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四0
(八七二)
中国共産党の成立より二七惨案まで
中
国
近
代
史
臨句
の
一
、
天
野
助
之
フじ
一、中国共産党の成立
一九一七年十月革命に勝利したソ連は、一九年七月二十五日附、中国人民
・西南政府(山令春燈)および北京政府(徐世昌)
に対し、
「第一次対華宣ニ一一己HH
「レォ
・カラハン
(55Eロ)宣言」を発し、
(①引八六八ページ、②二二五l
一三八ペ
ージ)
この
2日一二一一口」は、当時レベリアにおける混乱状態のため、かなり遅れて翌二
O年三月二十六日中国に淫したという。
(③二一ぺ
iν〉
一切の権益(中東鉄路
・鉱山・森林
・金般利権
・組界等々)
を返還
ツァ
i時代に結んた不平等条約を取り消し(無放を宣言)、
し、団匪賠償金を放棄し、全く平等の立場て正式に国交を恢復する用意のあることを表明した。そして此の宣言が一度新
聞に発表されるや、全国各団休・新聞等から熱烈な歓迎をうけたのである。
かの「新青年」第七巻第六号(一九二
O年五月一日刊)は、
「対於俄羅斯労農政府通告的輿論」を附録におさめ、
まず「通告」すなわち「カラハン宣言」の訳文をのせ、ついで下の如き各団体の答覆文を載録す。
(一)全国報界併
ムロ会、
(二)全国各界併合会、
(三)全国学生肌合会、
(四)上海各界併合会、
(五)寧、波同郷会、
(六)上海各馬
路商界併合会、
(七〉国会議員、
(八〉杭州学生研合会、
(九)商界救国商回、
(十)中華労動公会、
一卜
〔上
海〕
学生併合会等十七回休、
(十二)中華救国十人団併合会、
(十三)中華実業協会、
(十四〉旅沼四川同郷会、
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、
J
aF6ltfirruH1rI帥
unnh明付rdHHγtop-M
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pt川川い
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〆IFIJιbFhv
局は閉償o
蒙古・満洲をふくむ中国各地の領事館は接収。
ピンや中東鉄路沿線都市におけるロレアの市政府は、これ叉中国の支配下におかれ、そして中国人官吏がロ
νア人の
漢口。天津の
ロレア租界は、
中国の行政下におかれ、
ノ¥
ノレ
(十五)四川旅渇餅合会。(
五)
「天津益世報」
、
「上海星期評論」一
、二、
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'--ノ
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-・・田園ー・-
¥ーノ
「上海時事新報」
、..........._
一--ー・圃園,
¥ーノ
「上海救国日報」、
(四)
「上海
さらに各報の言論として、
学生朕合会日刊」
、
/ー¥.J,...-
ノ¥
'-ノ
「上海正報」
、
(七)
「上海民国日報」
-・-、・園田・4・
一、
(入)
「北京農報」
の論説をかかげている。
このうち全国各界耕合会の答覆文および「天津益世報」
の論説は、
胡華の編し
た「中国新民主主義革命史参考資料」
(一九五一年刊)
のなかに輯めらる。
モスコウ派遣。
ついで九月二十三日、中国大総統徐世昌は中国に在る元ロ
νア公使(クダゼブ公)
ソ連使節イグナチウス
・ユlリン
(同拘束共和国代表)
の来京、
張士麟(斯騨)の軍事貿易使節団の
一九二
O年八月下旬、
-領事の承認を停止する
~
回目の
命令を発し、
かっ中国にあるロレアの権益を接収して、直接管理下におくことに成功した。
中国の他の地方にあるロレアの郵便
ロ
νア公使館と北京交民巷の兵営
・郵便局は、
外交団の管理下におかれたが、
裁判権を管轄o
暫定措置として中東鉄路沿線に特別裁判管轄区域を設け、
ことを認む。
ロ
νア人の法律家が弁護士として行動する
し
f、刀、一九二
O年十月二日中国交通部と露亜銀行と
ちなみに中東鉄路に対する支配権は、すでに事実上回復して〉こミ
.
