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天王寺妙厳院御比丘尼御所 - Kyoto Women's Universityrepo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/700/1/0030...天王寺妙厳院御比丘尼御所 中1世大坂の寺院史についての試みー

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天王寺妙厳院御比丘尼御所

1

中世大坂の寺院史についての試みー

天王寺妙厳院御比丘尼御所

は 

じ 

め 

 中世

の大坂については、研究を進

めていかなけ

れば

ならない分野

が、

いく

つか残されている。寺院

についての研究もそのひと

つであろ

う。

 寺院に関する研究についても、多くの課題がある。寺院の組織や支

配の機構、所領、信仰、教義など多岐にわたる。そのなかでも、朝廷

や幕府との関わり方については、広

い範囲に影響を及ぼす、重要な問

題である。

 室町時代前期の人、伏見宮貞成

(後崇光院 文

・応安

〔二二七ご〕~康正二

〔一四五六〕)の

『看聞日記』(続群書類従補遺

二)

には、 

「天王寺妙厳院」

という寺院が、

しぼしば登場する。

の寺院は、

天王寺の地名からも明らかな

よう

に、

摂津国の寺院であ

る。

この天王寺妙厳院に、

貞成親

王の第

二王女

(以下、

妙厳院御喝

食、妙厳院御比丘尼)が入室している。天王寺妙厳院は比丘尼御所

                        

 

ひとつに数えられているが、その実態は明らかではない。『看聞日記』

の中

の天王寺妙厳院や妙厳院御比丘尼に関する史料から、中世の大坂

の一寺院が、どのようにして朝廷や幕府と関わ

っていたのか、明らか

にしてゆきたい。

一 

天王寺妙厳院御比丘尼

1

天王寺妙厳院入室まで

 妙厳院御比丘尼は、 『看聞日記』によると、応永二十八年

(一四二

一)九月五日に生まれた。

「抑二条局産所

二出庭田。則誕生平安云々。

巳時姫宮也。飽満無用。但無為無事珍重也。」

と書かれている。

この

時、貞成親王には第

一王女

(入江殿性恵、応永二十三年生)と第

一王

(彦仁王、後花園天皇、応永二十六年生)の二人の子供がおり、妙

厳院御比丘尼は第三子、第二王女である。

翌棄

二+九年

(西

二二)+二月一言

「姫宮野驚三御髪馨

着之儀。芝殿役之。殊更三筋祝着如例。兼日在方朝臣同時勘進。」、同

三+年

(西

二三)+二月二+六日に

「抑姫宮離二御藻

有祝着薯

在方朝臣日時勘進。先深勢長資朝臣役之。次供御魚味。陪膳前宰相含

之。」とあり、誕生後、順調に育

ってい

ったようである。

233

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窓史

 天王寺妙厳院

への入室

の話は、応永三十年

(一四二三)に持ちあが

る。

 烏看聞日記』応永三十年九月二十七日条

  天王寺妙厳院有書状。姫宮入室事。先立藻光院宮約束申了。而兎

  角延引之処。彼宮

ハ不可入申

云々。愚息可入申之由被申。傍息女

  三歳。錐為幼稚。契約不可有子細之由領状申了。

 天王寺妙厳院

へは当初、貞成親王の兄、篠光院宮

(治仁王、応永二

十四年没)の姫宮が入室することにな

っていた。だが、妙厳院は貞成

親王の姫宮の入室を望んでおり、姫宮は三歳で幼いが、入室

の方向で

話を進めることとな

った。治仁王には三人の王女がおり、三人はそれ

                           

 

