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合宿研究論文 合宿研究論文 合宿研究論文 合宿研究論文 『日 日の製糸産業 製糸産業 製糸産業 製糸産業の発展要因 発展要因 発展要因 発展要因と衰退要因 衰退要因 衰退要因 衰退要因』 邑肇 邑肇 邑肇 邑肇 9生 おぴと おぴと おぴと おぴと愉快 愉快 愉快 愉快な仲間 仲間 仲間 仲間たち たち たち たち~空だって だって だって だってべちゃうだぞ べちゃうだぞ べちゃうだぞ べちゃうだぞ~班 相賀康平 相賀康平 相賀康平 相賀康平鍵和田亮 鍵和田亮 鍵和田亮 鍵和田亮菊地詩織 菊地詩織 菊地詩織 菊地詩織佐藤礼 佐藤礼 佐藤礼 佐藤礼難亮 難亮 難亮 難亮

星合宿研究論文 『『『日曓『日曓のののの製糸産業 …c-faculty.chuo-u.ac.jp/~hjm_kwmr/9/spring/opi.pdf星合宿研究論文 『『『日曓『日曓のののの製糸産業製糸産業のののの発展要因発展要因ととと衰退要因と衰退要因』』』』

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目次

序章 はじめに――――――――――――――――――――――――(担当者:相賀)1 第 1 節 問題設定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第 2 節 考察するにあたっての視点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第 3 節 各部の構成及びその役割・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

第 1 章 日本の製糸工程―――――――――――――――――――― (担当者:相賀)3

第 1 節 養蚕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

第 2 節 乾繭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

第 3 節 貯繭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

第 4 節 選繭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

第 5 節 煮繭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9

第 6 節 繰糸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

第 7 節 仕上げ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14

第 8 節 検査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

第 9 節 副蚕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

第 2 章 日本の製糸産業の発展――――――――――――― (担当者:佐藤、難波)21

第 1 節 基幹産業への発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

(1)生産量からみる発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22

(2)雇用・生産工場からみる発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26

(3)産業構造の変化からみる発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30

(4)貿易面から見る発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33

(5)まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40

第 2 節 発展要因の分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41

(1)微粒子病・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・41

(2)明治政府政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43

ⅰ)輸出蚕種の粗製濫造政策

ⅱ)外国技術の導入

ⅲ)養蚕・蚕糸教育と試験場設立

(3)製糸技術の発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53

ⅰ)座繰製糸の改良

ⅱ)器械製糸の発展

(4)製糸金融・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61

ⅰ)生糸売込問屋

ⅱ)銀行

ⅲ)財政投融資

(5)主な生糸輸出入国の状況・関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・63

ⅰ)フランス

ⅱ)イタリア

ⅲ)アメリカ

ⅳ)中国

(6)まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74

第 3 章 日本の製糸産業の衰退と要因分析――――――――(担当者:鍵和田、菊地)76

第 1 節 基幹産業からの衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76

(1)国内生産量からみる衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77

(2)雇用・生産工場からみる衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82

(3)産業構造の変化からみる衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・85

(4)貿易面からみる衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89

(5)まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93

第 2 節 衰退要因の分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94

(1)衣生活の変化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・95

ⅰ)洋装化の始まり~開国~

ⅱ)男性の洋装化~明治時代初期まで~

ⅲ)女性の洋装化~鹿鳴館時代~

ⅳ)子供の洋装化~大正時代~

ⅴ)戦時体制下の服装~戦前から戦中~

ⅵ)本格的な洋装化~戦後~

ⅶ)製糸産業への影響

(2)化学繊維の出現・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・105

ⅰ)化学繊維の分類

ⅱ)人造絹糸の開発

ⅲ)化学繊維の発展

ⅳ)天然繊維の衰退

ⅴ)製糸産業への影響

(3)技術移転を伴う海外投資・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・112

ⅰ)東南アジアを中心とする日本の海外投資

ⅱ)国際分業化

(4)政府政策・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・123

(5)まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125

第4章 おわりに―――――――――――――――――――――――(担当者:菊地)127

参考文献一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・129

図表目次

図表 1-1. 害虫であるカツオブシムシ...........................................................................8

図表 1-2. 選繭の際に除外される繭.............................................................................9

図表 1-3. 索緒箒...........................................................................................................12

図表 1-4. 自動繰糸機....................................................................................................14

図表 1-5. セリプレーン................................................................................................17

図表 1-6. 節の例...........................................................................................................18

図表 1-7. 蛹..................................................................................................................20

図表 2-1. 日本生糸輸出入量と生産量…………………………………............................22

図表 2-2. 世界 4 大蚕糸業国生糸生産量一覧表............................................................23

図表 2-3. 生糸生産量(俵)…………………………………………………………………....25

図表 2-4. 10 人繰以上器械製糸所一覧……………………………………………............27

図表 2-5. 座繰り工場数(通説)……………………………………………………………....28

図表 2-6. 全国製糸戸数……………………………………………………………………...29

図表 2-7. 繊維工業の発展 年平均生産指数増加率…………………………………......30

図表 2-8. 工場の部門別変化と紡織部門内の変化…………………………………….…..31

図表 2-9. 絹類の輸出額(当年価格、百万円、7 ヵ月移動平均値)…………………….....34

図表 2-10. 蚕種輸出高(枚)……………………………………………………………….....34

図表 2-11. 1863~64 年より 1867~68 年までの生糸輸出額……………………….….35

図表 2-12. 全国生糸輸出量・輸出価格等一覧表……………………………………….…35

図表 2-13. 生糸の輸出先………………………………………………………………….…38

図表 2-14. 生糸輸出数量(俵)…………………………………………………………….....39

図表 2-15. 蚕種輸出高(枚)…………………………………………………………………..42

図表 2-16. 富岡製糸場の繰糸機械……………………………………………………….....47

図表 2-17. 「ケンネル式」・「共撚式」………………………………………………….…49

図表 2-18. 繰糸器械の進歩(概念図)……………………………………………………..…53

図表 2-19. 足踏座繰機…………………………………………………………………….…54

図表 2-20. 捻造の束装……………………………………………………………………..…56

図表 2-21. 館三郎考案の磨撚器の構造………………………………………………….....56

図表 2-22. 中山社の煮繭鍋と繰鍋の組み合わせ....…………………………………….…60

図表 2-23. 主要生糸消費国(単位:千封度)…………………………………………….….63

図表 2-24. フランス養蚕業一覧(明治 22~30 年)……………………………………..….64

図表 2-25. フランスリヨン市場生糸相場一覧表…………………………………….…....65

図表 2-26. イタリア養蚕業一覧………………………………………………………..……66

図表 2-27. イタリア製糸産出量および外国生糸の撚糸加工輸出量一覧……………..…67

図表 2-28. イタリア生糸および撚糸輸出先一覧表 ......................................................68

図表 2-29. 生糸輸出総高・アメリカ向け輸出高..........................................…………...68

図表 2-30. 海外需要地絹織物機代数一覧表(明治 23・26 年)………………………….....70

図表 2-31. 中国生糸輸出量一覧(明治15~30年)...........................................................73

図表 2-32. 中国生糸輸出先一覧(明治 19~23 年)..........................................................73

図表 3-1. 生糸生産量の推移……………........................................................................77

図表 3-2. 世界の生糸生産数量…...................................................................................78

図表 3-3. 代表的成長を個々にみると............................................................................79

図表 3-4. 養蚕農家・収繭量推移………………………………………………………….....81

図表 3-5. 製糸工場数及び設備数...................................................................................82

図表 3-6. 器械製糸の規模別工場数及び設備台数..........................................................83

図表 3-7. 製糸業従業員数..............................................................................................84

図表 3-8. 絹織物生産・織機・従業員数推移..................................................................84

図表 3-9. 日本経済の成長過程......................................................................................86

図表 3-10. 繊維合計需給表...........................................................................................87

図表 3-11. 貿易構造の変化・工業製品輸出額の構成....................................................89

図表 3-12. 生糸需給推移...............................................................................................91

図表 3-13. 筒袖上衣と股引………………………………................................................97

図表 3-14. レキション羽織と股引………………………………………...........................97

図表 3-15. 横浜の警察官の制服……………………………………………………………..98

図表 3-16. 郵便配達夫……………………………………………………….......................98

図表 3-17. バッスル・スタイル…………………………………………….......................99

図表 3-18. 看護婦の制服………..………………………………………………………….100

図表 3-19. 乗合バスの女車掌……………………………………………………………...100

図表 3-20. 国民服(昭和 15 年制定)………………………………………………………...102

図表 3-21. もんぺ姿………………………………………………………………………...102

図表 3-22. 繊維の分類表……………………………………………………………………103

図表 3-23. 生糸の生産量と輸出量...............................................................................106

図表 3-24. 化学繊維生産高推移……………………………………………………………108

図表 3-25. 日本の織物生産高………………………………………………………………110

図表 3-26. 日本の糸生産高…………………………………………………………………110

図表 3-27. 東南アジア及び旧ソ連の生糸生産量………………………………………...114

図表 3-28. 繭糸価格安定法に基づく生糸価格…………………………………………...115

図表 3-29. 繊維品の輸出量(地域別・国別推移)……………………………………………..116

1

序章 はじめに

第 1 節 問題設定

我々おぴと愉快な仲間たち~空だって飛べちゃうんだぞ~班(以下おぴ班)は桐生市の

織物参考館紫(ゆかり)、熊谷市にある片倉シルク記念館、高崎市の日本絹の里にて合宿調

査を行った。そこでは片倉工業が製糸業を撤退するまで行われていた製糸工程や、絹の歴

史やそのルーツを知ることができた。日本の製糸業の位置づけは非常に重要なものであり、

外貨を取得できる当時の発展途上であった日本にとって数少ない主力産業であった。

その調査を行った過程において、我々はなぜこれほどの生産過程の効率化や品質の向上

をはかり世界でも有数の産業として成長した日本の製糸産業が衰退してしまったのか、ど

のような要因が影響して製糸業は展開されていったのか疑問を抱いた。そこで我々おぴ班

がこの論文で明らかにするべき命題は「なぜ日本の製糸産業は発展することができたのか」

「日本製糸産業はなぜ衰退したのか」とした。

第 2 節 考察するにあたっての視点

この論文で考察する時代は開国~昭和期までとする。開国によって貿易がはじまり、海

外に日本の生糸が渡るようになったものの、当時の日本の生糸の品質は外国製品と比べて

劣悪なものであり、評判が悪かった。この状況を憂慮した幕府は産業革命による従来の製

糸技術を改良した製糸技術が日本に導入し始めることにした。生糸の生産が盛んに行われ

るようになったのがこの開国期からであり、そこから日本の製糸業は劇的に変化し始めた

からである。

発展と衰退を考察するにあたって、日本の製糸業が発展し国民経済を支える極めて重要

な基礎となる産業つまり基幹産業になり、どのように衰退していったのかそれまでの過程

を見る。そのために生産量、産業構造の変化、雇用・生産の変化、貿易面の 4 つの視点か

ら考察していく。

この 4 つの面から見るのは前述したように、国民経済を支えるその基礎となる産業が基

幹産業であり、産業が発展するためにはまずその産業の生産量が増えなければならない。

そしてその生産量の上昇によってさらに生産を拡大させるために生産者、つまり人とその

場所が必要になってくる。人が増えるということは当然その国の中で産業に携わる人が増

えるということであり、国民経済に大きく関与してくることになる。そのため雇用・生産

の割合からも見ることが必要なのである。さらに、生産量が増えていけば当然市場は国内

だけでは賄えることは難しくなっていく。そこで国内にとどまらずより広大かつより大き

な利益が得られる市場に参入しなければならず、外国市場への参入は不可欠となってくる。

このため、貿易の面から考察する必要性がでてくるのである。そうした上で再びさらなる

2

生産量の向上へとつながっていく、つまりこの 3 つの面は発展するための循環サイクルに

なっているのである。

さらに国内の他産業との割合を比べて、その産業が他産業と比べてウェイトが高く、基

幹産業といえるかどうかについても考察する必要がでてくるので、産業構造の変化という

面からも考察していく。

第 3 節 各部の構成及びその役割

第 1 章

この章ではまず製糸業がどのようもので、どのような工程を経て絹が作られていくの

かを説明していく章である。この章は我々おぴ班が合宿で調査した片倉シルク記念館、

日本絹の里、織物参考記念館紫の報告書であるとともに、後に下の章で述べる製糸技術

の発展過程において、その述べた技術が絹を作る工程のうちどの工程で使用されるもの

で、その技術が導入されたことによってどう変わったのかを理解しやすくするための補

論としての役割を果たす。なお、ここでは、この論文の主な対象となる明治~昭和期に

かけて行われていた製糸工場で生糸を作る上での製糸過程における基本となる工程のみ

を述べるものとする。

第 2 章

第 2 章は基幹産業への発展とその発展要因の分析の 2 節にわけて展開していく。第 1

節では前述した生産量、雇用・生産の変化、産業構造の変化、貿易面の 4 つの視点から

製糸業を見てゆき、基幹産業へ発展しているといえるか、過去の事実をもとに作られた

データないし統計を参考に考察していく。第 2 節は、第 1 節を踏まえて発展した要因が

「微粒子病」、「政府政策」、「製糸技術の発展」、「製糸金融機関」、「主な生糸輸入国の状

況・関係」の 5 つであるとし、検証、分析し要因を明らかにしていく。

第 3 章

第 3 章は第 2 章の内容を踏まえた上での基幹産業からの衰退と衰退要因の分析の 2 節

構成となっている。第 1 節では第 2 章と同様生産量、雇用・生産の変化、産業構造の変

化、貿易面4つの視点から製糸産業が基幹産業から衰退しているか統計資料をもとに考

察する。

第 2 節においては、その衰退した要因を「衣生活の変化」、「化学繊維の出現」、「海外

からの影響」の 3 つの仮説を立て、そこからさらに「衣生活の変化」は洋装化による和

服の衰退の面から、「化学繊維の出現」は人造絹糸の開発、化学繊維の発展を見たうえで

生糸と比較し、海外からの影響は東南アジアを中心とする「日本の海外投資」、日本の生

糸輸入一元化措置、国際分業化の面から検証して要因を明らかにしていく。

3

第 1 章 日本の製糸工程

以下で、各工程の内容について述べていくが、これに際し製造の流れを理解するための概

略図を下に示す。

養蚕

乾繭

貯繭

選繭 副蚕

煮繭

繰糸

副蚕

仕上げ

検査

原種→催青→掃立→上蔟

殺蛹→乾燥

索緒→抄緒→繰糸→小枠湿し

揚返し→編祖→糸捻→括造り

正量検査→品位格付検査→生糸の格付け

煮繭前処理→煮繭→配繭

4

第 1 節 養蚕

① 原種

原種とは一般的に蚕の親となる蚕種のことであり、この原種から孵化した蚕を原蚕と

いう。

この原種を選ぶ際には地域、時期によって適切な蚕品種を選択する。蚕には餌があり、

温度をある範囲内に保つことができればいつでも飼うことができるが、わが国で一般に

飼育される時期は温度が 20℃以上ある 5~10 月で、カイコが飼育された時期によりつぎ

のように区別されている。なお、カイコを飼育する時期を蚕期といい、蚕期によって繭

の大きさや品質は異なる。

種類 時期 特徴

春蚕 5~6 月 気温が高過ぎず、クワの成育にも適している時期なの

で繭の収穫量が多く、他の長期の繭に比べて品質は最

も良いが、カイコが繭を作っている時期に長雨(梅雨)

に遭遇したものには糸のほぐれの悪いものがある。

夏蚕 7~8 月 気温が高いためカイコの成長は早いが、収穫量は少な

く繭の品質も劣るものが多い。

初秋蚕 7 月下旬~8 月はじめ 気温が高いために繭の収穫量は夏蚕と同様に少なく、

品質も良くないものが多い。

晩秋蚕 8 月下旬~9 月 気温が適当で春蚕に次いで収穫量が多く、繭の品質も

良いものが多い。

晩々秋蚕 9 月中旬 温暖な地方で養蚕を専門に行っている農家や晩秋蚕な

どの養蚕をしたあとクワが余った場合などに飼育され

る。

初冬蚕 9 月下旬~10 月 温暖な地方で飼育されるが、生産量は少ない。

② 催さい

青せい

催青とは蚕種を孵化させるために温度・湿度・光線などを調節した環境保護する作業

をいう。催青の必要は単に孵化日を予定し、孵化を均一にするのみだけでなく、その適

否は幼虫の発育にも、繭質にも大きく影響する。催青期間は 10~13 日で、孵化は 2~3

日にわたる。

①原種→②催青→③掃立→④上蔟

5

③ 掃立はきたて

孵化した蚕児に餌となる桑を与えるために蚕座に移す作業。孵化した蚕を飼育する場

所に移して餌を与えるが、この際、羽箒により蚕を掃き下ろしたことから、この名が付

けられたと言われている。ここで一齢-一眠(獅子休)、二齢-二眠(竹休または鷹休)、

三齢-三眠(船休)、四齢-四齢(庭休)、五齢と四回の脱皮を経ることになる。なお、

一齢から三齢までの蚕を稚蚕といい、四齢から五齢になった蚕のことを壮蚕という。特

にこの稚蚕は非常に病気にかかりやすいので、徹底した管理が必要となる。

④ 上蔟じょうぞく

食桑をやめ吐糸する状態になった蚕(熟蚕)が繭を形成するための環境が整えられて

いる蔟(まぶし)という用具に蚕をいれる作業。蚕は 2~3 日昼夜にわたって糸を吐いた

後繭を作った後脱皮して蛹となる。サナギとなった直後は皮膚が軟らかく傷つき易いの

でさらに 2~3 日経過して皮膚が硬くなってからまぶしから取り出され、足場として吐か

れた綿状の糸(これを羽毛という)や糞を取り除くとともに、汚れた繭や形のよくない

繭を選除して良い繭だけが製糸業者に売り渡される。

第 2 節 乾かん

繭けん

製糸工場に入ってくる繭はほとんどが生繭であり、そのまま放っておくと繭の中のサ

ナギが成虫(ガ)となって繭に穴をあけたり、汚したりして製糸原料としての価値は失

われてしまう恐れがあるので、そのようになる前にサナギを殺すとともに、後で生糸に

するまでの間にカビが出たり腐敗したりすることがないように繭を乾燥し、水分を少な

くしてから貯蔵する。(繭を乾燥する工程を乾燥または乾繭といい、乾燥された繭も乾繭

と呼んでいる)こうすることによって繭の長期保存が可能となり、蚕に寄生している害

虫が繭を食い破ることの防止につながる。

① 殺さつ

蛹よう

繭の発蛾及び害虫である蛆が出てくるのを抑えて長期保存するためには繭の中にいる

蛹の生理作用をとめることが保存を容易にするために必要なことである。このための方

法として熱エネルギーを与える方法、酸素を絶って窒息させる方法、毒を使って呼吸困

難にして殺す方法などがあるが、一般的に行われているのは熱エネルギーを与える方法

で蒸気の噴射による蒸殺、高温乾燥空気による燥殺、過熱蒸気または蒸気と熱空気の併

用による蒸燥殺及び高周波による短波殺蛹等などがある。殺蛹を行う時期については春

蚕では上蔟後 7 日目以後に、夏秋蚕では 6 日目以後のなるべく早い時期に行う。

①殺蛹→②乾燥

6

・蒸殺じょうさつ

これは蒸気圧力の拡散性、凝縮液化による容積の変化及び潜熱放出等を利用するも

ので殺蛹の目的が短時間に達成される。例えば装置内の温度が 85 度から 90 度では触

蒸時間が 3~5 分である。この方法は蒸気を直接繭に噴射するので、繭のセリシンを変

質させてしまう恐れがある。

・燥殺そうさつ

この方法は最も一般的で古くから行われている方法で加熱した空気(90 度~100 度)

によって蛹に熱エネルギーを与えるのである。普通の乾繭機では乾燥操作の一部とし

て殺蛹が行われる。空気は蒸気よりも比熱が小さく、容積の変化も小さいので繭の層

を通して中にいる蛹に作用する熱エネルギーの代謝が非常に良い。しかし、蛹を殺す

のに長時間要してしまうのがこの方法の短所である。

・蒸燥殺じょうそうさつ

これは蒸殺による繭層が濡れてしまうこと、燥殺による長時間を要してしまうのを

補うために考案された方法であり、蒸殺法の一種という見方もある。これには過熱蒸

気を使用する方法と蒸殺及び燥殺を併用する方法があり、後者は 5 分程度蒸した後1

5分ほど 90 度前後保温するものと、90 前後に 20 分程度予熱した後 5 分程度蒸す 2 つ

の方法がある。

・凍殺とうさつ

低温度のエネルギーを与えて殺蛹する方法である。-10 度では 6 時間-12 度では 4

時間-15 では 2 時間で蛹は凍死する。この方法は高温度の熱エネルギーを与えるより

も著しく設備に経費を要するものであまり一般的ではない。

・電波殺で ん ぱさ つ

蛹よう

この方法は波長 3~10メートルくらいの高周波の電波を繭に浴びせて短時間(2~5分)

殺蛹するものでこの方法は繭の層を通して蛹に作用する熱エネルギーが蒸殺や燥殺等

の各方法とは全く反対に繭の層を透過して直接蛹に作用する。これは蛹の水分が繭の

層の水分よりも多くまた電力を吸収しやすいためである。さらにその温度についても

電界印加時間とともに上昇するものの 65 度程度で停滞するので、他の熱を与える方法

と比べて低い温度かつ短時間で殺蛹をすることができる。このため熱効果による繭の

変質などといった副作用は少ない。

② 乾燥

繭に蛆や成虫が出てくるのを防止する操作は殺蛹処理でできているが、殺蛹された蛹

には多量の蒸発成分を含みそのままの状態では腐敗しやすくカビの発生にもつながりか

ねないので繭を乾燥させる必要がある。乾燥させる方法としては太陽熱を使用する日乾

法、空気を利用する風乾法、熱エネルギーを利用する熱気乾燥法及び吸湿材を利用する

といった方法がある。

7

・風乾法

これは名前の通り自然の風の力を使って繭を乾燥させる方法である。常温で乾燥す

るものであるため長時間を要するものであるため乾燥中に雨が降り、カビが生えてし

まったり、害虫の被害を受けたりする恐れがある。

・熱気乾燥法

この方法は熱気によって薄くひろげた繭の温度を高め、水分の蒸発を早めて乾燥す

る方法である。蒸発は吸熱現象なので温度を上げるとできるだけ外界の圧迫を軽減し

ようとしてますます蒸発を盛んに行おうという動きが繭のなかで行われるので、短時

間で繭を乾燥させることができる。

第 3 節 貯ちょ

繭けん

貯繭とは繭を実際に使用するまで繭を保管して繭の品質を悪化させることなく年間保有

するために行われるものである。乾燥作業の終わった繭は貯蔵中に大気の湿気を吸収ない

し繭に付着するので、繭の水分が増してカビが発生してしまう恐れがある。また、カツオ

ブシ虫や鼠などの食害をうける可能性もあり、日光の作用、空気中の酸素や二酸化炭素の

作用によって繭室を悪化させてしまうため、できるだけこれらの外界因子を防ぐために繭

の保管場所は温湿度の変化の少なく、鼠やカツオブシ虫が侵入しづらい密閉された場所に

保管する。なお、下の図はその害虫となるカツオブシムシの一例である。

貯繭方法としては袋詰法、鑵詰法、冷蔵法の 3 つがある。

・袋詰法

乾繭をコンニャク糊、柿渋などを塗った紙、木綿あるいは麻の袋に詰めてこれを乾い

た貯繭庫に直接袋が床に触れないように貯蔵する。貯繭庫の壁や木の部分には防虫剤を

塗り、害虫の侵入を防ぐ、またナフタレンや防虫粉末、二硫化炭素を加えたテルペン油

などを用いる。また外気や湿気の侵入を防ぐ。

・鑵詰法(缶詰法)

ブリキまたはトタン板で作った缶のような小さな部屋に袋詰めのものを入れて密封貯

蔵する。こうすることによって外気の気温や湿度を一定にして絹糸の変化を少なくし、

かつ害虫に襲われる恐れがなくなる。

・冷蔵法

生糸または殺蛹繭を 0 度付近の低温で乾いた部屋に貯蔵して、同時に低温乾燥を行う

ことができる。

8

図表 1-1害虫であるカツオブシムシ

第 4 節 選せん

繭けん

繭は生物である蚕によって作られるものだからそのひとつひとつが形大きさ異なってい

る。また、後天的に鼠に食べられたり、汚染されてしまったりした繭など繰糸ができない

ものなどさまざまなものが混在しているため、これらの不良繭を選別・排除して後の工程

である繰糸するのに適切な繭を選び出すことが重要である。繰糸をするにあたって適切な

繭とは俵型または卵型の形状で、形が整っているもので上繭と呼ばれるものである。一方

で不良繭と呼ばれるような繭は以下のようなものをいう。

死篭繭 殺蛹を行う以前に既に中の蛹が死んでしまっている繭。この場合蛹は中で

溶けてしまい繭が汚れてしまう。

玉繭 2 匹の蚕がひとつの繭の中に入っている状態。本来ならば糸口が一つのはず

がこの場合、2 つになってしまっているので繭糸をほどく際に絡まってしま

うことがある。

汚染繭 前述した死篭繭のような中で死んでいる蛹の体液や機械の油などが繭に付

着して汚れてしまっている。

薄皮繭 繭の層が薄いため節ができやすく、後の工程である煮繭で支障をきたす。

黴繭 カビの生えてしまった繭

破風抜繭 繭の両端の層が薄く、穴が開いているものもなかにはある。

出殻繭 繭から蛹が出てしまっている繭。

穴あき繭 カツオブシ虫などによって食われ、穴のあいてしまった繭。

奇形繭 はふの部分がとがっている、扁平になっているなど繭の形が異常な繭で、

その程度の著しいものはふしや落緒を多発する。

蔟付繭 繭の一部が平になってしまっていて節ができやすく、落緒しやすい。

胴切繭 繭の中心あたりがくぼんでしまっている繭。ピーナッツのような形をして

いる。

図表 1-1 Silk New Wave (カイコ・蚕糸・染織・シルク etc.に関心のある人のためのページ)

http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SeisiKiso/chapter9.htm、5 月 24 日取得。

