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祭文松坂『八百屋お Yaoya Oshichi ―An attempt to make Syun'ichi Ita 6 9 H H 県立新潟女子短期大学研究紀要 銘33集 1996 V { 1 2 6

祭文松坂『八百屋お七』―校注補訂瞽女唄段物集の試み ...祭文松坂「八百屋お七」一校注補訂警女唄段物集の試み・その1一 祭文松坂『八百屋お七』

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Syun'ichi Itagaki

6凛

9

H審鴨

H鼠

県立新潟女子短期大学研究紀要 銘33集  1996

〈凡例V

一 

底本に相当するものは、新潟県新発

田市教育委員会所蔵の、一九七三

 ー四年に録音された小林

ハル演奏

『八百屋お七』(全五段)録音テープ

 である。長岡系猫女小林

ハルの伝承する牲女唄は、

一九七三ー四年に

 

「警女唄記録保存琳業」として新発田古教育委員会の委嘱を受けた佐

 久間惇

一・森田国昭・橋本節子三氏が録音資料を作製しており、その歌

 詞はすでに佐久間惇

】編

『阿賀北警女と警女唄集』(一九七五年)に掲載

 されているのでそれを参照したが、再び右

の録音資料に戻

って確認作

 業を行なった。この作業による訂正は

一々注.記しなかった。

校脅に用いた資料は、これも新潟県新発田市教育委員会所蔵の、一九

 七還ー四年に録音された土田ミス(長岡系蒋女、

一九〇九ー七八)演奏

 

刷八百屋お七』(ただし「火あぶり」の段を欠く全四段)録音テープであ

 る。土田、・・スは小林

ハルと組んで旅回りをしたこともある樽女である。

 これによって小林

ハル俵承の歌詞に欠けている部分を冗漫にならない

 程度に捕

った。敦た、鈴木昭英編

「長岡警女唄集」(『畏岡市立科学博物

 館研究報告一第十四号.

{九七九年)

に載る渡辺キク伝承の歌詞(三段

 闘まで)も参照した。なお、脚注の「小林」は小林

ハル、「土田」は土田

 ミスのことである。

いずれも音声資料であるため聴き取りにくい都分があるが、前後の文

脈から妥当と思われる文句を校訂者の私意によって当てた。ただし、幾

 つかは小林

ハル本人にも成接確認した。小林

ハル女は、

一九〇〇(明治

 三鴛)年生まれで、

一九七八年に長岡系牲女唄伝承者として、国の

「記

 録作成等の措置を講ずぺき無形文化財」に指定され、九十五歳を超えた

 今もなお健在である。なお、土田ミスの文句の不明な部分は「臼」とし

 

た。

四 

「こちの人」(妻が夫を呼ぶ語)とあるぺき所を

「そちの人」とあるな

 ど、明らかに間違いと思われ.る文句は私意によって改めた。また、その

 

ほかにも疑問に思われる箇所は私意によって訂正したが、大きな改変

 

は避けた。

五 高田瞥女杉本キクイ(一八九八~

一九八三)の伝敷する

『八百屋お七』

 

の歌詞は、斎藤真

一著

『越後瞥女日記』(河出書房新社、

一九七二年刊)

 

「別冊資料・嚇女唄」に載るが、校訂において文句を多少参考としたけ

 れども、底本には採用しなか

った。長岡系讐女唄と高田系警女唄では節

 も違うが、文句にもかなり相違が見られる。全体的な印象としては、長

 岡系の唄がお七の心情を口説くように歌

ってゆくのに対して、高田系

 

の唄はどちらかと言えぽ物語の展開を叙凄的

に歌

ってゆく傾向があ

 る。

六 小林

ハル演奏のテープは全五段に分かれているが、各段の内容と分量

 とを考えて全四段に改め、各段に見出しを付けた。(讐女唄段物

の段分

 けは固定的でない。牲女たちは二〇ー三〇分程度の演奏で区切りを付

 け、

一段とする。しかも、小林

ハルの『八百屋お七師は三段目宋尾付近

 で文句に乱れがあり、そこで段区切りをして新たに四段目として語り

 出していると考えられる。)

歌詞が文語体であることから、表記はなるだけ旧仮・名遣いとした、

「1

26一。

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祭文松坂「八百屋お七」一校注補訂警女唄段物集の試み・その1一

祭文松坂『八百屋お七』

一段目(忍びの段)

 ホ 

されぽにアーよりてはこれにまた

 いつれに愚かは なけれども

 何新作の なきままに

 古き文句に候へど

 八百屋お七の 一代記

         ヰ

 事細やかには 読めねども

 あらあら

 粗々読み上げ 奉る

花のお江戸に 隠れなき

所は本郷 三丁目

五人娘に 三の筆

八百屋の娘に お七とて

歳は二八で 細眉毛

面白盛りゃ 花盛り

情け盛りや 色盛り

二十日の闇には 迷はねど、

恋路の道の 暗迷ひ

縁は異なもの

ネ      レ ぢだ

小姓の吉三に

今宥は学寮へ

賜日は学寮へ

物憂き月日を

  よなか

夜は夜中の

母と添ひ寝の

味なもの

あこがれて

忍ばうか

忍ばうかと

送りしが

      八つ時分

       てまくら

       手枕を

そよと脱け出て それなりに

ね ま き

寝間着のままで しごき帯

寝乱れ髪を 撫で上げて

さらしの手拭ひ 頬かむり

我が住む寝間を 忍び出で

危なさ怖さを 身にしみて

ふたおや

両親…様の 目を忍び

ネこまこヰでら

駒込寺へ 忍ばんと

やうやう我が家を 忍び出で

お寺を指して 急がるる

 だいもん

寺大門にも なりぬれば

通る大門道すがら

千本松原 小松原

朝日も射さない 松林

松の小枝に 鳥づくし

鳥もいろいろ をる中に

や庄がらこがら

山雀小雀に 四十雀

めう   ね

妙の音を出す ほととぎす

弟のためかは 知らねども

 はつせんやこゑ

八千八声の 声をして

鳴くほととぎすの しほらしさ

   さとワさ

お七は吉三に 焦がれては

八千八声は 鳴かねども

吉三に逢ひたい 添ひたいと

日には三度の 血の涙

       ホ

草の中にも ・虫づくし

虫もいろいろ をる中で

機織り・虫の せはしさよ

心静むる 鈴虫や

誰を待つやら 松虫は

さればに:: 古浄瑠璃の「さてもそののち」などと同

様の段物語り出しの常套文句、説経祭文の「さればにや

これはまた」に近い。「さればによりては皆様へ さらぽ

ひとくち読み上げる お聞きなされて下さいと あれ

やこれやと思へども 何新作も無きままに 筋道読み

上げ奉る とかく世の中色と欲 変はり易いは人心

染り易いは色の道花のお江戸に隠れなき」(土田).

