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築山殿と徳川家康5.indd 1 2009/03/16 13:01:25aoyamalife.co.jp/images/tachiyomi/tokugawa.pdf8 真船氏を名乗った世良田氏末裔 62 徳川家康と築山殿事件 66

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  • 築山殿と徳川家康5.indd 1 2009/03/16 13:01:25

  •    装丁 溝上なおこ

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  • 3 はじめに

    はじめに

    ―静岡人と浜松人―

    同じ静岡県でも、浜松の文化は静岡のそれとは違う。静岡市の文化があたかも公家文化とすれ

    ば、浜松の文化は何と表現したらよいのであろうか。それは、浜松まつりに参加すればわかる。

    五月の三・四・五日の連休に行われる、凧揚げ合戦と夜の御殿屋台の引き回しである。士気を鼓

    舞する突撃ラッパの勇ましい音と、御殿屋台の上の少女たちのおはやしの音色の動と静の不思議

    な調和。浜松人はまことにお祭りが好きだ。祭りとなるとどっと盛り上がる。しかし、熱しやす

    く冷めやすい、というのが浜松人の特徴のようだ。

    静岡県といっても、昔は三国に分かれていて、西から遠江・駿河・伊豆の三国である。東西に

    長い県域をもっている。

    静岡市と浜松市はともに、現在は政令指定都市であるが、「永遠のライバルだ」、という人がい

    る。静岡の人は、県庁所在地だから、どっかとかまえているが、浜松の人は、静岡をライバル視

    しているらしい。「群馬県の高崎市と前橋市のようなものだ」という人もいる。

    ところで、「浜松は文化不毛の地」と評する人もいる。「浜松には文化が根付かない、だから、

    築山殿と徳川家康5.indd 3 2009/03/16 13:01:27

  • 4

    文化が素通りしてしまう。」というのである。確かに、仙台や金沢、高知などには、どっかと座っ

    た伝統がある。城主がずっと替わらずに、城下町を繁栄させたからだ。

    浜松には城下町と宿場町の両方の役割があったが、宿場町のほうの役割が大きかったのは事実

    である。浜松城主が、ころころ変わっていたのも、文化の醸成に難儀(なんぎ)な原因となった

    のではないだろうか

    今、ここに、徳川家康の浜松時代の実像を描くことにより、浜松の文化の創造にも着手したい

    のである。家康の謎に満ちた壮年期にスポットを当てて、それを、すなわち「私の浜松論」とし

    てみたのが、本書である。                   

    徳川家康はどん底からはい上がった男である。

    「人生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、云々」

    この言葉は、実は家康生前の言葉ではないと、最近、徳川義孝氏の考証によって否定されてい

    るが、家康自身の人生を思うて、余りあると、筆者も感ずるところ大である。

    実際のところ、私は、成功してより後の家康にはあまり、興味がわかないのである。

    よく企業経営者が大成功をしたのちに、創業時の苦労話を聞くのに似ている。彼が、苦労人と

    呼ばれた前半生の中にこそ、私は興味を覚えるのである。

    いわゆる歴史とは、その人物亡き後、において、後世の人々がその彼の出来事やら、行ったこ

    と、遺したこと、その人物を評して、語られるものと思っている。

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  • 5 はじめに

    家康は「タヌキおやじ」とよばれたことは、有名な話である。明治時代、とくにその傾向は強

    かった。ところが、昭和も戦後になって、山岡壮八の『徳川家康』が出版され、NHKの大河ド

    ラマになったことから、家康にたいする評価も変わってきたように思われる。山岡壮八は築山殿

    を悪女と描いている。

    ただし、浜松人からみた家康はこっけいなところがあり、庶民的である。大御所時代とは少し

    違う。三方が原の戦いに敗れたからであろう。だから多くの家康伝説が、残されている。 

    しかし、たしかに、徳川家康には謎が多い。公にはできない、隠されている部分も多い。忍び・

    忍者を最も煩雑にかつ有効に使ったのも家康であるという。

    今、その隠されている部分に光を当て、真の徳川家康像に、とくに苦労人時代の浜松の徳川家

    康にスポットを当てたいと思っている。

    郷土浜松に住む者として、その彼の隠された、人生の悲哀に満ちた人生にせまることができれ

    ば、それに勝るものはない。本書はそのような意図から出来上がっている。

    大御所時代のいわば静岡人から見た家康ではなく、浜松人からみた家康像でもある。

    ここに、読者の方々から、広くご意見をいただければ幸いである。

    築山殿と徳川家康5.indd 5 2009/03/16 13:01:27

  • 6

    目次はじ

    めに

    3

    ―静岡人と浜松人―

    3

    家康伝説の街、浜松

    10

    「小豆餅」と「銭取」

    10

    遠州の家康伝説①

    14

    家康伝説②

    15

    家康伝説③

    20

    地名の由来

    徳川氏は源氏か

    24

    ユキヨシサマ伝説

    26

    宗良親王と水窪の地名

     

    28

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  • 7 もくじ

    「浪合記」と天野信景の経歴

    30

    天あま野の信さだ景かげの経歴

    35

    考 

    39

    宗良親王の末裔と津島

    42

    遠州における南北朝の争乱の推移

    46

    愛知県津島市良王町歴史探歩①

    48

    津島周辺の歴史探歩②

    50

    良王神社由緒書より

    54

    良王君奥都城処に関する伝説

    津島の歴史・文化より

    55

    平安末期から戦国期の浜松人

    59

    秀吉びいきの庶民性

    60

    家康の徳川改姓

    60

    世良田氏は、徳川氏か?

     

    61

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  • 8

    真船氏を名乗った世良田氏末裔

    62

    徳川家康と築山殿事件

    66

    悲運の正妻・築山殿

    66

    たたる築山御前

    69

    築山殿事件の真相は?

