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熊 琦 但 見 亮...メディア効果と刑法規範との「対話」及び その刑法理論における深層的意義について(2・完) 129 4 .刑法規範システム内の免疫の構築可能性

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メディア効果と刑法規範との「対話」及びその刑法理論における深層的意義について(2・完)  129

4.刑法規範システム内の免疫の構築可能性─ドイツの体系を模範として

 本論がドイツ刑法を「対照系」としたのは,ドイツ及びそれに近似する体系を持つ国家においては,メディア,民意,世論,民衆の憤怒といった一連の要素が刑事司法に影響を与えること自体はあるものの,このような影響が「法律外」の要素にとどまるためである。 本論で行った分類によるならば,このような状況は「メディア裁判」問題の「表層」に属するものである。このような「表層」の問題は,「外部環境」の改善という伝統的な方法(すなわち司法の独立と信頼の強化,公判手続の保障の強化,メディアの自立の強化など)によって解決することができる。それは,ドイツにおける「メディア裁判」の問題が刑法の規範体系の内部構造にまで及ばないものであり,刑法学の枠組み内の問題とはならないからである。ある意味で,ドイツの刑法学体系は,メディア効果が法律内で刑事司法に影響を与えることに対して一種の「免疫力」を持っている,ということができよう。

( 1) 実質と形式の二元対立─過度に単純化された問題の再構築 中国とドイツの両国において,同じ問題が異なる現われ方をすることを解読

 講  演

メディア効果と刑法規範との「対話」及びその刑法理論における深層的意義について( 2・完)

─「民意」の視角から中・独刑法学の内的構造を見出そうとする試み─

熊    琦 但 見  亮

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しようとすると,その営みは必ず,実質と形式という「刑法観」の違いに集中することになる。それは上述の分析から見ても,ある意味筋道の通ったことといえる。 わが国において,「メディア裁判」問題の「深層」は,主にメディア効果が規範との「対話」の中に引き入れられる,という形で現われるのだが,それは,わが国の刑法規範および学理がこのような対話を体系的に受容するという前提があって初めて可能となる。 そして,このような受容は実質化された社会危害性の立法及び理論に立脚するものであるため,この「実質的刑法観」を把握すれば,おのずからわが国の状況を理路整然と把握することができる,ということになるのである。 これは逆に見れば,刑法の形式理性の世界とメディア効果のような実質理性の世界に通約性がないとすれば,法律体系が形式理性にとどまる限り,問題は自然に解消する,ということになる。 ここで注意しなければならないのは,この推論において,その逆もまた然り,ということにはならない,ということである。実質的刑法観によってわが国の「メディア裁判」問題がある程度説明できるからといって,類似の問題が生じないドイツ刑法には実質的立場が存在しない,ということにはならないのである。 もし安易にも,ドイツ刑法は純粋に形式的理性の立場をとっており,規範体系においていかなる実質的理解も認められないのであって,民意や世論が刑法の規範的判断に直接組み込まれるようなことはそもそも遮断されているのだ,などと考えるならば,それで中国とドイツの違いが都合よく説明できるとしても,それは過度に問題を単純化するだけであって,ドイツ刑法理論の状況及びその複雑性を正確に反映しておらず,またわが国がドイツの経験に学ぶための助けともならない。 実のところ,現代のドイツ刑法学は決して純粋に形式的立場にこだわるものではなく,むしろ実質的立場も適度に考慮するものとなっている。 ドイツの犯罪論がベーリング式の価値排除・純客観的構成要件理論から,マイヤー・メツガー式の価値評価及び主観的色彩を具備した構成要件理論へと発展したことはつとに知られているところである(1)。しかし,現代のドイツ刑法体系における実質的理解の包容はこれに限られたものではない。