読めねども 盲目の警女たちが「読む」という場合、そ

れは謂わば記憶の中から文句をつむぎ出す行為をいう。

小林ハルは、忘れかけていた文句を思い出そうと、小声

でまずその唄の文句を唱えてみるが、これも「読む」と

言っている。

 所は本郷三丁目 『天柏笑委集』(巻十一)では「本郷蘇

川宿」、『近世江都著聞集』(第一)では「駒込追分願行寺

門前町」、井原西鶴「好色五人女』(一六八六)では

 ロんこうのほとり

「本郷辺」とのみ。

五人娘に三の筆 世俗に、江戸の湯島天神に願掛けの名

筆を残したと伝える五人の娘。一説に、笠原(笠森)お

仙・城木屋お駒・八百屋お七・薩摩屋おきそ・能登屋お

信。紀海音『八百屋お七』に「::湯島に懸けし松竹梅

本郷お七と記し置く」とも。

 小姓の吉三 寺小姓は住持に仕えて雑用をする少年。吉

三は吉三郎の略。史実としては諸説あり。

ぴ駒込寺七西鶴剛好色五人女』では「駒込の吉祥寺」。他に

「正仙院」とも「小石川円乗寺」とも伝える。

通る大門道すがら・:・ ここから道行き。「鳥尽くし」

「虫尽くし」によってお七の心情を歌う。なお〈物尽く

し〉は磐女唄の中でよく用いられる手法。

ネ弟のためかは知らねども 盲目の兄が、邪推から親切な

鵡を殺して後悔し、悲しみのあまりホトトギスとなって

「弟恋し」と鳴くという昔話による。

八千八声  「ほと玉ぎすは夏中に八千八声鳴くといへ

り、千声ともいふ」(天明六(一七八六)年自序、松葉軒東

井編『讐喩尽』)。

虫づくし 土田ミスの文句と多少異同あり。

一2-  (125)

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県立新潟女子短期大学研究紀要 第33集 1996

せは忙

しさうにて 鳴き明かす

馬朝夕焦がるる くつわ虫

なかで憎いは きりぎりす

お七が心も 知らずして

明け暮れ恋しい 吉さん・を

思ひ切れ切れ 切れとなく

やれ情けなや きりぎりす

思ひ切らるる ことなれぽ

これまでお寺へ 忍びやせぬ

し う

性ある虫なら 聞いてたべ

そなたも役目で 鳴くであろ

鳴く商売のことなれば

ち常に鳴くなぢや なけれども

  いちや

今宥一夜は 推量して

お七が通る そのときは

鳴いてくれるな 頼むぞと

鳴くきりぎりすも 振り捨てて

さらばお寺へ 忍ばんと

かくてお専に ・なりぬれば

  ノし  り

お庫衷の雨戸に 手をかけて

そよと囲けては 忍び込み

忍び込んだよ やれ娼し

ホ                   み

忍び込んだが 茶の会の…悶

あまたお寝問の あるなかに

どれが吉三の お寝醐やら

辺りをしばらく 見廻せば

獅子はなけれど 牡丹の問

厩はなけれど 竹の闘よ

鹿はなけれど 紅薬の問

   がん

鶴…の間雁の間 通り抜け

      あふざ

夏は涼しき 扇の間

吉三の様子を 菊の間で

お七が姿ぢや なけれども

すんなりほつそり 柳の間

ホめぼモ

目細鼻高 桜の問

差し足抜き足 忍び足

やうやうなれば 学寮の

唐紙ぎはへ 立ち審りて

あひ間

の唐紙手をかけて

モ闘けんとせしが 待てしばし

このや唐紙 開けるなら

まだ添ひ…馴染まぬ 吉三さん

ヰ唐紙音で 目を覚まし

もしも吉三に 八分され

恥かかされては 一大事

昔古人の たとへには

八分されても 二分残る

残る二分にも花が咲く

その二分求めて 花咲かす

これまで思ふて 来たるのに

吉三に蓮はずで 帰られぬ

 妹背山では なけれども

岬と山とが 領分で

境の川に 隔てられ

あひ間

を流るる 吉野川

敷居の水が ままならぬ

寝てをる吉三は こがのすけ

悠がるるこの身は ひな鳥よ

                    かはい

ホ朝タ焦がるるくつわ虫・:・ このあとに、「私の可愛は

螢虫 昼は草葉で身を隠す 夜は恋路の道照す 忍び

お方のためとなる」(土田)とも。なお、史実に天和二年

十二月昔八日の大火でお七が焼け出され、翌年三月廿九

日に刑死したとすれば、頃は虫の時節ではない。

ホ常に鳴くなぢやなけれども いつも鳴くなというわけ

ではないが。

忍び込んだが茶の会の間:・・ 「茶の会の座敷へ忍び込

み 鶴の間雁の間通り抜け」(小林)。以下、 「夏は涼し

き扇の間」まで土田の・文句を参考に補訂。

さ獅子はなけれど牡丹の間:: 以下、部屋尽くし。

 目細鼻高桜の問 目細、鼻高、桜色と続く。「目細く、45

高く、顔色の桜色なるが、美相なりとの義」(明治三九年

刊岡鯉諺辞典』)。

ホ開けんとせしが待てしばし 「…待てしぼし」の類の文

句は牲女唄の常套文句。

唐紙音で目を覚まし・:・ この次に、「見つけられたら

何とせう どうせうそよと娘子は 小首をかたげて思

案する」(土田)とも。

八分されても二分残る 諺.「俗語に人を拙斥する事を

はちぶと云ふ」(村田了阿編用増補狸言集覧』)

 妹背山ではなけれども 近松半二等合侮の浄瑠璃『妹背

山婦女庭訓』(明和八(一七七一)年、大坂竹本座初演)。

ここはとりわけその董段目「山の段」。吉野川を隔てた

         びヰどり   こ が のすけ

仇敵同士の家の恋人、號鳥と久我之助の悲恋物語。

陣と山とが領分で 右の「妹背山婦女庭訓扁をふまえて

吉野川を隔てた雛鳥と久我之助二人の親の領地が妹山

と背山に分かれている意。「山と山とが領分の、境の川

に隔てられ、物猛かはす事さへもならぬ験身の僅なら

ぬ」(「山の段」)。

鼓居の水 「水」はこの場合、溝とあるべきところ。吉

野川の縁で、溝を川の水に見立てた。以下数句、土田の

文句を参考に補訂。

一3-一  (124)

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祭文松坂f八百屋お七」一狡注補訂警女唄段物集の試み・その1一

