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― 5 ― 第2章 1930年代の建築空間システムの問題 2.1. 序:1930年代への視点 全般的に、モダニズムおよび近代建築史の見直し作業は幅広く続けられていると言ってよいだろう。ペヴスナ ー、ギーディオン等の近代主義者による近代建築観は、ベネボロらによってより周到な解釈を得た後、ポスト・ モダン期にはジェンクス、フランプトン、タフーリらによって批判的に改編された。その後、カーティス、ランプニャ ーニ等の新しい世代によって、多様な歴史記述がなされてきているが、歴史観に大きな転換は見られないよう に思われる。ポスト・モダン期にその神話性が解体された「近代建築」は、全く否定されるかと思われたが、異な るスタンスであるとはいえ、改めて継承の路線が築かれてきている。しかし、こういったやや複雑な歴史的経緯 の中で近代建築史の記述方法は明快さを欠くことになっており、そこに新しい基盤が必要になっている。 例えば、「近代建築」の代表作であるヴァルター・グロピウス設計のデッサウ・バウハウス校舎を含め、ヴァイマ ールとデッサウのバウハウス施設、またミース・ファン・デル・ローエ設計の「トゥーゲントハット邸」(チェコ、ブルノ 市)は世界遺産に登録され、古典として認定された。またドイツにおいて、1920年代前後のものを含め、20世 紀初期の文献や資料が多数、復刻出版されているという事実がある。近年、ブルーノ・タウトの著した『アルプス 建築』等の著作がいくつも復刻され、またマグデブルク市では彼の指導した「色彩建築」が復元されてもいる 1) ミース・ファン・デル・ローエの「バルセロナ・パヴィリオン」も復元され、いくつかの住宅もギャラリーや見学施設 に変わり、再生した。文化財ということは、いわば現役ではないという評価でもあるが、「近代建築」は否定される どころか、改めて敬意を持って受け止められるに至っている。 1930年代の研究ということに関しては、ポスト・モダン期にナチス建築の再評価という、ややぶれのある経過 を辿り、ヒトラー側近の建築家アルバート・シュペーアの再評価や文献の出版という事態にまで至った。それは モダニズム批判の副産物という一面もあったが、タブー視されてきた1930年代の客観的な見直しをもたらしも した。そして近年では、建築史家ベルント・ニコライを中心として亡命ドイツ人建築家の詳細な再評価が進んで いるなど、より冷静な1930年代研究が見られるようになってきた 2) 。他方で、スターリン時代のロシアではモダニ ズムは否定され、その後も評価がされなかったために歴史的資料も散逸したようであるが、近年、その見直しの 機運がある。スターリン時代についても批判的検証を含めて研究書が出始めている。「近代建築」の影の部分 への注目という意味では新しい状況が生まれてきており、20世紀の総合的な見直しにつながるものと思われる 3) 本研究もまたそのような転換点における問題掘り起こしの試みであり。以下においてはこのような観点に立脚 し、特に焦点を当てた具体的なテーマに立ち入って、研究の成果の概要を提示する。まず、タウトの軌跡を辿 って、ロシア、日本、トルコ時代を取り上げ、続いてミースの1930年代を考察する。 2.2. ロシア時代のブルーノ・タウト 2.2.1. 独自の社会主義観 ブルーノ・タウトは1920年代におけるドイツ、とりわけベルリンにおけるジードルンク建設その他の建築活動か ら離れ、1932年にロシアに移住する 4) 。それは当時のソヴィエト連邦共和国の社会主義政権中枢に見込まれ て、当地の建築政策、設計活動を指導するべく招聘されたものだった。しかし、モスプロイェクトの要職に抜擢

第2章 1930年代の建築空間システムの問題home.hiroshima-u.ac.jp/tsugi/KKHR2005/W_04 本文 Ch2.pdf · ション」という古典主義に関わる言葉が見られるようになるが、それはこのような諸々の経験を背景に出てきたも

