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115 女性一人称による叙述の試みとその意義 ──モラヴィアとパヴェーゼの場合 柴田 瑞枝 . はじめに アルベルトモラヴィアとチェーザレパヴェーゼどちらも 20 世紀イタリアを名実ともに 代表する作家でありながらその人物像にせよ作品にせよ両者は多くの点であまりにも対照的 であるモラヴィアは 1907 11 月の生まれでパヴェーゼは約 1 年後の 1908 9 月生まれ前者はロー マに後者はトリノに近いサントステファノベルボにほぼ同じ歴史的年代に生を受けたこと になるしかしながら1990 年までのモラヴィアの 83 年間に渡る比較的長い生涯が生きたいと いう願望に満ち 1 多少の浮き沈みはあるにせよ生の活力にみなぎっているのに対しパヴェーゼ のそれには彼の没後に出版された Il mestiere di vivere (『日記』)小論で扱う彼のいくつかの作 品からも垣間見られるように常に死の影が色濃くまとわりついているモラヴィアが死の直前ま で小説 La donna leopardo(『豹女』)を執筆していたことや1990 9 26 日の朝自宅の浴室で倒 れてそのままこの世を去ることになったまさにその日もかつてモラヴィアのよき伴侶であったマ ライーニに別荘のあるサバウディアまで送ってもらう約束をしていたという話はよく知られてい 80 を過ぎても死の気配はまったく感じない」(Moravia/Elkann 1990: 284と話していた気丈 なモラヴィアらしい最期であったわけであるがこの点も1950 年のトリノのホテルにおけるパ ヴェーゼの自殺という事態と照らし合わせるとそこに両者の人物像の対照性が自ずと浮かび上 がってくるとともに生に対するスタンスやその長短その終焉の在り様がそれぞれの作品を含 む作家の全体的総括にとってどこか象徴的規定的に受け取られがちである無論長く生きて精力的に多くの作品を発表したモラヴィアが陽苦悶の末41 年の短い生 涯を自ら閉じることを選んだパヴェーゼが陰と単純な二分法によって両作家を裁断することは小 論の潔しとするところではない第一パヴェーゼの作品が取り上げられる際に彼の自殺に言及 されないことはごく稀だとはいえ他方モラヴィアが自殺というモチーフとは無縁のしごく楽観 的な作家だったかといえばそうではない1982 年に刊行された1934 という長編小説では絶望のなかに生きていながら死にたくないと思うことは可能かというテーマを深く掘り下げ ており作家自身が当時私生活で伴侶との離別に苦しみ自殺を考えたことそしてそれが作品に 反映されていることを、『モラヴィア自伝のなかで明らかにしているMoravia/Elkann 1990: 271)。 とはいえ1907 年から 90 年までのほぼ 1 世紀を生きたモラヴィアと1908 年から 50 年までの 1 少年期から骨髄カリエスを患い長い闘病生活を強いられたモラヴィアは生きることへの強い執念を持っていたと本 人が自ら明かしている

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「女性一人称」による叙述の試みとその意義 ──モラヴィアとパヴェーゼの場合

「女性一人称」による叙述の試みとその意義 ──モラヴィアとパヴェーゼの場合

柴田 瑞枝

1. はじめに

アルベルト・モラヴィアとチェーザレ・パヴェーゼ─どちらも 20世紀イタリアを名実ともに代表する作家でありながら、その人物像にせよ、作品にせよ、両者は多くの点であまりにも対照的である。モラヴィアは 1907年 11月の生まれで、パヴェーゼは約 1年後の 1908年 9月生まれ、前者はロー

マに、後者はトリノに近いサント・ステファノ・ベルボに、ほぼ同じ歴史的年代に生を受けたことになる。しかしながら、1990年までのモラヴィアの 83年間に渡る比較的長い生涯が、生きたいという願望に満ち 1、多少の浮き沈みはあるにせよ生の活力にみなぎっているのに対し、パヴェーゼのそれには、彼の没後に出版された Il mestiere di vivere (『日記』)や、小論で扱う彼のいくつかの作品からも垣間見られるように、常に死の影が色濃くまとわりついている。モラヴィアが死の直前まで小説 La donna leopardo(『豹女』)を執筆していたことや、1990年 9月 26日の朝、自宅の浴室で倒れてそのままこの世を去ることになったまさにその日も、かつてモラヴィアのよき伴侶であったマライーニに、別荘のあるサバウディアまで送ってもらう約束をしていたという話はよく知られている。齢 80を過ぎても「死の気配はまったく感じない」(Moravia/Elkann 1990: 284)と話していた気丈なモラヴィアらしい最期であったわけであるが、この点も、1950年のトリノのホテルにおけるパヴェーゼの自殺という事態と照らし合わせると、そこに両者の人物像の対照性が自ずと浮かび上がってくるとともに、生に対するスタンスやその長短、その終焉の在り様が、それぞれの作品を含む作家の全体的総括にとってどこか象徴的、規定的に受け取られがちである。無論、長く生きて、精力的に多くの作品を発表したモラヴィアが陽、苦悶の末、41年の短い生涯を自ら閉じることを選んだパヴェーゼが陰、と単純な二分法によって両作家を裁断することは小論の潔しとするところではない。第一、パヴェーゼの作品が取り上げられる際に、彼の自殺に言及されないことはごく稀だとはいえ、他方、モラヴィアが自殺というモチーフとは無縁のしごく楽観的な作家だったかといえば、そうではない。1982年に刊行された『1934年』という長編小説では、「絶望のなかに生きていながら、死にたくないと思うことは可能か」というテーマを深く掘り下げており、作家自身が当時私生活で伴侶との離別に苦しみ、自殺を考えたこと、そしてそれが作品に反映されていることを、『モラヴィア自伝』のなかで明らかにしている(Moravia/Elkann 1990: 271)。とはいえ、1907年から 90年までのほぼ 1世紀を生きたモラヴィアと、1908年から 50年までの

1 少年期から骨髄カリエスを患い、長い闘病生活を強いられたモラヴィアは、生きることへの強い執念を持っていたと本人が自ら明かしている。

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半世紀に満たない短い生涯を送ったパヴェーゼ、この二人の人生の軌跡を辿ってみると、その違いはやはり歴然としていると言わざるを得ない。たとえば、前者は少年時代から骨髄カリエスという重い病気を患ったせいもあって、正規の教育をほとんど受けずに、ほぼ独学で自らの知見を形成したのに対し、後者はトリノで小学校から大学までのすべての正規教育を経験している。モラヴィアが弱冠 22歳にして小説 Gli indifferenti(『無関心な人々』)で絶大な成功を手にしたのに対し、パヴェーゼは 20代後半の 1936年に Lavorare stanca (『働き疲れて』)で詩人としてデビューしているものの、当時の評価は必ずしも高くなく、華々しい文壇への登場と呼べる類いのものではなかった。彼の処女作が人々の関心を集めるに至るのは、漸く戦後のネオリアリズムの時代以降のことである。モラヴィアと違って、パヴェーゼが小説家としてではなく詩人としてデビューしている点は、両者を比較する上では注目に値するだろう。モラヴィアも詩を愛し、自分で詩を書くこともあったが、自らを小説家と定義することの方を好み、ついに詩作品を発表することはほとんどなかった 2。また、モラヴィアは作品数の豊富さでも知られるが、一方のパヴェーゼは自らの作品の発表に「極

