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緒 言 - JGG · Web view自己の生誕70周年を迎えようとしていた、同時にまた、この作品の完成の日もそう遠くはなくなってきていた1945年5月29日、マンはワシントンの国会図書館で『ドイツとドイツ人』という講演を行った。ドイツ論として披露されたこの講演

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緒 言

下程 息著

『ファウストゥス博士』研究

―ドイツ市民文化の「神々の黄昏」とトーマス・マン―

増 補 版

2010年

目 次

緒言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

序論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8

第1章『非政治的人間の考察』―『ファウストゥス博士』の前奏曲・・・・・・・・・19

1ドイツ精神の西欧化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

2 精神の政治化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・30

3非政治的芸術家・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43

4『考察』のキーワード・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・58

第2章 ヴァイマル時代・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72

1『考察』の問題意識の展開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73

2 進歩と反動のラディカリズム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82

3「ドイツ共和国」の理念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・97

4ロマン主義批判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・111

5『魔の山』の人文主義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・120

第3章 亡命・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130

1 1933年のヴァーグナー講演・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・131

2 亡命生活Ⅰ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・159

3 亡命生活Ⅱ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・174

第4章『ファウストゥス博士』―[「よきドイツ」の「夜明け前」??]・・・・・・・184

1 自伝的長編小説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・185

2 文明批評としての音楽論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・202

3 デモー二シュな密封世界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・220

4 悪魔との契約・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・235

5十二音技法・魔方陣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・250

6「デューラーの木版画による黙示録」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・269

7「ファウスト博士の嘆き」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・293

8 作品のキーワード・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・309

9トーマス・マン文学の位置づけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・333

注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・346

解題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・脇圭平 371

跋文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・373

索引・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・380

補 論

補論1「よきドイツ」と想起文化の問題―クリストフ・メッケルの「父親小説」を中心     

 に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・390

補論2 わが国におけるトーマス・マン受容概説―戦後の当該著作をめぐって

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・405

補遺 関楠生『ドイツ文学者の蹉跌―ナチスの波にさらわれた教養人』に寄せて・・・・・・416

補論(Anhang)3 Bemerkungen zu Thomas-Mann-Rezeption in Japan am Beispiel literarischer und wissenschaftlicher Publikationen seit dem Zweiten Weltkrieg・・・・・

Ibuki. Shitahodo. Eberhard Scheiffele ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・420

緒 言

トーマス・マンはアメリカ亡命中、対独放送や時事評論を通じてナチスに対する抵抗運動を行った。1945年、終戦直後の日本に先ず紹介されたのは「デモクラシーの闘士」としてのマンの勇姿であった。戦争と軍国主義に対する猛省を迫られていた当時の風潮は、すなわち作家を進歩的な作家のチャンピオンの一人に祭り上げ、反ナチズムの作家マンの時事評論から耳ざわりのよい共鳴音を聴き出していた。その代表例としては佐藤晃一、山下肇共著『ドイツ抵抗文学』の第二部の「抵抗の歴史 独裁者と闘うマン一族」(東京大学出版会 1954年 141-253頁)が挙げられよう。こういう類の時流迎合的なマン受容に対しては高橋義孝が次のように批判し警告していたのは、先見の明ある卓見と申したい。

『自由の問題』や『デモクラシーの勝利について』が、もし今日(啓蒙的な意味においてではなく)ほんとうに日本の知識階級の賛仰の対象となっているとしたらわたしは日本の知識階級の未開化性に慄然とせざるをえぬ。こういう論文にしるされている思想や事柄が、驚異的であり新発見であるような「知識階級」というものは、抑々今日の世界にありうるであろうか。わたしはこれを信じることを欲しない。[ああいう論文しか書けぬトーマス・マンというものは退屈きわまる老文士にすぎぬ*]。

*高橋義孝『現代ドイツ文学』(要選書77 要書房 1955年 98頁)

ここで当時のドイツ本国のマンの受容に目を転じるならば、旧東ドイツにおいてはマンは反ファシズムと同時にリアリズムの作家として国是に合致する「民主主義文学」の系列に属する代表的作家と見做されていた。それに対して旧西ドイツにおいては、たとえばホルトゥゼンのマン論* からきわめて端的に窺われるのであるが、カトリックの信仰の立場からマン文学を断罪するか、それとも、国内亡命者のようにナチズムを現実に共体験し共苦しなかった、アメリカという安全地帯からのマンのナチズム批判の説得力の乏しさを指摘した類の批判が頻出していた。振り返って見れば、デモクラシーの擁護者となる以前の、すなわち『非政治的人間の考察』の著者マンはドイツの非政治的・内省的な市民文化の伝統を擁護する保守主義者であった。[このような思想上の背馳現象がナチス台頭以降折りある毎に槍玉に上げられてきたがために、戦後マンの全集が東ドイツで、作品集が西ドイツでそれぞれ刊行された際にも『非政治的人間の考察』は除外されていた。この問題の書は、長女エーリカ・マンの序文付という新たな装いの下にマンの逝去の翌年、終戦後11年目に当たる1956年に西ドイツではじめて公刊された。父親が変節漢ではなく究極的には誠実であったことを力説している、このエーリカの序文を本書がこの時点において必要としていたことは、察するに難くない。エーリカの論旨は達意で卒がない。父親を肉親としてよく理解していたことはよく分かる。しかしながら、その大局的、客観的妥当性は別次元の問題であって、この序文は父親の転向問題が今後改めて論議され再検討されねばならないことを示唆していたのではなかろうか。事実、この問題の解読こそは第二次世界大戦集結以来マンの研究と評価の最大のアポリアとなっていた]。

*Vgl. Hans Egon Holthusen: Die Welt ohne Transzendenz. Hamburg 1954.

「戦後」は今や遠い昔となった。その間、『日記』を中心にこの作家にかんする様々の記録が公刊され、夥しい未公開の資料が発掘されている今日、マン研究は実証主義的・文献学的考察の分野で長足の進歩を遂げてきている。その結果、時流やその折々の文壇のムードに惑わされず客観的にマン文学を研究し評価できるようになり、マンの在りし日の実像を日々具体的に知ることもできるようになってきた。[ここにおいてマンのこの「転向問題」の大筋はおよそ以下のように解読できはしないだろうか?]

 形而上学的・内面的な美を身上とするドイツ市民芸術は本質的に非政治的であった。十九世紀末のデカダンスの美は、往年の活力を今や失った、この市民文化の寂滅寸前の最後の輝きであった。やがて二十世紀という「政治の時代」を迎え、第一次世界大戦が勃発すると共に、非政治的なドイツ市民文化の解体は決定的となった。歴史のこの一大転期に直面したマンは長編エッセイ『非政治的人間の考察』を発表し、西欧デモクラシーを峻拒し、非政治的なドイツ文化の伝統を時の流れに逆らいあえて擁護しようとした。以後のヴァイマル時代においてもマンは『非政治的人間の考察』を土台にして、死滅していく過去の伝統のなかに明日の創造に繋がる残余の可能性はないかという、最後のぎりぎりの問との執拗な取組みを続けていた。けれどもナチスの台頭以降マンは、「市民時代の代表者」ゲーテの人文主義*を導きの星にしながら、非政治的なドイツ市民文化に西欧デモクラシーを接木させる芸術的可能性を模索しはじめた。こうしてこの両極間の平衡関係を実現するよう努力することこそは、ドイツ市民文化の伝統を救出し再生していくための窮余の方策と考えはじめた。マンは心情の次元においては過去の伝統を追慕していたけれども、反面、現実的・理性的判断の次元においてはデモクラシーのアクチュアルな意義を認めざるをえなかった。こういう水と油の関係にさえある、心情と理知の次元双方の何らかの調和に向けて入魂渾身の努力を続けていくことこそは、ドイツ文化と自己の芸術を救う唯一無二の可能性とマンは確信するようになった。第一次世界大戦からナチス時代に至るマンの思想遍歴はこのように紆余曲折していた。ここに窺知されてくるのは、終戦直後の我が国のマン受容に見られる類の「デモクラシーの闘士マン」ではなく、マンのファシズム批判が漂わしている「どこかメランコリックで屈折した心理のかげり」(脇圭平『知識人と政治』岩波新書 848 1973年6頁)である。この事実くらい問題の根深い機微はない。

[*人文主義の原語はHumanismusであるからヒューマニズムと邦訳できるけれども、マンもHumaniora und Humanismusのなかで指摘しているように( 10-344以下 )、その語源であるHumanioraはギリシア・ラテンの古典の言語文芸の解読や研究の意であって、双方切り離して考えることはできない。したがって、人文主義と訳した方がより適切と判断し、以下この訳語に統一することにした]。

 けれども同時にまた、この問題を大所高所から遡及的に見るならば、対立する両極のこのようなイローニッシュな宥和は、アンバランスな精神の持主であるが故に病的で、ともすれば破滅しがちな芸術家の、ひいては人間性全般の救済の契機として青春以来マン文学の生涯の主題となっていたことが想起されてくる。するとマンの一見不透明な転向は、根源的には、バランスの回復という、青春以来の自己の文学のキーワードの確認と再生を意図するものではなかったろうか。こういう総括的な観点に立脚して、イローニッシュな屈折と翳りを示している、マンの「転向」のこのような質的同一性と持続性を具体的かつ詳細に解読していくことが、今日のマン研究の焦眉の研究課題となっていはしないだろうか?