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第2章 1930年代の建築空間システムの問題

2.1. 序:1930年代への視点

全般的に、モダニズムおよび近代建築史の見直し作業は幅広く続けられていると言ってよいだろう。ペヴスナ

ー、ギーディオン等の近代主義者による近代建築観は、ベネボロらによってより周到な解釈を得た後、ポスト・

モダン期にはジェンクス、フランプトン、タフーリらによって批判的に改編された。その後、カーティス、ランプニャ

ーニ等の新しい世代によって、多様な歴史記述がなされてきているが、歴史観に大きな転換は見られないよう

に思われる。ポスト・モダン期にその神話性が解体された「近代建築」は、全く否定されるかと思われたが、異な

るスタンスであるとはいえ、改めて継承の路線が築かれてきている。しかし、こういったやや複雑な歴史的経緯

の中で近代建築史の記述方法は明快さを欠くことになっており、そこに新しい基盤が必要になっている。

例えば、「近代建築」の代表作であるヴァルター・グロピウス設計のデッサウ・バウハウス校舎を含め、ヴァイマ

ールとデッサウのバウハウス施設、またミース・ファン・デル・ローエ設計の「トゥーゲントハット邸」(チェコ、ブルノ

市)は世界遺産に登録され、古典として認定された。またドイツにおいて、1920年代前後のものを含め、20世

紀初期の文献や資料が多数、復刻出版されているという事実がある。近年、ブルーノ・タウトの著した『アルプス

建築』等の著作がいくつも復刻され、またマグデブルク市では彼の指導した「色彩建築」が復元されてもいる1)。

ミース・ファン・デル・ローエの「バルセロナ・パヴィリオン」も復元され、いくつかの住宅もギャラリーや見学施設

に変わり、再生した。文化財ということは、いわば現役ではないという評価でもあるが、「近代建築」は否定される

どころか、改めて敬意を持って受け止められるに至っている。

1930年代の研究ということに関しては、ポスト・モダン期にナチス建築の再評価という、ややぶれのある経過

を辿り、ヒトラー側近の建築家アルバート・シュペーアの再評価や文献の出版という事態にまで至った。それは

モダニズム批判の副産物という一面もあったが、タブー視されてきた1930年代の客観的な見直しをもたらしも

した。そして近年では、建築史家ベルント・ニコライを中心として亡命ドイツ人建築家の詳細な再評価が進んで

いるなど、より冷静な1930年代研究が見られるようになってきた2)。他方で、スターリン時代のロシアではモダニ

ズムは否定され、その後も評価がされなかったために歴史的資料も散逸したようであるが、近年、その見直しの

機運がある。スターリン時代についても批判的検証を含めて研究書が出始めている。「近代建築」の影の部分

への注目という意味では新しい状況が生まれてきており、20世紀の総合的な見直しにつながるものと思われる

3)。

本研究もまたそのような転換点における問題掘り起こしの試みであり。以下においてはこのような観点に立脚

し、特に焦点を当てた具体的なテーマに立ち入って、研究の成果の概要を提示する。まず、タウトの軌跡を辿

って、ロシア、日本、トルコ時代を取り上げ、続いてミースの1930年代を考察する。

2.2. ロシア時代のブルーノ・タウト

2.2.1. 独自の社会主義観

ブルーノ・タウトは1920年代におけるドイツ、とりわけベルリンにおけるジードルンク建設その他の建築活動か

ら離れ、1932年にロシアに移住する4)。それは当時のソヴィエト連邦共和国の社会主義政権中枢に見込まれ

て、当地の建築政策、設計活動を指導するべく招聘されたものだった。しかし、モスプロイェクトの要職に抜擢

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されていた彼は一年の後に失意の内に帰国を余儀なくされる。そこにはソ連政権が非常に不安定であり、指揮

命令系統がはっきりとせず、また権力闘争のただ中にあって目まぐるしく情勢が変化するという状況があった。

タウトにはほとんど永住も拒まないかのような、ロシアの大地への夢があったようであるが、あえなく退却せざるを

得なかった。

ロシアへはエルンスト・マイ、ハンネス・マイアーといった当時のドイツを代表する近代派の建築家たちも活動

の舞台を求めて渡ったが、タウトは彼らにもまして社会主義国家への関与を志していたと言われる。ロシア時代

のタウトについては、バーバラ・クライスが緻密な研究を行っている5)。しかし、日本日記のように公刊されていな

いものの、日記状の資料がベルリンの芸術アカデミーには保存されており、その中には特に設計組織の実態、

政治家との関わりについて具体的な事実が記され、また独自の改革提案が含まれている6)。それは建築家とい

うものが自立した立場を保持し、建築の本質をわからない政治家たちの介入を排除できるようにすべきとするも

のだった。

タウトが理想とする社会像は、表現主義期の分散的居住の提案、マグデブルク市での田園都市型ジードルン

クを含む有機的な都市デザインの経験、そしてベルリンで実現させた大規模ジードルンクを持つ大都市構造の

経験をベースに、牧歌的なユートピア社会を築こうとする独特の社会主義像にあったと思われる。彼はロシアで

それが実現するのではないかと夢見たようであるが、スターリン体制下において進む政治家主導の国内情勢に

あっては、タウトのつのる不満も解消されることはなく、自ら身を引くことを余儀なくされる。大きな夢とその挫折

はこの後のタウトの社会的な建築観に影を落としたものと思われる。

2.2.2. 混成的なデザイン手法

建築のデザイン手法については、タウトは短い滞在期間に大きな仕事を手がけており、実現はしないものの

その考え方についてはある程度知ることができる。構想案には、労働組合評議会(MGSPS)劇場計画案(1929

年予備設計,1931 年再設計)、国営ホテル・「グランド・ホテル」計画案(1932)、インツーリスト・ホテル設計競技

案(1932-33)、街区型集合住宅計画案(1932)、国営ホテル・第二ソヴィエト宮計画案(1932)、の5件が比較的

よく知られている。

それらの建築構想では、その建築形態は直方体のヴォリュームを構成主義風に組み立てるものを主とし、シ

ンメトリーの構成、中心性のある部分、やや細かい装飾的形態構成などを加えてあった。インターナショナル・ス

タイルに共通する部分はあるが、冷徹な幾何学的構成になることは敢えて避けていたようである。すなわち基本

的な機能主義のデザイン手法をもととしつつ、部分と全体の間の構成方法について造形的なバランスをはかり、

また敷地隅などを曲面として輪郭をやわらかくし、また壁面はやや細かく分節してファサードに表情を与えるな

どの手業を加えるものだった7)。

タウトは著述においては、ロシア国内の建築家ではヴェスニンの設計を高く評価している。その設計は明快な

幾何学的構成で知られるが、形式主義化するのでなく、各ヴォリュームに機能的な根拠がある構成を特徴とし、

必ずしも目立つ形態を取らない場合もある。その他にはタウトはプラネタリウムの機能合理性を示す形態を評価

するなど、機能に裏打ちされた象徴的表現を評価している。他方でタウトはロシアに来て仕事していたドイツ人

建築家たちの硬直した機能主義を厳しく批判していた。すなわちタウトは機能主義が機械的な形式主義に堕

するのを警戒し、総合的なバランス感覚を確保していることを求めた。この頃、タウトの文章の中に、「プロポー

ション」という古典主義に関わる言葉が見られるようになるが、それはこのような諸々の経験を背景に出てきたも

のと考えられ、特に日本でこの言葉が大きな意味を持ってくることの契機とも考えられる。間違えてはならないこ

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とは、それがルネサンス的な美学の意味での寸法比例などを指すのではなく、様々の要素をバランスよく納め