端に禁欲的」で、1940年 2月 23日付けの日記には、シェイクスピアの偉大さは作品の 3分の 2を未発表のまま残して死んだ点にある、との感慨を残している(Pavese 2006: 180)。また、モラヴィアが生涯にエルサ・モランテ、ダーチャ・マライーニ、カルメン・イェーラの 3人の伴侶を得たのに対し、パヴェーゼは生涯独身であった 3。さらに付け加えるならば、モラヴィアが「行動の人」で、アメリカ、アフリカ、日本を含むアジアへと 若いときから旅を繰り返したのに対し、パヴェーゼは「アメリカ神話」を謳った立役者の一人であるにも拘わらず、最後まで合衆国にさえ足を踏み入れることはなかったのである。ここに挙げたわずかの例から推しても、同時代を生きた作家でありながら、両者がおもしろいほ

ど対照的な人物であることは容易に見て取れるであろう。その意味では、私生活も作風も大きく異なる両作家には、一見共通項を見出すことは困難であるように思われる。しかしながら、実は両者には意外な共通点があるのである。その鍵となるのが、「女性一人称」である。なにもイタリア文学に限ったことではないが、小説において男性作家が女性を主人公に据えるこ

とは一般的なことであり、格別珍しいことではないとしても、その主人公に女性一人称で語らせる例─すなわち、「私(女性)は…」という叙述形式が用いられることは、あまり多くない。ところが、モラヴィアとパヴェーゼというこの二人の対照的な作家は、戦後の近似した時期に「私(女性)は…」という女性一人称語りの小説を執筆しているのである。すなわち、La Romana (『ローマの女』 モラヴィア、1947年)と、Tra donne sole (『女だけの間で』 パヴェーゼ、1949年)がそれである。パヴェーゼの『美しい夏』を翻訳した河島英昭氏が、「解説」において「もしイタリア人の若い

女性に『美しい夏』の感想をたずねるならば、必ずや彼女らは答えるだろう。パヴェーゼはなぜこの小説を女が書くように書いたのか。いや、それよりも、どうやって女が書いたように書けたのか、パヴェーゼは男なのに(Pavese 2006: 188)」と疑問を投げかけているが、そのありうべき答えのひとつは(『美しい夏』が、実際にあたかも女性作家の手によるように書かれていると仮定するならば)、パヴェーゼの女性への興味関心の強さと、彼女たちを観察する、厳格なまでに透徹した視線のなか

2 マライーニがインタビューに応えて「アルベルトは詩を怖れていた。詩に畏敬の念のようなものを覚えていて、自作の詩を発表したがらなかった」と語っている(De Ceccatty 2010: 933)。3 パヴェーゼの女性関係は、知られる限りでは、一般に幸福なものだったとは言い難い。

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に見出せるかもしれない。他方、『ローマの女』の他にも、1957年出版の La Ciociara (『チョチャリーアの女』: 邦題『二人の女』)や 70年代に次々と発表された短編集 Il paradiso (『パラダイス』、’70)、Un’altra vita (『もうひとつの生』、 ’73)、Boh (『女性諸君!』 、’76)を始め、女性を主人公に多くの作品を書いたモラヴィアもまた、女性とその有り様の歴史的変遷に、並外れた関心と注意を注いだ作家だと言えよう。したがって小論では、モラヴィアが語りの形式として初めて女性一人称を使用した長編『ローマ

の女』と、同じくパヴェーゼにとっても初の、そして唯一となる女性一人称小説、『女だけの間で』─三部作 La bella estate(『美しい夏』、 1949年)所収─を主に取り上げ、その内容を対象に即して比較分析するとともに、作中に見られる当時の歴史的背景、風俗習慣なども考慮しながら、両作家にとっての女性と、作品のなかの女性像について若干の考察を試みようとするものである。

2. 1. モラヴィア 『ローマの女』

『ローマの女』は、1947年にボンピアーニ社から出版されるやいなや大成功を博し、数十カ国で翻訳がなされ 4、モラヴィアの作家としての名を不動のものにした作品である。その内容をごく簡単に概括するならば、ローマの貧しい家に生まれた美しい娘アドリアーナが、幸せな結婚をして温かい家庭を築きたいというささやかな夢に敗れ、紆余曲折を経て娼婦に身を堕とすが、最終的に様々な不運や不幸をも運命として受け入れる、いわば「現実受容」の物語である。1946年 11月 1日から 1947年 2月 28日までの 4ヶ月間 5に書かれたもので、元来は、執筆から約 10年前の 1936年にモラヴィアが実際に体験したある出来事を、3ページの小編にしようという心づもりから始まったのだという。その出来事というのはこうである。ある晩、モラヴィアがローマのバルベリーニ広場の近くを友

人と歩いていたところ、20歳前後の若い娼婦がひとりでいるのを見かけ、気に入って声をかける。彼女はモラヴィアを自分の住む祖末なアパートへと連れて行き、ふたりはその家で少しの時間をともに過ごすことになるのだが、そこへタオルと水差しを持って部屋に入って来たある年配の女性が、「ねえ、どこでこんなに見事な体を見たことがあるかね」とモラヴィアに向かって当の娼婦を褒めちぎる。後になってモラヴィアは、その娼婦自身から、「さっき部屋へ入ってきた女

性と

、あれは私の母親なのよ」と知らされる。この小さなエピソードが、デフォーの『モル・フランダース』6に触発された経緯もあって、10

年後の 1946年、アドアリアーナの口から語られる、550ページの大作に姿を変えることになるのである。しかし、なぜ、語りの形式に一人称を選ばなくてはいけなかったのか。男性作家であるモ

4 日本では 1951年に初めて文藝春秋社から翻訳が出版されている。これが、日本で翻訳紹介されたモラヴィア作品の第一号となる。5 『モラヴィア自伝』による(Moravia/Elkann 1990: 160)。シモーネ・カジーニ編集の注釈には、第 1稿は 1945年 11月から 1946年 2月に執筆されたとある(Moravia 2002: 1896)。6 モラヴィアは『ローマの女』がデフォーの『モル・フランダース』からインスピレーションを受けているとしているが、偶然にもこの作品をイタリアで翻訳紹介したのはパヴェーゼであった(1938年)。

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ラヴィアにとって、三人称でアドリアーナの人生の顛末を語る方が、はるかに容易ではなかったのだろうか。それまで三人称でしか小説を書いたことのなかったモラヴィアが、なぜ一人称を用いることにしたのか、とのヴァルテル・マウロの問いに対して、作家自身は次のように答えている。

(デビュー作『無関心な人々』に続く 2つ目の長篇『潰えた野心』を書いた際の)危機によって、私は 5年もの歳月を浪費した。「浪費した」と言うのは、私がこの作品に満足していないからだ。作品は機能していなかった、つまり、三人称が機能していなかったのだ。あの頃、私は短い三人称小説をもう何作か書いた。すなわち『アゴスティーノ』、『反抗 7』、『仮面舞踏会』のことだが、それは結果的に、もはや私が三人称では書けなくなったことを理解するために書いたようなものだった。それで、『ローマの女』では一人称を採用したのだ(Moravia 1987: 61)。

このインタビューからは、モラヴィアがつとに三人称による小説執筆の限界に遭遇し、長い歳月を苦闘に費やし、そこからのいわば脱却策として、一人称による文体を編み出すに至るまでの、作家の苦悩が伝わってくる。文体の変化はモラヴィアにとって、自らの陥ったジレンマから脱出するための必然的な成り行きだったのである。では、この作家にとって、三人称に比べて一人称を用いることのメリットとは何であったのか、彼自身の見解はこうである。

一人称は、小説に無限の幅と奥行きを与えてくれる一つの手段です。三人称の人物に、彼の行動の枠を越える多くのことを語らせること、特に、それを作者が過剰に介入してくる印象を与えることなしに行うことが、非常に難しく、いずれにしてもわざとらしく、しばしば退屈なのに対して、一人称の人物が、省察したり、推理したりするのはとても容易で、まったく正当なことです。三人称は対象の直接的で劇的な描写しか与えてくれません。それにひきかえ一人称は、対象を分析し、分解し、場合によっては対象をなしですますことすら可能にします(Moravia 1964: 291)。