9

以上のような繭が主に排除される。なお生繭の選繭の際には選繭台が使用され乾繭の選

繭の際には選繭機が使用される場合が多い。すなわちコンベヤーで運ばれる繭を特殊な透

過光線で死篭繭を排除し、さらに普通光線または蛍光灯で上述のように不良繭を排除する。

図表 1-2選繭の際に除外される繭

第 5 節 煮しゃ

繭けん

煮繭とは選繭された繭を煮る作業である。煮る目的は原料である繭に糸と糸が接着し合

って繭の層を形成するために糸同士の接着を促すセリシンという物質を水によって融解さ

図表 1-2 鈴木三郎著、『製糸学』、昭和 27 年、アヅミ書房より。

① 煮繭前処理 ②煮繭 ③配繭

熱湯浸透法

浮繰煮繭法

蒸気浸透法 配繭

沈繰煮繭法

減圧浸透法

10

せて後の工程である繰糸を可能にするためのいわば繰糸前処理のためである。後で述べる

が繰糸をするための根本的な原理は技術発展による機械による作業となっても変わってい

ない。もともと繭に含まれているセリシンはフィブロインとその形成を異にしてかつその

成分は水和性の基を多く含んでいるため、水に対する抵抗性がとても小さいので非常に水

に溶けやすいのである。セリシンの溶解はまず、セリシンの膨潤に始まり、セリシンの粒

子間の結合力を緩めてその後分解するものである。膨潤は温度の上昇によって促進される

ものであるから温度の上昇によってセリシンの溶解性もまた上昇するのである。

一般に春繭のセリシンの溶解性は夏秋繭の溶解性よりも大きい。また春繭の繭層には易

溶性のセリシンを多く含んでいる。黄繭は白繭よりもセリシンの溶解が大きいため。これ

は黄繭は白繭よりも一般にセリシン含有量が多いのも一因とみられる。また蚕の品種の違

いによっても繭層セリシンの性質も異なってくるからこれが水への溶解性も異なってくる

のである。セリシンの溶解性は水が繭層へ浸透する速度によっても影響をうけるのである。

煮繭様式

煮繭様式は繰糸に際し繭を繰糸湯に浮かして繰糸するための浮繰煮繭と沈ませて繰糸

するための沈繰煮繭に大別することができる。繭は貯繭中においても 11~12 パーセント

の水分を含有して乾燥状態を保っている。その状態で繭を煮繭湯内に直接入れて煮繭す

ると、繭は一部分のみ煮繭湯と接触するのみであり、均一な煮熟は困難である。したが

ってその前処理段階として浸透法を行い、繭層繊維間の空気を排除してこれに水を置換

する。この水を通して煮繭湯の熱エネルギーを繭層セリシンに与え、軟化膨潤すること

ができるのである。その浸透法には浸湯法、浸水法、加圧または減圧浸透法、熱湯浸透

法、蒸気浸透法がある。

① 煮繭前処理

・減圧浸透法

繭容器内の空気を排除して圧力を減らし、この中に煮繭溶媒を吸入して繭層内に水

または処理液の浸透を行うもので低温度十分に浸透を行うことができる。

・熱湯浸透法

繭を収めた容器を高温度の湯の中に沈めて繭の中の空気を追い出して、水蒸気でこ

れを置換えた後急速に低温湯に移し、この際接触する温度の差異によって繭の中に生

じる水蒸気の凝縮並みに残存する空気の収縮によって内外圧力の差で湯水の繭層への

浸透を行うものである。

・蒸気浸透法

繭をまず高温度の水蒸気に接触させた後低温湯内に移すもので、これも熱湯浸透法

のごとく温度の低下にもとづく圧力の差で湯水の浸透を行うものであるが熱湯浸透法

と比べて繭の層間に吸着水分が少ないため低温湯に移した場合、繭の中に吸入される

11

吸水量は同一の条件の下では熱湯浸透より多い。

② 煮繭

・浮繰煮繭法

まず先に述べた煮繭前処理として適宜浸透法を行う。すなわち 96~99 度の温度の蒸

気または湯に触れた(30~60 秒)後 65 度程度の低温湯ないに繭を移して浸透を行う。

しばらく浸透を行った後繭を再び熱湯に内戻し、繭を湯中に沈めて煮繭して湯面にう

かべて煮熟する。普通の解舒程度の繭では全繭時間の約 3 分の 1 を沈めて煮繭し、そ

のあとの 3 分の 2 は浮煮として煮熟し終わる程度を標準とする。こうして煮熟終わっ

た場合は蒸気を止めて 1 分間ほど静かな状態に置く。この間にセリシンの溶解及び繭

層への湯水の浸潤は、停止し、或は進行して適煮の域に入るのである。

・沈繰煮繭法

まず繭を 85~93 度くらいの煮る繭内に入れ、蓋をかぶせて蒸気を通して煮繭を始め

る。最初 2,3 回蓋で繭を湯中に押沈めて繭層への湯水の浸潤をはかる。次に脱気と称

して蓋をとり繭の中の膨張してきた水蒸気を放逐するかたわら煮繭湯の繭層へ浸透を

はかる。脱気後引き続き蒸気を吹き込んで沸騰状態で煮繭する。この間煮繭全時間の

うちの約 3 分の 1 が適当とされている。ここで中水と称して冷水(10~27 度)を原料

繭の容量比において 5 分の 1 程度散水して湯水の繭内及び繭層内への浸透浸潤を行う

のである。この中水の散水によって煮繭湯の温度は 85 度に下降する。中水散布後はま

た蓋をして徐々に蒸気を吹き込んで煮繭を持続する。この際の湯の温度は沸騰点に近

い温度でこれを行う。かくして適切に煮繭されたときは蒸気をとめて揚げ水を散布し、

煮繭を終える。

③ 配はい

繭けん

煮繭の終わった繭は 40~50 度の微温湯 2~3 リットルの入った玉桶に移されて保護さ

れた状態で繰糸工場に運ばれ、それぞれ繰糸工に配繭される。

第 6 節 繰糸くりいと

繰糸とは解舒かいじょ

処理(繭を解きほぐして繭糸をだす処理)を行った繭から生糸を作る作業

である。繭から緒(イトグチ)を探し出して数粒からの緒を集めて一條の連続した生糸と

して小枠に巻き取る作業をいう。繰糸は主に索緒・抄緒・繰糸・小枠湿しにわけることが

できる。この作業においては繰糸機械が中心となって行われる。繰糸器械の種類は、発達

の順序に従って挙げると座繰、足踏座繰、普通繰糸器、(座繰機)、多条座繰機(立繰機)、

①索緒→②抄緒→③繰糸→④小枠湿し

12

自動繰糸機等がある。

生糸は繰糸する機械によって座繰生糸と機械生糸に分けられる。座繰生糸は座繰器また

足踏座繰機を副業的に製糸するものが多い。機械生糸は輸出を目的とするもので国の免許

を受けた業者が製糸機械よって製造されるものである。これらの生糸をつくる繰糸方法を

分類すると座繰生糸は座繰法によって繰糸され、機械生糸は座繰式、多條式、自動式繰糸

法によって分類される。

① 索さく

緒ちょ

索緒とは繭の表面から繭糸の先端を探しだすために繭を毛羽たたせる作業をいう。索

緒湯内に一面に懸垂する繭に下図のような索緒箒という箒をあてて緒糸を探し出すのが

普通行われている方法である。

図表 1-3索緒箒

索緒箒には長箒、小箒及び丸箒等形大きさは沈繰または半沈用に手索緒用として使用さ

れ、小箒は浮繰用に、また丸箒は特殊の浮繰用に使用されたが今は殆ど使われていない。

機械索緒箒は小箒の小さいのが使用される。

② 抄しょう

緒ちょ

抄緒とは索緒により送られてきた繭の毛羽った数本の糸の中から一番長くとれる糸の

先端を見つけ出す作業をいう。索緒では繭から数本の糸口が引き出されてしまうため一

本の正しい糸口になるまで糸をすぐり、余分ない糸口を取り除く。取り除かれた糸口は

ひとつにまとめられキビソという副蚕品として出荷される。

③ 繰糸くりいと

我々が見学した片倉工業が採用していた自動繰糸機で繰糸をする場合、煮繭を終えた

繭は配繭器により索緒部に移されて新繭補充器に蓄えられたあと少量ずつ索緒槽に送り

込まれ、落繭分離機から分離されて戻ってきた落繭と一緒に索緒される。索緒槽の湯の

図表 1-3 鈴木三郎著『製糸学』、昭和 27 年、アヅミ書房より。

13

温度はほぼ 80~85℃に保たれており、左右に反転運勤しながらゆっくり時計方向に回転

している索緒体のほうき(箒)に接触すると繭の最外層から緒糸が引き出される。この

索緒部で出た緒糸は抄緒粋に移され、緒糸の出た繭は抄緒粋の回転によって引かれると

ともに索緒繭バスケットによって抄緒槽に移されるが、緒糸が出なかった繭は緒糸が出

るまで索緒体とともに何回も索緒部を巡回することになる。

正緒繭から引き出された繭糸は何粒分か一緒に回転接緒器を経て集緒器を通り 1 本の

生糸にまとめられる。集緒器にはボタン式とスリット式とがあり、そこには小さな孔ま

たは狭い間隙があって通過する生糸に大きな節があるとそこに詰まって通れなくなり、

糸道の上部に設けられた小粋停止装置が働いて生糸の巻き取りを止める仕組みになって

いる。集緒器を通過した生糸は撚り合わされる。ここで撚り合わせる回数を 100 回とす

ると撚り合わされる部分の糸の長さはほぼ 8cmとなり、繰糸中に生糸はその部分では高

速回転(糸が走る速度を 1 分間あたり 150mとするとここの部分で糸が回転する速度は1

9 万回/分の割合となる)して生糸は締め付けられ、繭糸がお互いに良く接着して断面の

形が丸くなるとともに生糸に付いている水分を飛散(遠心脱水)させる。このようにし

て繭糸が良く接着してしまって離れなくなっている状態を抱ほう

合という。

この撚り合わせの部分は単に撚り、またはケンネル式撚り掛け機構と呼ばれており、

仮よりであるためにそこを通過したのちに撚りは完全に戻ってしまい、できた生糸に撚

りは掛かっていない。

撚りを通過した生糸は繊度感知器と小粋停止装置のストップレバー、絡交を通って小

枠に巻き取られる。繊度感知器は繰られている生糸の繊度が目的より細くなっているか

どうかを検知するもので、ここで細くなったことが感知されたときは繰解部に新しい繭

を補給する動作を指示する。またストップレバーは、集緒器に節が詰まったり何らかの

理由で糸道にトラブルが生じたりして生糸を巻き取る力が異常に高くなった場合に上昇

して小粋の回転を停止させる仕組みになっており、絡交では小粋に巻かれる生糸が同じ

ところばかりに重ならないように左右に振り分けている。小粋の周囲には何本かの蒸気

管が設けられておりその熱によって巻き取った生糸を乾燥させている。

なお、この過程で緒糸が切れてしまった繭は落繭バスケットによって索緒槽に戻され

て索緒が繰り返される。抄緒から繭を糸口ごと繰糸へ運び、繭は目的の大きさ・太さ・

長さに保つために必要に応じて繭を順次継ぎ足す(給繭)。

④ 小枠湿こ わ くじ め

撚り終えた生糸がセリシンの働きによって再びくっついてしまうのを防ぐために固着

防止剤や光沢剤、浸透剤、柔軟剤を溶かした水溶液につける作業である。小枠に巻き取

られた生糸はきつく巻かれた状態なので枠角などで軽く接着している。また次の工程で

ある揚返しの途中で生糸が乾燥してしまわないように水分を補い再び表面を湿らせてお

く必要がある。そのためその前に適度に表面を湿らせ、接着をとき、ほぐれやすくする。

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また光沢剤などをこの時につけて見栄えをよくする。

図表 1-4自動繰糸機

第 7 節 仕上げ

①� 揚返し

繰糸枠に取り付けられた生糸はそのままでは取り扱いが不便であるので、生糸を一定

周長幅及び量をもつ綛かせ

糸いと

に巻き返す作業のことをいう。また繰糸中にできた糸の歪みを

除去するという意味でもこの作業は行われる。生糸は繰糸の段階で高速回転して巻き取

られており、このときの生糸の温度も高めであるためセリシンは融解している状態であ

る。高速回転で巻き取られた生糸は本来の状態よりも引っ張られているため、長く伸び

ている。またセリシンは冷えると固着してしまうので生糸同士がくっついてしまうおそ

れがある。それを防止するための工程がこの揚げ返しである。

生糸の揚返し法

揚返しの作業は揚げ返し機を使用し、繰糸枠に巻き取られている生糸を大枠に低張度

で巻き返す。ここで生糸の張度を調節してやることで生糸の緊張をほぐしてやることに

なる。これは、生糸は繰糸の時点で 130 パーセントほど無理に引き延ばされているので

この状態を直すためである。また、巻き返す際には生糸は湿っていなければならず、巻

き返し後は生糸に適した状態で乾燥していなければならない。良く乾燥して巻き取られ

た生糸は編祖台に移される。大枠を編祖台で生糸の糸口が分かるよう「緒止め」を行い

生糸の最初と最後の糸口が分かるようにする。

図表 1-4 Silk New Wave (カイコ・蚕糸・染織・シルク etc.に関心のある人のためのページ)

http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SeisiKiso/chapter9.htm、5 月 29 日取得。

①揚返し→②編祖→③糸捻→④括造り

15

②� 編あみ

祖そ

(力糸)

これは綛の形態がくずれないようにそのままの状態で維持するために、一定量の生糸を

デニールごとに束ねる作業である。また、この作業は生糸が他の生糸と絡み合ってしまう

のを防止するだけでなく、製品の量の均一化を図れるという意味でもメリットがある。編

祖の工程としては、生糸の下に編祖糸をはわせ、ネコと呼ばれる編み棒に似た棒を使って、

編祖糸をすくい上げて 3~5 の輪をつくり、編祖糸の先を輪の中に通し、もう片方の先と結

ぶ。この作業は機械化する試みがあったが、編むときの力加減の調節が非常に困難である

ため基本的に手作業によって行われる。

③� 糸捻いとねじり

この工程は大枠から外された糸を捻る作業である。生糸を捻る主な理由としては生糸の

容積を小さくして取り扱いを便利にかつ、外部からの損傷を少なくして商品価値を高める

ことにある。捻り方としてはまず綛糸を捻り鈎または溝鈎にかけて手前の綛端に捻棒を通

し、右手で綛耳をそろえて緒留のある内側を外側の綛幅内に巻き込み両手で捻り棒を 6 回

捻って 2 つ折りにして 3 回なって手前の捻り棒をとった部分を鈎にかけてできた輪に通し

て耳(1・5 センチ)をつくり輪は姿良く髱(4 センチ)として形を整える。

④� 括造かつづくり

括造は捻りを加えられた生糸をさらに出荷時の輸送に耐えられるようにするためにプレ

スし、括としてまとめる作業である。括造の工程としてはまず生糸を束ねる紐を敷く、そ

して綛を縦に 5 段、横に 4 列になるようにプレス機に詰め込む。これが 1 括という単位に

なる。詰め込んだら蓋をして下方よりプレスを行う。そして最後にこの状態のまま生糸を

紐で結ぶ。

第 8 節 検査

生糸検査には量目を検査する正量検査、生糸の品質を検査する品位検査がある。

①� 正量検査

生糸に含まれる水分は生糸が作られるときの条件や生糸の重量をはかったときの気象条

件などによって変化する。そのため生糸の取引にあたっては国が定めた一定の水分率(こ

れを公定水分率という。生糸の場合は 11%)を含んだ重量(正量)によることが必要であ

る。そのため生糸検査ではサンプルの 8 綛の生糸を乾燥して無水量を求め、次式によって

生糸の水分率を算出して荷口生糸の無水量を推定し、その重量の 11/100 を加算したもの

①正量検査→②品位格付検査→③生糸の格付け

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を正量として取引の重量がきめられることになっている。

水分率%=(原量g-無水量g)/原量g×100

② 品位格付検査

品位格付け検査は主に以下のような検査をもって行われる。

・平均繊度検査

平均繊度検査は繊度糸 200 本につき正量繊度を求めて表示する。繊度糸は一括して

乾燥機入れ、140 度をこえない温度で乾燥して恒量(W)を求める。

・繊度最大偏差検査

糸長 450 メートルにたいする繊度分布における飛び繊度の程度を検査するもので平

均繊度と最太繊度 4 本の平均と最細繊度 4 本の平均との差を求めその絶対値なる最大

偏差として表示する。

・繊度偏差検査

生糸の鮮度マダラはいと町 450 メートルに対する鮮度の分布を検査してその程度を

表示する。両糸は各綛から検尺機により 450 メートル繊度糸を 4 本宛検査料糸 50 綛に

つき合計 200 本の繊度糸をはかり、次にその 20 本宛を一括し精秤器にてその綛量をは

かる。

・糸むら検査(糸条斑検査)

もともとは米国においてゲージ検査として成立した検査で、ゲージを所定のデニー

ル数の生糸にセットし、その間に生糸を通し、生糸をセットする。従ってこの間隔よ

り太い糸むらがある場合や節がある場合生糸が通過せずに切れるのである。また生糸

は引っ張られて巻取られるので、この力に耐えられない細いところでも切断される.こ

れらの切断された個所を採取して、その生糸の平均強力と比較し、強力を斑に換算す

るのである。この方法は所定のゲージ間隔を通過し、かつ、引張り強力に耐えられる

紳斑を検出できないのである。

その後セリプレーンが開発され、こちらで糸むらを調べるのが一般的になった。こ

れは、セリプレーン板と呼ばれる黒板に生糸を一定の間隔、一定の長さで 10 区画に巻

きつけ、これに一定の方向から光をあて標準写真と対比しながら、生糸の太さのむら

の有無とその程度を検査するものである。(セリプレーン板に巻いたものをパネルとい

う)。

生糸が太い部分は白い縦のしま、細い部分は黒っぽい縦のしまになって見えるので、

そのようなしまの濃淡の程度の小さいものを糸むら一類、大きいものを三類、その中

間を二類とし、100 パネルを検査して二類と三類に相当するしまの出現数を数えて糸む

ら成績とする。標準偏差が比較的長い範囲にわたる繊度のむらを表すのに対し、この

検査は短い長さのむらの有無を表わしている。検査坂に同一間隔に一定糸長の生糸を

17

巻き取る装置がセリプレーン巻取機で生糸を巻く際に常に一定の張力を糸に与える張

力装置及び巻き取り糸変更装置がついている。

図表 1-5セリプレーン

・節検査

糸むら検査と同じパネルについて大中節標準写真と対比しながら節の種類と数を数

え、特大節 1 個について 1 点、大節 1 個について 0.4 点、中節1個について 0.1 点の失

点をづける。また、小節標準写真と対比して小節の失点をつけ大中節の失点に加えて

総失点を求め、100 点から総失点を差し引いた値を節点としている。節は織物等の表面

に現れて欠点となることが多いので節点は高いほうが良いことはいうまでもない。下

の図はその節の一例である。

図表 1-5 『製糸学』、鈴木三郎著、昭和 27 年、アヅミ書房より。

18

図表 1-6節の例

図表 1-6 Silk New Wave (カイコ・蚕糸・染織・シルク etc.に関心のある人のためのページ)

http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SeisiKiso/chapter9.htm、5 月 24 日取得。

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特大節 大節の最小限度の 10 倍以上の長さまたは大きさのもの。

大ズル節 生糸が著しく太くなっていてその長さが 7mm以上のもの、あるい

は短くても大きな塊となっているもの。

もつれ節 生糸に繭糸または生糸がもつれついて大きな塊状となっているも

の。

大節 よりつけ節 繰糸時の繭糸の撚りつけまたは束付けによって生糸が急に太くな

っているもの。

大つなぎ節 つないだ生糸の切れ端の長さが 10mm以上のもの、またはそれよ

り短くてもつなぎ方が不良のもの。

大びり節 生糸を構成する繭糸がらせん状でその形が大きいもの。

小ズル節 生糸が著しく太くなっていて長さが 2mm以上 7mm未満のもの。

あるいはそれ以下の長さであっても塊状になっているもの。

中節 中つなぎ節 生糸をつないだ切れ端の長さが 3mm以上 10mm未満のもの、ま

たはそれより短くてもつなぎ方が不良のもの。

大わ・さけ節 生糸から繭糸の一部が離れて環状または枝状になっているもので、

長さが 10mm以上のもの。

中びり節 生糸を構成する繭糸がらせん状でその形がやや大きいもの。

わ節 生糸から繭糸の一部が離れて環状になっているもので、長さが 10

mm未満のもの。

小節 けば節 生糸から繭糸の一部が離れて枝状になっているもので、長さが 10

mm未満のもの。

こけ節 長さ 2mm未満の生糸がわずかに太くなっているもの、あるいはご

く小さな塊となっているもの。

小ぬか節 生糸に小ぬかをつけたような外観をしているもの。

小つなぎ節 生糸をつないだ切れ端の長さが 3mm未満のもの。

小びり節 生糸を構成する繭糸がらせん状でその形が小さいもの。

③ 生糸の格付け

上述したような生糸の品位検査によりその品位級を品位検査を行った検査官の判断

によって定めるのが格付である。格付けの対象となる荷口は生糸 1 俵~10 俵でこれを

一荷口として単位となって格付けを行うのである。格の等級は次の通りである。

普通生糸には 12 等級特太糸には 10 等級の格が設定されている。

繊度 格の等級

33 デニール以下 6A ,5A,4A,3A,2A,A,B,C,D,E,F,G

34 デニール以上 ---,---,4A,3A,2A,A,B,C,D,E,F,G

20

第 9 節 副蚕

ここでは生糸を作る工程で生じる副産物について紹介する。

キビソ:繭から糸を繰り初めるときに、正常な 1 本の繭糸、すなわち正緒を探るため

緒糸箒ですぐりとった緒糸を集め、洗浄乾燥したもの。絹糸方糸として利用

されることが多い。

ノシ糸:キビソの中で比較的長く紡いだものを、よく水洗いし、引き伸ばし揃えて束と

したもの。キビソと同様紡績用として使われる。

ビス:蛹襯(ようしん=繰糸ができなくなって、繰糸釜などに残った繭の最内層で繭の

こと)を水や湯の中で振り動かせ、繭層を破って蛹を除いた後に残った薄い繭層

を束ねたもの。絹方糸などの原料となる。

蛹:蛹に含まれるビタミン B2 やタンパク質が非常に豊富であるため、ビス取り機でビス

とわけられた蛹も捨てられることなく、魚のえさとして養鯉業者に引き渡されたり、

鶏の飼料として利用されたりする。

アガリ繭:繰糸の途中で切断し、再び繰糸することが不可能となった繭で、真綿や紬糸

の原料となる。

ペニー:副蚕糸を精錬し、これに梳毛工程を施したものであって、絹糸紡績用糸の半加

工品である。

真綿:繭を煮たものを引き伸ばして綿にしたものである。真綿はその製品の形によって

角真綿、袋真綿等に分けられる。原料として最良の繭は玉繭であるが、これは玉

糸としての用途をもつ関係からこれのみのために用いることはできない。出殻繭、

汚染繭、などがこれの原料となる。真綿を細い糸にするために紡いだ場合紬織と

して使われ、毛糸程度の太い糸の場合は編物として毛糸の代用として使われる。

図表 1-7蛹

図表 1-7 http://homepage2.nifty.com/invitro-kaika/mushi/rinnshi/kaiko/kaiko.htm 6 月 15 日取得。

21

第 2 章 日本の製糸産業の発展

第 1 節 基幹産業への発展

日本製糸産業は、輸出が始まるまでも限られた国内市場において一定の発展を占めてい

た。江戸時代中期以降になると、養蚕の発達に伴って、養蚕法や製糸法の専門書がたくさ

ん出版されるようになった。当時は専門の桑園で桑を栽培するのではなく、畑の境界や畑

地にならない土地に植えた大きな桑樹から桑を採取して蚕を飼い、養蚕農家は専業の蚕種

業者から蚕種を購入した。生糸は、養蚕農家が簡単な道具を使って、自分で繭から繰糸し

た。こうした蚕糸業の発達段階へ、日本は鎖国から開国へと国の進路を大きく変えた。

生糸は開港以降明治期を通じて最重要輸出品であり、しかも明治期においては〈移植産

業〉生産手段の輸入を可能にする外貨獲得のための戦略的役割を担い、「まさに日本資本主

義興隆の鍵をにぎる」重要な産業部門であった。開港を契機とする生糸輸出の増加は、海

外市場における需要の増大を基礎条件とし、国内における旧来の流通機構の再編をともな

いながら、製糸業の発展を促した。

この節では、製糸産業が基幹産業として発展していく過程を、輸出入、雇用・生産工場、

産業構造、生産量の変化の 4 つの視点からみてみたいと思う。

22

(1)生産量からみる発展

日本生糸輸出入量と生産量図表2-1

生産量についてみる。日本生糸生産量は図表 2-1 からわかるように輸出入とほぼ並行して

増減している。つまり、日本生糸はそのほとんどが海外輸出向けであることがわかる。主

な生糸産出国はフランス・イタリア・中国・日本。図表 2-2 は 1868(明治元)年以降、1932(昭

和 7)年にいたるまでの世界四大国蚕糸産出量一覧表である。1878~1882(明治 11~15)年時

点、中国の 3 分の 1 以下、イタリアの 2 分の 1 以下、という水準であった日本は、明治 20

年代を通じて中国、イタリアを猛追して、1898~1902(明治 31~35)年当時、中国に肉薄す

るとともに、イタリアに大きく差をつけて、さらに 1908~1912(明治 41~大正元)年時点、

初めて中国を抜き去り、世界第一位の水準に到達。この段階で日本は世界産出量の 3 分の 1

を占めている。さらに大正期を通じてフランス、イタリアの退勢、中国の停滞により一気

に増産、1913~1917(大正 2~6)年時点、世界産出量の 4 割 9 分あまり、1928~1932(昭和

3~7)年当時、世界産出量の 7 割 1 分あまりの水準まで到達しており、独占状態ともいえる。

ただし内外で化学繊維の生産が軌道に乗り、しかも大不況にあった 1921(大正 10)年以降、

蚕糸業界の黄金時代とは言えなくなった。にもかかわらず、これら世界市場における地位

向上は、日本蚕糸業の長い歩みの中で重要な前進であった。世界産出量は 1868~1872(明

治 1~5)年で 8117 トンから 1928~1932(昭和 3~7)年で 44,499 トンと約 5 倍の伸び。各国

生産量をみると、日本が 646 トンから 22,012 トンとその大きな貢献がうかがえる。

図表2-1大岩鉱(農林省蚕糸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 33 年版』、1958 年、日本蚕糸広報協会。大岩鉱(農林省蚕糸園芸

局編集)『蚕糸業要覧 昭和 45 年版』、1970 年、日本蚕糸広報協会・大岩鉱(農林省蚕糸園芸局編集)『蚕糸業要覧 昭和

49 年版』、1974 年、日本蚕糸新聞社・大花正三(農林水産省農蚕園芸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 57 年版』、1982 年、日

本蚕糸新聞社より作成。

23

世界四大蚕糸業国 生糸生産量一覧表(明治元~昭和 7 年平均)図表2-2

1870 年代後半から日本では民間の器械製糸場が続々と成立するとともに、従来の座繰製

糸業が仕上げ工程を中心に大幅に改良され(いわゆる改良座繰)、依然として座繰製糸の段

階(せいぜい足踏み式製糸機械の採用)にとどまっている中国製糸業をしり目に、アメリ

カ生糸市場での日本製糸業の地位はぐんぐん高まっていき、それに伴い、日本生糸の最大

の市場も、1984(昭和 59)年からアメリカ市場に転換した。

図表 2-3 をみると、1907(明治 40)年前後で生糸生産量の伸びがおおきくなっている。こ

こで重要なことは、いまだ少数であるとはいえ、イタリア・フランス糸に質的に対抗し得

るような生糸を、かなりの数量生産しうる製糸家が日本各地に出現してきたという事実で

ある。1800 年代後半の経たて

糸部門への再進出は、従来、緯糸中心方針をとって華々しく活躍

していた有力な「普通糸」製糸家の周辺にあって、細々と経営を続けてきた日本国内の「優

等糸」製糸家が、金本位制採用(1897 年)による為替相場の安定と、1900~2001 年恐慌

以降の対アメリカ輸出の安定的拡大を前提条件として、このころ次第にその数を増やして

生産を増大させつつあったことに基づくものであった。同時に、先に指摘したように、

1908(明治 41)年以降、「普通糸」製糸家の一部に、「優等糸」生産に乗り出すものが現れて

きた点も注目しておく。「普通糸」製糸家にそのような方針転換を迫った基本的契機は、ア

メリカ市場への中国糸輸入の増大という事実だったのであり、そのことは、日本製糸業が

かつて 1870 年代以降、中国糸・日本糸の台頭に直面したイタリア・フランス製糸業の陥っ

た状態と、極めてにかよった状態に自らも陥りかけたことを意味していた。しかもそれは、

1907 年恐慌以降の中等織物の流行という需要側の変化を契機しているとはいえ、基本的に

は、中国製糸業のいわば中間に位置する日本製糸業が、早かれ遅かれ必然的に陥るべき事

図表2-2冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

24

態であったといわねばならない。日本製糸業がかかる事態を、イタリア糸の増大を抑えつ

つ経糸部門へ再進出する形で乗り越えた根拠は、日本製糸業が、低繭価・低賃金のままで、

全体として自己の生産力水準を上昇させえたことに存するもので、その上昇は 1880 年代以

降のかなりの屈折を含んだ長期間の、しかも単線的には肥えられないプロセスを経て実現

した。

25

生糸生産量(俵)図表2-3

図表2-3 大岩鉱(農林省蚕糸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 33 年版』、1958 年、日本蚕糸広報協会。大岩鉱(農林省蚕糸園

芸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 45 年版』、1970 年、日本蚕糸広報協会・大岩鉱(農林省蚕糸園芸局編集)『蚕糸業要覧 昭

和 49 年版』、1974 年、日本蚕糸新聞社・大花正三(農林水産省農蚕園芸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 57 年版』、1982 年、

日本蚕糸新聞社より作成。

26

(2)雇用・生産工場からみる発展

日本製糸業の発展を支えたのは、海外の製糸技術の導入による技術の発展などハード面

が前提になっているが、工程管理、品質管理、労務管理、養成教育、特に製糸工場での若

年女子労働者による寄宿制と低賃金、劣悪な環境下による労働といったソフト面が発展に

大きく貢献した。女工は落ち着いて食事をとる時間もなく、15~16 時間を強制させられて

いた。また、厳重な寄宿舎制度と賞罰性にもとづく低賃金によって長時間労働を押しつけ

られていた。

また製糸業の原料生産部門である養蚕業は、零細な農家の副業として綿花の栽培ととも

に、わが国農家所得のおおきな源泉となっていた。また紡績業の外国綿花依存体制が決定

的となった時期である 1887(明治 20)年をピークとして国内綿作が崩壊過程に入った時期か

ら、養蚕業は綿作の転換としてますます広範に普及し、明治 20~30 年代に総農家戸数のほ

ぼ 25%がこれに従事するようになった。

また製糸工場に関して、日本製糸業、ひいては日本経済全体の発展の重要なカギである

生糸輸出の発展を担ったのは沖縄を除く全国各地にひろがった無数の製糸場だった。大正 4

年の調査によると、全国で十人繰り以上の製糸場は約 3000 だったが、その 8 割以上が女工

100 人未満の小規模工場である。このほかに十人繰りにも達しない零細な座繰り製糸家が約

30 万あった。製糸場の規模別分布はちょうどすそ野のひろがった富士山のような型をして

いた。また器械製糸の発展を指標として、わが国の絹業は世界最高の水準に達したが、片

倉組や郡是製糸など若干の大製糸資本を除けば、すべて中小経営に属していた。

1870、80年代に誕生した器械製糸業は、生糸世界市場における激しい競争の中にあって、

日本製糸業が発展していく生産力的な基礎を与えたものとして、決定的に重要な意味をも

つものであった。器械製糸場に関する最も古い全国統計と思われる 1879(明治 12)年 6 月の

観農局調査の表(図表 2-4)によると、当時全国に 666 の器械製糸場が存在していた。その

開業年次は表示しなかったが、いずれも 1870 年代である。詳しくいえば、1870 年の 1 製

糸場以下、2(1871 年)、9(1872 年)、23(1873 年)、30(1874 年)、41(1875 年)、72

(1876 年)、203(1877 年)、282(1878 年)、1(1879 年)という具合に設立されており、

1870 年代後半に激増している。

27

10 人繰以上器械製糸所一覧図表2-4

図表2-4石井寛治著『日本蚕糸業史分析』、1972 年、 東京大学出版会 p.129 より。

28

図表 2-4 は 1878(明治 11)年度までに開業した 10 人繰以上の器械製糸所を都道府県別に

示したものである。長野、岐阜、山梨の 3 県が他の都道府県に比べ、製糸所、繰鍋、1 ヵ年

製糸製額、職工が多く、その地域において製糸業が発展していたことが分かる。なお、長

野における発展については、第 2 節(3)製糸技術の発展で言及する。

図表 2-5 は座繰製糸場数を示したものである。第 1 次(1893 年)から第 4 次(1905 年)まで

製糸場数の合計は微増しているにすぎないが、100 人繰以上、500 人繰以上の製糸場が大き

く増加し、10 人繰以上の製糸場が減少している。このことから製糸場が大規模なものに発

展し、生産効率が高まったことが分かる。

座繰「工場」数(通説)図表2-5

図表2-5石井寛治著『日本蚕糸業史分析』、1972 年、 東京大学出版会 p.317 より。

29

全国製糸戸数図表2-6

製造所 自家

明治 27 年 4367 331857

28 年 4275 383764

29 年 5108 404691

30 年 4141 417723

31 年 3815 409901

32 年 4400 410478

33 年 3639 424988

34 年 3911 418065

35 年 3710 410801

36 年 3549 398926

37 年 4394 403661

38 年 4719 407224

39 年 3843 397885

40 年 4758 392581

41 年 4118 386996

42 年 3987 378949

43 年 4054 371533

44 年 4167 366165

大正 1 年 3115 342164

2 年 4065 329498

3 年 3543 300093

図表2-6 各年次「農商務統計表」より作成。

30

(3)産業構造の変化からみる発展

開港は,比較優位原理の作用を通じて,生産される財の構成と生産要素の配分,すなわ

ち産業構造に深い影響を与えた。製糸産業は在来的産業であり,農村における多数の小規

模な生産者によって分散的に担われていたという特徴を共有している.農村に散在する多

数の生産者から生糸が集荷され,横浜を中心とする開港場を経由して海外市場に販売され

ていったのである。

製糸業はわが国の特殊の土産的産業として、すでに幕末に生糸、蚕種の輸出を通じて国

民経済を支える最もおおきな支柱であった。したがって製糸・絹業は当然、明治政府の「殖

産興業政策」の一つの重要な中心となり、模範工場の設立、法令による品質検査、「生糸改

会社」の設立、蚕業技術の改良などのほか、生糸貿易発展のためになどの種種の方法がと

られた。

こうした手厚い保護育成策と、他方零細農家の副業と結びついた養蚕業の普及とあいま

って、製糸業は興隆し、明治大正年間を通じて輸出の太宗であり、日本経済の発展にとっ

て重要な役割を演じた。

繊維工業の発展図表2-7

図表2-7日本繊維新聞社編『繊維 20 世紀の記録』、2000 年、日本繊維新聞社 p.33 より。

31

図表 2-7 は工業全体と繊維工業の年平均生産指数増加率を 6 期に区分して示したもので

ある。Ⅰの確立期において、繊維工業の増加率は工業平均を大きく上回っている。Ⅱの成

長期、Ⅲの大戦ブーム期、Ⅴの爛熱期は工業平均をやや下回っているが、Ⅰ-Ⅴの平均で

は平均を上回り、Ⅵの戦時期も平均を大きく上回っている。このことから、Ⅰ-Ⅵの期間

を通して、繊維産業が日本経済において重要な産業であったことが分かる。

工場の部門別構成の変化と紡織部門内の変化図表2-8

図表2-8山口 和雄、中村 隆英、向坂 正男、服部 一馬、宮下 武平編『日本産業史 1』、1994 年、

日本経済新聞社。p.136より。

32

図表 2-8 で明らかなように、明治前期における工業の中心は製糸業・綿糸紡績業・織物業

で、工場数は全工場の 5、6 割を占めていた。このうち 7、8 割が製糸業であり、全工場の 4、

5 割に及ぶ。しかし、当時の製糸工場は職工 20~30 人以下の小規模が多く、動力も水車利

用が目立った。職工 100 人以上を使う工場は 25 年当時でも百工場に過ぎず、蒸気力利用も

全体の 3 割程度である。

また、1883(明治 16)年及び 1892(明治 25)年のわが国の工場生産を府県統計書にもとづい

て整理検討した結果によると、製糸工場は工場数、職工数において凡そ全工場の約半数に

及ぶことが知られる。

このような工場全体の中で製糸工場の占める比重は時点を降るに従って綿紡績、織物等

の増加によって相対的に低下するが、1899(明治 32)年においては、工場数は全体の 12%、

職工数は 24%であった。

33

(4)貿易面からみる発展

日本製糸産業発展の大きな一歩として挙げられるのは、開港による日本生糸の輸出である。

それまで日本は鎖国により海外との交流をほとんど断っていたが、1859(安政 6)年神奈川・

長崎・函館においてロシア・フランス・イギリス・オランダ・アメリカと自由貿易を許可

する安政五カ国条約が出され開港に至った。そして開港後まもなく幕府がフランスに蚕卵

紙を送ったことから蚕種の輸出が始まり、引き続き生糸の輸出が始まった。この生糸輸出

を軸として日本の製糸産業は発展していくこととなる。ここでは外国生糸市場の状況や関

係性に左右されながら増加する日本生糸の輸出量という面から日本製糸業の発展をみる。

1863(文久 3)年まで発展を続けてきた生糸輸出貿易は、江戸幕府に強行された生糸貿易

抑圧政策によって 1864(元治 1)年には衰退傾向を示した。まず、生糸は依然として輸出品の

首位にあるが、数量においては前年の半ば近くに落ち込んだ。輸出貿易における生糸の比

重が一時著しく減少したのは、この投資の 4 分の 3 の期間を通じて、幕府の生糸貿易への

極度の制限政策が強行されたためであるが、数量の減少ほど比重が低下しなかったのは、

価格の騰貴によるためだ。

一方 1865(慶応 1)年、神奈川奉行が幕府に蚕種販売の方法について緩和させ、外国人への

蚕種の販売が認められて重要な輸出品として登場した。図表 2-10・2-11 をみると、1866(慶

応 2)年、生糸の輸出が前年の 1865(慶応 1)年より激減しているのは蚕種の輸出が推進され

たからだ。約 300 万枚の蚕種が大部分ヨーロッパに蓄積され、それは 1750 梱2-(1)の生糸

に等しい、そして 2000 梱の生糸=2310 ピクルの繭、1300 ないし 1400 梱=2310 ピクルに

等しい生糸の密貿易など、一口に輸出の増加減少といっても繭・蚕種・生糸などが一つの

形に限定されて輸出されてないことも考慮しなければならない。

2-(1)単位説明

1 斤=600g

1 デニール=糸が 450m で 0.05g

1 ピクル=1000 斤

1 梱(こうり)=33kg→明治~昭和初期の取引単 位

1 俵=60kg→昭和 7年以後の取引単位

34

絹類の輸出額(当年価格、百万円、7 ヶ年移動平均値)図表2-9

蚕種輸出高(枚)図表2-10

1860 年 50

1865 年 3,000,000

1867 年 2,400,000

1868 年 1890000

1872 年 1290000

1873 年 1410809

1874 年 1335465

1875 年 727463

1876 年 1018525

1880 年 530452

1881 年 374498

1882 年 177240

1883 年 75091

1884 年 59785

1885 年 41653

1886 年 4785

1887 年 2433

図表2-9 山澤逸平著、『生糸輸出と日本の経済発展』より。

図表2-10玉川寛治著『製糸工女と富岡強兵の時代―生糸が支えた日本資本主義―』2002 年、新日本出版社・横浜市『横

浜市史第 3 巻下』、1976 年、有隣堂より作成。

35

図表 2-11・2-12 は明治時代以降日本生糸の輸出量、輸出価格などを示したものである。

生糸貿易は常に輸出額全体の 30~50%を占め続けており、外貨獲得上最も重要な産業部門

であったことがわかる。

政権が明治政府にわたると、生糸輸出を外貨獲得産業として推進した。1968(明治元)年か

ら 8 年まで 1 万俵を上下しているが、9 年以降急速に増加していることが分かる。20 年代

で平均数量 20 万俵にのり、30 年代で 50 万俵を突破した。

これに対して蚕種の輸出は激減する。1868(明治元)年の 188 万枚は 1878(明治 11)年には

117 万枚にまで減っている。第 2 節で詳しく見るが開港後たまたま発生したヨーロッパの微

粒子病による日本蚕種輸出増大は、需要が急減、価格も下落した。

1963~64 年より 1867~68 年までの生糸輸出額図表2-11

全国生糸輸出量・輸出価格等一覧表図表2-12

図表2-11 横浜市『横浜市史第 3 巻上』、1961 年、有隣堂より。

図表2-12冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

36

37

この間生糸輸出先も次第に変わっていた。図表 2-13 は日本生糸の国別輸出先を示したも

のである。1876(明治 9)年以前と 1880(明治 13)年以降を対比するならば、比率でみると対

米輸出が飛躍的に増大し、対英輸出が激減している。フランスへの生糸輸出高は全期間を

通して数量的には増え続けているが、1880(明治 13)年以降アメリカへの生糸輸出が全輸出

高の 50%をしめ、発展の様子がうかがえる。ここで、アメリカ側の統計によると、アメリ

カ輸入生糸のうち、日本糸の占める割合は、1880(明治 13)年には、26%にすぎないが、

1882(明治 15)年に 41.6%、1884(明治 17)年に 43.7%と増大しており、さらに 1891(明治

24)年には 57.8%と、ヨーロッパあるいは中国糸をしのいでいる。

明治後期においては、20 年代初頭には 27 万俵であった輸出数量は、明治 23 年・26 年・

29 年の輸出不振を経ながらも次第に増加してゆき、1897(明治 30)年には約 70 万俵に達し

ていて、40 年代からさらに増加が加速している。

1910 年代後半には 20 万俵を確保し、第一次世界大戦後少々落ち込むものの、1921(大正

10)年ふたたび 26 万俵まで増やした。1930~31(昭和 5~6)年の糸価暴落による輸出額の著

しい減少を除外しなければならないが、大正・昭和初期の生糸輸出の増大は並々ならぬも

のであった。

輸出額の飛躍的増加は生糸の単価格の上昇に支えられた。この時期の糸価の動向は、高

騰の反面、暴落を挟んで激しく動揺するが、1930・1931(昭和 5・6)年恐慌の暴落を別とす

れば、大勢としては上昇傾向にあったと言ってよい。1916(大正 5)年以降、大正後期に至る

間の(第一次世界大戦後の下落を挟むが)糸価上昇が輸出額の増大をもたらしたことは否

めない。

このような糸価上昇が生糸輸出額の増大をもたらす反面、たとえば大正 10 年・13 年・昭

38

和 2 年のように糸価の下落が生糸輸出量の急増を促し、単価下落を数量増加によってカバ

ーしてむしろ輸出額を増大させたパターンもある。

日本生糸の輸出先図表2-13

図表2-13横浜市『横浜市史第 3 巻上』、1961 年、有隣堂より。

39

生糸輸出数量(俵)図表2-14

図表2-14大岩鉱(農林省蚕糸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 33 年版』、1958 年、日本蚕糸広報協会。大岩鉱(農林省蚕糸園

