)③車を購入する代わりにリースやレンタルのサービスを利用することを代替といい、洗濯物について、洗濯機で洗える物は家庭で洗濯し、仕上がりに不安のある衣料品などはクリーニングを利用することを(補完)④我が国の製造業 [ 工場など ] が生産拠点を海外へ移すことにより国内産業が衰退していく現象(産業空洞化)⑤自国の居住者が外国企業の経営権を取得する目的で行われる投資(直接投資)⑥将来、通貨の受け渡しが行われる先物取引において適用される相場(先物相場)⑦先物取引についての契約を行うこと(先物為替予約)⑧為替相場の変動によって、たとえば現在の為替相場が決済を行うまでの間に円高 ・ ドル安になった場合の差額(為替差益)⑨金融機関や投資家が、外部から企業経営や状態を監視すること(モニタリング)⑩トップダウンの意思決定に対して、事業計画などを部下が充分に検討して提案し、それを上司が承認・決裁する意思決定(ボトムアップの意思決定)⑪社会的に有用な事業について、利益を目的としないで有料で展開する企業、NPO法人などがある。(ソーシャルビジネスまたはソーシャルエンタプライズまたは社会的企業)⑫製品の構造、性能、形状など、世界で通用する規格を統一した標準のこと(国際標準またはグローバルスタンダード)⑬コーポレートガバナンスのために、利害関係者に企業経営の内容などについて合理的に説明を行う責めを負うこと(説明責任)⑭新たなビジネスチャンスのために注目されているものとして、生物あるいはその機能を利用または応用する技術(バイオテクノロジー)⑮空き店舗活用や地域タクシーなど、地域住民が主体的に地域の様々な問題をビジネスの手法により継続的に解決する事業(地域ビジネスまたはコミュニティビジネス)

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132

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

3 「会計分野」における今年度までの出題傾向と今後の問題研究 ( 1 )今年度までの出題動向

 ア 日商簿記検定 2 級の範囲からの出題

が推定される問題は次の通りである。29年度

教科専門Ⅰ(教科専門Ⅰ⇔Ⅰと略記)では売

買目的有価証券の評価替え・切り放し法によ

る仕訳、教科専門Ⅱ(教科専門Ⅱ⇔Ⅱと略記)

では電子記録債務に関する仕訳、27年度Ⅱ及

び23年度Ⅱでは高低点法による原価分解の結

果を利用した月間損益分岐点売上高、26年度

Ⅰ及び24年度Ⅱでは個別原価計算において製

品別生産日程を示す製造指図書から仕掛品勘

定及び製品勘定の記入、25年度Ⅰでは相互配

賦法による部門費振替表の金額について、補

助部門費を自部門に配賦しないことを念頭に

置いた補助部門費の第 1 次配賦額など、Ⅱか

らは受託販売勘定を用いる仕訳、他に、当座

預金出納帳・売上帳・仕入帳・受取手形記入

帳・支払手形記入帳を特殊仕訳帳として用い

る場合、貸借の摘要欄(諸口、合計欄を含む)

の金額について箇条書きした一部算出額を参

照の上、同出納帳における 「支出欄」 の合計

額や売上帳における売掛金欄の金額などが出

題された。(14)(21)(23)(27)(17)(26)(18)(25)

 イ 29年度教科専門Ⅱ(21)の問題で、連

結財務諸表に関連して「評価替え」後の純資

産の合計や連結修正仕訳における「のれん」

の金額を算出することが出題された。現教科

書「財務会計Ⅰ」(または「財務会計Ⅱ」)か

ら初めてである。これは、旧教科書の「会計

実務」に掲載されていたが、当該科目からは

これまで一切出題がなかった。このことは、

経理科出身者が他の学科の出身者に比べ極端

に有利とならないよう配慮されたものと言え

る。

しかし、今年度は、旧教科書の「簿記」「会

計」「原価計算」だけでなく、「会計実務」ま

たは現教科書「財務会計Ⅰ」(または「財務

会計Ⅱ」)からの出題となった。ついては、

今後も現教科書からの出題が予想されるため

周到な準備が必要である。

( 2 )今後の問題研究

現教科書及び日商簿記 2 級の範囲から予想

される問題を示すことにする。同 2 級の範囲

は、現教科書や準拠問題集の内容に限らない。

ただし、商業高校においては、当該の問題

について知識・技術の定着のための手段とし

て学習している現状がある。したがって前述

のような問題が出題されており、今後もその

可能性は否定できない。以上のことを踏まえ、

昨年度示した問題(当該研究年報第 5 号参照)

の他、次のような問題が予想される。

 ア 電子記録債権 に関する問題(日商

簿記 2 級の範囲からの問題)

当店は、三河商店に対する売掛金¥550,000

の受け取りを電子債権記録機関で行うため、

取引銀行を通して債権の発生記録を行った。

 (借)電子記録債権 550,000

    (貸)売掛金    550,000

 イ 銀行勘定調整表を作成に必要な資料

から金額を算出する問題。①取引銀行からの

当座預金勘定残高証明書の金額と②当店の当

座預金出納帳残高が不一致の場合、その原因

を示した上で、①または②のいずれかを算出

する問題。(紙面の都合により掲載省略)

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133

教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

 ウ 「財務会計Ⅰ及び財務会計Ⅱ」からの問題

 エ 「原価計算」(日商簿記2級の範囲からの問題)

(図10)商品売買に関する当期末の資料から売上総利益他を算出する問題

     (図11)直接原価計算方式による損益計算書について、固定費調整を含めた問題(28)

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134

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

     (図12)標準原価計算制度を採用する損益計算書に関する問題

, ,,

4 簿記実践演習の成果及び継続の必要性

簿記実践演習は、これまでの内容を踏まえ

て展開している。問題研究で示した内容を含

め、現教科書からの問題演習に取り組んだ。

その際、解答を導く説明を学生自身に交代

で取り組ませることがあった。このことは、

言葉をはっきりと自信をもって声に出す練習

になったり、わかりやすく説明を行うことや

伝えるために必要な話術を鍛える貴重な訓練

となった。さらに、面接の応答練習への波及

効果を期待してのことだった。また、今年度

も、同演習の中で、「経済活動と法」につい

て民法の解説や過去問題などの解答と解説を

行った。

さらに、「マーケティング分野、ビジネス

経済分野」の科目についての問題演習を計画

している。当該演習に取り組む姿勢からは、

全問正解を目指し着実に力量を高めている様

子を見て取れる。今後も、工夫改善をしなが

ら継続していきたい。

 オ 「原価計算」からの問題

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135

教科「商業」における教員採用選考試験問題の考察と現教科書からの問題演習-その 2

5 おわりに28年度の入学生は現教科書を履修済みであ

るが、それより前の学生は旧教科書により学

んでいる。しかし、これから教員として採用

されれば現教科書を使用する。したがって、

現行学習指導要領や現教科書について理解を

深める必要がある。その理解度が選考試験に

おいて問われる。かくして、「教科専門Ⅰ及

び教科専門Ⅱ」 に対する準備は、現教科書や

準拠問題集、検定問題集などの理解や消化が

不可欠である。そのことを念頭に置いた当該

研究実践や簿記実践演習は、学びを深め全問

正解できる力を培う内容であるとともに合格

への近道になると確信している。最後に、当

該選考試験は、特定の学科を学んだ受験生が

有利すぎることのないよう考慮して出題され

ており、今後も不断の努力を期待したい。

参考文献( 1 ) 平成29年度愛知県公立学校教員採用選考試験受験案

内 P14 P17 愛知県教育委員会

( 2 ) 平成28年度用文部科学省検定済高校教科書 「マーケ

ティング」 目次 実教出版ホームページ

( 3 ) 平成28年度用文部科学省検定済高校教科書 「商品開

発」 目次 実教出版ホームページ

( 4 ) 平成28年度用文部科学省検定済高校教科書 「広告と

販売促進」 目次 実教出版ホームページ

( 5 ) 平成28年度用文部科学省検定済高校教科書 「ビジネ

ス経済」 目次 実教出版ホームページ

( 6 ) 平成28年度用文部科学省検定済高校教科書 「ビジネ

ス経済応用」 目次 実教出版ホームページ

( 7 ) 文部科学省検定済高校教科書 7 実教 商業304 「マー

ケティング」 平成28年 1 月発行 実教出版

( 8 ) 文部科学省検定済高校教科書 7 実教 商業315 「商品

開発」 平成28年 1 月発行 実教出版

( 9 ) 文部科学省検定済高校教科書 7 実教 商業325 「広告

と販売促進」 平成28年 1 月発行 実教出版  

(10) 文部科学省検定済高校教科書 7 実教 商業316 「ビジ

ネス経済」 平成28年 1 月発行 実教出版 

(11) 文部科学省検定済高校教科書 7 実教 商業326 「ビジ

ネス経済応用」 平成28年 1 月発行 実教出版 

(12) 文部科学省検定済高校教科書 7 実教 商業301 「ビジ

ネス基礎」 平成25年 1 月発行 実教出版

(13) 文部科学省検定済高校教科書190東法商業303 「ビジ

ネス基礎」 2013年 1 月発行 東京法令出版

(14) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅰ」 平成29年度 愛知県教育委員会

(15) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅰ」 平成28年度 愛知県教育委員会

(16) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅰ」 平成27年度 愛知県教育委員会

(17) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅰ」 平成26年度 愛知県教育委員会

(18) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅰ」 平成25年度 愛知県教育委員会

(19) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅰ」 平成24年度 愛知県教育委員会

(20) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅰ」 平成23年度 愛知県教育委員会

(21) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅱ」 平成29年度 愛知県教育委員会

(22) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅱ」 平成28年度 愛知県教育委員会

(23) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅱ」 平成27年度 愛知県教育委員会

(24) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅱ」 平成26年度 愛知県教育委員会

(25) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅱ」 平成25年度 愛知県教育委員会

(26) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅱ」 平成24年度 愛知県教育委員会

(27) 愛知県公立学校教員採用選考試験問題 教科 「商業」

「教科専門Ⅱ」 平成23年度 愛知県教育委員会

(28) 最新段階式 日商簿記検定問題集 新訂版  2 級工

業簿記 P139 実教出版

(図表) (図01)現教科書「マーケティング」 実教出版 

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136

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

目次及び正答・解答肢 

(図02)現教科書「商品開発」 実教出版 目次及

び正答・解答肢 

(図03)「商品開発」から出題が予想される用語

(図04)現教科書「広告と販売促進」 実教出版 

目次及び正答・解答肢

(図05)「広告と販売促進」から出題が予想される

用語

(図06)現教科書「ビジネス経済」 実教出版 目

次及び正答・解答肢

(図07)「ビジネス経済」から出題が予想される用

(図08)現教科書「ビジネス経済応用」 実教出版 

目次及び正答・解答肢

(図09)「ビジネス経済応用」から出題が予想され

る用語

(図10)商品売買に関する当期末の資料から売上総

利益他を算出する問題

(図11)直接原価計算方式による損益計算書につい

て、固定費調整を含めた問題   

(図12)標準原価計算制度を採用する損益計算書に

関する問題

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137

国語科授業を「デザイン」する力の必要性

0.はじめに高等学校の教育が変わろうとしている。平成

32(2020)年以降、順次大学入試センターに替

わる「大学入学者希望者学力評価テスト(仮称)」

において記述式問題を導入し、また、平成31

(2019)年度には、「高等学校基礎学力テスト(仮

称)」を実施するといわれている。(1)つまり、

これまで培われてきた学力観が大きく転換す

る時期に入ったということでもある。中学校・

高等学校で考えられてきた入学試験のための

知識重視という認識はもう通用しなくなりつ

つある。

こうした転換を受け、学校現場では授業改

善に着手し始めている。しかし、急な変化に

対応できない現場も多く、従来の指導から全

て脱却するのは難しいというのが現状であろ

う。現段階の予定では、中学校では2020年以

降、高等学校では2022年以降から改訂指導要

領に従い、実施されるという。(2)現在様々

な大学の教職課程で学ぶ学生達も、この変更

にあたり、これからは既存の教材の扱い方を

考え直すことを余儀なくされるはずである。

本稿では、中学校・高等学校国語科教育の

学力観の転換に伴い、大学教職課程を履修す

る学生達は、これからどのような力をつけて

いくべきなのか、教科教育に求められている

指導は何かを考えてみたい。筆者が教科教育

法(国語)を担当している関係で、国語科教

育に絞り、考察する。

1.アクティブラーニングについて愛知大学では、教職課程センター主催の教

職セミナーが行われていたり、小学校へのボ

ランティアなど様々な活動がある。国語科教

員を目指す学生達については、講義以外に自

主的に勉強会を開き情報交換を行っている。

最近では現役教諭を招き、アクティブ・ラー

ニングの特別講座や、教員としての在り方、

小論文などの指導を受けている。

そもそもアクティブ・ラーニングとは何な

のか。現在教育現場では、アクティブ・ラー

ニングという語ばかりが先行し、学習指導要

領上の位置づけや、定義などはいまだに定着

していないように思われる。

文部科学省の提示している「次期学習指導

要領に向けたこれまでの審議のまとめ(素案)

ポイント参考資料 (資料 2 )」によれば、

  生きて働く知識や力を育む質の高い学習

過程を実現するため、各教科における学

びの特質を明確にするとともに、授業改

善の視点(「アクティブ・ラーニングの

視点」)を明確にする。これにより、教

科の特質に応じた深い学びと、我が国の

強みである「授業研究」を通じたさらな

る授業改善が実現する。

とある。また、これをふまえ、「アクティブ・

ラーニング」の視点からの授業改善について

のイメージ案として(3)

国語科授業を「デザイン」する力の必要性-学力観の転換にむけて-

松村 美奈(非常勤講師)

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138

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

  「主体的・対話的で深い学び」に向けた

授業改善を行うことで、学校教育におけ

る質の高い学びを実現し、子供たちが学

習内容を深く理解し、資質・能力を身に

付け、生涯にわたってアクティブに学び

続けるようにすること。

とある。そこには、「主体的な学び」「対話的

な学び」「深い学び」が実現できているのか

を確認しながら授業を行うということを提唱

している。

このような授業形態を取り入れる意味につ

いて、『アクティブ・ラーニングを取り入れ

た授業づくり』(4)には以下のように書かれ

ている。長いが引用する。

  アクティブラーニングは、これまで高等

学校で多く行われてきた教師主導の一斉

授業を、見直すための一つの考え方であ

る。これまでの一斉授業で行われてきた、

知識の伝達を行うための「受動的な

(Passive)」授業からの転換を図り、生

徒の主体的、自律的である「能動的な

(Active)」授業を行うための意識転換で

ある。(中略)

  アクティブ・ラーニングの実現のために

は、「学習の見通しを立てたり学習した

ことを振り返ったりする活動」や、自分

の思考・判断したことについて、他者と

コミュニケーションを図る「言語活動の

充実」が求められる。

  アクティブ・ラーニングは、その学習ス

タイル自体に意味があるのではなく、多

面的・多角的な授業を通して協働的に深

く思考することが目的の学習活動であ

る。

では、こうした活動によって、何を身に付

けさせたいのか。冨山哲也は以下のように説

明している。(5)

  これからの子どもたちに必要な、三つの

資質・能力の育成につなげていくことが

大切です。これからのこどもたちに必要

な資質・能力を、

・ 何を知っているか、何ができるか(個別

の知識・技能)

・ 知っていること・できることをどう使う

か(思考力・判断力・表現力等)

・ どのように社会・世界と関わり、よりよ

い人生を送るか(主体性・多様性・協働性・

学びに向かう力・人間性など)

  の三つに整理しています。そして、これ

らの資質・能力を育成するために、アク

ティブ・ラーニングの視点で授業を見直

すことが必要だと説明しているわけで

す。

また、冨山はこれまで言われてきた「言語

活動の充実」とアクティブ・ラーニングとの

違いに対する疑問にも以下のように答えてい

る。

  課題解決的な言語活動を位置づけ、いっ

そうの指導の工夫をすることが、アク

ティブ・ラーニングにつながります。

  いっぽう、課題解決的な言語活動を設定

しても、指導のしかたによってはアク

ティブ・ラーニングにならないことがあ

ります。わかりやすい例は、生徒が思い

出したり考えたりすべき内容を、教師が

説明してしまったり、マニュアル的な

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139

国語科授業を「デザイン」する力の必要性

ワークシートで示してしまったりするこ

とです。これでは生徒が受け身になって

しまいます。マニュアル的な手立てはつ

まずいている生徒への支援に用いること

にし、まずは自力で考えさせるよう指導

することが大切でしょう。(略)

  改めて、アクティブ・ラーニングは全く

新しい概念ではなく、特に国語科におい

ては、課題解決的な言語活動の設定と

いっそうの指導の工夫をすることが、そ

の趣旨の実現につながると考えるべきだ

と思います。

こうした説明から分かることは、現状の学

習活動を改めて見直さなくてはならないとい

うことである。

高木展郎のコラムに次のような指摘があ

る。(6)