るといった意味であり、形態上での多様なレベルにおけるバランスを含め、建築と社会の見えるもの、見えない

ものの総合的全体の釣合、調和のようなものを指していたことである。ロシアにおける痛い経験は、他人にはわ

からない微妙な心境をもたらしていたと思われる。

最終的にタウトは妥協を余儀なくされ、政治家が好むデザインに従い、残された最後の設計案では大規模な

建築物に荘重なシンメトリーを用い、バロック的な象徴的デザインを加えたものとした。それがどれほどタウトの

本意だったかは推し量りようがないが、その19世紀に復帰するかのような保守的なデザイン手法は、スターリン

体制下でながく好まれることになる。そしてその本意は、さらに母国ドイツでも受け入れられることなく、日本、ト

ルコへとさまよう中で示された言動において理解すべきもののようである。ロシア時代を一時のエピソードとして

切り離すのでなく、このような文脈で見直すべきものと思われる。

2.3. 日本時代のブルーノ・タウト

2.3.1. 「生駒山嶺小都市計画」の有機的社会空間のデザイン

日本におけるタウトの建築観は、多数の紹介書籍や展覧会などを含め、ある程度広く知られているところであ

り、また筆者は日本時代の出版物を多く収集してきている。参考文献は多数に及ぶので、ここでは一々挙げな

い8)。本研究では「生駒山嶺小都市計画」案について、東京大学建築学科・建築学専攻図書室に所蔵される

基本設計案の図面、スケッチ、およびタウト自身の設計案解説書を用いて、詳細な検討を行い、特に筆者の知

見をもとにしてドイツ時代からの流れをさぐることを試みた9)。そこで見出されたことは、ひとつには「アルプス建

築」構想の日本的な翻案がなされ、「都市の冠」の考え方も止めつつ、表現主義時代の継承ないしは復活がな

されていたことである。また表現主義期の複合建築に見られる、多様なエレメントを組み合わせ、変化に富むピ

クチュアレスクな構成とする独特のデザインも見られる。

そこには住宅をそれぞれ独自の方向に向け、自立的に配し、全体にきわめて分散的な住宅団地が提案され

ていた。ドイツにおいて田園都市計画で実践し、おそらくロシアでも試みようとしたものが、日本の自然環境や

伝統的な居住観に合うように変形され、豊かな内容を持つ居住空間として展開されていたと評価できる。

各住宅のプランは中廊下型、L字形を基本とし、日本の近代住宅の形式を基本としつつ、かつ変化を加えて

ある。ガラスで覆われる開放感のある形態は日本的でも西洋的でもある。また、各住宅はすべて異なる形式に

なるように提案されており、一見社宅のような均質感を示しつつ、かつ多様性を含む。また日本的な眺望景観

意識、南面性などもある程度考慮してあり、全体として非西欧的なデザインを試みていた10)。

今回、マグデブルク市のレフォルム・ジードルンクを視察し、それとの比較を行ったが、低層の伝統的建築形

式を用いつつ、細かな空間的変化をちりばめて田園都市的な居住環境を演出するというデザイン手法は継承

され、かつ日本の環境をベースに改編されていた。それはタウトの考える独自のインターナショナル性であった

と思われ、土着の伝統を含み、かつ個人の自立をテーマとする近代性を持ち、新しい有機的社会を提案する

ものだった。ドイツ時代、ロシア時代を経て、多くの教訓を土台にタウトが日本で試みた1930年代のデザイン

姿勢は、独自の国際性と地球市民感覚だったと言えよう。

2.3.2. 建築美学理論における古典主義

タウトは3年の日本滞在の間に多数の著作を著しているが、建築理論書『建築芸術論』等で独特の「釣合(プ

ロポーション)」概念を提示した11)。それはパルテノン神殿に始まるヨーロッパ古典主義の中心的な概念であり、

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モダニストのタウトにふさわしくないかと思われるほど、一見保守的な建築美学だった。

そこにはロシアにおいてスターリン下の古典主義への傾斜にも影響されたのではないかと思われる保守回帰

のようなものがあった。著作にはシンケルへの言及のみならず、日本、西洋の古典美学への言及が多々見られ

る。また創作活動においても表現主義の刺激的な表現手法は影を潜め、落ち着いた環境デザインへの傾斜が

顕著でもある。ドイツの革命的な情勢の中にあっては安定志向の現実を否定する表現主義の刺激的な主張の

方がふさわしく、いまだ伝統文化が調和的な環境を育んでいる日本では古典主義の言葉遣いの方がふさわし

いと思ったのかも知れないが、いずれにせよ日本でのタウトの著作は諦念を含むような古典主義志向となって

いた12)。

しかし、その「釣合」理論は、単なる形の上での比例に止まるものではなく、深い奥行感を伴うものだった。『建

築芸術論』において展開される、現実の要求を満足させる基本的な空間配分を終わった後で、無意識の直観

的な美的判断力に委ねるという設計プロセスの理論は、通り一遍の機能主義とはかけ離れたものであった13)。

近代的な機能性、合理性を無視するのではなく、あくまで近代主義でありつつ、かつ最後はある程度の神秘主

義に委ねる設計観は、新しさと古さが融合した独特のものだった。

ここで比較に出すべきものがアルヴァ・アアルトの有機主義である。彼の建築形態は、「アアルト曲線」を代表

として、合理性を超える独特の形態処理を特徴とし、その自由曲線には生物の何かの部分を応用したような生

命感がある。グロピウスやミース・ファン・デル・ローエの機能主義デザインを吸収しつつ、かつそれ以上の非幾

何学的なデザインを追い求めたアアルトは、直方体のヴォリューム群に次第に複雑な変化を与え、また曲線化

する設計方法と取ったが、そこにはある一面でタウトの直観的な設計プロセスに共通するものが見出される14)。

一方における古典主義美学への回帰とともに、タウトは桂離宮の評価において、雁行するなどの変化する構

成形態、数寄屋庭園の多様なエレメントの混成による美学を賞賛した。ここにある古典主義は、他方でロマン

主義を介在させており、その融合の上に成立しているものと見る必要がある。それはかつて19世紀初期にカー

ル・フリードリヒ・シンケルが示したロマン主義かつ古典主義という総合的な建築美学の世界に共通するもので

あり、普遍的な建築論へと昇華してゆくタウトの境地が垣間見られる15)。1930年代のタウトにはそのような深い

思想への回帰が見られる。

2.4. トルコ時代のブルーノ・タウト

2.4.1. 表現主義デザインにおける様式融合

タウトとトルコとの関わりは1910年代に始まる。1916 年の「トルコ・ドイツ友好会館」コンペは著名なドイツ人建

築家が多数参加したことで知られるが、タウトは独自の観点からトルコの建築様式を組み入れつつ、表現主義

的な建築デザインを行っている。その三次元CG再表現のための形態分析の過程から、ドーム空間、中庭を包

む閉じられた壁体などにトルコ・イスラム文化が見出され、かつアール・ヌーヴォー的な要素も含みつつ統合的

な表現主義デザインが試みられていたことが了解された16)。

そこには19世紀後期における折衷主義の影が落ちていると考えられる。すなわち、折衷主義においてはヨー

ロッパの各様式の選択から混合へという流れがあり、さらに世界の様式を組み入れる手法が開拓されていた。

その延長上に様式の自由な融合と有機的な統合が図られたアール・ヌーヴォーが生まれ、さらにその延長上

により自由な造形を主張するドイツ表現主義が成立した。しかし、折衷主義、アール・ヌーヴォー、表現主義は

次第に変化するのであり、それぞれ純粋で明快な原理を宿していたとは言い難いため、これらは表現主義にお

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いて渾然一体となる。タウトの表現主義もまた、自由な造形の中に多様な要素が混じり合い、一定の原理のみ