芸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 45 年版』、1970 年、日本蚕糸広報協会・大岩鉱(農林省蚕糸園芸局編集)『蚕糸業要覧 昭

和 49 年版』、1974 年、日本蚕糸新聞社。大花正三(農林水産省農蚕園芸局編集)『蚕糸業要覧 昭和 57 年版』、1982 年、

日本蚕糸新聞社。より作成。

40

(5)まとめ

第 1 節では製糸業が発展していく過程を生産量、雇用・生産工場、産業構造の変化、貿

易面という 4 つの視点から考察した。

生産量、貿易面では、生糸生産量は明治、大正、昭和初期を通じて、輸出量とほぼ並行

して増加している。日本生糸の輸出は開港によって始まり、明治以降、生糸貿易は常に輸

出額全体の 30~50%を占め続け、外貨獲得に大きな役割を果たした。また 1914~1918(大

正 3~7)年には、日本の生糸生産量が世界産出量の 7 割 1 分あまりを占め、世界市場におい

て高い地位、影響力をもっていたことが分かる。

また雇用・生産工場の面では、明治後期における産業の中心は繊維産業であり、製糸業

の工場数が全工場の約半数を占めていた。製糸業は、明治政府による「殖産興業政策」の重

要な政策とされ、模範工場の設立、法令による品質検査など手厚い保護政策が行われた。

このことから、製糸業が多くの雇用を創出し、また日本経済にとって大きな役割をもち、

日本が発展するうえで重要な産業部門であったことがわかる。

これらのことから繊維産業とりわけ製糸業は日本の経済活動の基盤となる重要な基幹産

業であったと判断することができるであろう。

第 2 節ではどのようにして製糸業は基幹産業に発展したか、その要因を分析し、考察す

る。

41

第 2 節 発展要因の分析

(1)微粒子病

ヨーロッパの主要な養蚕国であったイタリア・フランス・スイスなどで、蚕の病気(蚕病)

の一種である微粒子病の流行が始まった。1852(嘉永 5)年南部フランスに発生し、1850 年

代に全フランスへ、1860 年代に全イタリアへと蔓延し、1868(明治 1)年イタリア、フラン

ス両国の養蚕が全滅の危機に瀕するものとなった。

微粒子病とは蚕病のひとつである。微粒子病にかかった蚕の体内には、常に顆粒物(パ

スツールは微粒子と呼んだ)が存在する。最初パスツールは、この微粒子は病気にかかっ

た蚕の組織や細胞が変化して出来た異常物だと考えた。研究の結果、微粒子病は母体伝染

であり、また伝染性の病原体である原虫に感染して発病するという結論に到達した。微粒

子は原虫の胞子であり、蚕に寄生した胞子はアミーバとなり、さらに核に分裂して胞子を

作ることを突き止めた。原虫に感染した蛾が産んだ卵には微粒子が寄生しており、その卵

から孵化した蚕は微粒子病を発病し 2,3 齢ほどでほとんど死亡する。また、4 齢あるいは

5 齢で経口感染した蚕は発病しないで、ほとんどが羽化して蛾になり産卵する。

1850(嘉永 3)年当時 3000 万キログラムの繭を生産していたフランス養蚕業は、1856(安政

3)年には生産量が1000万キログラムへ、1865(慶応1)年には600万キログラムへと激減し、

また 1850(嘉永 3)年ごろまで大体 5000 万キログラムの繭生産量を記録してきたイタリア養

蚕業も、1865(慶応 1)年には 2600 万キログラムへと生産量が半減した。イタリア・フラン

ス両国は、ヨーロッパ製生糸の欠乏を補うために微粒子病に侵されていない健全な蚕種を

求めて、アジア諸国にも探索の手を伸ばしていた。そこで無毒の蚕種を日本や中国より輸

入しようとした。質ではヨーロッパに劣っているが、低コストで大量の生糸が供給できた。

蚕種は蚕紙(種紙・蚕卵紙ともいう)で売買された。当時の蚕紙は、100 匹の蛾が 1 枚厚

手の和紙で作った蚕卵紙に卵をうみつけたものである。蚕紙 1 枚を作るためには雌雄各一

匹、合計 280 粒(約一升)ほどの繭が必要である。1860(万延 1)年にわずか 50 枚の輸出で

あったのが、1865(慶応 1)年には 300 万枚に達し、これが蚕種輸出のピークであった。

蚕種輸出がもうかるということで、桑園が増やされた結果、急激に蚕種生産量が増大し

粗製種紙が多量に出回り、ひどいものは菜種を蚕種に混入するものなどがあり、評判を落

として外国商人から非難を浴びることとなった。

またパスツールが、微粒子が寄生していない健全な蚕種を作る“袋取製手法”を 1865(慶

応 1)年に考案した。これは交尾中の蛾を布製の袋あるいは紙袋に入れて、糸で口をふさい

で産卵させる方法である。産卵後、雌雄の蛾を乳鉢に入れて、少量の水を加えて乳房です

りつぶし、顕微鏡で検査する。微粒子病が発見されれば袋ごと焼却処分し、健全な繭だけ

を蚕種とする。この方法によって微粒子の寄生していない健全な蚕だけを飼育することが

できるようになり、微粒子病は急速に克服された。

42

以上のように蚕種製造の急増とヨーロッパの日本蚕種需要の減少が重なりしばしば多量

の蚕種が売れ残る結果となった。1974(明治 7)年には政府が過剰蚕種 44 万 5500 枚を買い

上げ、横浜埠頭で焼却し、また翌年 1975(明治 8)年にも 44 万 8400 枚の蚕種を買い上げて

横浜公園において焼却した。さらに(明治 11)1978 年には横浜公園において 18 万枚を竹べ

らですりつぶして処分した。こうした過剰生産の処理は維持的な効果はあったが、根本的

な改善は望むことはできす、明治 20 年代には輸出は全くなくなり、蚕種の製造は国内向け

に限られることとなった。

蚕種輸出高(枚)図表2-15

1860 年 50

1865 年 3,000,000

1867 年 2,400,000

1868 年 1890000

1872 年 1290000

1873 年 1410809

1874 年 1335465

1875 年 727463

1876 年 1018525

1880 年 530452

1881 年 374498

1882 年 177240

1883 年 75091

1884 年 59785

1885 年 41653

1886 年 4785

1887 年 2433

図表2-15玉川寛治著『製糸工女と富岡強兵の時代―生糸が支えた日本資本主義―』2002 年、新日本出版社・横浜市『横

浜市史第 3 巻下』、1976 年、有隣堂より作成。

43

(2)明治政府政策

開港によって国際市場と接触し、需要増大によって増産へ向かおうとした養蚕・製糸業

も、封建的土地所有における幕藩体制下でその発展が阻まれ、生産力の伸び悩みがみられ

た。しかし維新を迎えて明治政府は積極的な殖産興業政策を採用。富国強兵のための資金

作りに輸出貿易の振興、特に輸出総額の 30%~50%を占めていた生糸輸出を重要視した。

ここでは外貨獲得産業としての製糸業発達・育成発展を支援したその政策、大きく分けて

粗製濫造対策と外国技術の導入、養蚕・蚕糸教育について詳しく見る。

ⅰ)輸出蚕種・生糸の粗製乱造対策

すでに述べたように、蚕種生産量が増大して質の悪い粗製種紙が多量に出回ったことに

より外国からの日本商品の品質評価はよくなかった。明治政府は 1868(明治 1)年に蚕種と生

糸の取り締まりのために蚕卵紙生糸改所を設け、蚕種製造業者に鑑札を交付した。1870 年

代に「蚕種製造規則」を発布し、蚕種 25 枚以上を製造する業者に鑑札を交付。1873(明治

6)年には「蚕種取締規則」を発布して、すべての産卵紙や生糸に政府発行の印紙を張ることを

義務付けた。その印紙には製造者の住所氏名を記入させもし印紙がなければ売買を禁止し、

これによって印紙税の収入も得られた。1875(明治 8)年には「蚕種製造組合条例」を発布し、

蚕種の粗製濫造を厳しく取り締まった。

また 1868(明治 1)年に設けられていた横浜生糸改会社の生糸検査方式を各地で実施させ

るために、1873(明治 6)年「横浜港生糸改会社ヲ標準シテ各地二生糸改会社ヲ創立スベキノ

旨」の大蔵省布達を出した。基準となった横浜生糸改会社の規則の第 12 条には「二ツ取座

繰器」の使用禁止条項と大枠直繰の禁止条項が盛り込まれていた。「二ツ取座繰器」は一度

に二条の糸を繰るから「弁利二相見エ候ヘトモ自ラ手配届兼候場合モ有之」ので、糸ムラ

が生じたり、糸の切断が多く品質が低下する。従って「自今トモ二ツ取座繰器機ヲ廃シ一

ツ引二相改」むべきだとしてこの座繰器の使用を禁止しているのである。また大枠直繰に

ついては、小枠に繰糸した糸を再度大枠に繰り返すという工程をはぶくのであるから、「簡

易ノ製方二相見候ヘトモ(前に火という字)水(繰鍋の水)糸筋二粘着シ繰返シ二不相成

故是又可為廃止」2-(2)であると禁止している。

このようにヨーロッパからの日本蚕種・生糸不評脱却のために粗製濫造取締りを進めた

が、改良する上で必ずしも効果は上がらなかった。そこで明治政府は生産方法の改善こそ

根本的解決策だと考え、取締りと同時に海外技術の導入が進められた。

ⅱ)外国技術の導入

開港以前の日本の生糸は、着物用の織物(着尺という)に使われていた。着尺用の生糸

2-(2) 「近代製糸業の成立」より。

44

の繊度は、40 デニールから 80 デニールという太糸であり、着尺用の生糸は、10 から 20

粒程度の繭から繰りとったが、フランスでは、繭 5 粒から作る、14 デニールという当時の

日本では全く使われていなかった細糸から、高級薄地織物を製造していた。生糸の輸出が

始まった当初は、このヨーロッパ向けの細糸を作るために苦労した。

明治政府が外国技術を導入しようとした理由は、ヨーロッパの製糸技術の導入によって

在来技術の欠点を克服し、生糸品質の改良を図り、製糸工業を日本の基幹産業として急速

に輸出しようとしたためであった。主に対象の国は世界最新の製糸技術を持つイタリア・

フランスであり、一応成功したといえるのはフランス系の技術であった。まず 1870~

1873(明治 3~6)年民部省や大蔵省が「養蚕仕方書」・「製糸の得失及方法書」・「蚕種生糸の

説」・「製糸方法告諭」・「蒸繭方法告諭書」などを布告という形でだした。その主な内容は

外国製糸技術の紹介とその利点を説いたものである。例えば最初に出された「養蚕仕方書」

では「西洋ヨリ繰糸器械ヲ取寄スヘキ説」として、「日本ノ生糸製シ方ヨカラヌイトフ訳ハ

全ク好器械無キ故ナレハヨーロッパ様ノ器械ヲ日本ニテ仕立タキモノナリ」と外国製糸器

械の移植の必要性が説かれている。また、「製糸方法論告諭」では器械製糸場設立の意義が

説かれ、「蒸繭方法告諭書」では生繭蒸殺法の利点が解説されている。

昭和初期の製糸業政策で、明治政府がもっとも力を入れたのが官営の模範工場、富岡製

糸場の建設だった。この設立目的は、模範工場の機械設備・技術を手本として全国各地に

ヨーロッパ式器械製糸の普及をはかり、ヨーロッパ製糸市場で経糸用糸として通用する良

質な生糸を生産させようとするものであった。

1870(明治 3)年、横浜のオランダ八番館から機器製糸所設立願が提出され、外資の侵入を

恐れた政府は、ただちに機器製糸工場の建設に着手した。大蔵省補伊藤博文と租税省渋沢

栄一が担当者となった。以下、渋沢栄一の資料である。

『生糸を海外へ輸出するということは維新以前の貿易おいても唯一のことでありました。

維新になって貿易の進歩を図るについても生糸貿易の一層大切なるを痛感し、それはどう

したらよいものかということになった。当時の糸じゃ製造が余り粗末でどうしても西洋の

経糸にならない。従つて値段が安い。そのためにはぜひデニールを揃えねばならない。デ

ニールを揃えるには糸の取り方を違えねばならない。これにはなにかよい方法はないかと

いうことで、明治 3 年頃大蔵省で頼りにこの蚕業に対して特に製糸に対して改良をくわえ

ねばならぬということが主として論ぜられたのであります。しかし我々には一寸案がたた

ない。オランダ 8 番(居留地横浜のオランダ 8 番館)カイゼルハイメルという人物に相談

してみると「今のようなことではヨーロッパ、アメリカに行って経糸にならない。それを

直すには政府で模範工場を造って世間に倣はせるようにすれば、商売もしよいし、国のた

めにも大変利益だ。それには糸の扱い方を知っているものが居なければならぬが、日本で

は本当にデニールの揃った糸の扱い方を知る者がいないから、私の知っているフランス人

でブルナーといふ人があるからそのひとを傭つてやらなければならぬ」といふのでその人

45

を傭ひ、富岡製糸場を起こしたのはたぶん明治 3 年と思います。』2-(3)

こうして民部省は 1870(明治 3)年 6 月、在留フランス人ジプスケ仏商を介して、11 月フ

ランス人 P・ブリュナー雇入れの仮契約を締結、翌月には富岡に工場立地を定めた。契約書

の付属文書として、製糸技術移転の大網を 7 カ条にまとめた「見込書」が添付された。以下、

「見込書」の主要部分である。

こうして富岡製糸場は雇入れたブリュナーの指導により 1870(明治 3)年秋から建設計画

2-(3)片倉製糸紡績株式会社『片倉製糸紡績株式会社二十年誌』1941 年、片倉製絲紡績株式会社考査課より。

<見込書>

[第1条]導入の目的は、繭の「損失を防ぎ、生糸の品質を上等にすること」。

技術移転の基本方針は次の 4 点にまとめることができる。

①ヨーロッパ製糸技術をそのまま日本に移転しても利益が出るわけではない。ヨーロッパ

の機械設備を利用して日本在来の座繰法を補強することが良策である。

②ヨーロッパの技術を、細部に至るまで伝授し、日本人の作業方法を改善することである。

③座繰の熟練者は、短時間で器械製糸技術を習得できる。

④ヨーロッパの熟練工女を多数派遣して製糸法を伝授するならば、座繰の熟練者を機械製

糸の熟練工所にかえることは難しいことではない。

[第 3 条]移転すべき製糸技術の概要は次の通りである。

繭 天日殺蛹していない生繭を購入する。

殺繭 天日殺繭をやめてヨーロッパ製蒸気殺蛹装置を使う。

乾繭 乾燥上の棚に蒸殺した繭を広げて風乾する。

煮繭 ボイラーで発生させた蒸気を鉄パイプで供給して、煮繭鍋の湯を沸かす

繰糸 上位機関あるいは水車で繰糸機を駆動する。五馬力の蒸気機関一台で 300 釜を運転

できる。ボイラーは 3 基で足りる。

[第 4 条]所要労働者数

300 釜には繰糸工女 300 人、煮繭 24 人、索緒 24 人(見習い工女を充てる)、殺蛹 4 人、乾

繭 10 人、選繭 60 人、工女の監督・生糸検査 12 人など総計 460 名。

[第 7 条]労働条件

労働日は週 6 日、週休 1 日。就業時間は日の出から日没まで。灯火による夜間作業では優

等糸ができない。繰糸工女を酷使すると、「粗漏ノ弊ヲ生ズ」る。

[結論]

日本産繭を使ってヨーロッパの優秀な技術で製糸すれば、座繰優等糸より 1 割 5 分から割高

く売れる。日本産繭で、優等糸を作ることは何ら心配いらない。

(『製糸工女と富国強兵の時代―生糸が支えた日本資本主義―』より)

46

にかかり、1872(明治 5)年 5 月には工場完成、同年 10 月から操業を開始した。

ブリュナーによって富岡製糸場に導入された製糸技術の特徴は、フランスにおける最新

の製糸機械装備を備えた資本主義的大工場制度が導入されたことである。それは、最新の

機械設備、工場建物、原動機、工場用水の取水などのハード面とともに、操業方法、工程

管理、品質管理、労務管理、養成教育、寄宿制度、賃金形態などソフト面の導入も全面的

に行われたことである。次に富岡製糸場に導入されたフランス製の製糸機械と工場設備を

紹介する。

<富岡製糸場の設備>

敷地面積

工場敷地 51500 ㎡

生産設備

置繭場東西二棟 2500 ㎡

ボイラー・蒸気機関室 508 ㎡

殺繭室 131 ㎡

繰糸 1760 ㎡

貯水池 400 ㎡

井戸 一本

鉄筒製煙突 高さ 36m、直径 1.3m

寄宿舎

工女宿舎二棟 1000 ㎡

賄所 290 ㎡

製糸機械設備

繰糸機 2 台で 300 釜

25 釜を 1 組とし、6 組 150 釜を 1 台とし、2 代 300 釜を東西に向き合わせて設置。1

釜の鍋台に、煮繭鍋、繰糸鍋、屑繭入、水入が取り付けられた。

西側の 150 釜が一等台、東側の 150 釜が二等台と三等台であった。一等工女が一等台で

一等繭から優等糸を繰糸し、二等、三等工女が二等、三等台で二等、三等繭から二等、三

等糸を作ったのであろう。

揚返機 2 台、各 78 窓、1 窓 4 条揚げ。

ボイラー 4 基

煮繭鍋と繰糸鍋の湯を沸かすための蒸気を発生するボイラー 4 基

蒸気機関運転用ボイラー 1 基

蒸気機関

繰糸機と揚返機及び揚水ポンプを駆動する五馬力蒸気機関 1 基

生糸試験機

検位衡、検尺機、水分検査機、セリメートル、台秤など生糸検査に必要な計器、試験機一

式が完備された。

掛け時計 工場制度になくてはならない掛け時計、アメリカ製 1 台。

(『製糸工女と富国強兵の時代―生糸が支えた日本資本主義―』より)

47

富岡製糸場は当時最大規模の工場であった。1 万 5600 坪の敷地の中には合わせて 2500

石を貯蔵しうる繭倉庫が 2 箇所、蒸気釜 6 座を据え付けた蒸気釜所、そして鉄製繰糸器械

300 台を設置した 542 坪の繰糸所、そのほか女工宿舎など全部で 17 棟の建物が配置されて

いた。

この富岡製糸場の繰糸器械を図に挙げておく。作業台(1)には煮繭鍋(2)・繰鍋(3)・

冷水だめ(4)(女工が手を冷やすための水入れ)・繭入れ(5)・蛹入(6)が設置してある。

繰鍋・煮繭鍋には蒸気管が通じ、弁の開閉で温度の調節が可能となっている。繰鍋の上に

は集緒器(7)が 2 つさしかけてあり、その上部には各一対の鼓車(8)・糸鉤(9)がある。

その後ろの絡交杆(10)は軸の方向に往復する。絡交杆には「するめ」とよばれた糸通具

(11)が固着してあり、絡交杆の背後には 2 つの糸枠(12)をつけた被動軸(13)がある。

この軸は駆動軸(14)から大摩擦車(15)と小摩擦車(16)とを介して回される。繰糸作

業の工程は、まず繰鍋の中から数個ずつの繭からそれぞれ糸を引き出し、その糸を一対の

集緒器に通す。集緒器を通った 2 本の糸は絡み合わせて撚りかけあわされたのち、ふたた

び 2 本の糸に分離され、それぞれ鼓車・糸鈎・「するめ」を通って糸枠に巻き取られる。そ

の場合絡交装置がついているので生糸は糸枠に綾状にまきとられる。

富岡製糸場の繰糸機械図表2-16

<名称>

1…作業台 9…糸駒

2…煮繭鍋 10…絡交杆

3…繰鍋 11…糸通具

4…冷水だめ 12…糸枠

5…繭入れ 13…被動軸

6…蛹入 14…駆動軸

7…集緒鍋 15…大摩擦車

8…鼓車 16…小摩擦車

以上が富岡製糸場の繰糸器の構造と繰糸工程の説明であるが、この繰糸器は、一人で 2 条

の生糸をとること、そして繰糸枠の回転が蒸気原動によるものであるから両手が自由にな

り、繰糸作業に集中出来ることの 2 つの点において在来の座繰器よりもすぐれていた。

富岡製糸場に導入された器械・技術は蒸気動力の利用や鉄製繰糸器採用だけではなかっ

図表2-16 甘粕健著『紡織』、日本評論社より。

48

た。ブリュナーが明治政府に提出した見込書によれば、55%の糸質の改良が可能だという

ことである。蒸気殺蛹と乾繭技術によって 25%、繰糸技術によって 10%、そして選繭技術

の改良によって 20%の改良が可能だと言うのである。このことは主として自家製繭を繰糸

する在来の製糸技術には見られなかった厳密な選繭技術の導入と蒸気殺繭・乾繭技術の導

入が良質糸の生産に大きく影響することを示しているといえよう。

富岡製糸場は、製糸技術を伝習しようとする者に解放された。製糸技術の伝習は、首長

ブリュナーのもとに、検査人 2 名、機械職 1 名、銅工職 1 名、絵図師 1 名、工女 4 名、医

師 1 名のフランス人外国人によって行われた。全国各地から製糸工女を集め、製糸作業全

般にわたる技術を、フランス人工女が彼女たちに技術指導を行った。明治初期に政府がヨ

ーロッパの政治・司法、軍事、教育、人文・自然科学及び産業技術を導入する目的で雇い

入れた外国人を「お雇い外国人」と呼ぶ。産業関係で女性労働者をお雇い外国人として採用

したのは富岡製糸場だけだったが、ブリュナーが自国から熟練製糸工女を呼び寄せて日本

人工女に直接製糸技術を伝授したことは、その後の日本製糸業の発展にとって大きな効果

をもたらした。最初に派遣されたお雇い外国人工女は、ヒューホール(月給 80 ドル、賄料

56 円)、バラン(月給 50 ドル、賄料 56 円)、モエニ―(月給 65 ドル、賄料 56 円)、シャ

レー(月給 50 ドル、賄料 56 円)の 4 人であった。日本人工女の月給は、一等工女 1 円 75

銭、二等工女 1 円 50 銭、三等工女 1 円であったから、お雇い外国人工女がいかに高給で雇

われたかがわかる。ここで新技術を習得した工女は再度全国各地に拡散し、器械製糸業の

設立、操業に寄与した。

このような器械と技術によって繰糸された富岡製糸場の生糸は「冷瓏玉ヲ欺ク如キ優良ナ

ル生糸」としてヨーロッパ市場で「多大ノ歓迎ヲ受ケ」たのである。2-(4)そして富岡製

糸場は、機械製糸業の急速な普及と発展のみならず、後で述べる座繰製糸業の発展にも計

りしえないほど大きな影響を及ぼした。富岡製糸場自身の営業成績は振るわなかったが、

フランスの器械製糸技術を移転し、日本を生糸輸出大国に育成、ヨーロッパ市場で経糸用

の良質糸としての評価をうけるという明治政府の目的は十分に果たされたといえるだろう。

そして、外国機械製糸技術の移転は、富岡製糸場のほかに、スイス人の C・ミューラーに

よっても行われた。ミューラーはイタリアで製糸技術を学んでいたため、彼が直接指導し

ていた藩営前橋製糸場(座繰機3台、最初人力駆動、1870 年 6 月開業、同年 11 月閉所)・

小野組築地製糸場(600 釜、人力駆動、1871 年開業)、勧工寮赤坂葵町製糸場(1873 年開

業)の 3 か所は「イタリア式」と呼ばれた。

前橋製糸場は 6 人繰(のちの 12 人繰)であった。小野組築地製糸場の機械は、60 人繰

で、錦絵「東京築地舶来ぜんまい大仕掛絹糸をとる図」(猛斉芳荒、丸屋平次郎、1872 年、

3 枚組)に描かれていた。

富岡製糸場の技術はブリュナーがフランス製の技術を導入したことから、「フランス式」

2-(4) 藤本実也「富岡製糸所史」片倉製絲紡績株式会社 , 昭和 18 年より。

49

と呼ばれるが、富岡製糸場に代表されるフランス式製糸技術と築地製糸場に代表されるイ

タリア式製糸技術との若干の相違点にふれておくと、技術上の主な違いは 3 点である。第 1

は繰糸作業の違いである。フランス式では一人が煮繭と繰糸を兼ねる、いわゆる煮繰兼業

であったが、イタリア式の場合は煮繭 1 人と繰糸 2 人が 1 組になっている、いわゆる煮繰

分業であった。第 2 は撚りかけ装置のちがいであった。フランス式は「共撚式」でイタリ

ア式は「ケンネル式」というちがいであった。

「ケンネル式」・「共撚式」図表2-17

そして第 3 の相違点は揚返し(再繰)の有無であった。フランスの場合は揚返しを行うが、

イタリア式では揚返しをせず大枠直繰式だった。なお、本来のフランス製糸技術はイタリ

ア式と同様に大枠直繰式であるが、ブリュナーは在来の技術たる揚返し工程を富岡製糸場

で採用したのである。

このようにフランス式製糸技術とイタリア式製糸技術は若干の技術の差異があったが、

その後、器械製糸が各地に普及する過程で、実情にあった形技術が簡素化して改良され、

両者の相違点ははっきりしなくなっていく。たとえば、イタリア式の煮繰分業と直繰式は

イタリア式と称する工場でもほとんど採用されず、またフランス式撚りかけ装置も次第に

ケンネル式にとって替られるようになる。このことから各地に普及していく器械製糸の技

術系統をフランス式あるいは「折衷式」として厳密に分類することは不可能であろう。

経営規模から見れば、イタリア式・フランス式・折衷式の何れの場合においても 50 釜未

満が 70%以上を占めており、富岡製糸場はもちろんのこと、築地製糸場の規模にも及ばな

図表2-17 甘粕健著『紡織』、日本評論社より。

50

いことが圧倒的に多かったことを示している。熱源については、いずれの系統も蒸気や焚

き火をやや上回っており、フランス式の場合はややこの傾向が強く表れている。しかし、

熱源判明する経営数がすくないので、断定はできないだろう。また動力は、判明するかぎ

りでは、3 系統ともほとんど水車で、蒸気動力は全くみられない。なお、府県別の経営数で

は長野県が 3 系統とも群を抜いて多い点を指摘しておこう。以上のことからヨーロッパの

製糸技術は、長野県を中心に小規模な器械製糸工場の設立と言う形で日本に定着していっ

たのである。

このほか明治初期には、士族授産事業と結び付いて生まれた製糸業があり、記録の判明

するものだけでも約 150 社(賃与額 200 万円)がこうして設立されている。中には 1 社当

たり 5000 人という大結社もあったといわれているが、それらのほとんどは経営的には不振

で 1910 年代には姿を消してしまった。

ⅲ)養蚕・蚕糸教育と試験場設立

1873(明治 6)年、オーストリアで開かれた万国博覧会に佐々木長淳と円中文助を派遣し、

世界最新技術を持ったイタリア・フランスの養蚕・製糸技術を学ばせた。佐々木は主に養

蚕技術、円中は主にイタリアの製糸技術を習得した。1874(明治 5)年に内務省勧業寮内藤新

宿出張所(現新宿御苑)をもうけ、1875(明治 8)年に円中が帰国したのをきっかけに、麴町

区内山下町博物館内にイタリア・フランスから購入した製糸機械と織機を据え付け、伝習

生に対する製糸教育を始めた。1878(明治 11)年には内藤新宿の試験工場内に製糸工場が完

成したので、博物館の製糸機械を移転し、佐々木と円中はここにそれぞれ蚕室・蚕事研究

所、製糸工場・撚糸工場を設けた。

1883(明治 16)年、「農学校規則」が制定され、農学校第一種で桑、第二種で養蚕、桑とい

う科目を設け、養蚕教育が始まった。

1884(明治 17)年、麴町区内山下町に農商務省の有無局の一文化として蚕病試験場設立、

1886(明治 19)年に北区豊島郡滝野川村字西ヶ原に移転し本格的な蚕病予防の試験研究を行

うこととなった。

政府はこの年、「蚕種検査法」を発布し、検査制度を全国画一に統一した。蚕種を蚕種製

造業者が用いるものと、養蚕に供する製糸用種に分けた、蚕病検査を産卵検査から母蛾検

査に改正した。そして 1878(明治 11)年農商務省農務局蚕業試験場と改称し、蚕業全般にわ

たる本格的な試験研究と教育を行うこととした。

1894(明治 27)年、文部省は、実業教育制度を発足させ、「実業教育費国庫補助法」を制定

した。そして「簡易農学校規則」ができ、養蚕学校、蚕糸学校という国立の学校を認める

こととなった。これによって最初にできたのが、長野県小県養蚕学校であった。1897(明治

30)年には 11 校に増えた。

1896(明治 29)年、養蚕教育を発展させるため、蚕業試験場の規模を拡大して、蚕業補講

所と改めた。1899(明治 32)年に京都蚕業補講所が開設されたので、東京蚕業補講所と改称

51

した。

この年には、「実業学校令」が制定された。そして蚕業学校の科目として、蚕大解剖・生

理及び病理、養蚕および製種、桑樹、製糸の学習が制定された。こうして養蚕中等教育の

新しい時代が始まった。この年日本全国には農業学校が 49 校・分校 1 校の計 50 校があっ

た。そのうち蚕業学校が 13 校(独立 10 校、蚕業の文科を置くもの 3 行)、生徒数は 614

人であった。1908(明治 41)年には、農業学校 184 校、生徒 2 万 852 人、蚕業学校 24 校、

生徒 3048 人に増加した。

1905(明治 39)年、「蚕病予防法」が制定され、微粒子病の駆除予防から、軟化病、効果病、

膿病の駆除予防に拡大され、キョウ蛆の駆除についても規定された。

1907(明治 37)年、東京蚕業補講所に養蚕補講本科、養蚕補修別科、製糸講習男生本科、

製糸講習女生本科、製糸講習女生別科の五科を起き、養蚕業、製糸業に中堅技術者を送り

だした。中でも製糸講習女生本科と短期養成の別科がおかれたことは、従来の見番による

叱咤激励と強制による工女の管理から、専門的な教育を受けた教婦による「科学的」管理

への脱皮が迫られていたことを示すものとして、注目される。

この年、「桑園改良奨励費交付規則」が制定された。繭の増産に次ぐ増産の結果、桑園の

酷使、桑葉の濫採によって生じた桑園の荒廃を防ぎながら、桑園の拡大をはかるものであ

った。

1911(明治 44)年、「国立原蚕種製造所」を官制交付し、豊多摩郡杉並村高円寺に開設した。

ここに東京蚕業補講所の試験部門が移管した。

この年「蚕糸業法」が公布され、蚕種製造業者を免許制度とし、自家用蚕種の製造を禁

止した。工業製品である生糸の原料としての繭は、同じ品質で大量に供給されること、繭

糸長が長く、解舒が良好であることが要請される。また繭を生産する養蚕業にとっては、

蚕病に罹り難く、飼育が容易で、桑は同じ供給量で産繭量の多いことなどが必要であった。

当時、日本全国には千数百種の蚕品種があったといわれ、蚕品種の統一と蚕種統一の必要

性が、製糸家から、とりわけ大製糸工場から強く要請されていたのであった。

この年、最大の養蚕・製糸県の長野県に上田蚕糸専門学校が開校された。

1913(大正 2)年に東京蚕糸講習所が農商務省から移管され、翌年東京高等蚕糸学校と改称、

養蚕科、製糸家、製糸教婦養成課が設立された。

旧制大学の中では、東京帝国大学農学部第二講座で養蚕額、応用昆虫学を、第三講座で

実験遺伝子学、蚕体生理学、蚕体病理学などを講じ、蚕学の理論・応用の研究を行い、蚕

糸業の発展に寄与した。九州帝国大学に蚕糸学講座がおかれ、京都帝国大学で蚕糸学の講

義が行われた。

1919(大正 8)年、東京高等蚕糸専門学校では、養蚕科を第一部(のちの養蚕科)、第二部

(のちの栽桑科)に分け、養蚕実科を新設して、養蚕業への専門技術者の供給を強めた。

上田蚕糸専門学校では、養蚕科、養蚕実科、蚕種科を置いた。さらに鹿児島高等農林学校

に養蚕科の一分科があった。東京・京都・上田・鹿児島で蚕糸業(養蚕・製糸・蚕種製造)