  アクティブ・ラーニングは、あくまでも

学習活動であり、学習活動を「評価」の

対象としてはならない。それは評価すべ

き対象が、活動ではなく、能力の育成で

あるためだ。生徒がいかなる能力を身に

付けたかを評価することが大切なのであ

る。(略)アクティブ・ラーニングへは

あくまで活動である。授業の本来の目的

は、活動を通して学力を育成することで

あり、国語の授業を通して国語の学力を

育成するために、必要であればアクティ

ブ・ラーニングを用いる、という考え方

が重要となる。アクティブ・ラーニング

を行う際には、まず「見通し」と「振り

返り」が必要である。(略)また、「見通

し」と「振り返り」のためには、授業で

行われる活動としての記録、要約、説明、

論述、討論という「言語活動」が前提と

なる。これまで重視してきた「言語活動」

は、これからの時代が求める授業におい

ても、重要な活動であることを確認して

おきたい。

高木の指摘は「アクティブ・ラーニング」

という言葉に振り回され、生徒を活動させる

ことが目的となってしまうことを危惧したも

のであり、常に認識しなくてはならない。手

段としてアクティブ・ラーニングを手段とし

て用いつつ、生徒に「何を」学ばせるか、を

明確にすることが最も重要なのである。

2.教職課程履修学生(国語科)への指導について

筆者の担当する国語科教育法履修生に、ア

クティブ・ラ―ニングについての概説を終え、

指導の際の注意点を考えさせてみたところ、

以下のような意見があったので紹介する。(7)

・ 教師自身がアクティブラーニングをさせる

目的・意図をはっきりと持ち、それをきち

んと説明できるようにする。

・ アクティブラーニングを使って、作品の面

白さを伝えることを意識し、生徒の考えを

深めさせることや、興味のきっかけになる

ようにする。

・ いろいろな性格(話し合いやグループ活動

が苦手な生徒など)がいるので、活動を深

められるように教師側が工夫しなくてはな

らないと思う。

・ 全員が活動できるように段階を追っていく

べきだ。

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140

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

など、具体的に授業を始めているわけではな

いにも関わらず、様々な角度で注意点を考え

ていることが分かる。こうした姿勢は、教員

を目指す学生の姿勢として、非常に頼もしい。

若い学生たちは新しい「学び」に対して常に

貪欲であるので、前向きに取り組もうという

意欲をこれからも伸ばしていかなくてはなら

ないと考えている。

しかし、学び方が変わるということは、評

価の仕方も変わるということでもある。これ

までの観点別学習評価については、 4 観点で

整理されていた。「関心・意欲・態度」「思考・

判断・表現」「技能」「知識・理解」である。

次期学習指導要領での学習評価は学力 3 要素

「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力等」

「主体的に学習に取り組む態度」などとなる

ようである。「学習評価を通じて、学習指導

の在り方を見直すことや個に応じた指導の充

実を図ること、学校における教育活動を組織

として改善することが重要」とし、PDCA

サイクルを提唱している。(P= plan D=

do C= check A= action)(8)

現在多様な評価方法の例として、「パフォー

マンス評価」「ルーブリック」「ポートフォリ

オ評価」などが紹介されているが、評価方法

も今だ発展途上の段階である。

国語科は評価の難しい単元もある。次期の

評価方法も現行の方法から変化が甚だしく、

現場の教員も急な変化には対応しきれない。

特に、今だ大学入試センタ―試験が行われる

現在、こうした多様な評価をこなしていくに

は無理がある。

しかし、転換が必至であるからには、少し

ずつ新しい生徒への評価の方法を考慮に入れ

つつ授業を作っていく必要があろう。

これからの大学教職課程では、評価方法と

ともに、アクティブ・ラーニングという手段

を用いた授業をいかに展開していくか、とい

う指導法や授業案を自ら考えていく必要があ

る。つまりは、教育の基本となる、その授業

を「デザイン」する(創り上げる)力をつけ

ていかなくてはならないのである。実際アク

ティブ・ラーニング授業の取り組みは多く行

われており、実践研究も深まりつつある。(9)

理論的な面を重点としつつ、こうした実例を

多く紹介し、尚かつ実践授業を行った現役教

諭の話を聞くなど、実践的な点にも目を向け、

双方向から授業に取り組むことが必須ではな

いか。

実際、先に紹介した学生達の勉強会で、実

践報告を聞く機会があった。(10)教職課程の

講義・演習とともに、外部の現職教員からの

生の声を聞くことで、学生達は、多角的な授

業方法を学ぶことができ、たくさんの気づき

があったようである。そうした体験も、教員

としての即戦力につながるはずである。

3.教材開発の可能性について ―学生の取り組みから―

これまで、愛知大学における国語科教育法

の授業では、『国語総合』の教科書を使用し、

15分間模擬授業を行い、それらをVTRに写

すという活動を行ってきた。VTRは各自の

振り返りに利用し、自らの立ち姿や発声・板

書の様子などを確認してもらっていた。

皆が考えてくる授業は、アクティブ・ラー

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141

国語科授業を「デザイン」する力の必要性

ニングを取り入れた授業を念頭においたもの

を構想し、活動を多く入れようと試みていた。

学生たちの姿を見て、常に感じることは、

教材の読み込み(教材研究)をどれだけ行っ

ているのだろうか、ということである。生徒

に活動をさせるには、教員の教材理解が不可

欠である。しかし、実際に授業(らしきもの)

を行ってもらうと、どうしても教材研究より

も、授業のカタチばかりにこだわっている事

がよく分かる。それは指導者(筆者)の指導

にも問題があるとはいえ、これからの学生た

ちに対する課題であると考える。

さらにこれからはいっそう授業を組みたて

る力が問われるので、教材を読み込む力とと

もに、新しい教材開発、そしてユニークな発

想力を養成していくことも重要であろう。

別の大学であるが、ある授業案を考えても

らう取り組みを行ったことがある。(11)それ

は、「大学の演習授業で扱ってきた作品をあ

えて小・中・高等学校で教えるとしたら?」

というものだった。この時は演習で使用した

教科書『西鶴が語る江戸のミステリー』(ぺ

りかん社)の中から教材としての話を選ぶこ

と以外に条件は設けなかった。参考として『新

しい教材と視点で創る古典の授業』(東洋館

出版)内の授業案を参考としてプリントして

配布しただけである。演習で扱った井原西鶴

は、学校の教科書には掲載されないことが多

い。(12)マイナー作品にもかからわず、学生

達は授業案を作成してくれたので、以下にい

くつか紹介する。全て学生達がグループ内で

協力し合って考えたものである。学生たちの

力や発想力の豊かさを感じることのできる展

開となっている。

(注)

・ 表現は学生達の記述はできる限りそのまま

としたが、文末表現などは多少変更したと

ころもある。

・ 当時書き入れてもらった用紙は白紙に四角

い枠を施したものだったので、「学習活動」

「指導上の留意点」の枠組みは後から筆者

が追加した。

・ 評価規準の設定は省略した。

【例 1 】『本朝二十不孝』巻 2 - 2 「旅行の暮れの僧にて候」(中学 3 年想定)

1 . 単元の目標→古典の作品を通じて人間関係について考える。2 . 単元設定の理由→小吟の行ってきた悪事は親の教育の悪さも   原因の 1 つと考えられており、小吟の良心が残っていたのかどうかも  今だに議論が分かれるから。★ 授業を考える上で工夫した点→小吟について意見が分かれ、答えがはっきり決まらない

問題をじっくり考え、意見を話し合う。

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

(全 6 時間)

時 〇学習活動 ★指導上の留意点など

1 〇本文を読む。・各自で読む→黙読

〇小吟の一生を読み取る。

★ わかりにくい漢字・仮名遣いにルビを振るよう指示する。

★ 小吟の行動を追わせ、どんな一生を送ったのかを整理させる。

2

3

〇 本文を読みながら、各自で質問プリントを埋める。

  (小吟に対する疑問に対し、自分の答えを持つ)

〇 前回のプリントを各自発表し、グループを作って、その中で話し合いをする。

★ 小吟についての【問い】を書き出したプリントを準備し、生徒に考えさせる。

 質問例Q 小吟はどうして僧を殺すことを提案したのだろう?Q 小吟の両親は、小吟のことをどう思っていたのだろう?Q 小吟はどうして 9 歳の田舎娘なのに金の価値を知っていたのだろう?Q 小吟はなぜ父の処刑されて姿を現したのだろうか?   等小吟の良心の有無について意見が分かれると良い!★ プリントを基に、小吟の良心に関する

意見を整理させ、グループ分けさせ、グループ内で話し合いをさせる。

どうして悪人なのか?どうして良心が残っていたのか等、考えをまとめさせる。

4 〇 討論会をし、小吟の人物像を皆で考える。

テーマ『小吟は本物の極悪人か?』

★ 話し合いを通して、小吟の人物像を深めさせる。

・小吟の悪事は何が原因なのか?・ 親の死刑に対し、小吟はどんな気持ち

だったのか?等、小吟がどんな女性なのかがわかる部分を押さえさせながら、討論させる。

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国語科授業を「デザイン」する力の必要性

(全 7 時間)

時 〇学習活動 ★指導上の留意点など

1から3まで

4から6

〇本文を読み、内容を理解する。 * 段落ごとに音読する。その際分から

ない単語に下線を引く。 *登場人物確認のため、関係図を作る。

(文章のまとまりごとに確認する)

〇グループワーク活動①②③ *ラストの結末について話し合う。

〇 話し合いがまとまったら、考えをB紙にまとめる。

〇 どのように発表するか、各グループで練習する。

★ 文章全体を 3 つに分けさせ、 1 つめのまとまりを読み、内容を理解させる。

 * わかりにくい単語や言葉の確認をする。

★ 2 つめのまとまりを読み、内容を理解させる。その際新しく登場した人物との接点などを確認させる。

★ 3 つめのまとまりを読み、内容を理解させ、人物関係をチェックさせる。

★ 6 グループくらい作り、全員警察になったつもりで、証拠や犯罪の背景について考えをまとめさせる。

 * その際、 2 時間サスペンスのように考えるよう指示する。

【例 2 】『本朝二十不孝』巻 3 - 1 「娘盛りの散り桜」(中学 1 年生想定)

1 .単元の目標→登場人物の心情を読み取る。2 .単元設定の理由→裏側が明確に書かれていないから。          話し合いのテーマとしてふさわしいから。          いろいろなとらえ方ができるから。★ 授業を考える上で工夫した点→グループワークで自分達の考えをまとめる点。  考えをまとめる時は、警察になったつもりで!発表するときは捜査会議をする気持ち

で!というのをメダマとした。

5 〇まとめの作文を書く。 ★ 自分の立場を明確にするよう指示する。

・ 結局小吟はどういう女性なのかを、自分がプリント・討論会で考えたことをまとめる。討論をしてから考えが変わったのか、変わらないのか、立場を明確にさせる。

6 〇 クラス全体で作文紹介し、様々な書き方、考え方があることを知る。

★ クラスで、どんな意見が多いのかを決める。

★ 皆で作文を紹介しあい、互いの考えを理解させる。

(愛知教育大学2011年度後期「国文学演習AI」履修学生 2 人による教材化。)

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

7 〇 グループごとで、調べたことを発表する。

 *発表後、質疑応答を受ける。

★ クラス内で「捜査会議」という名をつけて、発表させる。(B紙を張るなど)

★ 全体の発表と質疑応答の終了後、口頭で生徒に感想を述べさせ、最後に感想用紙に記載するよう指示する。

 (感想用紙は回収し、評価する。)

(愛知教育大学2011年度後期「国文学演習AI」履修学生 4 人による教材化。)

[例 1 ]の話は小吟という女の子が様々な

悪事に手を染めながら生きていく内容であ

る。学生が指摘するように、小吟の良心の有

無についての解釈が定まらず、議論になりや

すい。学生は、この作品を演習内で読むこと

で、小吟の人物像に興味を持ち、こうした教

材化を試みたようである。全体の時間配分や、

プリント(ワークシート)の作成方法や、発

問内容(プリントのクエスチョン部分)の検

討など課題はあるものの、「読むこと」から「書

くこと」まで指導内容が盛り込まれており、

非常に具体的でユニーク授業案となってい

る。中学 3 年生という学年設定も学生に任せ

た。難しいかもしれないが、「良心の有無」

という普遍的な内容ならば、14歳~ 15歳の

多感な時期において話し合うことも大切なこ

とではないだろうか。注意すべきは道徳的に

ならないことだけであろう。

[例 2 ]の話は次から次へと姉妹が死産す

るという不可解な事件が続く話であり、およ

そ教科書向きではない。しかし、この話を取

り上げて、「捜査会議」をするような気分で

話し合いをさせるという発想が大変ユニーク

であった。下手をすると「捜査会議」が目的

化するが、人物関係をおさえながらラストの

結末を話し合うという目標を明確にすること

で、授業をまとめようとしている点が頼もし

い。しかし、問題はやはり「死」の扱いであ

る。教育現場では不適切な面もあるが、発想

のユニークさの例として取り上げた。

こうした授業案は、「アクティブ・ラーニ

ング」という語が今ほど広まる以前のもので

ある。そして、全て小学校・中学校教員を目

指す学生の「ひらめき」「発想力」に基づく

ものであるので、形式としては不完全ではあ

る。しかしながら、学生達の豊かな発想には

感心させられるし、大きな発見もあった。両

者の例をみても分かる通り、「話し合い」に

ふさわしい作品を自ら選び、教材として生か

そうと、試行錯誤している。それは恐らく自

らが演習で本文研究に取り組んだ際の疑問点

や読みどころを浮かび上がらせ、授業として

昇華させようとしたのだろう。

上記以外でも、話を演劇に作りかえるとい

う授業案などもあった。江戸時代の文化を知

ることに重きをおいた教材化も多く、例えば

昔の遊び道具、判じ絵を見せるなどであった。

面白い問いかけを積み上げた授業案もあっ

た。江戸時代のイメージを考える際、「どん

なイメージ?」と問いかけることからはじめ、

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145

国語科授業を「デザイン」する力の必要性

「みんなが考える商人は?」「西鶴が考える商

人は?」などと「めあて」を設定して授業を

すすめるというものである。

これらの指導内容を見ると、自分達が学ん

で感じたことや、疑問に感じた点を生かそう

と試みている。この学生達は、演習などで深

く学び、考えたことによって教材化しようと

思ったわけである。つまり、自らが学んでこ

そ、何を教えたいのかが明確になり、教材と

して利用したいと考えるきっかけとなるので

ある。

これからの古典作品も教科書に掲載される

定番教材もおさえながら、議論になり得るも

のや、現代に類似した状況が描かれるものな

どを教員や学生が自ら選定することで、より

「アクティブ」な授業が期待できるのではな

いか。

大学生の学びをそのまま授業へと移行でき

るような、そんな取り組みも可能である。つ

まるところ、授業を組み立てる=デザインす

るという行為は、教員側(授業者側)が、自

ら興味を持ち、考えたことから始まると言っ

てもよいのである。

4.まとめ本稿では、学力観の転換に伴う教科教育に

ついて考察した。学習指導要領改訂後、学生

たちがどのように教材を扱うか、その方法等

を指導していくことが教科教育のこれからの

課題である。アクティブ・ラーニングを用い

た授業においても、既存の教材研究だけでは

いつか限界がくるだろう。学生のうちに、教

材となり得るような文学作品・実用文等の

様々な文章を、どれだけ多く読み込み、どれ

だけ自分のものとして咀嚼し、理解できるか

によって、教員としての資質に差が生まれる

にちがいない。結局は教材研究の指導が大切

なのである。そして、授業をどのように創り

上げるかという「授業をデザインする力」を

養うことこそ、これからの教科教育として最

も必要なことではないだろうか。

注( 1 ) 『アクティブ・ラーニングを取り入れた授業づくり』

(明治書院)平成28年 1 月 p77

( 2 ) 文部科学省中央教育審議会教育課程部会資料 3 「今

後の学習指導要領改訂スケジュール(現時の進捗を

元にしたイメージ)平成28年 8 月26日」を参照した。

( 3 ) 文部科学省中央教育審議会初等中等教育分科会教育

課程部会の「次期学習指導要領に向けたこれまでの

審議のまとめ(素案)のポイント参考資料(資料 2 )