( 1) 劉艶紅「実質刑法観」(中国人民大学出版社2009年)150─161頁参照。

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 歴史的変遷という角度から見ると,ベーリング式の純客観的構成要件体系に比して,ハグラー・マイヤー・メツガー式の構成要件体系により改良された点は(2),主に規範的(normative)構成要件要素の採用(それにより裁判官が実質的判断によって構成要件の内容を補充することが必要となった)及び主観的(subjective)構成要件要素の導入(それにより構成要件該当性の判断過程が純粋に客観的なものだけではなくなった)である。 この二点の改良によって,伝統的な純形式的構成要件は「実質的特徴」を伴うようになり,それに応じて,これら新しい構成要件理論もまた「価値評価を含む実質的構成要件論」(3)と呼ばれるようになったのである。 然るに,現代の視点からみれば,規範的構成要件要素と主観的構成要件要素という突破口ができたからといって,実質的理解がドイツの刑法体系の主流となったわけではない,ということができる。 言葉を変えていえば,現代ドイツの犯罪論の通説では,規範的構成要件及び主観的構成要件がいずれも認められているが,そうだからといって,現代ドイツの犯罪論において実質的理解を許容する程度が,わが国の通説と同様の程度にまで達しているとはいえないのである。 つまり,規範的構成要件要素であれ主観的構成要件要素であれ,そこに含まれる「実質」的要素は非常に限られているのであり,少なくとも,わが国の通説に含まれる(つまり「メディア裁判」問題をはびこらせるような)「実質」的要素とはかけ離れている,といわざるを得ない。 この点を少し敷衍してみよう。まず,規範的構成要件要素(normatives

Tatbestandsmerkmal)であるが,同概念がその出現当初「実質」的理解を引き入れたことには,確かに画期的な意義があったかもしれない。しかし,いまや「実質」との関連性はかなり薄まっている。 規範的構成要件が記述的構成要件と区別されるゆえんは,主にそれが「価値評価」の先導を必要とするところにある。ある種の人為的評価を抜きにしては,侮辱や公序良俗といった概念は存在し得ないのである。 しかし,この概念はその誕生の際に,自らの「実質性」を高らかに主張するようなことはまったくなかった。それは以下のような事情による。

( 2) C. Roxin, Strafrecht AT B. 1, C. H. Beck Verlag, 2006 4. Aufl., S. 282─283. 参照。

( 3) 劉艶紅「実質刑法観」(中国人民大学出版社2009年)160─161頁参照。

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 記述的構成要件要素に比して,価値評価という先導を必要とする概念である規範的構成要件要素は,もとより刑法規範がその内に描く道筋を離れ,外の世界から新しい価値基準を探して補充することを必要とする。とはいえ,ここで言う「外の世界」が,わが国の刑法学における用語法に慣れ親しんだ人々が理解するところの森羅万象を含んだ「実質」と同じかというと,それには疑問符をつけざるを得ないのである。 メツガーが早くに指摘していたように,規範的構成要件の内包は「その他の規範領域」(andere Normgebieten)により探知される(4)。ここからも明らかなように,所謂「外の世界」は決して際限のないものではない。 現在,「外の世界」を画する境界については,二分法的な限定がなされており,価値判断の基準が二つの方面に求められている。すなわち,その他の法規範と文化規範である(5)。 これらのうち,その他の法規範により行われる判断は,明らかに,実質的判断といえるものではない。それは,その形式性において,刑法規範によって行われる判断と同様であり,ただ単に,刑法規範にとっては「外の世界」にある,というに過ぎない。 たとえば,窃盗罪に関わる要件である「他人のもの」(fremed)が正にこのようなものにあたる。つまり,閉鎖された刑法規範内の論理操作のみによって解決が得られるわけではない,という点において,これは記述的構成要件ではない。少なくとも刑法規範の内側に止まらない点において,これは「形式的」でないということになる。 しかしだからといって,これが「実質的」かというと,決してそうではない。蓋し,この概念の内包を決する根拠は,形式化の程度において刑法に見劣りすることのない(たとえ及ばないとしても)民法規範にあるのであり,決して,大衆の思潮や社会情勢,道徳観,正義観,民意や民衆の憤怒,公衆の法感情といった要素により決せられるものではないからである。 民法またはその他の法規範が形式理性の要求を満たすものである限り,この種の「外の世界」に依拠する判断については,これを慎重に検討もせずに「実質」のレッテルを貼ることはできない。

( 4) E. Mezger, Deutsches Strafrecht, Junker und Duennhaupt Verlag, 1943 3. Aufl., S. 73.