これまで通ひ 忍び来て

この唐紙の 開かぬのは

何神様の お者めぞ

さらば神々 頼まんと

串  ぴがし

一つ東の あづまや様

二つふたこの 明神様

三つ三島の

四つ信濃の

五つ出雲の

六つ六道の

七つななごの

  やはた

八つ八幡の

九つここで

十はところの

紀州の国に

な さ  こほり  か

名草の郡 加太が浦

淡島様と 言ふ神は

をなご

女子一代の 守り神

腰からしもの 病気なら

何なりともかなはせあるとのこ誓願

わたしが士旦二に 惚れたのも

          しも

これもやはり腰から下の 病気ぞへ

これのお申し 淡島様

ホ                せいりさ

どうぞあなたの こ勢力で

この唐紙の 開くやうに

開いたばかりぢや つまらない

吉三と話の できるやうに

話ばかりぢや つまらない

吉三としつぼり 添ひ寝して

薬師様

善光寺

色神様

お地蔵様

 天神様

ほちまん

八幡様

思案ある

 鎮守様

隠れなき

うまく楽しみ できるやうに

うまく楽しみ できたなら

そのまま命が 終はるとも

厭ふ心は さらになし

ネ   ひやうま

悪七兵衛 景清は

詰めの牢さへ 破るのに

唐紙一重が ままならぬ

をなごここ 

女子心の 恐ろしさ

これも世上の 讐へなる

         はり

親の教へる 縫ひ針や

読み書きなぞは 覚へずに

親の教へぬ

色の道には

ホ島田の油を

唐紙敷居に

あひ間

の唐紙

大胆な

智恵がつく

硫き取りて

すりこんで

     そよと開け

横身になつて そつと入り

開けし唐紙 はたと閉め

忍び込んだよ

忍びし座敷を

あまた出家も

がくざん様も

鐘つくお方も

ほんにお寺と

西瓜畑ぢや

丸い頭が

やれ嬉し

見てあれば

寝てござる

寝てござる

寝てござる

いふものは

     なけれども

    ごろしやらと

さても一座の 上様へ

まだ行く末は 程長い

読あば理会も 分かれども

一つ東のあづまや様・:・以下、色事に霊験のある神仏

を列挙する、いわば祭文の神降ろしの文句でもあるが、

また俗謡的な数え唄ともなっている。具体的な土地との

闘係は未騨なものが多い。「出雲の色神様」は緑結びの

神、また「薬師」には色薬師などがあり、「地蔵」には艶

書地蔵・文使地蔵などがある。

り九つここで思案ある次の数句、土田の文句を参考に補

訂。

ホ淡島様 和歌山市加太の粟島神社に祭られる神。この神

は各地に祭られ、淡島講もあって婦人病や安産の守り神

として広く民間の信仰を集めている。

などうぞあなたのこ勢力で 次に「病本復させてたぺ」(土

田)とも。

悪七兵衛景清は 源氏に復欝を企てる平家の残党景清

は、いったん捕らえられて狭い詰牢に入れられるが、大

力を出して牢を破る話による。「景清」は警女唄の段物に

もある。

色の道には智恵がつく 諺。他に不明。

島田の油 島田髭に結った髪の油。島田髭は未婚女性の

髪型で、「ふり袖は島田なるべし」(『我衣」)とされた。

がくざん様 警女唄の段物では唐突に登場する人物で

あるが、都一中の浄瑠璃『八百やお七』(内題『八百屋お

七物語』)には、お七に横恋慕する「かくざん坊」が登場

する。

ホほんにお寺といふものは 以下、土田の文句で補訂。

さても一座の上様へ:: 途中の段切りの定型文句。末

尾以外の途中の段に入れて休止とする。この場合は、聴

衆が続きを聴きたいと望んでいるときの文句である。こ

のほか、例えぽ物語の途中で演奏を終了する場合は、「さ

ても一座の上様へ まだ行く末はあるけれど 下手な

長読み飽きがくる まつはこれにて段のきり」と歌い納

める。

ホ読めば理会も分かれども 「理会 (小説語Yえとくする

こと也」(村田了阿編『増補哩雪日集覧」)。

 4-{123)

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県立新潟女子短期大学研究紀要 第33集 】996

一息入れて 次の段

二段目(口説きの段)

差し足抜き足 忍び足

やうやう吉三の お寝間なる

枕の元へと 立ち寄りて

        よへざし

髪に挿したる 前挿で

ネ  あかし

眠る灯を 掻き照らし

吉三の寝姿 うちながめ

さてもきれいな 吉三さん

          とのこ

常に見てさへ よい殿御

まして寝姿優しやな

お七が惚れるも 無理はない

      ぬれぽ

髪は鳥の 濡羽色

ホすみ角

前髪に 大たぶさ

あのもみあげの 美しさ

ホ なりひゐ    とのこ

今・業平の 殿御ぶり

   をなご

とても女子に 生まれたなら

   よ

この様なきれいな 吉さんと

こちの人よ 女房よと

言鳳れて三日も 那らしたい

学問疲れか 知らねども

または良き夢 見しやんすか

白川夜胎で 寝てござる

   かゆい

のお可愛やと すり寄りて

をなご

女子に博勇は 加けれども

袖から袖に 手を入れて

耳に口をば あてられて

      ヰあぽさく も

軒端を伝ふ 牌世蜘 蛛の

糸より細き 声をして

これのおいかに 士E二さん

わたしやお前に あこがれて

牛ち酔う

夜中も厭はず来た程に

ちと目覚まして

こちらへ向いて

呼び起こされて

ふと目を覚まし

ホ女子禁制の

夜更けて女子の

七つ下がりて

ホ女子なんぞは

忍び込んだる

迷ひ変化の

さつねたぬコ    わざ

狐狸の

いかなる迷ひの

正体現はせ

守り刀に

准つばもと

下しやんせ

下さいと

吉三さん

起き直り

 この学寮

   声がする

   この寺へ

     やち中う

   この夜中に

  その者は

 物なるか

業なるか

   物なるや

 くれんぞと

手をかけて

鍔元くつろげ

お七はそれを

申し上げます

迷ひが迷ひで

わたしやお前に

いつぞや本郷

われらが察も

家作成就を 致すうち

親子三人 もろともに

この寺門前 仮住居

いたりしが

見るよりも

吉三さん

ござんする

 迷ふてきた

焼け出され

類火にて

ホ差し足抜き足・:・ 以下三行、土田の文句によって補

う。ネ

          おりめけ んどん

眠る灯を  「有明行灯」(渡辺キク)

さ角前髪 前髪の生え際を角張って剃った感じの元服前

の少年の髪型。「頭布で頭は見えねども角蘭髪のお小姓

らしい」(近松『夕霧阿波鳴渡』)。「::二折り崩しにし

やんと結ひ」(渡辺キク)とも。

ホ今業平の殿御ぷり 在原業平を今に出現させたような

いい男振りの山慈。この次に、「わたしが惚れたも無理はな

い                     かにわ

好いた吉三と添ひ遂げて 長の月日が送りたい のお可愛

やとすり寄りて 袖から袖へ手を入れて」(土田)とも。

ゆ白川夜船 ぐっすり寝込んださま。

ホ袖から袖に手を入れて 牛馬を売買する鯨労が袖の下

で取り引きする習慣をさす。

ホ                        さ さがに

笹蜘蛛の 蜘蛛のことだが、「細小蟹」が正しい。「細小

蟹」は蜘蛛の雅名。

これのおいかに吉三さん この次に、「あなたはその様

                   ゆし

にうたた寝て 風邪でも引いたらどうなさる 主が風

邪引きやどもならぬ(~) お目覚まされてくだしやん

せ こちらへ向いて給はれと」(土田)とも。

ホ女子禁制のこの学寮 以下二行土田の文句で補う.