それ鳴滝殿十地院、岡殿大慈光院、坂本智恩寺に入室している。 

「先

立藻光院宮約束申了。」が

三人

のうちの誰を指した約束なのかは明ら

かではない。

 天王寺妙厳院入室

の話はその後も進み、十月十

一日条に

「天王寺妙

厳院有書状。姫宮事三歳余以幼稚之間。五歳之時必可入申云々。先治

定之条珍重也。

明後年入室不可有子細之由約諾申了。」とあり、

三歳

と幼いので、五歳の時に必ず入室することで、妙厳院とひとまず話が

まとまる。

 翌応永三十

一年

(一四二四)十

二月

二十五日条

「天王寺妙厳院より

姫宮御事。明春

二月

二可入申之由奉之。茶廿。賜之。不思寄為悦。宮

御方事。兼約之間不可有子細之由申。但明年難為五歳未幼少之問。入

室可為如何様哉。」から、

入室の時期が具体的に決められている。

の後

『看聞日記』には、永享三年

(一四三

一)五月まで、妙厳院に

ついては書かれておらず、貞成親王の第二王女がいつ天王寺妙厳院に

入室したのかはわからない。よ

ってここでは、入室の時期を

『看聞日

記』応永三十

一年十二月

二十五日条

「天王寺妙厳院より姫宮御事。明

春二月

二可入申之由奉之。」

より、

応永三十二年二月としておくこと

にする。

2 天王寺妙厳院入室後

 天王寺妙厳院に入室してからの妙厳院御比丘尼と貞成親王の間の往

き来について、整理しておきたい。

 貞成親王は、比丘尼御所に入室した親族の女性、特に自身の王女た

ちや兄治仁王の王女たち

(貞成親王の姪)と頻繁に連絡を取り合い、

会う機会も多く持

っている。貞成親王の第

一王女、入江殿三時知恩院

性恵

(妙厳院御比丘尼の姉)

と、

貞成親王の姪、

鳴滝殿十地院智

(妙厳院御比丘尼の従姉)を例に上げてみる。

 入江殿性恵は、応永

二十三年

(一四

一六)十

一月十九日に生れ

(「抑

今参局産遅引有邪気云々。

然而今夜寅剋女子誕生。

無為無事也。」)、

応永三十

一年

(一四二四)四月十九日に入江殿三時知恩院に入室する

(雇

宮九嘩

入江殿叢

有入箋

その策

性恵のことは漿

十二年

(一四二五)八月四日条まで

「入江殿御喝食」、

永享

十年

(一

四三八)十二月

二十七目条まで

「入江殿今御所」、

嘉吉

元年六月六目

条まで

「入江殿方丈」と記され、 『看聞日記』には入江殿のこと、性

恵のことが頻繁に記されている。応永三十

一年

(一四二四)六月

二十

七日条

「入江殿御喝食今日勤

二始而被出。珍重之由奉之。有祝着之儀

云々。」、永享七年

(一四三五)十

一月三十日条

「入江殿今御所入来。

暫御請暇云々。」、嘉吉元年

(一四四

一)三月十四日条

「南御方入江殿

234

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天王寺妙厳院御比丘尼御所

参。方丈御違例。癒瘡云々。Lなどである。

 鳴滝殿十地院智観は、貞成親王の兄、治仁王の第

一王女である。生

年月日はわからないが、応永二十

五年

(一四

一八)十二月二十六日条

「姫宮霧

。熱

暁+地院殿羅

萩有御入室。堅固内薩

也.」よ

り、応永十九年

(一四

一二)ごろの生れであろう。

 鳴滝殿に入室後も、智観のことは、 

『看聞日記』の随所に記されて

いる。応永二十九年

(一四二二)

六月十

日条ま

「鳴滝殿御喝

食」、それ以降は

「鳴滝殿」で、

智観のことを記している。

応永二十

六年

(一四

一九)八月七日条

「抑鳴滝殿御喝食入御。 (中略)御入室

以後初而是

へ光臨。」、応永二十七年

(一四二〇)五月四日条

「御薬玉

室町殿

へ進之。 (中略)鳴滝殿御喝食薬玉進之。」、応永二十九年

(一

四一一二)八月十五日条

「御香宮参。若宮。鳴滝殿。廊御方。上膳。二

条殿相伴。し、永享五年

(一四三三)五月十五日条

「鳴滝殿入来。御領

公用事被申談。」などである。

 入江殿性恵と鳴滝殿智観については、入江殿三時知恩院

(上京)と

鳴滝殿十地院

(鳴滝)が、伏見や

一条東洞院

(永享八年

〔一四三六〕

以降)にあ

った、伏見宮家の御所とは比較的近

いと

ころ

にあ

ったの

で、 『看聞日記』に彼女たちのことが多く記されるようにな

ったので

あろう。

 摂津国の天王寺妙厳院に入室した妙厳院御比丘尼は、入室後、父、

貞成親王とはどのような関わり方をしていたのであろうか。

 妙厳院入室後、妙厳院御比丘尼

は永享五年

(一四三三)八月

二十

日条までは

「天王寺御喝食」、永享

六年

(一四三四)五月四日条まで

「御沙弥御所」・「妙厳院御沙弥」、それ以降は永享八年

(一四三六)