に依存するものとは言えない。

それから30年以上過ぎた1930年代末期のタウトのトルコでの建築作品は、これとはかなりの違いがある。も

ちろん1910年代のアール・ヌーヴォーから表現主義への過渡期の作品と、機能主義を超えてきた時代の作品

には、建築形態観において大きな差があった。装飾的な要素は大きく削減され、建築の輪郭はより自由となり、

また空間的なデザイン手法、機能的なつながりなど、この間の建築界が学び取ったデザイン理論が加味されて

いた。しかし、それにしてもタウトの作品は時代を席巻していた機能主義、インターナショナル・スタイルの単純

で明快な合理主義とは明らかに異なる。時流に比べれば、タウトの作品は一時代前の要素が多く、古典主義、

伝統主義の色合いが濃く、ナチス建築ほどではないものの一見、保守的だった。その点は、しばしばタウトの時

代錯誤性と切り捨てられてしまう一面であるが、今日の目で見ればこのような早計な評価は正しくないように思

われる17)。

2.4.2. 折衷主義から混成的なデザイン方法へ

タウトは土地の伝統に敬意を示し、トルコという場に固有のデザインを開拓することを試みた。そのことが保守

化したように見られたわけだが、実はブリコラージュとも言うべき巧みなデザイン操作を行って、タウトは自由で

新しい建築形態を模索していた。

アンカラ大学文学部においては、ビザンチン時代以来の、煉瓦の壁体に薄い石積みの層を挟んで縞模様と

する工法をモチーフとして、それをタイルで表現する。それは折衷主義をより自由なデザイン・モチーフに変換

したものである。建築物の全体には崩しを加えながらもシンメトリーを用い、また三層構成となしてヨーロッパの

古典主義を用いる。そして、平面形にはわずかずつセットバックさせながら、雁行型の非対称としているが、この

方法は、タウト自身が早くから好んだ崩しの手法であるが、そこに桂離宮の雁行構成を連想させるものがある。

玄関隣のロビーには螺旋状の階段手摺りの支柱が見られるが、それはタウトが日本で試みた木工の工芸作品

の系譜上にある。つまり、そこにはヨーロッパ、日本、トルコの多様な要素が混在しているのであり、19世紀の折

衷主義を現代化したデザイン手法があった18)。

イスタンブール・オルタキョイのタウト自邸は現地では日本的であると評価されていると言われ、確かに庇の張

り出し方はトルコ的でも日本的でもある。斜面の森から宙に飛び出し、大きな開口部を広げて海峡の眺望景観

を楽しむ開放的な形態は、地元に例はなく、日本の軽快な木造軸組建築をわずかに連想させる。同じくオルタ

キョイに計画された「ニッセン医師の住宅」案は、かろうじて印刷物で立面図、平面図が知られているだけである

が、この立面図の開放的な構成や屋根のイメージはさらに日本的である。この案については三次元復元を試

み、その際に内部の空間構成を確認できた。その結果、平面形にはトルコ独特の正方形を九分割する構成が

もととなり、これに、タウトが日本で一部関与したとされる大倉邸の大きく雁行する平面形が合成されている。シ

ンメトリーのファサード構成などはヨーロッパ的でもあり、また上階にあって大きく開くベランダ状の吹き放ち空間

を持つトルコ伝統の住宅形式も見られる。ここでもまた多様な要素の混成が見られ、折衷主義を基盤にして個

性的なデザインとしている。

大倉邸でタウトが発明した、外壁の欄間の下に庇を張り出し、太陽光の入射を制御するアイデアは、アンカラ

とトラブゾンの学校建築に大々的に取り入れられており、日本での着想がトルコでも応用されている。このように

日本の伝統とそのタウト独自の解釈は自由に活用されている。タウトのデザイン観がどのようなものか、そのよう

なところに明らかになる。つまり世界各地の伝統的な建築要素から、現代にも活用可能なあらゆるアイデアをデ

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ザイン・メニューとして翻案し、有効な場面にこだわりもなく応用するのである。当然、そこには多様な手法が用