 女子なんぞはこの夜中に この次に、「女子禁制のこの

学寮夜更けて女子の声がする狐狸の業わいの ふ

すまの辺りに住ひなす 魔性変化の奴ぼらが 吉三の

性根薫はんと 夜更けてこの座へ参りたる 正体現は

せくれんぞと」(土田)とも。

ゆ鍔元くつろげ 鍔元を押し広げて刀を抜きやすくする

動作。

わたしやお前に迷ふてきた 以下、「わたしやあなたに

迷ふてきた あなたもご存知あるであろ わたしや本

郷三丁目 八百屋久兵衛の七ぞいの 吉三はそれと聞

くよりも これはこれは久兵衛殿の娘かへ 女子なん

ぞがこの夜中へ 供をも連れずにただひとり 何たる

用にてありつるや お七はそれと聞くよりも 何たる

一一 T-  (122)

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祭文松坂「八百屋お七』一校注補訂瞥女唄段物集の試み・その1一

八百屋久兵衛が 七ぞいの

吉三ははつと 驚いて

おやおや久兵衛殿の 娘かへ

供をも連れずに この夜中に

なに何

たる用にて お出でぢやと

言はれてお七は 顔を上げ

これのお申し 士旦二さん

そのときお前が この寺の

ヰ あきじ

お朝事参りの そのときに

本尊様の その前で

花立て替へを なさるとき

うしろ姿を ちらと見て

身にしみじみと 惚れました

ヰこら堪

へじやうなき 懐かしい

見たい逢ひたい 添ひたいと

思ふ月日が 重なりて

   よ

この様な病ひに なりました

三度の食事が

二度の食事も

一度の食事も

ヰ胸につかへて

   さ 巾

お茶や白湯でも

ホリ うしん

両親それを

恋路の闇とは

江戸らくちやうの

残らず心願 かけらるる

お七の病ひが 治るなら

  とのこ

一生殿御は 持たせまい

ネ祝いの座敷も 踏ませまい

二度となり

 叫度なる

吉三さん

しやく

癌となる

  通りやせぬ

見るよりも

露知らず

   神々へ

男に肌も 触らせまい

男と名のつく ものならば

男猫でも 抱かせまい

淡島様へも その通り

ホ   しんがん

堅い心願 こめらるる

わたしやそふでは ござんせぬ

千服万服の 薬より

あなたの一声 聞くことで

ほんに病気が 快気する

お七が心で 思ふには

  よ

この様なきれいな 吉さんと

一生添ひたいとは 思へども

末代ならずば 十年も

十年ならずぽ 七年も

それもならずば 五年でも

五年ならずば 三年も

それもならずば 一年も

それもならずば 半年も

半年ならずば 百日も

それもならずぽ 五十日も

五十日ならずば 三十日

それもならずば 二十日でも

二十日ならずば 十日でも

十日ならずば 五日でも

それもならずば 三日でも

   いぢや     かたとを

せめて一夜も片時も

ネ     とのご

こちの殿御や 女房やと

言ふて楽しむ ことあらぽ

をなご

女子に生まれた 甲斐もある

用とは胴欲な そら曲が無い吉三さん あなたもこ存

          あづヱ

知あるであろ いつぞや東の大火事に わらはが家も

類火にて 家作成就を致すうち この寺門前仮住まい

 親子三人もろともに お朝事参りのその節に」(土

田)。

ネ・家作成就を致すうち 土田の文句で補う。

八百屋久兵衛 井原西鶴『好色五人女』では「八百屋八

兵衛」とあって「むかしは俗姓賎しからず」とし、隅天和

笑委集』(巻十一)では「八百屋市左衛門」とあって「生

国は駿河国富士郡の農民」とし、隅近世江都著聞集』(第

一)では「八百屋太郎兵衛」とあって、もと「前田家の足

軽」とする。紀海音の浄瑠璃『八百屋お七』では「久兵

衛」。口説節・説経祭文・一中節なども「久兵衛」。

お朝事「真宗曇ア、毎朝ノ勤行ノ称。::信徒ノ、此

時刻二、御堂二参詣スルヲ、あさじまゐりト云フ」(「大

言海』)。

ネ堪へじやうなき 我慢できない。

ヘ                          モたこ

胸につかへて癩となる 「恋は女子の撤の種 思ひ出だ

せぽ胸ふたぐ」(土田)とも。なお、『響喩尽」に「恋は女

子の療の種豊後節国大失二出」とある。

ゆ両親それを見るよりも 「医者やテソシャやゴテソシャ

        げん

や 掛けども少しも験はない」(土田)

ホ江戸らくちやう 江戸洛中か。不明。

じ祝いの座敷も踏ませまい 祝言もさせない。

さ男に肌も触らせまい 「手習ひ学問すればとて 男と言

ふ字も害かせまい」(土田)とも。

ゆ堅い心願こめらるる 土田の文句によって補訂。

わたしやそふではござんせぬ 以下四行、渡辺キクの文

句を参考に補訂。

こちの殿御や女房やと  「こちの女房や殿御やと」(小

林・土田)。「こちの殿御」は「こちの人」(妻が央を親し

んで呼ぶ称)を尊敬語にしたもの。

ネわたしが手つからまま炊いて 下女も雇わず自分で御

一6-  (121)

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県立新潟女子短期大学研究紀要 第33集 1996

    ぬし

好いたお主と 添ふならば

たとへ野の末山の奥

き木の実かやの実 食ぺるとも

竹の柱に 笹の屋根

    えん    わむオえみ

簑の子の縁に 藁畳

むしづ

莚を壁に しつらふて

         う

糸も取りましょ 績み紡ぎ

わたしが手つから まま炊いて

おあがりなされや 食べましよと

どんな貧しき

苦労に苦労が

手鍋さげるは

欠けた茶碗に

   どびん

口欠け土瓶で

汲んで飲んだり

忠距蔵では なけれども

キえん縁

の下にて くだいふが

風の吹くたび ゆらのすけ

ヤ       あまがは

屋根から天川 義平さん

寝てて大星 拝むとも

朝は早起き ばんないで

ネ仕事はせんざき やごろでも

タ          こめげつ

縞の財布や 米櫃が

たとへおかるに なるとても

腸日はわきから もろのでも

わしやよいちぺと かんぺする

これまで思ふて 来たほどに

不燗とひとこと 吉三さん

言ふてくれては どうちやいな

暮らしでも

してみたい

まだおろか

たがをかけ

   せ

お茶を煎じ

 飲ませたり

吉三はそれを 聞くよりも

これのおいかに お七とや

わたしや子細の ある身ゆゑ

七つの歳より この寺の

住持のお世話に あつかりて

今日は出家を 遂げやうか

明日は出家を 遂げやうかと

明け暮れ思ふて をるとこへ

恋路の道の ことなれば

ひらにご免と はねらるる

お七が心は 浅間山

胸に煙りの 立つごとく・

三段自(床入13の段)