四月二十六日条

「天王寺御比丘尼御所」などの名称で書かれている

ことが多い。この他にも、 

「天王寺」や

「妙厳院」で、妙厳院御比丘

尼をあらわしていることもある。

 妙厳院御比丘尼が摂津国の天王寺に住しているためか、妙厳院御比

丘尼と貞成親王の往き来は、折々の進物や音信についてが主である。

永享四年

(一四三二)正月二十三日条

「自天王寺御賀礼種々物賜之。

殊更御服

一進之。」、永享五年

(一四三三)五月五日条

「自妙厳院種等

賜之。令賞玩。」、永享六年

(一四三四)十二月二十二日条

「自妙厳院

音信極等給之。」、永享七年

(一四三五)九月十八日条

「自天王寺有音

信。御所事賀承撞等給。」、永享八年

(一四三六)七月十七日条

「妙厳

院より燈炉三給。

一ハ宮御方。

一南御方。

一西雲

二被遣。自御比丘尼

御所被進。殊勝之燈炉共也。」、永享九年

(一四三七)十二月十三日条

「天王寺歳末御礼極種々給。公方上様被進。」、永享十年

(一四三八)

五月四日条

「天王寺音信御祝之物給。」、永享十三年

(一四四

一)正月

二十三日条

「妙厳院賀札。極種々進物如例。」、嘉吉三年

(一四四三)

七月六日条

「自妙厳院七夕花被進為悦。」などである。

 折女の進物や音信を主としつつ竜、 『看聞日記』中

の天王寺妙厳院

に関する記事には、妙厳院の寺院そのものに関するものや、妙厳院御

比丘尼個人に関するものもある。ここでは、貞成親王との親子の往き

来ということで、妙厳院御比丘尼個人に関するものについて詳しくみ

てゆきたい。

 永享五年

(一四三三)八月、妙厳院御比丘尼は出家を遂げる。八月

二+二日条

「智

天王寺有音僥

御饗

今月九轟

遂出家轍ご目

出之由告承。其礼極等種種送賜。

珍重

也。

是御礼重可申之由返事

235

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窓史

了。Lの知らせを受け

て、伏見宮家から春日局が天王寺

へ下向する。

八月二十八日条

「春日局天王寺下向。妙厳院参。御沙弥御所為拝見申

々。自是御祝点心猷卜二百妻

進き

で奎

寺鍵

院へ

下向し、十

一月三十日条

「春日局自天王寺帰参。去八月末下向数月逗

留。脚有子細不能記。

無為上洛珍重也。

御宮笥有盃酌。」より、約三

ヶ月後に帰参する。春日局は伏見宮家に仕えていた女性で、この天王

寺下向も、半ぽ、貞成親王の意を受けてのことであろう。

 妙厳院御比丘尼の上洛については、摂津国天王寺からの上洛となる

ので、姉性恵や従姉智観が洛中及び京近郊から伏見宮家

の御所に赴く

のと同じ訳にはいかない。妙厳院御比丘尼の上洛に関する記事は、永

享四年

(一四三二)三月、永享八年

(一四三六)四月、嘉吉元年

(一

四四

一)五月の三つである。このうち、永享八年

の上洛は天王寺妙厳

院の安堵について、すなわち、妙厳院の所領に関することなので、次

章で述べることにする。

 

(1)永享四年三月

 永享四年

(一四三二)の上洛に

ついての記事は、 『看聞日記』の同

          天王寺

年三月

二十

一日条

「抑妙厳院御喝食。明日可有上洛之由奉為悦。入室

已後初度也。」から始ま

って

いる。

応永三十二年

(一四二五)二月

入室以来、最初

の里帰りである。

翌二十

二臼条には、 「抑天王寺御喝

食上洛。

御共比丘尼

一人。

喝食

一人。

一人以下大勢。

乗燭時分落

辺讐

笥馨

賜為

南御互

春尾

庭畢

有御宮笥

定御経営麩

御入室之後契

見義

有御成人甦

御珍敷喜

悦事

々物念也。有

一献。

連歌及深更百韻畢。」とあり、

十二歳の妙厳

院御喝食が大勢

の供を連れて上洛し、貞成親王が喜んで

一行を迎えた

ことがわかる。その翌日、

二十三日条

「御喝食御共比丘尼以下帰寺。」

とあり、供

の者

は妙厳院御喝食を伏見の伏見宮家御所に送り届けた

後、天王寺妙厳院に帰

っている。

 伏見宮家御所滞在中

の妙厳院御喝食については、 『看聞日記』に詳

しく記されている。三月

二十七日条

「御喝食御所惣得庵

へ招請申。予

                         

天王寺

可相伴之由頻被申間行。

南御方。

東御方。

近衛。

春日。喝食。御乳

入。重賢。行資等参。

一献及酒盛。其興不少。庭騨躍盛也。賞玩労有

興。晩景帰。」とあり、

妙厳院御喝食を始め、

伏見宮家

の人々が伏見

宮家と所縁のある惣得庵に出かけて、酒宴を楽しんでいる。

 三月二十八日には、妙厳院御喝食の姉、入江殿性恵の許に赴き、数

日間滞在する。この入江殿滞在には、姉に対面することのほかに、も

うひと

つ、目的があ

った。兄、後花園天皇のいる内裏

へ参上すること

である。後花園天皇は貞成親王の第

一王子で、応永二十六年

(一四

九)六月生れ、正長元年

(一四二八)七月に践酢、永享元年

(一四二

九)十二月に即位する。入江殿性恵や妙厳院御喝食とは、同母の兄弟

である

(母は庭田幸子)。

 

