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羽黒神社の観音様

羽黒神社の観音 様羽黒神社の神様は出羽の国の羽黒山から勧請してきた「羽黒大権現」という神様という ことになっている。では、勧請したのは誰で、いつごろか、というと『下館市史」はじめ

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Page 1: 羽黒神社の観音 様羽黒神社の神様は出羽の国の羽黒山から勧請してきた「羽黒大権現」という神様という ことになっている。では、勧請したのは誰で、いつごろか、というと『下館市史」はじめ

羽黒神社の観音様

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第二十八番下館大町羽黒山正観音

先の世の罪もむくいも残らfな

1い

きよたきてら(清説寺)に

去る身なHl

中館へ半皇

ここに清説寺羽黒大権現社あり

下館山下町屋なり

『常陸西国三十三所』から。新かな使いに改めました。

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筑西市大町の羽黒神社に観音像がある。白木造りの観音様で、宮司さんによるとカヤの

一刀彫だそうである。高さは四0センチくらいで、厨子と言われる入れ物に入っている。

その昔はさぞ立派なものだったろうと想像される。残念ながら両腕が肩から取れてしまっ

ているが取れた両腕は残っていて、今は本殿に大切に保存されている。

羽黒神社にはこの他にも、観音様が彫られている銅製の丸い鏡や、観音様のお姿を刷っ

た版木も残っている。どうやら、この観音様は羽黒神社にかなり縁が深いらしい。

この観音様のことは昔は広く知られていたらしく、「常陸西国三十三所」というものが

残っている。いわゆる百観音は、坂東の三十三観音、秩父の三十四観音、西国の三十三観

音をあわせて百観音というが、坂東や秩父はともかく、西国は行くのが大変だから常陸の

国の西部に西国の三十三観音から持ってきた土をまいて、こちらに三十三観音を創ってし

まおう、と考えたらしい。羽黒神社もその一つに入っていて、宮司さんの子一に資料があ

る。名前は羽黒神社ではなく、羽黒山清瀧寺羽黒大権現社という名前になっているが、二

十八番札所であった。ご詠歌なども書かれていて、なかなか良くできてはいるが、やはり

話に少し無理があるようであまり有名にはならなかったようだ。

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しかし、なぜ羽黒神社に観音様があるのか。神社にほとけ様とは不思議ではないか。そ

れを調べてみようと思い立った。この冊子はその報告書である。

羽黒神社の境内の一角に松崎さんのお宅がある。今の宮司の前に宮司だった方の家で、

先祖をさかのぼると、ご詠歌にあった清瀧寺の住職をしていた家である。この松崎さんの

お宅に神社に関する古い資料がたくさん残っており、その中に観音様のことを詳しく書い

た資料が複数残っていたのである。この報告書は主にその資料をもとにしていく。

羽黒神社の神様は出羽の国の羽黒山から勧請してきた「羽黒大権現」という神様という

ことになっている。では、勧請したのは誰で、いつごろか、というと『下館市史」はじめ

多くの資料に、下館に初めて城を築いた水谷勝氏が文明十三年 (一四八二年)に勧請した、

と書かれている。五百数十年前の話になる。

羽黒大権現を勧請したのは水谷氏としてもその理由がわからない。いろいろな説がある

が、どれも推測である。例えば、水谷氏は最上氏の一族だったと二う説。水谷氏は現在の

福島県いわきの出身なので、山形の最上氏の一族と二う説も一理ある。それなら羽黒山と

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も縁がありそうであるが、この説の確証がない。しかたがないので「日頃崇敬する神様だっ

たので」とした説が今の定説になっている。少し不満だがやむをえない。

とはいっても、水谷氏以後の歴代の城主も「羽黒大権現」を大切にした。社殿を修復し

たり、毎年御朱印料としていくらかの運営費を与えていたことは確かのようだ。

この羽黒大権現をお杷りする施設はどんなものだったのだろうか。当時は「羽黒神社」

という言い方はせず、「羽黒大権現」と言っていたはずだし、今の神社の建物の様式が固

まったのは近世からといわれているから、当時は今のように整備された境内ではなく、烏

居などもなかったと思われる。

どのような施設かというと、先ほどの二十八番札所の清瀧寺というお寺がその施設なの

である。複数の資料によれば、この寺は天台宗のお寺で、この寺で「羽黒大権現」をお杷

りしていたという。こういう寺を別当寺という。お寺で神様をお杷りするとは現代では不

思議だが、江戸時代には神様と仏様はまぜこぜになっていて、このようなことがあたりま

えのように行われていた。このことを神仏混交、または神仏習合と言った。

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この清瀧寺は、松崎さんの資料によれば、江戸時代に二度も火災にあい、古い書物をす