平成28年 8 月26日」を参照した。

( 4 ) 『アクティブ・ラーニングを取り入れた授業づくり』

(明治書院)平成28年 1 月 p87

( 5 ) アクティブラーニングQ&Aみつむら web magazine 

第 1 回・第 2 回

( 6 ) 『アクティブ・ラーニングを取り入れた授業づくり』

(明治書院)平成28年 1 月 p177

( 7 ) 2016年愛知大学秋学期国語科教育法授業内でのコメ

ントシートによる。文末表現などは筆者が多少改変

した。

( 8 ) 文部科学省「 学習指導要領の理念を実現するために

必要な方策」より

( 9 ) 愛知県立日進西高等学校における取組(国語)―「国

語総合」「現代文B」「古典B」における調査研究( 2

年目)― 愛知県総合センターホームページより引

用。

(10) 愛大国語会での報告会。日進西高等学校でのアクティ

ブ・ラーニング授業の実践報告を、元同高等学校校

長(現熱田高等学校校長)北角尚治氏によるもの。

年に数回国語科教員志望者に向けての講義をボラン

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146

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

ティアで行っていただいている。

(11) 2011年度後期愛知教育大学1年生国文学演習AIでの

授業。履修者の授業案はコピーして全員に配布をした。

(12) これまでの教科書では、『日本永代蔵』『世間胸算用』

『西鶴諸国はなし』の中から決まった話が掲載される

ことはあった。

(付記)本稿脱稿後、文部科学省は、2017年 2 月14日に、小中学校

の学習指導要領の改定案を公表した。

そこでは、「アクティブ・ラーニング(AL)」の言葉を外し、

「主体的・対話的で深い学び」という表現に統一されていた。

今後も議論が続くと思われる。

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愛知大学教職課程の学生における教職の志望度と志望理由の関係について( 1 )

要約:愛知大学教職課程生のうち名古屋校舎

(現代中国学部、経済学部、法学部、経営学部、

国際コミュニケーション学部)に所属する学

生であり、かつ2016年度春学期( 4 月から 8

月)における月曜日第 2 時間目の「教職入門」

の授業を受講している学生の教職への志望度

とその理由に関する分析を行った。データは、

アンケート調査にて集められた。その結果、

憧れる先生の存在や教えることが好きである

ことが教職を志望する大きな理由であること

が分かった。また、親に強く勧められたため

教職を志望したと考えている学生は少なかっ

た。

1.問題1-1.背景となる問題意識と本研究の目的

愛知大学では、豊橋校舎および名古屋校舎

にて毎年約200名前後の学生が教職課程に新

規に登録を行う(愛知大学教職課程の概要、

2015、愛知大学教職課程研究紀要)。2015年

度より登録の際に、教職を志望する理由や理

想とする教育に関する作文を行わせている。

この作文は、教職を志望する理由を明確な文

章にすることにより、登録する学生の考えや

気持ちの意識化をはかり、安易な気持ちでの

登録を避けてもらうという意図がある。さら

に学生の考えを教員や事務員が知ることによ

り、より適切な教育や指導を行うという意図

もある。

この志望理由の作文を行う前に、教職課程

においてトラブル事例となった学生や進路に

悩む学生が、親に奨められて教職を志望した

ということが散見された。これは、自分の進

路や職業生活に関して自己決定をしなかった

ために、勉学や生活に意欲が湧かない事例と

いえる。このような学生には、トラブルを引

き起こしても、自分自身の責任を感じている

印象に乏しく、指導を行っても手応えが弱い。

このような事例から、学生が教職を志望す

る理由を明確にさせ、それを受けて教員や事

務員が適切に指導することが、学生自身の学

びの充実やトラブル回避のために重要である

と考えられる。そして、実際に学生達がどの

ような理由で教職を志望するのか、さらにそ

の理由と教職を志望する気持ちの強さの関係

を調査することは、教職課程における指導や

運営に関して重要な示唆を与える。

1- 2.本研究の研究仮説

調査にあたり、以下の研究仮説を設定した。

まず第 1 にこの 2 年間にわたり、「親からの

勧めだけを根拠にして教職を志望するのは続

かない、問題があるため、よく考えなさい」

という指導をしてきた。そのため、親からの

勧めを理由とする教職課程の学生は少ないと

いう仮説を設定した。第 2 に、「誰かに勧め

愛知大学教職課程の学生における教職の志望度と志望理由の関係について( 1)

岡田 圭二(愛知大学 経済学部)梅村 清春(愛知大学 名古屋教職課程センター室)

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148

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

られてではなく、教職を志望する気持ちが強

い学生は、教育自体に関する活動に志望する

理由を感じている」という仮説を考えた。

その他に、志望理由の作文を読むと、部活

指導者になりたい、憧れの先生がいたという

理由も目についた。その 2 点についても特に

調査した。

2.方法2-1.被調査者:平均年齢は18.7才であっ

た。男性が 8 人、女性が 7 人の合計15人が被

調査者として回答した。この平均年齢は、調

査した教職入門という授業が教職課程の入門

段階にあたる授業のため、学部 1 、 2 年生が

受講するという特性のために、低くなったと

考えられる。

2 - 2.アンケートの構造:実施したアン

ケートは、第 1 に被調査者のプロフィールに

関する部分、第 2 に教職を志望する程度に関

する部分、第 3 に教職を志望する理由に関す

る部分に大別される。プロフィール部分では、

性別、年齢、社会的身分、性格について尋ね

た。教職を志望する程度に関する部分では、

教職を第 1 志望とする程度などについて尋ね

た。またこの部分で、教員の仕事に関するイ

メージも尋ねた。教職を志望する程度の部分

では憧れる先生がいるか、教えることが好き

か、親に勧められたかなどについて尋ね、さ

らに最後に希望する校種、教科に関する部分

があった。

2 - 3.調査方法:アンケートは愛知大学

の名古屋校舎において、 4 月から 8 月に開講

される春学期の月曜日 2 時間目の「教職入門」

を受講する学生に対して行われた。調査はア

ンケート用紙を配付して、回答させ、回収し

た。

3.結果今回の報告では、調査項目のうち、教職を

志望する程度および志望する理由について分

析した。今回の報告において、全ての調査し

た項目について分析している訳ではない。分

析は、項目毎の集計と、教職の志望度と志望

理由の強さの度合いについてクロス集計し、

最後に相関係数を算出した。

3- 1.項目毎の集計(1次集計)

表 1 に、各質問項目における 1 から 5 の評

定値毎の人数と平均評定値を示した。今回の

分析では、まず教職が第 1 志望であるかにつ

いての評定値を教職志望の程度の指標とし

た。次に教職を志望する理由に関する評定と

して、表 1 にあるように「憧れの先生がいた」

から「尊敬されたい」までの13の質問を分析

対象とした。

表 1 は、左端の列は、評定値を示している。

評定は、 5 段階で行った。ただし、その理由

が志望理由にまったく関係なければ、関係な

しと評定するように指示してあった。

表 1 や図 1 から教職が第 1 志望であるとい

う比較的強い気持ちを持つ学生の割合は約半

数であるといえる。理由に関する評定値より、

「憧れの先生がいた」という項目の平均評定

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愛知大学教職課程の学生における教職の志望度と志望理由の関係について( 1 )

値および評定値 4 と 5 という強い関連と評定

されるものの割合が高いことがわかる。同様

のパターンは「教えることが好き」、「子ども

を助けたい」でもわかる。逆に「親に勧めら

れた」、「中高の先生に勧められた」は、理由

として低い関連として評価されている。

3 - 2.項目間の関係(クロス集計および

相関係数)

表 2 および表 3 に教師が第 1 志望であると

いう評定値とその理由に関する評定値の関係

を載せた。表 3 の相関係数の表より、「教え

ることが好き」、「子どもを助けたい」、「社会

的安定性」が「教職が第 1 志望」という評定

に正の相関関係があることが分かる。また「親

に勧められた」、「中高の先生に勧められた」、

「一般就職に向いていない」は負の相関関係

があることが分かる。

また「憧れの先生がいる」ということは、「教

職が第 1 志望」ということとは表 3 を見ると

相関係数が低かった。これは表 2 の該当欄を

見ると分かるように、直線的な関係ではなく、

「教職が第 1 志望」の評定値 3 および評定値

5 の人数がそれぞれ 5 人となる双峰的な分布

表 1 各評定項目毎の評定値毎の人数の分布と平均評定値(N=15)

図 1 各評定項目毎の人数の分布を示した100%積み上げ縦棒グラフ(N=15)

1

2 1 1 2 1 4 5 4 6 3 3 1 3

1 1 0 0 1 3 0 4 4 4 3 3 1 1 2

2 2 0 0 1 2 0 5 0 5 2 0 2 2 2

3 5 1 5 3 2 3 1 4 1 3 6 6 6 2

4 2 3 1 5 4 7 1 2 1 0 3 2 4 4

5 5 9 8 4 2 4 0 0 0 1 0 1 1 2

3.5 4.0 3.9 3.5 2.6 3.8 1.4 1.6 1.4 1.4 2.2 2.4 2.9 2.5

0%10%20%30%40%50%60%70%80%90%

100%

5

4

3

2

1

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

になっているためだと考えられる。また「テ

レビ映画の先生に憧れ」という理由に関する

相関係数が負の方向であること、「経済的安

定」「部活動指導者になりたい」という理由

に関する相関係数はほぼ無相関であることな

どは、興味深い結果であった。

表 2 教師が第 1志望であることとその理由に関する平均評定値

表 3 教師が第 1志望であることとその理由に関する評定値の相関係数

注:教師が第 1 志望であるという質問において、 1 は当てはまりの程度が弱く、 5 は強い。   理由に関する評定は、 5 件法であった。ただし、「関係なし」という評定があり、それ

に印を付けたものは評定値 0 とした。

1

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愛知大学教職課程の学生における教職の志望度と志望理由の関係について( 1 )

4.考察4-1.結果の概要

まず第1に、「教職を第 1 志望とする」とい

う評定値と「親に勧められた」という評定値

の相関は負の方向であった。第 2 に教育活動

自体に関わると考えられる「教えることが好

き」という評定値の相関は正の方向であった。

4- 2.主たる結果に関する考察

本研究に関する研究仮説である「親に勧め

られた」という学生は少ないというものは、

確かに少なかった。相関係数の結果から教職

を第1志望とする学生は、親に勧められたか

らといって教職を選んでいるわけではないよ

うである。また「教えることが好き」という

教育自体に関する活動に強く理由を感じてい

る場合、教職が第 1 志望であるという気持ち

も強いため、本研究の第 2 の仮説(教職を志

望する気持ちが強い学生は、教育自体に関す

る活動に志望する理由を感じている仮説)も

概ね支持されたと考えられる。

4- 3.補足的な結果に関する考察

教職を志望する学生、特に 1 年生から話を

聞くと、「部活の指導者(監督等)になりたい」

という声をよく聞く。学生は自分の経験して

きた部活動の指導者になりたいようである。

そのような印象が強かったけれども、本研究

の結果からは、部活の指導者になりたいとい

う学生が必ずしも多いわけではないことが分

かる。これは近年、教師の多忙化の原因が部

活の指導であることが指摘されたり、さらに

学校外部の専門的な指導者による部活指導の

体制や予算措置などがとられるようになった

りしたことなどが影響を与えている可能性が

ある。授業やガイダンス等の指導の中でも、

必ずしも希望する部活の指導者になれるわけ

ではないこと、部活動は教育課程外の活動で

あり、教師の仕事の本務ではないこと、将来

的には外部指導者の活用が現在以上に進む可

能性が高いことなどの話をしている。

経済的な安定に関する評定値が低いことも

意外であった。意外であったことの理由は、

教職のアピール・ポイントの一つとして経済

的安定性が指摘される例を見聞きしていたた

めである。学生にとって経済的な “ 安定性 ”

自体がその志望に影響しないことの理由は今

後の検討点であろう。

4- 4.本研究の限界

本研究には、次のような限界がある。まず

第 1 に被調査者数が15名であり、調査の対象

となる愛知大学の教職課程登録学生のうち約

800名のうちの15名であり、調査結果の一般

化には相当の限界がある。しかし、調査を行っ

た教職入門の受講生は 1 、 2 年生であり、教

職課程登録学生の 1 、 2 年生、特に愛知大学

名古屋校舎の学生の実状にはかなりの程度、

一致している印象がある。豊橋校舎と名古屋

校舎では学生の気質や考えに相当の違いを感

じるため、今回の調査は、名古屋校舎の学生

の結果と捉えるべきである。

4- 5.今後の検討

まず第1に、 結果の一般化を考えるならば、さ

らに大人数、様々な場や集団での調査が求めら

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

れる。第2に今回は教職を第1志望とするという

項目と他の項目の関係を探ったけれども、 それ以

外の教職を志望することに関する項目の関連を探

る検討が可能であり、次の報告が待たれる。

5.引用文献愛知大学教職課程の概要、2015、愛知大学教職課程研究紀

要 第 5 号

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教師教育充実のための実践

本学は昭和27(1952)年 4 月に教職課程の

設置が認可されて以来、今日まで長い間教師

教育に携わってきた。教員免許状取得者は過

去10年間でのべ1,164名にのぼり、実際に教

職についた者は253名(一部に不明な年があ

り判明分のみ)を数える。近年の実績を示す

と、2015年度は66名(過年度生も含む)、

2014年度は77名、2013年度は56名が採用選考

試験に合格し教員になっている。

当初は中学校教諭ならびに高等学校教諭の一

種免許状を授与していたが、平成19(2007)年

から、本学の教職課程とあわせて佛教大学通信

教育課程の特別科目等履修生として所要単位を

修得することで、小学校教諭一種免許状につい

ても授与することができるようになった。

この間、2012年 4 月には念願であった「教

職課程センター」が設置されたことで、文部

科学省の教員養成制度改革の動向に対応しつ

つ、同センターを拠点にして教師教育の充実

にかかわる諸事業を組織的に取り組むことと

なった。同センターは、教職課程を履修し教

員免許状を取得する者を養成するだけでな

く、「養成が採用につながること、採用され

た現職教員が常に教師としての資質能力を向

上するための研修を支援すること、そして教

職課程が地域の学校や教育委員会などと協力

して教育の発展に寄与するために連携を推進

していくことなど、多面的な役割を有機的に、

組織的に取り組んで行くこと」をめざしてい

る。学部教育との連携・協力を一段と強化す

ることで、教師教育の充実をはかろうとして

いることはいうまでもない。

教職課程センターの主要な活動は主に二つ

に分けられる。第一は、公立学校の教員採用

教師教育充実のための実践-成果と課題( 1)-

 目次 1.はじめに 岡田 圭二 2.教師教育充実の取り組み-全国の傾向- 加藤 詔士 3.教育実習・教員採用選考試験報告会の開催 加藤 詔士 4.「教職への途」連続セミナーの開催 加藤 詔士 5.外部講師による特別授業 加藤 詔士・渡津英一郎 6. 『教職課程ハンドブック』の編集   -学生の主体的な学びを促すツールとしての可能性と課題- 前原 裕樹 7.教職イニシャル・レポートの活用   -学生の主体的な学びを促すツールとしての可能性と課題- 岡田 圭二

1 .はじめに

岡田 圭二

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154

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

選考試験あるいは私立学校の教員適性検査を

受験し教職につくことを願う学生に対する日

常的な支援である。入学時の教職課程履修ガ

イダンスにはじまり新任教員として勤務校へ

赴任するに至るまでの 4 年間の年次別教師教

育プログラムを編成し、それにもとづいた指

導を行っている。具体的には、教員採用試験

対策サークルの組織化と活動の推進、通信制

による小学校教諭一種普通免許状取得にむけ

た援助と指導、教育実習ならびに介護等体験

実習にむけた指導・助言のほか、「先輩教師

に学ぶ会」「教採合格実践演習」「学内模試」「教

員採用二次試験直前対策講座」などと称する

連続企画を案出し、定期的に開いている。そ

のうち、「教採合格実践演習」企画では、

2015年度の名古屋校舎の場合 , 順に「生きる

力をはぐくむ学校教育」「自己アピールの書

き方」「教育委員会制度とその変更-メリッ

トとデメリット-」「面接の実際」「自己実現

を支援する学級経営」「キャリア教育」「人権

教育」「チーム学校」「義務教育における出席

停止」などという、カレントで実際的なテー

マをめぐって学習を深めた。さらに2016年度

には、「インクルーシブ教育システム」、「教

員の服務と分限処分・懲戒処分」といったテー

マも扱った(表 1 - 1 参照)。また先輩教師

に学ぶ会でも、多くのテーマを取り扱い、教

職に就く学生に参考になる事柄を学ばせた。

表 1- 1 教員採用試験合格実践演習のテーマ

2015年度のテーマ 2016年度のテーマ

1  生きる力を育む学校教育2  教採選考試験願書・自己アピールの書き方3   教育委員会制度の変更(メリットとデメリット)4  面接の実際5   子ども一人一人の自己実現を支援する学級経営6  キャリア教育7  人権教育8  学習指導案の作成9  道徳教育10 教員採用試験に向けてのポイント11 特別の教科道徳12 いじめ13 不登校14 特別支援教育15 学習指導要領16 生徒指導と職員の種類17 チーム学校18 教育機会均等と義務教育の無償19 政治的・宗教的中立20 義務教育における出席停止21 学力22 学級編成23 教育法規