52

技術者の育成が行われ、養蚕業、製糸業、蚕種製造業をはじめ、国立、県私立蚕業試験場

などの試験研究機関及び府県の蚕糸行政部門に人材を供給した。

1920(大正 9)年に、「実業学校令」を改正し、甲種、乙種実業学校の区別を廃止した。こ

の年、農業学校は 319 校あり生徒数は 5825 人の多きに達していた。実業学校令にとらない

特殊機関、府県立の産業講習所、または蚕業試験場で講習を行うところが全国で 61 校あっ

た。そのほかに、私立の蚕糸業に関する講習所あるいは演習所が 24 校あった。

1925(大正 14)年、共同繭倉庫および共同繭乾倉庫の設立費に対し助成金を交付。

1926(昭和 1)年、「輸出生糸検査法」を発布、1927(昭和 2)年実施。正量検査を受けない生

糸は輸出できなくなった。

1929(昭和 4)年、蚕糸業法を改正し、蚕種製造業者を 10 万蛾以上の蚕種を製造するもの

に制限した。蚕種製造は国・県の産業試験場ある大製糸企業と蚕種製造業者の独占となっ

た。府県に栽桑専任技術員を配置した。

1930(昭和 5)年、稚蚕共同飼育所の設置を奨励し、稚蚕共同桑園の整備、推進を図った。

1932(昭和 7)年、世界大恐慌、未曾有の蚕糸不況の対策として、「製糸業法」を発布し、

新たな小製糸家の参入を禁止した。その結果、小製糸家の衰退が急速に進んだ。

53

(3)製糸技術の発展

日本の製糸技術は、開港前は養蚕農家の副業としての手挽製糸、ごく一部の地域で欧州

座繰や常習座繰など手挽の二倍の生産力を持つ座繰機が用いられていたにすぎない。しか

し、開港による生糸輸出の増大、生糸価格の上昇が生産を刺激し、群馬の二取座繰など座

繰製糸が各地に普及し、生産力が向上した。そして座繰製糸を経て、器械製糸にいたった。

ここでは座繰製糸、器械製糸について詳しく見る。

繰糸器械の進歩(概念図)図表2-18

図表2-18清川幸彦著『日本製糸業における発展要因の再考』、2006 年より。

54

ⅰ)座繰製糸の改良

足踏座繰機図表2-19

開港後、座繰器が各地に普及していった。そしてこれは外国技術が導入された器械製糸

の普及が進んでもなお群馬や福島を中心にいわゆる改良座繰器として存続し、1910 年代末

まで輸出生糸生産の一端を担うことになる。その場合においても座繰器自体の構造はほと

んど変化していない。

生糸の需要が国内のみに限られていた開港前にあっては製糸技術、製糸器具はさまざま

な形で各地に存在したが、開港後の海外市場との結合によってより生産力の高い座繰器が

一挙に普及したことは、近代製糸産業の発展過程における海外市場の役割を示している。

1870 年代後半から器械製糸が、長野県を中心に山梨・岐阜などに急速に普及していった

が、座繰製糸も一定の発展を示し、1910 年代まで座繰糸の生産高は増加傾向を示していた。

座繰製糸が器械製糸に対抗して輸出生糸としての地位を維持していくためには、座繰糸の

品質の均一化と出荷の大量化が求められた。この要求に答えようと結成されたのが群馬県

に始まった「座繰改良組合」であった。「改良座繰」と呼ばれたこの製糸結社は、出荷の大

図表2-19鈴木三朗著『製糸學』、1952 年、アヅミ書房より。

55

量化をはかるために共同販売を行い、品質の均一化のために共同揚返しを行った。共同揚

返は組合員が各自繰糸した生糸を小枠のまま持ち寄り、組合の共同揚返し場で再繰りして

生糸の品質の均一化を図った。この形態は福島、群馬を中心に展開したが、大規模な結社

には、高崎の共立製糸社(社員 500 人、揚返器 268 台、労働者 777 人)や碓氷社(明治 12

年の社員 1918 人)、甘楽社、下仁田社などがあった。

改良座繰における技術の改良としては、揚返し器に綾ふり装置をつけたことと、提造な

どの旧来からの束装法を捻造(図表 2-20)に改めたことである。とくに束装を捻造に改め

たことは、座繰糸が輸出生糸として存続して行く上で重要な意味を持っていた。束装の捻

造への改良以後、海外市場における日本生糸は、器械糸・座繰糸(捻造)・提糸その他旧来

の束装糸(非改良座繰糸)の 3 つに大別して大きく取り扱われるようになった。束装の改

良と共同揚返しによる品質の均一化は改良座繰糸と非改良座繰糸をはっきりと区別するよ

うになったのである。

例えば 1885(明治 18)年に開催された「共進会」において、専門技術者は群馬の改良

座繰糸を、糸質・束装ともに高く評価していた。そしてこの共進会では、生糸の総合的品

質評価がなされ、「上糸」県として 3 つの県があげられているが、その 3 県の中に、器械製

糸の長野・山梨とともに群馬があげられていたのである。2-(5)

こうして群馬県では座繰改良組合がつぎつぎと設立されていったが、中でも養蚕農家が

団結し、結成した碓氷社(1878 年設立)は、群馬県碓氷郡を中心に 6 県 36 郡市において

179 組合を組織して、その頂点に立つようになった。2-(6)

改良座繰の特徴は生糸の仕上げ工程の改良にあったわけであるが、それとは別にこの時

期には器械製糸技術の影響をうけて、座繰器の部分的改良も進められた。長野県松代の館

三郎が考案したといわれる「磨撚器」(図表 2-21)がその一例である。この座繰器は「弓」

(図表 2-21 のイ)をつけた繰糸鍋に「毛つけ」という装置を加え、さらにイタリア式繰糸

器械のケンネル装置(図表 2-21 のハ・二・ホ・へ・ト)を組み込んだものである。2-(7)

そのほか、繰糸枠の回転作業を手から足に移し変えた足踏み器械も考案された。そして

足踏み器は農家の副業的製糸用具として用いられ、国内用生糸の供給に一定の役割を果た

すようになる。

しかし、発展の速度は器械製糸のほうが大きく、1894(明治 27)年にはその生産高が座

繰製糸生産高を凌駕した。前述したような片倉組や、山十組、尾沢組、岡谷製糸その他の

器械製糸工場が、急速に経営規模を拡大していったのもこのころであった。

2-(5) 「明治前期産業発達資料」より。 2-(6) 「群馬県蚕糸業史」より。 2-(7) 「日本製糸技術史」より。

56

捻造の束装図表2-20 館三郎考案の磨撚器の構造図表2-21

ⅱ)器械製糸の発展

1880 年代半ば以降、アメリカ向け生糸輸出の急増に対応して生産力を増大させていった

のは器械製糸であった。器械製糸の生産高は 1890(明治 23)年から 1900(明治 33)年に

かけて 2.7 倍増加した。そしてこの間の 1894(明治 27)年には、器械製糸の生産高が座繰

製糸の生産高を凌駕した。

1880 年代に中山社の技術を基礎にして、成長を続けた諏訪の製糸家が、引き続き器械製

糸の発展の中心的役割を担っていた。とくに大規模製糸家が登場してくる点に、1890 年代

の諏訪郡製糸業の特徴がある。例えば、1897(明治 30)年における諏訪郡の大規模製糸家

として、778 釜を所有する片倉組を先頭に、小口組(652 釜)、岡谷製糸(440 釜)、尾沢組

(416 釜)、林組(300 釜)などが数えられる。2-(8)これらの製糸家群も、はじめから大

規模の経営ではなく、いずれも小規模な経営から出発して、のちに郡是製糸などを含めて

「全国 8 大製糸資本」を構成する製糸資本に成長していくのである。

この大規模製糸家が主に生産していた生糸が「信州上一番」と呼ばれたもので、アメリ

図表2-20甘粕健著『紡織』、日本評論社より。 図表2-21甘粕健著『紡織』、日本評論社より。 2-(8)横浜市『横浜市史第 4 巻上』、1965 年、有隣堂より。

57

カ向け輸出生糸の主力製品であった。信州上一番はアメリカ絹織物の緯糸として大量に消

費されていくが、諏訪の製糸業はこの生糸の量産化をはかる過程で生産力の増大化を推進

していった。

富岡製糸場の設立以来、1880 年代半ばまでヨーロッパ経たて

糸市場への進出という日本製糸

業の課題は、信州上一番に代表されるアメリカ緯よこ

糸市場への進出という形をとって、いっ

たん後景にしりぞくことになった。

1890 年代以降、諏訪を中心に器械製糸はその生産力を増大させ、座繰製糸の生産力を大

きくひきはなしていた。器械製糸と座繰製糸の生産力格差が、この段階で次第に明確にな

っていく。器械製糸における量産技術の発展がこの生産力格差をもたらしたのである。1890

年~1900 年代における器械製糸技術の発展を、量産技術に焦点をしぼって検討する。

器械製糸における量産化の技術は、まず繰糸器械の発明・改良からはじまった。1 条繰か

ら 2 条繰、3 条繰への繰糸器械の緒糸器械の緒数増加傾向が進行し、多条繰器械への要求が

高まってきた。また、これまでの木綿繰糸器械にとって、替わって鉄製繰糸器が普及して

行くのもこの段階である。

繰糸器械の多条繰化に関しては、御法川直三郎の技術の貢献度がたかかった。この時期

だけに限っても 1892(明治 25)年の接緒器付き 4 条繰糸器械、1903(明治 36)年の 12

条直繰繰糸器械、1907 年(明治 40)年の 20 条繰繰糸器械と 3 度にわたる繰糸器械の発明・

改良が御法川によって行われた。御法川による繰糸器械の発明・改良は従来のような外国

技術の模倣による改良・工夫ではないという点に特徴があったのであり、大量生産化の要

請が独自の技術を要求し始めたのである。

しかし、御法川が発明改良した条繰繰糸器械が実際に製糸工場でも採用されて行くのは

大正期以降のことであった。そして条繰繰糸器械採用の前に製糸工程としての技術変化と

して煮繰分業が、まず採入れられたのである。片倉工業では大正初期に、郡是製糸では

1911(明治 44)年煮繰分業が採用された。

第 2 に繰糸器械量産化技術の発展に対応して、大量の原料繭の保存を可能にする乾繭器

の改良が行われたことである。この時期に乾繭器の発明・改良が集中的に行われたが、中

でも今村品太郎が開発した乾繭器は画期的であった。ベルト式の繭架網を移動させて連続

的に乾燥ができたので乾繭処理能力が大幅に向上したのである。

第 3 に乾繭器の発明としての改良である。乾繭器の発明・改良はややおくれて 1910 年代

に多く見られるのであるが、この時期における乾繭器の発明では中原式煮繭器が画期的な

ものであった。これは 1908(明治 41)年に中原作太郎が発明したもので、大量の煮繭が可

能になった。

そして第 4 に鉄製繰糸器械の普及、工場の大規模化にとってかかせない蒸気動力化がこ

の時期に進行した。これまで製糸工場における蒸気の主な役割は、煮繭・繰鍋用に湯を供

給することにあった。そして繰糸枠の回転などに関しては水力と人力が中心であった。こ

の時期に蒸気が動力源として登場してくる点におおきな特徴があるのである。

58

1893(明治 26)年の器械製糸工場における、動力としての蒸気力使用工場が 19.7%とな

っており、これに対して水車使用工場は 44.1%、人力使用工場が 36.1%となっており、蒸

気の動力化は一部の大規模工場に限られていた。しかし、1905(明治 38)年には、それぞ

れ 53.8%40.7%5.5%となり、人力使用工場の急減と蒸気使用工場の急増がはっきりと見ら

れた。このことは動力として蒸気力を使用する工場制生産が製糸業においていかに支配的

地位を確立したかを示しているのである。

器械製糸における生産力の発展、片倉組にみられるような大規模製糸資本の登場はこの

ような技術発展にうちづけられていたのである。また、製糸技術の発展・改良は片倉や郡

是に代表されるような大製糸資本が発明・改良された技術を実際に使用することによって、

その後さらに進んで行くことになる。

1870 年代末以降、富岡製糸場や築地製糸場の影響をうけて器械製糸場が各地に設立され

ていくが、その中心になったのは長野県であった。例えば、1879(明治 12)年の器械製糸

場の数は全国で 655 であるが、その 54%(358 工場)が長野県に集中していた。

長野県における器械製糸の発展は、北信埴科郡西条村の西条村製糸場(のちの六工社)

と、南信諏訪郡諏訪町の深山田製糸場からはじまり、諏訪郡平野村の中山社がその基礎を

築いたとされる。

この中山社によって基礎づけられた器械製糸が「諏訪型製糸」あるいは「信州式製糸」

とよばれるものである。中山社は 1875(明治 8)年、諏訪郡平野村の武居代次郎らによっ

て 100 人繰(1000 釜)の工場として設立された。武居らは以前深山田製糸場を模して、18

釜の器械製糸場を経営していたことがあったが、この経験を生かして中山社を創設したの

である。中山社は水車を動力として利用したので、本沢川岬に建設された。繰糸場は、間

口 12 間、奥行 6 間の木造 2 階建てで、階上を繭置き場として利用した。またもう一棟、間

口 9 間、奥行 5 間の平屋をつくり、その建物に揚返し場、女工の炊事場、そして帳場(事

務所)をおいた(「信濃蚕糸業史」下)。また中山社は繰糸枠回転用の動力として水車 2 基

煮繭鍋・繰鍋に湯を供給するための小型蒸気釜(10 石入)1 基を備えていた。そして繰糸

場には、木製でケンネル式撚りかけ装置のついた繰糸器械が 100 台設置されていた。煮繭

鍋・繰鍋は陶器製のものが設置されている(日本製糸技術史)。ここに示した器械設備は「諏

訪型製糸」の基礎となるものであるが、とくに小型蒸気釜の考案、半月型の陶器製繰鍋の

考案と煮繭鍋の配列の工夫(図表 2-22)、それに真鍮製ケンネル器具の木製化(鼓車の位置

の変更も加えてイナズマ式といわれた)は中山社の独自な改良によって生み出されたもの

であった。

製糸工程の技術では、選繭法を導入して品質によって繭を 3 種類によりわけ、試験器を

用いて繊度の検査を行うなど、外国技術の定着化を試みた。また「中山社則条例」を作成

して、製糸女工の労働条件を定めるなど、経営面でも合理性を追求した。こうして中山社

は、その後に簇生する諏訪郡器械製糸の模範となったのである。

中山社は 100 釜の設備を有し、当時としては築地製糸場レベルの比較的規模の大きな器

59

械製糸場であった。それでも中山社の建設費は 1900 円2-(9)であり、富岡製糸場の総工費

19 万 8572 円2-(10)に比べると実に 100 分の 1 の建設費であった。ここで改めて富岡製

糸場の工場設備器械はそのままのかたちでは、けっして「模範」たりえなかったことを示

しているのである。これに対して、中山社の設備・器械は前述したように木造の建物・水

車・小型蒸気釜・木製繰糸器械・陶器製鍋など、全てが簡易で安上がりなもので工夫され

ていた。まさしく簇生する「諏訪型製糸」の「模範」にたりえたのである。

さて中山社以下の小規模な器械製糸が、輸出生糸の立役者としてその地位を確立してい

くためには、改良座繰にみられた共同出荷組織を必要としていた。輸出生糸の場合、横浜

での取引単位は 1000 斤(160 貫)で、この段階での小規模器械製糸ではこれだけの生糸量

を生産するには数カ月かかった。このため、諏訪の小規模製糸家は共同出荷のための結社

をつくるようになった。平野村の矢島惣右衛門を中心とする皇運社は 1877(明治 10)年に

結成され、それに 25 人の製糸家が加わった。翌 1878(明治 11)年には、さらに 32 人の

製糸家がこれに加盟し、皇運社は 588 人の製糸家結社となった。これに倣って、確栄社・

協力者・開明社など多くの共同出荷のための結社が諏訪郡内に組織されていった。2-(11)

さらにこの共同出荷組織は、発展して共同揚返し場を設けるようになった。開明社が 1884

(明治 17)年に揚返し場を設置したのがその始まりであった。

こうした点では、初期の器械製糸はその小規模性であるゆえに、改良座繰と同じ課題、

つまり出荷数量の大量化と生糸品質の斉一化という課題をかかえているのである。

しかしこの共同出荷・共同揚返しの結社は 1890 年代末にはほとんど解散していく。各製

糸家が大規模化して、出荷数量が大量化していくからである。改良座繰が共同揚返し・共

同出荷を武器として存立していたのとは、この点が大きく異なるのである。

2-(9) 「信濃蚕糸業史 下」より。 2-(10)「絹ひとすじの青春」より。 2-(11)「岡谷の製糸業」より。

60

中山社の煮繭鍋と繰鍋の組み合わせ図表2-22

図表2-22甘粕健著『紡織』、日本評論社より。

61

(4)製糸金融

器械製糸業の急成長の要因としては、広大な海外市場、低廉な労働賃金のほか、製糸金

融機関の存在が重要であった。器械製糸家は、もともと薄資の商人か、小生産者から出て

きたものが多く、季節的に必要な多額の購繭資金を自ら所持する余裕はなく、他に求めな

ければならなかった。主要な製糸金融機関としては製糸売込問屋と銀行があった。また、

政府による財政投融資も器械製糸の増設を助長した。

ⅰ)製糸売込問屋

製糸業では、明治期を通じて、売込み問屋という商人が強力で、この問屋は、決して「生

産資本の代理者」などという性格のものではなかった。産業資本の代理者として、本来の

資本関係確立のもとでの商業資本の地位に、製糸業の商人資本がおさまるのは第一次大戦

以降しばらくしてからである。信州諏訪出身の最大の製糸業者片倉でさえも、商人資本の

支配を受けることの例外ではなかった。

製糸売込問屋は、早くから、生糸荷主に対して荷為替資金の立替えをなしていた。購繭

資金の前貸しは 1887(明治 20)年ごろ、荷主を獲得する方法として実施され始め、その後

急速に進み、一般的となった。製糸家は売込問屋に約束手形を発行し、合わせて証書を入

れ、製造糸の販売を一年間委託することを約束した。一方、資金提供に当たる問屋も、製

糸家振り出しの約束手形を横浜所在の諸銀行で割り引いて資金を貸入れしていた。そして、

この横浜の諸銀行も、売込問屋に対する貸出金を日本銀行から手形再割引などの方法で借

受けることが多かった。

長野を中心とする器械製糸業者の多くは中農であったが、操業にあたってまず直面した

のは経営資金の不足であった。この問題は、横浜生糸売込商から金融を受け、さらにそれ

を基礎として地方銀行ないしは都市銀行から融資を受けることによって解決した。普通糸

の生産を中心としていた明治中期から後期にかけての製糸業にとって、独自の経営戦略は、

安い労働力と繭の確保並びに熟練労働者の調達において展開することとなった。

ⅱ)銀行

売込問屋とならぶ製糸金融機関は、地方銀行であった。第十九国立銀行はその代表であ

る。次に同業の製糸金融を取り上げる。

1887(明治 20)年 1 月、黒沢鷹次郎が第十九国立銀行頭取に就任するや、松方デフレに

よる業績不振を挽回するため大いに努力し、業務面では諏訪・飯田地方の製糸金融の拡大

に努めた。ことに 1891(明治 24)年には、下諏訪出張所を製糸業の中心地、岡谷に移し、

荷為替取引のほか、購繭資金の一部をも融資する積極策をとった。そして購繭資金の貸し

出しが増加するに伴い、黒沢頭取は担保繭を収容するため、1893(明治 26)年上田に倉庫

会社を作り、中央東線全通後の 1908(明治 41)年には岡谷に大規模な倉庫会社を設立して

62

いる。

こうして製糸金融の拡大に努めたものの、取引開始に当たっては、業者の成功、資金、

設備、経営態度や将来性などを詳細に調査し、慎重な態度をとった。しかし、適格となっ

たものには、全面的な支援を惜しまなかった。原料仕入れや製品販売についても指導・助

言をなし、企業の育成にあたった。

第十九国立銀行は、上記のような製糸金融に応ずるため民間預金の獲得に努力したが、

預金の伸びは貸付増勢に伴わなかった。従って不足分を借入金によってカバーしなければ

ならなかった。借入先の中止は日本銀行本店であり、その折に当たったのは、東京支店で

あった。東京支店には生糸荷為替の大部分が仕向けられたこともあって、資金操作を進め

るのに好都合であった。

大戦中に急速に発達した諸産業は、1920(大正 9)年に戦後恐慌とその後の慢性的不況

期に、次第に発展を鈍化させたが、重化学工業の比重が大きくなり、すでに強大な蓄積を

成し遂げていた財閥が造船、石炭、硫安、紡績などの各分野にカルテルやトラストがつく

られ、独占的な支配網がほとんど完成した。製糸業では、戦後恐慌期に政府は第二次帝国

蚕糸株式会社を設立して、3000 万円の損失補償金を放出したが、とくに片倉組は 1920(大

正 9)年に株式会社となり、各地の中小製糸工場を合併するとともに肥料、綿紡績、セメン

ト、機械に進出して産業コンツェルンとなり、郡是製糸も中小企業を合併して一万釜の大

経営となった。

ⅲ)財政投融資

木製または半木製の器械を用いた製糸業は、座繰よりも均質で多量の製糸が可能であっ

た。そのため、それは長野を中心に岐阜、山梨などの地域で採用され、1877(明治 10)年

前後には急速な展開を遂げた。その背景にあって、器械製糸の新増設を助長したのは財政

投融資であった。すなわち政府は、明治に入ってからの持続的な貿易収支の赤字を改善し、

軍需品や精神的な技術水準を持った諸機械を購入するため、言い換えると、我が国の自立

と産業の近代化を促進するために必要な外貨獲得を担う輸出産業部門として、製糸業の振

興には重大な関心を払っており、日本銀行を通して育成資金を注入していた。この資金は

結局、横浜売込問屋を経由して製糸業者の横浜出荷生糸対する荷為替前借金となり、さら

に地方銀行を経由して繭などを抵当とする購繭資金として役立てられたのである。このよ

うな資金の流れは、特に座繰糸よりも良質な、したがって輸出用としてより低格な生糸の

産地を中心として展開し、器械製糸業の急速な発展を助長した。

後年最大の製糸会社になる片倉組は、この中から生み出された。片倉兼太郎(長野県川

岸町の豪農出身)が製糸業に従事したのは明治 6 年で、この時は 10 人取座繰製糸であった

が、1889(明治 22)年には天竜川地域に垣外機器製糸所(32 釜)を設立し、さらに 1894(明

治 27)年には富岡製糸所を凌駕する 360 釜の三全社を設立した。座繰から機器製紙業へと

最も典型的な転換を遂げたのである。

63

(5)主な生糸輸出入国の状況・関係

1874(明治 7)年当時、フランスが最大の生糸生産国であった中国を押さえて生糸消費量に

おける首位を占めている。当時のフランス絹織物業は、全世界の生糸の 3 分の 1 近くを一

手に消費していた。しかもその消費する大量の生糸の 4 分の 3 以上を輸入に頼っていて、

輸入国としての地位は圧倒的なものであった。フランスに次ぐ生糸消費国である中国およ

び、インド、日本は生糸輸出を盛んに行う反面、輸入には皆無であった。これに対して、

後年の世界最大の生糸消費国たるアメリカ合衆国はこの時点で存在が小さく、イタリア・

イギリス・ロシアにも劣るものであった。

主要生糸消費国(単位:千封度)図表2-23

しかし約 30 年後フランスの生糸消費量は著しく減少したため、この間急速に台頭してき

たアメリカ絹織物業に首位を奪われただけでなく、中国や日本にも追い抜かれた。だがこ

こでいう数値は生糸消費量に関するものであるので、加工度が高いという独自の強みを生

かして絹織物産業へと移行し、世界での地位を保った。

ここでは、主な生糸輸出入国の当時の状況や相互関係という面から日本製糸業に与えた

影響を分析する。

ⅰ)フランス

フランスでは 1850 年代初頭にかけて機械製糸業の目覚ましい発展が見られた。そのさい

図表2-23石井寛治著『日本蚕糸業史分析』、1972 年、 東京大学出版会より。

64

原料繭は国内養蚕業が十分供給していて、養蚕業の展開も顕著だった。しかし微粒子病の

流行によりフランス養蚕業は壊滅させられた。パスツールにより微粒子病対策はなされた

もののフランス蚕糸業は生産を回復しなかった。

フランス養蚕業一覧(明治 22~30 年)図表2-24

フランスには世界最大の絹都リヨンがあって、自国の繭・生糸の生産だけでは不十分

であり、毎年中国やイタリア、日本、その他の国々から 4000~5000 トンもの大量の生糸を

輸入していた。そのうち第三国に輸入されるものもあったが、ほぼ 5 割は国内絹織物業者

により消費されていた。フランス絹織物の原料の 7 割以上が輸入品であり、東洋製、西洋

製の生糸を用途・目的に応じて使い分けていた。1890(明治 23)年当時、フランスの生糸輸

入先は中国が 3 割 8 分で最大、イタリアが 2 割 2 分、日本 1 割 5 分であった。フランス市

場における海外生糸の評価を示すのが次の生糸相場一覧表である。まずフランス製糸が首

位を占め、イタリア製、日本製、中国製が次いでいる。当時リヨンでは熟練工による手織

りが主流だったため、経糸にはフランス製やイタリア製の高級糸と日本製の最高級糸が、

緯糸には中国や日本の中下級糸が使用されるのが一般的であった。

大量の生糸がフランスに輸入されることにより、フランスの製糸業者は低廉な外国製糸

業との競争に直面したが、製糸業者は営業の防衛上、まず安価なイタリア、スペイン、ポ

ルトガル等からの輸入繭使用に踏み切り、自国の養蚕農家と利害をちがえる形で生き残り

を図った。そして南フランス出身の代議士を介してフランス議会に働き掛け、1888(明治 21)

