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四之宮まめ知識 平成26年度 【平成26年度公民館だよりに掲載された四之宮まめ知識】

四之宮まめ知識hiratsuka.johokyoyu.net/area/shinomiya/15608_A.pdf四之宮まめ知識 「四之宮の土地~砂丘~ その6」 記事提供:四之宮郷土史同好会

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四之宮まめ知識

平成26年度

【平成26年度公民館だよりに掲載された四之宮まめ知識】

✎四之宮まめ知識 「川除稲荷」 記事提供:四之宮郷土史同好会

3月の四之宮まめ知識で河岸砂丘と相模川の洪水について紹介しました。

今月も河岸砂丘と洪水に関連のある八幡の川除稲荷を紹介します。

注意深い人であれば気付くでしょうが、国道129号を八幡交番前交差点から南へ約440m進む

と、短距離ですが切り通しになっています。

付近は工場が立ち並ぶ相模川の氾濫原と、西方の寺院や住宅が並ぶ段丘の対比が鮮やかで、その段

丘崖は土地では「崖間かけま

」と呼ばれますから、いわば「カケマの切り通し」でしょうか。

切り通しによって氾濫原に半島のように突き出している岬のような地形の突端を国道が切り取っ

た部分に「川除稲荷」が祀られています(写真)。以前は社の裏は真道堀と鮫川堀の合流点にあった

鮫川池に繫がる湿地になっていましたが、大正12(1923 )年の関東大震災で隆起したとのことです。

またこの周囲はたびたび洪水に悩まされたのでこの稲荷神社を祀った所、それ以来水が来なくなっ

た事から、川除稲荷とよばれるようになったのだそうです。勿論、ここに作られた水除け堤防(現在

は無くなっています)(地図は明治39年)の建設などの努力もあったからでしょう。

八幡内ではこの稲荷神社への崇敬は厚く、八坂神社(東八幡2丁目6番)と共に例年祭が執り行わ

れます。

✎四之宮まめ知識 「四之宮の土地~砂丘~ その4」 記事提供:四之宮郷土史同好会

砂丘を有効に活用した四之宮の農産物(1)甘藷(さつま芋)