意され、建築物の全体はさまざまの要素が渾然一体となるのである。各要素の意味はタウト自身が経験を通し

て獲得したものであるから、他人にはまねができず、またそのデザインをすべて理解することも他人にはかなわ

ない。それは多様なデザイン手法を駆使しつつ複合化し、その場の自然や伝統にしなやかに対応させつつ生

き生きとした生命感のある建築像を生み出すという意味で、有機的なデザイン方法のひとつと言える。

2.5. ミース・ファン・デル・ローエの1930年代

2.5.1 「コートハウス」

1920年代にフリードリヒ通り駅前高層建築(1919 年)、またコンクリート造住宅案(1923 年)、煉瓦造住宅案

(1924 年)の理想建築案で表現主義、構成主義のデザイン手法を用いて大胆な建築イメージを提示したミー

ス・ファン・デル・ローエは、バルセロナ万博ドイツ館(1928-29 年)においてワンルームのガラス箱という新しい次

元を開拓したことで知られる。一転して1930年代はナチスの台頭とともに自由で実験的な展開を止められるこ

ととなった。

1930 年よりバウハウス校長に任命された彼は、デッサウ・バウハウスの閉校(1932 年)、そして苦境のもとでの

私的なベルリン・バウハウスの開校、閉校(1932-33 年)、というような不遇を体験する。バウハウスにおける建築

教育は、後に「コートハウス」として知られる新しい建築類型に特徴を示した。そこでは四周を煉瓦壁で閉じられ

た空間にいかに自由で開放的な居住空間を実現するかがテーマだった。今回の研究においてバウハウス資料

館に残された学生の答案である課題図面を閲覧したが、そこにはミースの考え方をもとに実験した学生たちの

アイデアが見られる。バウハウスにはルートヴィヒ・ヒルベルザイマーの都市デザイン教育がなされていて、ミース

の建築レベルでの教育と連動していたが、ヒルベルザイマーの大きなスケールでのグリッド・プランと、壁で矩形

に囲われた内部空間との組み合わせは、都市・建築空間をひとつの理念に統合するものとなっていた。したが

ってそこにはモダニズムの空間意識がある空間類型として結晶していたと言うこともできるわけだが、それにして

もミースにおいては1930年代に特徴的な、造形上のある転機が訪れていたと言うことができる19)。

ミース自身にとって「コートハウス」のアイデアが生まれた背景は、マグデブルク市におけるフッベ邸の設計

(1934-35 年)であった。今回の調査でその敷地を確認したが、その敷地はエルベ川の中州にあって、樹木に

囲まれ、かつ水流を眺められる斜面にあって、大きな敷地を持つ高級住宅地だった。設計の過程でこの土地

の一部をミニ開発風に分割して複数の小住宅をつくる案に変更される。そこで必然的に各敷地を壁で分割し、

アプローチの路地を引き込みつつ、空間を最大限に活用した庭付き住宅の解法が生まれる。これが「コートハ

ウス」と呼ばれることとなるわけだが、ミース自身の方法論的な発展過程からすれば、それは煉瓦造住宅等で試

された構成主義的な開放されるインテリア空間の手法に、無限遠までの開放ではなく、敷地境界壁という限界

が設定されたことを意味する。そこに単純な箱としての居住空間が提示されたわけである。

他方でミースはブリュッセル万博ドイツ館の設計案(1934 年)において境界壁で囲われる空間を提示している。

ナチスのもとでの公的な施設の設計案であり、シンメトリーのファサードや全体構成を余儀なくされたと思われ、

ミースは閉鎖空間の手法を確立してゆく。象徴的に解釈すれば、自由に開放された社会がすべてをさらけ出し

てしまうため、敵性集団にすべてを見透かされて脅かされるのを嫌って、壁でプライバシーを護らざるを得なくな

ったかのようである。そこに開放性から閉鎖性へという空間理念の逆転が起こっているように思われる。

2.5.2 アメリカ時代移行期における箱形の展開

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そのような転換はミースがアメリカに移住することに関連して独特の意味を持ってくる。1940年代のジョセフ・

カンター邸の設計案(1946-47 年)には、シンメトリーと「コートハウス」型の閉空間が見られる。内部空間におけ

る多様なエレメントの配置や造り付けにおいては開空間の自由が確保されているが、全体的には硬直したかの

ような秩序感が色濃くなる。これと同時期の有名なファンズワース邸(1945-50 年)は完全に開放されたガラス箱

であり、バルセロナ館の復活として評価されるが、閉鎖する壁を設けなかったことで居住に問題を残すこととなり、

屈折した歴史を形づくるに至る。

ドイツ時代とアメリカ時代の過渡期、移住直前にアメリカのワイオミング州ジャクソン・ホールに設計されたレザ

ー邸(1937-43 年)は、このようなミースの転換を考える際に特異な意味を持つ。既存の小建築物と小川を渡る

橋の橋脚をもとに設計された住宅は、モノリシックな直方体の箱形となった。しかし、ここでは中央部の壁面が

開放的なガラスとされたのに対し、両端部は木材で閉じられ、全体にはそれほど開放的とならなかった。煉瓦を

用いて設計されたクレフェルトのランゲ邸とエスター邸(1927-30 年)、またレムケ邸(1932-33 年)などの設計で、

住宅である以上はある程度の閉鎖性が必要であることをミースも知っていたはずである。レザー邸で注目される

のが、バルセロナ館ではなお地面から立ち上がる建築物であったものが、川を跨ぐ建築物であったことも背景と

なり、宙に浮く箱形に転じたことである20)。この延長上にファンズワース邸の宙に浮くガラス箱形が登場する。

こういった自律する箱形は周辺の庭園デザインなどとは関わりを持たず、孤立する空間となる。それはあたか

も「コートハウス」の周壁が周辺環境から孤立する空間をつくり出すのと似て、より小さく、箱形建築として孤立す

る。このような自閉性が1930年代の防御的空間の経験から派生したのではないかと推論できるのではないか。

確かにガラスは透明であり、視線は開放されるわけだが、平面形の形式だけをみれば、それは自閉的である。

そしてこの転換はミースのその後に大きな意味を持つこととなる。

ファンズワース邸を増幅させた形のシーグラム・ビル(1954-58 年)がギリシャ神殿建築に比べられることがある

が、この鉄骨とガラスでできた超高層の建築物は確かに自律的で純粋な形式秩序を持つ高度の古典主義的

な完成度を有する。レザー邸を媒介にして、ミースは古典主義への傾斜を強めたと言ってよいように思われる。

それはナチスのもとでのブリュッセル万博ドイツ館設計案での古典主義的な秩序にまで遡ることができるとすれ

ば、ミースにとっての1930年代は、自由なデザインを追及したモダニズム段階から自閉的で自己完結的な形

式美を追及する古典主義的なデザインへという変化を意味したと言うことができる。

2.6. ドイツ人建築家の1930年代問題

2.6.1. 他のドイツ人建築家の1930年代

モダニズムをになったドイツ人建築家たちは、前衛的、抽象主義的、国際的であり、その急進的な活動と成

果の展開は、残念ながら国民の多くが納得してついて行くには速すぎる展開を遂げてしまった。そこに保守勢

力が入り込んで彼らを国民から切り離してしまう。伝統を破壊し、民族性を逸脱し、抽象的な形式の遊びに終

始しているとして、彼らは「ユダヤ的」ともされ、愛国主義的な煽動が渦巻く中で、国外への脱出を余儀なくされ

た。表現主義のフーゴー・ヘーリンク、ハンス・シャロウンらはインターナショナル・スタイルとはやや一線を画し、

またそれほど社会的に目立たなかったこともあって国内に留まることができたが、建築家としての仕事がなくなる。

代わってモダニズムを敵視していた保守的な建築家たちが表舞台に登場する。ヒトラーの側近の建築家となる

アルバート・シュペーアのような、モダニズム批判世代が新しく登場し、ドイツの建築界には古典主義、伝統主

義、そして権威主義の超越的なデザインが跋扈する。

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そしてブルーノ・タウトはロシアから日本、トルコへ、ヴァルター・グロピウスはイギリスを経てアメリカへ、ミース・