1  いじめの対応2  インクルーシブ教育システム3  特別の教科 道徳教育4  教員採用制度と含む監督者5  学習指導要領6  学習指導要領の変遷 17  教員の服務と分限処分・懲戒処分8  いじめの防止9  教育委員会制度10 採用試験の勉強スタート11 教育法規の基礎12 学習指導要領の変遷 213  とてもよく出る A ランクの「学校教育法」14  とてもよく出る A ランクの「地方公務員法」15 学習指導要領の変遷 316 特別支援教育

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教師教育充実のための実践

表 1- 2 「先輩教師に学ぶ会」で扱ったテーマ

2015年に扱ったテーマ 2016年に扱ったテーマ

1  小学校教師の心構えと望むこと2  中学校教師の心構えと望むこと3  高等学校教師の心構えと望むこと4  子どもを生かす教育コーチング5  パーフェクト面接を伝授6  日本一ハッピーな学級づくり7  何をどう教えるかより、誰が教えるか8   教員から教師へ-教師になる覚悟を決めた貴方

へ-9  授業づくりの真髄

1  集団討論の要諦2  特別支援教育の方法3  福祉教育の方法4   面接力向上-第一印象は表情筋で決まる-5  論作文のポイントと書き方6  義務教育教師の心構えと望むこと7  高等学校教師の心構えと望むこと8  子どもの意欲を育てる生徒指導9  子どもの意欲を引き出す教育コーチング

大学内における支援だけでなく、教職イン

ターンシップの奨励と推薦あるいは学生支援

員の派遣、過年度生に対する常勤講師・非常

勤講師の紹介と推薦などという、支援活動も

含まれる。なかでも教職インターンシップは

参加学生の教職の意識ならびに力量をおおい

に向上し、教員採用選考試験の合格実績とか

なり高い相関があるという効果測定が認めら

れるだけに、重要な進路支援方策と位置づけ

ている。

第二は、 4 年間の教育プログラムを進行す

る節目節目で、教師教育の充実を期した催し

を企画し開催する活動である。近年、ほぼ毎

年取り組んできた事業のうち主たるものをあ

げると、教育実習・教員採用選考試験報告会

の開催、「教職への途」連続セミナーの開催、

教職研究セミナーの開催、『教職課程ハンド

ブック』の編集と刊行、教職イニシャル・リ

ポートの活用、東栄町サマースクールの実施、

教員免許状更新講習の実施などがある。いず

れの活動も、教職課程専任教員、教職関係事

務職員だけでなく、教職課程非常勤講師、本

学OB・OG教員の支援と協力をうることが

できたおかげで、試行錯誤の連続であるけれ

ども、その成果は着実にあらわれているよう

に思われる。

とはいえ、教師教育をさらに一段と充実し

たものにするためには、これまでの実践をふ

り返り成果と課題を明らかにするとともに、

種々のプログラムを工夫したり新規の事業を

開発したりすることが必要であろう。活動を

評価し、新規プログラムの研究開発をするさ

いには、中央教育審議会答申『これからの学

校教育を担う教員の資質能力の向上~学び合

い、高め合う教員育成コミュニティの構築に

向けて~』(平成27年12月21日)で示された、

教員養成の「主な課題」ならびに「改革の具

体的な方向性」を有意義に活用したいと思う。

具体的には、愛知大学の教職課程には教育委

員会との連携事業、教職課程「評価」の推進

が求められる。

本稿は、主に教職課程センターを拠点とし

ておこなってきた活動のうち、近年の主要な

実践を整理し、改善点および今後の検討課題

の洗い出しをおこなうなど、自己検証・改善

方策を検討し、教師教育のさらなる充実を期

そうとするものである。

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156

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

( 1 )

教師教育の充実が叫ばれて久しい。近年、

大学の教職課程において、教師教育の充実な

らびに教員採用選考試験の実績の向上を期し

た種々の取り組みが企画され実施されてい

る。具体的な取り組みとして、多くの大学で

は、①ガイダンス、②講演会、③セミナー、

④パネルディスカッション、⑤模擬試験、⑥

教職対策勉強会、⑦面接・実技講習会、⑧教

師力養成講座、直前対策講座、⑨教育実習報

告会あるいは教員採用選考試験合格者体験

報告会、などが開催されている。そのほか、

⑩教員採用選考試験合格を視野においた講義

ならびに演習で構成された「課外講座」(採

用試験直前の面接対策講座、 2 週間にわたる

集中講座など)を特設する事例もある。

教職課程履修学生を対象に企画される場合

が多いが、なかには全学生に対する職業指導

という観点からキャリア構築を目的に企画さ

れたイべントの一環として開催される場合も

ある。

( 2 )

教師教育の充実ならびに教員採用選考試験

実績の向上をめざした取り組みといっても、

その実態はさまざまである。開催の時期、場

所、プログラム内容、講演者・報告者などの

点で、種々の工夫がみられる。まさに千姿万

態である。

まず、第一の教師教育の充実策についてみ

てみると、①教職課程履修ガイダンス、②教

職に関する悩みの相談や個別面談、③履修カ

ルテの作成を通した指導、などがある。学生

が教職課程の的確な情報をえて、教職課程履

修の意識を高めるために講じられる方策であ

り、学生が高い意識で教職課程を履修できる

ような仕組み作りや具体的な実践である。

ポートフォーリオの導入、ならびにその運用

方法の開発を通して、教師教育を一段と充実

することをめざす大学も少なくない。

第二の教員採用選考試験にむけた対応策

は、実に多彩である。方法、講演者ないし報

告者、内容のいずれの点においても、種々の

工夫がみられる。教員採用選考試験対策と

いっても正課として開設されている教師教育

の充実のうえで成果があらわれるのだから、

教師教育の充実策と連動して企画される場合

が多い。

まず、方法としては、前記のガイダンス、

講演会、セミナー、報告会などがあるが、い

ずれにおいても、その講演者ないし報告者と

しては、①教職課程の専任教員ないし支援員

のほかに、②卒業生教員(現職の教員・校長、

教育委員会職員も含む)、③学校長・教員、

④文部科学省あるいは教育委員会の職員、⑤

教員採用選考試験や教師生活に関する情報

誌、ならびに教員受験専門学校の専門家、そ

れに⑥採用選考試験合格者、などがみられる。

かれらが担当する講演ないし報告の内容・

2 .教師教育充実の取り組み-全国の傾向-

加藤 詔士

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157

教師教育充実のための実践

テーマとしては、「教職をめざすあなたへ」

「教員採用の現状と今後」「これからの教員養

成」「求められる教師像と教職展望」「教職履

修学生への期待-学校現場からのメッセージ」

「教員の資質向上と教員養成改革」「教師の

やりがいと苦労」「教員養成のこれまでとこ

れから」「データで読み解く教員採用試験の現

状」「私立学校における教員について(とく

に小学校における現状)」など、区々である。

これらのなかでも、⑥採用選考試験合格者

による報告、ならびにOB・OG教員による

講演会は、採用試験の合格体験談、教師生活

の実状、教育現場における学級経営や部活の

指導などについて、実体験にもとづく生の声

が聞かれるだけに、履修学生のモティベー

ションは大いに高まるはずである。また、⑤

教員採用選考試験や教職に関する情報誌なら

びに教職専門学校の専門家の招聘は、データ

に裏付けられた採用試験の現状と傾向が紹介

され、実践的な対策法が指導されるのだから

大いに関心を呼ぶ。

講演会や報告会などよりも教員採用選考試

験に一段と直結した方策も、いくつか案出さ

れている。①教科ならびに教職の力を認識さ

せるための「基礎力診断試験」の実施、②採

用選考試験突破に向けた勉強会・講習会、③

採用選考試験直前対策セミナーおよび講演

会、④模擬試験の実施とそれにもとづく学習

方針作りの指導、⑤受験対策講座( 1 年次・

2 年次教養基礎講座、 3 年次直前演習講座、

4 年次直前集中講座)の開設、などである。

この教員採用選考試験に直結した企画にお

いては、より実践的な指導が行われる。①採

用選考試験準備を早くスタートさせるための

情報の提供(採用選考試験、受験対策スケ

ジュール、勉強方法の説明)、②採用選考試

験ならびに教職に関する受験情報誌(『教職

課程』『教員養成セミナー』など)を活用す

ることの推奨、③夏期休暇中の母校訪問の奨

励とそれによる教職意識の向上、④求められ

る教師像の説明とそれに向けた実績作り、お

よび研鑽の奨励(教職インターンシップない

し学習ボランティアの体験など)、⑤私立学

校教員の勧めと私立学校教員適性検査の紹

介、などである。

教職課程における教師教育の充実ならびに

教員採用選考試験の実績向上といっても、今

なお試行錯誤のところが少なくないが、その

なか、早い年次からの指導プログラムが確立

されているところもあり注目される。

年次ごとにきめ細かな採用試験対策を計画

した例として、下記のような事例がある。た

とえば、 3 年次前期には①採用試験ガイダン

ス、 3 年次後期には②秋季セミナー、③県別

受験相談・過去問分析演習、④論作文・面接・

学習指導案指導、⑤模擬試験、⑥「教育心理」

「教育原理」の特別講座、⑦冬季セミナー、

⑧論文添削・指導、4年次前期になると⑨論

作文・面接・学習指導案指導など試験対策全

般、⑩模擬試験、⑪「教育心理」「教育原理」

の特別講座、⑫春季セミナー、⑬集団討論・

集団面接・個人面接指導、⑭直前対策、⑮二

次試験対策、⑯論文添削・指導、などといっ

た事例である。

また、現役での教員採用選考試験合格を目

指したプログラムとして、下記のようなプロ

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158

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

グラムからなる取り組みもみられる。 2 年次

には①教員志望者ガイダンス、②第 1 回教員

採用模試(時事通信社)、③ 4 年生教員採用

選考試験合格者体験報告会、④第 2 回教員採

用模試(東京アカデミー)、 3 年次には⑤第

3 回教員採用模試(時事通信社)、⑥教員志

望者ガイダンス、⑦□県教員採用選考試験-

面接・実技講習会、⑧第 4 回教員採用模試(東

京アカデミー)、⑨「教採対策勉強会」説明

会スタート・ガイダンス、⑩教員採用選考試

験現役合格者「採用試験対策報告会」、⑪第

1 回教員採用対策-模擬試験(時事通信社)、

⑫□県教員採用選考試験説明会(□県教育委

員会)、⑬第 2 回教員採用対策-模擬試験(東

京アカデミー)、⑭面接(個人・集団)・集団

討論の勉強会、 4 年次における⑮第 3 回教員

採用模試(時事通信社)、⑯教員志望者ガイ

ダンス、⑰□県教員採用選考試験-面接・実

技講習会、⑱第 4 回教員採用模試(東京アカ

デミー)、⑲□市教員採用選考試験講習会、

⑳4年生対象「教員採用選考試験直前対策講

習会」、㉑教員採用選考試験第二次試験直前

対策勉強会、㉒卒業後の進路・講師登録・私

学教員適性検査などの説明会、という構成で

ある。教職課程、卒業生教員、教育委員会、

教職情報誌、教職専門学校とが連携した指導

体制であるので、採用試験の実績は向上する

にちがいないであろう。

以上のような教師教育の充実ならびに教員

採用選考試験対策は、教職課程センター、教

職教育開発センター、教職課程指導室、教職

支援室などと称する部局を特設し、指導員を

置いてこれを担当させるところが少なくな

い。同センターないし指導室では、学生が教

職課程についての情報をえて、教職課程履修

の意識を高める方策(たとえば、教師教育に

関する基礎的情報の収集、教員採用の動向お

よび展望に関する調査と紹介など)を講じる

ほか、①日常的に相談や情報提供、初年次か

らきめ細かいガイダンス、模擬授業の指導、

②学校現場を知るための教職講演会、夏期休

暇中の教職 8 時間学習会、学校ボランティア

のサポート、③教職インターンシップ、ある

いは授業や放課後指導の補助を行うボラン

ティア体験の紹介と奨励、④教員採用選考試

験情報の提供、⑤論作文の添削・模擬面接な

どの教職支援活動、などといった任務も果た

している。

このほか、教師をめざす学生と卒業生教員

との連携をめざした「卒業生教職員の集い」

の企画、若手教員の力量形成のためのセミ

ナーもしくはワークショップの開催、現職教

員のネットワーク拠点として教育力向上のた

めの情報や交流の機会の提供など、教師教育

から現職教育のブラッシュアップに至るまで

をサポートする体制が作られている例もあ

る。ここまでの活動をするとなると、大学事

務部門ならびに教職課程だけでなく、卒業生

教員と連携しながら対応することが考えられ

る。実際、「卒業生教員の会」とか称する組

織作りを進め、結びつきを深めている大学も

みられる。

( 3 )

本学の教職課程においても、教職課程履修

の意義を高め、教師教育を充実する方策をこ

れまでにいくつか講じてきている。2012年 4

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159

教師教育充実のための実践

月には、念願であった「教職課程センター」

が設置され、小中学校の校長や教頭として教

育現場で活躍してこられた先生方を事業主任

あるいは支援員として配置したことで、ここ

を拠点にして教師教育の充実にかかわる諸事

業を組織的に取り組むこととなった。

近年取り組んできた主たる事業をあげる

と、下記のとおりである。いづれも他校の実

践に学びながら本校独自に研究開発を進めて

いる事業である。試行錯誤の連続であるが、

その成果は着実にあらわれているように思わ

れる。

 ・教育実習・教員採用選考試験報告会

 ・「教職への途」連続セミナーの開催

 ・教職研究セミナーの開催

 ・『教職課程ハンドブック』の編集

 ・教職イニシャル・リポートの活用

 ・教職インターンシップの奨励

 ・東栄町サマースクールの実施

 ・教員免許状更新講習の実施

 ・外部講師による特別授業

以下では、これらの実践をそれぞれ紹介す

るとともに、教師教育を一段と充実するため

の課題を検討する。

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160

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

( 1 )

教育実習報告会あるいは教員採用選考試験

合格報告会は先輩が体験し学んだことを後輩

に向けて報告し、これを全員で共有するとと

もに、新たな課題を見つけ今後の学びに生か

すことに大きな意義が認められる。

そのさい、報告会を開催するだけでなく、

報告会の内容を記録に残すことは、計画的で

継続的な教育実践のための捷径と考えられ

る。ちなみに、文部科学省は、教育実習報告

会について、「教育実習事例の発表会・報告会・

反省会を記録として確実に残す」ことを指導

している。大学の教職課程を現地視察したさ

いの「教育実習の取組状況」という視察項目

における講評のなかでは、計画的・組織的な

事後指導の充実とともに、報告会の記録を作

成することという指摘をした例がみられる。

教育実習報告会であれ教員採用選考試験合

格報告会であれ、これを毎年の恒例行事とし

て開催すれば、先輩の貴重な体験を後輩が受

け継ぐことになり、伝統を育む貴重な行事と

なるし先輩・後輩の間に強い絆が形成される

ことにもなる。

( 2 )