年従来無税であったイタリア生糸および撚糸の輸入に対して課税を行わせた。それはイタ

リア製糸業者に大打撃を与えるように思わせたが、スイスやドイツなどを経由して入って

くるイタリア生糸への課税がなされておらず、ほとんど効果のないものだった。

1892(明治 25)年当時、南フランスを中心に合計 23 か所の製糸場が確認されるが、イタリ

アと比べて 1.6 倍以上という人件費の高騰が製糸業者を苦しめていた。しかもフランスは既

に 12 時間労働制に移行していたため 13~15 時間労働がなお一般的であったイタリアの同

図表2-24冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

65

業者に比べて不利な状況であった。そのため競争力向上のため低廉な外国産繭の輸入とと

もにイタリア製生糸、撚糸への課税が断行されたのであった。しかしそれはそれぞれ国内

養蚕農家、国内絹織物業者の利害に相反する措置であり、各々有力な地方議員、国会議員

を擁していた養蚕団体、絹織物同業組合の側も反対、結果国政に関するものとなっていっ

た。そしてフランス政府は養蚕農家、製糸業者、絹織物業者三社の利害関係を調整したう

え、1892(明治 25)年 2 月仏国蚕業奨励法を施行し、養蚕農家と製糸業者の両者に巨額の奨

励金を毎年交付する一方、絹織物業者の主張する外国産繭および生糸の関税免除も承諾さ

せている。しかしこれも生産が縮小するのを防止する程度のものだった。こうしてフラン

ス絹業は、その原料・半製品部門を切り捨てた形で完成品として絹織物分野に特化してい

た。これがフランス蚕糸業が回復しえなかった理由で、つまり回復する必要がなかったの

である。

また、19 世紀中ごろまでフランスの絹織物業界はイギリス絹織物業界と競っていて、

1860(万延 1)年仏英通商条約締結を契機にイギリスの絹織物業界を圧倒し、世界第一位の絹

織物業大国の地位を不動のものとした。以来自国に優秀な製糸業を要する強みを生かしつ

つ、高級で精緻な製品を自国のみならず、世界に向けて輸出していったが、ここまでの絹

織物産業発展に貢献したのは日本や中国の安価な繭であり、日本生糸輸出増加へ大きな影

響があったといえるだろう。

フランスリヨン市場生糸相場一覧表

(1 キログラム当たりの平均価格、単位フラン)図表2-25

ⅱ)イタリア

イタリア製糸業は、1805(文化 5)年に煮繭・繰糸への蒸気の応用が始まり、機械製糸業が

フランスよりも早く高度の展開を見せていた。19 世紀半ば、イタリアは 500 キログラムの

生糸を生産し、ヨーロッパ最大の生糸生産地域として地位を誇っていた。イタリアはフラ

ンスと異なり、絹織物業の発展がさほど著しくなかったため、生産された生糸の大部分が

生糸や撚糸の形でフランスなどヨーロッパ諸国へ輸出されていた。しかし 1860 年代に入る

とフランス同様微粒子病によりイタリア蚕糸業は大打撃を受けた。1864(元治1)年には2600

図表2-25冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

66

万キログラムに半減し、以降 1869(明治 2)年まで 3000 万キログラム前後の水準を低迷する

ことになった。

ここでフランスと比較した場合、打撃の程度が低かったことが明確であり、生糸世界市

場において 1860 年代を通じて中国糸までも抑える最大の生糸供給国であり続けた。そして

パスツールの袋取製手法や一時的に日本蚕種を採用することによって微粒子病の被害を除

去していった。しかしそれでもイタリア製糸業の回復・発展を制約した要因としては、中

国や日本糸との競争、そしてアメリカ産小麦による農業恐慌の影響があった。安価なアメ

リカ産小麦の輸入のためイタリア中南部では小麦栽培から果樹栽培へ転換がなされ、養

蚕・製糸業に使っていた土地も減少し、再度発展する可能性(土地)がなくなったことは

イタリア蚕糸業自体の発展にとって大きな制約要因となり、その未来にも大きな影響を与

えた。

このように、アメリカと、またアジアからも影響を受けたなかで、イタリア製糸業が見

出した活路は、一方では国内養蚕業の停滞から来る原料繭不足を、トルコをはじめとする

近隣諸国からの乾繭輸入によって補充することであり、他方では、フランスと同様に、極

力技術の改善を図って、経糸用の「優等糸」を生産し、中国糸・日本糸に対して経糸市場

に独自の位置を確保することであった。そして、アジア諸国に比べればはるかに賃金水準

の高いイタリア蚕糸業は、フランスと比べた際の相対的な低賃金のゆえに、かかる方式に

よって、次第に生産を回復し、20 世紀初頭には、ふたたび蚕病前を凌駕する量の生産を行

うことになったのであった。

イタリア養蚕業一覧図表2-26

一方イタリアには明治 20 年代当時、国内に 55~58 万戸の養蚕農家が存在していて、毎

年 3~4万トンの繭を生産していた。各地方で生産された繭は自国の市場に供給されるほか、

フランス、スイス、オーストリアなどにも輸出された。

また1401か所の製糸場が存在していて、約10万人の男女労働者が製造に従事していた。

なお日本の製糸場とは全く異なり、工場内部に撚糸場を併設している場合が多く、全国で

図表2-26冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

67

487 か所の撚糸場が存在、約 5 万人の男女労働者が撚糸に従事していた。

図表 2-27 によれば、当時イタリアは毎年 3000 トン前後の生糸を製造するとともに、外

国製糸を輸入して撚糸に加工、800~1600 トン規模で他国に輸出しており、両者の総和は

4000 トンにも及んでいる。イタリア製生糸はフランス製生糸に次いで品質がよく、しかも

フランス産より低廉であった。生糸に優秀な撚糸加工を施して付加価値を高めたうえで、

ヨーロッパの大需要地であるフランス、スイス、ドイツなど諸国に大量の輸出を行ってい

た。そして 1880 年代後半、フランスリヨンをはじめとするヨーロッパの大需要地において

フランス製の生糸・撚糸を圧迫するまでに至っている。その結果前述したようにフランス

製糸業者の反揆を招き、フランスは 1888(明治 21)年税則を改正、イタリア製の生糸および

撚糸に対して禁止的関税を賦課している。その結果、1888 年前後で輸出量に大きな違いが

表れている。フランスへの輸出が困難になり、著しく輸出量が減るとともにその他の国へ

の転送を余儀なくされた。つまり、スイス、ドイツ、オーストリア、イギリス、アメリカ

への輸出が急増している。このアメリカへの輸出急増が日本の生糸輸出に多大な影響を与

えることとなる。

フランスの一方的措置に対してイタリアの製糸業者は、まず製糸場整備の近代化、製造

技術の向上化、さらに製造原価圧縮による国際競争強化に努めた。次いで 1892(明治 25)年

2 月より施行の仏国蚕業奨励法に対抗して、政府・議会に働きかけて同年 7 月より生糸輸出

税撤廃を断行させた。この結果イタリアの製糸業者の輸出体制は一層向上し、ヨーロッパ

や新大陸に販路を拡大していく。

イタリア製糸産出量および外国生糸の撚糸加工輸出量一覧

(明治 20~25 年、単位トン)図表2-27

図表2-27冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

68

イタリア生糸および撚糸輸出先一覧表(明治 20~22 年)図表2-28

次に絹織物についてだが、14~15 世紀で盛んだったが、19 世紀段階ではフランスの製品

に対する競争力を持ってはなく、主に国内向けの製造に限定されていた。

以上のようにイタリア製糸業はフランス製糸業を密接にかかわっていてそれを意識せざ

るをえなかったといえる。

ⅲ)アメリカ

次に蚕糸業大国ではなかったものの、明治 20 年代当時世界第二位の絹織物業大国であっ

たアメリカについてみる。図表 2-29 は生糸輸出総高とアメリカ向け輸出高である。ほぼ並

行関係であることが明らかで、アメリカへの日本生糸輸出がどれだけ重要だったかが分か

る。

生糸輸出総高・アメリカ向け輸出高図表2-29

図表2-28冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

図表2-29横浜市『横浜市史第 4 巻上』、1965 年、有隣堂より。

69

アメリカ大陸への養蚕導入はイギリス植民地時代の 17 世紀初頭にさかのぼるが、19 世紀

においてはごく限られた地域で行われていたにすぎない。19 世紀後半アメリカは何度か養

蚕奨励の立法措置を検討するものの、若干の支援措置を除き、結局施行されることなく、

アメリカ政府は海外からの安価な生糸輸入によって絹織物業強化を図った。

アメリカの絹織物業は 1840 年代に始まるが、19 世紀半ばには絹織物工場の総数は 100

か所に満たず、しかも家内工房に準ずるものが多かった。しかし 1861(文久 1)年、南北戦争

勃発とこれに付随する税則改訂(戦費調達のため、従来 2 割 4 分の課税を行っていたヨー

ロッパ製絹布に対し、1861(文久 1)年、4 割の従課税を賦課し、さらに 1864(元治 1)年、6

割の従課税を賦課、この高関税は 1883(明治 16)年、5 割の従課税への引き下げに至るまで

普遍した)の結果、関税障壁を完成しており、財政収入を増加させた。そして国内では価

格上、先進国であるイギリス、フランスの絹織物と競争が十分に可能となっている。また

イギリスは 1860(万延 1)年、自由貿易拡大の見地から英仏通商条約を締結、絹織物について

は従来 1 割 5 分の従課税を全面撤廃、フランスからの無税輸入を承認している。その結果、

優秀なフランス製絹織物が一挙に流入してイギリス市場を脅かし、最大 30 万人を超えたイ

ギリス内の絹織物職工は、条約締結から 10 年後、8 万人の水準まで激減している。イギリ

スにとってこの条約締結は、一面では多くの利益をもたらしたが、国内絹織物業に関して

は自殺行為といえる。これら失業者の中には母国での生活に見切りをつけて新境地へ移動

するものも多く、英仏通商条約から 1 世代の間で数万人規模の絹織物職工、および染色工

等がアメリカへ移住している。移民の定住先は各々機能を生かせるアメリカ絹織物業地帯

であった。かくして高い関税障壁、豊富な人材需要の両面によりアメリカ絹織物業は発展

し、1870(明治 3)年以降 1880 年代にかけて一代勃興期を迎えることとなる。

1860(万延1)年当時アメリカの絹織物工場は139箇所であったが、1880(明治13)年には382

箇所、1890(明治23)年には472箇所にまで増加している。なお同時代に於ける絹織物業の拡

大をうけて、海外からの生糸輸入量も急増を呈している。1878(明治11)年段階に於いては

100万ポンド(450トン)を上まわる程度の生糸輸入量が、1880年代を通じて一層の増加を

遂げており、1898(明治31)年段階に於いては1000万ポンド(4500トン)の大台に到達して

いる。また絹織物の製造額も増加を呈しており、1860(万延1)年当時の製造額を基準とすれ

ば、1870(明治3)年当時1.8倍余、1880年(明治13)当時6.2倍余、そして1890(明治23)年当時

13.2倍余と、短期間に急増を遂げている様子が分かる。その結果、国内総需要に占める自国

製絹織物の比重も増大を呈しており、南北戦争前夜の1860(万延1)年当時、1割5分の水準に

過ぎなかったものが、1870(明治3)年当時3割、1880(明治13)年当時5割、そして1890(明治23)

年当時7割へと上昇を遂げている。

これら順調なるアメリカの絹織物業の発展を支えたのは、東洋から輸入された安価な大

量の生糸であり、アメリカの生糸輸入量のうち恒常的に日本が8割を占めていて、アメリカ

絹織物業界の躍進を側面から支援していたと述べても過言ではなく、アメリカの対ヨーロ

70

ッパ製絹織物防遏も、これら東洋諸国からの原料供与を俟って初めて可能となっている。

日本製糸業はアメリカ絹業界の要求と示唆の影響に従い、政府の指導と国民の協力が見

られ、製糸方法についての知識が政府と輸出商社から全国に普及されて模範的製糸工場が

設置された。よって日本はアメリカ絹業への原料糸供給減として中国にとって代わること

ができ、生糸は日本からの最大の輸出商品となり、アメリカはその原料生糸の供給を主に

日本に頼ることとなった。

次にアメリカ絹織物業の特徴について検討を加える。図表2-30は同時代の海外主要絹織

物業国に於ける絹織機台数一覧表であるが、ヨーロッパではなお手織織機が主流であった

様子が窺える。例えば1893(明治26)年、フランスの事例では、3年前に比して1万2000台以

上の減少をきしてはいるものの、依然6割7分までは手織織機によって占められており、イ

タリア、ドイツでも同様の傾向が見られる。これに対して同年、アメリカの事例では手織

織機は僅々7分余に止まり、9割2分余までは機械織機によって占められている。即ちアメリ

カ絹織物業界にあっては、産業革命による水力や蒸気機関を使用した機械的製造の普及急

速に発展し、絹織物生産量も激増した。

海外需要地絹織物機代数一覧表(明治23・26年)図表2-30

かかる背景には、他国にも増して水力や石炭に恵まれていたというアメリカ絹織物業地

帯の立地条件も大いに関係があるが、それ以上に重要なことは、当時アメリカ絹織物業界

が置かれていた賃金的環境である。即ち同時代のアメリカ絹織物業地帯に於いては、職工

の賃金が未曾有の経済的活況の下、急騰しており、例えば男性の年間賃金にあっては、先

進国フランスの1.5倍以上、後進国日本の12倍以上、と世界最高水準に到達している。その

結果、手織織機では収支が償わないために、品質よりも製造効率を重視、この時期までに

図表2-30冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

71

はほぼ全面的に機械織機への転換を完了させていたのである。かくして大量製造の体制へ

と移行しており、世界第1位の絹織物業大国フランスとも互角に競争可能となっている。

なおこの変化に対応して、アメリカ市場に於ける生糸の質も変化を来している。即ち製

造原価圧縮、大量製造拡大の便宜上、低廉にして荷数が豊富、しかも機械織機に適合する

品位斉一な原料糸が従来以上に強く求められるようになっている。言い換えれば安価であ

っても品質の悪い生糸、良糸であっても荷数の乏しい生糸は評価されにくくなっており、

中長期的にはアメリカ市場から排除されていくのであった。そればかりでなく明治20年代

以降に於けるアメリカ経済の長足の進歩は、絹織物を受容・購求する社会階層の拡大と同

時に、上流階層の高級品志向を一層促すことにつながっていった。この時期は既に生活水

準の向上、絹織物の大量製造化の結果、アメリカ国民一般にとって絹織物は、ぜいたく品

から日用品の域に移行しつつあった。従って市場規模の拡大、嗜好の高級化に即応してこ

の時期以降、アメリカ絹織物業界は一層の量産化、高級化を目指していくことになったが、

その実現のためには旧来以上に優良かつ高級な生糸が、しかも大量に必要とされたのであ

った。かくしてアメリカ市場に於ける原料糸への評価は、さらに厳しさを増しており、生

糸輸出国、ならびに製糸業者の側は、従来とは異なる新たな対応を迫られることになって

いる。

ⅳ)中国

図表2-2が示すように世界最大の蚕糸業国は中国であり、輸出生糸に限定してもヨーロッ

パ最大の蚕糸業国イタリアの製造量に匹敵していた。また日本生糸輸出量と比較すると

1891(明治24)年、初めて日本が中国を抑えて世界最大の生糸輸出国になるまで、ずっと首

位の生糸輸出大国であり続けた。中国の上海、広東からの輸出量は2800~5500トンの範囲

で減少しており、明治10年代には1500トン前後、20年代後半には2600~3600トンの範囲で

輸出を行っていた日本に比較してもはるかに巨大な生糸輸出大国だった。

中国新興工業地帯においては、世界屈指の上質繭・無錫繭をはじめとする中国南部産出

の原料が大量かつ安価に入手可能だった。中国産の繭はその粗放的養蚕法にも関わらず糸

質が優れ、斉一性にも富んでいて、また繭の解舒かいじょ

性なども日本製と比較して格段に優れて

いた。このような優秀たる原料を低廉な労働力、豊富な資本力を以って加工・輸出する体

制がしかれていた。

従来中国糸はその品質の悪さがしばしば指摘されていて、織物の緯糸あるいは縫糸とし

て用いられることが多かった。しかし、アメリカ合衆国においては、中国糸は緯糸に限ら

ず、経糸としても用いられていた。それはアメリカが1828(文政11)年以来ヨーロッパ経由

で大量の中国糸を輸入して、手織り機によって安価な製品を作ることを目的としたため、

フランス糸やイタリア糸は高価すぎたからであった。しかし南北戦争以降力織機による絹

織物業が本格的に発展し始めると、中国糸の品質の低さは障害となり、日本糸・フランス

糸・イタリア糸が輸入されるようになり、1982(昭和57)年以降アメリカ市場は日本が中心

72

になった。そして中国糸は縫糸に限られてしまった。

ところが1890年代に入るころから大規模な製糸場が設立され始め、経糸用の「優等糸」

を生産し、アメリカへ盛んに輸入するようになった。例えば、アメリカニューヨーク市場

にあっては1895(明治28)年以降、上海製器械糸の価格が高騰、最高級糸に至っては日本製

を押さえて、伊仏両国製造の生糸と同格の水準にまで昇騰を遂げている。その背景には日

本製以上に規格性、斉一性に優れ、アメリカ機業界の主流である機械織機に適合したとい

う事実があったが、この報道は日本の製糸業者に対し、日本生糸が緯糸市場から締め出さ

れかねない危険性があるという一大衝撃を与えている。そしてこのような成功が呼び水と

なり、1897(明治30)年までには上海以外の江蘇、浙江両省各地に洋式器械製糸場が開業(7

箇所、1352釜)、その後中国各地に同様な動きが広がっていった。

次に明治20年代当時の中国の生糸輸出先について確認を加えておきたい。図表2-32が示

す通り、同時代の主たる輸出先はヨーロッパであり、全体比の7割5分以上を占めている。

殊に最大の輸出先はフランスであり、リヨンの発展を支えていたと言っても過言ではない。

また中国開国以来の経緯からイギリス・ロンドンに向けた輸出も全体の1割前後を占めてお

り、フランスとの競争に敗れ、縮小化を遂げつつあったイギリス絹織物業の余喘を保しめ

ていた。かかる基調は清国崩壊期に至るまで不変であり、中国にとってはヨーロッパが最

大の市場であった。

一方アメリカ市場においては、中国糸は日本糸に圧倒されてしまい、1906~1910(明治39

~43)年段階の輸出総量において日本に凌駕されてしまったのである。しかしその後に至っ

ても中国製糸業の潜在的生産力は恐れるべきもので、日本より低い賃金を基盤とする同国

製糸業が全面的に改良された場合、日本製糸業が没落の危機にさらされることは明らかで

あった。

もっとも同時代以降、太平洋を隔てたアメリカ市場もさらに重要性を増していき、毎年1

割以上の比率を占めている。そしてこれらヨーロッパ、アメリカに続いて顕著な輸出先は

インドであり、毎年5分前後の輸出量を確保、その後比率を増している。なおこの時期、上

海製器械糸についてその販路を検討するならば、ヨーロッパ向け、アメリカ向けの輸出量

は伯仲しており、アメリカ市場にあっては日本製生糸を押さえて経糸として使用される場

合も多くなっている。つまり中国製器械糸は明治28年以降、日本の最重要市場アメリカに

於いて日本製高級糸(経糸用)と直截的に競合する事態を迎えた訳であり、この点でも日

本側の当局者、当業者に対して危機感を抱かせている。

73

中国生糸輸出量一覧(明治15~30年)図表2-31

中国生糸輸出先一覧(明治19~23、ただし広東・上海経由)図表2-32

図表2-31冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。 図表2-32冨澤一弘著『近代日本における蚕糸業発展の軌跡―統計資料の検討を中心にして―』2002 年より。

74

(6)まとめ

これまで第 1 節において製糸産業が日本の基幹産業であり得たということを 4 つの面か

ら証明し、この第2節ではその要因について大きく 4 つに分けて分析してきた。ここでは

さらに考察し日本製糸産業に大きな影響を与えた主要因と、その主要因を促すにとどまっ

た副次的要因に分ける。

(1)微粒子病は、副次的要因だと考える。つまり、私たちは微粒子病の蔓延によってヨー

ロッパが日本養蚕業に着目し、蚕種・生糸輸出が広まったため、日本蚕糸業発展の要因と

仮定した。しかし微粒子病により日本蚕糸業が動かされるとすると、パスツールの袋取製

手法が考案されてヨーロッパ蚕糸業が復活しようとしたとき以降にも日本生糸輸出量が伸

びていることと矛盾する。よって、微粒子病は蚕種・生糸輸出増加の第一歩となったに過

ぎない。

次に(2)明治政府の政策に関して、粗製濫造対策や試験場の設立、教育制度は日本製糸業

を営んでいくにあたって必然のことで、それを施したところで必ずしも生糸の生産量や輸

出量に大きな変動はなく、影響を与えたとは言い難い。一方、外国技術の導入として富岡

製糸場の売り上げ自体が振るわなかったこと、大規模過ぎて模範にならなかったことはあ

るが、外国技術、特に器械製糸技術が入ったことにより、製糸技術の発展を促したといえ

る。

(3)製糸技術の発展に関しては、外国の製糸技術である器械製糸が導入され、普及し、ま

た国内に普及していた座繰り製糸の改良がなされた。そのことにより、生糸の品質が高ま

り、イタリア、フランス産の生糸に対抗できる安価かつ高品質な生糸が製造できるように

なった。また大規模な器械製糸場の設立によって、生産の効率が高まり、工程管理、品質

管理、労務管理によって、大量出荷が可能になった。このような改良座繰り、器械製糸に

よる、安価かつ高品質な生糸の大量生産が生産量の増大につながり、生糸の輸出に大きく

貢献したのである。製糸技術の発展は、生糸世界市場における激しい競争の中で、日本製

糸業が発展していく生産的な基礎を与えたものとして、大きな要因であったといえる。

(4)製糸金融では、製糸売込問屋は、荷為替資金の立替え、購繭資金の前貸しなどを行い、

また製糸業者の経営資金の不足などに対応した。このことから製糸売込問屋は製糸業が発

展するうえで欠かせない存在であったことが判断できる。また財政投融資は、座繰りより

も均質で多量の製糸が可能という優れた面をもつ器械製糸の新増設を助長した。製糸金融

機関は、多くの製糸家への支援を通して、器械製糸業の急速な発展の要因となったといえ

る。

そして日本製糸業が発展し日本基幹産業となった最大の要因と言えるのは、(5) 主な生糸

輸出入国の状況・関係でとりあげた外国市場の動向である。主な生糸産出国、輸出入国、

消費国の、ものを取引する貿易の点においてはもちろん、各国内の状況、国際政治までも

が要因であった。今回取り上げたフランス・イタリア・アメリカ・中国のなかで、日本生

75

糸を多く輸入するようになり大きな影響を与えたのはアメリカだが、それまではフランス

が絶対的権力をもっていたこと、そしてイタリアはその隣国フランスを意識しないわけに

はいかなかったこと、また生糸輸出国として日本と常に争っていたと考えられる中国市場、

日本と各国、そして各国の内部事情、各国の相互関係が密接にかかわっていたといえる。

日本はこのような複雑な海外市場の中で需要にこたえようと技術を進歩させ、国を挙げて

製糸業に取り組んだといえる。

以上より、日本製糸業が基幹産業となりえた主な要因として、製糸技術の発達、そして

日本の主な生糸輸出入国の状況・関係をあげる。

76

第 3 章 日本の製糸産業の衰退

戦後の復興期において、生糸を中心とした繊維産業は、外貨の獲得などを目的とした基

幹産業であり、50 年代初期までは確かな国際競争力を保持していた。しかし、復興を果た

し国際競争力の保持まで回復した繊維産業であったが、様々な要因により次第に衰退して

いくのである。この章ではその衰退過程と要因を分析したいと思う。

第 1 節 基幹産業からの衰退

生糸・綿糸を中心とする繊維産業は、第二次世界大戦時までは圧倒的な国内生産力があ

り、基幹産業として当時の日本の産業を先導していた。戦争に敗戦するやいなや、その生

産力はたちまち失われてしまい、生産高はゼロに等しくなるまで低下していった。だが、

アメリカの復興支援もあり、上述したように一時は生産力も回復し、再び日本の産業を先

導していった。こうして日本の基幹産業に返り咲いた繊維産業だが、生糸産業は 1950 年代

中盤以降次第に衰退していくのである。この節では、生糸産業が衰退していく、つまり基

幹産業から退いていく過程を、国内生産量、雇用・生産工場数の推移、産業構造の変化、

貿易面の 4 つの視点からみていく。

77

(1)生産量からみる衰退

1970 年代後半に入ってから製糸、絹織物など日本絹業の生産低下は綿紡、合繊などの他

の繊維産業に比べて大きいものがある。京都の代表的伝統産業のひとつである絹織物産地

丹後を例とすれば 1973(昭和 48)年 996 万反を生産したものが 10 年後の 1982(昭和 58)年に

は 562 反と 40%以上生産低下し、1983(昭和 59)年にはさらに減反せざるを得ない状況で最

大生産時の 50%程度の 500 万反以下にまで落ち込んでいる。京都は和装産業の中心地であ

るが、この京都において最近の生産縮小は著しいものであるから、ほかの和装製品の産地

でも同様の状況が起きているのである。そもそも、製糸業全体の出荷額は 1970(昭和 45)年

に入ってからほとんど伸びてない。1970(昭和 45)年の 1745 億円から 1980(昭和 55)年には

2402 億円であり、同じ基幹繊維関連産業全体での伸び率は約 2 倍であったから、製糸業は

インフレ率を考慮すると実質的にはダウンしているのである。

対象を生糸に限定すると、戦前の生糸産業は大部分を欧米向けに輸出していた。そして

国内需要も和装が主流の時代であったから生産の拡大も可能であった。しかし戦後は合繊

が発達することによって輸出が減少し、国内需要も衣服の洋風化の進行によって減少する

ことになったのである。それが生糸の大幅な生産低下につながった。

図 3-1 は 1946(昭和 21)年から 1988(昭和 63)年までの日本の生糸生産量の推移を表した

グラフであるが、戦後から復興期にかけては生糸の生産量が増加しているのが分かる。全

体として 1969(昭和 44)年までは生糸の生産は増加していた。しかし、1972(昭和 47)年にな

ると生産量は落ち始め、ここから緩やかに減少していくのである。

生糸生産量の推移図表3-1

図表3-1 『蚕糸業要覧』を参考に作成。

78

また、世界の生糸生産量でみたものが図 3-2 である。日本の生産量が急減しているのに

対し、中国生糸の生産量の増加は著しい。1980(昭和 55)年の生産量 39 万 1000 俵は、世界

生産量の 42・7%で 1971(昭和 46)年の生産量 19 万 1700 俵、シェア 27・5%に比べれば、

生産量で 20 万俵、シェアで 15%の大幅な増加である。1949(昭和 24)年中国革命当時の桑

面積は 20 万ヘクタールにすぎなかったのが、1980(昭和 55)年には 2 倍の 40 万ヘクタール

に増大しており、野蚕糸、絹紡糸まで合わせれば 59 万 2000 俵(3 万 5500 トン)を生産し

1949(昭和 24)年の 8 倍もの生産増加となっている。1981(昭和 56)年には 1 万 9000 トンの

生産増加があり、さらに生産の拡大を計画しているような状況である。

世界の生糸生産数量図表3-2(単位)俵

生糸の生産量が停滞する一方で、合成繊維については生産量を増していくのである。戦

後から第一次石油ショックまでは、、、、和服から洋服へといった衣生活の大変革、大衆化社会

へのスタート、洗濯機をはじめとした家電製品の普及、女性の社会参加など、社会、経済、

ライフスタイル、価値観などが大きく変化した。正確には、昭和 30 年代からニクソン・シ

ョックまでというべき所であるが、まさにこの時代は「合成繊維の黄金時代」であった。

1938(昭和 13)年デュポン社(米)が発表したナイロンは、戦争中に飛躍的に発展。欧米にお

ける生糸需要は激減した。そのため、戦後の復興にあたり、生糸、綿中心に政府の再建構

想は大きく転換を迫られた。

生糸と同じ長い連続した繊維を人工的に作ることに成功した結果、人絹は絹織物の分野、

特に洋服の裏地や安物の織物の分野に進出し、広幅絹織物と競合することとなった。絹と

人絹との競合は、世界恐慌後の 1930(昭和 5)年ごろから急激に表れてきている。アメリカに

おける生糸と人絹糸の価格をみると、生糸の価格は人絹糸のほぼ 3 倍であったので、人絹

糸は広幅織物分野に集中して使われるようになり、生糸の伸びを抑えた。1933 年には広幅

織物分野で絹と人絹はほぼ同数が使われるようになり、1935(昭和 10)年には広幅織物の原

糸消費量の7割を占めるようになった。

図表3-2 『蚕糸業要覧』151 ページより。

79

広幅織物の分野での競合に敗れた生糸は、シルクストッキングの分野に転身することと

なった。

生糸の性能に代わる繊維がなかったこと、女性の社会進出が第一次大戦後急激に増大し

た結果、ファッションに変化が起こって、足首まであったスカート丈がだんだん短くなり、

それにつれて、薄地の絹靴下が流行するようになった。生糸の活路は絹ストッキングに向

けられ、1935(昭和 10)年には靴下用と広幅織物用の生糸の比率はほぼ半数となり、1937(昭

和 12)年には 7 割が靴下用となった。

ポリアミド繊維の製造に成功したアメリカのデュポン社は、1937(昭和 12)年、婦人靴下

の試験政策を開始した。1938(昭和 13)年にこの繊維をナイロンと命名して「クモの糸より

細く、鋼鉄よりも強い」というキャッチフレーズで、シルクストッキング分野に進出した。

第二次大戦中に落下傘など軍需用途に大量に使われたナイロンは、価格と強度と斑の全く

ない糸品質のために絹靴下を駆逐した。

代表的成長を個々にみると図表3-3

▽ナイロン

生産量は、1951 年から 60 年で 40 倍、60 年から 70 年で 7.8 倍と急伸。しかし、73 年の 34 万 1000 ト

ンをピークに減少。84 年は 30 万 8000 トンでピーク時の 90%の生産量となっている。

▽ポリエステル

ポリエステルは、繊維の王者といわれる存在だけに、1948 年での生産量 64 万 7000 トンで、合成繊維

総生産量の 46%を占めている。60 年から 70 年で 14 倍、70 年から 80 年で 2 倍となり、80 年代に入って

からも他の合成繊維が減量傾向にあるのに対して、唯一、伸び率は迷いながら伸長してきた。

▽アクリル

60 年から 70 年で 20 倍。ピークは 78 年の 37 万 3000 トンで、その後、減産傾向に入ったが、84 年は

順調に回復。ピーク時とほぼ並ぶ生産量となっている。

▽レーヨン

第二次世界大戦におけるレーヨンの生産は、朝鮮動乱を契機に回復。1950 年から 60 年で 3.6 倍に成長。

67 年の 45 万 2000 トンをピークに減量。84 年は 32 万 2000 トンでピーク時の 71%の生産量である。

▽綿糸

戦前に繊維産業をリードしてきた綿糸生産は、戦後に入って、やはり、朝鮮動乱を契機に回復。しかし、

早くも 1961 年の 57 万トンをピークに減産化に入った。それでも、74 年までは、かろうじて 50 万トン台

を確保してきたが、その後は 40 万トン台に落ち込み、八四年の生産量はピーク時の 76.7%の 43 万 7000

トンとなっている。

▽毛糸

わが国において天然繊維の中では、もっとも後発で工業化された羊毛工業は、1950 年から 60 年で 4.2

倍、60 年から 70 年で 1.4 倍と第一次石油ショックまで順調な成長をとげてきた。しかし、73 年の 19 万

図表3-3 『蚕糸業要覧』151 ページより。

80

8000 トンをピークにして、74 年は 70%に減産。羊毛工業を根底から揺るがすことになった。80 年代に

入ってからは、生産量こそピーク時の 60%の減産となっているが、比較的安定した推移をたどっている。

▽生糸

自由貿易国のわが国の繊維の中で、唯一、規制が施行されているのが繭、生糸の生産である。戦前にお

いては、1929 年のアメリカの不況、レーヨンの登場、戦後に入ってからは和服から洋服への衣生活の変

革、合成繊維の登場などで減産の一途をたどってきた。戦後に入っての生糸生産量は、1968 年から 70 年

までの 2 万 1000 トンをピークに、84 年は 1 万 1000 トンと約半減。生糸需要の 85~90%が和服用途であ

り、和服市場の衰退が減産を加速させてきた。

▽麻糸

他の天然繊維同様、麻も化合成繊維の登場、普及で、大きく後退。特に、漁網やロープなどの産業用途

後退で、1970 年には 12 万 1000 万トンの生産量にあったものが、84 年はその 12.5%の 1 万 5000 トンに

激減している。

だが、天然繊維、化合繊維の糸ベースでみた総生産量は、1970(昭和 45)年の 216 万トン

をピークに、ニクソン・ショック、第一次石油ショックで大きく減量し始め、その後、徐々

に回復してきたというものの、1984(昭和 59)年には 200 万トンでピーク時の 93%となって

いる。

化合繊維計では、ピークは1979年の142万トンで、1984(昭和59)年は141万トンの99%。

天然繊維総計では、1965(昭和 40)年の 87 万トンがピークで、1984(昭和 59)年は 68%の 59

万トンである。

さて、生産量の減少に関連して、工場数及び設備数の減少も著しい。製糸業における工

場数及び事業所数の減少は製糸部門での集約化、大規模化の方向にあるのではなく、むし

ろ大規模投資もおこなわない相対的低賃金労働に依存した労働集約的生産が可能な小零細

規模企業の残存の方向にあるのである。すなわち製糸業は輸入生糸の拡大や、他方におけ

る国内需要の減少の中で、機械化の推進、設備投資の拡大などによって特別利潤を取得し

うる産業部門として存在していないということであり、労働強度を増加させ低賃金労働、

労働条件の低さなどでカバーすることが可能な企業のみ存続できるという状況にあるとい

えるだろう。したがって製糸業の工場は 200 台以下の設備をもつ小規模工場のみ存続可能

になり今日にいたっているということになる。

製糸業での工場・設備激減、生産量の低下は、国内養蚕、収繭量の生産低下をもたらし

た。図 3-4 は養蚕農家、収繭量推移である。養蚕農家は 1930(昭和 5)年 220 戸を超えてい

たが、50 年後の今日では 15 分の 1 以下の 15 万戸と減少している。日本農業に占める養蚕

家率も戦前は 40%弱であったが 1981(昭和 56)年には 3・3%と著しく低下している。桑栽

培面積も 1930(昭和 5)年の 70 万ヘクタールから 6 分の 1 の 11 万 7000 ヘクタールになって

81

いる。収繭量をみても 1930(昭和 5)年の 40 万トン、1936(昭和 11)年の 31 万トンから、

1981(昭和 56)年から約 6 万 5000 トンにすぎなくなっている。また蚕種業者も戦前は 7000

あったが、1981(昭和 56)年では 55 業者にまで減っている。養蚕はまさに日本農業のなかに

あって最も減少した部門となっているのである。

養蚕農家・収繭量推移図表3-4

図表3-4 『蚕糸業要覧』より。

82

(2)生産工場・雇用からみる衰退

次に最も生産量と直接的に関連する製糸工場数及び設備数の減少についてみてみる。需

要の減少は製糸工場数、設備状況に反映しており、器械製糸を例にとれば、1931(昭和 6)