    71

    築山殿事件の動機は何か?

    73

    西来院・月窟廟

    75

    「築山殿は悪女にあらず」か?

    77

    築山御前首塚(愛知県岡崎市欠町八柱神社境内)碑文

    三方が原の戦い

    82

    三方ヶ原の戦い②

    83

    浜松は出世城か

    86

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  • 9 もくじ

    魔都・「京都」

    88

    祟りから逃れるために結界と化した都

    88

    「風水」で守られた都

    89

    「四し神しん相そう応おうの地」京都

    90

    京都には幾重にも「魔除け」が施されている

    90

    京都の地相と浜松・そして江戸の地相

    91

    「風水」からみた江戸城の立地

    95

    コラム・カマイタチ

       

    96

    むすび

    98

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  • 10

    家康伝説の街、浜松

    「小豆餅」と「銭取」

    五月。赤石山系から南へと延びる新緑の山並み。さらに緑の同じ峰につながる青き山が秋葉山

    へとずっと連なっている。この山は、とくに、初夏の息吹きを感じさせている。

    五月の三・四・五日に行われる浜松まつりの恒例の出し物、凧揚げ合戦と、夜の御殿ばやしの少

    女の、化粧した色っぽい三味や太鼓、笛などの音色が、まつりを盛り上げている。

    さて、ここは浜松、徳川家康が居城し、一説には「出世城」と呼ばれる。しかし、家康が城を

    かまえる前は遠州の国人領主、飯尾氏がいた城であった。 

    現在も市内の高林および上島近辺には、飯尾姓のお宅が多いが、先の飯尾氏と関連するのか、

    昔から気になっている。

    さて、浜松は、徳川家康が三河から進出してくる以前、飯尾氏がこの城を「曳馬あるいは引間

    城」と呼んでいたものを、徳川家康は「浜松城」と改名したのにはわけがある。

    「馬を曳く、あるいは引く」という表現は、戦いにおいて「敗戦」を意味し、武将にとって縁起

    の悪い地名であったことからというが、本当のところは、城と地名を改名することで、人心を一

    築山殿と徳川家康5.indd 10 2009/03/16 13:01:27

  • 11 家康伝説の街、浜松

    新することが、ねらいであったろうと思われる。

    浜松市には「曳ひく馬ま」に関連して、三方原台地の三方原町一帯が「曳ひく馬ま野の」と呼ばれ、筆者の親

    戚が居住している。

    筆者の少年時代には、いとこと子供同士、泊まりがけで遊び、また、あの懐かしい遠州鉄道の

    奥山線に乗った記憶が残っている。

    現在、このあたりは、浜松医大や都田テクノポリスができ、政令指定都市に浜松がなった関係

    で、道路も立派に整備され、三方原町一帯、むかしの「萩茂る曳馬野」の、そこのあたりはすっ

    かり都市化してしまった。

    けれども、私の少年当時は、赤土の舞い上がる舗装されていない道と、奥山線の通る、いかに

    ものどかな畑作地帯であった。現在でも、三方原馬ば鈴れい薯しょと人参などの農作物は有名である。

    さて、浜松の三方原台地には、徳川家康にかかわる家康伝説の地名が二つある。まず有名なの

    は、「小あ豆ずき餅もち」、そして「銭ぜに取とり」である。

    かつて遠州鉄道奥山線があったころ、それにのって浜松に向かうと「小豆餅駅」「銭取駅」と

    車掌が呼んだ。まことに風変わりな駅名であるが、これが有名な三方ヶ原の戦いの舞台である。

    武田勢二万五千に対して、徳川勢わずかに八千であった。勝敗は目に見えている。斥候の知ら

    せを聞いて、浜松城にいた家康は、歯ぎしりしてこう叫んだ「敵兵が城下を通るのを見て、黙っ

    ていられるか、これでは男がすたる。」

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  • 12

    家康は、女中に用意させた湯漬けをかきこむと、馬にまたがり、出陣していった。

    「殿、お待ちくだされ。」

    作左衛門が後を追う。

    さらに夏目がそれを追って叫んだ。

    「殿、お急ぎめさるな。ここはお引き返しのほどを。」と、

    夏目治郎左衛門吉信は、敵の本陣に斬り込もうとする家康の前に馬を進めた。

    「夏目よ、どけい。何ゆえそちは、邪魔をする。」

    家康は、自分がどんな状況にあるか、とてもわかってはいなかった。ただ興奮し、混乱してい

    たのである。

    「ごめん。」

    冷静な夏目吉信は、家康の馬のくつわを浜松城のほうに向け、槍の石突きでえいっとばかり、

    その馬の尻をたたいた。

    家康の馬は、突如、走り出し、最前線から離れていった。

    夏目はというと、武田の本陣に向けて走っていく。

    「われこそは徳川家康なり、いずこに居られるか、信玄公、見参。」

    武田の槍やり衾ぶすまが

    夏目の腹に突き刺さる。

    「殿、別れでござる。」

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  • 13 家康伝説の街、浜松

    五十五の老将は息絶えた。

    段だん子ず川かわのあたりまで逃げて来て、家康は馬上で失禁している自分に気がついた。

    「どこぞに隠れるところはないものか。」

    ふと見ると、道端に小さな茶店があって、老婆がひとり、小豆餅を売っていた。

    「裏を貸せよ。」

    家康は身づくろいを整えると腹がへったので餅をくらった。

    すると後方から、武田の鬨の声がこだましてきた。

    「敵じゃ。ばあさん、すまぬ。」

    家康が駆け出すと、

    「お代をくださいませ。」

    餅を食ったところを「小豆餅」、老婆が追いついて、銭をとったところを「銭取」という。

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