 以上の問題と切り離して考えられないのであるが、次に問題となってくるのはマンのナチズム批判の内実である。ドイツ精神の一元化を自党の政治目標とするナチズムは、ドイツ市民文化本来の人文主義的伝統を、したがってマン文学の先述のキーワードを根底から否定する、新時代のデモーニッシュな暴威であった。マンは、ナチズムによるこの均整攪乱を芸術家である自己自身に内在する悪のもっともデモーニッシュな発現形態と見做すようになった。マンは、それ故、時代のこの焦眉喫緊の問題を自己自身の在り方として問いつめていかなければならなかった。時代の問題を自己の実存の問題として把握し究明していくのは、『非政治的人間の考察』以来のマンの文明批評の定石となっていた。時代の危機に対しては創作を通じて対決しようとする、非政治的姿勢をマンは最後まで崩そうとしていなかった。したがって、マンのナチズム批判は芸術家マンの自己批判というかたちで文学作品のなかで形姿化されなければならなかった。この意味でナチズムほどマンの問題意識の急所を刺激して止まないものはなかった。このようなマンの亡命中のナチズム体験を物語化したのが、彼の人生と芸術の最終総括となっている長編小説『ファウストゥス博士』であった。この『ファウストゥス博士』は、『非政治的人間の考察』を序幕とする「ドイツ市民文化の神々の黄昏」の最終幕となっていた。『ファウストゥス博士』は以上のような基本視点から全体的かつ立体的に考察されなければばならない。

 ところでドイツ本国のマン受容に目を向けるならば、現役のドイツの作家たちにとってはマンは過去の遺物に過ぎず、新鮮な問題提起をその文学から読み取ることは難しくなってきている。したがって、彼らのマン評価は概してネガティヴである。アクチュアリティという観点からマンを手厳しく批判したものも少なくない* 。

*Vgl. Text und kritik. Thomas Mann. München 1976.

Was halten sie von Thomas Mann. Achtzehn Autoren antworten.(Fischer Taschenbuch 5464) Frankfurt/M 1986.

最後に近年のマン研究の動向を同時に一瞥するならば、ホモエロティークの観点からこの作家の詩的ファンタジーや美意識の成立と展開の過程を解明しようとする試みは、マン文学に対する斬新なアプローチとなっている。また、マン文学のディスクールをこの作家の人生の歩みや体験から切り離し、様々な角度から自由に分析しようとする、新世代のアプローチも看過できない。マン研究は以前とはおよそ比較にならないほど多種多様化してきている。戦後」とは著しく変貌してきている、このようなドイツ本国や我が国の研究状況を顧慮しながら、『ファウストゥス博士』の作者マンをどのように位置づけ評価したらよいのか、考えてみることが必要となってきていはしないか。本書は以上のような総合的な視点の下に執筆されたものであるが、その際、底本としては左記の全集と日記を用い、全集について数字で括弧内に巻数と頁数を、『日記』については日付によってそれぞれ引用の出所を本文中に記すことにした。

Thomas Mann: Gesammelte Werke in dreizehn Bänden. Frankfurt/M 1974.

Thomas Mann: Tagebücher 1918-1921. Frankfurt/M 1979.

Thomas Mann: Tagebücher 1933-1934. Frankfurt/M 1977.

Thomas Mann: Tagebücher 1935-1936. Frankfurt/M 1978.

Thomas Mann: Tagebücher 1937-1939. Frankfurt/M 1980.

Thomas Mann: Tagebücher 1940-1943. Frankfurt/M 1982.

Thomas Mann: Tagebücher 1944-1946. Frankfurt/M 1986.

Thomas Mann: Tagebücher 1946-1948. Frankfurt/M 1989.

なお本文中の写真絵図は以下の著作から複写したものである。    

BILD UND TEXT BEI THOMAS MANN. EINE DOKUMENTATION. Heraudgegeben

Von Hans Wysling unter Mitarbeit von Yvonne Schmidlin. Bern und Stuttgart 1975.

付 記

 本書第2版刊行以来10年が経過している今日、当時の自分の乏しい力量の限度までやったことを顧慮した上で、以下必要最小限の訂正と増補を行なうことにした。マンのアドルノ・モンタージュにかんしては、より具体的に説明するために双方の原文をそれぞれ引用し、新たに補筆した個所にはゴシック体の括弧[ ](4頁参照)を付し、本書に随伴してくる諸問題は、別途に「補論」として取り上げることにした。ここに思い浮かんできたのは、最近の研究面においては正統的でプロフェッショナルな仕事が軽視されたり、緻密化、細分化によって骨太な問題意識が希薄になっていく傾向が時に見受けられはしないか、という疑念であった。ともかく、本拙著がわが国の今後のマン研究の材料ともなってくれれば幸いである。

                             

2010年5月25日

序 論

晩年の大作『ファウストゥス博士 一友人によって物語られた ドイツの作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンの生涯』(Doktor Faustus. Das Leben des deutschen Tonsetzers Adrian Leverkühn erzählt von einem Freunde) は着手以来およそ4年の歳月を費やし、1947年2月6日にようやく完成された(『日記』参照)。マンは以後、中世の「グレゴリウス伝説」のパロディー作品『選ばれし人』をはじめとする、その他若干の作品を発表した。第二次世界大戦以前に中断し、1945年1月に執筆を再開した『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の筆も、最後まで折ろうとしなかった。しかしながら、これらの作品は『ファウストゥス博士』完成後のいわば後奏曲として書かれたものに過ぎなかった。第一次世界大戦と第二次世界大戦という二十世紀の二度の危機と対決しなければならなかった、マンの人生と芸術の総括として書かれた作品は、ほかでもなく『ファウストゥス博士』であった。自己の生誕70周年を迎えようとしていた、同時にまた、この作品の完成の日もそう遠くはなくなってきていた1945年5月29日、マンはワシントンの国会図書館で『ドイツとドイツ人』という講演を行った。ドイツ論として披露されたこの講演は、作者による『ファウストゥス博士』の解題1となっていた。そのなかの以下のくだりに注目したい。

                

ファウストを音楽に結びつけていないのは、伝説や詩の大きな落ち度です。ファウストは音楽的であり、音楽家でなくてはなりますまい。音楽はデモーニッシな領域です、――偉大なキリスト教徒量であるゼーレン・キェルケゴールは、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』についての胸苦しくなるほどに情熱的な論文のなかで至上の説得力をもってこの問題を取り上げております。音楽はマイナスの符合付きのキリスト教的芸術です。音楽は計算され尽くされ秩序であると同時に、呪文や呪術を思わす仕種の頻出する、混沌を孕んだ反理性です。すなわち数の魔法です。諸々の芸術のなかで音楽ほど現実からもっとも遠くもっとも情熱的な芸術はありません。だから抽象的で神秘的なのです。ファウストがドイツ人の霊魂の代表者であるならば、ファウストは音楽的でなければなりますまい。と言いますのも、抽象的で神秘的、すなわち音楽的なのは、ドイツ人の世界に対する関係、すなわち、不器用ではあるけれども「深遠」さでは世界に冠絶しているという、尊大な自意識の虜となった、デーモンの息吹を浴びている一教授の世界に対する関係なのです。(11-1131以下)

マンは自己の長編小説のことを「理念の構築物」2と呼んでいた。この引用は精緻きわまる「理念の構築物」である『ファウストゥス博士』において相互関連的かつ重義的に展開されている、マンの問題意識の精髄をこれ以上考えられないほど凝縮的に言い表わしている。その論旨は、マン文学全体のコンテクストに密着して解釈するならば、およそ以下のように敷衍できるだろう。