四之宮の耕作地は主に砂丘にあり、水はけが大変良く乾き易い性質があります。江戸時代には飢

饉が多発し、江戸(東京)近辺でも食糧不足に苦しんでいました。

江戸幕府に仕える青木昆陽は享保年間の1730年代に甘藷の栽培に着目し、8代将軍徳川吉宗

に直訴して薩摩(鹿児島)に勉強に行きました。昆陽は、甘藷の栽培方法と種芋を江戸の小石川薬

園に持ち帰り、導入しました。江戸に導入後、間もなく小石川薬園の管理者の1人と交流のあった

八幡の高橋さんは種藷をもらい受けて八幡で栽培を始めました。当時の土地は現在のように肥沃で

はなく、夏は旱害(日照りで乾燥する害)がひどかったので、官民共に甘藷に注目し、その移入の

時期を早め、近隣地域にも普及させました。

甘藷は、砂丘の土に良く適し、形・色・味共に他の地で栽培された物より優れており、また、他

の地域より最も早い7月中旬に収穫でき、早出藷として珍重されました。「ほくほく」の四之宮を

含む大野の芋は、「ふかしいも」で、川越(埼玉)芋は、「焼きいも」として人気がありました。

「ほくほくの、甘い大野の芋ふかし」《四之宮歴史かるた関連読み札》

この甘藷は、江戸時代の飢饉や太平洋戦争の食糧不足の時には、東は東京や横浜、西は伊東や小

田原等の広範囲で人々の命をつなぐ貴重な主食にもなりました。さらに、江戸時代はもとより明治、

大正、昭和と郷土の特産品として経済を豊かにしました。

江戸時代には人が天秤棒で担ぎ、明治時代初期からは荷車で、明治22年(1889年)には東

海道線が開通し、主に平塚駅から貨車を使って京浜の大消費地に運搬されました。明治32年(1

899年)には平塚駅前(現在のバス乗降場)に甘藷の集荷及び出荷の事務所(注)を設け、東京・

新橋駅近くにも出張所が設けられました。鉄道が開通したので、それほど甘藷の出荷が盛んになっ

たのです。

味がもっとも良いとされる「くりまさり」は、味は名前

の通り良いのですが、芋が長く掘る時に切れ易く、商品価

値が下がってしまうので、最近はまぼろしの芋となりつつ

あります。ちなみに、大野中学校の校章は、甘藷の葉がデ

ザインされており、同校卒業第1期生の方の作品です。 (注)集積及び出荷事務所は、四之宮を含む八幡、真土、中原、

南原地区の大野全体で運営されていました。

さつま芋:甘藷を日本に移入当初、主産地は薩摩(鹿児島県)で、そこから

栽培方法を教えてもらったり、種藷をわけてもらったりしたので

「さつま芋」と呼ばれる。他に、「とういも」とか「りゅうきゅう

いも」ともいわれる。中部アメリカ原産。

なお、2014年四之宮歴史かるた大会・説明資料から編集し、主に大野誌からまとめました。

✎四之宮まめ知識 「四之宮の土地~砂丘~ その5」 記事提供:四之宮郷土史同好会

砂丘を有効に活用した四之宮の農産物(2)麦・甘藷・大根の輪作

四之宮(大野)の主な耕作地は砂丘です。

その砂丘を巧みに活用し、年間を通じて殆んど間を空けずに、作物を栽培しました。

まず、主穀物の麦(大麦と小麦)を10月下旬から11月に畑に撒きます。

冬、霜柱で浮きあがった麦の株を踏み固めました。

「芽を踏んで、麦の株を丈夫にし」《四之宮歴史かるた関連読み札》

4月下旬から5月に、この麦の畔間に甘藷を植えます。(乾燥防止や保温効果があります。)

麦は、5月下旬から6月に収穫し、甘藷は7月中旬から8月にかけて収穫します。

甘藷が収穫されると、すぐに大根(美濃早生大根)が撒かれたり、野菜が植えられます。四之宮(大

野)の大根は、砂丘の土質にマッチし、色つやが良く、軟らかくて美味しく、早く煮え、さらに沢庵

漬けとしても当時他の地産品を圧倒する特産品でした。

9月から11月に大根が収穫され、そこに麦が撒かれるというサイクルです。

大根は、惣菜用と乾燥させた沢庵用として用いられました。

惣菜用の大根の収穫は、夜中の1時頃懐中電灯を用いて行い、2時か3時頃から洗って早朝に出荷

していました。(前日収穫したものとは光沢に違いがあった。)