年には 3687 工場、32 万台の設備を有していたのが、50 年後の 1981(昭和 56)年には工場数

は 129、設備も 1 万 3000 台と激減しているのが図 3-5 この状況は器械製糸のみならず、

器械玉糸の工場数、設備数も同様である。

製糸工場数及び設備数図表3-5

(単位) 設備数は台数または釜

製糸工場数、設備数の減少は当然のことながら事業所数の減少にも結びついている。

1960(昭和 35)年には 1099 あった事業所も 1980(昭和 56)年には 317 と 3 分の 1 以下にまで

なっている。製糸業における生産縮小、事業所数の減少を種類別、規模別にみたのが図 3

-6 である。企業数は 1950(昭和 25)年 185、工場数 299 から 1981(昭和 56)年にはそれぞれ

104、129 と減少している。そして設備も同じ期間約 5 万台から 1 万 5000 台と 3 分の 1 以

下にまでなっている。この状況を工場規模別にみると、300 台以上のいわば大規模工場で

1950(昭和 25)年の 9 工場から 1981(昭和 56)年には 3 工場となっており、また最も減少して

いるのは、201~300 台の中規模工場で 1950 の 76 工場から 81 年には 9 工場と 67 工場も

減少している。中・大規模工場の減少に比べて 100 台以下の小規模工場の減少率は小さく

図表3-5 『蚕糸業要覧』66 ページより。

83

なっている。201 台以上の設備を持つ中・大規模工場で設備廃棄を続けていく中で小規模工

場のみが存続しているのである。

器械製糸の規模別工場数及び設備台数図表3-6

(単位)設備は台または釜

また、製糸業における工場数、設備数の減少は、従業員の大幅な削減を伴っている。

1931(昭和 6)年には 32 万人の従業員が存在したが、1981 年(昭和 56)には 1 万 1000 人と約

30 分の 1 にまでなっている。製糸業は戦前は特に女子労働者に委ねられていたのであり、

男子労働者の 10 倍以上も従事していた。しかし 1981(昭和 56)年には女子労働者は男子労

働者の約 3 倍にすぎなくなっている。また製糸設備 1 台あたりの従業員は 1960(昭和 35)年

には 1・76 人、1970(昭和 45)年には 1・47 人、1981(昭和 56)年には 0・73 人と減少して

おり、機械設備能力の向上とともに労働強度も増大していることを示している。(図 3-7

ァ,図 3-7 ィ,3-8 参照)

図表3-6 『蚕糸業要覧』68 ページより。

84

製糸業従業員数図表3-7ア (単位)人 製糸業者従業員数図表3-7イ

0

50,000

100,000

150,000

200,000

250,000

300,000

350,000

1931 1950 1960 1970 1972 1974 1976 1978 1980

総数(人)

西暦(年)

絹織物生産・織機・従業員推移図表3-8

(単位)織物100万㎡,織機 1,000 機,従業員 1,000 人

図表3-7ア『蚕糸業要覧』82 ページより。 図表3-7イ 『蚕糸業要覧』を参考に作成。 図表3-8 『蚕糸業要覧』より。

85

(3)産業構造の変化からみる衰退

日本経済は、第二次世界大戦後の物不足と悪性のインフレの悪循環に悩まされていたが、

それを断ち切るために、石炭、鉄鋼の生産拡大に諸資源を集中投下する「傾斜生産方式」

により、復興経済をスタートさせた。また戦後経済の自立化を後押しするアメリカの対日

経済援助も加わり、1950(昭和 25)年ころには敗戦のダメージを徐々に回復し、日本経済は

戦前の生産水準に近いレベルまで回復しつつあった。

戦後間もない 1950(昭和 25)年に勃発した朝鮮戦争は、軍需関連産業の特需景気を生み、

日本経済は第二次世界大戦による壊滅的ダメージを一気に抜け出すことに成功した。また

その後起こった高度成長経済に向けて、産業基盤の形成はいちだんと進んでいったのであ

る。

高度成長期は、日本経済がもっとも高い経済成長を実現した時代であり、年率 10%を超

える高い経済成長が長期間続いた時代である。その原動力は、産業構造の重化学工業化の

進展と輸出主導型の工業化の成功が両輪として機能したことにあった。国内、海外の景気

拡大とそれに向けての設備投資は、設備関連産業である重化学工業の生産重要を生むとと

もに、重化学業界の設備の大型化や近代化向けの投資需要が誘発され、投資が投資を生む

という好循環サイクルが形成された。ちなみに産業構造の推移をみると、繊維、食料品等

の軽工業の割合が低下する一方で、金属(含む鉄鋼)、機械、化学など重化学工業の割合が製

造業の 6 割を超える水準まで拡大した。

また国内の設備投資や技術革新により、国内産業の生産性や国際競争力が向上し、それ

が輸出需要の拡大を生んだ。輸出の成長を主導した産業は、当初は繊維、食料品等の軽工

業品が中心であったが、そのあとは鉄鋼、機械、化学などの高度成長経済を牽引した重化

学工業品がそれらにとって代わっていった。

日本経済の牽引力を担ったのは、もちろん製造業を中心とした第二次産業である。とり

わけ製造業に注目すれば、経済成長に大きな役割を果たしたのは、まずは繊維や食料品を

中心とした労働集約タイプの日用品、軽工業であった。だが、高度成長に入ると鉄鋼、石

油化学、重電機などを中心に重化学工業化が進み、投資が投資を呼ぶという設備投資、輸

出が牽引する成長経済が出現した。

86

日本経済の成長過程図表3-9

経済復興期 高度成長期 安定成長期 構造改革期

年代 1945~54 1955~74 1975~89 1990~

環境

脅威

・朝鮮戦争の勃発

(50 年)

・経常収支の赤字の

・貿易摩擦(半導

体、自動車など)

・円高進行(85 年プ

ラザ合意)

・バブル経済の崩

・アジア通貨危機

日本

経済

・傾斜生産方式の

導入

・もはや戦後では

ない(56 年『経済

白書』)

・所得倍増計画(60

年)

・設備投資、輸出の

拡大

・強い日本の出現

・グローバル化の

進行

・「失われた 10 年」

問題

・金融危機とその

再生

産業

動向

・機械産業の成長

・(軍需関連)機械

工業の復活

・重化学工業化

・輸出産業の発展

(先進工業国化に成

功)

・エネルギー多消

費産業の衰退

・機械産業の台頭

・産業の空洞化問

・サービス経済化

の進展

主力

産業

繊維、食料品、産

業機械、電気機械

合繊、鉄鋼、造船、

自動車、電気機械、

石油化学

自動車、半導体、

コンピューター、

産業機械

自動車、情報家電、

電子部品、メカト

ロ機器

戦後の復興を支え、日本経済の立ち上がり期を支えた繊維産業の競争力のピークは、

1965(昭和 40)年前後であった。1970(昭和 45)年に入ると我が国の繊維産業を取り巻く環境

はますます厳しいものとなっていく。アメリカの繊維産業が日本からの輸出に反発、この反

発は貿易摩擦という形で表面化し、日本は 1971(昭和 46)年の日米繊維交渉により輸出規制

を実施することになる。また、産業発展が進むアジア諸国からの輸入が増加、さらに石油シ

ョック価額上昇、国内市場の低迷などが重なり、我が国の繊維産業の状況は急速に悪化して

いった。このような状況を受けて、通産省は減算指導(1977 年)を行ったものの、状況は改

善しなかった。このため、1978(昭和 53)年には不況カルテルにもとづき操業短縮を行うと

ともに、特定不況産業安定臨時特措法やその後の特定構造改善臨時特措法、繊維工業改善臨

時特措法などを通して対応、かつての基幹産業は、構造不況産業に様変わりしてしまった。

1980 年代半ばからは、円高の影響もあり国内の繊維産業はますます厳しい状況へと陥り、

産業の空洞化が始まるのである。1973(昭和 48)年と 1979(昭和 54)年の二つの石油危機を境

にして、1980 年代に入ると繊維産業は、輸出産業から輸入産業へと一気に転換していき、

図表3-9小宮隆太郎『日本産業政策』東京大学出版会、1984 年および日本興業銀行産業調査部『日本産業読本(第 7版)』

東洋経済新報社、1997 年をもとに、三菱総合研究所が作成。

87

最近ではその傾向がさらに強まっている。図 3-10 参照。

R・バーノンのプロダクト・サイクル理論※に即して表現すれば、繊維製品は開発期、成

熟期を過ぎて、標準化期を迎え、発展途上国からの輸入段階にいたっているともいえよう。

また、繊維産業、特に天然繊維(具体的に生糸や綿)の衰退の一因には、需要と供給の不一

致性がある。天然繊維は農的生産方法によって生産されるのだが、その生産は分散度が高く、

経営主体は小規模経営が支配的であるため、生産調節が困難である。さらに、その生産に固

有な技術的特質(気温、降水量、病害虫などの自然的条件の影響が大きいという事実)のため、

予測困難な、不可抗力的要因によって、生産量が浮動してしまう。生産における計画性は、

せいぜい作付け面積か、飼育頭数に決定までにとどまり、その後の過程には、完全には及び

えない。しかも、それでいて、生産の弾力性にはきわめて乏しく、供給量は固定的で、需要

の増減に即して、供給を調整することはとうてい困難である。その結果、天然資源の需要と

供給とは、激しい変動をくり返すのがむしろ常態であり、こうした労働集約的な産業にもか

かわらず、非予測的な生産性というのはしばし問題視されていた。

繊維合計需給表図表3-10 (1,000 トン)

繊維産業は産業発展のさまざまな局面で重要な役割を果たしてきた産業である。第一に、

繊維産業が持つ労働集約型の産業特性は、安い労働力を生かし、生産基盤を構築するとい

う重要な役割を果たしてきた。第二に、繊維産業は戦後から 1950 年代、1960 年代にかけ

て日本を代表する輸出産業であり、日本の工業化を先導する花形産業のひとつであった。

※ プロダクト・サイクル理論

ハーバード大学のR・バーノンによる国際貿易、投資の理論。当該製品は、製品寿命曲線に即して「開発期、

成熟期、標準化期」と移行するが、それとともに国内生産、国内販売および輸出の段階を経て、標準化期には発

展途上国における海外直接投資が進み、そこからの輸入が拡大し、国内生産は縮小する。日本でも標準化の進ん

だ繊維産業では、円高が進むにしたがって海外生産が進み、1980 年代の中頃には輸入産業に転換していった。

図表3-10 経済産業省データをもとに作成。

需要 供給 年

内需 輸出 生産 輸入 年末在庫

1980 1,706 601 2,050 278 571

1985 1,784 631 1,983 466 595

1990 2,188 462 1,822 817 567

1995 2,373 394 1,382 1,369 534

2000 2,353 439 1,089 1,692 433

2001 2,303 434 994 1,717 408

2002 2,132 431 851 1,668 364

88

第三に、労働集約型の繊維産業では、アジアとの間で産業内国際分業が高度に発展してき

た。高級品と低中級品を日本とアジアで分け合う製品差別化分業や、糸と織物そして衣服

の生産を分け合う工程間分業などのアジア国際分業関係は、繊維産業で先行的に発達して

いった。第四に、労働集約型であった繊維産業は、労働集約型産業から転換することで、

化学繊維や近年の炭素繊維などに代表される先進的な技術を適用した新たな産業発展を実

現してきた。もっとも、繊維産業の労働集約型産業からの転換は、なにも近代に限ったこ

とではなく、古くは産業革命時から行われていた。近代産業の幕開けとなったイギリスの

産業革命は、もともとは 17 世紀後半に登場した安いインド産の綿織物に対抗するために、

機械化が進められたことにより始まった。

このように繊維産業は、各国の産業発展プロセスの初期段階においては労働集型産業と

して産業基盤を構築し、その後、先新技術を適用することで労働集約型産業から転換して

新たな産業発展を実現してきた産業である。一方、繊維は人間生活を構成する基本要素(衣

食住)の一つであり、産業の如何にかかわらず、生活に必需となる財・サービスである。ま

た、繊維産業が作り出す製品に注目すれば、衣服・ファッションといった私たちにとって

非常に身近な製品を製造している産業であり、また、西陣織などの伝統文化と深く関わっ

た産業でもある。

石油危機により、原材料面で比較優位が低下して以来、1985(昭和 60)年のプラザ合意以

降円高、ドル安そしてアジア通貨安が進んだことで、国内生産からの転換が後押しされた。

日本の繊維産業は、産地における関連工業との関連もあり、ぎりぎりまで国内生産にこだ

わったが、あまりにも急激な円高、ドル安の進行が、アジアでの生産、輸入の流れを加速

させていったのである。1990 年代に入り、バブル景気が崩壊すると繊維産業に関わる事業

所数、雇用者数は急激に減少、2001(平成 13)年には 15 年前の半分以下までにその数を減ら

すことになる。加えて 60 歳以上の経営者の比率が 7 割を超す、高齢化が進んだ産業でもあ

る。このため我が国の繊維産業は、より付加価値の高い産業を目指すこととなった。しか

し、1980 年代には付加価値は増加する傾向が見られたが、1990 年代に入ると減少、21 世

紀になっても状況はあまり変わっていないとの報告もある。

アジア諸国の追い上げを受けた我が国の繊維産業は、製品の高付加価値化、差別化など

をはかることで生き残りをかけることが重要であるが、1990 年代以降、ますます厳しい状

況にある繊維産業の姿を見ることができる。

さらに、繊維の需給動向を見ると、繊維産業が国際競争力を失い輸入依存産業化した(内

需の半分以上を輸入で賄う)のは、1990(平成 2)年と 1995(平成 7)年の間である。また、1990

年~1995 年に進んだ円高、ドル安の動きにより、日本の供給体制はアジア依存、海外依存

が決定づけられた。

89

(4)貿易面からみる衰退

まず、日本の繊維産業が今直面している非常に大きな問題は、他の産業とも同じだが、

成長が鈍化しているということである。あるいは非常に停滞感が強いということであろう。

特に繊維産業は他の産業以上に深刻であると思われる。その理由は何かというと、一つに

は日本の繊維産業が過去に非常に高い成長の時期があったからだ。そのことが逆に現在の

停滞感というものを非常に強くしている。ではなぜ成長率が高かったのかというと、非常

に輸出の比率が高かったということだ。

明治の中ごろから始まって、第二次大戦をはさんで、昭和 30年代の前半までの期間には、

日本から輸出している全製品に占める繊維製品の比率というのは 5 割ないし 3 割であり、

したがって近代の日本の産業を支えた大きな産業であったといえる。図 3-11 参照。それが

30 年代の中ごろから非常に変化をみせ、その比率は現在までの約 15 年間に急角度に低下し

てきた。現在は全輸出のせいぜい 6.7%にすぎないところまで落ち込んでいる。

貿易構造の変化

工業製品輸出額の構成図 3-11

図 3-11 『通関統計』より。

90

生糸は第二次世界大戦前まで日本の主要輸出品であった。その生糸が 1960 年代後半には

輸出から輸入商品に変わってしまった。図 3-12 参照。第二次世界大戦後の生糸生産は敗戦

から 1950 年代半ばまでの生産復興期及び輸出志向期、1960 年代半ばまでの生産安定期、

そして 1960 年代後半からの輸入拡大・生産縮小期と 3 期に時期区分することができよう。

1962(昭和 37)年には生糸は輸入自由化されたのであるが、1960 年代後半まではアメリカ、

ヨーロッパへの輸出減少を国内での需要増加によって補い、さらに国内生産の停滞を外国

生糸の輸入によって補う構造となっていた。ところがその 1960 年代後半には外国輸入生糸

が国内消費の 30%を占めるようになったのである。輸入生糸の増加は日本の蚕糸・製糸生

産に多大な影響を及ぼした。輸入の生糸の絶対的価格、日本生糸の国際競争力の絶対的低

下は、日本の蚕糸・製糸部門をさらに縮小させることになったのである。

図 3-12 は生糸の需給状況を示すものであるが今日の蚕糸・絹業の特徴を明らかにしてい

る。生糸生産は、第二次世界大戦前の 1930 年代に生産のピークがあった。この時期は生糸

が日本の主要輸出品であり、生産の大量を輸出に依存していた。1930(昭和 5)年を例にとれ

ば、71 万俵の生糸生産のうち約 3 分の 2 にあたる 47 万 7000 俵が輸出されていた。またこ

の時期は日本人の衣服は和服が中心であった。それでも第二次世界大戦後に比べて国内需

要量は小さい。それは絹製品が高価格であり当時の需要層は限られていたこと、一般大衆

の衣服は綿、麻製品が多かったことである。したがって生糸生産は輸出目当ての生産とい

うことで、当時の日本貿易構造は現象的には生糸をはじめとする繊維品などの輸出によっ

て重化学工業のための原料、機械などを輸入するという構造になっていた。第二次世界大

戦中は当然のことながら、生糸生産は激減したが、戦後は 1955(昭和 30)年ごろから生産が

拡大し始め、同時に輸出も伸びていった。しかし 1960(昭和 35)年頃にはいってからナイロ

ン、ポリエステルなどの合繊生産が拡大していき、生産需要を減少させることになり、輸

出も低下していった。そして 1960(昭和 35)年には生糸は輸入商品となったのである。生糸

輸入はその後年々拡大傾向を示し、1966(昭和 41)年には生糸輸出量をも上回るほどになっ

た。そして 1974(昭和 49)年以降生糸輸出はほとんどおこなわれなくなったのである。生糸

輸入の増大は、生糸の国内需要が伸びたということに一因がある。1960 年代後半から 1970

年代前半にかけての国内引き渡し数量は 45 万~50 万俵へと増大した。いわゆる第一次ベビ

ーブームの世代層が和服需要を換気したからである。しかし国内での生糸生産は戦後

1969(昭和 44)年の 35 万 8000 俵を最大にして低下傾向を続けていた。1960(昭和 35)年から

本格的にはじまった「高度成長」は日本農業の構造転換農業から都市労働者への転化、ア

メリカをはじめとする食料輸入の増大などを進行させた。日本農業の転換は養蚕も例外な

くまきこみ、生糸生産の絶対的拡大を困難にさせたのである。需要に対して国内生産の絶

対的不足は外国生糸を輸入せざるをえないことであり、1972(昭和 47)年には 16 万 8000 俵

と国内需要の 3 分の 1 以上が輸入品によってまかなわれることになったのである。この生

糸輸入も 1972(昭和 47)年をピークとして年々低下しつつある。その原因は、国内需要の減

91

少とあいまって、絹織物などの絹製品の輸入が拡大したからである。生糸輸入の減少は、

国産生糸の生産拡大を保障するのではなく、逆に絹製品の輸入拡大として生じ国内生糸の

生産をも減少させることになった。生糸生産は 1981(昭和 56)年には 24 万 7000 俵と戦後の

最大生産時 1969(昭和 44)年に比べると 70%以下にまで落ち込んでいる。そして国内での生

糸需要も 1981(昭和 56)年には 25 万俵と 1972(昭和 47)年の約半分であるが、生糸輸入の減

少によって国内引渡し量と見合うようにまでなってきている。

生糸需給推移図表3-12 (単位)60 ㎏俵

ところで、生糸は、日本、フランス、イタリアが主要輸入国になっている。日本の生糸

輸入は 1960 年代後半から増大し、1972(昭和 47)年、1973(昭和 48)年がピークになってき

ている。これは日本の生糸需要の最大時がこの時期にあったからであり、その後は輸入量

が減少している。生糸輸入量の減少は、生糸の輸入一元化措置(後述)がとられたことや、2

国間協定の締結などの輸入制限もあるが、原料としての生糸よりも製品としての絹織物工

場が増加し、原料の生糸を輸入することによって生産加工しているからである。台湾の生

糸輸入は主に日本資本によって開発されたブラジル生糸と香港を介しての中国生糸である。

一方、絹織物の輸出は 1970 年代に入ってから減少し続け、1977(昭和 52)年からは若干増

加しているがこの増加部分は中近東向けの輸出である。ヨーロッパ、アメリカ地域などは

図表3-12 『蚕糸業要覧』88 ページより。

92

韓国、中国製品と競合しており、日本の輸出シェアは低下の傾向にある。日本の中近東向

け絹織物輸出は、全体の 40%前後となっており依存率も高いが、この地域にも、韓国、香

港などが進出しており、また原油価格の引き下げは OPEC 諸国の収入源をもたらし輸入減

を導くであろうから、日本の絹織物輸出の拡大は困難な状況といえるだろう。日本の絹製

品輸出の拡大が困難な状況のなかで、輸入は高水準となっている。絹糸、絹織物の輸入は

1970 年代に入って急速に拡大した。数量的には 1975(昭和 50)年がピークで、絹糸 5289 ト

ン、絹織物 4098 万平方メートルとなっている。絹織物輸入はすべて和装地ではないが、和

装地に換算すると約 900 万反強輸入したことになる。1975(昭和 50)年の国内の絹織物生産

量は 3484 万反であるから、国内供給量の 20%強が輸入和装地であったということになる。

1976(昭和 51)年以降は輸入量が減少しつつあるが、国内での生産量も低下傾向にあり、絹

織物輸入は 20%前後の輸入比率を維持している。また絹糸、絹織物とも輸入金額は増加し

ている。それは 1966(昭和 41)年絹糸は 1 ㎏あたり 5・3 ドルと低価格であったのが、70 年

には 7・2 ドル、75 年 23・6 ドル、80 年 36・6 ドルと大幅に上がっているためである。絹

織物も 1966 年1平方メートル当り 2・5 ドル、70 年 3・1 ドル 75 年 4.3 ドルと上昇してい

る。とくに絹織物は種類によって価格差は大きいが絹糸価格の上昇もあり、傾向としては

価格の上昇は大きいということがいえよう。そして韓国、中国などの絹織物輸出国は、日

本の絹糸・絹織物輸入の数量減を、価格上昇によって補っているという形態ともいうこと

ができよう。

93

(5)まとめ

これまで述べてきたように 4 つの視点からすると、生糸産業は確かに 1960 年代から基幹

産業ではなくなったと言える。もちろん個別的な指標としての生産量の減少(昭和 44 年のお

よそ 35 万俵から昭和 63 年のおよそ 10 万俵までの減少)からもそうと言えるのだが、国内

の産業構造の変化を見るとさらに分かり易い。それに関連して工場数、事業所数、雇用数の

減少も目立つものがある。雇用者数の減少に関して言えば、設備の改良・発展によりある程

度必然性があると言えるかもしれないが、1931(昭和 6)年から 1981(昭和 56)年の 50 年間で

およそ 30 分の 1 にまで減少した点は生糸産業衰退の裏付けと言える。また他の分野との比

較という点で相対的に見ると、やはり生糸産業を含む繊維産業は、貿易面においても高度成

長期以降重化学工業製品より輸出額は劣っている。

第二次大戦後、自動繰糸機の実用化、蚕品種の改良、人工飼育による稚蚕の飼育、養蚕の

機械化などが行われ、蚕糸の技術革新には目を見張るものがあった。しかし、この技術革新

によっても中国の安い繭と日本の蚕糸業は競合することは出来なかった。技術革新が頂点に

達した 1960 年代が日本蚕糸業消滅の始まりとなったことは、歴史の皮肉であるように思わ

れる。

次の節ではこうして生糸産業ないしは繊維産業が衰退していった過程を、4 つの仮説に基

づき考察する。

94

第 2 節 衰退要因の分析

前節では、「生産量」「雇用・生産工場」「産業構造の変化」「貿易面」の 4 つの指標をも

とに日本の製糸産業が基幹産業から衰退した事実を述べた。製糸産業の衰退は誰の目にも

明らかであった。

前節で述べた事実をふまえて、本節では、製糸産業が衰退した要因を分析していく。分

析するにあたり、まず我々は仮説を立てた。仮説を検証することで、今回我々が研究を始

める際に抱いた「日本の製糸産業はなぜ衰退したのか。」という問題の答えを出すことを目

的とする。

我々が立てた仮説は、「日本の製糸産業の衰退は、①衣生活の変化②化学繊維の出現③技

術移転を伴う海外投資④政府政策の 4 つが要因となって起こった。」というものである。こ

れからこれら 4 つの要素についてひとつずつ検証していく。

95

(1)衣生活の変化

製糸産業の衰退要因に考えられるものとして、第一に衣生活の変化を挙げる。

その理由は、日本人の衣服の洋装化がきっかけとなって生糸の需要が減少し、製糸産業

の衰退に繋がったのではないかと考えたからである。洋装化を中心に、その前後の衣服の

歴史をたどりながらこの仮説を検証する。

日本人の衣服が和服から洋服へ移行していくには、長い歴史があった。日本人が最初に

洋服の影響を受けたのは室町時代末期の南蛮風俗だが、一部を取り入れるだけに留まり、

本格的な洋装化は生じなかった。その後、200 年余りにわたる徳川幕府の鎖国政策から開国

へ、さらに明治維新へと、歴史は大きな変革期を迎える。

明治維新後、明治政府の欧化政策により少しずつ洋装化が始まった。日本において洋服

はまず軍服に採用され、軍人と役人の制服として着用されるようになり、女性より男性の

方が早く洋装化が進んだ。大正時代には洋服の機能性が推奨され、子供服の洋装化が始ま

る。昭和時代に入り、戦時体制の下さらに洋服の着用率が拡大する。

戦後になってからは和服から洋服への移行が加速され、和服は美しい民族衣装として社

交用・儀礼用に後退し、洋装化が一気に進んだといわれている。

以下、日本人の衣服が本格的に洋装化されるまでの歴史を詳しく述べたうえで、製糸産

業にどのような影響を与えたのかを考察する。

ⅰ)洋装化の始まり~開国~

アメリカ大統領の親書を携えたペリーが 4 隻の黒船を率いて浦賀に来航し、開国を求め

たのは 1853(嘉永 6)年 6 月であった。さらに 7 月にはロシア使節プチャーチンが同様に 4

隻の黒船を率いて長崎に訪れ、日本の開国と国境の画定を求めた。この年は両者とも要求

をつきつけるだけで立ち去ったが、ペリーは翌 1854(安政 1)年 7 隻の黒船を率いて再び江

戸にあらわれ、開国を迫った。幕府はペリーの強硬な姿勢に屈し、同年 3 月 3 日に日米和

親条約を締結して下田と箱館の 2 港を開港した。また、8 月にはイギリスとの間で日英和親

条約を、12 月にはロシアとの間で日露和親条約を締結し、翌年にはオランダとも和親条約

を結んだ。

しかし、各国のめざすところは和親条約にとどまらず、通商条約の締結にあった。アメ

リカの日本駐留総領事官ハリスは 1856(安政 3)年下田に総領事館を構え、翌年には幕府に通

商貿易の必要性を説いた。幕府もそれを認め、条約草案作成の審議に応じ、そして 1858(安

政 5)年 5 月 6 日に日米修好通商条約が調印された。また、この年にオランダ・ロシア・イ

ギリス・フランスとも通商条約を締結し、さらに 1866(慶応 2)年の改税約書調印により、日

本における外国人は領事裁判権によって治外法権を獲得し、開港場に設けられた居留地は

日本の法律の及ばない租界となった。また、日本には関税自主権が認められず、低い税率

を強要されて不利益となる一方で、欧米各国には莫大な利益をもたらした。これらの条約

96

は、欧米各国の軍艦や大砲の威力によって結ばされた不平等条約であった。

このような欧米各国の軍事力に対して日本の軍備はまったく無力であり、人々は西洋の

優れた軍事力を脅威に感じた。幕府は 1855(安政 2)年にオランダの援助によって海軍伝習所

を創設し、オランダ海軍の軍人を教官として雇い入れた。幕府や諸藩にとって軍備を整え

ることは急務であり、西洋の軍備や軍隊の訓練に対する関心は急速に高まっていった。ま

た、それとともに西洋の軍服の合理性が着目されはじめた。しかし、はじめからただちに

洋服を取り入れるにではなく、和服を洋服に近づける工夫を行ったのである。これが洋装

化の始まりであった。

ⅱ)男性の洋装化~明治時代初期まで~

すでに西洋の火器を用いた洋式訓練は 1841(天保 12)年に開始されていたが、この訓練で

着用していた衣服は筒袖上衣(図表 3-13)に立付たつつけ

袴ばかま

であった。この服装はもともと農民が労

働着として用いていたもので、西洋服と同様に活動的な上下二部式であり、訓練に適した

服装であった。立付袴は伊賀袴とも呼ばれた。1856(安政 3)年には幕府は江戸築地に講武所

を開設し、剣・槍・砲・水泳を教授し、さらに軍艦操練、銃隊訓練も行うようになった。

このとき用いられた服装も筒袖に伊賀袴であった。その後、幕府は 1861(文久 1)年に筒袖羽

織陣股引ももひき

を採用して、これを「戎服じゅうふく

」と呼び、軍艦方や大船乗組員、武芸修行者にも着用

を許した。戎服という呼称は漢字における「軍服」の称である。このときの戎服は西洋人

の服装に似てはいるが、あくまでも和服であり、外国人と紛らわしくないように仕立てる

こととしていた。

さらに、1866(慶応 2)年には訓練用の筒袖股引を訓練以外でも使用することが許可され、

公用にはこの上には羽織を重ねることとした。また同年 11 月には、戎服の呼称を「そぎ袖

羽織細袴」と改め、これを陸海軍の平服とした。「そぎ袖羽織」は「レキション羽織(図表

3-14)」、「細袴」は「段だん

袋ぶくろ

」とも呼ばれた。レキションはレッスン、すなわち訓練用の羽織

という意味であり、段袋は広くゆるやかな股引のことで、洋服のズボンをこう呼んだ。ま

た、生地についても木綿から羅紗に替え、より洋服に近いものにしている。翌 1867 年には

フランスから軍事教官を招いて陸軍にフランス式訓練を採用した。これによって軍服服制

も完全に洋服となった。

97

筒袖上衣と股引図表 3-13 レキション羽織と股引図表 3-14

(『佐倉藩陣服図式』) (東京国立博物館所蔵)

明治新政府となってからは、 1870(明治 3)年に陸軍をフランス式、海軍をイギリス式と

し、軍服についてもそれぞれの形式を用いて、陸海軍の軍服が制定された。このように軍

服はその活動性が重視されてもっとも早く洋服化されていった。

官吏の洋装化としては、1870(明治 3)年に有位者制服、工部省官員服などに洋服が採用さ

れたのが早いものである。つづいて 1871(明治 4)年に邏卒(警察官)服、郵便夫服、兵部ひょうぶ

省官

員服が、1872(明治 5)年には鉄道員服が制定された。その後さらに勅ちょく

任官にんかん

・奏そう

任官にんかん

・判はん

任官にんかん

および非役有位者の大礼服ならびに通常礼服が洋服に定められ、従前の束帯そくたい

・衣冠い か ん

は祭服

として残すのみとなり、直垂ひたたれ

・狩かり

衣ぎぬ

・ 裃かみしも

などはすべて禁止された。

図表 3-13 青木英夫著『服装史』、1987 年、酒井書店、育英堂 p.89 より。 図表 3-14 同上。

98

横浜の警察官の制服(明治 1 年)図表 3-15 郵便配達夫図表 3-16

洋服はこのように軍服・制服に採用され、軍人・官吏・教員などは早くから洋服を着用

した。その後帝国議会が発足した際も議員のほとんどは洋服姿であった。このことから洋

服は男性の公の衣服となっていく。しかしこれらの洋服を公的な立場で着用する人物も私

的な生活においては和服でくつろぐのが一般的であったため、次第に洋服は公的な衣服、

和服は私的な衣服と認識されるようになっていった。

ⅲ)女性の洋装化~鹿鳴館時代~

男性の洋装化が、軍服や制服などの公的な服装から取り入れられていったのに対して、

公的な役割を果たさなかった女性の洋装はごく限られた人々のあいだにみられるにすぎな

かった。しかし、華族や外交官の夫人・令嬢など、海外に滞在する機会に恵まれた人々の

あいだには徐々に洋装が行われるようになっていった。女性の洋装が盛んになるのは鹿鳴

館時代である。

鹿鳴館は東京日比谷の薩摩藩別邸跡 8,000 坪の広大な敷地に建設された、建坪 440 余坪

のネオ・バロック様式の煉瓦造り 2 階建ての大建築で、設計者はイギリス人のジョサイア・

コンドル博士である。これは幕末に締結した諸外国との不平等条約を改正するため、内外

の人々が親しく交際を深めることを目的とした迎賓館として用いられ、外国人と上流の

人々の社交場であった。開館式は 1883(明治 16)年 11 月 28 日に行われた。この日の服装は、

男性は燕尾服にシルクハットが主であったが、日本人の女性は大半が和服姿で出席したと

いう。しかし、翌年から宮内卿伊藤博文と外務卿井上馨の発案で舞踏会が開かれるように

なり、女性の洋装化が進んでいった。同年 7 月にはその準備段階として外国人ダンス教師

が指導する舞踏練習会ができ、この会は引き続き東京舞踏会となった。その入会資格は勅

奏任官・華族・外国公使・御雇い外国人・およびその夫人・令嬢限りとした。このように

図表 3-15 増田美子著『日本衣服史』、2010 年、吉川弘文館 p.295 より。 図表 3-16 同上。

99

してダンスが盛んになり、鹿鳴館では華やかに舞踏会が開催されるようになった。

鹿鳴館の舞踏会に出席する華族・政府高官の夫人・令嬢たちはバッスル・スタイルの洋

装であった。バッスル・スタイルとはコルセットで胴体を締め、ヒップのふくらみを極端

に誇張したスタイルであり(図表 3-17)、当時、ヨーロッパで大流行していたが、その流行が

そのまま取り入れられた。女性の洋装化が盛んになるにつれ、洋品の輸入が増加した。

バッスル・スタイル図表 3-17

このように上流女性の洋装が積極的に行われるようになった結果、明治 17 年(1884)9 月

には宮中所間の礼服の洋装が取り入れられ、1886(明治 19)年には皇后をはじめとして皇

族・大臣以下各夫人の朝議に洋装が採用された。また、同年 10 月には、東京女子師範学校

の制服が洋服となったことが地方にも波及して、わずかながら地方においても女性の洋装

がみられるようになっていった。

さらに、女性が職業に就くとともに女性の洋装も増えていった。

教員の洋装はもっとも早く行われ、東京女子高等師範学校では明治 18(1885)年に生徒と

ともに教員の制服も洋服とした。これをはじめとして各地の女子師範学校教員の制服に洋

服が採用されるようになった。この洋服の制服は 1890(明治 23)年頃まで続いたが、その

後、生徒の洋服の制服は廃止されて和服に戻った。しかし、女性教員は任意に好みの洋服

を着用した。女性教員の洋装はその後も定着し、女性のなかでは洋装が進んだ職業とされ

ている。

看護婦については 1887(明治 20)年に日本赤十字社が設立され、万国赤十字条約に加盟

したが、制服についてはイギリスの看護服制をそのまま採用した。その後、各地に洋式病

院が設立されたが、同様に洋服の制服を採用し、看護帽にワンピース型の制服であった(図

表 3-18)。

図表 3-17 『衣生活 そのなぜに答える』p.35 より。

100

看護婦の制服図表 3-18 乗合バスの女車掌図表 3-19

(『風俗画報』明治 39 年) (昭和 5 年大阪市)