(④三
Oi三一ページ)
(③二八ページ)
の聞に協定成立し、正式に中国の手に委ねらる。
なお一九二
O年九月二十七日附、
「第二次対華宣言」が、当時モスコ
i訪問中の張士麟使節団長に手渡されているo
その全文は、①八七一
l七二ぺ
iνにみゆ。
一変して官民ともに好意を示すこととなり、中国の急進的インテリは、ようやく社
これよりして、中国の対ソ態度は、
会主義思想を受容しはじめた。
四
(入七三)
、
中園共産党の成立より二七惨案まで
1
四二
中園共産党の成立より二七惨案まで
(八七四)
これより先、
ロレアの十月革命の影響を受けて、
一九一八年三月陳独秀(仲甫)
-李大剣(守常)
-張窓年らは、学生羅
章龍・郵中夏
・劉仁静
・黄日葵らとともに、
北京大学に馬克思主義研究会を設け、表面は学術研究の団体であったが、
一九一二年十一月十七日附「北京大学発起馬克斯学説研究会啓事」によれば、現在われらは、すでに同志十九人を
有すとして、その名を列記す。そして翌二十二年二月には、会員六十三人に増加す。(⑤一
00、一
O一ページ)
また李大剣の提唱で、戦闘的青年を養成するため、
一九一八年六月三十日北京の岳雲別霊で少年中国学会の設立が
準備され、季に按じて「会務報告」を出し、李大剣を公推して編輯に任ずることを決定した。そしてこの組織を通じ
て、
越世炎
・惇代英・沈津民等々の党員を鍛練したという。
一九年の五四運動に際して、中心指導者の地位に立つほどの急進分子を擁し、やがて中国共産党の母体たる任務を果す
(⑥三ページ)
こととなった。⑦
一九一九年三月、郵巾夏の提唱で、北大学生が北京大学平民教育講演団を組織し(初めは団員四十一人)、四月よ
り日曜日ごとに城内四カ処で政治問題や一般科学常識を講演し、翌二
O年の初めから、近郊の豊台
・長辛庖
・通豚ま
で拡大し、とりわけ北大学生たちは、専ら京、漢・京泰銭路沿線で労働者に向って宣伝をやってきた。
(③、⑨二ニ七
i
一三九ページ)
なお一九一八年一月以来、陳独秀・銭玄同・沈苛ノ黙・李大針・劉復・胡適の六人の共同編集となった「新青年」は、翌
一九年四月胡適の「実験主義」を登載した翌月すなわち五四運動の発生したその月である111
「馬克思学説専号」と
も見るべきものを出したのである。
陳啓修(豹
本号(第六巻第五号)に登載された論文は、一風兆熊の「馬克思学説」
、凌霜の「馬克思学説的批評」、
隠)の「馬克回心的唯物史観与貞操問題」
、淵泉の「馬克思的唯物史観」
、全「馬克思奮闘的生涯」
、
劉乗麟の「馬克
¢F内・百μ目aJ#ギ』抜答品F
調初仲
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尚
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1
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、
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H
、hh町m
H
思伝略」、李大剣の「我的馬克思主義観(上)」の七篇である。
ちなみに「新青年」は、その後半年休刊して、
一九一九年十一月第六号を出し、翌二
O年五月の第七巻第六号から、
馬克斯主義学会の機関誌に改まり⑩、同号は「労動節紀念号」と題して、
前記「対於俄羅斯労農政府通告的輿論」を附載している。
各地の労働状況調査を登載するとともに、
• -
すなわちこれと相前後して、マルクス主義の論著の翻評をはじめ、その紹介や社会主義の宣伝文献が績出してきた。
たとえばマルクス
・エンゲルスの「共産党宣言」は、李大剣の主宰する「毎週評論」第十六号(一
九
一九年四月六
日発行)にその抄訳が出、
ついで翌二
O年四月上海で陳望道の全訳が出版。同月エンゲルスの「空想的社会主義より
また同年カウツキ
l
(桐祖基)の「階級争開」が惇代英によっ
て訳出され、
一九一二々には広州人民出版社かマルクスの「工銭、労動与資本」の京譲訳本を出した。(なお
一九二二年二月六日
科学的社会主義」
の後半が出版された。
の「馬克思学説研究会通告」には、李漢俊(激石)訳「馬克思資木論入門」
、李達訳「馬克思経済学説」
、李季訳「社
会主義史」、李季訳「社会問題詳解」や、
レニンの「労農会之建設」
、
「討論進行計劃書」
の名がみゆ(⑤
レニンの
一O四ぺ
iν〉
0
また一九二
O年十一月七日より、秘密出版「共産党」
(月刊)を発刊して、第三インターや各国共産党の歴史現状、
その中に「園家与革命」の一部が誇載されたという。
(⑨六一
、八一
l入二ペ
ージ)
レニンの著書の訳文
なお研究系(がんらい清末の君主立憲派で、辛亥革命後、進歩党と改称して裳世凱の御用党に化し、支の死後には北洋軍閥にく
つついた地主
・買弁、フルの政客から構成せらる)の機関誌北京
ロ
ン
ア
「地底的俄羅斯」
「日辰報」副鋳(主編孫伏園)も、
「馬克思研究」専欄を設
。河上肇「馬克思的唯物史観」
「労動与資本」
けており、家湖氏によれば、
「俄園革命史」
•
•
•
カウツキ!
「馬克思資本論解説」
(コミンテルン第一次大会の文件)等々が連載されたという。
•
「新共産業宣言」
(⑬三五ペ
iジ)
中園共産党の成立より二七惨案まで
四三
(八七五)
...