ファン・デル・ローエはアメリカへ、またユダヤ系のエリッヒ・メンデルゾーンはイスラエルを経てアメリカへと逃れて

行く。ロシアに渡ったエルンスト・マイはその後、アフリカのタンガニーカ、ケニヤへ、ハンネス・マイアーはメキシ

コへと、散り散りとなる。その活動は様々であるが、逃走ではあったものの、1920年代におけるドイツの機能主

義を世界に伝播させるという現象をもたらした。そのような中で、やはりタウトの反インターナショナル・スタイルの

言動は特異であったと言うことができる。

複雑な現象を示した1930年代は、その悲劇性が強調され勝ちであるが、そこには多面的な問題が見られ、

またそこから次の時代への展開の芽が見られるように思われる。それは20世紀後半を通じて取り組まれる大き

な問題でもあったと思われ、1930年代問題というひとつのテーマとなる。

2.6.2. 機能主義、インターナショナル・スタイルの問題

1920年代におけるグロピウス、ミース、ハンネス・マイアー、またエルンスト・マイに代表される機能主義、イン

ターナショナル・スタイルの成果は、ル・コルビュジエを含む西ヨーロッパから東ヨーロッパまで広がる各国の建

築家たちの活動とも相俟って、人類史的な成果を生んだことは確かである。しかし、それは1930年代に大きな

危機に遭遇し、批判された。そこでは普遍的形式が必ずしも社会において有効となるわけではないことが示さ

れることとなった。タウトはそれを批判し続けたわけであり、モダニズムに内側からの批判もあったことは忘れては

ならない点である。後に社会学者のハバーマスが論じたように、モダニズムとはプロセスであり、つねに批判の

目で眺められ、決して絶対的に普遍なものでないことを認識しておく必要がある。

機能主義それ自体も、実は1920年代中に微妙な変化を起こしていた。19世紀末のルイス・サリヴァンやオッ

トー・ヴァグナー、20世紀初期のアドルフ・ロースらによって次第に機能主義の理論が確立されて行った後、19

20年代に集中的な議論がなされ、1933 年のル・コルビュジエを中心に作成された「アテネ憲章」において機能

主義理論は大成された、というのが主たる潮流である。しかし、ドイツではグロピウスの冷静な科学的機能主義

からハンネス・マイアーの急進的機能主義への転換が見られ、また機能主義の表現主義的な解釈から有機主

義へと展開するヘーリンクがいた。北欧ではアルヴァ・アアルトが機能主義を独特の有機主義に転換して行く。

機能主義は近代建築第二世代とされるチームXにおいて新しい段階へと展開することになり、さらにアーキグラ

ム等の1960年代におけるロボット機械的建築論においてさらにステージを上げて行く。そして機能主義批判

がポスト・モダン期にさかんになされるようになり、影を薄くする。

ミースの1930年代問題において見られる重要なポイントは、機能主義あるいはそれを包括する近代合理主

義が、材料、構造を一新した新しい古典主義に移行し始めることである。すなわち機能主義の内的な進化が続

く一方で、近代建築第一世代は絶対的建築を求めつつ、超越的で神秘的でさえある形式合理主義に籠もっ

て行く。確かにそれもまた反対勢力に踏みにじられるのを逃れる手段でもあった。ミースは1980年代のミリマリ

ズムにおいて復活したと見られてもいるが、それが可能だったのはこのようないわば籠城のおかげだったとも言

えよう。

2.6.3. アイデンティティ問題と有機主義

1930年代は世界的にファシズムが勢いを得た時代だったが、そこには国境を越えてグローバルな構造に移

行する時代に、民族のアイデンティティを護ろうとする勢力が抵抗するという構図があった。ドイツではナチスが

台頭してモダニズムを排斥し、伝統主義を奉じ、民族主義を鼓舞した。そしてそこに中世都市イメージのジード

ルンクと古代ローマ帝国時代のようなモニュメンタルな都市像が提示された。イタリアにおいてはファシズムはむ

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しろモダニズムと結びつき、伝統的な共同体社会を未来派的な機械崇拝者たちが国力増進の名の下に破壊