お七は士旦二に 打ち向かひ

これのおいかにb吉三さん

梅も八重咲く 桜花

牡丹も八重ぢや しやくやくも

数ある中の 乱菊も

一重にひらく 朝顔も

うすもみち葉の 一枝も

思ひ思ひに 色をもつ

あなたも嵐家を 遂ぐるなら

釈迦のみ弟子で ござんしよの

ら ご コリ

羅喉羅は釈迦の 子でないか

びだ ろ に

陀羅尼は釈迦の 妻ぢやもの

     つユこ

釈迦にも妻子の あるものを

如来と醤いた 一文字は

飯を炊いて。次の「手鍋さげる」も同じ。

ホどんな貧しき暮らしでも 渡辺キクの文句で補う。

ネ忠臣蔵 竹田出雲等合作の浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』。以

下その登場人物、斧九太央、大星由良助、天河屋義平、

鷺坂伴内、千崎弥五郎、お軽、高師直、与布兵衛、早野

勘平を歌い込んだ人物尽くし。

縁の下にてくだいふが 『忠臣蔵』七段目の斧九太夫の

様子だが、意味不明。

風の吹くたびゆらのすけ 竹の柱ゆえ、家がゆらゆら揺

れる意。

キ屋根から天川義平さん 粗宋な笹の屋根ゆえ。

さ朝は早起きばんないで 朝は早起きもしないで。

キ仕事はせんざきやごろでも 仕事はせずに家でごろご

ろ過ごす意。

へ縞の財布や米櫃が 「縞の財布」は、お軽の父親与市兵

衛と、お軽の夫勘平に因縁深い品。

ヤわしやよいちべとかんぺする 良いと勘弁する。

これまで思ふて来たほどに 以下三行、渡辺キクの文句

を参考に補訂。

りわたしや子細のある身ゆゑ この次に、「何の辞退は申

                 うち

さぬが 三(P)つの歳に父に遅れ 母の家にて育てら

     ち こ

れ お寺へ稚児にあげられて・:・今では小姓をつとめ

日口」(土田)とも。

恋路の道のことなれば 以下、「今さら恋路に迷ふとは

 上人様の大恩を仇で返す如くなり未来の道が恐

ろしや それにまた弥陀本尊の口口 ここの道理を聞

き分けて この儀はひらにご免ぞと 花のお七をびん

とはね はね返されてお七こそ 両手を組んで思案す

る さて花尽くしと申するは 日蔭の木にも花が咲く

 梅も八重咲く桜花」(土田)とも。

はねらるる はねつけなさる。拒否する身振り。

一重にひらく朝顔も 以下、「庭に開けし朝顔も 濃い

と薄いの色を持つ それにお前はなんぞいの」(土田)と

も。花尽くし.

タ                                 ゥしピぼら

陀羅尼は釈迦の妻ぢやもの 釈迦の妻は耶謡陀羅、

・- V-  (120)

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祭文松坂『八百屋お七Jr一校注補訂暑女唄段物集の試み・その1

女口に来たりと 書くさうだ

妙法蓮の 妙の字は

 すこ

女少しと 書くさうだ

浄土真宗を 見やしやんせ

ホ昔が今に 至るまで

親鷲上人 始めとし

ゆんゴ     あ て

左手と右手に妻と子を

抱いて寝るでは ないかいの

あたたも出家を 遂ぐるなら

   ころも

袈裟や衣の お情けで

かにい

可愛や娘と つい一度

言ふてくれたが よいわいな

これのおいかに 吉三さん

ホふみたまつさ

文玉章を 贈りしが

やれど尽くせど

見ればあなたは

あなたが読むが.

わたしが読んで

     つあワ

わたしの家は

青物づくしに

丹誠尽して

返事無い

封も切らぬ

いやならぽ

上げまする

        八百屋ゆゑ

        こと寄せて

          ふみ

       書いた文・

これにておん聞き 下さいと・

       ヰ   ロ

まつ一番の 筆だてには

ネ   ふき

ひと蕗しめじ 松茸さうろ

あだな姿の 大根や

し モ      は    せり

紫蘇や三つ葉や芹よと

たでぬしさんに はうれん草

*わらび       う ど

蕨が心を 独活うどと

ホロつり瓜

な願ひの 山の芋

心の竹の子 願ひあげ

ヰ        れんこん

神々様へ 蓮根し

  よめた

早く嫁菜に なりたやな

もしもいや菜と 言はれたら

なんと松露 栗くりと

       くわゐ

案じて物も一慈姑ずに

キかち辛

いこえびぢや なけれども

筆にまかせた 唐がらし

八百屋の店では なけれども

十六ささぎの 初なりを

あんばい

塩梅見る気は ないかいの

ヰ   さや

ひと英もぐ気に なりやしやんせ

食べてみしやんせ 味が良い

これのおいかに 士旦二さん

わたしにばつかり もの言はせ

さらにあなたは もの言はぬ

秋がきたやら 鹿が鳴く

わたしやお前に 焦がれて泣く

  ホどうよく

のお胴欲なと とりすがる

吉三はそれを 聞くよりも

これのおいかに お七とや

恋する人が あればとて

恋はるる人のあるは 世のならひ

文玉章を 贈りしとて

 いまだ返事も 返さぬうちに

重ねてお出ではご無用と

お七はそれを聞くよりも

 これのおいかに 士旦二さん

 のはら

野原に根をもつ 花咲かす

ホ女口に来たりと 「如来」の文字を分解したもの。また

それは、お七がロ説きに来たことと意味上の闘連があ

     すこ

る。次の「女少し」も、女と少しだけ交わる意を持たせ

てある。

サ昔が今に至るまで 土田の文句を参考に補う。

 親鷺上人始めとし 浄土真宗の開祖親鷲には妻恵信尼

との間に覚信その他の子があった。

ホ文玉章恋文。

やれど尽くせど返事無い 土田の文句を参考に補う。

「文の数々七十本 やれど尽くせど返事無い」(土田)と

穐。青物づくしにこと寄せて 盆踊り口説やチョγガレ節、

また九州筑前の座頭琵琶のくくずれVにも「青物づくし」

があって、庶民に人気の僅謡だったことが知れる(『日本

庶民生活史料集成』第十七巻参照)。また、紀海音『八百

屋お七』末尾にも見られる。

 筆だてには 「筆たては書出る初筆をいふ」〔『嬉遊笑覧』

倦三)。

ひと蕗しめじ松茸さうろ 女性の手紙文の醤き出し文

句二筆湿しまゐらせ候」をもじったもの。

ネたでぬしさんにはうれん草 主さん(お前さん)に惚れ

たの意。「たで」は「蓼」か。

ネ                          まのオ

蕨が心を独活うどと 妾の心をくどくどと。

ホ瓜な願ひの山の芋 無理な願いを山芋のように長々と

口説く意か。

神々様へ蓮根し 神々へ祈り。「蓮根し」は単なる語呂

合わせか。

もしもいや菜と 「嫁菜」の縁で「いや菜」と言ったも

切。

A

辛いこえび 「辛い恋路」の誤りか。不明。

ヰ十六ささぎ まめ科の野菜ササゲの長いもの。

ひと英もぐ気になりやしやんせ 以下二行、土田の文句

を参考に補う。

胴欲な 人情の無いこと。

恋はるる人のあるは 「恋ひらるる人のあるは」(小林)