中園共産党の成立より二七惨案まで
四四
(八七六〉
かくて一九二
O年五月には、
グループ
上海に共産主義〔者)小租(細胞V
が
その前年四月北京大学を逐われた陳独秀らによって、
つくられ、八
月十五日より週刊「労動界」を発行。
つづいて九月北京に、
十月革命節より週刊「労動音」を発行、
のち「仁声」と改称。
年末には庚州に、
二月十三日より週刊「労動持」
•
「労動与婦女」を発行。
パリ
l等に、それぞれ共産主義者小組がつくられ、
さらに武漢、長沙、済南、杭州、東京、
当時、その名称は、統一されず、
「馬克思主義研究会」と称したものもある。
北京では李大剣、
武・陳漕秋、長沙は毛沢東・何叔衡、済南は王燐美であった。
上海では陳独秀・劉少奇、
広州は陳独秀、武漢は董必
ちなみにこの小組のオルガナイザーは、
なお劉少奇は上海で、郵中夏および張太雷は河北の長辛庖で、それぞれ労動補習学校をはじめ、労働者に対しマル
クス・レニン主義の教育をやり出した。
,
八月⑫上海小組によって「中国社会主義青年団」
(S・Y)がつくられた。
• •
それは、陳独秀
・食秀松・楊明斎ら⑬八人の青年社会主義者が集まって、第三国際から、派遣されたヴォイチンスキ
ーの協力をえて(⑪四六ぺ
lν)、この団休を組織し、食秀松が書記となったもので、そのなかにはマルキストあり、
サノジ力リスト
キルド社会主義者あり、工団主義者がおり、
アナーキストあり、
一九一二年三月その第四次大会か北京大学第二院で
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、、・弘、h
句、、円ha
司、
聞かれたときには、団員五十五人に増加し、
その席上、
張国薫が選ばれて書記委員、劉仁静が会計委員、顧文華
・高尚
徳
・郡某か組織委員、宋約
・王伯岩その他一
人か教育委員、李大剣
・鄭振鐸その他一人が出版委員となっ
ている。⑬
一九二二年五月、はじめて第一回全国大会が広州で開かれ、この席上共産党以外の異分子が、非常な激論をしたす
え、ことごとく離脱し、
(⑬四七ペ
ージ)
のちに上海工圏耕合会の幹部として活躍するのである。
そして一九二五年二月の第三回全国大会時には、二、三六五人の青年団員を有するとともに、
「中国共産主義青年
団」と改称する。⑫⑬
コミンテルン
ゎ。gg古gg(のむきさロ巳23Nぬき山江O
ロと・共産国際
・第三国際l一九一九年三月モスコ
iで成立〉
グオイチンスキー
遠東部秘書
。-Z・〈oEgS(威金斯克)夫妻が来華しハ北京で李大剣に会い、
さらに李の紹介で九月上海で陳独秀に会
い、フランス租界霞飛路漁洋里二号陳宅(「新青年」総編輯処がおかれていた)で陳ら十数人と、秘密裡に中国共産党創立準
一九二
O年三月、
備会を開く。
-李漢俊(六高留学生)
-陳望道
・裁季陶
・
この出席者について、大塚令三君は陳独秀
・張東諜(上海時事新報主筆)
波多野乾一氏は上記七人のほかに、院
施存統
・楊明斎の七名のほか、沈玄麗(定一)
-合秀松の名を示された⑬が、
晴仙
・張太雷
・周併海(七高留学生)
・初力子
(上海民国日報主筆)を挙げられている。⑬
この席上、
機関誌「共産禁
3EC5555)」の発行を、決定、
さらに当面の目標として、付
圏内工作として労働組合の組織、それを通じての党員の獲得を議決した。⑬
ソ連留学生派遣を目指す
•
俄文(ロレア語)学校の設置、同
すなわち付のために、楊明斎を校長とする俄文学校を上海に設く。それと関連して、まず八人の学生をモスコ
!の
東方共産主義大学に派遣し、つづいて第二次
・第三次の派遣をなす。⑬
同のために、張園薫を責任者として、中国労動組合書記部が上海共同租界南成都路十九号に設置せらる。⑬
一九一二年七月一目、すでに各地で結成されていた共産党小組の代表十二名は、
中園共産党の成立より二七惨案まで
1
四五
(八七七〉
、
も下も
1
.