沢庵用の大根は、洗って2~3週間干し、塩と米糠を使って気の樽に重しをして漬けました。

「寒空に白い簾(すだれ)の干し大根」《四之宮歴史かるた関連読み札》

しかし、甘藷の栽培面積が広大のため、大根だけではなく、他に「そば」や「なす」「トマト」「胡

瓜」「かぼちゃ」等と、大正時代からは「キャベツ」も輪作の夏植えの作物として生産されました。

輪作以外の四之宮の特産物として、「なす」を中心に「トマト」「胡瓜」等の苗の生産があります。

江戸時代末期からの歴史があり、関東一帯や東北、遠くは北海道まで出荷されていました。

他に、近隣地域に先駆けて導入したものに温室栽培や石垣いちごがあります。

「温室栽培」:昭和2年にはガラス温室でマスクメロンをはじめ、チューリップ、スイートピー、ユリ、アマリリス、

フリージャ、トマト等が栽培されました。

石炭で燃やすボイラーで温めた湯を温室に鉄パイプで巡らせる方式です。

「石垣いちご」:昭和10年頃、石垣を組み、熱源には太陽と鶏糞の発酵熱を利用しました。クリスマスには収穫で

きる促成栽培方法が四之宮に導入されました。この頃は、ビニールではなく、夜間の保温には油紙

やガラスの障子と「こも」でした。

なお、2014年四之宮歴史かるた大会・説明資料から編集し、主に大野誌からまとめました。

✎四之宮まめ知識 「四之宮の土地~砂丘~ その6」 記事提供:四之宮郷土史同好会

砂丘を有効に活用した四之宮の農産物(3)養蚕

明治時代の四之宮の地図を見ると、四之宮の 及しました。この年に村も養蚕の推励をしました。

砂丘の畑に広範囲に桑畑が存在します。 養蚕業は、第一次世界大戦の好況によって次第に

桑畑は一体いつあったのかを調べると、明治 増加し、昭和6~7年をピークに、野菜栽培が盛

中期から昭和の初期ぐらいまでありました。 んになった事と日華事変の勃発と共に急速に減り

「絹糸の、かっては桑畑あちこちに」 、太平洋戦争の始まる頃には全く衰滅しました。

また、昭和30年から40年代くらいまでは 養蚕の盛んであった明治の中頃は、現在より交

、かつて蚕を飼っていた独特の形をした中二階 通の不便な時代にもかかわらず四之宮と東京・八

の家も散見されました。 王子との交流が盛んであったようです。

(現在も何軒かはあるようです。) 八王子が明治26年まで神奈川県でもありまし

桑の栽培の経緯をたどると、明治初年真土騒 たが、四之宮から八王子に嫁ぎ、昭和40年代ま

動で有名な松木長衛門によって取り入れられよ で内職で機織りをしていた人も居られたりひょっ

うとしたが、当家の滅亡により、これは挫折し としたら相州だるまも八王子から四之宮に導入さ

た。(真土で松木長衛門が貸したり、抵当となっ れたのも、養蚕が縁となったかもしれません。

いた土地を自分で養蚕をするために強引に取り

上げたために騒動の一要因となったようです。)

しかし、養蚕の有利なことを知るにつれて、

明治20年前後より、養蚕をする家が現れてき 、

ました。はじめは比較的経済的ゆとりのある家

でスタートしましたが、次第に一般農家にも普

なお、2014年四之宮歴史かるた大会・説明資料から編集し、主に大野誌からまとめました。

✎四之宮まめ知識 「四之宮の土地~砂丘~ その7」 記事提供:四之宮郷土史同好会

四之宮の農産物(4)稲作(四之宮の水田)

四之宮は砂丘上にあり、農地の殆んどが畑で 四之宮で次に開発された水田は、現在の公民館

、鎌倉時代から小規模の水田は真土に隣接する 周辺で、当初はむずかし堀から引水したり、自然

現在の林町地区にありました。 に湧水する井戸の水も利用していましたが、水量

本格的な水田の開墾は、江戸時代初期に真土 が不規則であり、不足していたので、昭和14年

で伊藤氏や松木氏(注)が入植し、相模川の沖積 、前鳥神社近くの田村堀に堰を造り、神社西側の

荒野の開拓が行われ、四之宮でもこの頃から隣 道路の地下を土管でむずかし堀まで通し、むずか

接する林町から西町のむずかし堀沿いで行われ し堀の水量を増やし、公民館周辺にあった水田を

たようです。しかし、ここの水は、田村や真土 潤しました。しかし、下流の八幡ではそれでも水

でも使うので、水の争いが絶えなかったし、洪 は足りず、昭和17年、相模川畔に揚水場を設け

水や増水するとなかなか水が引かず、排水には 、コンクリート造りの水路で水田に水を引いてい

苦労しました。そこで、ここの水路の名は「む ました。(昭和30年代は、水田は工業団地や宅地となり消滅)