一8-  (119)

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1∫よゴ)t’ITr 2F}女子タ:豆.其雁プく聾丘徊lf究斥己要  舞‘33≡舅三  】996

採れば手にたつ 鬼あざみ

ネ鬼と言はるる 花でさへ

  いちや

露に一夜の 宿を貸す

馬に蹴られし 道芝も

露に一夜の 宿を貸す

菜種の花さへ あのやうに

しほらしさうなる 花なれど

      いちヤ

胡蝶に一夜の 宿を貸す

それになんぞへ 吉三さん

お前の肌を なぜ貸せぬ

これのおいかに 吉三さん

恋といふ字を 知らぬかい

色といふ字を 覚へぬか

     ななご

わたしや女子で 知らねども

タ今宥これまで 忍び来て

この身このまま 婦りやせぬ

吉三はそれを 聞くよりも

        をなご

さてもくどい 女予ぢやの

いつまでさうして 居たとても

      サ

その理に詰まる わしぢやない

花のお七を はねられて

        キら

 ころと九寝の 空ねむり

お七はそれを 見るよりも

これのおいかに

これ玄で思ふて

あなたがいやと

この身このま窪

さらば自霜を

㍗~,コこ

 i 7を   ゜一

仁、

吉三さん

きたるのに

曽副ふならば

帰りやせぬ

  致さんと

手をかけて

鍔元くつろげ いたりしが

吉三ははつと驚いて

これのおいかに お七とや

それは何ゆゑ 短慮よ

刀は危い 下に置け

今までいやと 言ふたのは

そちが心を 試すのちや

死ぬ程わたしに 惚れたなら

さらばお前に 身をまかす

十六ささぎの 振り袖を

           は 

こちへこちへと 今は見-

  ひと出

奥の一間へ

奥の一間に

六尺屏風を

お七帯とけ

お七はそれを

これ゜のおいかに

あかりを消して

ホはつ初

床入れの

わしや恥しいと

ネ        だぬつばコ

ロ水仙の 玉梼

手足はしつかと からみ藤

からみついたよ 藤の花

色紫の ほどのよさ

五尺体の 真ん中に

        はつワづみ

締めつ緩めつ初鼓

打ち出す音色の おもしろさ

夜はほのぼのと 明け渡る

明けの鳥が 西東

引きにける

なりぬれぽ

立て廻し

床急げ

 聞くよりも

  吉三さん

  下しやんせ

ことなれば

  言ふままに

け鬼と言はるる花でさへ 以下二行、高田瞥女杉本キクイ

の文句を参考に補訂。

好蝶に一夜の宿を貸す 土田の文句にようて補訂。

今宵これまで忍び来て 土田の文句によって補訂。

面口三はそれを聞くよりも 小林ハルの文句はこれより

四段目となる。

聖の理に詰まる相手の理屈に追い詰められて反論で

きなくなる意。

みなたがいやと言ふならば 以下、「恋しいあなたの膝

元で 一命終はりしことなれぽ 末代添ふたも同然だ

 この座をあかしてくだしやんせ この身このまま帰

りやせぬ」(土田)とも。

それは何ゆゑご短慮よ 次に、「出家といふは 人を助

ける法なれど 人を殺してわしじやとて 本望遂げた

る甲斐は無し これのおいかにお七とや 刀は危い下

に概け::」(土田)とも。この前後、土田の文句多く異

鷹。

十六ささぎの振り袖を 十六歳の振袖姿の娘を。

卿の一間になりぬれば 土田の文句を参考に補う。

さ初床入れ 男女が始めて同金すること。

わしや恥しいと言ふままに 以下、「わしや恥しいとじ

やれかかる よもや話も後や先 余り口説の長さゆゑ

           かはい

 明けの鳥が西東 お七可愛と告げ渡る そのときお

七が思ふには なんの小癌な明け烏 鳴いて良けれぽ

わしが泣くお天道様も情けなやお天道様の出先に

は黒金門でもあればよいいつれなりともお天道様

の出ぬ国に 七日七夜も寝てみたい いかに我が身が

つらいとて 神や仏に無理願ひ 小袖の挟に包まるる

 これのお串し吉三さん またも明晩頼みます さら

ばと言ふてはほろと泣きほろと泣いてはさらぽよと

 駒込寺を忍び出で木郷指して急がるる」(土田)と

鳩.口水仙の玉椿 ロ吸う(接吻)。「玉捲」は花寄せの語呂合

わせ。「口水仙の杜若」(高田菩女)とも。

ホ明けの烏が西東 以下二行、土田の文句を参考に補訂。

一9-  (118)

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祭文松坂睾八百屋お七」一校注補訂署女唄段物集の試み・その1一

そのときお七が 思ふには

おほてらこてら

大寺小寿 残りなく

鐘つくお方も 気がきかぬ

本郷のお七が かはゆくば

十日も朝寝を すればよい

しののめ烏は 死ねばよい

わけて憎いが 庭の鳥

お天道様も その通り

本郷のお七が かはゆくば

七日七夜も 出ぬがよい

       でささ

お天道様の 出先には

ホくろホねもん

黒金門でも あればよい

もつたいないことなれど

いかに別れが つらいとて

罪なき仏に 恨みする

四段目(火あぶりの段)