、
中園共産党の成立より二七惨案まで
四六
(八七八)
出席の代表者については、朱枕薪は左の十
一名としたが⑫
上海代表
李漢俊
李逮
北京代表
張園窯
劉仁静
広東代表
武漢代表
陳公博
包恵僧
陳漬秋
董必武
長沙代表
留日代表
毛津東
周併海
何叔衡
葉蜂生
ωは、このなかから包恵僧を削
って、済南代表王輩美
・部恩銘を加えて十二人とす。
〔なお胡華は、包恵僧
を入れて十三人とす⑫〕。私は、葉説に従う。それとともに、
コミンテルンの代表としてマ
lリン(馬林宮山町民ロ〉•
ニコルスキ
l
(尼可爾斯基)か、これに参加したと、朱氏はいう。⑫
ちなみにマ
lリン(⑬三四、三七ぺ
lレ〉は、
インドネレア共産党組織をつくったオランダ人で、
かれは一九二一年
コミンテルンの対事政策決定のための情報蒐集、情勢打診の目的で来華。ます北京で呉伽必ずに会い、
かれは
「中国において最も強力な軍隊をもつものは、呉だか、呉は政治というものを全く知らない」と判断し(⑨一五五ぺ
i
初頭、
~v)
、
、
ついで上海で中共一全大会に列席し、
さらに張太雷とともに広州に入り、国民党の要人と意見を交換したのち、
広西省桂林に赴き、旧桂王府で孫文と二回にわたって会見し、かれはコミンテルンと国民党との連携を力説する。
こ
れに対し、孫文は、北伐途上ソ連と連携することは、対英関係を悪化させ、北伐の前途を困難にするからと謝絶し、
たた当分の聞は、道義的連絡のみか可能たと返答したという。(⑧一六ペ
!と
なおマ
lリンは、そのあと、
一九二二年一月のホンコン海員ス卜に遭い、広州で「国民党と若い中国労働巡勤の、活
動的分子との聞に、すでに実質的な連携のあることを観てとり(⑧一七ペ
!と
、中国国民党内に革命的なものを見出
ιU6FfEEh
FqM
• • •
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-
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L
司、・
il--N・句、
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し、後述するような国民党内における国共合作をすすめることとなるのである。
上海フランス租界古抜路(蒲柏路(いまの太倉路)の博文女撃の夏休み中の校舎で⑧
こ
の
開
催
場
所
も
、
一
九
五
三
年
三
月
号
は
、
、、
「人民中国」
フランス租界の望志路一
O八号(いまの興業路七八号)として
いる。
第一次全国代表大会(「中共一全大会」)を開催、
このとき、官憲の捜査が厳しくなり、会場を漸江嘉輿の東湖に移す。
(二)党の基本任務、
(張国蒸が大会の主席、毛沢東が大会の秘書長にえらばる⑩)、
(一)中国目前の政治的局面、
席上、
(三)党章(共産党章程)、
(四〉党の中央領導機関の組織問
題か討議・決定され、臨時中央局(中央工作部⑩)メンバーを選挙し、当時広東に在った陳独秀を書記(書記長)に、張圏一一煮
を組織部主任に、李達を宣伝部主任に任じ、
大会出席者の一人陳浬秋が一九三四年発表した「中国共産党一全大会の回顧」によれば、
「一全大会当時は、日・
併中国留学生の共産主義団体をのぞけば、わずかに上海・長沙。武漢・済南に共産主義団体があったが、
都・杭州には、個々の共産主義者がいた。当時共産主義者は、すべてで数十人にすぎなかった。それで公式の中央委
員会は、組織しないことに決議されたが、個人の細胞との連絡をとるため、党中央局が組織されることになった。党
は「中国共産党」と名づけられた。臨時中央局員には、張園薫、陳独秀、李達か選、ばれ、局員候補としては周併海、
李漢俊、劉仁静が選ばれた。かくて中国共産党一全大会は終った」と。⑫
なお一全大会当時の党員数については、四十四人⑧、五十余人⑫、
南京・成
五十七人⑧⑧と諸説あり、
しかもこれら党員と
て、あらゆる種類の社会主義者から、無政府主義者、儒教的革命主義者まで含まれていた。
また「中国労動組合書記部」を正式に設立し、
,
鈴江言
一氏は、
一九一九年に成立、当時、本部は上海にあったが、事実上、活動の中心は北京であり、第一線に加
中園共産党の成立より二七惨案まで
四七
(八七九)
同一ー 二一-ー一一一一一一一一一一一一一一一一一EJ可
•
‘
中国共産党の成立より二七惨案まで
四)¥
(八八O)
わったメンバーは学生、とりわけ北京大学の学生が中心であったとされ(⑬四二ページ)、それは共産党の誕生前に、
最も重要な労働者の組織ならびに戦闘指導の機関として、名乗りをあげたもので、
成立するまでの五カ年問、与えられた任務を継続していたと。
そして此の書記部は人
一九二五年五月中華全圏総工会が
(⑬四三ページ)
一九二二年五月の第一次全図労働音大会ののち、北京に移されたのである。⑫
各地に発展せる「社会主義青年団」を、党の予備学校とすることに決定した。⑮
ところで、この席上、党の基本任務は、無産階級専政を争取するための闘争と規定し、目前の時期にあっては、必ず労
・働者階級がやブルジョア民主革命に参加し
・指導することを、積極的に号召せねばならぬとし、党の目前の中心任務は、労
働運動を発展させるにありとしたが、なお党の完全な革命綱領を制定するにいたらなかった。
(⑨、⑧三五ページ)
,
党の組織原則と党員の条件とは、
「党章」に関しては、
完全にソ連のボルレェビキ
i党の原則に照して作成され
た。⑬
かくしてここに中国共産党が、正式に成立した。しかも当初の党員は、わずかに五十余名、その大部分が.学生と知識分
子で占められ、労働者の党員は少なかったが、成立後ただちに労働運動に注目し、中国労動組合書記部(張国ぷ(特立)か
・上海・広東
・北京等にその支部を設けた。
-武漢(林育南)
-済南(王様美)
主任)がこれを指導し、湖南(毛沢東)
なお中国労動組合書記部は、その機関誌として「労動週刊」を発行す。
翌一九二二年七月、
「中共二全大会」を上海で開き⑫⑫⑧
杭州開催説⑫⑫、広州説⑬⑫あるも、私は上海説を支持する。なお五月開催説がある。
(⑫八ページ、⑩三七ページ)
党員一二三名を代表する十二人②が出席し、
•
明S
出席析には郵中夏、向警予(女)、察和森があげらる。なお⑫は、出席仔二十人とす。
政治決議案、組織決議案、婦女、運動決議案および第二次全国代表大会宣言を討論し
・決議した。すなわち「大会宣言こは、
-冒,.,Hhw
,,E,,
、
J
-・
ーで『、、
ν
・
、ー、、
し
..