ずかし堀」と言われております。 最新に開拓された水田は、昭和27年から前鳥

「利水では、下流はいつも苦労して」 神社の北側の広大な畑地に粘土質の土を底に敷く

上流部の林町の水田は、約1万㎡程ありまし 、土地改良工事を行い、田村境の相模川から水を

たが、昭和中期頃より畑にするため砂丘の高い 電力で揚水し、コンクリート造りの水路で水を引

所から砂を運び、埋め立てました。 き、水田としました。しかし、この水田も昭和3

(一時は専用トロッコの線路の敷設された。) 0年代の半ばには現在ある下水道終末処理場建設

西町周辺の水田は、現在の四之宮公園周辺か 用地となり、この水田も僅か数年で消滅しました。

ら西側のむずかし掘り沿いに散在していたが、 四之宮の水田は、いずれも相模川の沖積地で、

昭和30年頃より、国道129号線の敷設によ 明治から昭和にかけて行われた相模川の護岸工作

る埋め立てや、むずかし堀の改修等で水事情が が完成するまでは、洪水毎に被水した砂礫地で、

変わり、この辺の水田は畑になり、さらに現在 水を保てない悪条件を退けて、絶えず水田化工作

では殆んどが宅地になっております。 がなされ、大変苦労されたことが伺えます。

※この松木氏は真土騒動の松木長衛門の先祖。

なお、2014年四之宮歴史かるた大会・説明資料から編集し、主に大野誌からまとめました。

西町の水田は、有識者複数の方より伺いました。

✎四之宮まめ知識 「四之宮の土地~砂丘~ その8」 記事提供:四之宮郷土史同好会

砂丘と御林(おはやし) 前篇

砂丘のままでは砂漠と同じ旱魃(かんばつ) 風、防砂により、広大な緑豊かな畑地や小範囲の

とか作物が砂に埋もれてしまっては農作物は収 田も開拓されました。

穫できません。それをクリアーするには、灌漑 御林が育つまでは、枯れ枝や下草の持ち出しは

または保水と砂の移動を防止する「砂防」をし 固く禁じられていましたが、成長すると枝や落葉

なければ、農作物は栽培できません。 は燃料としたり、下草は家畜の飼料や肥料にもな

砂丘の「砂防」は四之宮の風上にあたる中原 りました。

で、江戸時代の初期、当初は幕府によって徳川 御林の成木は、幕府の重要な経済林となり、次 々

家康が鷹狩の際使用した中原御殿(現在の中原 に伐採されて江戸城や江戸の寺社の普請、近辺の

小学校)の見透かし防止や風致林として中原御 道路、河川、橋、街道筋の土木工事、更に江戸城

殿の周囲に木を植えました。その後、周囲の砂 の焼失や江戸の大火では大量の材木が搬出されま

丘の荒地を耕地化し、開拓するために、松、ひ した。輸送は主に須賀や大磯の港かた船を使って

のき、けやき、落葉松、漆(うるし)等を防風 運ばれました。(御林・次号に続く)

防砂林として植えられました。

この林を「御林」(おはやし)といい、これが 「四之宮に海から続く砂の丘」

育つにつれて、まず中原か真土の砂丘の防風や

砂防により畑地が開拓されました。(砂丘には松

が最も適し、植樹の中心になった。)

御林はその後、現在の花水、須賀、富士見、

崇善、松原、八幡、南原地区等の16か所126

町(約125ヘクタール)の広範囲に植えられ、

荒地の耕地化・住宅地化がなされました。

四之宮は植樹をされた御林の風下に位置する

ので、砂防の恵を得ました。

幕府はその御林を大切に育て、守ったので、防

※2014年四之宮歴史かるた大会・説明資料から編集し、主に大野誌からまとめました。

✎四之宮まめ知識 「四之宮の土地~砂丘~ その9 (砂丘最終回)」 記事提供:四之宮郷土史同好会

砂丘と御林(おはやし) 後篇

御林は、明治21年に東海道線の敷設に使用 その他の人に払い下げられました。

する煉瓦を焼く燃料という名目で、中原御殿の 四之宮ではどうだったのでしょうか?