加えて、昨今、総じて、三人称に替わって一人称を用いた小説が増加していることに関しては、「三人称は、作者と読者の両者が、客観的な表現やモノの存在の信憑性を共有していることを前提としていたのであって、現実との関係が危機に陥り、現実そのものがあやふやで、不確かなものになった瞬間、三人称はただの慣習になってしまう」のだと主張する。19世紀に「彼は思った」と言うのを可能にしていた慣習は、客観的な現実の存在を信じさせる価値尺度の上に成り立っていたため、一旦この価値尺度が崩壊すると、「彼は思った」というのは空っぽで根拠の無い慣習に過ぎなくなってしまう。したがって、「私は思った」という必要が出てくる。そしてそれは、今日の現実の概念、つまり、「存在するかどうかがあやしく、いずれにせよひとりひとりの人間にとってのみ存在し、別の現実から影響を受けることのないような現実の概念」にぴったり合致するのだという(Moravia

1964: 290-291)。ここに、モラヴィアが一人称こそ現代の曖昧な「現実」を描写するのに最もふさわしい語りのメ

ソッドだと考えている、実存主義的一面を理解することができる。だが、彼のその後の全作品が、こうした認識の上で一貫して一人称で書かれているのかといえば、必ずしもそうではない。実際に

7 『反抗』の出版は 1948年で『ローマの女』(1947年)よりも後になるが、シモーネ・カジーニの研究によれば、『ローマの女』以前に執筆されていた可能性も考えられるという (Moravia 2002: 1906)。

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は、『ローマの女』より後に書かれた作品には依然として三人称が用いられている場合も少なくない。例えば、1951年の Il conformista(『孤独な青年』) や、1960年の La noia(『倦怠』)を想起するだけでも十分だろう。ただ、モラヴィアが意識的に一人称で描こうとした最初の作品である『ローマの女』は、主人公兼語り手のアドリアーナの内省的な告白が大部分を占める作品である。貧しく、それほど教養もない市井の娘アドリアーナが、どのような視点で世の中を見、考え、どんな心理から春をひさぐ道にはまりこんで行くのかを読者の目に説得的に描くには、おそらく一人称を用いるのがもっとも効果的であっただろう。アドリアーナの貧しい社会的地位や教養の欠如を考慮した際に、彼女の突出した言語運用の水準の高さが、読む者に違和感を覚えさせるとの指摘が何人かの批評家によってなされているが、この点についての考察は別途になされなければならない。さて、『ローマの女』は、モラヴィアの初の一人称小説であると同時に、主人公アドリアーナが

それまでのモラヴィア作品の主な登場人物(例えば『無関心な人々』のミケーレ、少年『アゴスティーノ』)と異なり、貧しい庶民であるという点でも特徴的である。彼女の死んだ父親は鉄道員で、あとに残された母親とアドリアーナは、鉄道員の家族にあてがわれる粗末な宿舎に、母娘二人だけで暮らしている。母親はシャツの仕立てで生計を立てており、アドリアーナもその仕事を手伝っているが、生活は少しも向上しない。母親は自分のみすぼらしい人生を悔やんでおり、娘には同じ貧乏を味わわせたくないという願いから、アドリアーナの美貌を武器に金持ちと結婚させようと夢を膨らませる。アドリアーナを画家の元へ連れて行き、モデルの仕事を紹介するのも、同じ母親である。この母親の執念の入り混じった愛情が、皮肉にも娘を売春の道に引きずり込んでしまう面がなく

もないのだが、アドリアーナは自分でも認めるように、ひどく従順で我慢づよい性格であり、誰かを長いこと、心底恨むことはできない。したがって、自分が身を削って稼いだ金で以前よりいい暮らしをするようになった母親が、怠惰になり、醜く太っても、その心情を察しては、彼女に同情さえ覚える。(「こうして思いをめぐらせている今、私は身も心も母さんそのものになりきっているのでした。こんなふうにむき出しに、本当に母さん自身になりきることができたからこそ、以前のように、いいえ、前よりももっと、母さんを慕う気持ちが強くなったように思えるのでした。」(Moravia

2002: 854))ときに過剰にすら感じられるアドリアーナのこの善良さについて、サングイネーティは、モラヴィ

アが庶民は生まれながらにして「善良な」性質を持つという神話を作り出し、庶民に対峙する中産階級層の腐敗を明確に示そうとしているのだと指摘する(Sanguineti 1977: 94)。モラヴィアの中産階級に対する批判的な姿勢は、それが無意識的なものであれ、意識的なものであれ、1929年刊行の処女作『無関心な人々』以来大きく変化することはなかったと言えよう。しかし、モラヴィア作品において貧しい人々がみな聖人のように崇められ、善良な市民として描かれているかというと、決してそうではない。アドリアーナの母親の金への執着心や、のちに書かれることになる『チョチャリーアの女』=チェジーラの計算高い性格など、ある意味で「人間臭い」側面を描写することも忘れないところが、モラヴィアの鋭利な人間観察の成果であり、この作家の作品の醍醐味のひとつなのである。『ローマの女』において重要視されるべきなのはむしろ、人生をあるがままに受け入れることへの、作家の徹底した肯定的な態度であろう。実際、「受容」することのできるアドリアーナはどんな不幸に見舞われても生き抜く強さを持っているが、それがどうしてもできない愛人のミーノは、対照的に自殺の道を選択することになる。モラヴィア自身が示唆する通り 8、『ローマ

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の女』の真髄が最も凝縮されている、作品の第 2部、第 2章末のアドリアーナの考察を以下に引用して、本項目を締めくくることにする。

それで、数時間だけ不安なときを過ごした後、私は自分の運命らしきものに反して戦うのを諦め、倒すことのできない敵を抱擁するように、むしろ愛を込めてそれを抱きしめました。すると自分が自由になったように感じました。卑しくとも金銭的に有利な境遇 9を受け入れるのは、それを拒否するより安易だと言う人もいるでしょう。でも、私はよく自問したものです。なぜある種の規則に従って生きようとする者や、ある理想に従おうとする者の魂にはしばしば悲しみと怒りが宿っていて、それとは反対に、自らの人生を受け入れる、俗人や名も無い者、弱い者は、たいてい陽気で無邪気なのかと。とはいえ、こうした場合には、各々が規則ではなく、自分の性質に従うのであって、それがやがてただひとつの運命を形づくることになるのですが。私の運命は、すでに言ったように、何があっても陽気で、優しく、穏やかでいることでした。それを、私はあるがまま受け入れていたのです。(Moravia 2002: 866 )

2.2 パヴェーゼ 『女だけの間で』

『女だけの間で』は、以下の 3つの作品 :

1. 『美しい夏』(1940年─本来は Tenda 『カーテン』 の題名がつけられていた)2. Il diavolo sulle colline 『丘の上の悪魔』(1948年)3. 『女だけの間で』(1949年)

をまとめ、1949年にエイナウディ社から刊行された合本『美しい夏』(1949年)に所収されている。執筆時期を隔てたこれら 3作品をまとめて刊行するにあたって、パヴェーゼは「なぜこの 3作をまとめて刊行するのか?これはいわゆる三部作というものではない。(中略)道徳的な雰囲気、テーマの類似、自由な空想のゲームのなかで、繰り返し登場する共通の風土があるからだ」とし、また「これらは都市を舞台にした、都市と社会の発見の小説であり、若さゆえの熱狂と挫かれた情熱の小説だ。それぞれの物語の筋と舞台に共通して繰り返されるテーマは、すべての若者が嫌でも経験するような、誘惑や、大人たちから受ける影響力である」 と説明している。小論では『女だけの間で』を中心に扱うが、『美しい夏』もまた、トリノの裁縫店で働く少女ジー