体験報告会といっても、その形式と内容は

いろいろ考えられる。①先輩各人からの個別

報告という形態が一般的であるが、そのほか

に、②シンポジウム、あるいは③体験者の報

告とそれに対する質疑応答というパネルディ

スカッション形式がある。④体験者の報告の

あと、小人数グループに分かれて質問をした

り経験談の分かち合いをする形式も考えられ

る。⑤報告会直後に質疑応答の時間あるいは

自由懇談の時間を付設すれば、参加者は直接

話を聞きたい先輩のもとに移動して、質問や

情報収集、さらには連絡先の交換も行われる

であろう。

報告会で取りあげられる報告内容について

も、種々考えられる。

まず、採用試験体験報告会においては、第

一に合格に至る流れ・取り組みに関心が集ま

り、①教職サークルの形成と参加、各種セミ

ナーへの参加、仲間作り、積極的なボランテ

ィア活動への参加、教育時事問題対策のため

の新聞記事等の切り抜き、効率よい学習スケ

ジュールの策定などが話題になるほか、②採

用試験勉強を開始する時期、③同勉強の方法、

④使用した雑誌・本、⑤情報収集の仕方と実

際などについても取りあげられる。⑥長い道

程を経て合格にたどりつくまでの工夫や留意

点(日常生活における時間管理あるいは生活

リズム、学習プランニングの指針、壁の乗り

越え方、モチベーションの保ち方など)につ

いても、重要であろう。

第二の関心は採用試験の実際についてであ

り、①試験(筆記試験・実技試験)の内容と

傾向、②面接(集団面接・個人面接)や討議

の様式と内容、③模擬授業やロールプレイの

3 .教育実習・教員採用選考試験報告会の開催

加藤 詔士

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161

教師教育充実のための実践

課題と実際などが語られる。④受験した自治

体ごとの試験の傾向と特色についても、関心

が集まるにちがいない。

合格者の報告は具体的な体験談であるだけ

に後輩には熱いメッセージとなり、それを受

け止めれば、今度は「自分も」と本気になり、

そのご勉強が本格化するにちがいない。来年

度は自分が後輩に報告できるようにがんばろ

うという気持ちが醸成されるはずである。合

格への決め手は一つではなくて、早めの始動、

計画的な準備、的確な情報の収集と分析、効

率的な試験対策などが不可欠である、という

ことを自覚することになる点でも有益であ

る。もっとも、合格の秘訣は成功者に学ぶだ

けでは十分でなく、成功体験とともに敗因を

生かしそれを共有することも期待されること

はいうまでもない。

次に、教育実習報告会においては、主たる

内容は実習の事前準備、実習期間中の生活と

職務、実習後のことに大別される。第一の事

前準備としては、実習校訪問ならびに指導教

諭との事前打ち合わせ、事前の教材研究と教

科書の調達、不明点の確認などをめぐる話が

取りあげられる。

第二の実習期間中の生活と職務は大きな関

心を呼ぶ。とりわけ教師としての職務の内容

は最大の関心事になるであろう。教師として

の一日の職務として、①授業の担当・授業の

補助、②生活指導、③学級経営の実務(出欠

調査、提出物の受領、ノートの点検、採点、

給食指導、掃除指導、朝の会・帰りの会の指

導、学級通信の発行、教室掲示、教材・教具

の準備、放課後の教室整理、施錠・見回りと

いう日直業務等)、④委員会活動・クラブ活動・

課外活動の参加と補助、学校行事への参加、

職員会議の参観、など実に多彩な活動が取り

あげられる。

学校現場での職務の報告のなかでも授業実

習をめぐる体験談は、実習生ならではの苦労

話や失敗談をともない感銘深い話となる。①

授業の準備と展開(授業計画の立て方、指導

案の作成、授業作りの視点、授業観察の視点

の形成)、②板書の仕方、③観察学習、④実

習日誌の書き方、⑤実習の総仕上げとしての

研究授業をめぐることなどが、主題となる。

活動の具体的な内容についてだけでなく、

授業やホームルームを任されたことで得た教

訓や、休み時間・部活動・掃除の時間などに

おける児童・生徒との触れあい、頻繁なコ

ミュニケーションこそが信頼関係を育み、そ

れが授業におけるスムースな展開につなが

る、などという観察ないし体験についての報

告も、強い関心を呼ぶ。

報告内容の第三は、実習終了後の対応、担

当した学級との実習後の交流などについての

話である。

教育実習報告会では、以上のように実に数

々の事柄が話される。報告者は、教師として

の奥の深さと魅力について体験したことを

確認できるだけでなく、報告することで自分

の実践をより専門的に省察し自分の実習経験

を相対化することになる。一段と学習意欲を

高め、自分の将来を見据えるよい機会にもな

る。

また、学校現場における実習の体験は、実

習生の教育観・教師観・児童生徒観を見事な

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162

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

までに鍛える貴重な時間であり、将来教師と

して成長する土台作りに大いに役立つはずで

ある。 2 週間ないし 3 週間という短期間で

あっても、また未熟な自分の働きかけにもか

かわらず、児童・生徒が成長する姿を間近に

見ることができるやりがいのある仕事である

ことを実感しただけでなく、逆に自分自身が

大きく成長させてもらったと感じる体験でも

ある。

一方、後輩にとっては、教育実習の実態に

ついて理解が深まることで、実習に臨む心構

え、あるいは学校現場を多角的な角度からな

がめる視点を形成する機会となる。教師にな

るという強い決意をもって実習にむけて準備

を始める、格好の機会となるであろう。

教育実習報告会は、教職課程担当教師にと

ってもまたかけがえのない機会である。報告

会では、実習生が直面している諸問題につい

て共有し意見交換と助言をする場であるが、

教育実習の反省点と課題について意見交換が

なされるのだから、教育実習の事前指導の内

容ならびに形態の再構築につながるし、その

後の実習予定者への事前指導としても機能す

るからである。

校種や学校環境の違いはあっても、教育実

習報告会に参加することで、教職の多面性を

共有し、多様な教育課題を見つけることがで

きるのである。

( 3 )

本学の名古屋校舎ならびに豊橋校舎では、

報告会に認められるこのような意義に鑑み、

毎年、「教育実習・教員採用試験体験報告会」

を企画し開催している。

2010年度の名古屋校舎の場合は、2010(平

成22)年12月16日に開催した。報告会は、第

一部:教員採用選考試験合格報告(名古屋市・

中学校社会科合格者、三重県・高校地歴科合

格者、愛知県・高校商業科合格者)、第二部:

教育実習報告(中学校社会科実習体験者、高

校地歴科実習体験者、高校商業科実習体験者)

の二部から構成された

報告会を開催するだけでなく、報告会の記

録を作成することの意義についても自覚し、

当日の映像ならびに音声を記録して残した。

しかも、印刷物にして活用することの効用も

また想定し、当日の進行、報告者の発言、参

加者からの質疑応答に至るまでの記録を起こ

して、『2010年度「教育実習・教員採用試験

報告会」の記録-意義と課題-』という標題

の報告書(全44頁)を編集し刊行した。

2015年度の場合は、2015(平成27)年12月

2 日に開催し、教育実習報告ならびに教員採

用試験合格報告についてそれぞれ 2 名づつ登

壇した。まず、教育実習報告では、中学校の

英語科と道徳、ならびに中学校社会科と道徳

の実習について、それぞれ学習指導案を示し

て具体的に報告された。そのさい、①実習前

に気をつけたこと、②実習中に気をつけたこ

と、③教育実習の一日、④教材研究、⑤授業

でもっとも留意したこと、⑥生徒との接し方、

⑦次年度の実習生にむけてなどという項目に

ついて、実体験にもとづく報告が具体的にな

された。たとえば、「生徒との接し方」の項

目においては、①生徒を知る(名前を覚える。

アンケートを取る)、②自己紹介をする、③

勇気を出して話しかける、④一日一回は全員

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163

教師教育充実のための実践

と会話をすることを目標にする。話した内容

は忘れないうちにメモする、⑤生徒は友達で

はないので、どこかで線を引く、⑥子どもの

側になって会話をする、最後まで話に口をは

さまない、⑦実習期間を通して生徒に伝えた

いことを考える、⑧部活動、給食、掃除、下

校時間を通してコミュニケーションを図る、

⑨先生方の生徒との接し方を常に観察する、

⑩自分が良いと思った方法でぶつかってみる

などという諸点があげられ、体験者ならでは

実践と観察が生き生きと語られた。次年度以

降の実習予定者にとっては実際的有用性のあ

る内容であり、教育実習についての認識が深

まり意識が高まったにちがいない。

教員採用選考試験合格報告においては、主

に①採用選考試験の内容と対策、②受験まで

の一日の学習プラン、③後輩へのアドバイス

が語られた。報告会というと合格者による報

告であるだけに「成功の物語り」として語ら

れがちであるのだが、今回は報告会の主旨が

よく理解されており、自分の受験生活の批判

的な分析ならびに誠実な自己反省にもとづい

た内容であった。たとえば、後輩へのアドバ

イスのなかで語られた「教育実習が始まる5

月ごろから教育実習が終わる 7 月ごろまでは

まったく勉強ができないので、筆記試験の勉

強がしっかりきるのは 4 月までだと思って取

り組まなければいけない」とか、「まとまっ

て勉強できるのは春休み中のみ」とかいう発

言は、後輩にとって実に有益なアドバイスと

なったと思われる。

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164

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

( 1 )

「教職への途」連続セミナーは、教職課程

の授業を補充することを願って企画された。

教職課程の授業では、教員免許状を取得する

ための体系的な理論や方法を順序だてて理解

するためのカリキュラムが組まれているのに

対して、本セミナーでは、「授業科目のよう

な体系的な内容というよりも、むしろトピカ

ルで、今日的な教員養成や教員採用に向けて

の課題や情報について理解を広めて教職を目

指す方法を探っていくことを支援すること、

あるいはそういう意欲や態度を促すためのセ

ミナー」として開設された。また、教職課程

履修者に向けて、「教職の魅力、教員になる

ための心構えや準備の進め方などについて理

解を深める」指導をすることの必要性を認識

して、企画された。しかも、単発ではなく年

間 3 回からなる連続セミナーという形で開催

することで、指導の徹底を図ろうとした。対

象学年に応じた講演内容を用意し、主として

1 ・ 2 年生対象と 3 年生対象の講演会をそれ

ぞれ用意することになった。

具体的には、 1 回目は教職課程の履修を始

めた 1 ・ 2 年生を主たる対象にし、「教職と

は何か」ということを中心に教職の魅力、教

職の概要を理解するためのガイダンス的な内

容を用意した。 2 回目は、教師教育の現代的

な課題あるいは改革の動向、教員採用の動向

などを中心にした内容である。教職課程の意

義と学修の方針をより明確に理解し、目的意

識をもって取り組むことを促そうとした企画

である。 3 回目は、主として 3 年生を対象に

採用選考試験の動向や実際、その効率的な対

策などについて具体的に理解させることで、

「教職への途」にむけて努力を促そうとして

計画された。

( 2 )

「教職への途」連続セミナーは、2011年度

から2013年度までの 3 年間、名古屋校舎およ

び豊橋校舎でそれぞれ開催した。

2011年度の第一回連続セミナーでは、 1 回

目は「教師の魅力・意義」という主題で、学

校教育の現場体験者による講演会を企画し

た。現職の小学校校長ならびに元高等学校校

長(現在は教職課程専任教員)により、「教

師の魅力」ならびに「教師に求められるもの」

と題する講演が行われた。 2 回目は「教員養

成制度改革の動向と求められる教師の資質能

力」ならびに「教員採用試験の動向と準備の

心得」と題する講演が行われた。今回は、本

学教職課程担当者が登壇した。授業のなかで

も言及した主題ではあるが、その重要性に鑑

み講演という形をとってあらためて取りあ

げ、教師教育の充実を期した。 3 回目は、本

学教職課程担当者により「教員採用試験の傾

向と具体的対策」という演題で開かれた。

4 .「教職への途」連続セミナーの開催

加藤 詔士

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165

教師教育充実のための実践

2012年度の第二回連続セミナーならびに

2013年度の第三回連続セミナーの場合は , 両

年とも第 1 回「教師の魅力・意義」、第 2 回「望

まれる教師像・教員採用試験の動向」、第 3

回「教員採用試験の対策」という演題で開か

れ、本学の専任教員ならびに教職課程セン

ター事業主任が登壇した。

この「『教職への途』連続セミナー」の開

催においても、その活動記録を作成すること

の意義について自覚し、担当事務係の協力を

えて当日の音声を記録に残した。しかも、記

録の内容を印刷物にして活用することの効用

もまた想定して、下記のような『報告書』を

作成した。これらの『報告書』は講演の全部

の記録ではなく、各回ともに 2 回目の「望ま

れる教師像・教員採用試験の動向」について

の講演記録が収められている。

  『求められる教師像』(2011年 9月、全38頁)

 『望 まれる教師像・教員採用試験の動向』

(2012年10月、全67頁)

 『望 まれる教師像・教員採用試験の動向

[新版]』(2013年11月、全62頁)

この間、2012年の 8 月28日には、中央教育

審議会の答申『教職生活の全体を通じた教員

の資質能力の総合的な向上方策について』が

出され、教員養成制度全体の大幅な見直し、

進むべき方向と具体的な改善策が提示され

た。そのような時節であっただけに、第三回

連続セミナーでは、同答申で示された「望ま

れる教師像」とこれからの「教員採用選考試

験のあり方」を踏まえた講演内容になってい

る。

ちなみに、その第三回連続セミナーのさい

の報告書『望まれる教師像・教員採用試験の

動向[新版]』の目次構成を示すと、下記の

とおりである。

第一部: 教員養成制度の改革の動向と求め

られる教師の資質能力

     -危機を克服し、持続発展可能な

社会を築く「生きる力」を育てる

教師力-

  はじめに  

  I.学校教育の現状と教員の役割

     1 . 新学習指導要領と学力観の転換

     2 . ESD・持続発展可能な人材

教育に向けて

     3 . 保護者・社会から学校・教師

への期待と葛藤の現実

  II.社会の危機と教育改革の方向

     1 . 中教審答申「第 2 期教育振興

基本計画」と社会的危機

     2 . 4 つの社会的危機状況と基本

的方向

  III.教員養成制度改革の動向 

     1 . 中教審答申「今後の教員養成

-免許制度の在り方につい

て」

     2 . 民主党政権にともなう制度改

革の再検討

     3 . 自民党の教員養成改革案

  IV.求められる教員の資質能力

  V.教員採用の動向

     1 .教員採用数の動向

     2 .受験者数の動向

     3 .養成大学別の動向

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166

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

     4 .大学院修了者の増加動向

     5 .教員の経歴の多様化

     6 . 既卒者、講師経験者の採用動向

     7 . 義務教育学校間の教員交流の

動向

     8 .人物評価の重視

     9 .多様な経験、実践的能力

    10.求められる教師の資質

  VI.「教職への途」に向けて 

     1 . 明確な目的意識をもって計画

的な努力が必要

     2 . 社会の変化・課題に関心をも

つこと

     3 . 学部・学科の学習、研究が基

礎・基本

     4 . 学生生活を通じた人間形成、

教師力の修得

     5 . 教員養成の改革の動向に関心

を持つこと

     6 . 忍耐強く、継続的に努力する

こと

  VII.講演資料

第二部: 望まれる教師像、教員採用試験の

動向

  I.はじめに

  II.教員採用試験の実際

     1 .全国の実施状況

     2 . 採用試験の出題傾向-「教職

教養」を中心に-

  III.教員採用試験の動向と特色

     1 .採用の方法

     2 .選考の特色と傾向

     3 .教員採用の刷新策

     4 .文科省による先導

  IV.教員に求められる資質能力

     1 . 中教審答申『教職生活の全体

を通じた教員の資質能力の総

合的な向上策について』(平

成24年)

     2 .自治体の求める教師像

     3 .評価内容からみる教師像

     4 .豊かな言語能力

  V.就職市場のなかの教員採用

     1 .開かれた教員市場

     2 .既卒者にも広い門戸

     3 .転職市場の発達

  VI.むすび

  VII.講演資料

Page 179: 愛知大学教職課程研究年報ISSN 2186-5183 愛知大学教職課程研究年報 2 0 1 6 年 愛知大学 第6号 加藤鉦治教授退職記念号 目 次 加藤鉦治(詔士)教授

167

教師教育充実のための実践

( 1 )

豊富な知識・経験・技術をもつ人、あるい

は学習者とは違った文化背景をもつ人が教室

に入ることは、日常の教室とは異質の雰囲気

が作りだされ、生き生きとした学習の場が提

供されることになる。その人の専門、考え方、

価値観の多様性を生かした指導がなされれ

ば、学習者の関心や意欲が大いに喚起され、

より深い学習が期待される。専門性が高いか

ら学習内容が深められるし、通常では見られ

なかった教材・教具が目の前に示されれば関

心が一段と高められるからである。しかも、

日常の生活との関連が実に具体的・実際的に

示されるであろうから、学習内容について実

感をともなった理解ができるようになる。

以上のような意義に鑑み、学校外部の人材

を活用した授業をカリキュラムのなかに組み

こんだ特別授業が、このところ校種を問わず

広まっている。文部科学省は、とくに消費者

教育・金融経済教育、キャリア教育・職業教

育、がん教育において、このような特別授業

を推奨している。基本方針の提示に始まり、

指針・手引き・教材の作成、連携・協働の推

進、先駆的な実践例の提示などに至るまで積

極的に関与し、その教育の充実を先導してい

る。

教師教育においても、数多くの大学で外部

人材を招いた特別授業が開かれ充実が期され

ている。学習者には知識・理論・技法の教育

だけでなく、現実の教師の世界を知り学校社

会との関わりを考える絶好の機会となってい

る。外部人材を招いた教師にとっても、「外

部講師を受け入れることで教師自身の学びや

資質の向上につながるという利点」がある。

本学の教職課程では早くからその意義を自

覚し、加藤鉦治担当「教職入門」、渡津英一

郎担当「教職入門」「教育制度論」「教職実践

演習」、永田孝夫担当「社会科教育法」など

の授業のなかで、外部講師による特別授業を

開いている。

( 2 )

加藤鉦治担当の「教職入門」(名古屋校舎)