周囲を除くすべての御林を時の財界人、高嶋氏 今から約300年前に噴火した富士山の宝永火山

が払い下げを受け、忽ち全て伐採して枝葉も残 の火山灰は、例えば下郷の光林寺附近で地表から

さず運び出してしまいました。 浅い所で70~80cm、深い所で150~170cm

伐採した跡地は、遠州相良(現静岡県)の早 にあり、御林があっても300年でこんなに大量

野氏が国の林野局から借用支配し、住民に又貸 に砂が風で運ばれたことになります。

しをして開墾させたり、密かに土地の払い下げ この程度で済んだのは御林のお陰です。

運動もしました。元来が砂防、防風、水源涵養 昭和30年代から40年代の前半位までは、

の目的で植えられた松林を殆んど伐採し、後に 四之宮でも晩秋から春にかけて吹く南西の季節

苗木も植えられませんでした。 風で畑の土が砂塵となって飛んでいました。

伐採した跡地とその附近の田畑は旱魃や砂の 現在は、御林の代わりをビッシリ建った住宅

移動等の被害を受け、御林植材前の荒地と同様 で砂丘の砂が守られています。

になりました。この事は、歴史や土地を知らな

い当時の役人と、その虚につけ込んだ利権屋が 「高い塀、中で海軍何作る」

御林をなくしてしまったのです。 「塀の中、うさぎやきつねの安住地」

荒地化や地元に無関係な人の不当な利権に対

し、地元の人達が訴訟を起こし、御林を守って

きた人が変わって借用支配できるようになりま

した。

御林で最も広大な現在の総合公園とその周辺

一帯の伐採後に明治38年、英国系資本の無煙

火薬製造会社のアームストロング社(後の海軍

火薬廠)が創設され、御林跡地の内38町歩(

約38ヘクタール)を使い、残りは元御林守と

✎四之宮まめ知識 「四之宮と真土騒動の松木長右衛門」記事提供:四之宮郷土史同好会

(松木長右衛門はどんな人)

四之宮の砂丘や大野小学校の歴史を覗くと、 町兼真土と四之宮を含む3地区の戸長(こちょう)

明治時代の初期四之宮でも「松木長右衛門」が (現町村長)になりました。

随所に登場します。では、松木長右衛門はどん 長右衛門は文明開化で西洋文化を導入する等、

な人であったのでしょう。 新しい事を積極的に実行しました。

長右衛門は真土の松木家の13代目で、先祖 ①明治6年大野小学校の前身の有章館を真土の

は甲州(山梨県)の武田家(武田信玄)の家臣で、 東光寺(現大野公民館)に造る。

勘定奉行として武田家の金銭収納の一切を取り 明治9年、四之宮の北向き観音の近くに校舎

扱い、甲州金に「松木」の刻印があった程の家 を新築して移しました。

柄でした。 ②むずかし堀を掘り拡げ、耕地整理した。

武田家の滅亡に伴い、他の残党と共に真土に ③真土と豊田打間木の境界を整理した。

来ました。(筆者須藤の祖先も武田の家臣で、家では小 ④八幡と茅ヶ崎・萩園の境界争いを解決。

田原の北条氏を攻めた際に来たと言い伝えられています。) ⑤道路を改修し、新しい道路の境界には木炭を埋

松木家は勘定奉行(経理)で利殖に強く、玉川( め、境界争いを防止した。道路等の草を積むた

渋田川)沿岸の荒地を開拓して所有地とし、お金 め所々を広くした。

を貸して財産を増やしました。長右衛門の代で ⑥神社統合を他地区より早く手掛けた。

は田畑山林が10ha以上、宅地は1.2haあり、 ⑦真土の小字名を「壱之域(いちのいき)~弐拾参

更にお金を貸した土地も約30haありました。 之域(にじゅうさんのいき)」に改めた。

宝暦10年(1,760年には、その資金を使い ⑧養蚕を導入しようとした。(失敗)

真土の名主になりました。 明治9年、罷免されるまでの間に土地に対する

松木家の蔵(倉庫)には文書、著書が沢山所 税金改正の大事業もあり、戸長としての仕事と共

蔵されており、松木家の教育は、代々家庭でな に上記他の事業も行いました。

され長右衛門も父から受けました。 ・短期間でこれらの事業を行ったが、事業の一部

17歳で父の後を継いで名主になり、明治5 でトラブルがあり騒動になりました。

年に名主制度が戸長制度に変わると25歳で区 ※太字は四之宮と関係ある事業。 真土騒動については次号で紹介します。

✎四之宮まめ知識 「真土騒動(松木騒動とは」 記事提供:四之宮郷土史同好会

前回「松木長右衛門」を紹介しましたが、今 代わり、木製の大砲、刀、鎌、竹槍、木刀を武

回は真土(当時は真土村)で起きた農村一揆で 器に松木邸に討ち入り、長右衛門以下7名を殺

す。 害し、4名に傷を負わせました。(大砲は、大

真土騒動は松木騒動ともいわれ、明治11年 工の伊藤音五郎が真土の諏訪神社の境内にあっ

に農民が村の区長兼戸長(現町村長)の松木長 た御林の松材をくり抜き、竹でタガを作り、中

右衛門に対して起こした争いです。 に火薬と相模川の丸い石を入れた手製のもの)