はじめて中国社会の性質を、半植民地
・半封建的社会とし、中国当時の革命を、反帝
・反封建の民族・民主革命と規定し、
党の最高綱領と最低綱領とを決定し、「中国共産党は中国無産階級の政党である。その目的は、無産階級の専政を組織し、
階級闘争の手段を用いて、労農専政の政治を建立し、私有制度を鍵除し、
漸次一コの共産主義の社会に到達せねばなら
ぬ」との党の最高綱領、すなわち党の最終目的を発表するとともに、その最低綱領、すなわち党の民主革命の段階におけ
一そう
る奮闘目標を、「内乱を消除し、軍閥を打倒し、圏内の和平を建設し」
、
「国際帝国主義の圧迫を彪較し、中華民族の完
全な独立を達成し」、「中国本部を統一して、真正な民主共和国と為すにある」とし(中国共産党第二次全国大会宣言同中
国共産党的任務及其目前的奮闘)⑧⑬、そして現段階の中国革命の動力は、無産階級と貧苦の農民であり、小資産階級と民族
せいりよく
資産階級も、革命力量の
一つであるとし①、ここに
「民主革命の連合戦線政策を議決するにいたった。」⑨
えんじよ
そして「無産階級が民主主義革命を務助するのは、
無産階級の資産階級に対する投降というわけではない(中略〉。
中
ろ
う
ど
う
し
ゃ
し
ど
う
国共産党は、工人と貧農の目前の利益のために、工人を引導して、民主主義の革命運動を援助し、工人と貧農および小資
産階級をして、民主主義の耕合戦線をつくらすのである」@として、
のちの国民党への提携の用意がされている。
すなわち此の大会で、はじめて「打倒軍閥
・打倒帝国主義」のスロ
ーガンが提出され、
「宣言」は一
4
真正の民族主
義国家の統一と圏内の平和とは、軍関および国際帝国主義の圧迫を打倒するにあらざれば、永遠の建設は成功せず」
「ただ無産階級の革命勢力との合作があって、はじめて
とし、また民族民主統一戦線と民衆運動の政策を規定して、
真正の民主主義革命を速かに成功させることができる」とした。⑫
〆
なお工人および農民に対する政策目標としては、同工人と農民は、男女を問わず、各級議会
・市議会にあって無
制限の選挙権をもち、言論
・出版
・集会‘結社
・罷工の絶対自由を有すること。同
律を制定することとし、六項目の規定をかかげている。
工人
・農人及び婦女に関する法
(⑧八二|八三ペ
ージ)
ちなみに、この「大会宣言」には、民主革命が必ず無産階級によって指導されねばならぬこと、また労働者
・農民
、
' •
中園共産党の成立より二七惨案まで
四九
(八八一)
F
‘'
、
,
•
中園共産党の成立より二七惨案まで
五O
(八八二)
の政権要求と農民の土地要求がうたわれておらず、
ただ労働者・農民が民主革命に参加し、自己の権利を争取するこ
とをさけぶにすぎないと、批判されている。⑩⑫
しかし又、労働者と貧農との提携を主張し、かれらの工作が学生の指導に始まり、労働者の組織に進み、さらに良
民運動への関心をよせて来たことは、注目に値いしよう。
さらにこの席上、コミンテルンへの加入を決定、中央総書記・中央政治局書記・党報編輯委員会主席に陳独秀を、中央
宣伝部長に塵秋白を選出しだのである。
一・・園周司.、
一一七
l惨
案
当時中国の労働者階級は、二l
三百万人と称され⑫⑨、
一九一一年の辛亥革命以後、その勢力が増大し、近代的な「工
いうところによれば、一九一七年のメーデーに、広州ではデモ行進・街頭演
説・ビラまきなどが見られ、翌一八年には、陳達氏によれば、ストライキが二五次に及んでいる⑧。そして一九一九年の
・長辛庖(十人団)などの労働者が、中国史上最初の政治スト
ム玄」
(労働組合)に近い組織も現われ始め、
五四運動中に、上海(五十余の工会成立)
-唐山(職工同人会〉
をもって、反帝闘争に参加した。
毛沢東は、後年「論新民主主義」
(一九四
O年)で、この「五四」運動発生の年たる一九一九年をもづて、中国の民主革
命が、旧い民主主義革命から新しい民主主義革命に移行した転期として、重視したが、いまストライキを例にとると、
九一八年のス上と翌一九年のそれとを対比すれば、左表のごと《いちじるしい増大を示している。
一
(⑧八一
0ページ)
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スト
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.