しかし、職業に就いていた女性がすべて洋装化したわけではない。富岡製糸場の女工は

和服に男性が着用する縞の袴をはいた。その後も製糸工場の女工は同様に和服着用であっ

た。また、カフェの女給は和服にエプロン姿で、電話交換手、銀行、百貨店の女店員は和

服の上に洋織物製の事務服をコートのようにして着用していた。一方、婦人記者、バスの

車掌(図表 3-19)、劇場案内人、女優、保険勧誘員の洋服採用は早く、1920(大正 9)年以前に

実現された。さらに、昭和初めには作業の能率を上げ、危険を防止することを目的として

工場で働く女性工員の制服に洋服が採用されはじめた。ようやく洋服の機能性の高さが認

められるようになったのである。

しかし、一般女性の大半は和服のままであり、職業に就いている女性でも洋服着用に踏

み切れない者が多かった。

ⅳ)子供の洋装化~大正時代~

大正時代になると、第 1 次世界大戦後からの好景気とともに子供服が流行するようにな

った。特に夏は軽装で価格が安いこともあって人気が高まった。冬はセーターが流行した。

一般女性は自分の洋装化には抵抗があったが、子供の洋装化については関心が高かったよ

うだ。いずれ来ると予想される洋服の時代に備えて子供のうちから洋服に慣れさせ、また、

洋服の着用によって活発に行動させたいという考えを持っていた。しかし、既製の洋服や

洋服の仕立て代は高額であったため、一般家庭に子供の洋服を普及させることは経済的に

難しかった。それを解決したのが家庭洋裁の普及である。洋服の作り方やセーターの編み

方、型紙の通信販売などの情報が婦人雑誌に掲載され、一般家庭でも子供服を製作するこ

図表 3-18 増田美子著『日本衣服史』、2010 年、吉川弘文館 p.334 より。 図表 3-19 増田美子著『日本衣服史』、2010 年、吉川弘文館 p.335 より。

101

とが可能になった。

また、生活改善運動として家庭生活の合理化が唱えられ、衣服の洋装化が推奨された。

さらに 1924(大正 13)年 9 月、酷暑の最中に起こった関東大震災は、簡易で活動的な子供の

洋服の普及に拍車をかけ、大正時代末には子供服のほとんどが洋服になった。このめざま

しい普及の理由は、大人の衣類を再利用して、家庭洋裁で簡単に子供服が製作できたから

であった。

ⅴ)戦時体制下の服装~戦前から戦中~

1929(昭和4)年10月のアメリカ、ニューヨーク株式市場の大暴落に始まった世界恐慌は、

ヨーロッパの資本主義諸国や日本にも波及した。この不況を克服するための策として、イ

ギリス・フランス・アメリカはそれぞれの経済圏を作り、経済のブロック化が始まったが、

これらから締め出されてしまった日本は深刻な不況に陥った。1931(昭和 6)年に満州事変が

起こり、1937(昭和 12)年には日中戦争が始まった。その後の太平洋戦争に至るまで、戦争

は拡大を続け、1945(昭和 20)年に終戦を迎えるまで、泥沼の長期戦になっていった。戦争

の激化による軍隊の拡大は国内のすべてを戦時体制化し、国民生活に多大な影響を及ぼし

た。日中戦争の勃発により軍事物資の輸入が最優先されると、民需のための輸入は制限さ

れ、国民生活に必要な物資が不足するようになった。

このような物資欠乏の状況下において、物価は高騰し、衣服材料も手に入りにくくなり、

衣服を新調することが困難になっていった。そこで、国民がいたずらに洋服を新調するこ

とを避け、服装の簡易化を図るために国民服の制定を行うことになった。普段着ている洋

服をただちに准軍服として利用し、いつでも軍隊に動員可能とするために、国民服の形式

を軍服の規格に適合させた。色は国防色と呼ばれていたカーキ色に統一すると規定した。

こうして 1940(昭和 15)年 1 月、陸軍の被服協会服装刷新委員会によって 4 種の国民服が制

定された(図表 3-20)。その後、政府主導で国民服の普及が行われることになり、国民服は徐々

に浸透していった。

男性が国民服に統一され、戦時色が強まるなか、非常時の婦人服としてもんぺが各方面

から推奨され始めた(図表 3-21)。もんぺは江戸時代より北陸から東北・北海道にかけての農

村で常用されてきた上下二部式の仕事着の下衣である。1937(昭和 12)年には防空訓練が行

われるようになり、もんぺやズボンを着用する女性が徐々に増えていった。この頃の一般

的な女性の上衣は腰丈のきものやブラウスであった。女学生は戦時中であるとしてスカー

トが禁じられ、セーラー服ともんぺの組み合わせの姿になった。これらは一人ひとりの

装いというより、いわば全体主義的国家の装いであった。

102

国民服(昭和 15 年制定) 図表 3-20 もんぺ姿図表 3-21

このように戦時下の服装は和服に洋服の活動性を取り入れた和洋折衷の形態であったが、

それまで洋服になじみのなかった多くの女性が上下二部式の衣服を着用したことは、洋服

の活動性に慣れるきっかけとなり、戦後の洋装化に大きな影響を与えた。

ⅵ)本格的な洋装化~戦後~

終戦後のわずかな期間に、日本中に洋裁学校とファッションブックが普及し、日本人の

衣生活は急速に洋装化していった。その背景としては、日本が連合国、主としてアメリカ

の占領下に入ったことがある。英語の教科書などで提示されるアメリカの生活は、大多数

の日本人にとっての憧れであった。静的な和服の美しさよりも、動的で快活な洋装美に惹

かれて、洋裁熱が高まり、洋裁学校が乱立した。戦争中、国民服の洋服に慣れた男性たち

と、もんぺという機能的な服装に慣れた女性たちが、長い間日本人の衣生活の中心であっ

たきものに戻ることはなかった。ミシンの普及率は、1956(昭和 31)年には都市部において

は 75%にもなり、翌年には洋裁学校が全国で 7,000 校に達した。

日本人の装いがほぼ現在のようになったのはこの頃で、ペリーの来航から実に 100

年後の昭和 30 年代のことだった。その象徴ともいえるのが着付け教室の誕生である。

着物を一人で着られない若者が増加し、着付け教室は各地に広がった。その後、男性女

性ともに既製服生産の発達によって、洋服はさらに一般的になった。

ⅶ)製糸産業への影響

100 年かけて進められた洋装化によって、日本人の衣服は和服から洋服へと移行してい

った。洋装化は製糸産業にどのような影響を与えたのだろうか。「洋装化をきっかけに生

糸の需要が減少し、製糸産業の衰退に繋がった」という我々の仮説は正しかったのかどう

図表 3-20 増田美子著『日本衣服史』、2010 年、吉川弘文館 p.351 より。 図表 3-21 『衣生活 そのなぜに答える』p.42 より。

103

かをここで明らかにする。

研究を始めた当初は、戦後急速に進んだ洋装化が生糸需要を減少させたと考えていたが、

国内需要に着目してみると必ずしもそうとは言い切れなさそうだ。図表 3-22 は第 2 次世界

大戦前後の生糸の生産量と輸出量を示したグラフである。

生糸の生産量と輸出量図表 3-22

日中戦争が始まった 1937(昭和 12)年頃から終戦を迎える 1945(昭和 20)年までに、生産

量・輸出量ともに大幅に下落している。注目すべきは戦後の輸出量の推移である。戦前ま

では生産量と輸出量の増減がほぼ並行しており、生産量の多くが海外輸出向けであったこ

とが読み取れる。しかし、戦後は輸出量が生産量の伸びに追いつかず、本格的に洋装化が

進んだ昭和 30 年代からは減少傾向、そして 1975(昭和 50)年以降は生糸を輸出しなくなっ

た。戦後は戦前に比べて海外輸出向けの生糸が減少し、生産量の多くが国内向けになった

といえる。つまり、生糸の国内需要が増えたということである。これまで洋装化がきっか

けとなって生糸の需要が減少したという仮説に基づいて研究してきたが、国内需要が増え

ていることからこの仮説は間違っていたようである。

日本の洋装化に影響を与えたアメリカでは、大正時代には一般大衆にも絹製品が愛好さ

れていた。絹に対する需要は多様化しており、アメリカでの絹製品の需要は年々増加して

いった。大正時代後期には婦人用ドレス、下着、リボン、ネクタイなどに限られていた絹

織物の最終用途が婦人用靴下に発展した。やがてアメリカのファッションに影響を受けた

図表 3-22 『蚕糸業要覧』を参考に作成。

104

日本でも多くの人々が洋服を着用するようになる。ストッキング・ブラウス・スーツ・ネ

クタイ・スカーフ・ハンカチなどの絹製品が取り入れられたことで、生糸の国内需要の増

加に繋がったといえるのではないだろうか。あくまでこれは考察であり、我々の研究では、

衣生活の変化が生糸の国内需要の増加の要因であるという明確な根拠は得られていない。

しかし、「洋装化をきっかけに生糸の需要が減少し、製糸産業の衰退に繋がった」という

我々の仮説が間違っていたことは明らかになった。

105

(2)化学繊維の出現

製糸産業の衰退要因に考えられるものとして、第二に化学繊維の出現を挙げる。

その理由は、現在我々が身に付けている衣服の多くは化学繊維で作られているからであ

る。例えば、手持ちの衣類に付いているタグを見てみると、ポリエステルの表示が多い。

逆に、私たちは絹製の衣服にあまりなじみがない。絹製と聞いて思い浮かぶのは着物くら

いであるが、私たちが着物を着る機会は限られている。化学繊維の出現は衣生活の変化と

関連しているともいえよう。

化学繊維の出現とその著しい発展、さらに化学繊維の陰で衰退していく天然繊維につい

て述べたうえで、製糸産業がどのような影響を受けたのかを考察し、仮説を検証する。

ⅰ)化学繊維の分類

はじめに、化学繊維とは何か。化学繊維とは化学的な合成や加工によって、人工的に

製造される繊維の総称で、人造繊維とも呼ばれる。人工的に繊維が作られない時代は、

繊維の分類も簡単であったが、人造繊維が発明されてからは、繊維を天然繊維と人造繊維

とに分ける必要が生じた。図表 3-23 は繊維の分類をまとめたものである。

106

繊維の分類表図表 3-23

天然繊維には、植物性のもの(綿、麻など)、動物性のもの(絹、羊毛など)、鉱物性のもの

(石綿)がある。蚕から採る絹も天然繊維に分類される。一方化学繊維には、有機繊維と無

機繊維がある。人工的に分子を連結させたものが有機繊維である。有機繊維は、レーヨン

などの再生繊維(一般に化繊という)と、プロミックスやアセテートなどの半合成繊維、ナ

イロン・ポリエステル・アクリルなどの合成繊維に分類される。再生繊維とは、天然の高

分子物質であるセルロースなどを人工的に変形して繊維の形にしたものである。合成繊維

は化学元素、もしくは化合物をまったく人工的に繊維を形成しうる程度の高分子物質に合

成し、繊維の形にしたものである。

図表 3-23 境野美津子著『繊維業界』、1987 年、教育社 p.226 より。

107

また形状的に分類すると、長繊維(フィラメント)と短繊維(ステープル)に分けられる。長

繊維は、すでに糸状になっているものであるから、これを一本または数本にまとめて撚り

をかけて使用するのである。化学合成繊維においては、その化学的処理により随意に、そ

の太さ、長さを調節することが可能となる。短繊維は紡績して糸状にして、それを一本ま

たは数本にまとめて撚りをかけて織物や編物(ニット)に使用できるようにする。綿花や羊毛

は天然のステープルである。短い繊維であるから、そのままでは詰め綿などに使用される。

たとえば、絹は蚕から採り出したものが、すでに長繊維の状態にある。化学繊維では、三

大合成繊維とよばれるアクリル、ナイロン、ポリエステルをはじめ、ほとんどのものが両

方製造されている。ただし、ナイロンは長繊維、アクリルは短繊維、ポリエステルは長・

短が主力になっている。そして、生糸を除く天然繊維は、すべて短繊維である。

ⅱ)人造絹糸の開発

化学繊維は西欧から起こったものであり、その最初はフランスで工業化されたニトロセ

ルロース式の人造絹糸である。フランスの伯爵シャルドネーが 1884(明治 17)年にフランス

の特許を得たもので、綿に硝酸を作用させ、そこに得られるニトロセルロースから人造絹

糸を製造することに成功した。

日本にはじめて紹介されたのは、1903(明治 36)年のことである。同年、第 5 回内国勧業

博覧会が開かれ、そこに外国製の人造絹糸が展示された。明治 38(1905)年イギリスよりわ

ずかに 83 斤(49.8kg)の人造絹糸が輸入された。これが最初の輸入である。

1912(大正元)年国会で、人造絹糸の重要性を認識し、国産化の必要が叫ばれた。

なお、人造絹糸がレーヨンという名称に変わったのは 1922(大正 11)年のことである。世

界人造絹糸の生産高が世界生糸の量を凌駕し、もはや絹の代用品ではなく独立した繊維で

あることから、新たに名称を付けるべきであるという説がアメリカで起こったのだ。

1937(昭和 12)年、人造絹糸の生産は最高潮に達して、当時世界の首位にのぼり、実に世

界生産量の 28%を占めるにいたった。当時後進国であった日本がこのような大発展を遂げ

たその原因は、いわゆる持たざる国であったことである。綿花も羊毛も外国に依存する国

情から、国民の衣服を何でまかなうかというと化学繊維に頼るほかなかった。政府が国策

繊維として、その増産を奨励したことが大きな原因になった。

ⅲ)化学繊維の発展

1941(昭和 16)年、この年の 12 月 8 日、太平洋戦争が勃発して外国との交通はとだえたの

で、繊維資源はまったく自給自足せざるをえなくなった。それまでに相当量の綿や羊毛を

輸入し貯蔵していたのだが、その量にも限りがあり、繊維業界は山野の雑草、木皮などの

天然資源の利用を研究した。こうして化学繊維に依存する度合いがいっそう大きくなった。

しかし、一方では戦争用の弾薬製造、そのほかに繊維製造工場を利用せざるをえなくなり、

繊維工業はいわゆる平和産業であるとして、その設備は多く軍需工業用にあてられた。日

108

中戦争から太平洋戦争までの間、繊維産業は平和産業としてその規模がしだいに整理され

た。

1945(昭和 20)年の終戦以後、繊維工業界は、駐留軍の監督のもとに着々と復興しはじめ

た。1951(昭和 26)年にサンフランシスコ講和条約を締結し、主権を回復した日本は、前年

から始まった朝鮮戦争の軍需品生産や輸送を担ったことにより、鉱工業生産高は戦前の水

準を一気に抜いた。軍需品の中には繊維製品も含まれており、繊維業界は「ガチャ万景気(ガ

チャと織機を動かすと 1 万円儲かる。当時の 1 万円は小学校教員初任給 2 ヵ月分に相当。)」

と称される好景気となった。

1950,1951(昭和 25,26)年ごろから本格的工業生産にはいった合成繊維(ビニロン・ナイロ

ン)ならびにアセテートは、創業期における幾多の困難を克服し、1953(昭和 28)年、政府は

合成繊維育成 5 カ年計画を決定した。1957(昭和 32)年に年産額 1 億 lbs(約 4 万 5400t)の生

産を目標としたのだ。またアセテートについても同様 5 カ年計画を立て、1957(昭和 32)年

には年額 5000 万 lbs(約 2 万 2700t)の生産を目標としたが、昭和 31 年度において、アセテ

ートはすでに計画を上回った成績をあげていた。さらに 1954,1955(昭和 29,30)年ごろから

相ついで市場の開拓に成功し収益をあげた。このような先発繊維の成功に刺激されて新た

にアクリル系、ポリエステル系などの工業生産が開始され、昭和 30 年代にはこれらの各種

合成繊維の生産拡大を中心として、日本の化学繊維工業は飛躍的な発展を遂げたのである。

化学繊維生産高推移図表 3-24

実際に化学繊維の総生産量は昭和 30(1955)年の 34.8 万 t から 10 年後の 1965(昭和 40)

年には 87.9 万 t へと約 2.5 倍に増加している。このうち特に増産の著しいものは合成繊維

であって、その生産量は同じ期間に 1.6 万 t から約 24 倍の 38 万 t に増加し、全化学繊維生

図表 3-24 角替利策著『化学繊維の実際知識』、1967 年、東洋経済新報社 p.15 より。

109

産量の 43%を占めるにいたっている。

ⅳ)天然繊維の衰退

レーヨンの登場で生糸需要が減衰し、戦後に入ってからは、“クモの糸より細く、鋼鉄よ

り強く”のキャッチフレーズで登場したナイロンの登場で、絹のストッキングはナイロン

にとって替わられた。戦前からレーヨン・スフなどの生産を行っていた化学繊維メーカー

は、アメリカ・ドイツ・スイスなどから技術導入を図り、合成繊維の国産化を始めた。1949(昭

和 24)年に商工省によって合成繊維産業の急速確立方針が出され、設備投資への融資や税の

減免措置が講じられたことも合成繊維の国産化に大きく影響している。同年に東洋レーヨ

ンはアメリカのデュポン社と提携してナイロン靴下を製造・販売し、翌年には倉敷レーヨ

ンがビニロンの本格的生産を開始した。1951(昭和 26)年には東洋レーヨンがナイロンの生

産を始め、翌年頃より透けるナイロンブラウスが大流行する。また、1955(昭和 30)年には

日本エクスランがアクリルの生産を開始した。1957(昭和 32)年になると、帝国人造人絹と

東洋レーヨンが共同でポリエステル系繊維テトロンの生産を開始し、こうしてナイロン・

アクリル・ポリエステルの三大合成繊維が出揃うこととなった。三大合成繊維が出揃った

ことで綿、麻の産業用需要が減退し、天然繊維と化合繊維との競合で、天然繊維のほとん

どが減産を余儀なくされてきた。

生産高について見てみると、1960(昭和 35)年の糸生産量は合計 149 万 2000t であり、そ

の内訳は天然繊維糸 89 万 9000t(60%)、化学繊維糸 59 万 4000t(40%)であったが、5 年後

の 1965(昭和 40)年には、糸生産量合計 192 万 9000t と約 30%増加し、内訳では天然繊維

糸 96 万 1000t(50%)、化学繊維糸 96 万 8000t(50%)となって、この年はじめて化学繊維糸

が天然繊維糸の生産を凌駕した。化学繊維糸のうち特に増産の著しかったのはやはり合成

繊維糸であった。

強くてしわになりにくい合成繊維が大量に出回る時代となり、女性は靴下の繕いやアイ

ロンかけから解放された。以降、日本の合成繊維生産高は急激に高まり、日本は世界有数

の合成繊維産出国となっていった。

110

日本の織物生産高図表 3-25 日本の糸生産高図表 3-26

天然繊維と合成繊維の具体的な内訳を示すものとして図表 3-25 と 3-26 を挙げる。これ

かは、日本の織物と糸の生産高をまとめたものである。1930~1984(昭和 5~59)年の統計

で、どちらとも化学繊維の増加が著しい。化学繊維の中では、一時は人絹が生産高のほと

んどを担っていたが、合成繊維の生産が始まるとすぐに合成繊維にとって代わられた。化

学繊維の増産は合成繊維によるものであったことが分かる。これに反比例して、絹織物や

絹糸の国内生産高は衰退の一途をたどり、その結果輸入に頼ることになった。

ⅴ)製糸産業への影響

初めは絹に代わる安価な繊維として開発された人造絹糸が、やがて絹の代用品から独立

した繊維となり、大衆に受け入れられ多くの人々に身に付けられるようになった。人造絹

糸の価格は絹の 4 分 1 程度で品質は絹に比べて劣るものの、絹と人造絹糸との交織ならば

風合いもそれほど悪くなく、中には交織によって絹特有の突っ張った堅さがとれて柔軟に

なったことが評価されたものもあった。さらに開発が進むと、より安価でより高品質の化

図表 3-25 境野美津子著『繊維業界』、1987 年、教育社 p.209 より。 図表 3-26 境野美津子著『繊維業界』、1987 年、教育社 p.208 より。