マンの文学を開花させ庇護する温床となっていたのは、非政治的な文化国家ドイツであった。マンにとってはドイツとは教養市民層を基体とする文化の国を意味していた3。このようなエリート的・伝統的な国家観念は、二十世紀という政治と技術の時代を迎えると共に無効化しはじめた。伝統的な市民文化の教養遺産は解体し、マン文学の成立基盤も崩壊しはじめた。第一次世界大戦は、市民社会の伝統的な価値体系のすべてに最後の鉄槌を下そうとしていた。マンの芸術は新時代によって死刑の判決を受けねばならなかった。このときマンは、『非政治的人間の考察』を上梓することによって、デカダンスの美をその最後の輝きとして解体の一路を辿ってきた、ドイツの市民文化の、就中、十九世紀の芸術精神の伝統を、狂瀾を既倒に回らすすべがないのを熟知していながらも、あえて擁護しようとした。マンは、ドイツ市民文化の末裔である自己の作家精神の系譜の正統性を立証するために、このエッセイの紙面に自己のすべてを書き留めねばならなかった。『非政治的人間の考察』は以上のような意味でマンの自叙伝とも言える作品であった。『考察』――以後簡略化して『考察』とする――はマンの以後の文学と人生に根深い作用を及ぼし、濃い影を落としていた。『考察』は、それ故、「マンの人格と全作品を個々に渉って理解するための不可欠な鍵」4 となっていた。

この保守主義の作家マンにとって十九世紀とは、自己の師匠と仰ぐ文化の巨人の世紀であった。各国それぞれの個性的な美を造形した芸術が百花繚乱と咲き匂っていた、ヨーロッパの十九世紀は市民文化の最後の黄金時代であった。それは消える寸前の奇羅星の輝きにも譬えられよう。この文化最後の饗宴の場において、ドイツが自国の芸術の精髄として、すなわち、イギリスの長編小説、フランスの心理小説や印象派の絵画の等値対等物として誇りえた芸術のジャンルは音楽であった。マンは『考察』のなかで音楽を以下のように定義していた。

                   

だが、ルターの宗教的音楽活動以来、音楽、すなわち、バッハからレーガーに至るドイツ音楽は 対位法や大フーガは、プロテスタント的倫理を音響によって表現しただけのものではなく、恣意と秩序との壮大で多声的な交錯と相俟ってドイツの生自身を模写し、芸術的・霊的に反映したものであった。(12-320)

「音楽」は、近世の黎明を告げるルターの宗教改革以来、人間の魂の救済という宗教的・倫理的次元の芸術として、同時にまた、恣意と秩序という芸術の「アンビヴァレンツ」の精髄として、以後のドイツ文化のパラダイムであると、『考察』当時のマンは考えていた。このような文明批評的音楽観は、『ドイツとドイツ人』からの先の引用と本質的に同じ意味内容のものと解しうる。このことに着眼するならば、マンは、ドイツのナチス化と共に思想上の転向を行ったけれども、自己のドイツ観のパラダイムは最後まで変えなかった。したがって、第一次世界大戦当時以降、微妙な屈折や変貌を示しながら展開されていた、マンのドイツ論の根幹のイメージは実質的には少しも変わっていなかった、と言えはしまいか。では、ドイツ文化の精神的象徴である「音楽」とはどのような芸術なのか、具体的に見ていくことにしたい。

 音楽とは、絵画や彫刻のような造形芸術とは異質な、不可視的な芸術である。「音楽ほど現実からもっとも遠く、もっとも情熱的な芸術はほかにない。だから抽象的で神秘的である」(11-1131)。音楽によって象徴される「ドイツ的なるもの」は、ドイツ人の考え方そのものを根底的に規定している、ドイツ語からもっとも如実に伝わってくる。ドイツ語は存在の静止的な局面よりも、動的で多声的な局面を表現する最適の言語である。たとえば、日本語の「現実」に相当するドイツ語には、WirklichkeitとRealitätという二つの単語がある。これらそれぞれの単語から伝わってくるドイツ語固有の語感を心に響く手応えとして吟味するならば、生粋のドイツ語であるWirklichkeitからは生成する何ものかが触知されてくる5 。『善悪の彼岸』のなかに箴言的に記されている、ニーチェの光彩陸離たる『マイスタージンガー』の前奏曲の分析によれば、このヴァグナーの音楽はドイツ的生成のパトスの総括像となっていた。ドイツ語は、この「ドイツ的生成」のパトス固有のダイナミズムをその生命としているが故に、本質的に音楽的に作用する言語となっていた。このことについては、「ドイツ的」とはどういうことなのか、その形姿を神話的に寓意化するために書かれた『ニーチェ―神話の試み』のなかで、ベルトラムがニーチェの定式化に典拠しながら力説するところであった。マン自身も、「ドイツ語はひとつのパイプオルガンである」6と、また、創作行為とは「文学的奏楽」7であるとそれぞれ定義していた。ドイツ文化とはこのように体質的に「音楽的」なものであった。この「音楽的」という言葉によって総括されるドイツ文化は、魂の内面への沈潜という局面において世界におよそ類例のない高みと深みを究めることができた。このような「内面性」こそは、伝統的なドイツ文化という高嶺の花を咲かせる蕾にも譬えられよう。マンは講演『ドイツとドイツ人』のなかでこう述べていた。

  

それとも、きわめて翻訳しにくい「内面性」という言葉でもって特徴づけられている、あのもっとも有名と思われる、ドイツ人の特性を取り上げてみて下さい。繊細さ、心の含意深さ、非世俗的な沈潜、自然に対する敬虔さ、詩作と良心の純粋きわまる真剣さ、要するに、すぐれた抒情詩の本質的特性のすべてはこの「内面性」のなかに含まれております。そして、世界はこのドイツ的内面性から受けた恩を今日でさえ忘れられないでしょう。ドイツの形而上学、ドイツの音楽、とりわけドイツ・リートという秘蹟、国民的という点でまさに一回限りで類例のないものは、この「内面性」の所産なのです。(11-1141以下)

「内面性の所産」である音楽的・形而上学的な「ドイツ文化」は、現実的・技術的な「西欧文明(Zivilisation) のアンティテーゼをなす相関概念であった。それはまた、この国特有の政治的、社会的後進性を培養土としたものであった。英仏などの他のヨーロッパの文明諸国の場合のように、市民階級の手による統一的な国民国家が成立しなかったという運命の星の下に、「ドイツ的な本質の拡大であると同時に深化」、さらには「ドイツ的な類型の深化」である、非政治的なドイツ市民文化は形成され展開されてきていた(12-114)。このような歴史の特殊状況を成立母胎とするドイツ文化は、図式的に言い表わすならば、精神の「垂直面」を究めていくのを自己の本領としていた。そのためにドイツの文化人は、精神の深遠さという面では最高の世界に定住している、と自負していた。だから、政治性、社会性という精神の「水平面」に繋がっていくための、現実的な配慮と能力に乏しかった。「ドイツ人の世界に対する関係」は「抽象的で神秘的、すなわち音楽的」であっても、実務的ではなかった(11-1132)。この事態を象徴しているのが、デモーニッシュなドイツの一教授「ファウスト博士」の世界に対する関係にほかならない。ドイツは、フランスによって代表される文明国の場合とは異なって、政治面と文化面との間の正常な相補的関係を著しく欠いていた。ブロッホはドイツの前近代性を以下のように総括化していた。

 

1918年に至るまでブルジョア革命を成功させることのできなかったドイツとは、イギリス、それどころかフランスとは異なり、非同時性の古典的な国、すなわち、克服されていない、古い以前の経済的存在や意識を残存させている古典的な国である8 。

この『「非同時性」(Ungleichzeitigkeit)の古典的な国」』という、問題の骨髄的深処を突いているブロッホの定式によって浮上してくるのは、マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』になかで、

ドイツ人は他国民が「実践」してきたことを政治面で「思考」してきた。ドイツ人は他国民の「理論的良心」であった。ドイツの思惟の超俗性と尊大さと歩調を合わせていたのは、他国民の現実の一面性と低俗性であった。そういうわけで、「ドイツ人の国家制度」の「現実」が「アンシャン・レジームの完成」を、すなわち、現代国家の肉体に突き刺さっている棘の完成を表わしているときに、「ドイツの国家知識の現状」は「現代国家の未完成」を、すなわち、その肉体の損傷を表わしている9 。