一四八l一四九ぺ
lνにも採録せらる。
しかも
「五四」以後、労働争議は増加するばかりか、拡大し、中国共産党の成立までの時期に、ストライキの規模の最大
備考
本表は、その後、陳達氏の
「中国労工問題」一九二九年刊、
かっ発生次数の多いのは、外国人の経営する在華企業においてであった。
すなわち一
九
一九年十月七日の英米畑廠葉子車問五
OO余人の女工スト。ついで日商三新
・上海両紗廠のスト
(参
加人員約一万人)。
一九二
O年一
月日商日華紗廠九千人のスト。同年二月、
三月、九月三新紗廠の連続スト
(毎次参加人員四千人〉。
四月香港機器労働者スト
(船廠
・煤気公司
・電話公司
。電車公司
・電燈局
・水泥廠等五、六千人以上)。
一九一二年中国共産党の成立以来、党では労働者とくに帝国主義支配の強い交通労働者に対し、工作をすすめ、労働者
ついに翌二二年一
月十二日、物価騰貴に対する賃銀値上げ、ならびに中外人
給料(薪額)の不平等是正要求の無視から、蘇兆徴の指導するホンコン中華海員工業併合会(一九一二
年設立)の八週間
(一
の組織化とともに、その経済闘争を展開し、
月十三日より三月八日まで)にわたる二三、
000人の大ストとなり、
一月末には、ホンコン運輸労働者の同情ストがおこなわれて、
ホンコン総督は、中国海員工会の解散を命、ず。
二ハムハ隻(二八
O、四O四ト
ン)の外国船が、
スト人員は三O、
000人以上となり、
二月
一目、
一一月中旬には、
ホンコン埠頭で釘づけになり、船会社の直接経済的
中園共産党の成立より二七惨案まで
五一
(八八三)
中園共産党の成立より二七惨案まで
五二
(八八四)
損失五
OO万元と推定せらる。⑧
二月末、ホンコン全市の労働者がゼネストの準備をするや、
ホンコン政庁は戒厳令をしき、
イギリスの在華軍艦をホンコンに集中し、
これを阻止せんとしたが、
ついに全市の大スト(六O、000人参加)を惹起したのである⑫。が、三月に入って、陳畑明・
0
イギリス領事・広州総商会らの調停を得、二月一日に出された封閉海員工会の命令取消、逮捕工人の釈放、
一五l
三Oゐ
の加薪(賃銀増加〉を獲得して、労働者側の大勝利で幕を閉ちたのである。
ホンコンのイキリス当局か、取りはすした労働組合の表札を恭しく返してき、それが一
O万余人の熱烈な注視を浴
びなから静かに懸けられたとき、歓喜の声か雷のように湧きおこり、爆竹は天に轟き、その声は全ホンコンをふるわ
せ、こうしてストライキは完全に勝利したと、胡華は言う。
(⑫三入l三九ページ〉
一九二二年
この闘争力と勝利とは、雨後の笥のごとく労働者の組織を発展させ、中国労動組合書記部の斡旋によって、
五月一日|五日まで広州で、全国十二城市の組織労働者(一
OO余工会)二七万を代表する一六二人によって「第一次全国
労動者大会」が聞かれるにいたった。だか、この大会は、完全な指導勢力下における組合の全国代表大会では無く、組合
(⑬二九三ぺ
lレ)でも知られるように、全国各派の集合した組合会議であったので、大会席上、
書記部の「通知」
マルク
ス主義派と工団主義派(アナルコ・サンデイカリズムの思想を受けた黄色組合)との間に指導権をめぐって争われ、
か中途で会議を脱退する事件を惹起した。⑧
ついに後者
しかし席上、労働者の民主革命への参加・全国総工会の結成等の問題を討論し、全国的中央機関の設立をなす一切の工
作を組合書記部に依嘱し⑬、またそこを全国工人団体の通訊処(連絡処)ときめた。
すてに上述のスト闘争のなかで、労働者たちは軍閥と帝国主義の圧迫を受けたことから、かれらに政治的自由の重要さ
を理解させた。このため八月に入って、労動組合書記部は、
「労動法草案」十九条を起草し、全国の新聞雑誌に発表、労
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l
1
3
J
、d
、、
‘・
司
'
, 働者の法律上の地位の保障、たとえばかれらの集会
・結社
・罷工の自由の承認、団体契約締結の允許、労働者を束縛する
治安警察法の廃除、罷工刑法の取消等を、政府に要求した。
もちろんこうした要求
・運動は、伺喝と圧迫の下に斥けられたが、労働者の政治的自由を闘いとろうとの要求は、
切実なものとなって来た。②
それから一年有余寸労働者の組織と運動とは急速に発展し、とりわけストライキは、全国主要工場
・礎山・
鉄道にほとん
ど全般的に見られたのてある。
中国におけるストライキ年表⑧
一回平均
スト人員人
二、四二八
スート回日平
日 数均
ストライキ
回
数
回四六
年
次
主
要
な
も
の
一九二
O年
七
・一四
開際炭積スト
一万人
・香港機器工人スト五
・五千人
一九二一年
四九
四、九一
O
七
・三八
血勺漢路
・臨海路
・開平山灰破、英米畑工廠スト
一九二二年
。
九
四、六三五