ニアを主人公にしており、三人称小説ではあるものの、作家の視線はほぼジーニアのそれにシンクロナイズされていることもあって、パヴェーゼの女性像を考察する上では非常に興味深い。『美しい夏』がジーニアの少女から大人の女性への変身の、ほろ苦くときに残酷な青春期を描いたものであるならば、約 10年近い時間を隔てて書かれた『女だけの間で』は、青春期をとうに過ぎた、「夢を達成した」働く女性クレーリアのトリノへの帰郷の物語である。比較的貧しい境遇に生まれた主人公は、若くしてローマに上京し、洋裁師としてそれなりの成功を収める。それゆえ上流階級のサロンにも出入りするようになるが、現実には、夢にまで見たはずの上流階級の人々やその生活の「空虚さ」を目の当たりにし、結局のところ「この地位を手に入れ

8 Alberto Moravia, Perché ho scritto La Romana in «Fiera letteraria», 3 luglio 19479 卑しくとも金銭的に有利な境遇とは、具体的に、売春を指している。

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るのに、あれほどがむしゃらになる価値があったのだろうか」(Pavese 1999: 303)と苦々しく自問する。クレーリアは、働いているローマの洋裁店がトリノに新しく出店するというので、その監督を任

されて謝肉祭最さ

中なか

の故郷トリノへ赴くことになる。滞在 1日目から、ホテルの同階で若い娘─ロセッタ─が睡眠薬を飲んで自殺未遂をするという事件に出くわすことになり、後々彼女やその友人のモミーナと交流を深めるなかで、「働く女性」の視点から上流階級の生きるために「働く必要のない」人々、「仕事が何か知らない」(Pavese 2001: 286)人々の内実をえぐり出していくのである。この作品を読んだカルヴィーノ(1949年当時、26歳)が、パヴェーゼ宛に手紙を送っているが、

いかにもカルヴィーノらしいウィットの効いた書評をしていて、甚だ興味深い。以下はその抜粋である。

『女だけの間で』は、私の好みの小説ではないと即断した。その気持ちは今も変わらない。すごく興味を持って、楽しく読んだのは確かだけれど。これはガリバーの旅行なのだと考える事にした。女たちの間、いや、女と馬の中間を行く、不思議な生き物の間を旅すると言った方がいいのかもしれない。(中略)女性を見つめるための、そして彼女らに陽気な、もしくは悲しい復讐をするための新しい方法と言えるだろう。もっとも人を動転させるのは、あの陰気な声とパイプくさい息で一人称で喋る毛深い女/馬だ─それがかつらを被って偽の胸をした君だということはすぐに分かる─「そう、真面目に女の真似をするならこうでなきゃ」とね。(Pavese 1998: V)

これに対してパヴェーゼは、僅か 2日後には返信して、「『女だけの間で』が君の気にいらないからと言って、どうということはないね」(Pavese 1998: VII)と冗談めかしながらも、カルヴィーノには作品の真髄が理解できなかっただけだと主張し、出来上がって間もない自身の新しい小説に自信を見せる。パヴェーゼの没後出版された『日記』10の 1949年 4月 17日(復活祭)付けの記述を読んでも、そこからは作者の溢れんばかりの自信が窺える。

今日、『女だけの間で』が偉大な小説であることを発見した。クレーリアの、上流社会の空虚で悲劇的な世界への沈没の経験は幅広く、反復的で、彼女の憂愁と癒着する。彼女は幼少時代の世界(憂愁)を探し求めて旅立つが、その世界はもはや存在せず、クレーリアが見出すのは女たちや、トリノや、実現した夢のグロテスクで凡庸な悲劇だけだ。自身と、確かな世界の空虚さの発見。(Pavese 1952: 351)

カルヴィーノが指摘する通り、『女だけの間で』の主人公クレーリア─陰気な声とパイプくさい息で一人称で喋る毛深い女/馬─はパヴェーゼ自身なのだろうか。この問題の答えを追求するのに、クレーリアのキャラクターの中に、パヴェーゼの自伝的要素を見出そうというのはあまりにも安易だろう。概観して浮かび上がってくる二人の共通点といえば、トリノで育ち、ローマで暮らしたことがあるということくらいである。第一、モラヴィアの『ローマの女』=アドリアーナと違って、クレーリアは自らの過去について多くを語らないため、少ない記憶の描写から、彼女がどんな

10 エイナウディ社から 1952年に初めて出版された『日記』の監修者の中には、エイナウディ社でパヴェーゼとともに働き、友人でもあったカルヴィーノも含まれている。

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人生を送ってきたのかを細密に組み立てるのは不可能である。それよりもむしろ、小説の冒頭で、クレーリアの宿泊するホテルで自殺未遂を図り、そして最後に二度目の自殺で実際に命を落とす、上流階級生まれのロセッタの人物のなかにこそ、後にトリノのホテルで自害するパヴェーゼの分身を見る方が自然かもしれない。モンダドーリの “Biblioteca degli scrittori” シリーズ、パヴェーゼ編をまとめたロベルト・ジリウッチは、パヴェーゼがしばしば女性の登場人物になりきるのを得意としていることを指摘し、「パヴェーゼはクレーリアの女性の身体に降臨し、彼女の願望や嫌悪までも明敏に操る」(Gigliucci 2001: 41)とし、さらに次のように続ける。

小説の終わりに、ロセッタは再び自殺を試みる。今度こそ逃げ道はない。我々は恐ろしく、そして素晴らしいフィナーレを目の当たりにする。「夜中の 12時にことの全部を知った。モミーナが車でホテルに立ち寄り、ロセッタがすでに自宅のベッドに安置されていると告げてくれた。死んでいるようには見えなかったと。ふてくされたときのように、唇が腫れているだけだった。不思議だったのは、画家用のアトリエを借りて、そこへただ長椅子だけを運ばせて、スペルガをのぞむ窓の前で死のうというアイデアだった。猫がロセッタを裏切った─彼女と一緒に部屋の中にいたが、翌日みゃあみゃあ鳴いて扉を引っ掻き、戸を開けさせたのだった」。パヴェーゼはこのように自らの死の場面を予言し(後にパゾリーニが『神聖なるミメーシス』でするように)、その理由についても予示したわけである。人間を自殺に追い込むのは、愛(過去の、ロセッタのモミーナに対するレズビアン的な愛)というよりは、すべてが間違っており、すべてが無意味であることの確信である。モミーナが告白する「生きることの嫌悪 (schifo di vivere)」は、すぐにパヴェーゼの「このすべてがむかつく (Tutto questo fa schifo)」という日記の最後の言葉を思い出させる。自身に対する最後の立派な行い(gesto)は、若い頃に憧れた英雄的なティタンの行為というより、弱々しい女たちでさえ遂行する勇気を持てたほどの、ごく単純な行動に見える。チェーザレはクレーリアのような強い女ではないし、別の意味で強いモミーナでもない。チェーザレは、ロセッタと同じく、弱く絶望した女である。(Gigliucci 2001: 40-41)

「チェーザレは、ロセッタと同じく、弱く絶望した女である」という表現は、パヴェーゼを女性呼ばわりしていていささか過激に思えるかもしれないが、著者ジリウッチは同書のなかで数回にわたってパヴェーゼの「女性的な面」について言及しており、それを踏まえての発言である。ジリウッチによれば、パヴェーゼは、たとえば『女だけの間で』のベクッチョ 11のような「率直で、冷静で、共産主義者で、戦争経験のある」男(Gigliucci 2001: 40)を理想としていて、格好がよく、男らしく、明敏で、できることなら野蛮なほど乱暴な男になりたいと心から願っているにも拘らず、実際には「男という仕事」を全うできずに苦しんでいる。確かに、『女だけの間で』にパヴェーゼを思わせるような男性の登場人物は見当たらない。やはり、冷静な眼差しで世界を裁く主人公のクレーリアや、繊細で、空虚な世界に耐えられず自殺するロセッタのなかにパヴェーゼの面影を探し求める方が自然であろうか。ところで、『女だけの間で』というタイトルは、イタリア語では Tra donne soleとなり、女たち

donneを後ろから修飾する soleは形容詞で、英語でいうところの onlyすなわち「~だけで」とも理解できるし、形容詞 soloが意味するところの「孤独な」とも取れる 12。『美しい夏』の訳者河島氏は、