( 5) C. Roxin, Strafrecht AT B. 1, C. H. Beck Verlag, 2006 4. Aufl., S. 308.

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 これに対し,文化規範については,明らかに事情が複雑である。蓋し,ここでの判断根拠は既に法律規範ではなく,前実定法的な価値となるからである(6)。 とはいえ,それが前実定法的な価値判断によるものであるとしても,安定的な,実証可能な,そして社会において普遍的に認められる規範(7)(たとえば一定時期の社会における「わいせつ」判断に見られる特定の基準など)によるものであるならば,このような文化規範が刑法の判断に対して及ぼす作用は概ね民法規範と同様なものとなる。蓋し,それは「前刑法的な規範に反すること」(vorstrafrechtlicher Normverstoss)(8)を追求する過程というべきものだからである。 もちろん,実定民法規範に反することと比較すれば,文化規範違反という要素はより「実質的」であると言うことができる。しかし,このような「実質」が,一定程度の安定性,閉鎖性そして論理自足性を備えるならば,これを「形式的」と呼ぶことが許されないとは思えない。 文化規範についても,そこには価値判断の空間における広狭の問題がある。その空間が狭隘であるとき,判断者に許された考量の範囲も限定され,問題に対する答案はかなりの程度「所与」(vorgegeben)(9)となり,結果として,裁判官が異なっても結論はほぼ一致することが期待できる。 これに対して,この空間が広いときは,裁判官の違いにより結果が異なる可能性が残される。とはいえ,これもやはり,判断者が民意や民衆の憤怒またはその他不確かな実質的要素に従うという結論を招くものではない。蓋し,このような状況においても,多くの場合,ドイツの法律家共同体は,その職業的素養によって問題を解決できるからである(10)。 また別の側面について言えば,多くの学者が指摘するように,100%の記述的構成要件というものはそもそも存在し得ない。蓋し,外見上純粋に事実記述的で価値に全く関わらないように見える要件であっても,適用の過程において

( 6) G. Jakobs, Strafrecht AT, Walter de Gruyter Verlag, 1993, 2. Aufl., S. 288.( 7) I. Puppe in: U. Kindhaeuser/ U. Neumann/ H.─U. Paeffgen [Hrsg.] StGB─

Nomoskommentar, Nomos Verlag, 2010 3. Aufl., S. 436.( 8) O. Triffterer, Strafrecht AT, Springer─Verlag, 1985, S. 17─18.を見られたい。( 9) C. Roxin, Strafrecht AT B. 1, C. H. Beck Verlag, 2006 4. Aufl., S. 308.(10) R. Stuerner, Schutz des Gerichtsverfahrens vor öffentlicher Einflussnahme?, JZ

1978/10 (März Nr. 5/6), S. 161.

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は必ず価値判断に関わらざるを得ないからである(11)。 この意味からいえば,すべての構成要件は,記述(事実描写)と規範(価値評価)の両極の間にある相対値に過ぎず(12),より事実的に表わされるか価値的に表わされるかという違いはあるものの,刑法領域には真に価値評価から離れた構成要件などは存在しない,ということになる。 今日に至っては,「建造物」や「財物」といった要件の中にすら,隠された価値評価が抉り出されるほどで,規範的構成要件に伴う価値評価は既に独特なものではなくなり,それに基づいて形式と実質を区別する,という作用もまた,既に相応の意義を失っているのである。 さらに,主観的構成要件が存在するからといって,それが現代のドイツ犯罪論体系の実質化を示すものとまでは言えない。そもそも主観的構成要件が提示されたのは,目的的行為論の興隆に応じるものであった。そこでは,構成要件は単なる不法行為の描写から,目的に操られた(Finalstererung)態様へと拡大をとげることとなり,その結果,ひとつの故意犯罪を完全に描写しようとする場合,その行為の外形を描写するだけでは足りず,その行為の内面,すなわち故意自体についてもこれを描写しなければならなくなったのである(13)。 とはいえ,このような過程は,かつての構成要件が行為の「客観的特徴」のみを描写していたのと異なり,現代の構成要件理論が行為の「主観・客観的特徴」をいずれも描写するようになった,ということを示すに過ぎないのであって,必ずしも,そこに「違法性と責任の部分にのみ含まれるべき実質的内容」(14)が含まれる,という結論が導かれるわけではない。 むしろ逆に,現代のドイツ刑法理論の通説では,行為と不可分にその一部分をなす故意(すなわち主観的構成要件の一部分)と,責任要素たる故意とは区分されるべきだ,とされている(15)。

(11) G. Stratenwerth/ L. Kuhlen, Strafrecht AT, Vahlen Verlag, 2011 6. Aufl., S. 93.