と洞察していた、政治と思想双方の足並が揃わぬ近世以降のドイツ史の変則的な現実である。詩文芸、音楽、哲学の領域におけるドイツ文化の世界史的偉業は、寒冷な荒地に突然変異的に開花した桜の花に譬えられよう。文化と歴史の間の発展の際立った不均整はそれこそドイツの特異現象となっていた。しかしながらドイツは、ヨーロッパ全体の近代化という歴史の大勢に直面したとき、文化の国として「非同時性の古典的な国」に止まるわけにはいかなかった。迅速に現代化し、西欧の文明諸国に追いつくよう尽力しなければならなかった。「従順な規律と規律を破るエクスタシー、兵士と神秘家、世界占有への憧憬と、世界から隔絶し自己の抒情的世界の枠内に蟄居したいという欲求、技師とロマンティックな音楽、侵略欲のエネルギーと過剰な形而上学を共有する国」10(ヘラー)という、両極的アンビヴァレンツこそは文化の国ドイツのトポスとなっていた。ドイツは、このような分裂状態を克服しようとしたときに、この国においてもっとも欠落していた政治的啓蒙を文化の対錘的補正物としてどうしても必要としていた。近世ドイツの世界史的使命となっていたのは、政治と文化との相互の刺激による協調関係の確立と維持であった。そのためのたゆまぬ努力がなされなかったならば、ドイツの現代化は停滞し、ドイツは対外的にも対内的にも様々な困難や障害に直面しなければならなかった。知的明視に裏付けられ、西欧的に洗練された、ときに老獪な印象さえ与えるバランス感覚は、ドイツ人生来の資性ではなかった。現実面、政治面でのこのような不器用さ、未熟さ、先の引用中のマンのテルミノロギーを借用するならば、「抽象的で神秘的、すなわち音楽的」な「ドイツ人の世界に対する関係」によってドイツが国際政治の場において孤立の辛酸と悲哀を体験し、苦境に陥ったことも稀ではなかった(11-1131)。このような「世界精神との不調和」(12-926)のもっともデモーニッシュな悲劇となったのが、ナチス・ドイツの運命であった。非政治的なドイツ精神は二十世紀においてナチズムという政治と文化の前代未聞の地獄に知らぬ間に引きずりこまれてしまった。ブロッホがドイツ史の致命的問題点と見做していた、「非同時性」の悲劇は言語を絶するものであった。ナチズムは「薄い地殻を破るマグマ」11のように当時のドイツ全土を席巻しはじめた。それは「もっとも暗黒な原始化の泥土の火山」12の如きものであり、その国粋主義・反ユダヤ主義の言動は「集団舞踏病患者と潜在的な幼児殺害狂」13のようにグロテスクな狂暴さをきわめていた。ここで思い起こされてくるのは、『ファウストゥス博士』の語り手ツァイトブロームガこのナチス・ドイツ崩壊の最後の場面で行っていた、以下のような独白である。

呪われよ、もともと実直で正しい操の持主なのだが、ただあまりにも物事を吹き込まれやすく、あまりにも理論的に生きようとする、この人種を悪の道に引きずり込んだ、破滅の元凶どもに呪いあれ!こう呪うのは何とも気分がよい。いや、もし自由でやましいところの全くない人間の胸の底から溢れ出たものであったならば、こう呪うのは何とも気分がよいことだろう!われわれが今その断末魔の喘ぎを体験している血の国家、(中略) この血の国家はわれわれの民族の本性には全く異質なもの、強制されたもの、民族の本性に根ざしたものではなかった、と大胆にも主張する祖国愛、このような祖国愛は良心的というよりも、いい気なものと思われる。(6-638以下)

ツァイトブロームのこの血を吐くような肉声は、音楽の国ドイツの宿命の悲劇を日夜体験した、実直な人文主義の胸の張り裂ける思いを吐露して余すところがない。ナチズムは、マンの人生と創作の基盤となっていた、非政治的なドイツ市民文化の人文主義的伝統を第一次世界大戦当時とはおよそ比較にならぬほどラディカルに否定し、圧殺しようとしていた。この最悪の事態を直視し続けていたマンは、ナチズムの萌芽となる「デモーニッシュな胚芽」(マイネッケ)14が非政治的・音楽的なドイツ文化の胎内に潜伏していることを認識した以上、この問題との対決を自己自身の運命として正受しなければならなかった。そして、ドイツ精神のこの救いがたい病原菌を摘出していかなければならなかった。「運命愛」 (amor fati)に徹することができるか否かは、人間の偉大さの試金石であることをニーチェは随所で力説していたが、このニーチェにとっては、偉大さと事態の必然性に対する洞察を切り離して考えることはおよそ不可能であった15。このような意味で芸術家マンは偉大であったと言わねばならない。以来亡命生活を通じてのマンのナチズムとの対決が始まったわけであるが、それは、音楽をドイツ文化のパラダイムとする、自己の文明批評の射程内でドイツ文化の在り方を改めて問い直す、作家人生最後の入魂の創作行為となっていた。

 ここで視界を広げてこの問題をより普遍的に把握するならば、それは、ニーチェがつねに熱い関心の目を向けていた「何がドイツ的であるか、という以前からの問題」16との改めての対決を意味していた。ニーチェによれば、そのときドイツ人は問題を「存在」(Sein)という静止相においてではなく、「生成」(Werden)という動相においてつねに捉えようとする17、ドイツ精神本来の在り方に対する解答は尽きるところを知らない。対立や否定を媒介にしてより高次の総合を目指す、ドイツ特有の弁証法的な探究は際限なく続けられていかねばならない。だからこそニーチェは、「(前略)たとえヘーゲルのような人間がいなかったとしても、われわれドイツ人はヘーゲリアンである」18と言う。マンのナチズムとの対決は、ドイツ精神の在り方にかんするこの普遍的な問いに対する、彼なりの探究を行うことにほかならず、ひいてはまた、そのことによって自己の文学をアクチュアルに再生する創造的行為を意味していた。『ファウストゥス博士』は、このようなドイツ精神の恒常的な運命の星の下に成立した、マンの「辞世の作」となっていた。このとき音楽は「芸術と文化全般の絶望状況の範例と比喩」19とならねばならなかった。

 マンが講演『ドイツとドイツ人』のなかでドイツ文化のパラダイムである音楽を「計算され尽くされ秩序であると同時に、呪文や呪術を思わす仕種の頻出する、混沌を孕んだ反理性、すなわち数の魔法」(11-1131)と定義していたことに改めて注目したい。このように対立し合う二つの世界から成立している、音楽のアンビヴァレンツを総括化している、この刮目すべき定式化ははたしてマン自身の独創だったのだろうか。立ち止まって考えてみるならば、そうは言い切れないのではなかろうか。というのも、音楽のアンビヴァレンツを指摘する芸術論はドイツにおいてはすでに定着していはしなかったろうか。その活例を挙げよう。ロマン派の詩人ヴァッケンローダーは『芸術を愛する一修道僧の心情の披瀝』のなかで音楽の成立の秘蹟的経緯を敬虔かつ情熱的に語っていた。その主旨を要約するならば、楽曲とは、夢幻的ファンタジーという混沌を数学的厳密さをきわめた法則の圏内に統御し形象化することによってはじめて成立しうる、芸術作品にほかならない20。その創作過程はこういうアンビヴァレンツの極みである。最高の音楽作品を聴いたときの美的体験は言葉では尽くせない。音楽の世界特融のこの秘跡は、数学的な法則によってこの上なく精妙に構成されている楽譜の媒介なしには体験不可能である。すると上掲のマンの定義は、実質的には、ロマン主義の音楽観を、それとも音楽にかんする基礎知識を継承し微調整したものと言えはしないだろうか。しかしながらマンは、このようなカノン化された音楽観をただ反芻するに止まってはいなかった。キェルケゴールの音楽観を手引にして問題を神学的に掘り下げていた。音楽を「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」(11-1131)と定義することによって、そのデモーニッシュな深淵においてこそはじめて啓示されてくる、救済の奇跡を模索していた。『ファウストゥス博士』におけるマンの音楽観は、それ故、以前には見られなかった激しい宗教的情熱を放射していた。文化のデモーニッシュな領域の通暁者として出現した悪魔がここで披露していた以下の音楽論は、「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」という、マンの定義を敷衍したものにほかならない。

                   

彼(キェルケゴール)は知っていた。だから、この素晴らしい芸術に対する俺の特別な関係に精通していた―― 彼の見るところ、この芸術はもっともキリスト教的な芸術なのだ。―― 勿論、マイナの符合付きだ。それはキリスト教によって創始され、展開されたのだけれども、やがてデモーニッシュな領域として否定され排除された、―― 君、このことは知っておけよ。音楽はきわめて神学的な問題なのだ ―― 罪がそうであるように、悪魔である俺がそうであるように。このキリスト教的音楽に対する情熱こそ本当のパッションなのだ。認識と惑溺が一体となっているのがこのパッションなのだ。本当の情熱は曖昧なもののなかにのみイロニーとして存在するのだ。最高のパッションの領域は絶対的に疑わしいものなのだ(後略)。(6-322以下)

この悪魔の台詞は、キェルケゴールの『あれか、これか』のなかの以下のくだりを下敷きにしていると推断できよう。

 