『看聞日記』永享四年三月二十八日条

  御喝食入江殿

へ入御。御乳人御共参。御宮笥等如形進之。内裏明

  日御参事。御乳人内

々長階

へ伺申。適御上洛以次御見参御所望之

  間。可有御参之由被申。 (中略)御喝食先永基朝臣宿所

へ立寄。

  自彼入江殿

へ入御云々。御所

ハ室町殿

へ御礼

二御参云々。

 同二十九臼条

  春日局入江殿

へ参。御喝食両三日御座之間付申。 

(中略)御喝食

内裏御参蔽進考

236

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天王寺妙厳院御比丘尼御所

 

妙厳院御喝食は上洛が適

ったら、内裏に参上することを希望してい

ることが

「適御上洛以次御見参御所望之間」よりわかる。三月二十八

日に、参内のために伏見

の伏見宮家御所から、洛中の入江殿に移り、

翌二十九日に参内する。

 

妙厳院御喝食は応永三十二年

(一四二五)に天王寺妙厳院に入室の

ために、後花園天皇は正長元年

(一四二八)に践酢

のために、それぞ

れ伏見宮家御所を出る。永享四年

(一四三二)の妙厳院御喝食の参内

まで、約七年、対面の機会がなか

ったことになる。

 

四月十二日条には、 「御喝食令灸治。せんそくの療治也。しとあり、

妙厳院御喝食に喘息の持病があ

ったこと、その治療に灸治が用いられ

ていたことがわかる。

 

翌十三臼条

「自天王寺音信。御喝食来廿日可有帰寺之由被申。可進

御迎云々。」より、

天王寺妙厳院帰寺

の日取りが定められる。

十四日

                       

庭田

には

「御喝食乗船。予。若宮。姫御所。近衛。春日。源宰相。長資。

隆富等朝臣。重賢。経秀。行資。珠蔵主。承泉。喝食両三人等乗。柳

垂釣近辺漕廻晩景帰。

御喝食饒送也。」

と、

御喝食

の旅立ちの舟遊び

が催される.+九日になると、「臭

王寺御饗

之琵

丘尼.鰭

侍等

々参。明日御下向也。」と

迎え

の比丘尼が天王寺妙厳院から遣わさ

れ、天王寺

への下向準備が進められていく。

二十日、下向の日は

「早

旦御饗

寺被蝿

御贈物御服一薄稔

進為

撞二荷

二食

此外面禽

引物色々物共済進ζ

にも染墜

適御上洛之間余波不少。御送御所侍義村参。」

とあ

る。 

「適御上洛之

間余波不少。」

が何

を表すのかは定かではないが、妙厳院御喝食が伏

見宮家を去

った後の寂しさを記したのかもしれない。

 

(2)嘉吉元年五月

 

嘉吉元年

(一四四

一)五月六日条

「天王寺音信。御比丘尼為御礼上

洛事令申。不可叶云々。」は、

の希望が適えられなかった例であ

る。

この年

の五月二十八日に、妙厳院御比丘尼の姉、入江殿性恵が病

      

 

のため死去する。妙厳院御比丘尼は姉を見舞うことができなか

ったの

である。摂津国天王寺から京までの道中のことや、妙厳院御比丘尼が

妙厳院を留守にすることによる不都合などがあ

ったのであろう。

 

ここまでは、妙厳院御比丘尼の天王寺妙厳院入室までの経緯と、入

室後の貞成親王と妙厳院御比丘尼

の親子関係に関わるものを整理して

みた。妙厳院御比丘尼は五歳の幼さで摂

津国

の天王寺妙厳院に入室

し、十三歳で出家する。妙厳院御比丘尼は摂津国天王寺

に住んでいる

ため、上洛する機会はなかなか得られないものの、貞成親王とは音信

や進物のやりとりをしながら、お互いの消息を得ている。

 貞成親王の娘や姪たちは、洛中や京周辺の寺院に入室している者が

多く、妙厳院御比丘尼のように京から離れたところにある比丘尼御所

            

に入室している者は少ない。そのようなこともあ

ってか、妙厳院御比

丘尼が上洛した折の

『看聞日記』の記述

は詳細なものとな

っている。

二 天王寺妙厳院

 