(12) W. Hassemer/ W. Kargl in: U. Kindhaeuser/ U. Neumann/ H.─U. Paeffgen [Hrsg.] StGB─Nomoskommentar, Nomos Verlag, 2010 3. Aufl., S. 176.

(13) G. Stratenwerth/ L. Kuhlen, Strafrecht AT, Vahlen Verlag, 2011 6. Aufl., S. 87─88.

(14) たとえば劉艶紅「実質刑法観」(中国人民大学出版社2009年)161頁など。(15) 例として,G. Stratenwerth/ L. Kuhlen, Strafrecht AT, Vahlen Verlag, 2011

6. Aufl., S. 89,また馬克昌「近代西方刑法学説史」(中国人民公安大学出版

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 ここに明らかなように,典型的不法行為の描写の一部分として,故意等の概念が主観的側面の特徴を有するからといって,それは必ずしも「形式」の軌道を外れて「実質」に傾くということを意味しない。言い換えるならば,主観と実質の間に軽率にイコールを書き込むことはできないのである。 不法行為の客観的側面は形式化された形で描写されるが,主観的側面についてもそれは同様である。これが構成要件に引き込まれた原因は,正に行為の主観的側面を抜きにしては不法の描写が不完全であるためであり,そのようにしたからといって,この描写とその生成の過程が形式的軌道から実質的軌道に滑り落ちるなどということはない。 構成要件の一部分としての故意の内容の確定において,現代のドイツ犯罪論の通説では形式化された基準が採用されており,判断者に実質的考量の余地はあまり残されていない。たとえば,一般に(構成要件的)故意には認識と意思の二大要素が含まれるとされている。通常,認識要素の範囲は客観的構成要件と完全に一致することになる(16)。だとすると,客観的構成要件の確定が十分に形式化されたプロセスを経るのに,主観的構成要件の一部をなす故意の認識範囲の確定が実質的なものとなることなどありうるだろうか。そして,それは(構成要件的)故意のもう一つの部分,すなわち意思的要素の確定プロセスにおいてもあてはまることである。 以上の分析からすると,現代のドイツ犯罪論の通説では,およそ「実質的」立場が許容されないかのように見えるが,実際の状況は決してそんなに単純ではない。現代ドイツ刑法の通説においても,やはり,(非形式的な)「実質的」理解に対していくつかの進入口が残されており,そこから非規範的・非形式的な考量(たとえば民衆の法感情,法制度に対する忠誠,社会情勢,法体系に対する防衛能力など)が刑法学の思考ルーチンに入り込むことが可能となっている。この意味での「実質」は,わが国の刑法の用語法における理解とかなり近いものといえる。 この,実質を安易に除去すべきではないと考える立場は,決して理解し難いものではない。たとえ刑法規範の形式化が完全に形式的論理の運用で足るほどの程度にいたったとしても,このような論理命題の前提は何かと問うたとき,

社2008年)561頁など。いちいち列挙はしないが,同様の視点を示すものは多い。

(16) K. Kühl, Strafrecht AT, Franz Vahlen Verlag, 2008, 6. Aufl., S. 69 ff.