べて焼失したという。火災の年度もわかっているのだから確かなのだろう。だから創建年

や開基したのが誰で、いつごろかは本当はわからないのだ。それなのに『下館市史」など

は断定的に書いているのはなぜだろう。『市史」は創建年に関する資料のことはなにも書

いていない。他にも、松崎さんの資料には奈良時代の僧、行基の開基と書いてある資料が

ある。事実だとすれば下館市史などの説と創建年代が大きく異なってくる。この説なども

含めて江戸時代に資料が燃えたのが事実なら、『市史」の出典は何か、気になるところだ。

ともかくこの寺で「羽黒大権現」を担っていたわけだが、では、観音様とのご縁はどう

いう縁か、というと、「羽黒大権現」という神様はお姿がない。つまり、顔かたちかわか

らないのだ。これは「羽黒大権現」だけでなく、日本の神様全部がお姿を持っていなかっ

た。そこで目に見えるお姿をもっている仏教のほとけ様のお姿を借りる事を考えた。これ

を本地垂述説という考えで説明してしまうことにしたのだ。これは仏教のほとけ様が、庶

民を助けるため、仮に神様の姿で現れたという説である。まぎらわしいが、ほとけ様を神

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様のお姿とする、まことに不思議な説である。

それでは羽黒大権現様のお姿として借りたのはなんと言うほとけ様だったのか。じつは

それが観音様のお姿だった。これは出羽の国の羽黒山では、観音様がご神体(ご本尊)となっ

ていたことからわかることで、羽黒山から勧請してきたなら、ご神体も同じはずである。

そういえば、羽黒山には有名な五重塔があるが、あれは仏教施設だ。羽黒山も同じように

神様とほとけ様が限りなく混ざり合っていたのである。

というわけで、羽黒大権現と観音様の縁はあるようだが、では観音様の像はどうしてあ

るのかというと、松崎さんの資料の中に、 『正観世音縁起草稿」という文書が残っている。

それによれば、寛保一年(一七四一年)、時の下館藩主である石川総候公のところへ、小田

原の大久保公から姫君が嫁入りした。姫君は(り本尊としてこの観音様を持参したという

のである。ところがこの観音様は、霊験あらたかで熱心にお参りすれば必ず報われると評

判になった。特に、眼病と安産には効き目があるということになった。そこで姫君だけで

なく広く一般の人たちにもご利益を分けたい、というので清瀧寺にお堂を建ててお杷りす

ることになったというのである。

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Page 8: 羽黒神社の観音 様羽黒神社の神様は出羽の国の羽黒山から勧請してきた「羽黒大権現」という神様という ことになっている。では、勧請したのは誰で、いつごろか、というと『下館市史」はじめ

ところが、現在残っている観音様がお入りになっている厨子の裏面には、享保十四年

(一七二九年)に厨子を作ったと書いてある。この厨子の記述からすると、姫君がお持ちに

なった年代より前になる。この厨子を作ったことは、拝殿にある享保十六年の棟札にも書

いてあるので確かなのだろうと思う。すると姫君の話が作り話になってしまう。いったい

観音様は誰が、いつ、どのようにしてこの場所に置いたのだろうか。

文書には観音様の大きさは一尺二寸五分 (約三十七センチ)と書かれている。大きさだけ

から判断すると現存する観音像のようである。別の文書には、この観音像は清瀧寺の開基

である行基の作だ、と書かれているが、これはどう考えても疑わしい。

観音様の由来は確定できないが、この後しばらくは、銅鏡が奉納されたり、版木でお姿

を刷って配られたり、と大切にされる時代を過ごされる。銅鏡には年代や人名などもある

し、版木には人名も彫られている。当時の人たちの信心深さがうかがえる。

では、どうして観音様は現在の気の毒なお姿になってしまわれたのか。それは、いわゆ

る「神仏分離令」の影響である。「神仏分離令」というのは、江戸(慶応)から明治になっ

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た時、明治政府が出した神様とほとけ様を分けるように、と言って出したお達しのことで、

これはいくつかのお達しの総称で、まとめて言えばいままで一緒に担っていた神様とほと

け様をこれからは明確に別けろということである。これは明治政府が、「維新」という革

命の成功のためには、従来の価値観の変換を図る必要があったためで、明治政府は新しい

価値観を「神道」に求めたのである。「国家神道」の始まりでもあった。

この「神仏分離令」のいくつかのお達しの中に、神道の施設に対して神様の由緒を書い

て差し出すように、というお達しがある。清瀧寺のように資料がなくなってしまった寺で

は困ってしまい、つじつまの合うように由緒を作文するしかなかった。資料がないのに由

緒を作る苦労は大変なものだが、今ではその説が真説となってしまったのである。残念だ

がこれは事実のようで、下館だけではなく全国の神社で似たようなことがあったようだ。

他にも下館の場合は羽黒大権現という「権現号」だったために、「権現号」は仏教色が

強いから禁止だ、というお達しには、「羽黒大権現」という名称を、「羽黒大神」という神

道の名前に変えることになったのである。

さらに仏像や仏具を神前からの撤去しろ、というお達しには、ご神体(ご本尊)を観音様

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から現在の鏡に変えて、祭神も羽黒権現からこの地方になじみのある大国主命にしたので