111

学繊維が続々と生産されるようになった。化学繊維の増産の影響を受けて、衰退を余儀な

くされた天然繊維の中でも、特に生糸の生産量の減少が著しい。以上のことから、化学繊

維の出現は製糸産業の衰退の直接関わったと考えられる。我々の仮説の検証結果として、

「化学繊維の出現は製糸産業の衰退要因のひとつである」という仮説は正しかったといえ

る。

112

(3)技術移転を伴う海外投資

ⅰ)東南アジアを中心とする日本の海外投資

第二次世界大戦前繊維品は日本の輸出の首座を占めていた。ことに製糸、綿紡績などの

繊維工業は、資本主義発達における「近代的大工業の母胎」であり、日本資本主義発展の

基幹産業であった。繊維工業は政府の保護政策のもとで、「集中的形態」及び「植民地=イ

ンド以下的な労働賃金と肉体摩耗的な徹夜作業、拘置的な寄宿制度によって、労働力の価

値以下への切り下げ、労働強度の増大」などによって国際的競争力を強めていった。やが

て繊維工業は、日本の主力輸出商品を生む産業として位置づけられた。1933~1935(昭和 8

~10)年における繊維品の輸出は日本の総輸出の 48.2%であり、品目別では綿織物 20.6%生

糸 16.3%、人絹織物 4.8%、絹織物 3.3%その他繊維製品 3.2%となっていた。繊維工業の

輸出拡大は、国民的経済視点からすればあたかも繊維品を輸出し、原材料、機械類を輸入

するという貿易構造に見えたのである。

戦前の基幹産業であった繊維工業は、戦後は大きな様変わりを見せることになった。輸

出に関していえば、繊維は主要輸出品ではなく、自動車、鉄鋼、家庭電器、科学機器など

が輸出の大半を占めるようになってきた。繊維は逆に輸入拡大部門になってきたのである。

こうして日本繊維工業は技術革新の最先端を行く電子工業などに比べれば、在来型の旧式

産業のようにしか人々の目に映らなくなってしまった。

とくに繊維工業は「近代的工業の母胎」であるとするならば、発展途上国においては繊

維工業の発展を主軸として産業構造、貿易構造を形成していく道が生じよう。事実韓国、

台湾などでは、繊維工業は主要輸出産業となっており、かつての日本資本主義の発展過程

との類似性もみせている。韓国、台湾などの発展途上国における繊維工業の発展は資本主

義が最初に確立したイギリス繊維工業が、後発国であるアメリカ、ヨーロッパ諸国、そし

て日本に首座を奪われていったように、先進資本主義から後発資本主義国への産業部門へ

の移行、国際的分業再編の過程を示しているのである。このことはいわば資本主義不均等

発展を産業部門間における不均等発展の典型として位置づけられるということになろう。

外国貿易は、資本主義世界市場の成立と同時に系統的・持続的・組織的におこなわれ、

資本主義にとって不可欠なものとなった。資本主義的外国貿易の主要な原因の一つである

国民経済における不均衡に発展した産業部門もしくは個別資本は、外国市場からでていく

ということからすれば、戦前の日本の繊維工業が主要産業であったということは、国際競

争上有利にたっており、国民経済的には不均衡に突出した部門と考えることができよう。

国際競争上の優位は商品の質・性能なども重要であるが、優れて国際価格上の優位の問題

であろう。輸出を増大させるためには国内での生産の拡大と同時に国際価格上優位にたた

なければならない。国際価格上の優位すなわち現実的には国際的価格以下で輸出可能にす

るためには、各産業・各個別資本は労働生産力を増大させるか、費用価格を低下させるた

めに安価な原材料等を入手するか、あるいは労賃の価値以下の切り下げ、労働日の延長、

113

労働強度の増大などが行われることが必要である。戦前の日本の繊維工業はまさにこれら

のことを行うことによって、国際競争力を向上させ主要輸出産業になっていた。今日の韓

国、台湾、香港などの発展途上国でも同様のことが行われているのである。

戦後の繊維工業、特に 1970 年代になって顕著になった輸出の後退は、国際競争上次第に

不利になってきたことが原因である。それにはすぐれて日本の再生生産構造と繊維工業の

生産構造の問題であり、また世界市場・国際的分業再編の問題として、現代世界経済構造

の特徴及び各国民経済の構造の特徴の分析が必要になってくる。

輸出が頭打ちとなった時期に、日本の繊維産業は急角度な海外投資や、それと並行した

技術供与、プラント輸出を行った。その規模は決して小さいものではない。たとえば、東

レの海外投資について紹介すると、つい最近まではわが国の首位であった。現在は順位が

下がったが、日本列島改造の前後から日本国内での投資に魅力がなくなり、また限界もあ

ることから、海外に進出しなければならない、進出したほうがよい、ということで海外投

資が行われたわけだ。

この海外投資は輸出の頭打ちと並行するものがあり、輸出が極限に達したならば、海外

投資へ継げばいいという発想法だと思われる。これが国内での限界をいわば多国籍企業化

によって補っていこうという発想法の起点にあったといえる。こういうことが実は現在の

日本の繊維産業の停滞感をもたらしているもう一つの大きな理由であると思われる。

次に構造的変化の問題だが、東南アジア地区に繊維産業が急激に台頭してきたことが、

大きな変化だ。これは日本からの資本と技術の供与により、東南アジアに建設されたもの

であり、したがって日本からの海外投資と表裏一体をなす問題である。概して言うならば、

現在の日本の繊維産業を 10 とすると、東南アジアは 7、8 に近づいている。合繊だけにつ

いていうならば、世界の供給力の 3.5 をアメリカが、EC と周辺のヨーロッパが 3.2~3.3、

日本と東南アジアを含めたものが 2、その合計が 9 近くになり、それ以外の地域が残りの 1

という比率である。この勢力分野はここ 10 年余り何の変化もないが、日本と東南アジアの

ところが著しく変化している。10 年くらい前は、「2」の中身は日本が「2」で東南アジアが

「0」であったが、現状では日本が「1.2」くらいまで下がり、東南アジアが「0.8」になっ

ている。日本と東南アジアをグループとして考えた場合には、アメリカならびに EC、ある

いは他の国に対してトータルとしては同じだが、その中で日本が半減したということは非

常に複雑な問題をもっている。

図 3-26 は 1915~1988(昭和 40~63)年までの東南アジアに旧ソ連を足した地域におけ

る生糸生産量の推移である。昭和 40 年代初頭から後半にかけては、日本の生糸生産量は他

の国と比較して非常に高く、アジアに旧ソ連を足した地域において、生糸生産量の約半数

以上の生産を担っていたことが分かる。しかし、昭和 50 年代に入ると中国の台頭が目立ち

始め、55 年を過ぎると中国は日本の生産量を追い越しアジアで一番の生産をするようにな

る。中国に追い抜かれた日本は急激に生産量を落としていき、1988(昭和 63)年の生産量は

1915(昭和 40)年のそれの約 3 分の 1 にまで減少している。他の国の生産量について、北朝

114

鮮や、韓国、ソ連はあまり変わっていない。その一方でインドの生糸生産量は徐々に増産

しているように見受けられる。だが、こうして全体として生産量が上昇している要因は、

やはり中国によるものが大きいと考えられる。

韓国での生糸生産は 1977(昭和 52)年 9 万 3000 俵をピークとして 1981(昭和 56)年には 5

万 4600 俵と 40%の生産低下となっている。1983(昭和 58)年には若干の生産増加があった

とはいえ、韓国生糸生産は減少傾向にある。韓国生糸は国内での消費は少なく、生糸での

輸出あるいは絹製品の形態での輸出かどちらかであり、いずれにせよ外国の輸出目当ての

生産といえる。そして輸出の最大市場である日本において、需要が減少傾向にあり、さら

に中国、台湾などの競合国が韓国の輸出競争力を凌駕するようになってきている状況の下

で、生糸生産を拡大するのは困難であり、今日の生産状況になっているのである。

またグラフには載っていないが、ブラジルの生糸生産量は増加傾向を示している。しか

し、これは日本の総合商社、繊維資本などがブラジルで養蚕、生糸の現地調達を拡大して

いったからであり、それが生産数量増加となった。さらに外国市場の進出状況にも繋がっ

たのである。

東南アジア及び旧ソ連の生糸生産量図表3-27

日本の海外投資は大蔵省統計(昭和 51 年 3 月発表)によると、159.43 億ドル。10 年前の

9.5 億ドルからみると 17 倍、5 年前の約 36 億ドルの 4.5 倍強に伸びている。特に 1972(昭

和 47)年ごろまでは、10 億ドル以内の投資が続いていたのが、1973(昭和 48)年から 20 億ド

ル台の投資が行われ、西ドイツと同じ同レベルに立っている。アメリカは 1976(昭和 51)年

に 1332 億ドルであり、日本の 8 倍だが、1970 年代はすでに 700 億ドルを越しており、当

時は日本の 20~25 倍であった。

図表3-27 『蚕糸業要覧』を参考に作成。

115

外国の企業の綿紡、合繊などの海外進出については、進出国での生産拡大、市場拡大日

本品との競合、さらには日本市場への侵入といった事態を招き、繊維産業の生産低下を招

く一因になっていた。しかし、日本の和装部門でも 1960 年代後半から海外進出は行われて

きた。その海外進出の目的は日本への製品輸入のためであった。総合商社や専門商社が介

在して韓国、台湾、香港、フィリピン、タイなどで和装製品の生産を行い日本に輸入する

ということで、その形態は、資本、生産技術、流通販路、原料、機械設備など種々あり全

体としての規模は小さい。海外での和装品生産は、日本絹織業の生産低下をもたらした一

因であるが、さらに日本人の服装の洋風化も大きな要因であることは否定できないであろ

う。

いずれにせよ絹製品、和装品の需要が絶対的に縮小していくなかで、国内の養蚕、製糸、

織物生産の一定量を確保し、国内生産者を保護しなければならない状況と、他方で外国品

の輸入拡大によって流通利益の拡大をはかろうとする総合商社や、専門商社などの流通業

者、外国生糸の輸入拡大すなわち生糸一元化輸入措置(後述)の撤廃を要求する絹織物産業部

門との間の軌礫が、今日の日本絹業がおかれている複雑な状況であり、今後の日本絹業の

方向を定めていく問題を提示しているのである。

生糸の最大消費国日本をのぞけば、生糸生産と生糸輸出は一定の比例関係がある。韓国

は 1970 年代前半まで中国についでの輸出国であったが、中国生糸の進出、ブラジル生糸の

輸出拡大は、70 年代後半に輸出を後退させることになった。中国生糸は 1979(昭和 54)年の

6900 トンを最大にして最近では世界総輸出の 80%弱をしめるまでになってきており、図

3-27 の生糸価格の国際比較で示したごとく国際生糸価格の動向を左右するにまで至ってい

る。

繭糸価格安定法に基づく生糸価格図表3-28(単位)1 ㎏当り円

図表3-28 『蚕糸業要覧』105 ページより。

116

繊維品の輸出量(地域別・国別推移図表3-29

一方、日本の生糸・絹製品の生産は、1970 年代にはいってから停滞ないし、低下を続け

ている。その原因は長期不況、国内需要の減少、外国品の輸入増大などにあったが、さら

に輸出の減少という側面も重要である。かつての生糸は輸出目当ての生産であり、輸出依

存度が高かった。しかし戦後の輸出減少は生糸生産を縮小に追い込んだし、絹織物などの

絹製品も代替品によって市場が奪われ、韓国、中国などの絹業後発国にも市場を譲ること

になった。それは今日の日本絹業の生産縮小をもたらしているのである。

絹糸輸出は 1966(昭和 41)年数量で 294 トン、金額にして 400 万ドル弱であったが、

1977(昭和 52)年から数量・金額とも増加している。1981(昭和 56)年には数量 1546 トン、

金額 1565 万ドルでそれぞれ 1966(昭和 41)年に比べて 5 倍・4 倍の増加となっている。生

糸輸出が激減したなかで絹糸輸出が増加しているのは、韓国、香港向けの輸出が増大して

いるからである。とくに香港は 1981(昭和 56)年の絹糸輸出の 70%を占めるまでになってい

る。韓国、香港などへの絹糸輸出が増加した原因は、先染加工を韓国、香港などで行うよ

うになったからである。先染加工した絹糸をこれらの地域に輸出し、織布したのち再び日

本に輸入するという構造である。なお、香港は絹織物の需要が相対的に高い国で、したが

って絹織物生産発展した地域でもあった。絹織物の輸入に関しては、最近原産国証明で問

題になった「大島袖」などは、日本で先染加工した絹糸を韓国に輸出し、韓国国内で織布

したものを日本に輸入する形態をとっていた。これは技術的水準の高い韓国で低賃金労働

図表3-29『通産白書および日本貿易月報』より。

117

を利用し織布加工するもので、日本資本による韓国の下請け化のひとつの典型ともなって

いる。

さらに原料生産国に資本を投下し、技術を供与することによってそれらの国で原料から

製品までの生産体系が確立することになる。先進国資本は安価な原料、安価な労働力を求

めて発展途上国に進出していく。それはやがて日本の国内の同一産業との競合あるいは軌

礫となっているのである。これは絹業のみならず、綿紡、合繊、毛紡などの繊維産業全体

の傾向でもあるし、他産業部門にも同様の状況がある。

労働集約的な軽工業部門に注目すれば、1950 年代、1960 年代には、輸出の花形であった

が、1970 年代から 1980 年代にかけて、アジアなど発展途上国から追い上げを受けて、輸

出産業から輸入産業へと転換することになる。ちなみに比較優位構造が大きく変動した産

業として、繊維産業があるが、同産業は 1960 年代には輸出の花形産業として最盛期を迎え

るが、円高、ドル安が進んだ 1980 年代の中盤以降には輸入産業に転換している。比較優位

産業の変動にともなって特定産業では、雇用や関連産業の取引活動で大きなダメージを受

ける。また産業活動は、特定地域に集積している場合が多いため、地域構造の再生転換が

容易でなく、地域産業は死活問題を迎えることになる。

ただし日本産業全体で眺めれば、比較優位構造の変動は産業構造の高度化プロセスでも

り、日本の製造業は、比較優位が低下した部門をアジアなどの発展途上国に移管し、比較

優位の高い部門へ資源を移行することにより、希少資源の効率利用が促進されてきた。特

定産業や特定地域では、構造転換に多くのコストがかかるが、日本経済全体でみれば資源

の効率利用が促され、経済厚生が高まる。

しかし、企業経営的にみれば、産業の空洞化とは主力で製品におけるものづくり機能の

喪失を指す。生産だけでなく製品企画や中核部分の開発を含める場合が多く、生産の空洞

化は技術の空洞化につながりやすい。またものづくり機能がひとたび海外に移転すると、

その復元に膨大な時間と費用がかかる。

また日本経済の立場で考えると、国内の付加価値や雇用が減少もみてとれることになる。

日本の優良企業は、グローバルな視点で国際分業体制を活用して、主力事業を向上させよ

うとしているが、その方向は日本経済が求める方向とは必ずしも一致しない。したがって、

日本の優良企業は生き残り、グローバルに発展し続けるが、日本産業が空洞化することは

十分にあり得る。

日本国内には、資源が乏しく、労働力が主たる源泉であるため、加工貿易により一定の

貿易収支の黒字を稼ぎ続けることが必要となろう。そのためにも日本産業にとっては、一

定割合のものづくり企業が国内で活力を持って生き残り、発展し続けることが大切である。

日本のものづくり企業は、現在でもグローバル競争をリードできる力を持っている企業が

多数存在する。現在の評価を延長すれば今後もグローバル競争をリードできる新産業の中

核となりうる。

そのためには、一方で現在のものづくり企業がアジアの国際分業によりグローバル競

118

争力を持続的に向上させること、他方ではバリュー・チェインの高度化により、国内でも

存続を続けることができる高付加価値型のビジネスモデルを開発することが条件である。

この二つの方向から新しいビジネス構想を作り、経営革新を実行することができれば、日

本企業は今後も持続的な成長、発展をはかることが可能であり、新たな「ものづくり」産

業を中心とした新しい産業像を作り上げることが可能になろう。

いずれにしても日本企業による未来志向の挑戦的な価値創造活動が、新しい産業像を生

み出す源泉であることは忘れるべきではない。

ⅱ)国際分業化

今日の繊維工業の状態を生み出した原因は、第一に生産をめぐる国際的分業関係の変化

が生じていること―それは繊維貿易としてあらわれている―第二に 1974~1975(昭和 49~

50)年に世界恐慌以降長期不況が続いていたということ、第三に日本の繊維工業国際的競争

力が低下しているということ、などである。そこで繊維工業の対応策あるいは各個別資本

の運動を分析し、日本繊維工業の動向を明らかにすることにも焦点を当てた。結論からい

えば、日本繊維工業の不況をもたらした主要因は、繊維資本の国際的展開の中にあるとい

うことだ。すなわち 1960 年代後半から活発化した海外進出が、結果的には発展途上の国の

繊維工業を発展させ、日本の繊維輸出を相対的に低下させる原因になり、逆に輸入を増大

させたということである。その結果は繊維資本をして「減量経営」を実行させ大規模な合

理化が進行すると同時に多角化経営・生産を志向することになったのである。多角化経営・

生産を行うことのできない個別資本、羊毛工業、絹業では生産縮小、企業の倒産、工場閉

鎖などとして生じている。

現代のアメリカ資本主義は各個別資本の多国籍企業的進出、IMF・GATT を主軸とした

国際的分業の再編などによっていわゆる経済成長が鈍化するという状況になっている。い

わば日本の繊維工業の運動は今日のアメリカ資本主義の状況の小型化したものということ

ができよう。

日本繊維工業は 1974~1975(昭和 49~50)年世界恐慌から連続する長期不況の中にあっ

て、いわゆる構造的不況業種としてかつての基軸としての産業から停滞ないし、後退する

産業になろうとしている。それは生産状況のみならず輸出産業としてでもある。

繊維工業は素材からすれば絹、毛、綿、麻などの天然繊維とレーヨン、ナイロン、ポ

リエステル、アクリルなどの化学、合成繊維に分類される。現在の不況は、戦前からの産

業である天然繊維、レーヨンなどの化学繊維のみならず、戦後急速に拡大した合成繊維に

も深刻化している。合成繊維部門においては「特定不況産業安定臨時措置法」(構造不況法)

の指定まで受け、その不況の深さは危機的状況にまでなっている。繊維工業の生産の停滞

ないし減少は需要面の停滞面と結びついている。繊維の用途別には衣料用、家庭用、イン

テリア用、産業用に分類されるが、インテリア用の需要を除けばいずれも国内需要は停滞

しているのである。

119

かつての繊維工業は低賃金構造を背景にして日本の主要な輸出産業に発展した。しかし、

戦後のそれは大きな変化をもたらした。1960 年代後半以降、日本の輸出に占める地位はま

すます低下し、逆に輸入が増大するようになってきた。今日の繊維工業の構造不況の原因

は、貿易および国際的経済諸関係と密接に結びついているのである。

戦前の生糸は大部分を欧米向けに輸出していたし、また国内需要も和装が主流の時代

であったから、生産の拡大も可能であった。しかし戦後は合繊が発達することによって減

少し、国内需要も衣服の洋風化によって減少することになったのである。それが生糸の大

幅な生産低下となった原因である。また長期不況による需要の低迷と同時に発展途上国の

生産開始による追い上げとアメリカの絶対的生産優位が輸出の拡大を困難にし、全体とし

て生産の拡大をおこえなくしているのである。

繊維工業は 1970 年代になってその生産が低下しているが、生産指数からみると 1980(昭

和 55)年を 100 とした場合 1982(昭和 57)年は 97.4%となっている。とくに製糸の場合は生

産低下が大きいが今後もこの部門での生産上昇は困難なのである。製糸、紡績などいわゆ

る川上部門の生産の停滞は輸出の減少なども大きな原因となっているが、織物などの川中

部門、2 次製品、アパレルなどの川下部門の生産の低下による影響も多大となっている。い

ずれの部門も 1973 年が生産のピークとなっている。

次に日本の製造業における繊維工業の地位であるが、出荷額から 1980(昭和 55)年には日

本の全製造業で 214 兆 7000 億円を出荷しているが、繊維工業全体で 12 兆 2000 億円とわ

ずか 5・7%を占めるにすぎない。1960(昭和 35)年には 2 兆 1000 億円、13・8%を占めて

いたのが、20 年間でその比率は半分以下にまで下がったことになる。金額的には 1980(昭

和 55)年は 1960(昭和 35)年に比して 5・7 倍に増加しているが、この間製造業全体では 13・

8 倍に増加しているから金額の伸び率も他の産業部門に比べて著しく小さいといえる。繊

維工業の部門別では衣料製造業の部門で 1960 年の 1813 億円から 80 年には 3 兆 268 億円

と 16・7 倍に増加したのを例外としていずれの部門も 5 倍前後の伸び率となっている。と

くに紡績部門では 2・3 倍の伸び率の伸び率でこの間のインフレーションを考えると出荷額

においても実質的に低下しているのである。

繊維工業の事業所数は 1960(昭和 35)年の 10 万から 1980(昭和 55)年には 15 万弱と約 1・

5 倍増加している。これは全製造業の事業所数の増加率(15・1 倍)とほぼ同じになってい

るのであるが、しかし繊維工業の部門別で見た事業所数ではかなりの変動がある。衣服及

びその他の繊維品製造業は 1960(昭和 35)年の 1万9000から 1980(昭和55)年には 4万6000

と約 2・4 倍の増加となっているが、製糸業、紡績業では 1960(昭和 35)年には 1099、2606

であったのが 1980(昭和 55)年には 317,1022 と約 3 分の 1 に激減しているのである。この

部門における事業所数の減少は、機械化、自動化の進展に伴う生産の集中化を一面では意

味しているが、他面では生産の拡大が困難であるがための集中化であるともいえる。とく

に製糸業では生糸の不振が事業所数の減少となり、また紡績においても事業所数の減少と

精紡機数も減少しており、必ずしも生産の集積には到っていないのである。紡績、製糸、

120

化学繊維などの素材部門では事業所および資本の集約化がおこなわれ、生産の集中化が促

進されていったが、アパレルなどの消費財部門あるいは労働集約的な部門では資本規模も

小さく、新規参入も容易なことから事業所数が増大していったのである。

かつて繊維工業は日本の製造業労働者の過半を占めていた時期もあったが、今日では

12・7%と激減している。とくに繊維工業のなかでも製糸、紡績、織物および化合繊の分野

での減少率は大きくなっている。製糸の分野では生糸生産の減少から生じているのであり、

紡績の分野では綿、羊毛の紡績生産量低下にも起因するが一方で合理化が浸透しているこ

とと、技術革新の進行による労働生産性の上昇も影響している。

1 事業所あたりの従業員数平均を見ると製造業では 1960(昭和 35)年の 42 人から 1980(昭

和 55)年には 37 人紡績業では同じ期間 114 人から 110 人に化合繊では 2007 人から 473 人

とそれぞれ減少している。化合繊部門では新しい繊維の開発が比較的にこの部門の新規参

入を容易にしているがために、事業所数の増加となっているが一方では技術革新、合理化

の進展しやすい部門であることによって 1 事業所あたりの従業員数が減少しているのであ

る。

紡績部門での減少は生産の縮小とともに労働強度の増大と新機械採用による労働生産性

の上昇も大きく起因している。大紡績資本を中心にして、1960 年代後半以降紡績工程の連

続化・自動化が進展しており、合理化も進んだのである。また織物の部門でも技術革新が

進展しており、従業員数の減少をもたらしている。とくに 1960 年代からの新技術では従来

の織り機の 3~4 倍の生産性を持つといわれるウォータージェットルームが登場し、自動化

が進展したことも大きな理由である。

織り機は 1960 年代後半に最大数に達したが 1980(昭和 55)年にはその 15~25%が減少い

ている。とくに綿織物用の織り機数の減少が著しいが、前述のように綿織物それ自体の生

産が減少していること、一方で技術革新の進展と、24 時間操業の確立に起因している。ま

た精紡機も 1965(昭和 40)年の 1718 万錘から 1982(昭和 57)年には 1218 万錘と約 30%減少

しているが、延運転時間数は殆ど変動がない。これは精紡機自体の性能の向上もあるが、

機数の減少を稼働率の向上によって補っているのであり、織り機と同様に 24 時間操業が大

きな要因となっている。紡績、織布の両部門ともに従業員数は減少しているが、その中で

も特に減少が著しいのは女子労働者であり、男子労働者の比率は増加傾向にある。これは

紡績・織布両部門とも機械化の進展が 24 時間操業を可能にさせ、男子労働力の必要が生じ

てきたためである。また運転時間数だけを見てみても紡績の比重が低下し、合繊糸や混紡

糸の比重が相対的に増してきており、この面からも天然繊維から化学・合成繊維へのシフ

トが伺える。

食料と繊維原料とは、国民の生活を維持する基礎資材であることはいうまでもない。に

もかかわらず、わが国は、資源的制約のため食料と繊維原料の一部または大部分を、海外

からの輸入に依存せねばならない。国際収支の均衡を保つには、その輸入に見合うだけの

輸出貿易を遂行せねばならない立場にある。

121

このような輸出貿易の使命を、おもに繊維産業が担ってきたことは、こと新しく述べる

までもない。ところが、第 2 次世界大戦後は、まず、絹の輸出が、ナイロンの工業化によ

って壊滅的な打撃を受けて衰退した。近ごろ、絹に対する嗜好が復興してきてはいるが、

もはや昔日のおもかげはない。一方、後進国では、綿紡織工場の建設を中核として工業化

が進み、わが国の経済体質といちじるしく均質化してきた。かつて、わが国綿業の主要な

輸出市場であり、綿花の輸入市場でもあったインドと中国の地域は、いまでは、単に綿製

品の自給ができるばかりでなく、強い輸出力をもつようになった。中下級綿布の輸出では、

わが国綿業は、これら後進国綿業との競争において、世界各地の市場で逐次敗退しつつあ

る。わが国と後進国との比較生産費差は縮小し、有無相通じるべき商品の量と種類とは、

低減の一途をたどってきた。

絹貿易の衰退と後進国の綿業発達とは、じつに、わが国繊維輸出貿易の前途に暗影の投

げかける 2 つの要因である。もし、この事態が進行するままに任せて、手をこまねいてい

るならば、国民の生活基準の維持に重大な脅威を与えることとなるであろう。このような

脅威と暗影とを払いのける手段は、産業構成の高度化により、後進国との間に、新しく比

較生産費差を作り出すことによって見いだされる。

さらに、これからどのように展開していくのかという点について考えると、日本の国内

市場の確保についてであるが、衣料品についてみると、一民族の嗜好性はデリケートであ

り、民族固有の嗜好性は、短期間にはあまり変わらない面が多い。言い換えると、日本人

の使う衣料品については、日本人がいちばんよく知っているので、外国人が入り込むこと

は困難である。逆に日本人がアメリカ人の嗜好を完全に知って対米輸出を無限に増加させ

ることは難しいということである。ファッションについては、ファッション製品は輸出で

きるという面もあるが、逆に輸入にインベイドされないということも原理であると考えて

いる。したがって国内市場は本来的には輸入により脅かされるという面もあるが、日本人

がその気になって考えれば最も守りやすい分野であろう。

生糸の国際相場は現在のフランスのリヨン相場を基準にしているが、今日では世界最大

の生産国中国の生糸が相場の動向を左右している。中国生糸は現実に国際相場よりもさら

に低価格で輸出されており、韓国などの生糸輸出国も最近は中国の生産拡大・輸出政策に

よって輸出数量の減少を余儀なくされている。さらに生糸生産はブラジルなどが拡大しよ

うとしており、生糸の国際分業関係の再編は日本市場をめぐって今後も急速に進行してい

くような状況になっている。

絹業に関しては、絹織物生産国はかならずしも原料の生糸生産から一貫した生産体系を

とっていない国も多い。かつてのフランス、イタリアなどは原料から製品まで一貫して生

産していたが、日本のような生糸原料生産国の登場によって国際分業体制が再編されたの

であった。生糸輸出国のブラジルは、国内での需要は生糸生産量の 20%強で残りは輸出と

いうことになる。ブラジルでの生糸生産は輸出目当ての生産という形態である。これは生

糸の最大生産国である中国でも同様である。この生糸生産国、輸出国の変遷は、原料・素

122

材料供給国が先進国から発展途上国に移転し、製品生産国は先進国あるいは「中進国」に

集中するという国際分業の再編が進んでいるということを示している。また製品生産にお

いては先進国から「中進国」へ移転しつつあり、この部門での国際分業化も進展している。

ただし生糸の生産は、一定の技術的水準を要求されており、発展途上国でも比較的生産力

水準の高い国かあるいは「中進国」ブラジルなどが中心となっている。このような国際分

業関係の再編は、当然ながら先進国の資本によって推進されている。日本の国内の事実上

の養蚕縮小政策は、原料を外国に依存しなければならない状況にしている。先進国資本に

よる発展途上国国民経済を巻き込んだ国際分業体制の再編といっても、先端部門では発展

途上国への移譲は行われておらず、旧来型産業部門の移譲による新たな国際的分業の再編、

外国貿易構造の転換がなされているということである。

一方で、繊維業界ではサービス系の企業のユニクロ(ファーストリテイリング)好業績企業

に成長したように、バリュー・チェインでいえばものづくりの川下工程に位置する企業が

成長する傾向が出ている。繊維産業自体は、日本にとって不可欠な産業であるが、生産機

能は日本の国内に存在する意義(比較優位)を失いつつある。日本の繊維産業は、高機能な繊

維(糸)の開発、生産やファッション性の高い衣服の生産に特化しつつある。汎用品分野では、

繊維や衣服は ASEAN や中国の企業から輸入し、卸売業、小売業として存続しているのが

実状である。80 年代中頃のプラザ合意以降、円高、ドル安が進むなかで、繊維産業は輸出

産業から輸入産業に転換し、その傾向がいちだんと進んでいる。

世界競争をリードしている日本のものづくり産業は、アジア各国との間で多様な国際分

業体制を構築してきている。まず製品面でみれば、海外へのものづくり機能の移転が進ん

だ繊維産業でも、高機能繊維は今でも日本国内で生産し、低価額の汎用品ではアジアの合

弁工場で生産し輸入するような棲み分け関係が成立している。つまり高級品「日本」、中下

級品「アジア」のような製品差別化分業の関係が構築されている。したがって、日本が比

較優位を失いつつある成熟産業といえども、日本からものづくり機能が完全になくなり、

空洞化するわけではない。

日本国内では、産業の高度化のプロセスとして、一部の分野では、製造業からサービス

産業に分野変更される場合も起ころう。繊維産業は、1950、60 年代の高度成長期には輸出

の花形産業であったが、1980 年代には輸出産業から輸入産業に転換した。とりわけ汎用品

の分野では、アジア合弁工場や技術移転先の企業から、繊維商品を輸入しており、繊維企

業は、卸売業、小売業の活動を展開している。現実には、比較優位を比較的早い段階で失

った繊維産業では、ユニクロ(ファーストリテイリング)のような企業が活躍している。

同社は、生産を中国企業に委託し、一定規模の生産量を全買い付けるリスクを負う一方

で、品質、コストをぎりぎりの水準までつめる。また日本の顧客に密着し、製品企画から

開発などのマーケティング機能を重視するとともに、委託生産、物流、販売まで、幅広く

自社のバリュー・チェインを設定し、通常の卸小売業とは比べようもないほどの高収入を

確保しているのである。

123

日本の消費者にとって繊維製品は、今後もなくなることはない。しかし繊維産業の姿は、

従来のものづくり産業から、大きく変質していくことは間違いない。日本産業では、第二

次産業のピークは、生産額、雇用量を総合すると 1970 年代であった。

(4)政府政策

日本の蚕糸・製糸部門を保護するために繭糸価格安定に関する法律が施行され、日本蚕

繭事業団(1958 年)が設立された。1966(昭和 41)年には日本蚕繭事業団は、日本蚕糸事業

団として改組されていったが、日本蚕糸業の保護体制は、政策上は一応整えられた(現在

は日本蚕糸砂糖類価格安定事業団)。そして 1972(昭和 47)年には国内生繭糸の保護、外国

生糸の輸入抑制を目的とした、生糸輸入措置が講じられるようになる。

生糸一元化措置は、その後の外国生糸輸入、日本蚕糸保護に一定の影響力を与えるよう

になった。この措置が行われた時期を境にして日本資本主義は「高度成長期」が終焉し、

恐慌、不況に突入することになり、生糸需要も減少の傾向を示し始めた。その一方で中国、

韓国、ブラジルなどが蚕糸生産の拡大をはかると同時に、東アジアを中心とした諸国での

日本向け絹織物の生産が拡大していくことになった。東アジア諸国での絹織物の生産拡大

は生糸の輸入制限を実施しても製品として日本に流入することであり、日本の蚕糸部門ば

かりでなく、絹業全体におよぼす影響が大となったのである。こうして生糸輸入一元化措

置は、生糸の輸入抑制は計られたが、絹織物の輸入増大を招いた。結局絹織物、絹糸まで

含んだ 2 国間協定という形態での輸入制限国台湾などと、絹撚糸絹織物などに対し事前許

可制、事前承認制を設け、輸入制限を強化する措置が講じられたのである。

生糸の輸入一元化措置や、2 国間協定などによって輸入制限(一部は輸入割当てなどよっ

て東アジア諸国の輸出を確保するという目的もあり、事実日本蚕糸事業団の在庫という形

で処理もされた)が行われる中で、日本国内での絹製品の需要は減少し続け、国内絹業も

また生産拡大をはかることができなかったのである。そしてまた生糸の輸入一元化措置や

2国間協定の締結外の国、すなわち香港、シンガポール、フィリピンなどの絹製品の輸入

が増大することになり、結果的には国内需要に占める外国産の比率を高めることになった

のである。

養蚕農家が減少し、収繭量も低下するなかで、生糸の輸入一元化措置が行われるように

なったのは、養蚕農家および製糸部門の保護が目的である。中国、ブラジルなどに比べれ

ば日本の養蚕ははるかにコスト高で、その限りでは国際競争上は不利であり、輸入制限を

おこなわなければ日本の養蚕は壊滅状態になってしまうおそれがある。輸入制限や日本農

業の構造転換が進む中で養蚕農家も若干変容をとげている。1 戸あたりの収繭量でみれば、

年間 1 トン以上の農家が 1965(昭和 40)年は 1067 戸であったのが 1980(昭和 55)年には

12823 戸と養蚕農家の 10%近くを占めるようになっており、全体としても 1 戸あたり平均

収繭量は増加している。50 アール未満の零細養蚕農家は、賃金労働者に転出したり他の農

124

作物に転換していったのである。輸入制限などの養蚕保護政策を享受できるのは、結局大

規模養蚕農家などに偏ってしまうのであり、1960 年代からの養蚕農業政策は養蚕農家の集

約化をはかることになったのである。

生糸は一般的に相場商品といわれ、天候や作柄、品質などによって価格変動が大きい。

しかし 1972(昭和 47)年に生糸の輸入一元化措置が講じられたことによって、生糸価格はい

わば高価格安定という状態になった。横浜生糸市場における生糸相場の推移と、繭糸価格

安定法にもとづく生糸価格は、標準生糸の上位安定価格及び下位安定価格を生糸生産費(蚕

種費、共同飼育費、肥料費、労働費、賃料、地代、租税賦課など 14 費目)に基準をおいて

設定している。生糸価格は国内生産費を基準にしているのであり、外国生糸を基準にして

いるのであり、外国生糸を基準にしているのではない。この生糸価格の設定は外国生糸に

よる国内市場侵入を阻止するという目的があるが、一方では高価格安定によって養蚕農家

の集約化をはかるという目的もあったのである。

生糸輸入一元化措置は、外国生糸の事実上の輸入制限を意味しているが、この措置が講

じられたということは、最早日本生糸は国際競争上まったく不利になったことを明らかに

したことであり、外国生糸生産国からすれば日本の輸入制限の緩和あるいは廃止を要求す

る根拠を与えられたということになる。逆に総合商社などはこの制度を利用し、絹業の国

際分業化あるいは東アジア諸国を中心とする日本の下請け化を推進する契機ともなってい

った。

日本生糸は 1960 年代までは漸減しながらも輸出は行われていた。ところが 1970 年代に

なるとほとんど輸出できなくなっていった。日本生糸の高価格維持政策が、中国、韓国な

どの生糸の国際競争力を高める結果となったのである。1970 年代後半の生糸価格の国際比

較をすると、国内相場と国際相場の価格の乖離は年々大きくなり、とくに 1978(昭和 53)年

は円高傾向もあって国内相場は国際相場の 2 倍を超えている。「繭糸価格安定法」が日本生

糸の高価格安定をはかったが、その政策は中国、韓国などの蚕糸国に、日本市場へいっそ

う進出できる状況となったのである。1960 年代前半までの日本生糸は、国際競争上大きな

不利はなかった。むしろ中国、韓国、のちのブラジルなどでは蚕糸生産は発展途上であり、

日本市場に進出できる状況ではなかった。しかし 1960 年代後半からの日本の国内需要の増

大、一方における養蚕、製糸の生産停滞が、東アジア諸国の蚕糸生産の拡大を促す結果と

なったのである。もちろん東アジア諸国の蚕糸生産には日本資本による国際分業化の推進

行動があったことを見逃すことはできないが、いずれにせよ日本の蚕糸生産・生糸需要状

況は東アジア諸国の蚕糸生産国の生産拡大・国際競争力の上昇を促すことになり、日本は

生糸輸出国から生糸輸入国に転換することになったのである。

125

(5)まとめ

我々は戦後の日本を支えた生糸産業が衰退していった要因を考察し、4 つの仮説、衣生活

の変化・化学繊維の出現・技術移転を伴う海外投資・政府政策が主なものとして立てた。

結論として大きな主要因であったのは、化学繊維の出現と技術移転を伴う海外投資であっ

た。

もちろん衣生活の変化の台頭も無視することはできない。一般庶民は主に絹製品は着用

せず、麻や木綿生地の製品を着ていたので、日本人の衣生活の変化と言うよりはアメリカ

の衣生活変化の影響を受けた部分が多いと言える。なぜならそれら海外の生糸需要が減少

したことで直接的に日本の生糸輸出量の減少につながってしまったからである。

主要な要因をなした化学繊維の台頭については、当時天然繊維の原料を外国に依存する

しかない後進国であった日本にとって、天然繊維に代わる新たな繊維として開発された化

学繊維はとても魅力的であった。そのため政府が国策繊維として、化学繊維の増産を奨励

したことが大きな転換点であった。さらに開発が進むと、より安価で高品質の化学繊維が

続々と生産されるようになり、その影響を受けた生糸は衰退を余儀なくされたのである。

また、日本の製紙産業の衰退には海外から受けた影響が多いと言えるここで。一言で海

外と言っても、貿易そして輸入制限、また海外直接投資など要因は多岐に渡り、項目を一

つに限定はできない。だがその中でも日本の企業が東南アジアへ直接投資した結果が、自

国の製糸業衰退につながってしまった部分は大きい。当時の商社は、十分な技術力まで成

長した繊維技術を発展途上の近隣諸国(主に東南アジア、韓国・台湾・香港)へプラント輸出

をした。プラント輸出をされた各国ではその技術で繊維生産の技術が飛躍的に向上し、結

果として日本の技術の流出を招いてしまった。日本の技術移転を伴う海外投資、その海外

投資を受けて生産力をつけた近隣諸国、この二面性が日本の繊維技術の衰退に大きく繋が

ったと思われる。

また、プロダクト・サイクル理論に則して言及すると、日本はエネルギー源や材料とな

る資源が乏しく、産業で使用できる土地や労働力も当然限られてくる。そこで、繊維産業

の国際分業化、つまり生産を近隣諸国に任せ商品を輸入するという形態にすることで資本

(ヒトやモノやカネ)を効率的に次のレベルの産業、付加価値の高い産業に投下することが可

能になるという。この点に着目すると、繊維産業の衰退というのは、日本経済の『成長』

または『成長に向けての過程の一部』なのであろう。得意な分野に特化して効率的に資本

を投下する、効率的に利潤を獲得する。このサイクルは確かに合理性があり、日本のみな

らず他の国でも行われている。だが繊維産業に限定するならば歴史を通して培われた技術

を流出してしまい、他国に生産力が劣ることになってしまった。これは最近のアパレル業

界をみると分かり易い。商品のタグを見るとその多くが他国産である。

一方では高い日本の技術を見直そうとする動きもある。生糸で作られるシルク製品は肌

触りが良く重さも軽い。また高級品としての位置付けもされている。

126

日本の繊維産業は世界から大きく後退したかのように思われるが、潜在的にはまだ高い

技術があることが分かる。もう一度世界のシェアでも上位になることは不可能ではないと

思われる。よって今後の動向には注目したいと思う。

127

第 4 章 おわりに

我々は桐生・片倉での実地調査を通して、製糸産業が日本の基幹産業であったこと、し

かし産業が次第に衰退していったこと、そして今もその規模は縮小し続けていることを知

った。かつて日本経済を支えるまでに発展した製糸産業がなぜ衰退してしまったのか。我々

は疑問に思い、「日本の製糸産業はなぜ衰退したのか」という本論文の命題を設定した。

この命題に対して衰退要因として考えられるものを 4 つ挙げ、我々の仮説とした。我々は

衰退要因に①衣生活の変化②化学繊維の出現③技術移転を伴う海外投資④政府政策の 4 つ

を考え、仮説とした。これらの仮説に基づいて調査を進めていくうちに、衰退を知るには

まず発展について知らなくてはならないのではないかと思い、衰退要因の調査と並行して

発展要因の調査を始めた。このような過程を経て、我々の論文テーマは『日本の製糸産業

の発展要因と衰退要因』となった。多くの文献や実地調査で見たり聞いたりしたことをも

とに調査・研究を進めた結果、我々が得た結論をここで明示する。

まず製糸産業が発展した主な要因は、製糸技術の発達と外国市場の動向である。製糸技

術の発達により、イタリアやフランス産の生糸に対抗できる安価かつ高品質な生糸の製造

が可能になった。また大規模な器械製糸場の設立によって、生産の効率が高まり、生糸の

大量出荷が可能になった。そして製糸産業が基幹産業となった最大の要因と言えるのが、

外国市場の動向である。今回取り上げたフランス・イタリア・アメリカ・中国の中で、日

本が最も大きな影響を受けたのは最大の生糸輸出先であったアメリカだが、生糸消費国第 1

位のフランス、そしてそのフランスと争っていたイタリア、また生糸輸出国として日本と

常に争っていたと考えられる中国と、各国との密接な関わりが要因となった。

次に製糸産業が衰退した主な要因は、化学繊維の出現と技術移転を伴う海外投資であ

る。当時天然繊維の原料を外国に依存するしかない後進国であった日本にとって、天然繊

維に代わる新たな繊維として開発された化学繊維はとても魅力的であった。政府が国策繊

維として、化学繊維の増産を奨励したことも大きな要因になった。さらに開発が進むと、

より安価で高品質の化学繊維が続々と生産されるようになり、その影響を受けた生糸は衰

退を余儀なくされたのである。

これらの結論から、我々は発展要因と衰退要因の関わりを考察する。

発展したイタリアやフランスに対抗できる安価で高品質な生糸として評価され発展した

日本の生糸も、後に開発される化学繊維にとって代わられ衰退してしまった。化学繊維が

生糸を凌駕した要因も、化学繊維が生糸より安価で高品質な繊維であったからである。こ

れらのことから「安価」かつ「高品質」というのが繊維の需要拡大につながるポイントだ

と我々は考える。品質の高さを維持しながら安く売るには、人件費削減のための低賃金労

働者が大量に求められる。つまり繊維産業は後進国に向いている産業ではないかと考察す

る。かつて後進国であった日本も、アメリカやフランスなどの絹織物生産を支える生糸を

各国に輸出していた。そして海外から導入した技術によって製糸産業が発展を遂げると、

128

その技術はさらに東南アジアなどの後進国に移転される。そしてかつての日本がそうであ

ったように、安価で高品質な生糸を東南アジアに生産させるようになった。海外技術の導

入→国内技術の発達→海外への技術移転というように、製糸技術は次から次へと移転して

いき、その時代その時代に勢いのある後進国で発展していく。そのため一度発展してしま

った製糸産業は、衰退から逃れることができないのである。このような技術移転に重なっ

て、新しく化学繊維の開発が始まったことが製糸産業の衰退をさらに進めたと考える。

129

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