11 トリノの新しい店の工事を取り仕切る現場監督で、クレーリアと惹かれ合って短い関係を持つが、社会的な階級差を互いに感じ取ってのことか、これといった進展はない。12 D. D. Pageによる翻訳版の英題は Among women onlyである。

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後者を選択して『孤独な女たちの間で』と訳している。確かにこの物語に登場する女たちは孤独である。クレーリアは人付き合いは悪くないが、結局のところ誰にも心を許さないかに見えるし、ロセッタは何不自由ない暮らしをしていながらも、自らの生活に意味を見出せず、誰からも理解されない点で孤独である。ロセッタがかつて憧れた相手である年上のモミーナは、夫と別居して、表面上は事も無げに生活しているが、実のところは生きることそのものに嫌悪を抱いていて、やはり孤独な女である。しかし、この小説の節目となるような重要な場面は、多くの場合クレーリア、ロセッタ、モミー

ナの 3人が、「女だけで」語り合うときに設定されている印象を受ける。クレーリアのホテルで、3

人が電気を消した暗い部屋で、ロセッタの自殺の真相について本人を交えて話し合う場面は印象的である。また、小説の冒頭でホテルの部屋係の女性と短い会話をしたあと、自分に腹を立てたクレーリアが「ひとりになると、ぬるま湯に浸かり、苛立ちながら目を閉じた。そんな価値もないのに、おしゃべりが過ぎたと思ったから。話をしたって何の役にも立たないのだと確信すればするほど、つい口を開いてしまう。女たちの間では特に。」(Pavese 1998: 10)という一節も、女同士のある意味で不毛な関係を示唆しているようで興味深い。ひとりひとりが孤独なこの街の女たちは、「女だけで」寄り添い、語り合っても、結局互いを救うことはできず、やはり「孤独な女たち」のままなのである。クレーリアは「仕事」という生きがいを見つけて何とか生きのび、モミーナは人生を嫌悪しながら日常をやり過ごしているが、人生の意味を見出せず、働くことも知らず、モミーナのように妥協して生きることのできないロセッタを待つのは、死だけである。「誰かを自分以上に愛することなんてできない。自分で自分を救えない人を、誰も救ってなんかくれない」(Pavese 1998: 30)─クレーリアの言葉である。

3. 『ローマの女』と『女だけの間で』の共通項

モラヴィアとパヴェーゼは多くの点で対照的な作家であるが、「女性一人称」叙述形式がこの両者を結びつけるひとつの鍵であることはすでに述べた。ここでは、二人を近づけるもうひとつのキーワード、「女嫌い」について敷衍しておきたい。フェルナンデスによれば、モラヴィアは、一見そうは見えないが、実は女性嫌いの性質を潜ませ

ていて、女性の人生に起こる重大な出来事にさほど興味がないのだという(Fernandez 1960: 61)。だが、女性の人生に興味のない作家が、女性を主人公に、しかも一人称で『ローマの女』のような長編を書くということ自体、考えにくいことである。フェルナンデスの批評は 1960年のものだが、その後イタリアでフェミニズム運動が活発化した 70年代に、モラヴィアが女性一人称短編集を精力的に発表した事実を考えても、「女性の人生に興味が無い」という評価は正鵠を得ているとは容認しがたいであろう。一方のパヴェーゼにとっても、フェルナンデスによれば、「女性は暴力と同時に柔和さの象徴であり、また闘争と占有の対象であり、人生の歩みを共にする友人や伴侶にはなり得るが、同時に、男は女のせいで絶望的な孤独を抱えなくてはならない」のだという(Fernandez 1955: 143) 。一般に知られている限りで、私生活や自伝的な要素だけを考慮するならば、確かにパヴェーゼの「女嫌い」は否定しにくいのかもしれない。若いときに負った恋愛の痛手が、彼をいっそう人間不信に陥れた

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面もありそうである 13。小論ですでに言及したジリウッチの見解では、パヴェーゼは深い愛への非常に強い憧れを持っていながら、自分を愛する女性は悉く拒否したという。しかし、たとえば『美しい夏』では、少年/少女が大人に変身する過程で誰もが覚えるような、辛く苦々しい感情に煩悶する主人公の少女ジーニアに、作者はむしろある種の同情と共感を示しているように見える。一方『女だけの間で』には、読者の誰もが共感を抱かずにいられないような、伝統的な種類のヒロインが誰一人として登場しないが、それはカルヴィーノが指摘したように、パヴェーゼなりの「女性たちに陽気な、もしくは悲しい復讐をするための新しい方法」だったのかもしれない。いずれにしても、モラヴィアの作品にもパヴェーゼのそれにも、女性の生に対する格別な関心が十分に認められるという点については、これを肯定的に受容すべきであろう。女性を好んで書いたこの二人の作家が、戦後のほぼ同時代に、奇しくも女性一人称で小説を書くに至ったという事実は興味深い。これに関連して、カルヴィーノは、戦後のイタリアにおける小説の人物についておもしろい考察をしている。戦後のある時期から、男性の登場人物は、知識人と現実の難しい関係を映す鏡、あるいは象徴へ

と様変わりする。文学において、歴史に対して行動する可能性が開かれたこの頃、知識人たちは現実を描写することができなくなっていたというのである。カルロ・レーヴィなどの数少ない例を除いては、当時のイタリアの知識人たちは、歴史に対するコンプレックスを乗り越えることができず、自らの内面の苦悩を表現することもかなわなければ、国民全体のものである叙事的な集団的苦悩を著す術も知らなかった。したがって、「数少ない知識、道徳、行動の決意の例は、何人かのイタリアの作家が書いた、女性の登場人物のなかに見出すことができる」(Calvino 1980: 7)のだそうで、なかでも「登場人物を信じていなかった作家のひとりであるパヴェーゼのもっとも素晴らしい登場人物は、トリノに婦人服の店を開設しにやってくる『女だけの間で』のクレーリアである。彼女はキャリアウーマンで、自立していて、手厳しく、経験豊富で、未だ好奇心を忘れず、悪癖や自らを取り巻く社会の価値を哀れみ、それでいて、自立した人が皆そうであるように、鎧を被って自分を守ろうとする女性」( Calvino 1980: 8)であるとする。戦後のイタリア小説における男性登場人物の行き詰まりが、モラヴィアやパヴェーゼに女性一人

称で書く道を開く動因の一つとなったと考えるのは、それほど突飛な発想ではないかもしれない。戦後、女性の社会における役割が次第に大きくなっていった時代的背景もさることながら、それまで歴史から疎外されていた貧しい人々にスポットをあてた、戦中戦後のネオリアリズムの流れなどを勘案するならば、以前は歴史の主人公になることの稀だった女性たちに、漸く、一人称で発言させようという試みが生ずるのも、いわば時代精神的な趨勢のなかにその位置づけを得ることが可能なのではなかろうか。こうしたコンテクストの中で考えれば、1947年に出版された『ローマの女』も、1949年発表の『女だけの間で』も、まさに満を持して世に出た女性一人称小説であったといえよう。さて、『ローマの女』と『女だけの間で』には、女性一人称の語りの他に、具体的にどんな共通性と区別性とを見出すことができるのであろうか。まず、ローマの女ことアドリアーナは、物語の始まりの時点では 16歳で、母とふたりだけで貧しい暮らしをしている。彼女の収入源は、母親のシャ