七
・三七
香港海員
・開際五破・水口山鉛鉾破スト
一九二三年
四七
、
一O八
六
・三八
京、漢ス
ト
,
五ノ¥
一九二四年
三、四三七
九・
二七
一九二五年
一八三
三、九
一六
五
{蒲
考
×
コ
二
八
三
、六一二
×は、五刑事件を含めた数を示す。
一八
・八八
胡適らの「努力」週報第五三
・五四期(一九二三年五月二
0・二七日)楊鈴「中国最近罷工問題之分析与補救」によれ
ば、ストの全盛期(一九二二年九月より十二月までの四カ月)に発生したス
ト総数四一
、参加人員一四五、七八
O人、
そ
4
中国共産党の成立より二七惨案まで
五
(八八五)
a 6
、
園匝E"-~一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一ー一一一一一一一一一一一一一
中国共産党の成立より二七惨案まで
五四
(八八六)
のうち五六
・六形は勝利、
一八
・四銘は
一部勝利、
二五
・一銘が失敗と報じ、そのストの原因は、賃銀増加が七
0・
九第、工頭反対および他処のストに響応かそれぞれ一二
・二Mm
、工会承認の要求が四
・七M
初である。
すなわち之によ
っても知られる如く、労働ストの多数は勝利をおさめ、このことが労働組合の組織化に役立ったの
である。
ところか、
一九二三年二月になると、労働運動の最初の高潮は、軍閥のカで重大な打撃を受けるのである。すなわち二
月
一日を期して、河南省鄭州の普楽戯園で京漢鉄路総工会成立大会を開かんとて、京漢鉄路十五分会代表六五人、
各鉄路
代表六
O余人、全国各工会三
O余団体代表二ニ
O余人、武漢の男女学生および新聞界三
O余人か参集するや⑧、京漢鉄路
管理局長越継賢
・南局長漏涯の電請により、直隷軍閥呉侃宇部下の斬雲鵜第十四師か武力をもって弾圧した。
当日、
鄭州全市に緊急戒厳令かしかれ、兵士か実弾をこめて、街に沿うて誼んたなかを、十時に軍楽隊を先導に、
工会代表か五洲大旅枇から会場に整然と行進。ます主席より工会成立を宣言、会衆が「工会成立万歳」を高らかに叫
鄭州警察局長黄殿辰か磐田宮を率いて馳せ参じ、
間を限って自ら解散せよ」、
「反抗するものかあれば、軍法を以て事に従わん」と称し、いろいろと押問答ののち、
午後四時、各代表および各労働者は、強権には対抗しかたく、ついに早々京漢鉄路総工会の成立を宣言して、隊を組
んだとき、
呉巡師(呉侃字)の命令を奉じ「開会を准さず」、
「五分
んで会場を出たという。
(⑧五七ぺ
!ν)
かぐて京漢鉄路総工会は、
「二月三日より漢白江岸分会で事務をとり」
、
「四日正午を期して、京漢全路のスト」命令を
発したのである。そして
「京漢鉄路総工全体工人罷工官一言」に
「工友何ノ無産階級一切ノ為争自由而戦一既ノ為争人格而戦明、為争我門切身的利益而戦時ノ
「同胞何ノ我何受岡崎僚的軍閥圧迫一明ノ同胞明、為争共同的自由和利益、為打倒共同的仇入、大家眺合起来、用力援助
我何瞬、超快加入前線瞬ノ」
(⑧六二ぺ!と
a
e
uHHUL
,円hふ,
とあるごとく、
それは賃銀や労働時聞を争う経済闘争ではなく、
自由と人権とを争い、軍閥に反抗する政治闘争であった
ため、
二月七日呉伺字の部下湖北督軍粛耀南の部隊一、
000徐人が、漢口江岸工会を包閉して、労働者の大虐殺をおこ
•
治円、,、
ル/い1
、.V
4・
江岸分会委員長林祥謙ら四人を巣首し、京漢全路の工会および湖北全省工団耕合会の命令で同情ストをやった武漢三鎮の
江岸工会の調査によれば、工人死亡者三七人(そのほか溺死者二
O徐人、工人の妻女の殺されたもの四人、非工人
の死者三人)、同じく受傷者二七人と。(⑧七一ーl七六ページ)
各工会を一斉封鎖し、
また其の前夜、曹銀の部隊は、河北省の長辛庖の分会および幹部の家を襲って十一人を逮捕したが、
その翌日、
その釈放を要求した労働者との聞に争いがおこって、
死者四人、
重傷者三
O徐人、逮捕三
O徐人といった所謂
五五
(八八七)
‘
「二七惨案」か発生した。
一場の風波も、
かくて八日(九日ともいう)から、軍警の強迫下に、職場復帰を強制されて、京漢鉄路を完全に通車させ
、
軍閥の武力によって抑えてしまったのである。
こうして工会運動は、軍関の大弾圧を受けたため、広東
・湖南両省をのぞいて、各地一の工会は地下にもぐってしまい、
,
暫らくはれ刊
HJU日ドド一γ産党員は、わずかに五
O人にみたず、各地の工会は、組織ができたばかりであ
り、かっ中央幹部の機会主義的弱点を暴露して、この運動を失敗におわらせたとみている
o
(⑧一
O五l一O六ペ
ージ)
「一一七惨案」は軍闘の弾圧によって労働者側の完敗に終ったけれども、この事件は、先にも述べたJ
く中国の労働者が自由と人権とのために立ちあがった政治闘争として、最初の剖目すべき事件であり、「中国現代史教学