においては、これまで下記のような外部講師

による特別授業を開いてきた。そのさい、講

義の主題と内容については教職への途を具体

的に指し示し、教師の魅力を自己体験にもと

づいて生き生きと語っていただくことをお願

いした。授業の模様はビデオ撮影ならびにカ

メラマンによる写真撮影をして活動記録とし

て残すとともに、CDを製作して講師に提供

した。授業終了前には受講者にリアクション・

ペーパーを書かせこれもまた講師に届けるの

であるから、講師にとっては自分の授業評価

をする機会にもなるであろう。

・20 11年 6 月 1 日:小久保正之(名古屋市

立熊の前小学校校長)「学校の現場か

ら-あなたを持っている子どもたちが

います-」

5 .外部講師による特別授業

加藤 詔士・渡津英一郎

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168

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

・20 12年 6 月 6 日:石井政一(愛知県公立

高校校長会事務局長)「教員への道の

り」

・20 13年 6 月26日:加藤安信(大同学園大

同高校校長)「私立高校教員の魅力」

・20 14年 7 月 2 日:服部保孝(愛知県立松

蔭高校校長)「先生を目指すみなさん

へ」

・20 15年 6 月24日:太田敬一郎(名古屋市

立八熊小学校校長)「教職を目指すあ

なたへ」

このうち、加藤安信「私立高校教員の魅力」

の講義は、「私立学校を支えている法律」「建

学の精神に基づいて設立される私立学校」「私

学適性検査」「私立学校教員の魅力」などと

いう項目から構成され、公立学校教員と比べ

た私立高校教員の特色と魅力が語られた。

「私立学校教員の魅力」としては、学校・学

園に対する高いロイヤルティー、系統的な指

導ができる、転勤(人事異動)がない、自主

的な研修と交流の輪を広げるという 4 点が指

摘された。

服部保孝「先生を目指すみなさんへ」にお

いては、「教師の仕事の醍醐味」、「愛知県の

教員採用選考試験の傾向と対策」、「これから

の教師に求められるもの」、「教師志望者に推

薦したい図書」などについて語られた。アク

ティブ・ラーニングの意義に鑑み、講義形式

だけでなく演習形式も取り入れられたことで

活気ある授業になった。

そのうち、「これからの教師に求められる

もの」においては、まず①児童・生徒にみら

れる学力の低下ならびに学習意欲の低下、自

尊感情の不足を指摘し、②「知識をつけるだ

けでなく、生涯にわたって主体的に学べる人

を育てる」ための取り組みとして、アクティ

ブ・ラーニング、コーチング、体幹(コア)

トレーニングが推奨された。そのあと、③学

生をグループに分け、グループごとに教師と

しての対応のあり方を深く考えさせた。

演習では、「禁止されている物を持ってき

た児童生徒に注意したところ、『誰にも迷惑

をかけているわけでもないのに、なぜ注意さ

れるのかわからない』といって指導に従いま

せん。あなたはどのように対応しますか」と

いう主題を提示し、まず自分で考えさせ( 3

分)、グループ・ディスカッションをさせ( 7

分)、同ディスカッションを踏まえてもう一

度自分の意見を整理させ( 2 分)、それを項

目ごとに「演習メモ」に記入させた。

その「演習メモ」を回収し、グループごと

の対応を全員に紹介するとともにそれぞれに

ついて講評がなされた。講評のなかで講師自

身の指導方針を語られ、今は「一人がルール

を守らないと他への示しがつかない」という

考え方で指導することが難しい時代であるだ

けに、指導のさいに常に留意しているのは「間

違った行動は叱っても、人格は否定しない」

「多くの生徒の前で、相手が納得するまで(あ

きらめるまで)指導せず、その場は手短に指

導して、場所をかえて、生徒の話を聞きなが

ら、じっくり指導する」ようにしている、と

いうことをていねいに説明された。

わずか一授業時間であったけれども、身近

な主題をめぐって考えさせ、多彩な形態を取

り入れた学習活動をさせたことで、学生たち

は深い学習を体験したように思われる。また、

答を与える「ティーチング」よりも答を引き

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169

教師教育充実のための実践

出す「コーチング」という指導の方法、ない

し考え方の特色と意義について理解を深めた

ことで、教師となって教壇に立ったときの授

業モデルの一つになったと思われる。

( 3 )

渡津英一郎担当の「教職入門」においては、

これまで下記のような特別授業を開いた。

・2012年 9 月26日(名古屋校舎):

   山田賢一(愛知医科大学学務監)「理

想の教員と教職の魅力」

・2016年 7 月 4 日(豊橋校舎):

   駒木正清(豊橋市教育委員会教育監)

「教員の資質と能力の向上」

山田賢一「理想の教員と教職の魅力」の講

義では、愛知県総合教育センター所長、愛知

県教育委員会教職員課人事主幹、愛知県公立

高等学校校長会会長、愛知県立横須賀高等学

校校長などの経験をもとに、「理想の教員と

教職の魅力」について語られた。

講師は知多半島の駄菓子屋《美福屋》に生

まれ、バッハに魅せられ、モーツアルトに育

てられ、愛知県の公立学校の数学の教員に

なったといわれる。長年発行している「美福

屋通信」は、子どもを愛し、一人一人の生き

方を大切にする教育について語りかけるもの

として、今なお多くの教員に読まれ賞賛を得

ている。このことを話のきっかけとして、理

想の教員、教職の魅力の二つの事柄について

説明がなされた。

学生には、「大学における教員養成」と「開

放制の教員養成」という、戦後の教員養成は

どのような意味をもつのか。とくに学識・教

養をもった教員とはいかなるものをいうのか

を考える機会とさせることができた。

駒木正清「教員の資質と能力の向上」では、

高等学校を中心とした県立高校にかかわる仕

事をしてきた長年の経験から、また現在は豊

橋市の教育委員会において義務教育関係の仕

事をしていることから、この双方の経験を活

かした求められる「教員の資質と能力の向上」

について語ってもらった。

難しい教育問題に対処するため、教員には

高い資質能力が求められるが、教員一人ひと

りがあらゆる面で高い資質能力を身につける

ことは困難だといわれる。そこで、それぞれ

個々の教員がもつ資質能力を維持向上させる

ことが重要で、教員のもつものは多様でよい

という考え方が一般的となりつつある。この

考え方に基づき「他と協力する」ことにより、

学校としてバランスのとれた教育ができるよ

うにするという、チーム学校の考え方が提唱

されるようになった。

講師の話は、自身がプレーヤーとして、ま

た部顧問として経験してきたラグビーに関す

る逸話を様々な形で取り込んだものであっ

た。教員になろうとする者に今必要とされる

のは、協力・連携・協働など積極的に推進で

きる力であるという話を聞くことができた。

( 4 )

渡津英一郎担当の「教育制度論」「教育実

践演習」においては、下記のような特別授業

を開設した。いずれも法規あるいは制度の改

正に対応した主題を設定し、それに適任の講

師を招くことで、学生の関心を喚起し理解を

深めることに留意した。

・ 2014年12月10日 『教育制度論』(名古屋

校舎):

   鈴木栄二(愛知教育文化振興会参与)

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170

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

「国と地方の教育行政制度」

・2 014年12月15日 『教育制度論』(豊橋校

舎):

  鈴木栄二(愛知教育文化振興会参与)「国

と地方の教育行政制度」

・ 2015年12月23日 『教育制度論』(名古屋

校舎):

   鈴木直樹(刈谷市副市長)「国と地方

の教育行政制度」

・ 2016年 1 月 6 日 『教育実践演習』(名古

屋校舎):

   安田英和(愛知県美浜少年自然の家所

長)「教員としての資質能力の確認」

まず、鈴木栄二「国と地方の教育行政制度」

は、平成26(2014)年 7 月に地方教育行政法

が一部改正されたことに対応して開設した。

講師は愛知県教育事務所次長、愛知県教育委

員会生涯教育課主幹などを経験されただけ

に、首長による大綱の策定、総合教育会議の

設置、教育長と教育委員長を一体化しあらた

な責任者(新教育長)の設置、教育委員会の

チェック機能の強化などという改正の内容、

改正の背景と経緯、教育行政制度上の意義を

めぐって、分かりやすい説明がなされた。授

業は講師と二人で担当し、「二人の講演会」

と称した講義をおこなった。

鈴木直樹の講義「国と地方の教育行政制度」

は、平成12(2000)年 4 月の学校教育法施行

規則の一部改正により、いわゆる民間人校長

を任用できるようになったことを受けて企画

した。講師は愛知県最初の民間人校長である。

豊田自動織機の勤務をへて愛知県立鶴城丘高

校ならびに刈谷工業高校の校長を歴任された

方であって、最適任の講師を招くことができ

た。講義では、そのような個性的な経験にも

とづき、民間人校長の意義と役割について具

体的に語られた。近年は学校裁量権の拡大に

ともない、学校の自主性・自立性の確立が求

められるようになったこと、それだけに校長

には人事・予算・施設の各面に関する総合的

マネージメント能力がこれまで以上に求めら

れるようになったこと、しかも、教育職員一

人ひとりの個性と資質能力を適確に把握し、

モラール(士気、意欲)を高め適切に指導助

言できる力、あるいは所属職員を動かすため

の人間的魅力とそれに裏打ちされたリーダー

シップを発揮することのできる力が必要であ

ること、などの諸点である。

安田英和「教員としての資質能力の確認」

の場合は、平成25(2013)年から「教職実践

演習」が教員免許状の取得に必修の科目に

なったことに対応して企画した。「本科目の

企画、立案、実施に当たっては、常に学校現

場や教育委員会との緊密な連携・協力に留意

することが必要である」ということに鑑み、

講師には愛知県教育委員会高等教育課の指導

主事や主幹、ならびに県立の東海南高校、日

進西高校、昭和高校、明和高校の各校長など

を体験された方を招いた。講義では、いま教

員には教職への使命感と情熱を持ち、子ども

たちと信頼関係を築くことのできる適格性の

確保、ならびに教科指導や生徒指導等におけ

る専門性の向上がとくに求められているこ

と、このような資質能力こそが信頼される学

校づくりにつながるということなど、「教育

実践演習」の趣旨を踏まえた講義がなされた。

[(1)(2)は加藤、(3)(4)は渡津が担当]

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171

教師教育充実のための実践

6- 1 はじめに

小論の目的は、『教職課程ハンドブック』が、

学生の主体的な学びや教師力量の向上にどの

ように活用できるのか、についてその可能性

と課題を明らかにするものである。

『教職課程ハンドブック』は、第 1 部は教

師が今置かれている現状について、第 2 部は

近年の教育採用試験の動向とその対策方法に

ついて、第 3 部は採用試験を受けた学生から

後輩へのメッセージ、で構成された、教員採

用試験に向けた学生向けの手引き書(1)であ

る。

このハンドブックは、教員が作成し、 1 年

次から学生に配布し、それぞれの教員が適宜

講義や教職課程サークルの面接練習、および

教職に関する各ガイダンス等で用いるなど、

これまで教員側の立場で実施、および活用し

てきている。

それでは、まず『教職課程ハンドブック』

の分析から見えた、近年の教師および教育採

用試験をめぐる動向について、以下に述べる。

6 - 2 近年求められる教師像および教員

採用試験をめぐる動向

まず、採用試験について、愛知県では新た

に二次の個人面接において、「場面指導」に

関する項目が小学校、中学校、高校の全てで

追加された。「場面指導」の具体的な内容に

ついては、次のようなものである。

面接の最初に、面接員から「明日から修学

旅行です。その際、クラスの児童・生徒にど

のような指導や声掛けをしますか」と、出題

される。そして、30秒ほど考える時間が与え

られる。その後、 3 分程度で面接員を児童・

生徒に見立て、実際に指導したり声掛けした

りする、というものである。

これまで愛知県では、このような実践的な

ことを面接で出題されることはあまりなかっ

たが、例えば近隣では、岐阜県や三重県など

で、模擬授業などの実践的指導力に関する項

目が課せられており、実施されてきたが、愛

知県では採用試験の受験者数の多さから、模

擬授業などは実施されてこなかった。しかし

ながら、上記のような実践的な力量を愛知県

でもしっかりと見極め、判断される傾向にあ

る、ということである。

また現行の形式では、「場面指導」に関し、

模擬指導を行った後の追加質問等はされない

傾向にあるが、今後については、「どうして

そのような指導をするのか」「別の指導もあ

ると思うが、どうしてそれをしないのか」と

いった、学生の教育観や子ども観等に踏み込

んだ質問を面接委員から尋ねられることも見

込まれる。また、出題領域については、授業、

特別活動、生徒指導、保護者や地域対応など

の幅広い分野から出題されることも想定され

6 .『教職課程ハンドブック』の編集-学生の主体的な学びを促すツールとしての可能性と課題-

前原 裕樹

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172

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

る。例えば、「明日は授業の第 1 回目です、

どのような授業開きをしますか」「現在文化

際の準備中ですが、クラス内で男女の対立が

起きています。学級会を開くとしたら、どの

ようにしますか」などを尋ねられる可能性も

ある。

愛知県では特に、配点の 6 割近くを面接が

占めていると言われ、その人となりやその人

が持っている教育理念、そして、子どもを目

の前にしたとき、実際にどのように振る舞う

ことができるのか、といった実践的な力量を

重視する傾向にあるといえる。

さらに、今後は他の県や市などの自治体に

おいて、模擬授業や場面指導といった実践的

な力量がより一層重視されることも見込まれ

ている。

以上が近年求められる教師像および採用試

験の動向である。それでは、こういった動向

の分析を踏まえ、ハンドブックの活用の可能

性と課題について、以下に述べていく。

6- 3 「教職課程ハンドブック」の活用の

可能性

具体的なハンドブックの活用については、

以下 3 つの方法が考えられる。

6- 3- 1 教職課程サークルにおける活

まず 1 つは、教職課程サークルでの模擬面

接等への活用である。教職課程センターにお

いては、これまで事業主任や先輩教師、およ

び学生らが面接委員役となり、模擬面接の場

を設け、対策を行ってきている。それと同時

に、愛知県で実施されている「場面指導」に

ついても、日頃の模擬面接の中で対策を行っ

ている。

また、模擬面接や集団討論等の場において、

同じ目標を持ちながらも、異なる被教育経験

や観(2)を有する学生とともに学ぶことは、

自身の精神的な支えにもなるとともに、より

広い視野を持った教師になる 1 つの方法につ

ながるであろう。

6- 3- 2 教職インターンシップ等との

連携における活用

次に 2 つは、教職インターンシップ等との

連携における活用である。教育実習において

は、主に授業に関することを実践的に学ぶこ

とのできる機会である。もちろん、実習中に

も場面指導や生徒指導、保護者対応等の場面

に出くわすことはあるかもしれないが、その

機会自体はとても少なく、またそれを実践的

に指導する機会はほとんどないと言える。ま

た、実習生と児童生徒の関係性では、本来の

「教師-子ども」という関係性にないため、

その指導が意味あるものになるとは必ずしも

言えない。

そこで、日頃より現場に参入し、現場教師

の対応を観察し、その行為の意図をインタ

ビューしたり、その指導を自身の被教育経験

照らし合わせ、相対化したりする中で、現場

教師の対応について、日常的に学ぶことも重

要である。ハンドブックを活用することで、

そういった教師の専門力量において重要な概

念とされる『即興性』や『臨床的判断』が発

揮される場面を焦点化し、観察することに

よって、学生のさらなる現場での学びを深め

ることができると考えられる。

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173

教師教育充実のための実践

6- 3-3 PBL型実践における活用

そして3 つは、教職科目の講義・演習におけ

る、PBL(Problem/Project Based Learning)