13 1933年に知り合った反ファシズム運動家のティナ・ピッツァルドとの関係に、パヴェーゼがひどく苦しんだことは有名である。

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ツの仕立てという仕事の手伝いと、絵のモデルの仕事である。物語は、アドリアーナが自らの過去を振り返りながら、クロノロジカルに進行していく。一方パヴェーゼのヒロイン、クレーリアは、具体的な歳は明かされないが、若くはなく(Pavese 2001: 236)、とうに結婚していていい歳(Pavese

2001: 266)であるらしい。彼女はあまり詳細に自分の過去を語ることはしないが、トリノの比較的貧しい家庭に生まれ、若くしてローマに出て、洋裁師として成功した働く女性であることが次第に明らかになる。アドリアーナの父はとうの昔に亡くなっていており、一方クレーリアに関しては、自らの結婚に不満な母親がいたらしいこと、また父親については、亡くなって今はないということ以外は不明である。都市を生活の舞台にし、そのなかの比較的貧しい家庭に生まれたという点では、両者は相似している。ただ、『ローマの女』においてアドリアーナの母親の存在感が絶大なのに対して、『女だけの間で』では、クレーリアのすでに亡き母親への言及は、ほんのわずかである。因みに、モラヴィアの母親に対する強い憎悪と愛情については、ダーチャ・マライーニが Il bambino

Alberto(『アルベルト坊や』)で詳細に分析している。上流・中流階級に対する否定的な態度もまた、両作品の共通点として注目に値する。先にも触れ

たように、モラヴィアは中産階級の生まれでありながら、その環境を無意識的に嫌悪し、その影響が『無関心な人々』に自ずと表れている。サングイネーティのように、彼が「庶民を神話化」したとまで言うべきかどうかについてはなお議論の余地はあるが、どの作品を読んでも、そこからは一般に貧しい人たちに対する強い共感が看取され、その姿勢は生涯変わることがなかったように思われる。このような作家の態度は『ローマの女』においても健在で、アドリアーナが、愛人の左翼の学生ミーノが寄宿する中産階級の家で、思いがけず昼食を共にすることになる場面では、家の主で未亡人のメドランギ夫人やその一人娘が、庶民のアドリアーナを軽蔑する様子が描かれている。

ミーノがいつも通りの、お決まりの喜劇を装っていたのに対して、メドランギ夫人の方は、私や私に関するすべてのことを怖れて、身震いしているようでした。ひどく丁寧で慣習的な会話を通して、「これで分かったでしょう、庶民と結婚するなんてとんでもない、いずれにしても国の管理職だったメドランギ家の未亡人宅にこんな娘を連れてくるなんて、とんでもないことだわ」。そう言おうとしているかのようでした。娘の方は口も開きませんでした。怯えて、一刻も早く昼食が終わり、私がいなくなってくれるようにと願っているのは明らかでした。(Moravia 2002: 965)

アドリアーナから見たメドランギ夫人は、決して好感の持てるような人物ではない。

メドランギ夫人は、なぜか分かりませんが、彼女の居間に置かれた、黒檀と真珠層の白い象嵌細工の家具の数々にそっくりなように、私には思えるのでした。熟年の夫人は、どっしりとした体で、胸は大きく、頑丈そうな腰つきをしていました。全身を黒の絹で覆い、顔は幅広でたるんでおり、まさに真珠のように青白く、染めた黒髪がそれを囲んでいて、目の周りには大きな黒い隈ができていました。(Moravia 2002: 960-961)

未亡人であるためであろうが、全身に「黒」をまとい、「青白」くたるんだ顔を「黒」髪が縁取っていて、目の周りには「黒」い隈ができている。不吉な黒と、不健康的な「青白」さを思わせるこの描写は、読者にも反感を呼び起こさずにはおかない。他方のパヴェーゼも、『女だけの間で』において、元は「庶民」のクレーリアの視点から、上流

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階級の頽廃的で空虚な日常を描き出している。次に引用するのは、クレーリアがトリノに着いて間もなく、友人の紳士モレッリに付き添われて出かけるダンスパーティの一齣で、「魚の腹のようなピンクのラメ」(Pavese 2001: 240)に身を包んだ太った婦人と二人きりになる場面である。

「あなたホテルにいらっしゃったんでしょ」彼女はささやいた、「昨晩哀れなロセッタ・モーラが具合を悪くしたとき。」「あら、彼女をご存知なんですか?その後具合は?」私はすぐに答えた。「峠は越えたって話だけど…・」そう言って首を振り、ため息をついた。「教えてくださいな、あの娘本当にあのホテルに泊まっていたんですか?まったく子どもみたいなことを。一日中閉じこもっていたのかしら?本当にひとりでした?」大きく生き生きとした目は、二本の針が穴を貫通するかのようだった。自分を抑えようとしていたけれど、それが出来ずにいた。「…あのダンスパーティの夜も、私たちあの娘に会ったんですのよ。落ち着いて見えましたけどね…あんなに立派なお宅の娘が…かなり踊ってはいたけれど…」モレッリが近づいてきた。「…それで、ご覧になりました?夜会服を着たままだったって皆話してますけど。」私は、何も見なかったとか何とかつぶやいた。この年増の婦人の話し方には内緒話でもするような調子があったから、嫌がらせに、黙りこくってやりたくなったのだ。(中略)年増は、ずる賢く大きな目をむいて言った。「あの娘をご覧になったものと思っていましたわ…私あの娘の両親を知っているんですの…なんて災難でしょう。自殺しようとするなんて。なんて一日を過ごしたんでしょ…ひとつ確かなのは、ベッドでお祈りは唱えなかったってことね」。(Pavese 2001: 241)

「魚の腹のような」ドレスを着ている肥満気味の婦人に、クレーリアは少しの好感も覚えない。婦人は自殺を図ったロセッタやその家族を知っているが、上の会話から、心配するどころか、この一件が彼女にとってただのおもしろい話の種に過ぎないことは明らかである。他人の不幸を笑っていながら、偽善者然としてそれを隠そうとし、あわよくば新しい話の種を仕入れようと目を輝かせる彼女を見るクレーリアの視線は鋭く、冷たい。これは、モラヴィアと同じで、裕福で退屈した上流階級の人々よりも、働くことを知っている市井の人々へ共

シンパシー

感のを持つパヴェーゼの視線と重なる。ここで、『ローマの女』と『女だけの間で』の両作品に共通して、登場人物の(特に女性の)衣服に細やかな注意が向けられている点についても瞥見しておこう。貧しい者と裕福な者を分かつ豊かさの象徴として、両作家はしばしば「毛皮」と「靴下」を引き合いに出している。

…アトリエに通い始めるとすぐに、母さんは 2つの洋服を作ってくれました。一着はスカートとチュニックの 2点もの、もう一着はワンピースでした。(中略)母さんは絹の靴下も 2足買ってくれました。それまでは、私はふくらはぎまでの長さの厚手のソックスを履いて、膝は裸のままで出かけるのが常でした。こうした贈り物に、私の心は喜びと自信に満ちていました。それらをうっとり眺め、思いを馳せるのに飽きることはありませんでした。そして、ぼろきれのようなあのみすぼらしい服ではなく、評判の洋裁店の高価な洋服でも身につけているのだとでもいうように、胸を張って恭しく界隈を歩くのでした。(Moravia 2002: 655、下線筆者)