参考提綱」の編著者梁笑泳氏の言をかれば、孫文はこの「二七」罷工でもって、はじめて労働者階級の力の偉大さを悟り、
また共産党が成立わずか二年にしてかかる偉大な力を発揮しえたかを悟り、かれの遺嘱に「積四十年之経験、深知欲達到
これを要するに、
中国共産党の成立より二七惨案まで
中国共産党の成立より二七惨案まマ
五ムノ
(八八八)
、
此目的、必須喚起民衆」
の挫節をきたしたものの、労働音階級はあなどるべからざる政治力を形成し、
革命指導者の地位にたって、中国共産党の
の語をのこしたのではないかと(三八ページ〉0
すなわち「二七罷工」は、中国の革命運動に暫し
指導する第一次国内革命戦争へと、時代を移してゆくのである。
•
⑬ ⑬⑫ ⑬⑬⑬⑬⑫⑪⑬ ⑨ ③ ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ①
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長野朗「支那の興国運動』東亜経済調査局一九二六年刊
国内ロミ巧命日司会(VEgmwロ仏
ωoizpHωω広三日cm吋・黄文起「中国とソ連」尾上正男訳一九五七年刊
し『・〈・〉・云仰の冨
55M可¥斗円何回立内協同ロ仏〉閃円ゆ0583三件宮山口仏のOロのゆ門口山口問(リ広ロω・55・5Nゆ・
3
北京大学校史資料室輯「北京大学馬克思学説研究会」「近代史資料」一九五五年第二期
劉弄潮「十月革命対中国五四運動的鼓舞」「五四運動文輯」湖北人民出版社一九五七年刊
大塚令三「支廊共産党史」上一九問。年刊
「近代史資料」一九五五年第二期
,
丁守和、殿叙券、張伯昭「十月第命対中国革命的影響」一九五七年刊
栄孟源「中国近百年革命史略」一九五四年刊
家濁「論社会主義在中国的伝播」「近代史論叢」一九五六年刊
「中国青年」第九三期
大塚令三「支那赤色勢力の現段階」満鉄経済調査会
一九三六年刊
鈴江言一「中国解放闘争史」一九五三年刊
大塚令三「中国共産党の成立期について」「満鉄支那月誌」一九一二
O年一月号
「関謙呈文一ご楢披北洋軍事機関(廿一二)五七「近代史資料」一九五七年第五期(一
O六l一O七ペ
ージ)
劉立凱、王真「一九一九至一九二七年的中国工人、運動」一九五三年刊
波多野乾一「赤色支那の究明」一九四一年刊
外務省情報部「中間共産党一九三五年史」一九三六年刊
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⑫朱枕薪「中国共産党運動之始末」「醒獅」第一四四期
⑫葉蟻生「現代中国革命史話」一九五一年修訂本
⑫胡華「新民主主義革命史」一九五一年刊
⑧尾崎秀実「現代支那批判」
一九三六年刊
⑫
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iモフ「最新中国史」下巻加島敏雄、野田健二訳一九五三年刊
⑧
張
帆
「中国工人階級和中国共産党」
一九五四年刊
⑧梁寒泳「中国現代革命史教学参考提綱」
一九五五年刊
⑫「中国共産党歴次代表大会簡況」「人民日報」一九五六年九月十四日
⑧謬楚黄「中国共産党簡要歴史」
(初稿)一九五六年刊
⑧胡喬木「中国共産党的三十年」一九五一年刊
⑩山本秀夫、竹内孫一郎「コミンテルン対支政策の史的考察」東亜研究所一九四一年刊
⑪
胡
華
編
「中国新民主主義革命史参考資料」
一九五一年刊
⑧陳独秀「全党同志に告ぐるの室田」(一九二九年十二月十日)「満鉄支那月誌」第三四号
⑧陳達「近八年来園内罷工的分析」「清華学報」第三巻第一期一九二六年六月刊
⑧宮本通治「支那に於る最近の赤色労働組合運動に就て|第五回全国労働大会を中心として」
年刊
⑧湖北工団聯合会
・京漢鉄路総工会「二七エ仇」
一九二三年刊(「近代史資料」一
九五五年第一期におさむ)
⑧
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仲
夏
「中国職工運動簡史」
一九五三年刊
⑧
吋
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FO(VFEgo問。〈OE片山
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⑧宇野重昭「第一次国共合作成立をめぐるコミンテルンと中国共産党」「アジア研究」第六巻第三号
一九六
O年三月刊
⑮
石
川忠雄「中国共産党史研究」
一九五九年七月刊
「満鉄支那月誌」第七巻第二号一九三
O
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中国共産党の成立より二七惨案まで
、
~
五七
•
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(八八九〉