ここでは、 

『看聞日記』

料を整理してゆく。

1 居

事から、天王寺妙厳院の寺院全体に関わる史

永享三年

(一四三

一)五月十五日条に

「抑自妙厳院被申。居公文事 

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窓史

上膓局

へ内

々申之処。披露居公文

堅被置大法制禁之間。執奉之趣錐難

去不可叶之由。以西雲庵奉之。無力事也。Lとある。この史料

一点

みなので、詳細はわからない。妙厳院御比丘尼の妙厳院入室後である

ことから、居公文のことで妙厳院が貞成親王の助力を願い出たもので

はと考えられる。

2 万寿寺入院事

 

『看聞日記』永享三年

(一四三

一)八月二十七日条

  自妙厳院僧参。徳瑛西堂。万寿寺入院事被望申。鹿苑院

へ可賜御

  書之由被申。労以錐斜酌難黙止之間遣挙状了。抑先日財薗寺

へ行

  其礼太刀

一腰坊主進之。明盛持参。

 同十

一月

二十

一日条

              天王寺

  徳瑛西堂。万寿寺入院事自妙厳院難去被申之間。去比就鹿苑院執

  申兀

而正蔵主被伺申間不可享

細云々。此由以鍵

苑晶

  被申。御意無子細之条為悦。

 

この二つの史料は、妙厳院の徳瑛西堂の万寿寺入院についてのもの

である。八月

二十七日条では、徳瑛西堂は万寿寺

への入院を希望して

おり、

鹿苑院

へ出す

「御書」を貞成親王に依頼

し、

貞成親王は

「挙

状」を書

いて遣わした。 

「労以難斜酌難黙止之間」より、断ることが

できなか

ったことがわかる。十

一月二十

一日条では、 

「御意無子細之

条為悦。」とあり、

徳瑛西堂の望

みが適

ったことを伺わせる。

貞成親

王の挙状が役に立

ったのであろう

か。このような依頼がくるのも、貞

成親王の第

二王女が妙厳院に入室しているからであろう。

3

妙厳院安堵事

・妙厳院領守護段銭臨時天役事

 永享八年

(一四三六)四月、妙厳院御比丘尼は妙厳院入室後、

二度

目の上洛をする。この時の上洛は、妙厳院の所領についての任務を果

たすための上洛である。以下、その詳細をみてゆこう。

 永享八年四月二十二日条に

「妙厳院安堵事。上様

へ内

々被申之処。

被伺申文書可被御覧之由承之間則進之。」とあ

る。妙厳院の所領安堵

のことを、上様

(足利義教側室正親町三条雰子)に内々に申し入れた

ところ、文書を御覧になりたいということで、それを進上した。

二十四日条

「天王寺御内書事申下。御比丘尼御所念有上洛。可被申御

礼之由。妙厳院

へ令申。」より、室町殿

(足利義教)と上様に御

述べるため、妙厳院御比丘尼御所が上洛するように、と貞成親王が妙

厳院

へ知らせる。貞成親王が妙厳院と幕府の間に立つ、窓

口の役とな

っている。

 

二十六日

「天王寺御比丘尼御所上洛。御珍敷為悦。比丘尼

一人御共

参。御宮笥折紙給。祝着。入江殿公方之御折番御用意云女。」、妙厳院

御比丘尼は比丘尼

一人を共にして上洛する。永享四年三月以来、四年

                天王寺

ぶりの上洛である。翌二十七日は

「御比丘尼御もてなし有盃酌。僧

人御共候。篠

領御比丘尼入江殿へ御義

室町殿へ御義

堵御礼驚

折紙葺

上様へ舞

西藩

五百疋蓬

へも

御宮笥被進。

公方上様御見参。

御引出物堆紅香合

一。

入袋。

練貫三

重。引合十帖。上様より三重十帖被進。

珍重也。

晩景御帰。」より、

妙厳院領代官

の善光寺という僧も上洛しており、妙厳院御比丘尼は室

町殿や上様に参上している。また、

二十六、二十七日条から、妙厳院

238

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天王寺妙厳院御比丘尼御所

御比丘尼の姉、入江殿性恵も、この件に関わ

っている。妹

のいる寺院

の大事ということで、貞成親王同様、窓口の役をしていたのであろう

か。

 五月

一日になると、 

「天王寺比

丘尼先下向。布

一段引合十帖給。御

比丘尼御所猶御訴訟。其問可有在京也。」、共に上洛してきた比丘尼が

妙厳院

へ先に下向した。妙厳院御比丘尼はこのあとも

「御訴訟」

のこ

                  天王寺

とがあるので、引続き在京する。

六日

「御比丘尼入江殿

へ被入申。鰭

帰。」、妙厳院御比丘尼は姉、性恵

のいる入江殿

へいく。

 