また、アドリアーナが娼婦になって初めての「顧客」のジャチントも、旅行先のミラノから帰っ

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てくるときの土産として、彼女に絹の靴下をプレゼントする(Moravia 2002: 805) 。物語の時代背景として設定されている 40年代前半、のちに大量生産されるナイロンなどの低価格材料を使用した品物と違って、絹の靴下は誰でも普段着できる代物ではなかった。したがって、上質の手袋、帽子などとともに、女性の優雅さや豊かさの象徴だったのである。他方の『女だけの間で』では、主人公のクレーリアは比較的貧しい環境に足を向けるときにはあ

えてダスターコートを羽織り、上流階級のサロンに出入りするときには毛皮を身につけるという風に、接触する階級に合わせて衣服を使い分けている。貧しい出生の彼女は、毛皮のコートを身につけた自分が地元の人間にもし出会って、気取っていると思われたら嫌だと懸念する。

美容室を出ると、あの昔の中庭のことしか頭になかった。ホテルへ戻って、毛皮を脱ぐと、ダスターコートを羽織った。あのバジリカ通りに戻る必要があった、あそこではもしかすると誰かが私を憶えているかもしれなかった。自惚れてるなんて思われるのは嫌だった。(Pavese 2001: 239、下線筆者)

ところが、仕事の帰り、たまたま昔住んでいた界隈を通りがかったクレーリアは、そのままその場を立ち去ることができずに、ほとんど衝動的に幼少時の女友達の店を訪ねる。仕事帰りの彼女は毛皮を着て、質のいい絹の靴下を履いている。

いざというときになって、店の経営者が昔と変わっていてくれることを願ったけれど、カウンターの向こうで立ち上がった、骨張った顔つきの、怒ったような表情をした痩せぎすの女性は、間違いなくジゼッラだった。あのとき、私は顔色を変えたと思う。そして、自分も彼女くらい老けていたらよかったのにと思った。(中略)最初の喜びと驚きの後(彼女はカウンターから出て来て、ふたりともお互いがよく見えるように入り口まで移動したけれど、その喜びも彼女の顔色に紅をさすには十分でなかった)、歓迎し合いながらおしゃべりをしたけれど、その間彼女は、自分の娘でも見るみたいに、困惑した目つきで私の毛皮と靴下を眺めていた。…(中略)…今やジゼッラが、かつてのこの店の女主人のようにため息をつき、目を細め、まったく同じように振る舞っているのには驚いた。私の毛皮や靴下に投げかけるあの恨めしい目つきも、昔あのおばあさんが、私たち若い娘をじろじろ見ていたときの恨みがましさに似た影があった。(Pa-vese 2001: 269-270、下線筆者)

このように、パヴェーゼに至っては、女性の靴下はその登場人物の社会的地位を暗示するのに必ずと言っていいほどよく用いられる。『美しい夏』も例外ではない。主人公の少女ジーニアは、自分より少し年上で大人の女性であるアメーリアに、ほとんど無意識的にだが、強く惹かれてい

る 14。

無遠慮に外を歩いて、周りをじろじろ見る 20歳のアメーリアと一緒なら、怖いものはなかった。アメーリアは靴下も履いていなかった、暑いからと言って。(中略)

14 パヴェーゼはこの作品を「レズビアンの物語」だと定義している。

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アメーリアはあれほど明るく振る舞っているけれど、実は不幸な娘なのだと思ったときから、ジーニアは彼女と仲良くなった。ジーニアは今では、彼女の目や下手に口紅を塗った口元を見ただけでそれが理解できた。アメーリアは靴下も履かずに出かけるけれど、それは靴下を持っていないからなのだ。いつもあのきれいな服を着ているけど、他には何も持っていないからだった。ジーニアはそう確信した、アメーリアと同じように帽子を被らずに出かけた日は、自分にもとんでもないことができるような気がしたから。 (Pavese 2001: 13)

貧しい家庭環境にあって、絵のモデルの仕事をしているアメーリアは、「暑いから」と言って靴下を履かずに出かける理由をごまかしているが、ジーニアは「本当はお金がなくて靴下も買えないのだ」と理解する。『美しい夏』が書かれたのは ’40年で、出版されたのが ’49年、わずかな時代背景を示唆する「黒シャツ」「集会」などの言葉から、ファシズムが台頭した時代を舞台にしていることは想像がつく。戦後次第に慣習は変化していったが、当時の女性は(そうできるだけの経済的余裕があれば)夏でも薄手の靴下を履いて、しばしば帽子を被って外出するのが常であった。当時、絵のモデルをすることが道徳的に何を意味していたか、という問題に注目してみるのも無

意味ではないだろう。アドリアーナが娼婦になる以前、絵のモデルをしていたことは前に触れた。『美しい夏』のアメーリアも絵のモデルをしているし、彼女に憧れるジーニアも、アメーリアを通じてアトリエに出入りするようになり、画家のグイードに恋して、様々な葛藤の末、ある日彼の前でモデルとして裸になる。それが、ジーニアの「美しい夏」─無垢で幸せな子ども時代の終焉である。後にアメーリアが梅毒に冒されていることが明らかになるが、かつては、それは手遅れになれば

命にもかかわる、不治の病として怖れられていた。これをただ単にアメーリアの自由奔放な生活の結果と見なすこともできるだろうし、河島氏のように「アメーリアは実際には娼婦ではないか」 (Pavese 2006: 197) と少し踏み入って考察することもできるだろう。パヴェーゼは多くの事柄を暗示するだけに留めて、すべてを説明しないタイプの作家であるから 15、彼の作品は読者の解釈力に委ねられる場合が多くなる。だが、人前で裸になるモデルの仕事が、当時一般にどのように捉えられていたかは、想像に難くない。アドリアーナが最初に恋に落ち、結婚を夢見る相手である雇われの運転手ジーノは、繰り返しアドリアーナのモデルの仕事を不道徳な職業だと強調する。以下は『ローマの女』からの抜粋である。

…私は答えました。「私、お姫様なんかじゃありません…あなたが運転手をしているのと同じで…生活のために、絵のモデルをしているんです。」「モデルって、どういうことだい?」「画家のアトリエへ行って、裸になるんです。それで画家は私の絵を描いたり、デッサンしたりするんです。」「そんな、君にはお母さんはいないの?」彼は大げさに言いました。「いますとも…どうして?」「お母さんは君が男の前で裸になるのを許すのかい?」私は自分の職業に何かいけないところがあるなんて考えたこともありませんでした。実際、悪いところなどなかったのです。でも、彼が真面目で道徳のある人だと分かったので、そんな風

15 フィッツジェラルドやヘミングウェイの影響を受けて、パヴェーゼは“Understatement”の用法を好んで使用した。フェルナンデスによって「統

インテグラル

合的な作家」(ある主題に関して言うべきことをすべて述べ、暗示的な描写はしない)と評価されたモラヴィアとは、この点においても対照的である。

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に考えてくれたことが嬉しくもありました。 (Moravia 2002: 666)

初めてアドリアーナの母親と顔を合わせる機会にも同様に、ジーノはアドリアーナがしているモデルの仕事を、道徳的ではないと非難する。もとより娘を裕福な人の元に嫁がせようと企んでいた母親は、このジーノの態度に強く反発する。

…ジーノが母さんに言いました。「こう言うのは僕が馬鹿で、古くさいタイプの男だからかもしれませんがね…画家たちの前でアドリアーナが毎日裸になるっていうのは、僕には何だか気持ちよくありませんね。」「そりゃまたどうして?」母さんがむっとした声で尋ねるのを聴いて、ジーノよりもよく母さんを識っている私には、嵐が近づいているとすぐに予想がつきました。「どうしてって、そりゃあ、道徳的じゃないからですよ。」(中略)「ああ、道徳的じゃないって言うんだね…それじゃ訊きますけどね、道徳って何だい?毎日毎日あくせく働いて、皿を洗って、裁縫して、料理して、アイロンかけて、床を掃いて磨いて、それから夜は夫が仕事から疲れきって帰って来て、飯を食べたらすぐ床について、壁を向いて眠るのを見ることかい?…これが道徳ってやつかね?…犠牲を払って、少しも休まず、年老いて醜くなって死んで行く…これが道徳かい?…(中略)…アドリアーナが金を払う人たちの前で裸になることの何が悪いもんか。…もっと稼ぐ方法だってあるんだ…」ここで、相変わらず周りの人たちの耳にも聞こえる金切り声で、私を辱めるようなことを言い、そして続けました。「あたしの娘がそういうことをしたって、私は邪魔しないばかりか、その仕事を助けてやりますよ。…ええ、ええ、助けてやりますとも。…もちろん、相手が金を払うならの話だけどね」。(Moravia 2002: 676-677)