(前略)そして音楽はより厳密な意味でキリスト教芸術であることが、さらに正しい言い方をするならば、キリスト教が排除することによって措定いる芸術であることが(中略)証示されてくる。別の言い方をするならば、音楽はデモーニッシュなものである。音楽が絶対的な対象としているものは、エロス的・官能的な天才性のなかにある21。

      

キェルケゴールによれば、「官能的な天才性」(sinnliche Genialität) こそまさにデモーニッシュなものの化身であった。こういう官能の世界をキリスト教は排除した。しかしながら、まさにこの否定的媒介によってこそ、精神は官能という人間性の深淵を知り、それを精神として新たに措定することができた。「官能的な天才性」の世界をただ音楽によってのみ表現している、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』22こそは、デモーニッシュなるものの金字塔的表現となっていた。つまり音楽こそは、天才的な域にまで高められた官能性をその生身の姿で形姿化する、最善最高の表現手段にほかならない。音楽は、否定を媒介として問題の本質を動的・統一的に把握する、弁証法の立場から「真にキリスト教的な」芸術と言わねばならない。およそ以上のようなキェルケゴールの音楽論に典拠しながら、マンは音楽を「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」と『ドイツとドイツ人』のなかで定義していた。しかしながら、マンがここで考えていたデモーニッシュなものとは、キェルケゴールが情熱的に論述していた「官能的な天才性」の世界のみを言い表わす概念規定のみに止まっていたのだろうか?「官能的な天才性」の世界は、キェルケゴールによってこのように弁証法的に肯定されるとき、『ファウストゥス博士』の悪魔のいう「絶対的に疑わしいもの」、すなわち、アンビヴァレンツの極致となってくる。このことはいちおう確認できるけれども、マンがキェルケゴールを引き合いに出しながら『ドイツとドイツ人』で用いていた「デモーニッシュ」という概念は、そのコンテクストにおいては「官能的な天才性」の世界のみに限定されてはいはしなかったと思われる。それは同時にまた、厳密な秩序と反理性的混沌が一体化している、音楽のアンビヴァレンツを言い表わす概念規定となっていた。マンはキェルケゴールのデモーニッシュという概念を同心円状に広げ、そのなかに自己の問題意識を投入していた。概念規定を客観的に明確化せず、様々な契機を自己の詩的想念のなかにアマルガム化しているのは、何もこの場合に限られたことではなく、マン文学の通例となっていた。芸術家の解釈や受容がしばしば「我流で情緒的な手筈」(9-562)となるという恣意的な事態を、マンは自己弁明の気持というよりも、むしろ芸術家としての自負をもって是認していた。主観的な理解は、芸術家が自由に行使できる特典とさえ思っていた。マンにとっては自己自身の焦眉の問題意識を語ることがすべてであった。『ドイツとドイツ人』で指摘されている音楽のアンビヴァレンツ、すなわち「デモーニッシュなもの」は、『ファウストゥス博士』においては、音楽の歴史的発展の最終帰結である「十二音技法」(Zwölftonthechnik)の世界として主題化されていた。そしてここにおいては、十二音技法が究めた音楽のアンビヴァレンツの極限は、ドイツ文化の運命に対して突きつけられた最終究極の問題提起の場となっていた。当時のマンの信条によれば、芸術家は、ドイツ文化と人類の救済の夢を最後まで放棄したくないならば、十二音技法によってもっともラディカルに表現されているような、アンビヴァレンツの極北の地にまで踏み込んでいかなければならない。そして、このようなドイツ文化の深淵を究め尽くしたときにこそ、ナチズムの正体を解き明かし、人類の救済の一縷の可能性を模索しうる糸口が見つかるに違いない。このような想定の下にこそマンは『ドイツとドイツ人』のなかで

ファウストを音楽に結びつけていないのは、伝説や詩の大きな落ち度です。ファウストは音楽的であり、音楽家でなくてはなりますまい。(11-1131)

という斬新大胆なテーゼを掲げることができた。『ファウストゥス博士』の主人公は、事実、文化の如何なる深淵にも恐れることなく下りていき、問題と果敢に取り組み、その最終帰結を究明しようとするドイツ人、すなわち「ファウスト的人間」である、孤高の天才的音楽家となっていた。それはマンならではの着想の妙であったと言えるだろう。マンはドイツ文化の問題をこのように神話的に擬人化したかたちで把握していた23。

 『ドイツとドイツ人』からの冒頭の引用はおよそ以下のように拡大解釈できるだろう。マンはここにおいても、音楽的なドイツ市民文化に内在する危機、『考察』以来の問題圏域内でナチズムを取り上げていた。マンにとってナチズムとは、第一次世界大戦当時以来対決の焦眉の対象としなければならなかった、「非政治的・音楽的」なドイツ市民文化の危機の最終帰結を意味する、新時代のイデオロギーにほかならなかった。だからマンは、「ファウスト的人間」である音楽家を主人公にした、この『ファウストゥス博士』をどうしても書き上げなければならなかった。スイスに続く亡命地アメリカにおいて完成されたこの長編小説は、したがって、『考察』の著者トーマス・マンの最後の問題提起となっていた。ここにおいてマンは、ニーチェのテーゼを借用するならば、「必然的なることをただ耐え忍ぶだけなく、いわんや隠しもしない、(中略)それを愛する」24芸術家、すなわち「運命愛」の芸術家としてナチズムを自己の芸術に内在している危機として実存的に把握し、その最終帰結を引き出していた。このように時代小説、音楽小説、芸術家小説という異なった相貌を同時に示しているがために玉虫色の光を放っている、この自叙伝的長編はヴァグナーの辞世の作『パルジファル』に等しい作品として象徴的な意味でマンの「最後の作品」とならねばならなかった25。そして同時にまた、「芸術家の人生はその作品と同じように最初から統一体である」(12-192)という、『考察』以来の自己の芸術上の信条をマンはこの作品を完成することによってついに実証することができたわけであった。

『考察』と『ファウストゥス博士』はこのようにドイツ精神のパラダイムとしての「音楽」を主題化しており、双方とも究極的にはマンのもっともラディカルな自己告白の書となっているが故に、「本来的類縁性」26を共有しており、後者は結果的には前者の「直接の続編」27に等しい作品となっていた。『ファウストゥス博士』の成立は『考察』という土台ぬきには考えられない。マン自身亡命後も「結局のところ自分は『考察』の著者であった」28と述懐していた。この意味で双方の大作がマンの全作品のなかで占める比重はじつはきわめて大きい、と言わねばならない。

 

 「悲劇的なるものの本質は、人間において神的なものと悪魔的なものがすでにまさに解きがたく結びついているところにある」29(マイネッケ)。芸術家は生の全体性を造形しようと決意するならば、この人間性のアンビヴァレンツを避けて通ることはできない。芸術家はこのような悲劇の深淵を認識し、くぐりぬけてこないことには、生の奥義は理解できない。生は死というその背面の世界ぬきには考えられない。死の体験なしには生の十全な認識と充足は不可能である。したがって、「この世の人生への奉仕」(11-851)の道を知るためには、「死への共感」という、敬虔であると同時に果敢な態度でもって人間性の悲劇の深淵に対する目を開き、それを究めていかねばならない。すでに夙くより『ヴェニスに死す』などの作品が教示してきたところであるが、その徹底性故に一切の欺瞞を許容しない認識はこのとき、奈落の深淵への一路となり、その終着の地は混沌とした死の世界にほかならない。その名に値する人文主義はこのような死の体験をその成立母胎としなければならない。これが『考察』を前座とする『魔の山』の中心思想となっていた。したがって、マンが青春以来冷徹孤独な非人間としてつねに批判と弾劾の標的としていた認識の芸術家こそは、同時にまた、その生来の認識能力故に人類の精神的指導者にもなりうるという、イローニッシュで可塑的な存在でもあった。認識の芸術家は、こういう悲惨と栄光の同時的アンビヴァレンツをその生来のアイデンティティとしていた。芸術家とはこういう両極的可能性を内に秘めた、変幻自在なプロトイス的人間にほかならない。したがってマンにとっては、ゲーテ、ヴァグナーをはじめ自己の師匠と仰いでいた、十九世紀の市民的芸術家は人間性のもっとも具体的な範例を意味していた。このような芸術家が決行していた生の地獄巡りは、生をその根底から全体的に造形しようとする、本源的に誠実な人間精神の証しにほかならない。救済の望みの全くない死の深淵においてマンが最後の一縷の望みを託していたのは、その深淵そのものから暗示されてくる筈である、生のユートピアの符牒であった。それは、闇夜に一瞬瞬く救済の曙光に譬えられよう。「『考察』の続編」である『ファウストゥス博士』においては、「希望喪失の彼岸に生まれる希望、絶望の超越、(中略)信仰を超えた奇跡」(6-651)の潜在的可能性をめぐる最終の問題提起が行われていた。文化の救済の問題はこのような宗教的次元において弁証法的に考えられねばならなくなってきていた。このようなネガティヴな宗教性こそは、音楽に最後に残されていた表現の唯一無二の可能性であった。だからこそ音楽は「芸術と文化の絶望状況の範例と比喩」として神学的な問題とならねばならなかった。