して行った。そこには形而上絵画のような古代風、ルネサンス風の超越的な建築スタイルが生まれた。また日本

においては帝冠様式と超越的、権威主義的なデザインが生まれた。ファシズムそのものとは一線を画していた

が、スターリン下のソ連は19世紀的な折衷主義を復活させて近代派を押さえ、類似の現象を示した。アメリカ、

西欧においてもアール・デコに整理されているものの、反機能主義と言える装飾的建築スタイルが普及する。

それは勝利する科学的、普遍的、したがって国際的なモダニズムに対する、それぞれの国の事情に応じた拒

絶反応の生理現象のようなものだった。それは総括的に見て、生活環境が一律の空間システムに改変されて

しまうことに対する無意識の抵抗であり、いかに個人、あるいは共同体社会の固有性を護るかという、いわゆる

アイデンティティ問題という側面がそこにあったと言える。

北欧での有機主義の成功はこのアイデンティティ問題へのひとつの解答であったと考えられる。タウトはアア

ルトよりは年長の世代として、機能主義以前、すなわち折衷主義、アール・ヌーヴォーを知っていただけに、同

じアイデンティティ問題にやや古い手法で取り組もうとしたと言える。すなわち伝統の保全、民族的個性の保全

であり、また古典主義の再生、伝統主義の活性化などを通してである。彼はそれを、表現主義を基盤にして混

成系のデザインに昇華させようとした。1930年代のタウトの特異で個性的な活動は、そのように見れば確かに

幅広いモダニズムの流れのひとつの道だったと言える。

有機主義という訳語の原語「オーガニック」とは、人間の内臓器官(オーガン)のように、高度の機能的機械装

置であり、かつ自らの修復能力を持つ生命体組織のようであることを意味している。その概念は特に曲面による

臓器風の建築デザインを得意としたヘーリンクが探求したところであるが、後に1960年頃にはアーキグラムな

どの提案する未来機械へと発展する。より植物的な有機主義は北欧のアアルトなどに現れる。それに比べれば

タウトの試みは様式の混成の域を出ていないように見えるけれども、タウトの表現主義的建築イメージのスケッ

チには、まるで生命体のような成長する建築像が多く見られた。そしてそれはベルリンの大ジードルンクにもそ

の名残があり、また1930年代の生駒山上のジードルンク案にも垣間見られる。タウトの1930年代作品を古典

主義の復活、歴史的様式の混成とだけ見るべきではなく、そこに独自の有機主義があることに注目すべきであ

る。そのように見れば、タウトを含めて1930年代には独特の有機主義の傾向がヨーロッパに広がっていたという

ことができ、一見保守的な伝統主義、自然主義から、先端的な機能主義までを包括する、広義の有機主義の

流れがそこにあったと理解してよいと思われる。

2.7. 残された問題

本研究の一応の成果は、近代建築史においてほとんど明快な解釈を得ていない1930年代が、実は建築の

理念に関わる大きな問題を含んでいたことの一端を引き出すことができたと思われる点にある。特にブルーノ・

タウトの建築デザインの方法論として、混成的な有機主義が生まれていたことを提示できたことは、モダニズム

の広がりをどのように解釈すべきかという点でひとつの示唆を与えるものとなったと思われる。

ポスト・モダン期においてはモダニズムの厳しい批判を経て、20世紀後期から21世紀初頭にかけての建築デ

ザインには、一方における急速に発達し続ける情報技術の導入、他方における地球環境保全とエコロジーの

傾向が顕著である。このような近代化と保守化の二元的な構図は実は1930年代において出現したものと同じ

ものである。そのような意味で、現代の建築デザインを考える上でも1930年代論はさらに深めるべきテーマで

あると言える。

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ミースにおける近代建築の古典主義化は、今日のスイスや日本におけるミニマリズムにある程度の影響を見る

ことができる。またタウトの様式混成型の有機主義は伝統建築、土着建築を再評価しつつ地球環境問題に取り

組むエコロジー建築にその流れの一端をみることができる。これらはたまたま似た現象が時代を超えて現れ出

たというだけのものではなく、そこに古典主義観の変遷、また有機主義観の変遷のあるパターンが隠れているよ

うに思われる。1910-20年代のモダン・ムーヴメント期はいわば理性の革命の時代、1930年代はその反動と

してのロマン主義的な修復の時代と理解すれば、そこに変革期独特の変動パターンが見てとれる。人類史の

上ではそのような変革の時代を超えてゆるやかに流れる大きな時代の潮流があると言える。モダニズムの一定

時期における変革の成果を賞揚するだけではすべてを見たことにならず、より大きなタームで時代の変化を捉

えるべきところである。端的に言えば、有機主義についても19世紀初期のロマン主義の時代に現れ、ゆっくりと

流れつつ、19世紀末期のアール・ヌーヴォー期、また1930年代にも隆盛期があった。有機主義にも独自の系

譜と進化の過程が見えるように思われる。

現代のエコロジー型の有機主義において、各土地において伝統建築の要素が再評価されているのを見るに

つけ、その有機主義のグローバルな広がりも併せて注目したい。現代世界においては資本主義的グローバリズ

ムが大きな力を得、世界的なネットワーク・システムを構築しているとされる。その合理主義は他方でアイデンテ

ィティ問題を世界各地で発生させ、アンチ・グローバリズムのプロテストを引き起こしている。とりわけアメリカ的グ

ローバリズムに対するイスラムの伝統的宗教共同体の抵抗は顕著な世界的現象である。そこには世界規模で

の1930年代問題が現れているようにも思える。そこに建築デザイン上での歴史的経験がなんらかの示唆を与

えるのではないかという予感がある。それについて考えるのは本研究の範囲を越えているが、その議論の材料

を幾分か提供していると考えている。

本研究は本研究者のこれまでの研究をベースに、新しいテーマを立てて行ったものであり、研究の過程で多

面的な個別テーマを見出した。その個々の全体について論じるには多くの紙面と執筆時間を必要とするため、

本報告書ではその主な着目点を概説するに止めざるを得ない。また、上記の文章は多くの資料、文献を背景

にして記述しているが、そのすべての資料、文献を列挙するべきところ、また個々に註釈し詳細に論証すべきと

ころであるが、その余裕もないことをお断りしておく。今後、いくつかの個別テーマについては詳細な整理を行

って論文発表する予定である。

1) これまでに、以下の復刻書籍を収集している。

Brigit Schulte, “Auf dem Weg zu einer handgreiflichen Utopie, Die Folkwang-Projekte von Bruno Taut und Karl

Ernst Osthaus“, Neuer Folkwang Verlag, Hagen, 1994.

Bruno Taut, “Ein Wohnhaus“, Franck’sche Verlagshandlung, Stuttgart, 1927 (Mit einem Nachwort zur

Neuausgabe von Roland Jaeger, Gebr. Mann Verlag, Berlin, 1995)

Bruno Taut, “Der Weltbaumeister : Architektur-Schauspiel für symphonische Musik”, Folkwang Verlag, Hagen,

1920 (Neuausgabe von Manfred Speidel Berlin, Gebr. Mann Verlag, 1999)

Bruno Taut(Hrsg.), “Frühlicht”, Karl Peters Verlag, Magdeburg, H.1-4., 1921-22 (Gebr. Mann Verlag, Berlin,

2000)

Manfred Speidel, Karl Kegler, Peter Ritterbach, Peter, “Wege zu einer neuen Baukunst : Bruno Taut, Frühlicht :

Konzeptkritik Hefte 1-4, 1921-22 und Rekonstruktion Heft 5, 1922“, Gebr. Mann Verlag, Berlin, 2000.

Bruno Taut, “ Das japanische Haus und sein Leben : Houses and people of Japan”, (3. Aufl., hrsg.von Manfred

Speidel., Berlin, Gebr. Mann, 2000.)

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Bruno Taut, “Die neue Wohnung : Die Frau als Schöpferin“, 5. erw. Aufl, Leipzig Klinkhardt & Biermann, 1928,

(1924) (Mit einem Nachwort zur Neuausgabe von Manfred Speidel, Gebr. Mann Verlag, Berlin, 2001)

Bruno Taut, “Die Stadtkrone”, Eugen Diederichs, Jena, 1919(Mit einem Nachwort zur Neuausgabe von Manfred

Speidel, Gebr. Mann Verlag, Berlin, ,2002)

Bruno Taut, “Alpine Architektur”, Hagen i.W., 1919 (Neuausgabe von Matthias Schirren(hrsg.) München etc.,

2004)

2) Bernd Nicolai(Hrsg.), “Architektur und Exil – Kulturtransfer und architektonische Emigration von 1930 bis 1950“,

Trier, 2003. Bernd Nicolai, “Moderne und Exil – Deutschsprachige Architekten in der Türkei1925-1955“, Berlin

1998.