アドリアーナは母親の台詞に検閲でもするように「ここで、私を辱めるようなことを言い…」と言葉を濁すが、母親が売春に言及しているのは明確である。ジーノの不道徳という言葉にかっとなったアドリアーナの母は、娘がしがない運転手と結婚するくらいなら、いっそ娼婦にでもなってくれた方がいい、という旨の過激な発言をする。実際に、ジーノとの結婚話が破綻した後にアドリアーナは娼婦の道に踏み入るわけだから、このくだりは予示的である。すでに見たように、パヴェーゼの『美しい夏』のアメーリアも、絵のモデルをしていながら、「実

は娼婦なのでは」と疑惑を残す部分があるし、『ローマの女』アドリアーナのモデル仲間のジゼッラは、正真正銘の娼婦である。そしてアドリアーナ自身も、ジゼッラの仲介で、最終的には絵のモデルから娼婦へと商売替えをする。こうして見ると、絵のモデルと娼婦という職業は、ごく薄い膜で仕切られているような印象を受ける。少なくとも、この二つの世界は、ごく自然に交差しうる社会的環境であったと考えられそうである。

おわりに

1930年代よりパヴェーゼとともに「アメリカ神話」を作り出したことでもよく知られるヴィットリーニは、アドリアーナを通じて、モラヴィアが「女性の軽薄さ、弱さ、虚栄心と楽観主義の入り混じったもの、盲目的な信頼など、いわばほとんどの若いイタリア人の娘の特徴と道徳的な愚かさを表現し」たと指摘している(Vittorini 1957: 312)。アドリアーナが「道徳的に前向きで能動的」

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であったなら、娼婦になる道は選ばなかったはずだ、という見解である(Vittorini 1957: 313)。さらに、「私がモラヴィアの表現方法に賛同しない、ということはあり得る。本来なら劇的になるはずだったソンツォーニョの登場以降の部分を、失敗と考えることもできる。だが、この生命力に欠けた、無意味な部分を差し引いても、やはり『ローマの女』はイタリア文学の成果だと思う」(Vit-

torini 1957: 311)とし、その理由を次のように説明する。「ひとりの自由な人間であるために、アドリアーナに欠けているのは、マンゾーニのルチーアに欠如していたのと同じものである。すなわち、『道徳的な積極さ』のことである。(中略)モラヴィアがこの『道徳的積極さ』の欠如を『売春』として描写したことによって、この作品は非常に深く、鋭い教育的意味を持つことになった」(Vittorini

1957: 313)。ヴィットリーニは、作家の表現方法や蛇足と考える部分に難色を示しはしても、モラヴィアが

『ローマの女』において、当時のイタリアに蔓延していた社会的道徳の不確かさを、知ってか知らずか摘発した点を評価している。一方カルヴィーノは、上述したように、パヴェーゼ宛の手紙で、『女だけの間で』のクレーリア

を「あの陰気な声とパイプくさい息で一人称で喋る毛深い女/馬」、「かつらを被って偽の胸をした君自身」と茶化していながらも、パヴェーゼの没後 1955年に書かれた Il midollo del leone (『獅子の気概』)という評論のなかで、パヴェーゼ作品のなかのもっとも成功した登場人物の一人として評価している(「あの自虐的で悲しい激しさのせいで、(日記のなかでさえ)限定的で嘘くさい自画像を描くのが常だったパヴェーゼが、これほど完結した人物のなかに自分を表現したことはなかった(クレーリアは私だ!)。この女性像ほど前向きで、パヴェーゼ的な人物はいない」(Calvino 1980: 8))。カルヴィーノもまた、パヴェーゼの 9つの短編小説は「今日のイタリアにおいて最も色濃く、劇

的で、一貫性があり(中略)、社会環境、人間喜劇、ひとつの社会史を描写した点で最も豊かな小説群」だと評価する。なかでも特に、 La casa in collina(『丘の上の家』)、 『丘の上の悪魔』、『女だけの間で』の 3作は、「詩的な緊張と構造的な客観性がまったく同一のバランスで描かれており、パヴェーゼ特有の表現の簡潔さ、暗黙、間接的な意思の疎通、現実を認識し評価する作業に読者を巻き込むテクニックが、ここに勝利を収めた」(Calvino 1980: 63)としている。『女だけの間で』は自分好みの小説ではないと決めつけていたはずのカルヴィーノも、最終的にはこの作品をパヴェーゼの最も成功した小説作品のひとつとして認定したわけである。『ローマの女』と『女だけの間で』は、女性一人称という稀な語りの形式を採用しているがゆえに、それらの評価をめぐっては、評論家たちの間でも賛否両論が渦巻いたが、女性主人公たちの心理描写が真実味に欠けるとの評価が大半であった。だが、ヴィットリーニやカルヴィーノも認めているように、これら 2作品が 20 世紀イタリアの社会や当時の道徳観、慣習を、これほど鮮やかに描いてみせている点だけをとっても、両作品は等閑に付しがたい魅力を持っている。それを裏付けるかのように、『女だけの間で』は、厳しい批評にも拘らず、出版翌年にイタリア文学最高峰のストレーガ賞を受賞し、パヴェーゼは今日に至るまで多くの読者を獲得し続けている。『ローマの女』は受賞こそ逃したものの、各国語に翻訳され、世界中で成功を収めたことは、如上の通りである。河島氏が投げかけた「なぜパヴェーゼは女の作家が書くように書くことができたのか」という率

直な疑問は、モラヴィアの『ローマの女』や、1970年代の一連の女性一人称短編集に触れた際に、筆者もまたその著者に対して強く抱いた疑問でもあった。これまでの考察から導き出せる答えのう

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「女性一人称」による叙述の試みとその意義──モラヴィアとパヴェーゼの場合

ちひとつは、両作家に共通する女性への飽くなき興味関心と、併せて周囲の社会や歴史の趨勢を見据える、冷徹で分析的な眼力である。こうした両者の「冷徹な」視線が、フェルナンデスをして、両者を「女嫌い」と言わせた面とどこかで関連するのかもしれないが、彼らの作品から受ける印象は、そのような評価とは大きく異なるものである。本論で主として取り上げた 2作品は、モラヴィアにとって初の、パヴェーゼにとっては唯一の女性一人称作品であるが、こうした手法が、多くの点で対照的な二人の作家によって、奇しくもほぼ同時に試みられたということは、ある意味では驚きである。それは、たまたま偶然の悪戯として生じた事態ではないであろう。むしろ世界史の大きな潮流のなかで、また、自らもその潮流の一構成部分を成せざるをえない、イタリアという国のその時々の特殊的な諸条件に規定されつつ、この国の女性達もまた時代の変貌に何らかの形で適応していくわけであろう。ふたりの作家に期せずして起こった、上記の小説手法における新たな試みとは、社会構造やとりわけそこにおける女性の在り方の変化、世界的な価値観の変革、等々をどう表現すべきか、という問題と深く関わっているように思われるのである。小論は、こうした大問題に接近するための緒を模索しようとする、ささやかな出発点に過ぎない。

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