事例シナリオ実践としての活用である。教員

養成型 PBL 教育の根幹は、「ある問題の解決

やプロジェクトの解決とともに、多角的・多

面的に事象をとらえ、問題自体を浮き彫りに

すること」と、現場・他者との協働を基盤と

した「現実問題解決志向型アクション」を視

野に入れた多様な活動モデルを創出すること

にある(3)。本学の教職科目においても、と

りわけ前者の事項について取り組んでいる。

具体的には、実際に現場で起こった事例場面

を抽出し、シナリオ化した上で学生に提示し、

そういった場面をロールプレイングしたり、

グループワークによって解決案を話し合った

りする機会を設定している。(例えば、教育

方法論や実習の事前指導、および事後指導に

あたる教育実践演習など)これらのことに

よって、教師や子どもの思考過程を辿るプロ

セスを通して、学生の観の変容につながるこ

とを期待している。

6- 4 おわりに

以上、『教職課程ハンドブック』の分析お

よびその活用の可能性について述べてきた。

ここでは、活用方法に関する今後の課題をそ

れぞれについて述べる。

まず、教職課程サークルにおける活用につ

いてであるが、サークル自体は学生の主体的

な活動である。よって、教職課程を受講して

いる学生全てがこのサークルに所属している

わけではない。であるから、教職課程サーク

ルに所属していない学生に対し、自らハンド

ブックを活用し、模擬面接などを実施できる

機会や場面をどのように支援するか、も重要

な課題である。また、平成28年度においては、

サークル活動以外の場面で、本学の学生自ら

企画・運営し、他大学の教職を目指す学生と

合同で、面接対策等を実施している場面が

あった。そこでは、本学の学生がハンドブッ

クを活用し、模擬面接等を実施していた。本

学の学生だけではなく、多様な専門性やバッ

クグランドを持った他大学学生と自身の観や

方法を議論することで、自身の観に気づき、

より包括的な観を形成することができると考

えられる。

次にインターンシップ等との連携における

活用であるが、現在必ずしもインターンシッ

プ等の現場経験の質が保証されていない。す

なわち、とりあえず学校現場へ行くという単

なる体験にとどまり、自身が見たことや考え

たことを省察し、経験にするというところま

で至っていない、ということである。よって、

学生の現場経験の質向上のための機会や場を

設定することが必要である。平成28年度にお

いては、学生の現場経験に関する報告を「教

職研究セミナー」においてポスター形式で企

画した。現場経験の浅い学生や同じ悩みを持

つ学生、現役の教師や大学教員等から、様々

なコメントをもらうプロセスを通して、自身

の学びを深化することにつながると考えられ

る。

最後に PBL 型実践における活用について

であるが、現在いくつかの事例シナリオが開

発されてきているが、まだそのシナリオの数

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174

愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

が少ないのが現状である。また、事例シナリ

オの質それ自体の分析や学生の学びを評価す

る方法も開発途上の段階である。よって、教

員養成の特性や専門分野に応じた事例シナリ

オのさらなる作成および評価法の開発が急務

である。平成28年度においては、学生の観の

変容を可視化するための評価方法として、

ルーブリックを用いた試行を行っているとこ

ろである。様々な分野において試行を繰り返

す中で、「キジュン」の精査を行い、学生の

観の変容を捉えるとともに、講義の在り方や

学生の対話の支援、事例シナリオの質を高め

るといった授業改善も同時に目指していくこ

とが求められている。

6- 5 脚注および引用・参考文献

( 1 )愛知大学教職課程センター『「教職への

途」ガイドブック 教員採用試験の効果

的な対策と先輩のアドバイスに学ぶ』

2015

( 2 )教育観、授業観、児童・生徒観、など

の多様な観の集合体。観は授業要素(目標・

教育内容、材、教授行為、学習者把握)

に一貫性を与えるもの、とされている。

詳細は以下が参考となる。森脇健夫(2011)

「授業研究方法論の系譜と今後の展望」『授

業づくりと学びの創造』第 2 章, 学士社,

p.40

( 3 )山田康彦(2015)「PBL 教育における

対話型シナリオの開発研究」科学研究費

補助金基盤研究(C)課題番号24531196、

報告書

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175

教師教育充実のための実践

7 .教職イニシャル・レポートの活用-学生の主体的な学びを促すツールとしての可能性と課題-

岡田 圭二

愛知大学の教職課程では、教職課程への登

録時に登録を希望する学生にレポートの提出

を義務づけている。本稿では、このレポート

を教職イニシャル・レポートとよぶ。この教

職イニシャル・レポートの実施と活用に関し

て、愛知大学名古屋校舎での2016年度の事例

について、いくつかの視点から報告する。

7 - 1.教職イニシャル・レポート実施の

背景とその狙い

教職イニシャル・レポート制度が開始する

前に、愛知大学の教職課程では次のような問

題が話し合われ、問題の解決が試みられた。

それは、教職への意欲の低い学生が散見され、

授業態度が悪い、授業への出席率が低い、介

護等体験において問題を起こす(公共交通機

関を利用しない、施設での私語、施設職員の

指示を聞き漏らす、報告がない遅いなど)、

4 年次の教育実習において問題がある(教材

準備が十分でない、意欲を感じられない)な

どであった。

このような問題に対して、授業での指導、

訓示、ガイダンスにおける諸注意、施設毎の

グループを作らせさらにリーダーを決めるな

ど様々な工夫が行われてきた。現在も、問題

の発生がないように様々な工夫が考えられて

いるともに、実施しつつ工夫している。その

ような工夫の一つとして、2015年度より教職

イニシャル・レポートが考え出され、実施さ

れた。

この教職イニシャル・レポートは、教職課

程への登録時に、学生に教職に関わるレポー

トを提出させるものである。その狙いは、学

生側には登録時に教職を志望する理由をはっ

きり意識させて、中途半端な気持ちでの登録

をさせないというものであった。また教職課

程としては、学生の教職志望の理由を知り、

その意志を確認して、より適切な教育を行う

という狙いがあった。

7 - 2.教職イニシャル・レポートの実施

内容

教職イニシャル・レポートの実施は次のよ

うな手順によって行った。なお、以下の事例

は、愛知大学名古屋校舎の内容であり、愛知

大学豊橋校舎の実施内容とは細部が違う。ま

ず教職への登録に関する初回のガイダンスに

おいて、教職課程へ登録するためには、登録

に関する書類、教職課程料の支払い、そして

教職イニシャル・レポートを書き、それに基

づいて面談を受けることと告知した。教職に

登録することを希望する学生は、教職イニ

シャル・レポートとしての「教職課程履修希

望者志望理由書」という書類をもらい、その

教職イニシャル・レポートに記載してある 2

つのテーマのうちどちらかを選んでレポート

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

を作成するようにと示した。その 2 つのテー

マとは、「私が行いたい理想の教育」、「なぜ

教師になりたいか」であった。また教職イニ

シャル・レポートの前文は「現代の教育現場

は想像以上に厳しく、さらに教職課程の受講

は多くの学生の皆さんの予想以上に時間も労

力もかかります。したがって希薄な動機では

とても通用せず、続きません。そこで教職課

程履修を希望する学生は、自分の意志を明確

にするために、以下のいずれかテーマにて志

望理由書を完成させ、履修登録の際に提出し、

指導を受けて下さい。」というものであった。

このようなガイダンスと指示を受けて、教

職課程に登録を希望する学生は教職イニシャ

ル・レポートを書いて、面談の会場へ行った。

面談の会場には、教職課程に属する教員、事

務職員が居て、担当者として順次、学生と面

談をしていった。面談においては、担当者は

教職イニシャル・レポート(教職課程履修希

望者志望理由書のこと)を読み、その内容に

ついてコメントをするととともに、教職志望

の動機やその気持ちの強さについて再度の確

認をした。さらに教職課程について質疑応答

を行い、学生の理解を促した。

7- 3.教職イニシャル・レポートの内容例

次に代表的な教職イニシャル・レポートの

例を2016年度のものより紹介する。以下、教

職課程生のプライバシーおよび文量等を考慮

して表現の修正や調整がしてあり、細部に関

しては教職イニシャル・レポート通りではな

い点に注意していただきたい。

・ 私が行いたい理想の教育は、生徒の世界を

広げてあげるような教育をしたいです。

・ 私の夢は高校の英語教師になり生徒に英語

を好きになってもらうことです。ただ座っ

て黒板を写すだけでなく、頭と体をたくさ

ん使ってもらいます。

・ 人とのコミュニケーション力を大事にし、

生徒の目線にたてる人になりたい。

・ 子供たちに勉強の楽しさ苦労を教え少しで

も勉強をすることに対して前向きにさせて

あげたい。

・ 生徒の学力向上のみを目的とせず、生徒が

人間的に成長する教育をしたい。

・ 教師としての自分の意見や思想を生徒に押

しつけたり教えたりしないようにして生徒

に問題を提起して考えさせる授業をした

い。

・ ただ覚えるだけでなく、身になるような授

業をして、将来の日本に貢献してくれる生

徒を輩出していける教師になりたい。

・ ファイナンシャルプランナーと簿記の資格

を取得して、それを教え子に身につけさせ

たい。

7- 4.2016年度教職イニシャル・レポー

トの分析

次に、学部毎に、「私が行いたい理想の教育」

と「なぜ教師になりたいか」のどちらのテー

マを選んだかを報告する(表 1 参照)。

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教師教育充実のための実践

この表をみると、国際コミュニケーション

学部に教職を希望する学生が多いこと、さら

に理想の教育よりも教師になりたいというこ

とをテーマとして選択する学生が圧倒的に多

いことが分かる。

次に教職イニシャル・レポートにおける次

の視点の記述がどの程度現れるかに関する評

価(カウント)を行った。カウントは、本稿

の筆者である岡田がおこなった。なおカウン

ト自体の信頼性を高めるための二重評価(ダ

ブルチェック)等の手続きは行っていない。

この表 2 をみると、第 1 に小学校、中学校、

高校の間に出会った教員からの影響が教職を

希望することに大きな影響を与えていること

が分かる。内容をみると大半が親身になって

学習や進路の相談を受けてくれた、授業が楽

しかった、分かりやすかったというものであ

る。ただし、ネガティブな内容(押しつけが

ましい、授業が分かりにくい、挨拶さえして

くれない人もいた)もあった。次に部活動が

一つのきっかけとなって教職を目指している

こと、さらに学習、進路に関する相談も教職

を目指すきっかけとなっていることが分か

る。

部活動に関しては、2015年度の教職イニ

シャル・レポートにおいて部活動の顧問にな

りたいというものが非常に多く、そのことに

対して懸念を抱いた。現在、教員の多忙化の

主要な原因の一つとして、過度な部活動があ

るという指摘は多くされている。また外部か

らの部活動指導者の招聘、地域のクラブチー

ムの活用、部活動の負担が適切なものになる

表 1 学部毎のテーマの選択人数

現代中国語学部 経済学部

国際コミュニケーション

学部法学部 経営学部 合計

私が行いたい理想の教育 5 6 3 6 2 22

なぜ教師になりたいのか 4 7 26 10 9 56

合計 9 13 29 16 11 78

表 2 教職イニシャル・レポートの内容分析

評価基準 カウント数

・特定の先生に関する記述がある 46・部活動に関する記述がある。 15・学習相談、進路相談に関する記述がある。 10・いじめやカウンセラーに関する記述がある。 5・親が教師である。 3・塾に関する記述がある。 3

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

ような工夫が求められるなどが提唱され、従

来と同じ形の教員による部活動指導やその体

制が変化する可能性が高いということは、ガ

イダンス等でも話してきた。2015年度の教職

イニシャル・レポートに比べると明らかに数

は減っているが、部活動の顧問をすることに

強い希望を抱く学生が一定数いることが分か

る。

次に親が教師であるということに関する記

述は少数ながらあった。また表には挙げな

かったが、親に勧められてという記述はな

かった。これまでの愛知大学教職課程におい

て問題が発生した際に面談を行うと「親に勧

められて教職に登録した」という学生が少な

くなかった。親に勧められても良いのだが、

進路の選択を自分のこととして考える事がで

きず、結果的に意欲が低下し、学生自身が困

難な状況になり、周囲に迷惑をかけ、教職課

程を続けることができなくなる例があった。

この点からも、ガイダンス、授業等で「親が

いうから教職」ではなく、自分が教職を目指

す根拠をしっかりと意識化し、気持ちが揺ら

いだ、意欲が低下した際に立ち戻ることので

きる理由や根拠を持つようにと指導してい

る。

7 - 5.教職イニシャル・レポートの活用

事例

教職イニシャル・レポートは、まず第 1 に

レポート提出時の面談において学生の心情や

教職を希望する理由の把握に役立っている。

例えば、商業科の教員を志望する学生が面談

に来た場合、多くの愛知大学を卒業した先輩

が商業科の教員になっていること、熱心に指

導して下さる先輩教員がいらっしゃるのでそ

のようなセミナーや講座を受講することなど

と追加的な情報を提供することができる。ま

た小学校の教員を志望する学生が面談に来た

ならば、仏教大学との連携についての情報提

供をする。また部活動の顧問になることを第

1 の志望とする内容の教職イニシャル・レ

ポートがあれば、教員の仕事の主要なものに

授業があるという話をし、部活動だけを目標

とすると教職課程の授業が辛くなるという話

をして、意志の再確認を行った。また親から

の勧めだけで教職課程に登録したということ

のないように、自分の意志を明確にし、自分

のキャリアや卒業後の生活についてよく考え

るようにという指導のきっかけとして教職イ

ニシャル・レポートを利用してきた。

第 2 に、この教職イニシャル・レポートを

教員、事務職員ともに回覧することにより、

愛知大学の学生が何を考え、何を希望してい

るのかについて知ることができ、その知識を

共有することができた。学生のニーズは分

かっているようで、なかなか明確ではないこ

とが多い。もちろん教員や学校システムの側

が高い見識から、ニーズだけに沿うのではな

く、より良い学習や教育を提供していくこと

も重要である。

7 - 6.教職イニシャル・レポート制度へ

の私見

最後に、教職イニシャル・レポートの評価

や今後についての私見を述べる。教職イニ

シャル・レポートは、意欲の低い学生の登録

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教師教育充実のための実践

を防ぐという当初の目的を一定の程度は果た

しているという印象を受ける。ぼんやりとし

た目的しか持たない学生は確かに減ってい

る。ただし、最初のハードルが高いため、教

育について学んでいるうちに教職への意欲を

高く持つことになったという学生を取りこぼ

している可能性はある。 1 年生の最初の登録

のハードルは低くしておいて、 2 年生、 3 年

生と学年が上がるにつれて、教職課程を継続

するハードルを高くすべきかもしれない。

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資  料

=資料=1.愛知大学で取得できる免許状の種類 ※2016年度履修要項より抜粋

学部

中学校教諭 1 種免許状 高等学校教諭 1 種免許状

文学部

人 文 社 会 学 科社 会国 語外国語(英語)

地理歴史、公民国 語外国語(英語)外国語(ドイツ語)外国語(フランス語)

経 済 学 部 社 会 地理歴史、公民、商業ケーション学部

国際コミュニ

英 語 学 科 外国語(英語) 外国語(英語)

比 較 文 化 学 科 社 会 地理歴史、公民

法 学 部 社 会 地理歴史、公民経営学部

経 営 学 科 社 会 地理歴史、公民、商業、情報

会計ファイナンス学科 商 業

現 代 中 国 学 部社 会外国語(中国語)

地理歴史、公民外国語(中国語)

地 域 政 策 学 部 社 会 地理歴史、公民* 2008年度入学生より、佛教大学通信教育部との提携協定に基づき、愛知大学での中学校教諭 1 種免許状の取

得を前提として、本学に在籍しながら佛教大学通信教育部の特別科目等履修生として所要の単位を修得し、卒業時に小学校教諭 1 種免許状を取得することが可能。(別途佛教大学の学費が必要)

大学院

研究科種類

専攻 中学校教諭専修免許状 高等学校教諭専修免許状

経済学研究科 経済学専攻 社 会 地理歴史、公民

経営学研究科 経営学専攻 商 業

中 国 研 究 科 中国研究専攻 社会、外国語(中国語) 地理歴史、公民、外国語(中国語)

文 学 研 究 科

日本文化専攻 社会、国語 地理歴史、国語

地域社会システム専攻 社 会 地理歴史、公民

欧米文化専攻 社会、外国語(英語) 地理歴史、外国語(英語)国際コミュニケーション

研究科 国際コミュニケーション専攻 社会、外国語(英語) 地理歴史、外国語(英語)

種類学部 ・ 学科

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

2.教職課程登録者数表1 教職課程受講者数(全学年) ※2016年10月1日現在

学部 学科 校舎 1年次 2年次 3年次 4年次 合計

法学部 法学科

名古屋

18 14 23 34 89

経済学部 経済学科 15 25 16 40 96

経営学部経営学科 4 13 9 27 53

会計ファイナンス学科 7 7 6 12 32

現代中国学部 現代中国学科 10 8 9 21 48

国際コミュニケーション学部英語学科 27 16 24 51 118

比較文化学科 8 12 14 10 44

文学部 人文社会学科豊橋

108 117 96 129 450

地域政策学部 地域政策学科 21 23 18 17 79

合計

名古屋 89 95 101 195 480

豊橋 129 140 114 146 529

計 218 235 215 341 1009

・ 4 年次生には留年生を含む。

表2.教科別教職課程履修者数

中学校教諭1種免許状 ※2016年10月1日現在

学部 学科 校舎国語 社会 英語 中国語 合計

1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 計

法学部 法学科 名古屋 11 12 19 22 11 12 19 22 64

経済学部 経済学科 名古屋 12 22 11 31 12 22 11 31 76

経営学部経営学科

名古屋2 5 4 13 2 5 4 13 24

会計ファイナンス学科 1 1 1 0 0 1 2現代中国学部 現代中国学科 名古屋 9 5 8 15 2 3 3 7 11 8 11 22 52

国際コミュニケーション学部

英語学科名古屋

3 21 9 19 43 21 9 19 46 95

比較文化学科 7 7 5 5 2 4 6 7 9 9 11 36

文学部 人文社会学科 豊橋 41 40 28 32 37 52 46 55 5 11 9 15 83 103 83 102 371地域政策学部 地域政策学科 豊橋 16 19 15 8 16 19 15 8 58