今はそのとき お七こそ

   かた

我家の方へ 帰られて

お七が心で 思ふには

明くればお寺が 恋しなる

暮るれば士旦二が 恋しなる

いかが致して よからうと

胸の鏡に 手を組んで

涙ながらに 思案する

をなご心の 一筋に

のち後

の災難 つφ知らず

飛んで火に入る 夏の虫

いつぞや本郷の 大火事に

   いへ

我らが家も 類火にて

家作成就 致すまで

親子三人 もろともに

  てち

あの寺門前 仮住居

またも我が家を 焼いたなら

こまごみでら

駒込寺へ 行かりよかと

さうちやさうちやと お七こそ

けふよ明日よと 思ひしが

或る日のことで ある宵に

そよ風吹くに 引かされて

あはれなるかな お七こそ

こたつのおきを 二つ三つ

串     こづ庄       く弓

小袖の小褄へ 掻い包み

二階はしごを のぼらるる

ひとけたのぼりて ほろと泣き

ふたけたのぼりて ほろと泣き

みけたよけたは 血の涙

やうやく二階へ のぼられて

ホ     にんど

二階の半戸を そよとあけ

そよ吹く風と もろともに

小袖のおきを 二つ三つ

わが家の屋根へ 投げ出だす

   ほんど

急いで半戸を 閉められて

お七は二階 下りられて

表のかたへ 走りゆく

火事よ火事よといふ声に

八百屋夫婦は もろともに

表のかたへ 走りゆき

お天道様 おてんとうさま。太陽の神格化。

ほ黒金門 鉄の扉。太陽が出て来られないようにである。

ホ                             れもにちみウか

今はそのときお七こそ 以下、二日二日も経たざれば

 明くればお寺が恋しなる 暮るれば吉三が恋しなる

 なれども女子の浅思案 またも我が家を焼いたなら

 恋しゆかしい吉さんに 逢はれうことかと心得て

              ぬもと       くこ

こたつのおきをば二2二つ 小袖の挟にかい包み 流

るるあとは三途川 のぼる梯子は死出の山 我が家ば

           たいホう

かりとは思ひしが 俄かに大風が吹き来たり さても

一座の上様へ まつはこれにて段の末」(土田)とも。な

お.土田の文句はここで末尾となっている。

胸の鏡に手を組んで 「智恵の鏡」、また「胸に手を置く」

などから、胸に手を組んで考える様子。

ホ飛んで火に入る夏の虫 諺であるが、お七がみずから火

付けをして火あぶりの刑にあったことを指す。「愚人夏

ノ虫飛デ火二入」(元禄四年刊『漢語大和故哀』巻一)。

いつぞや本郷の夫火事に 「いつぞや本郷のるいさい火

事に」(小林)

ホあはれなるかなお七こそ 思い詰めて放火に至るお七

の行為について詠嘆した言葉。

ゆ小袖の小褄へ掻い包み 「小袖の小褄そつととき、手ぼ

やく綿を引出だし、有おふ火ばちのおき一つ、はやくも

綿にかいくるみ」(説経祭文)

みけたよけたは血の涙 高田警女の文句に、「昇る梯子

は死出の山 落つる涙は三途の川」(杉本キクイ)とも。

二階の半戸 二階の窓。六尺の下半分が壁や板腰で、そ

の上半分を戸としたもの。

ホわが子のことでないかいと なんと我が子にかかわる

災難であったかと。

ヰ釜屋の武兵衛 この人物はいささか唐突に登場する。紀

海音の浄瑠璃『八百屋お七一には敵役として「万屋武兵

衛」が登場する。ただし訴人したとは無い。明治期刊行

の『くどきぶし』には、お七に横恋慕して叶わぬ妬みか

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り∴三乞新重島女二’殖王異王」ブこ学石∫「究酢己要  貿‘33#:‘ 1996

八百屋久兵衛は 見るよりも

これのおいかに お七やい

寒くはないかと 問はれける

そこでお七が 申すには

これのおいかに 父様へ

わたしは寒くは なけれども

わが家の類火は 是非もない

駒込寺へ 急がんと

あの吉さんの あの寺と

涙ながらに 申しける

父の久兵衛が 聞くよりも

さてもさても 情けなや

ただいま出来し 災難は

わが子のことで ないかいと

思ひし甲斐も 情けなや

たロ誰

知るまいとは 思へども

釜屋の武兵衛が 訴人して

それ聞くよりも お奉行様

お七このたび本郷二丁目より始め

ご・本丸まで 焼いたる罪

明日は白州へ 出だせよと

言はれて母上 聞くよりも

こ、れのおいかに お七やい

おかみの白州に 出たならば

らもの正直に -叩せよと

もの正直に 由すなら

必ずおかみの お情けで

ホ    の

罪は許れるであらふぞと

甜教へられては 娘とそ

はいと返事も 優しさに

衣類着かへて お七こそ

   かた

白州の方へ 急がるる

   かた

白州の方にも なりぬれば

ご免なされと ずつと入り

お奉行様は 見るよりも

さても美し この娘

ネ       ぎい

火あぶり罪とは 情けなや

つヰ罪

は許して やりたやと

これのおいかに お七とや

まだそなたと 申せしは

歳は十二か 十三か

言はれてお七は 涙ぐみ

申し上げます お奉行様

十六歳に なりました

お奉行様は

十六歳にも

まだ十三か

十五歳にも

問はれて今は

申し上げます

わたしの生まれと

ホびのえうホ

丙午の 生まれなる

十六歳に  ・なりました

言はれて皆さん 惜…けなや

丙午とあるからは

十六鼎脳に  ・なるであろ

     ざい

火あぶり罪と 申しつけ

サにせかうユ

裸馬に 乗せられて

聞くよりも

なるまいが

十四歳

なるまいと

 お七こそ

 お奉行様

   申するは

ら彼女をそそのかし放火させた上、訴入したことが詳し

く語られている。

ご本丸まで焼いたる罪 「ご本丸」は江戸城の本丸。た

だし西鶴の『嬉色五人女一では、「すこしの煙立さはぎて」

とある。お七一家が焼け出されたとされる天和二年暮れ

の大火事との混同か。

じもの正直に申せよと 以下、正直に言ったがために、奉

行はお七を救えなくなる。

 罪は許れるであらふぞと 火刑の罪は許されるであろ

うと。

り火あぶり罪 江戸時代、放火は重罪で、引き廻しの上、

火刑。「意趣慾心にて火を付、又は人に附させ候もの、被

頼候て附候者、十六歳以上は総て火罪、十五歳迄は流罪

…」(『徳川禁令考』別巻、「享保度法律類寄」)。

歳は十二か十三か 年齢を実際より少なく見て、罪を軽

減してやろうと考えた取り調べ牽行の誘逃尋問である。

『近世江都著聞集』(第一)に、「万一十五以下に候へば、

国禁をおかし候とても、子供の事は、其罪を一段引下げ、

宥め申付らる玉事も有レ之」として再吟味が行なわれた

とある。紀海音『八百屋お七』には、「お上にもどふぞし

て、助けたふ思召云訳の仕様をば、く玉める様にの給へ

ども年のゆかぬ悲しさは、古三様に逢いたさに火を付ま

したと宥様に、蚤放せば是非もなく・:・」とある。

ち丙午の生まれなる 丙午は寛文六(=ハ六六)年に当た

る。お七の火荊が天和三(一六八三)年だからこれでは十

八歳となって不自然.西鶴『好色五人女」は十七歳とす

る。殉近世江都薯聞集』(第静)には、「お七生年は寛文八

年十月なりと、公の留め書に見へたり」とある摩ここに

「丙午」とあるのは、お七の火難と結び付けられた俗信

による。

裸か馬 鞍を置かない馬。

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祭文松坂r八百屋お七」一校注補訂警女唄段物集の試み・その1一