3) 近年におけるヨーロッパ全般の1930年代建築の見直しについては、例えば以下の文献を参照した。

Franco Borsi, “The monumental era : European architecture and design, 1929-1939”, London, 1987.

Anders Åman, “Architecture and ideology in Eastern Europe during the Stalin era : an aspect of Cold War

history”, New York, Cambridge, Mass., 1992 (original: “Arkitektur och ideologi i stalintidens Östeuropa”, 1987.)

Peter Noever(Hrsg.), “Tyranei des Schönen – Architektur der Stalin-Zeit”, München, New York, 1994.

Riccardo Mariani, “E 42 : un progetto per 《l'Ordine Nuovo》”, Milano, 1987.

David Dean,“Architecture of 1930s, Recalling the English Scene”, New York, 1983.

Georg Krawietz, “Peter Behrens im dritten Reich”, Weimar, 1995.

Reto Niggl, “Eckart Muthesius 1930 : der Palast des Maharadschas in Indore : Architectur und Interieur”,

Stuttgart, 1996.

4) タウトについては、多数の文献を参照したがここでは以下の文献を特に挙げておく。 Akademie der Künste, “Bruno

Taut 1880-1938”, Berlin, 1980. マンフレッド・シュパイデル編著:『ブルーノ・タウト 1880-1938』、セゾン美術館、1994

年。 Kurt Junghanns: "Bruno Taut, 1880-1938 : Architektur und sozialer Gedanke", 3. Aufl., Leipzig, 1998.

Winfried Nerdinger, Kristiana Hartmann, Matthias Schirren, Manfred Speidel(hrsg.), "Bruno Taut, 1880-1938 :

Architekt zwischen Tradition und Avantgarde", Stuttgart etc., 2001.

5) Barbara Kreis, ‘Bruno Tauts Verhältnis zum Bauen in der Sowjetunion und seine Tätigkeit in Moskau, in: Akademie

der Künste, op.cit., pp.104-119. Barbara Kreis, ‘》Geschmacksfragen sind soziale Fragen - Vom Sozialismus des

Künstlers zur sozialistischen Realität《, in: Nerdinger, Hartmann, Schirren, Speidel(hrsg.), op.cit., pp.156-172.

6) ベルリン芸術アカデミー建築部門所蔵、ブルーノ・タウト・コレクション、ロシア滞在時の日記。

7) 第3章(1)

8) 文献リストは、以下に詳しいものがある。マンフレッド・シュパイデル編著:前掲書。

9) Bruno Taut, “Die Bebauung des Ikomaberges, Sendai, Dezember 1933“, in: Bruno Taut, “Ich Liebe die Japanische

Kultur, Kleine Schriften über Japan”, hrsg von Manfred Speidel, Berlin, 2003, pp.159-163.(原文は岩波書店所蔵)

10) 第3章(2)

11) ブルーノ・タウト著,篠田英雄訳,『建築芸術論』,岩波書店,昭和 37 年(初版:昭和 23 年)。Tilman Heinisch und Goerd

Peschken (Hrsg.), Bruno Taut: “Architekturlehre”, Hamburg, 1977. トルコで 1936~37 年に書き下ろし、トルコ語訳=

Bruno Taut, “Mimari Bilgisi”, Istanbul, 1938. そもそも 1935~36 年に日本で書かれた『建築に関する省察』

“Architekturüberlegungen” が 元 とな る。 和 訳 所 収 : タウ ト 著 , 篠 田 英 雄 訳 『 建 築 とは 何 か』 ,鹿 島 出 版 会 ,1974,

pp.9-182。

12) 第3章(3)

13) 参照=杉本俊多、金堀一郎:「ブルーノ・タウトのジードルンク造形観の変遷 -1930 年代の著作をもとにした考察-」、

『日本建築学会計画系論文集』、第 577 号, 203-208 頁, 2004 年 3 月。

14) アアルトの有機主義的なデザインについては、本研究と並行して分析を行った。 小川瑞枝、杉本俊多:「アルヴァ・ア

アルトのヴィラ・マイレアにおける設計過程に関する研究」、『日本建築学会中国支部研究報告集』、第 27 巻、

1017-1020 頁、2004 年 3 月 14 日。 小川瑞枝、杉本俊多「アルヴァ・アアルトのヴィラ・マイレアにおける有機主義的設

計手法について」、『日本建築学会中国支部研究報告集』、第 28 巻、957-960 頁、2005 年 3 月 6 日。

15) 参照=杉本俊多、『ドイツ新古典主義建築』、中央公論美術出版、1996 年、第四編、第四章「二〇世紀における新古

典主義の継承」427-458 頁。

16) 第3章(4)

17) 参照=Bernd Nicolai: ’Bauen im Exil - Bruno Tauts Architektur und die kemalistische Türkei 1936-1938’, in:

“Bruno Taut“, 2001, pp.192-207. “Thinking for Atatürk. Two works: The Catafalque and Anitkabir Two architects:

Bruno Taut and Emin Onat“, Istanbul, 1998. Sibel Bozdoğan: “Modernism and Nation-Building: Turkish

Architectural Culture in the Early Republic”, Washington D.C., 2001. Sibel Bozdoğan & Resat Kaşaba(ed.):

“Rethinking Modernity and National Identity in Turkey”, Seattle & London, 1997.

18) 第3章(5)

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19) 参照=Bauhaus-Archiv Berlin, “bauhaus berlin – Auflösung Dessau 1932, Schließung Berlin 1933, Bauhäusler und

Drittes Reich”, Berlin, 1985. Bauhaus-Archiv Berlin, Museum für Gestaltung(Hrsg.), “Mehr als der blosse Zweck –

Mies van der Rohe am Bauhaus 1930-1933“, Berlin, 2001. Elaine S. Hochman, “Mies van der Rohe and the Third

Reich“, New York, 1989.

20) 第3章(6) 詳細な形態分析において、以下を用いた。Franz Schulze, “Mies van der Rohe Archive, volume Seven”,

New York and London, 1992, pp.1-375. 近年の研究文献として、特に以下を参照した。 Terence Riley, Barry

Bergdoll(ed.), "Mies in Berlin", New York, 2001. Phyllis Lambert(ed.), "Mies in America", New York, 2001.