『看聞日記』永享八年五月十二日条

  天王寺訴訟事。上様内々被入御耳之間。付奉行可被申之由奉。傍

  飯尾肥前

二付之。

この日より、妙厳院御比丘尼が京

に留ま

った

「天王寺訴訟事」

の審議

が始ま

った。四月

「妙厳院安堵事」と同様に、足利義教の側室正親

町三条サ子

(「上様」)に話を持ちかけている。上様から、奉行に任せ

るよう言われ、奉行人の飯尾肥前守為種がこの件を受け持

つこととな

った。

 

この翌日から、妙厳院御比丘尼

は神社や寺院に参詣する。五月十三

日条

「天王寺御比丘尼御香宮為

参詣相伴。」、

十八日条

「南御方清水

          天王寺                  入江殿

参詣。宮御方。

初参。御比丘尼被参。」、十九臼条

「今伊勢

へ今御所。

天王寺    真乗寺

御比丘尼。御沙弥。南御方。春日。新中納言。御乳人等参。」、二十六

日条

「御比丘尼御八春寺礪

寺入兜

春日轟

である.二+吉

には、 

「御比丘尼。御沙弥つ南御方。春日。入江殿

へ参。為灸治也。

方丈御灸相共面々可灸云々。

夜局被帰。」と、

社寺参詣

の疲労回復の

ためか、仏入江殿

へ灸治に赴いている。

 

「天王寺訴訟事」に新しい動きが見られるのは、閏五月十六目条で

ある。

 

『看聞日記』永享八年閏五月十六日条

  抑妙厳院領守護段銭臨時天役事被歎申之間。向後不可入守護使之

  由。被成進御判御教書。其御礼南御方御所

へ被参。御比丘尼此間

  疫病之間不参。

 同二十二日条

  自奎

寺僧護

罷毛

御警

之御礼。公方へ千疋被漢

(中

  略)天王寺控賞玩。

 

「天王寺訴訟事」

の内容が

「抑妙厳院領守護段銭臨時天役事被歎申

之間。」であり、

その結論が

「向後不可入守護使之由。

被成進御判御

教書。」とな

βた。妙厳院御比丘尼が病のため、南御方

(貞成親王妃、

妙厳院御比丘尼母)が御所に参上した。 「御所」は将軍足利義教や上

様正親町三条サ子の住む、室町殿のことであろう。十六日条の内容を

受けて、

二十二日に天王寺妙厳院領の代官の僧、善光寺が上洛し、十

六日に出された御教書

の御礼として公方に千疋を進上した。二十九月

「天王寺御比丘尼瘡病及数日。木幡宣光坊召令落。」

から、妙厳院

御比丘尼は獲

の病に罹

っており、その治療のために木幡の宣光坊が呼

ぼれている。

 六月二十七日条

  天王寺御比丘尼明後日帰寺之間。御暇申

二室町殿

へ参入見参。御

  会所等被見申云云。入江殿

へも被参。方丈西雲有御引物。内裏

  も参。依喚被参。有

一献。春目御共参。自天王寺御迎比丘尼僧等

  参。'            

ー : 

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呪   

】   

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窓史

 同二十九日条

  早旦御比丘尼天王寺下向。及数日請暇無為下向珍重也。訴訟等道

  行有面目被下。心安也。御共僧

一人比丘尼

一人自御寺参。御所侍

  義村同参。点心二合。錘三。瓜等進之。

 妙厳院御比丘尼

の妙厳院帰寺に

ついての記事

であ

る。

六月二十七

日、室町殿に暇

の挨拶に参上し、御比丘尼は室町殿

の会所等を見るこ

とができた。入江殿の姉性恵、内裏の兄後花園天皇のところへも暇の

挨拶をする。前述

のように、嘉吉

元年

(一四四

一)五月に入江殿性恵

は、病で死去するので、

この日が妙厳院御比丘尼にと

って、姉性恵と

の最後

の対面とな

ってしまうのである。この日、御迎の尼と僧が天王

寺妙厳院からや

ってきた。

二十

日、

妙厳院御比丘尼が天王寺

へ帰

る。 「訴訟等道行有面目被下。心安也。」より、貞成親王をはじ

する、伏見宮家全体で、この時の天王寺妙厳院所領の訴訟を支援して

いたこと、よい結果が出て貞成親王が喜んでいることがわかる。

 永享八年

のこの上洛

は、妙厳院

の所領

の支配に関わる訴訟であ

った

ため、時の天皇

の同母妹である妙厳院御比丘尼が持

つ、朝廷や幕府と

のつながりが、十分に発揮される

ことを期待したものであ

った。そし

て、妙厳院御比丘尼は実家や姉の入江殿性恵の支援もあ

って、その期

待に沿える働きができたのである。

4 太子堂天役事

『看聞日記』嘉吉三年

(一四四三)正月二十三日条

妙厳院音信種種如例給。為悦。抑去正月十二日天王寺炎上云々。

其子細使者

二相尋。上方と中方有確執事。中方諸堂

二楯籠自焼。

          