ある。ちなみに大国主命のお姿は大黒天のお姿を借りている。いわゆる大黒様である。

また、住職に対しては還俗といって、本来の役職であるべき宮司になるように、という

お達しがあった。住職はその時、名前も変えていて松崎さんのお宅には、その資料も残っ

ている。さらに、別当寺であった清瀧寺そのものは、檀家もなく、住職もいない寺となっ

ては廃寺とするしかなかった。

このような神仏分離令が各地で整然と行われた背景には、寺が住民を管理していた幕府

の住民政策への反発もあったようだ。寺に対する不平や不満もあったのだろう。そのため

もあって、この一連のお達しは日本全国で誤解を生み、特に神前からの仏像、仏具の撤去

のお達しは、一部で廃仏投釈運動という大騒ぎに発展してしまうのだ。

当然ながら「羽黒神社」の観音様もしばらく受難の日々を送ることになる。その辺の

顛末が先ほどの『縁起」に書いてある。それによれば、眼病や安産にご利益があるという

評判は遠くまで聞こえていて、かなりの遠方からも参拝客が訪れていたという。

そんな観音様が急に用なしになるのもかわいそうだというので、町のご婦人方が立ち上

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がり、とりあえず市内の光徳寺に置いてもらったが、光徳寺は真宗で、ご本尊は阿弥陀

如来である。真宗ではご本尊以外の仏像はご法度なので、二つの仏像を一緒に置くのはな

にかと具合が悪いということになり、傷んだところの修理だけはしてくれたが返されてし

まい、移転先を探すことになった。とりあえず蔵福寺が預かったが、その聞に定住先を探

すことになったというのだ。

そして本城町の八幡さまの北のほうが最適の場所だということになって、ここにお堂を

建てて安置することになった。一件落着に思えるが、残念ながらこれ以降は書かれていな

い。しかし別の資料には、松崎さんのご先祖が、明治二十六年十二月一目、「羽黒神社」

の宝物として神庫に寄付することになった、と書かれている。この二つの資料をつなぐ資

料がないのである。どうもこの『縁起」は創作されたような気がしてならない。観音様は

最初から松崎さんの子によって境内のどこかに避難していたことも考えられる。

真相はわからないが、観音様が神社にお帰りになったときには、もうご神体ではなかっ

た。宝物とはいえ、ただの木彫りの像にすぎない観音様は、大切に扱われていたとしても、

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ご神体ではないのである。常時安置しておくわけにはいかない。時折り思い出したように

とりだして、眺めたり調べたりして、また大切にしまわれる、という繰り返しの聞に、腕

がとれ、衣の一部がとれてしまったのだろう。お気の毒としかいいようがない。

ただ考えてみれば、この観音様があるおかげで羽黒神社の神様が仏教に限りなく近かっ

たことが証明されるのも確かだし、神仏分離令というものの影響の大きさがうかがい知れ

るのも確かなのである。由緒書きなどは創作される(埋造される)恐れがあるが、観音像は

物的証拠である。仮に偽造されたものだとしても、今の技術で調べれば、年代をある程度

推定できるはずだ。大切にして欲しいと思うし、出来れば修復して欲しいと願う。

こうして調べてみると、羽黒神社の神様は今でも羽黒大権現なのかもしれないと思えて

くる。人聞の都合で勝子に名前を変えたわけで神様の都合ではないのだから、ありえる話

ではある。そうすると、あの観音様は羽黒大権現ということになる。そういうことなら羽

黒大権現が神様でもほとけ様でもかまわないではないか。何かの縁あって下館に勧請した

のだから、下館の惣鎮守(守り神)としていつまでも下館を見守って欲しいと思う。

ハH

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上が本殿にあった観音像。両腕と後

ろの衣の一部がとれてしまって、光

背も傾いている。手前に置いてある

のが両腕で、右側の紙包みにとれた

衣の一部が入っている。

左の写真は、松崎さんのお宅にあっ

た写真で、無事だった頃のお姿がわ

かる貴重な資料である。

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観音様が描かれている銅鏡。

直径は24cmある。

裏面の文字は表面と同時期 残っていた版木から刷った観音像。実

ではなくあとから彫られた 物は上下47cmあり年意外に大きい。

ようで年 代が違うようだ。 下羽黒山 正観音などの文字がある。

慶応3年(一八六七年)の下館城下の地図。

大町通りの中央東側に天台宗清瀧寺の文字

がみえる。

翌慶応4年は明治元年である。

。ノ

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羽黒神社の観音様

発行二O一O年二月一日

著者刀島正格

印刷栄進堂印刷株式会社

茨城県筑西市甲九一番地二

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