あはれなるかな お七こそ

八百八町を 引き廻し

    いへ

八百屋の家に 来たりしが

お奉行様は 馬を止め

お七このたび本郷二丁目よりはじめ

ご本丸まで 焼いたる罪

火あぶり罪とありければ

お七はそれを 聞くよりも

申し上げます ふた親様

親の先立つ 不孝老

先立つ罪の 数々や

不孝をお許し 下さいと

ぜいおん

大音あげて 申しける

母はそのよし 聞くよりも

表のかたへ 走り出で

馬にとりつき鐙にすがりてこれ娘

それそのやうな利口の事を言ひながら

ギ                                       リ

なぜ成敗に 議めやるぞへ

それほど吉三と添ひたくば

なぜこの母に 露ほども

洩らせ聞かせて 給はらば

しやうもやうも あらふのに

涙ながらに 申さるる

それはさて置き お奉行様

鈴が森へと急がるる

今はお七に 打ち向かひ

これのおいかに お七とや

汝願ひの 筋あらば

早く申せとありければ

お七は涙の 顔をあげ

申し上げます お奉行様

駒込寺の 吉さんに

命あるうち逡はせてと

願ひあげれば お牽行様

            しよ

これこれいかに みなの衆へ

早くお寺へ 急げよと

言はれて今は 若い者

駒…込寺へ 急がるる

申し上げます

八百屋の家の

火あぶり罪の

命あるうちに

逢はせてくれと

方丈様は 聞くよりも

これのおいかに 吉三郎

八百屋の家の

火あぶり罪と

お七言ひたい

汝も言ひたい

早く参れと

吉三は顔を

ヰ   かたかた

草履片方

鈴が森へと

鈴が森にも

あまた見物

お奉行様の

方丈様

お七こそ

ことなれぽ

吉さんに

 頼まるる

お七こそ

あるゆゑに

こともある

こともあろ

 ありければ

 赤らめて

下駄はいて

申し上げます

お七が身内の

急がるる

なりぬれば

押し分けて

前に出で

 お奉行様

 者なるが

疋百八町を引き廻し 死罪・獄門などの重罪入は、市中

引き廻しの上で処刑される。高田瞥女(杉本キクイ〕の文

句では「江戸町づくし」によって道行きとなる。

ななぜ成敗にあやるぞへ どうして、罰せられるようなこ

とをしたのか、の意。

をれほど吉三と添ひたくば 取り返しのつかなくなっ

た後での親の悔い、嘆きである。

しやうもやうもあらふのに なんらかのよい解決の方

法もあったろうに。

鈴が森 鈴の森とも、品川の鈴が森。江戸時代に刑場が

あった。

汝願ひの筋あらば 牽行の情けで最期に再びお七は吉

三と対面する。実際は火刑の場でこのような劇的な出会

いは無かっただろうが、非業の死を遂げる人物が、最期

はこの世に思い残すことなく死んで行くように納める

のが、語り物の一般的な終わり方である。なお、紀海音

 『八百屋お七一では、刑場に駆けつけた吉三郎が切腹し

てお七よりも先に死ぬ。また、西鶴『好色五人女』では、

お七の火刑後に出家する。また、明治期刊行の『くどき

ぶし』では、釜屋の武平を敵討ちした後に遺書を残して

自害する。

方丈様 寺の住職の居間を方丈と言い、「方丈様」で住職

を指す。

章履片方下駄はいて 草履と下駄を片方ずつ履いて。葬

          かたし     かたし ほ オ ぬ

常に慌てた様子。「草履隻足雪踏片足不レ履もの」(『唇喩

尽一)。

謝また見物押し分けて お七との別れ、お七のための出

家を衆人環視の中で行なうことに、死者追善供養という

物語上の意味がある。なお、お七の刑死は天和三年三月

昔九日、戒名は「妙栄禅定尼」(小石川円乗寺、弘化二年

記『八百屋於七墳墓記』)。また『天和笑委集』(巻十一)

 では、お七を含めて当日四人の者が同時に火刑に処せら

れたとある。高田特女唄の文句に「四本柱を並ぺたて」

 とあるのはそれによるか。

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どうぞ逢はせて 下さいと

お奉行様は 聞くよりも

          はヤ

こちへこちへと 今は早

吉三郎は 見るよりも

煙の中の お七こそ

お七熱つかろ せつなかろ

お七はそれを 聞くよりも

吉さん思へば 熱くない

言はれて吉三も たまりかね

        はや

黒髪切つて 今・は早

煙の中へと 投げ出だす

お七はそれと 見るよりも

申し上げます 吉さんへ

ぬし主

がその身に なるからは

娑婆に思ひは 残らんと

十六歳と 申せしは

無常の煙と 立ちの醸る

 まつはこれにて 段のすゑ

角八百巌お七』末尾)

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  『校注補訂瞥女唄段物集』の計画について

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                                          軒

                                          …

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                                          御

                                          押

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                                          軒

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                                          一

                                          一

                                          ゆ

                                          韓

 越後瞥女は、端唄・昆謡・流行歌などさまざまな唄を習得していたが、これは旅先

での娯楽の提供者として少しでも多く聴衆の要望を満たそうとした芸能民の職業意識

からきている。警女本来の唄は、それらを除く警女松坂や磐女万歳、また祭文松坂や

口説であった。そのうち祭文松坂と口説とは長編の物語を歌う唄であり、警女唄の中

心をなすものと言える。それらはいずれも伝承文芸論的に興味ぶかい歌詞を伝えるが、

ここではまず説経節や歌祭文など古い物語の伝統に連なる祭文松坂(これを段物とい

う)をとりあげてみることにしたい。

 当然のことだが、瞥女の歌った録音テープを文字に起こしたものは必ずしもそのま

まで原本とはならない。実演の場合、歌う度毎にそのつど文句の前後入れ替りや重複、

或いは不用意な飛躍もあり、また元薯女の小林ハル女が「さまざまの文句がある」と

言うように、組と師匠によって文句が違うからである。さらに瞥女たちは、報酬の額

や聴き手の様子など、その座に合わせて文句を故意に省略することもあるという。

 しかし薯女たちが歌っていた物語を歌詞に当たって知るためには、なんらかの文字

化が必要であろう。すでに、瞥女たち一人一人の一回きりの録音を文字に起こした資

料はあるが、歌い手の歌い損ないや筆録者の聞き違いもあって、そのままでは余りに

生の資料すぎるので、文句を補訂しながら、大きく逸脱しない限り多少編者の私意改

変を交えて然るべきテキストを作成することは許されるであろう。

 これは、まさしく流動する語りのテキストの息の根を止めるようなことにもなろう

が、たとえば『八百量お七』を例にとっても、「如来と書いた一文字は 女口に来たり

と㌫くそうだ/妙法蓮の妙の字は 女少しと書くそうだ」など、ほんらい文字とは無

縁であるはずの盲女たちの歌に、文字を前提としたものがあることは、轡女の歌う文

句の由来が、まったくの口承の中で成立したものでは無かったことを示している。こ

のことを考えれば、あながち無駄な作業ではない。ある面で薯女たちもまた、識者の

文字テキストに戻って語り直したふしも見られるのである。

遙録音テープの利用については萩発欝市教育委員会のご許可を頂いた。

                              (国際教養学科)

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