鎮守

  太子堂。御影堂。

十五社。

廻廊。

三昧堂等灰儘。

自余堂々無為

              金

  也。太子も炎上。但御腹

二小太子奉籠。其

ハ不焼。奇得之事也。

  万人群集奉加之物出来。児

一人五百貫奉加云々。河内

二太子堂あ

  り。其所児也云々。委細事猶未聞。九百年以来不焼云々。為天下

  惟異欺。驚入者也。

 妙厳院御比丘尼から音信があり、十二日に四天王寺が炎上し、太子

・御影堂

・十五社

・廻廊

・三昧堂などが灰燈に帰した。太子堂の聖

徳太子像も焼けたのだが、太子像の胎内に納められていた金の小太子

像は焼けなか

った。河内の太子堂の稚児

一人が五百貫を奉加した。こ

の炎上してしま

った太子堂についての記事が、

これ以

『看聞日

記』に記されている。

 四月十九日、貞成親王は、八幡の逗留から帰参した伏見宮家側近、

田向長資から、四天王寺参詣の様子を聞く。

 

『看聞日記』嘉吉三年四月十九日条

  田向宰相入道帰参。八幡

二逗留。天王寺参詣之由語。御宮笥有盃

  酌。晩頭女中下向無為

二宿願被果遂。所願成就珍重也。昨日天王

  寺。住吉参詣。心静巡礼。太子御宝物等拝見。太子堂造営。太子

  ハ未奉俺

茄櫛鯉

閻犠

  尊難

不拝見。妙厳院被聞付。御比丘尼御所宿へ御環

善光寺庵

  

へ入申。御見参云々。有

一献昼立云女。 (中略)抑太子未来記

  此寺炎上之時。太子可奉造御衣木被記置。自宝蔵中求出云々。何

  木と不知。五六尺木拝見云々。内裏女中参宮下向云女。

 同五月七日条

  妙厳院音信。先日女中下向之礼被申。色々被進。

240

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天王寺妙厳院御比丘尼御所

 田向長資

の一行が四天王寺に参詣した時、太子堂は再建されていた

が、聖徳太子像はまだ、作られていなか

った。田向

一行

の参詣が妙厳

院に伝わり、妙厳院御比丘尼が長資の宿

へ出向いた。太子未来記に記

されている、四天王寺炎上

の際、太子像を新たに作るための御衣木が

宝蔵から発見された。 「内裏女中参宮下向云々。」

は、

御衣木

の発見

に伴

って、女官が派遣されたのではと思われる。五月七日には、妙厳

院から、女官

の下向についての礼

の音信が届いた。

 十月十七日からは、 「太子堂天役事」が記されている。

 十月十七日条

  太子堂天役事万疋之由仰。寺家計会之間参千疋沙汰申之由。長老

  以状被申。邊遁天役五千疋可被進之由重令申。

 同十八日条

  太子堂返事。五千疋事。更

々不可叶。寺家計会之間。御用不可限

  之由被申。此上者重不能申。

 同二十三日条

  太子堂より又千疋進之。造作方

へ被付。定直

二可渡之由。庭田

  仰。三千疋之内二千疋沙汰了。

 同二十九日条

  要脚太子堂天役二千疋付之。其外

ハ以山前可奉行之由仰。

                       

(原文は割書き)

 十

一月四日条

  太子堂又千疋致沙汰。是まて窮済了。

 十月十七日、 「太子堂天役事」

一万疋徴収することになり、寺家

は三千疋沙汰すると申したが、五千疋進上するよう、命じた。翌十八

日、

五千疋を進上することは不可能だと

の返事が

った。 二十三日

に、太子堂より千疋

の進上があ

った。二十九日、

太子堂

の天

役を付

す。十

一月四日には、太子堂の千疋を沙汰した。これで、太子堂のこ

とは

一段落

ついた。

 太子堂天役のことについては、妙厳院御比丘尼の関与は記されてい

ない。だが、金

の小太子像

の話を伝えたり、伏見宮家側近の田向長資

一行が四天王寺に参詣した折に挨拶に出向いたり、と間接的に、貞成

親王に働きかけている。

 