 では「マイナスの符合付きのキリスト教的芸術」である音楽は『ファウストゥス博士』においてはどのようなユートピアへの道を暗示していたであろうか?言い換えるならば、非政治的なドイツ市民文化の「神々の黄昏」を描いたこの「最後の作品」は、どのような究極のメッセージを秘匿していたのであろうか?作品内在的解釈のパラダイムに替わるものとして新たに提唱されている「読者による作品受容の理論」をも援用しながら、この難問を解読することが、マン研究上きわめて重要な課題となってきたのではなかろうか?というのも、マンにおける「負」の世界に突き入り、その実体をまずその根底から究明することによってはじめて、『魔の山』の時期以来ゲーテを始祖と仰ぎ模倣していた、マンの人文主義の真意を理解する道が開けてくるのではないか、と想定されてくるからである。生来の祝福とユーモラスな人生肯定をキーワードとしている長編『ヨゼフとその兄弟たち』や『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』などによって代表される、マン文学における「正」の世界は、『ファウストゥス博士』の「負」の世界を究めることによってはじめて立体的に理解することができるのではなかろうか。もしそうであるとするならば、「悲劇とは―最終的には― 崇高な茶化しである」(9-394)という、マンの芸術観の奥深い機微、それと密接に関連して、明暗両世界が相互逆対応的に繰り広げられているマンの「遊び」(Spiel) の芸を理解する糸口を見出すこともできるだろう。そしてさらにまた、「桁はずれに独立独歩であると同時に代表的」(メンデルスゾーン)30あった、作家としてのマンの人生の歩みはどのようなものだったのか、その基本の筋道を具体的に知ることもできるだろう。こう想定するならば、『考察』の時代とナチス時代という自己の人生と芸術の二度の存外の転機の危機とマンはどのような対決を行ってきたか、「音楽」と「政治」との係わりという観点から考察していかなければならないのではないか。本論は以上を全体の道筋としている。

                

第1章 『非政治的人間の考察』

      ―『ファウストゥス博士』の前奏曲―

1 ドイツ精神の西欧化

マンは、西欧文化の最後の全盛期であった十九世紀の代表的ドイツ人として、青春以来の師匠であったショーペンハウアー、ヴァグナー、ニーチェの三人の名を折りある毎に挙げている。この「ドイツの空に燦然と輝く、永遠に結ばれていた精神の三連星』(12-72)――以下簡略化して「三連星」とする――は、ローマのカトリック教会の覇権にプロテストしてきた、ルターの宗教改革以来の非政治的なドイツ「文化」( Kultur) の伝統を受肉化していた世紀の巨人であった。この「三連星」共通の気圏となっていたのは、デューラーの銅版画『騎士と死と悪魔』(写真1参照 65頁)によって象徴される、如何なる深淵を恐れぬドイツ的勇気であり、その作品の隅々にまで浸透している「十字架、死、納骨堂」の霊的厳粛さであった。この北方的・プロテスタント的な、すなわちドイツ的な世界こそは、マンの目には「全世界の、自己の世界の象徴」(12-541)と映じていた。「三連星」は以上のような意味でマンにとっては「音楽家」(Musiker ) にほかならなかった。

 苦悩とペシミズムの化身である「三連星」は、同時にまた、純粋にドイツ的な世界とは異質な「西欧的」な教養の持主であった。「ショーペンハウアー、ヴァグナー、ニーチェは文筆家として、エッセイストとして、当世風の文士としてヨーロッパ人であった」( 12-135)。ヴァグナーもニーチェも共にドイツ精神の本格的な批判者であった。ヴァグナーの作品は、成程、「ドイツ的本質の爆発的啓示」(12-77)となっていた。しかしながら、シューマン、シューベルト、ブラームスの作品の場合のように純粋なドイツ音楽とは言い切れない作風が、このヴァグナーの芸術を同時に際立たせていた。ヴァグナーの場合、ドイツ精神の表現方法がヨーロッパ的・コスモポリタン的であった。すなわち、「現代的な屈折と解体が見られ、装飾的、分析的、知的」(12-77)であった。したがってヴァグナーの芸術は、「センセーショナルなことにかけてはこれ以上のものは考えられない、ドイツの本質の自己描写であると同時に自己批判」(12-77)となっていた。ヴァグナーはこのような「間接的方法」(12-76)でもってドイツを批判していた。ニーチェもまたドイツの批判者であったが、そのドイツ批判は「直接的・文筆的方法」(12-76)によるものであった。ニーチェが自己と同類の批評家として賞賛の辞を惜しまなかったのは、独仏架橋の文士ハインリヒ・ハイネであった。その筆致は竪琴の音のように流麗な、その筆鋒は針のように鋭い散文によってハイネは評論を文学のジャンルにまで高め、ドイツ文学の西欧化に甚大な貢献を果していた。このような音楽と批判の一体化こそはハイネのドイツ文学史上不滅の功績にほかならない。ニーチェは批評家としてこのハイネの衣鉢を継承していた。マンは言う。「ニーチェはドイツの散文を感性的なもの、軽妙な芸を身につけたもの、美しいもの、鋭いもの、音楽的なもの、アクセントのあるもの、情熱的なものにした――これは前代未聞のことだった。以後ドイツ語で書こうと意を決した人間は誰しも、ニーチェのこの影響から逃れることはできなかった」(12-88)。宗教、哲学、道徳、芸術などの文化のすべての領域に向けられたニーチェの筆鋒は、まさに批評の芸術となっていた。ニーチェの散文においては芸術家の概念と認識者の概念は一体化しており、芸術と批評の境界はもはやなくなっていた。「音楽」の国ドイツにこのようなヨーロッパ的な批評精神を芸術として定着させることによって、「ドイツの批評主義的教化、知性化、心理学化、文学化、急進化」(12-86)のために残した、ニーチェの功績はそれこそ無量無尽であった。

 ドイツ本来のプロテスタント的・内省的な文化の伝統を継承した「音楽家」(Musiker) であった「三連星」は、同時にまた、「西欧的な」、すなわち、このようなドイツ文化に対する主知主義的な批評家としては「文明」(Zivilisation)の精神を身につけた、「文士」(Literat) でもあった。彼らの世界においては、音楽的な文化の伝統を正統的に継承していく「正」の面と、それを批判と分析によって解体していく「負」の面がヤーヌスの顔のように同時に一体化していた。「三連星」の世界のこのアンビヴァレンツこそは、マンの見るところ、自国ドイツが世界に誇りうる根本特性となっていた。彼らの偉業が「ヨーロッパ的事象」(12-72)として不滅の光芒を放つことができたのは、創造精神のこのアンビヴァレンツに徹したからにほかならない。彼ら三人は、非政治的・音楽的世界を掘り下げることによって、それと異質な、否、対極的な知的・分析的な世界をほんとうに活かすことができたからこそ、代表的なドイツ人にまで自己を高めていくことができた。彼らは、「ドイツの本質の自己描写であると同時に自己批判」(12-77)を貫徹したからこそ、ドイツの本質の真の普遍化をそれぞれ実現することができたわけである。ちなみに指導者の名に値する模範的な存在になろうと欲するならば、人間は他者との「出会い」によって成長し、全人的に人格を形成していかなければならない。ドイツが世界に誇る教養の理念の普遍性は、人間のこのようなもっとも具体的な問題との持続的な取り組みから生まれたものであって、その意味でドイツ精神ほど人間的なものはない。ニーチェは『人間的な、あまりにも人間的な』のなかでドイツ精神のダイナミズムを以下のように定義していた。「よい意味でドイツ的であるということは脱ドイツ化することである」1 。自己に徹することによって異国の世界の教養を自己固有の方法で摂取し、自己を超えていくことは、まさに「ドイツの学習」2 となっていた。このようなダイナミックな「ドイツ的生成」こそは、「ドイツの可能性と素質の理想とするところ」3であった。マンは『考察』においてこのようなドイツ精神の自己展開と自己発展の問題についてこう語っている。

                       