合計

名古屋 0 0 0 0 42 51 47 90 21 11 23 49 2 3 3 7 65 65 73 146 349

豊橋 41 40 28 32 53 71 61 63 5 11 9 15 0 0 0 0 99 122 98 110 429

計 41 40 28 32 95 122 108 153 26 22 32 64 2 3 3 7 164 187 171 256 778

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資  料

高等学校教諭1種免許状 ※2016年10月1日現在

学部 学科 校舎国語 地歴 公民 商業 英語 ドイツ語 フランス語 中国語 情報 合計

1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 1年次 2年次 3年次 4年次 計

法学部 法学科 名古屋 16 11 18 28 14 9 15 27 30 20 33 55 138

経済学部 経済学科 名古屋 11 17 10 26 7 15 10 26 5 1 9 18 37 21 61 137

経営学部経営学科

名古屋2 8 4 16 2 6 2 19 2 7 3 12 2 3 2 7 8 24 11 54 97

会計ファイナンス学科 1 4 1 4 2 7 7 6 11 1 2 10 17 6 13 46

国際コミュニケーション学部

英語学科名古屋

4 4 24 13 21 45 24 13 21 53 111

比較文化学科 5 9 8 5 2 6 5 3 1 4 4 5 8 19 17 13 57

現代中国学部 現代中国学科 名古屋 9 8 7 14 9 5 6 9 3 4 4 11 21 17 17 34 89

文学部 人文社会学科 豊橋 31 36 31 42 40 56 45 62 20 30 26 43 3 9 8 19 94 131 110 166 501

地域政策学部 地域政策学科 豊橋 13 16 12 12 10 13 6 9 23 29 18 21 91

合計

名古屋 0 0 0 0 44 57 47 93 35 45 38 90 9 19 10 32 25 17 25 50 0 0 0 0 0 0 0 0 3 4 4 11 3 5 2 7 119 147 126 283 675

豊橋 31 36 31 42 53 72 57 74 30 43 32 52 0 0 0 0 3 9 8 19 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 117 160 128 187 592

計 31 36 31 42 97 129 104 167 65 88 70 142 9 19 10 32 28 26 33 69 0 0 0 0 0 0 0 0 3 4 4 11 3 5 2 7 236 307 254 470 1267

・ 4 年次生には留年生を含む。

3.教育実習生数と教員免許状取得者数表3.教育実習生数

年度 学部 教育実習者数*実数

中学校 高校合計

*延べ数社会

国語

英語

独語

仏語

中国語

計 地歴

公民

国語

英語

独語

仏語

中国語

商業

情報 計

2016

文学部 59 21 10 2 33 9 2 10 5 26

107

経済学部 8 6 6 1 1 2国際コミュニケーション学部 20 15 15 5 5法学部 7 5 5 2 2経営学部 8 0 2 6 8現代中国学部 2 0 2 2地域政策学部 3 3 3 0計 107 35 10 17 0 0 0 62 16 3 10 10 0 0 0 6 0 45

※科目等履修生は含んでいない。※教育実習を中学校と高等学校の両方で実習を行う学生はそれぞれに計上する。

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

表4.教員免許状取得件数

年度 学部教員免許取得者数*実数

中学校 1 種 高等学校 1 種合計

*延べ数社会

国語

英語

独語

仏語

中国語

計 地歴

公民

国語

英語

独語

仏語

中国語

商業

情報 計

2015

文学部 40 16 10 5 31 18 14 14 4 50 81経済学部 7 5 5 5 6 1 12 17国際コミュニケーション学部 11 3 5 8 5 4 7 16 24法学部 15 12 12 13 15 28 40経営学部 2 0 1 1 1 3 3現代中国学部 3 2 2 2 2 1 5 7地域政策学部 9 6 6 4 3 7 13計 87 44 10 10 0 0 0 64 48 44 14 11 0 0 1 2 1 121 185

※一括申請による免許状取得状況であり、小学校免許コース生、科目等履修生は含まない。

4.教員採用試験合格者数(在学生)表5.教員採用試験合格者数(在学生)

年度 学部 都道府県政令指定都市

小学校

中学校 高校 特別支援

合計社会

国語

英語

独語

仏語

中国語

計地歴

公民

国語

英語

独語

仏語

中国語

商業

情報計

2015

文学部

愛知県 6 3 3 3 1 4 13

18名古屋市 2 0 0 2静岡県 1 0 1 1 2浜松市 1 1 0 1

経済学部愛知県 1 1 0 1

2神奈川県 0 1 1 1

国際コミュニケーション学部愛知県 1 1 0 1

2三重県 1 1 0 1

法学部 愛知県 1 1 1 0 2 2経営学部 0 0 0現代中国学部 0 0 0地域政策学部 愛知県 2 0 0 2計 12 2 4 2 0 0 0 8 4 0 2 0 0 0 0 0 0 6 0 26

*公立学校の教員採用試験合格者のみ計上。*延べ数で記載。*補欠合格者を含む。*小学校の合格者は、教員資格認定試験合格者もしくは佛教大学小学校免許コース履修者。

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資  料

5.2015年度 教職課程センター委員会 活動・参加記録

《2015年度 教職課程専任教員》

・加藤 鉦治 (法学部教授    担当科目:「教育原論」他)

・加藤 潤 (文学部教授    担当科目:「教育課程論」他)

・渡津 英一郎 (現代中国学部教授 担当科目:「教育制度論」他)

・岡田 圭二 (経済学部准教授  担当科目:「教育心理学」他)

・加島 大輔 (文学部准教授   担当科目:「教育原論」他)

・前原 裕樹 (経営学部助教   担当科目:「教育方法論」他)

《教職課程センター委員会》

2015

4 9 第 1 回 教職課程センター委員会4 30 第 2 回 教職課程センター委員会6 11 第 3 回 教職課程センター委員会7 23 第 4 回 教職課程センター委員会9 3 第 5 回 教職課程センター委員会10 22 第 6 回 教職課程センター委員会11 26 第 7 回 教職課程センター委員会12 17 第 8 回 教職課程センター委員会

20161 21 第 9 回 教職課程センター委員会2 25 第10回 教職課程センター委員会3 17 第11回 教職課程センター委員会

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

《教職課程センター委員会 企画・協力事業》

2015 8 4 北設楽郡東栄町と大学との連携協定事業「小学校の夏季休暇支援活動(サマースクール)」(~ 8 月 7 日)への協力

6・7

6

教員免許状更新講習の開設必修○名古屋校舎 ・ 社会・子どもの変化と教育の課題選択○豊橋校舎 ・ 教室で歴史をどう伝えるか:

   歴史研究と歴史教育(前近代史編)

 ・ 日本古典文学の「美と無常」

 ・ 英語を使っての教え方と英文法の再検討

7  ・ 教室で歴史をどう伝えるか:

   歴史研究と歴史教育(近現代史編)

 ・ コーパス言語学とその応用

10 17 豊橋市造形パラダイスボランティア協力(~ 10月18日)

《全国私立大学教職課程研究連絡協議会》

2015 5 30 2015年度定期総会・第35回研究大会

31 (於:仙台大学)

《東海地区私立大学教職課程研究連絡懇談会》

2015 5 16 2015年度総会・第 1 回定例研究会(於:椙山女学園大学)

12 5 2015年度 第 2 回定例研究会   (於:椙山女学園大学)

2 20 2015年度 第 3 回定例研究会   (於:椙山女学園大学)

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187

資  料

教職課程の年間日程表

履修に関わる手続き・行事等 履修に関わる手続き・行事等

1 年次

4 月上旬 教職課程ガイダンス     教職課程履修申込手続き     教職課程履修料納入     教職課程の履修開始

4 年次

4 月上旬 教育実習履修資格判定結果発表     教育実習内諾状況発表     教育実習関係書類提出

12月~ 1 月上旬     小学校免許コースガイダンス

4 月下旬 教育実習校決定     愛知県公立中学校     名古屋市立中学校

2 年次10月下旬 介護等体験ガイダンス     介護等体験仮登録     (中学校教員免許希望者)

5 月上旬 教育実習校訪問担当者発表

5 月下旬~ 6 月  前期 教育実習

7 月~ 8 月    教員採用試験

3 年次

4 月上旬 介護等体験本登録 9 月上旬~ 10月  後期 教育実習

4 月下旬 第 1 回教育実習内諾ガイダンス     豊橋市立栄小学校実習ガイダンス(T)

9 月   教育職員免許状申請ガイダンス     教育職員免許状申請手続き

2 月下旬 免許取得資格判定

5 月上旬~ 8 月 教育実習校(出身校)訪問 内諾手続き      訪問報告書提出

3 月下旬 (学位記授与式時)     教育職員免許状交付(申請者)

5 月上旬 豊橋市立栄小学校      実習履修資格判定結果発表

5 月上旬~ 2 月末 豊橋市立栄小学校実習(T) ※Tは豊橋校舎のみ実施

6 ~ 7 月上旬 介護等体験事前説明会        (事前指導)

8 月~ 1 月 介護等体験      事後指導、介護等体験報告会

11月~ 12月 第 2 回教育実習ガイダンス      教育実習体験報告会      教員採用試験合格体験報告会

11月上旬~ 12月末      教育実習校及び実習期間発表     (愛知県公立・名古屋市立中学校以外)  

12月中旬 翌年度愛知県公立中学校     名古屋市教育実習手続き

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

1.編集の基本方針

(1) 教員養成・教師教育・教職課程等に関す

る研究成果を報告・公表する目的で『愛知

大学教職課程研究年報』を発行する。

(2) あわせて『愛知大学教職課程研究年報』

には、愛知大学教職課程センターの年報的

性格を持たせる。

(3) 『愛知大学教職課程研究年報』の発行は、

原則年 1 回とする。

2.『愛知大学教職課程研究年報』の内容

(1) 『愛知大学教職課程研究年報』は、主と

して次の内容をもって構成する。詳細につ

いては編集委員会で決定する。

① 教員養成・教師教育・教職課程及び教

職課程専任教員並びに特任教員の専攻分

野に関わる「研究論文」。

② 授業実践の報告等、教職課程に関する

論考を扱う「実践研究」。

③ 愛知大学教職課程センターの年間事業

報告。

④ その他、教員養成・教師教育・教職課

程に関する論考、資料。

3.投稿資格

(1) 投稿資格を有する者は、次の通りとする。

①愛知大学(以下、本学)教職課程専任教

員及び特任教員。

②本学教職課程の「教職に関する科目」を

担当する専任教員、特任教員及び非常勤

教員。

③教員養成・教師教育・教職課程に強い関

心を持つ本学専任教員及び特任教員。

(2) 前項の投稿資格者を第一著者とする場合

のみ、投稿資格者以外との共同執筆を認める。

(3) その他、編集委員会は必要に応じて原稿

を依頼することができる。

4.原稿の募集および掲載

(1) 原稿は、発行期日との関係で年 1 回の定

期的な締め切り日を設ける。締め切り日に

ついては編集委員会で決定する。

(2) 投稿原稿は、原則として未発表のものと

する。

(3) 投稿原稿は、「研究論文」、「実践研究」

を受け付ける。

(4) 投稿原稿の掲載の可否は、編集委員会の

合議によって決める。結果は編集委員会か

ら投稿者に通知する。

(5) 掲載は、原則として 1 年度につき一人 3

件を上限とする。

5.著作権と電子データの公開

(1) 掲載が決定した論文の著作権は、原則と

して『愛知大学教職課程研究年報』編集委

『愛知大学教職課程研究年報』編集方針

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資  料

員会に属する。ただし、執筆内容が第三者

の著作権を侵害するなどの指摘がなされ、

第三者に損害を与えた場合、著者がその責

を負う。

(2) 研究論文・実践研究は電子データ化し

Web 上に掲載し公開する。詳細は編集委

員会において協議する。

6.編集委員会

(1) 編集委員会は、教職課程センター運営委

員会をもって構成する。

(2) 原稿の送付先等は、本学名古屋教務課気

付とする。

7.その他

(1) 教職課程センターの学外との連携重視、

現職教員への研修機会の提供という基本的

趣旨に合わせて、投稿資格を有する者に本

学出身の教育関係職従事者を加えることに

ついて検討する。

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愛知大学教職課程研究年報 第 6 号 2016

1.原稿執筆について

(1) 原稿はワープロを使用して作成し、A 4

版、横書き、40字×30行の書式設定で作成

する。

(2) 「研究論文」および「実践研究」は上記

書式設定で上限17枚以内(注記、引用文献、

参考文献、図表を含む、以下同じ)におさ

める。ただし、編集委員会において認める

場合はこの限りではない。

(3) 表題、副題(副題は必要に応じて)は、

執筆者がつける。表題については英語表記

をつける。

(4) 原稿は、 1 ページ目 1 行目から、表題、

副題、氏名(所属・職名)の順に記載し、

1 行(副題がない場合は 2 行)あけて 5 行

目から本文を記載する。

(5) 注記、引用文献、参考文献は、一括して、

本文の後に注記番号順に列挙する。本文中

の注の形式は「……………(1)」(注番号を

右肩に付する)とする。

(6) 図(写真を含む)、表があるときは、注記、

引用文献、参考文献のあとに図表番号を付

して、それぞれの題名を添えて記載する。

プリントアウトした本文原稿には図表の挿

入箇所を朱で指示する。

2.投稿について

(1) 原稿には氏名、所属(職名その他を含む)、

投稿原稿の種別(「研究論文」もしくは「実

践研究」)および連絡先を明記したページ

を添えて、編集委員会宛てに送付する。

(2) 投稿原稿は 2 部(コピー可)送付するも

のとする(手元にコピーを保存すること)。

原稿は原則として返却しない。

(3) 投稿原稿には、ワープロで作成した電子

データ(Microsoft Word またはテキスト

形式とする)を添える。電子データには、

投稿原稿と同じタイトルを付して、プリン

トアウトした原稿と共に送付する。

『愛知大学教職課程研究年報』投稿・執筆要領

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愛知大学教職課程研究年報 第 6号

2017年 3 月30日発行

編集・発行 『愛知大学教職課程研究年報』編集委員会      〒453-8777 愛知県名古屋市中村区平池町四丁目60番 6      (電話 052-564-6112)印 刷   株式会社 コームラ

編集後記

 今号は、加藤鉦治先生の退職記念号として年報を企画しました。加藤鉦治先生の論文およ

び加藤鉦治先生が最初に企画を考えてくださった愛知大学教職課程センターの実践報告を掲

載しました。私は短期大学部から教職課程へ異動して 4 年となりました。この間、加藤鉦治

先生には、様々な点でお世話になるとともに、不思議なご縁を感じることが多々ありました。

あまり縁がないと思う人同士であってもその知り合いを繋げていくと、割に少人数で繋がる

というスモール・ワールド現象(仮説)が思い浮かびます。教職課程の運営は、多くの方の

協力とそれをささえる縁があってこそです。その縁を作り上げてくださった関係する方々に

感謝するとともに、この年報が縁を支える一助になればと願います。

(岡田圭二)

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Annual Research Report of the Course for Teaching ProfessionAichi UniversityNo.6 2016

A Special Number issued in Commemoration of Professor Shoji Katoh’s Retirement

Aichi University4-60-6 Hiraike-cho, Nakamura-ku, Nagoya-shi, Aichi

453-8777JAPAN

CONTENTSRecent Photograph of Professor Shoji KatohBrief Biography of Professor Shoji KatohPublications of Professor Shoji Katoh

Research ArticlesEngineering Education in Japan as Set Up by the Scottish Educator Henry Dyer during the Meiji EraStudies on the Teaching Materials on ‘the Significance of School’The Early Career of Henry Dyer, a Self-Made Scottish Educational Advisor in Meiji JapanA Discussion on Trends in Bullying Research Using Participants among Japanese High School StudentsInitial Teacher Education in Global Transition -A Case Study on ITE in Aotearoa/New Zealand-How to Teach the “Meaning of Questions” in Class: With Interactive Case Scenarios in PBL Education in Teacher TrainingA Study of the Test Questions on the Subject of “Commerce” in Teacher Adoption Selection Exams and Problem Exercises from the Current Textbook-part 2 -Targeting “The Field of Marketing” , “The Field of Business Economy” and “The Field of Accounting”-The Need for the Ability to Design a Japanese Lesson.Relationship between the Degree of Wishing to Become a Teacher, and the Reason for Becoming a Teacher of Students on the Aichi University Teacher Training Course (1)

ReportsImprovements to Teacher Education in Practice -the Results and the Problems- (1)

KATOH Shoji

KATOH Shoji

KATOH Shoji

KAMAKURA Toshimitsu

KATO Jun

MAEBARA Yuki

TOMIDA Rituo

MATSUMURA MinaOKADA Keiji, UMEMURA Kiyoharu

KATOH Shoji, MAEBARA Yuki, OKADA Keiji, WATANZU Eiichiro