ここで取り上げた史料は、天王寺妙厳院の人事や所領、信仰に関す

るものである。永享三年八月

「万寿寺入院事」は人事、永享三年五

月の

「居公文事」、永享八年四月の

「妙厳院安堵事

・妙厳院領守

銭臨時天役事」

は所領、嘉吉三年正月

「太子堂天役事」は信仰につ

いてのことである。

これらのことで、貞成親王は、朝廷や幕府と妙厳

院の間に立つ、窓

口の立場にいた。また、妙厳院御比丘尼は、永享八

四月の

「妙厳院安堵事

・妙厳院領守護段銭臨時天役事」では、妙厳

院の代表としての役目を果たしていた。

 天王寺妙厳院が、貞成親王

・妙厳院御比丘尼親子に期待していたの

は、朝廷や幕府との橋渡しの役であ

ったと

いえる。

お 

わ 

り 

 中世の寺院の

一例として、

摂津国の天王寺妙厳院につい

ての史

を、 『看聞日記』から抽出し、整理してきた。天王寺妙厳院は、摂津

国の寺院である。寺院が人事や所領、信仰に関することで、朝廷や幕

府に掛け合う際には、京に伝手が必要であ

った。天王寺妙厳院では、

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窓史

妙厳院御比丘尼

の生家である伏見宮家を、朝廷や幕府

へつながるため

の強

い伝手と捉えていたようであ

る。妙厳院御比丘尼が妙厳院に入室

する時、伏見宮家先代の治仁王の王女から、当代の貞成親王の王女

と、妙厳院の希望が変わ

った理由もそこにあ

った。亡き先代

の王女よ

りも、当代の王女のほうが、実家とのつながりも強く、朝廷や幕府と

接触する際の伝手としての利用価値が高いとの判断が、妙厳院に働

たのではないだろうか。 『看聞日記』中の史料からは、妙厳院御比丘

尼は立派にその役割を果たしているといえる。

 妙厳院御比丘尼は、中世の大坂と京を結ぶ、重要な人物である。中

世の大坂には、妙厳院のような寺院や妙厳院御比丘尼

のよう

な人物

が、まだまだ存在していると思われる。それらを探し出し、京との関

わり方を明らかにすることも、申世の大坂を明らかにするひとつの視

点ではないだろうか。これは、今後の課題としておくことにする。

 院を臨済宗通玄寺派の比丘尼御所としてあげている。          

                                 2

治仁王の第

一王女智観は応永二十五年

(一四一八)鳴滝殿十地院、第二

 王女真栄は応永三十

一年

(一四二四)岡殿大慈光院、第三王女智久は永享

 五年

(一四三三)坂本智恩寺へ入室する。

入江殿及び、性恵については、中井真孝

「崇光院流と入江殿-中世の三

 時智恩寺i」(『法然伝と浄土宗史の研究』思文閣出版 一九九四年)に詳

 しく述べられている。

貞成親王の娘たちは、入江殿三時智恩院

(性恵)、天王寺妙厳院(妙厳院

 御比丘尼)、真乗寺

(理延)、岡殿大慈光院

(瑞光)、通玄寺曇華院

(某)

 へ入室している。貞成親王の姪

(治仁王の娘)たちについては、註②参

 照。

註① 比丘尼御所

についての先行研究には、大塚実忠

「史

料紹介 比丘尼御所

 歴代

(一)」、 

「同

(二)」、 「同

(三)」、 「同

(四)」、 「同

(五)」 (『日本

 仏教』第

二六、

二七、二八、三

一、

二号)、

大塚実忠

「法華滅罪寺中興

 聖恵房慈善」 (『日本仏教』第

二八号)、細州涼

「王権と尼寺ー中世女性

 と舎利信仰ー」 (『列島

の文化史』第

五号)、荒

用玲子

「景愛寺

の沿革-尼

 五山研究

一蘭i」 (『書陵部紀要』第

工八号)、大石雅章

「比丘尼御所と

 室町幕府-尼五山通玄寺を中心にしてi」

(『臼本史研究』第三三五号)、

 牛山佳幸

「続

・中世尼寺

ノート

(そのー)」 (『信州大学教育学部紀要』第

 七〇号)、湯之上隆

「足利氏の女性

たちと尼寺」 (『古代中世史論集』吉川

 弘文館 

一九九〇年)、 

『シリーズ女性と仏教

1 

尼と尼寺』(平凡社 

九八九年)、などが

ある。また、 

『国史大辞典』(吉

川弘文館)

「びく

 ごし

ょ 

比丘尼御所」

の項

の、 

「比丘尼御所

一覧」

の表

では、天

王寺妙厳