非ドイツ的に、それどころか反ドイツ的に振る舞うことはドイツの人文主義の属性のようなものになっている。国民的感覚を解体してコスモポリタンな世界に向かう傾向は、尺度となる判断に従うならば、ドイツの国民性の本質と切り離せない。自分のドイツ的特性を見出すためには、それを場合によっては失わなければならない。したがって、異質なものが加わらないかぎり、より高度のドイツ的特性はおそらくありえないだろう。典型的なドイツ人こそはヨーロッパ的人間であったし、ドイツ的なもののみに固執するのを野蛮と見做していたに違いない。(12-70以下)

ショーペンハウアー、ヴァグナー、ニーチェは、マンにとっては三身一体化して「自己の精神的・芸術的教養の基礎」(12-71以下)となっていた。十九世紀のヨーロッパの夜空に瞬くこの「三連星」の血脈に繋がることができたという自負と矜持は、マンの作家精神最大の支えとなっていた。マンは十九世紀の嫡子として青春時代このような教養体験の恩寵に浴することができた。「十字架、死、納骨堂」が醸しだす幽暗深遠な霊気は、マンの作品固有の倫理的雰囲気を醸成していた。この局面においてマンは「音楽家」であった。けれどもマンは、この「音楽」の世界に安住している生粋のドイツの詩人ではなかった。心理学的、批判的分析を自己の本領とする、ヨーロッパ的な「文士」(Literat)でもあった。マンは『考察』のなかで自己存在のアンビヴァレンツについて次のように告白している。

   

私はこう申したい。若い男(マン自身のこと)は、趣味と時代の状況に迫られてヴァグナーの芸術とニーチェの批判を自己自身の教養の基盤とし、主としてこの両者を拠り所にして自己形成を行わねばならなかった。この男は同時に、自己自身の国民的領域であるドイツ的特性が、きわめて注目すべき要素、すなわち、情熱的批判を促して止まないヨーロッパ的要素であることに目に止めないわけにはいかなかった。(12-78) 

マンはニーチェの直系の「デカダンスの心理学者」として、美を没落前の最後の響きとする、非政治的なドイツ市民の末期の運命に対して冷徹な分析のメスを入れることによって、ドイツ文化の批判者となった。マンは、音楽的な「詩文芸」( Poesie) を正統視しがちなドイツ文化の土壌にヨーロッパ的な「長編小説」(Roman) を誕生させることに成功した、数少ないドイツの作家であった。ドストエフスキーの観察によれば、ドイツ民族はローマの遺産のすべてに対するプロテストを行ってきた。したがって、ドイツ民族とは本質的に「<非文学的な民族」(das unliterarische Volk) であり、「非心理学的、反心理学的な民族」なのであって(12-78)、西欧的な「文学」(Literatur)をドイツに根づかすことはそれこそ至難の業であった。このドイツの文化土壌にマンの処女長編小説『ブッデンブローク家の人々』のような、小説の全盛期であった十九世紀のフランス、イギリス、ロシアの傑作と肩を並べることのできる、本格的な「長編小説」が誕生したのは、ドイツ文学史上画期的な出来事となっていた。このことによってドイツの散文を西欧化し、ドイツの長編小説の地位と声望を高めるためにマンの果たした貢献はそれこそ甚大というのほかはない。マンの小説は、主知主義的な西欧文明に対して自国の文化の「音楽的」資質の優位を固執する、ドイツの民族主義的偏向の是正を促進させるという、啓蒙的・進歩的作用を及ぼしていた。マンは『考察』でこう述べている。                     

世間の関心を浴びて長編小説、より正確にいうならば、社会小説が台頭したのは、(中略)ドイツの文学化、民主化、「人間化」の過程の進捗具合を正確に計る物差しとなるであろうことは確かである。(12-70)

けれども、このドイツの「文学化」(Literarisierung) 、「民主化」(Demokratisierung) は創作という非政治的行為の圏内に止まっており、西欧文明の精神特有の政治主義的色彩は微塵もなかった。ここでいうドイツの「西欧化」(Europäsierung)はこの意味でもじつはドイツ的現象の枠内に留まっていた。          

「三連星」の由緒正しい継承者マンの創作活動の活性源となっていたのは、言うまでもなく非政治的なドイツ市民文化の伝統であった。この伝統の様式を規定していたのは、堅実で秩序正しい現世の生活を重視するプロテスタンティズムの倫理であった。それは芸術の分野においては「職人の技能」(12-103)を生かしていくことを至道としていた。こういう職匠魂の起源を問うならば、マンの故郷の街リューベック等、ハンザ同盟都市の隆盛期であった、純粋な文化の時代にまで遡らなくてはならない。「内から滲み出た気品と国民的職匠魂を具現している版画や絵画の時代」(12-一115)であった、ドイツ文化のこの高揚期においては市民精神と芸術精神とは深処で共鳴し合ってていた。このような「芸技性と市民性との混在」(12-104)こそはドイツ芸術の普遍的特性にほかならない。ドイツの市民的芸術家とは、ヴァグナーの歌劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で讃美されていたような、手堅さと誠実さを命の綱とする職匠魂の持主であった。「ドイツの芸術のための芸術」(12-104)とはまさにこういうものであることを、マンは『考察』で縷説していた。したがって、ドイツの「真の市民的芸術家魂」(12-103)は、「芸術のための芸術」という信条を貫徹した隠遁と禁欲の芸術家フローベールの「修道僧的審美主義」(12-103)や、「耐えがたいダヌンツィオの美の大法螺」(12-106)とは無縁であった。マンはこう断定していた。「大切なのは<作品>ではなく、自己の生活である」(12-105)。創作はドイツの市民的芸術家にとっては「自己の生活を倫理的に充足させる手段」(12-105)となっていた。換言するならば、創作はドイツにおいては「生活のひとつの倫理的象徴」(12-105)を意味するものであった。「唯美的なるものに対する倫理的なるものの優位」(12-104)をモットーとする、この人文主義的な文化の伝統は、詩作と体験の詩人ゲーテにおいてその金字塔的高嶺を極めて以来、マイアー、メーリケ、シュトルム、フォンターネを経てマンに至るドイツの市民的芸術家の生活様式をその根底で規定していた。「精神的人間は比喩の世界に生きる」(12-104)。だからこそマンはこう言い切ることができた。「今日までドイツの本質は私が市民精神と呼んでいるものに徹してその特性を明らかにしている」(12-144)。「三連星」もその例外ではなかった。これらドイツの市民文化の体現者たちはすべて、このような非政治的教養によって自己の世界をヨーロッパ的・普遍的なものに高めていくことができた。ドイツ市民精神は、ヨーロッパ的普遍性を同化するためには本質的に非政治的でなければならなかった。したがってドイツのデモクラシーは個人的、倫理的であって、政治主義には無縁であった。ドイツ市民文化の伝統は、フランス革命の精神を継承し再現しようとした、二十世紀の「政治」の概念とは氷炭相容れぬものであった。ドイツ市民の教養は政治とは「生来無関係そのもの」(12-111)であって、ゲーテや「三連星」のようなドイツの世界市民はフランス革命の嫡子である政治的市民ではなかった。ドイツの市民は、自己本来の非政治性に徹することによってはじめて世界市民になることができた。

 初期のマンの短篇『トリスタン』のなかの以下のくだりにここで目を向けたい。

 

と申しますのも、実務的、市民的で、さばさばした伝統をもった一族がその終りに臨んだときにもう一度芸術によって浄化されることは、別に珍しい出来事ではないからです。(8-234)

ドイツ文化の伝統の正統な担い手である市民の家系は、その最末期を迎えたときには、芸術の美を最後の光芒にしながら寂滅していかねばならなかった。現世肯定的な市民の家系がデカダンスに陥る運命の経緯は、処女長編『ブデンブローク家の人々』を中心にこの『トリスタン』や『トーニオ・クレーガー』などのマンの初期の主要な作品において自己の青春の始源体験として主題化されていた。青年芸術家マンは先述した意味での「音楽家」としては市民階級の終焉の美に対する哀切きわまる挽歌を歌い上げながらも、同時にまた、認識の芸術家としてこの世紀末のデカダンスに対しては厳格な「距離のパトス」(8-44)4 でもって対処していた。小説家マンはこういう「ドイツの音楽家」であり、また「ヨーロッパ的な文士」であった。北ドイツのリューベックの由緒正しい市民の家系にマンのような芸術家が輩出したということは、まさに世紀末の現象そのものであった。マンは自叙伝的短篇『トーニオ・クレーガー』のなかで主人公に仮託して自己の家系についてこう述べている。

   

古いクレーガー家は次第に瓦解と解体の状態となっていった。世間がトーニオ・クレーガーのような存在と本質を同じようにこの末期の標識としたのも、根拠のあることだった。(8-289)