明治政府の土地に対する税金改正に乗じ、松 首謀者とみられた4名に死刑、その他は懲役

木長右衛門は、村の農民60数戸分の松木家か 10年と3~4年の判決を受けました。

らの借金の担保の土地約30haと、村の共有 事件前の訴訟の弁護人の発案で減刑の嘆願書

地を「松木」名義に換えてしまいました。農民 が作られ、同情した近くの全ての村、165村

は、元に戻すように求めましたが松木側は応じ の正副戸長が署名し、その数1,800名にも達

ず農民側は明治9年に提訴し、小田原地裁では し、その他にも県下の有志や村民も相次いで嘆

勝訴したが横浜高裁では逆転敗訴してしまいま 願しました。 相次ぐ嘆願に、その時の県令(現

した。農民側は大審院(最高裁)に上訴しよう 県知事)野村靖も事件前のいきさつも知ってい

としても資金がなく、これまでの裁判費用や小 たので、時の右大臣(天皇の補佐役)岩倉具視

作料も松木家から請求され、やっと工面したお に減刑の嘆願の上申書を出し、異例の閣議(天

金で示談を申し込みましたが拒否されてしまい 皇の御前会議)で減刑され、死刑の4人も無期

ました。 懲役に、その他の人も減刑されました。さらに

窮地に追い詰められた農民は明治11年10 恩赦などで、一番長い人でも14年で出所出来ま

月26日、四之宮にあった鹿見堂(次号で紹介 した。(獄中で一人病死)

予定)の近くと北向き観音の附近で暗殺を企て 一揆の発端は、借金の担保の土地の名義換え

ましたが成功しませんでした。 ですが、一揆のメンバーは、大工、医者、借金

農民側は警察への通報を恐れ、その日の内に をしていない農民もおり、村一体となり、乗っ

松木邸に討ち入る事を決め、予め血判状で誓っ 取りの恐怖への対応と、強い義侠心でなされた

ていた冠弥右衛門ら26名が60数戸の農民に ものです。

【村民が危機感や疑問をもった主な事業】一揆は反感と村壊滅の恐怖もありました。

①借金の担保の土地を松木名義にした。②村の共有地の名義を松木名義にした。

③学校の先生は弟とし、高賃金とした。④むずかし堀りを拡張し、石橋を無くした。

⑤養蚕の導入で貸し地の返還を求めた。⑥神社統合を村民の反対を押し切り実行。

【四之宮と「松木長右衛門」の主な関わり】

①有章館と四之宮小学校の設立。 ②むずかし堀りの拡幅(四之宮は反対)③養蚕の普及

④長右衛門が四之宮の戸長を一時兼任 ⑤鹿見堂と北向き観音が暗殺の舞台(失敗)

⑥伊藤音五郎は松木家や犠牲者を弔うため息子を出家させ高林寺の住職にした。

✎四之宮まめ知識 「鹿見堂と箸立の森」 記事提供:四之宮郷土史同好会

平塚・厚木線バス通り、上郷の田村掘に掛か 現在の鹿見堂橋の近く(東方)には同じく徳

る橋を「鹿見堂橋」(ししみどうはし)といいます。 川家康にまつわる「箸立の森」がありました。

林町の一部の旧地名に「鹿見堂」があります。 これも徳川家康がこの地にさしかかり、腰

鹿見堂は、現在はありませんが、どこに、い を下ろしてお弁当を食べました。使用した箸

つ頃あったのでしょうか。 をそこに差しておいたところ、根が出て森に

言い伝えによりますと、徳川家康が鷹狩りに なったと言い伝えられているものです。

来て、お堂で休憩をしたときに鹿を見たので、 箸の材料は、杉と言い伝えられております

このお堂を「鹿見堂」といったと言い伝えられ が、「吾等が郷土」のよりますと昭和の初期に

ています。家康の鷹狩りは、約400年前です は、胴回り約75cmのカツの木の枯れ木が

ので、お堂は江戸時代初期には存在していたこ 保存されていたそうです。(カツの木とはうるしの

とになります。 仲間)

明治11年の松木長右衛門の待ち伏せの記録 明治の初期、この森は広さ約400㎡で、胴

では、お堂の記述はなく、「鹿見堂の林」であ 回り約150cmの雑木の大木が生い茂り、

り、したがって江戸時代に存在した御堂の伝説 鬱蒼(うっそう)としており、ここに徳川家康

ということになります。どこにあったかは、中 にちなみ「権現様」の碑が建てられていたそ

庭の岩田家に残る江戸時代の絵地図によります うです。

と、現在の鹿見堂橋の南西方向の釣り具屋さん

や御蕎麦屋さんのある近辺のようです。

鹿見堂については、言い伝えはありましたが、

「大野誌」や「吾等が郷土」には記載されてお

りません。「四之宮歴史かるた」作成時、「鹿見

堂」を取り上げるか迷いましたが、もし「箸立

の森」のお堂と混同していると困るので、「歴

史かるた」の題材としませんでした。

今回、江戸時代の絵図により、双方のお堂が

別々に記載されており、鹿見堂が確認できたの

で、ここに取り上げさせていただきました。

中原に徳川家康の鷹狩り用の御殿があったの

で、通り道の四之宮には「四之宮の渡しの逆さ

船」等と共に、家康にまつわる伝説が多く残さ

ています。

✎四之宮まめ知識 「四之宮の草競馬」 記事提供:四之宮郷土史同好会

昔、四之宮で農耕や運搬に使っていた頃、そ いつ頃実施されていた行事かについては、

の馬で草競馬が行われていました。 昭和8年発行の「吾等が郷土」(大野第一尋常高

8月10日の北向き観音の縁日の日限定で会 等小学校)によりますと、既に過去形になって

場は北向き観音から大念寺前までの直線約22 おり、また、いつの時代かの記述はなく、残

0mで行われていました。 念ですが判りませんでした。

この会場は「観音馬場」といわれていました。 余談ですが、国道新設で転居されましたが、

現在の市道のバス通りです。 大念寺の門前に「立場」(たてば)と呼ばれた

そもそも四之宮は砂丘地帯で水田が少なく、 お店がありました。立場は「街道などで人夫

また、山林もなく木材の運搬もないので、農耕 が休息する茶屋」を示す呼び名であり、ここ

や運搬には馬より牛が多く使われていました。 が馬場のゴール地点近くなので、馬場に関連

娯楽といえば、お正月、お盆、神社の祭礼等 があったかもしれません。

であった時代、お盆の娯楽の一つとして数少な

い農耕馬を使って楽しんだイベントだったので

しょう。 「土蹴った、昔の馬場は今バス通り」

✎四之宮まめ知識 「相模の国の五の宮を探る」 記事提供:四之宮郷土史同好会

我が四之宮の地名は、皆様ご存知の通り氏神 そんな折、五の宮が他にもあるという情報か

様の前鳥神社が相模の国の四の宮であるからで ら、郷土史同好会メンバーでその神社を巡り、

す。この数字は、昔、天皇のお使いが相模の国 由緒書きを確認してきました。

の由緒ある神社に祭りや連絡文書等を持ってき まず、津久井方面での情報から、相模湖の上

た時に回る順序で、これが地名にもなりました。 流部の石楯尾神社(いわたてをのじんじゃ)で

相模の国の一の宮は、寒川の「寒川神社」、 は、延喜式内社で古くから由緒ある神社である

二の宮は、二宮町の「川匂神社」、三の宮は、 とは記述されておりましたが、相模五の宮の記

伊勢原市の「比々多神社」、五の宮は、平塚の 述はありませんでした。

「平塚八幡宮」です。しかし、「平塚八幡宮」 次に厚木方面で情報があった海老名市の有鹿

の五の宮は唯一地名を使っておりません。また 神社(あるかじんじゃ)に行きました。相模川

、延喜年間(約1,100年前)に作られた全 畔で昔の国府跡に近いこの神社では、ここも延

国の主要神社の名簿に、相模の国の神社も13 喜式内社で「相模五宮として人々の崇敬を集め

の神社が登録されており、一の宮から四の宮は た」との記述が門前の由緒書きの看板にありま

入っておりますが、「平塚八幡宮」は入っており した。

ません。(この名簿を延喜式神名帳といい、全国 このことは、五の宮の地名はないものの、延

2,861社が登載され、この登載神社を延喜 喜式内社である有鹿神社は、昔の相模の五の宮

式内社といいます。) であったのでしょう。なお、平塚八幡宮がいつ

「氏神様 四之宮みつめて 16世紀を超え」 五の宮になったかは判りませんでした。

有鹿神社 由緒書(部分)