主人公トーニオ・クレーガーは、家系の没落という悲痛な運命を代償とすることによって自己存在をはじめて確立しうる青年芸術家であった。これがこの市民の末裔である当時のマンのアイデンティティとなっていた。このような市民の芸術家への変貌という時代体験をマンは青春の自覚的自己体験として『考察』のなかでこう記していた。

ひと言で言おう。私が体験し造形したもの(中略)、それはまた市民の発展と現代化であった。しかし、それはブルジョワジーへの発展ではなく、芸術家への発展であった、――(中略)私の焦眉の問題となり、私を生産的にしたのは、政治の問題ではなかった。生理学的、心理学的問題であった。そして、私が芸術家としてこの問題にあらゆる注意力を傾注したということもまたまさにドイツ的だったろう。私に関係があるのは霊的・人間的な事柄である。社会的・政治的なものはなかば無意識に取り入れたにすぎない。こういうことに煩わされたことはほとんどなかった。(12-140)

「詩作と体験」の作家マンは、自己の創作の原点となっていた、「市民の芸術家への発展」という時代の問題をあくまでも「生理学的、心理学的」に把握していた。「人間的なるもの」が作家である自己の関心のすべてとなっていたが故に、時代の動向も政治的・社会的問題とはなりえなかった。マンは正真正銘「非政治的な」ドイツの作家であった。しかしながら、マンの芸術の活力源となっていた、ドイツ市民文化の非政治的伝統はすでに十九世紀末以来、押し寄せる西欧文明の波に呑まれ続けていた。「十九世紀の嫡子」(12-21)として市民の家系を血筋とする芸術家マンにあっては、祖国の市民文化の数々の偉業を産み出した、輝かしい過去に対する追慕の思いはつのるばかりであった。前向きの姿勢でもって未来に向かうには、返らぬ過去に対する哀惜の思いが強すぎた。このようなディレンマに追い込まれたマンは第一次世界大戦前に、「市民時代の代表者」ゲーテによって普遍化された、自国の文化の個人主義的・自叙伝的な教養理念を今一度喚起する作品に着手していた。その手法はパロディーによるものであった。否、そうならざるをえなかった。ではマンにおけるパロディーの観念とは一体如何なるものだったであろう。この問題に入るに先立ち、ニーチェはヴァグナー批判のなかで広い意味でのパロディーの問題をどのように考えていたか、概観することによって問題の所在を先ず明らかにしておかなければならない。と言うのも、芸術と芸術家の在り方にかんする、マンの以後の問題意識の展開の拠点がここに見出されるからである。

 ニーチェはヴァグナーと同じ深尋度の危機体験から出発していた。だからこそ、ヴァグナーに仮託して自己自身の問題意識を余すところなく語ることができた。周知のように、ニーチェはヴァグナーに傾倒しきっていた。思索する彼の耳が聴き出したのは、根源から迸り出るディオニソス的な生の奔流であった。それは、個が全のなかに溶け入っている本来の生そのものを表現した音楽そのものにほかならなかった。ヴァグナーの音楽は、時間と空間を超越した神話を通じて人間の千古不易の苦悩と喜びを歌い上げていた。ヴァグナーの芸術こそは、知的合理主義、懐疑主義、分析的思惟、科学主義によって活力を失い疲弊と頽廃の極にあった、近代文化を清新な生の活力でもって蘇生させる霊感の泉となるよう、ニーチェは祈願していた。だが、ヴァグナーの芸術のなかに文化の救済の福音を見出そうとしていた、ニーチェの胸ふくらむ夢はやがて裏切られねばならなかった。外観の惑わされずにヴァグナーの作品の隅々までも目を凝らして観察したとき、ニーチェはディオニソスの笛の音をもはや耳にすることはもはやできなかった。ヴァグナーの音楽の奇跡的魔力は失せてしまった。ヴァグナーはディオニソスの音楽家ではなかった。ニーチェにとってこれほど大きな幻滅はなかった。尽きせぬ愛はこのとき尽きせぬ憎しみとなって噴き出しはじめた。ヴァグナーは、これ以上は考えられないほど激しい弾劾の標的とならねばならなかった。ニーチェがここで容赦なく暴露しなければならなかったのは、「ヴァグナーの芸術は病気である」5 という赤裸々な事実にほかならなかった。「情動の痙攣性」6 、「過敏な感受性」7 、「さらにきつい薬を要求する趣向」8 、これら異常面が一体となった「病気の姿」9こそヴァグナーとその芸術の正体であった。それは「一種の神経症」10であった。ここでまざまざと顔を出してくるのは、芸術と芸術家に変装している「衰退のプロトイス的に変化自在な性格」11であった。ヴァグナーの「この疾患全体、すなわち神経機構のこの末期症状と過敏状態」12、それは芸術の致命的な病いであった。このような意味でヴァグナーは「すぐれて現代的な芸術家」13なのであった。これほど外観と内実が異なっている音楽家はいない。ヴァグナーとは、詐欺師として犯罪史上に不朽の名を残した「カリョストロの現代版」14と言わねばならない。ヴァグナーは、刺激に敏感になっている近代人を麻酔のような芸術によって眩惑しようとしていた。催眠術的手段を弄して聴衆を陶酔と興奮の極に駆りたてていた。その作品は麻薬のように神経を興奮させるだけで、人生の何ら深い体験を与えてくれない。「ヴァグナーは効果を欲している。欲しているのは効果だけだ。(中略)ヴァグナーの音楽が真実であったためしはない。」15。ヴァグナーが知識人と大衆を同時に魅了することができたのは、現代芸術特有のこの眩惑的な手法を最大限に駆使したからにほかならない。緻密きわまる計算によって聴衆を陶酔させる類い稀なる香具師、これが「すぐれて現代的な芸術家」ヴァグナーの正体であった。ヴァグナーは「ほんとうに偉大な比類ない役者」16、「ドイツ人の持物になったもっとも偉大な物真似師、もっとも驚嘆すべき劇場の天才、われわれの卓越した舞台演出家」17であった。手練手管に長けた芝居屋であるヴァグナーは、生の巧妙な猿真似をしているにすぎない。芸術家は今や「理想的な物真似師」18である「俳優」19とならねばならなくなった。だから、パロディストの資質に長じていなければならない。ヴァグナーを当世の芸術家の典型と見做していたニーチェは、『人間的な、あまりにも人間的な』のなかで芸術家の著作の道化的面白さは「非学問的で非芸術的な天性のパロディー化」20にある、という辛辣きわまる批判の言辞を吐露していた。

 ニーチェの所見に従うならば、ヴァグナーはどう見ても真正な音楽家とは言えない。ヴァグナーの芸術の実体は、根源的生命力を喪失した「デカダンス」であって、ヴァグナーその人は「デカダンスの主役、そのもっとも偉大な名称」21とならねばならなかった。ニーチェはヴァグナーの内部に、同時にまた、自己自身の内部に以上のような現代文化の根深い疾患を見極めていた。「ヴァグナーを介して現代性はその内密な言葉を語っている」22。だからこそニーチェは「デカダンスの心理学者」としてヴァグナーの仮面を剥奪し、その正体を隅々まで照射し尽くすことによって、近代芸術の病いに仮借ない診断と批判のメスを入れなければならなかった。ニーチェにとっては、ヴァグナーと対決することは自己自身と対決することであり、同時に「現代性の価値を決算すること」23にほかならなかった。ヴァグナー批判は、帰するところ、自己批判となり、現代文化批判とならねばならなかった。問題をその究極の根底にまで掘り下げていかねばならなくなったとき、ニーチェはデカダンスの典型であるヴァグナーを痛罵し続けなければならなかった。このとき「反対に、攻撃することは私の場合には好意の、場合によっては感謝の証しとなっている」24、と同時に告白せざるをえなかった。これ以上考えられないほど根底的なニーチェのヴァグナー批判は、この音楽家を他の誰にもまして知り愛している人間によって行われていたが故に、西欧文化史上不滅のモニュメントとなるよう定められていた。

 ニーチェがヴァグナー批判に仮託して行っていた、以上のような当世の芸術と芸術家の批判は、自己自身の芸術と人間性に対する問いを作品の中心主題としていた、マンの問題意識の致命的急所を衝いて余すところがなかった。マンは1910年に発表した『老フォンターネ』のなかで芸術家を「ルチファーと道化師のこの交差形態」(9-18)と定式化していた。それは、同じ時期に書かれた芸術にかんする覚書のなかでこう敷衍されている。

芸術家のヴァリエテ・タレントは猿真似の一種である。この才能は役者の場合だけではなく、全般的に芸術家の魂の基盤となっているだろう。止まるところを知らない興味を呼びおこし、批判し尽くせない、認識欲をそそってやまない、ルチファーと道化師のこの交差形態が芸術家なのだ。ラインハル