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社会問題を解決することができない刑法規範は,現代の国家にとってなんらの意義もない,ということに気づかされる。そして,社会問題の解決は,「実質」陣営が何よりもまず考慮することであって,ここに,現代の法律体系が形式理性と実質理性のいずれをも考慮しなければならないことの原因が見出される。 この意味において,いかなる国家の刑法学であれ,それは必ず刑法の周縁的な問題に答えを与えなければならない,ということがわかる。すなわちそこでは,刑法規範はどのような社会問題を解決するために存在しているのか,またその役割を発揮できているのか,ということが問われるのである。 正にわが国の刑法学における「実質的」概念である「社会危害性」同様,ドイツの刑法学もまた,ひとつの「実質的」概念,すなわち「刑事可罰性」(materielle Strafwuerdigkeit)により刑法の周縁的問題に答えようとしている。それは,いかなる行為がいかなる条件下でどの程度社会に対する侵害となるか,という意識から,刑法規範による調整の要否を考えるものである(17)。 このような「社会危害性」の考察は,もちろん純形式的に行うことはできない。そうでなければ,それは規範の外に独立して存在することの意義を失い,単なる同義反復の道具と化してしまう。すなわち,刑法規範が犯罪とみなすものはいずれも,当然重大な社会危害性を有するのであり,重大な社会危害性を有するものはいずれも,当然刑法規範により犯罪とみなされる,ということになってしまうのである。 このような同義反復状態は,もとより現実の常態と合致するものであり,犯罪概念における形式と実質の合致態(Kongruenz)(わが国の刑法学において言うところの「対立と統一」)と呼ぶことができるのだが,このような合致態は,具体的な刑法規範にとって二重の意義を持っている。 まず一方において,規範の正確な適用により得られる結論が,同時に適切な社会的意義と効果を有することが保証される。また他方において,規範の制定における論理整合性と予測可能性が保証されることになる。 しかるに,刑法の周縁的問題はそもそも,形式―実質の完全な「合致」状態を超えた不明確な場所にある。その典型的な例として,軽微な犯罪の問題を挙げることができる。そこでは,形式理性の上では完全に犯罪の構成要件に合致しながら,実質理性の点では実質的可罰性が不足するというジレンマに直面す

(17) W. Hassemer, Einfuehrung in die Grundlagen des Strafrechts, C. H. Beck Verlag, 1990, 2. Aufl., S. 25.

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る。つまり,形式と実質の不一致という問題である。 このような周縁的問題は,司法実務の非常態に属するものであり,このような問題に対しては,同義反復的な道具によって答えを出すことはできない。つまり,形式理性的な規範学に立脚した伝統的刑法理論の革新と応変(たとえばメツガーの構成要件体系におけるベーリング体系の「実質的」革新など)によって,これに立ち向かうことはできないのである。 翻って,正にわが国のように,「社会危害性」を完全に法規範の用語法の外に出し,たとえば民衆の集団的感情(Gemeinschaftsgefuehle)や,社会倫理の基本的判断(sozialethische Gundentscheidungen)といった純自然法哲学的用語の上に構築するならば(18),またぞろ実質的理性が直面してきたいつもの問題に直面することになる。すなわち,そこには明確な基準がなく,変数と主観的判断が充満することになるのである(19)。 体系及び法文化といった原因により,ドイツの刑法学は,完全に形式理性を空洞化するような解決法をとることはありえない。では,このような実質と形式との合致を欠く部分について,これをどのように補えばいいのだろうか。それを補うやり方によっては,「メディア裁判」がその隙に滑り込もうとする空間が生じないだろうか。これは検討すべき問題である。 ただいずれにしても,ドイツの刑法学は決して,形式と実質の間の合致しない部分について,これを「見て見ぬふり」するわけではない。むしろ,これを直視する態度をとっているのである。これは,現代のドイツ刑法学が実質的理性を(改めて)重視している,ということを示している。 そして,正にこの部分の実質的問題が形式─実質理性の合致部分を越えているために,これに対して解釈を行うためには,純粋形式理性に基づく法学用語法の範囲を超える道具が必要となる。 上述したように,メツガーらによる構成要件の実質化という点での補充,そしてヴェルツェルらによる犯罪構成要件的故意の導入といった努力は,これらの問題を解決するのに十分ではなかった。蓋し,形式理性の範囲を超えた問題については,形式化された法律的推論手段の改善によってこれを解決することはできないからである。

(18) W. Wohlers, Deliktstypen des Praeventionsstrafrechts, Duncker & Humblot Verlag, 2000, S. 169.参照。

(19) G. Kaiser, Kriminologie, C. F. Müller Verlag, 1996, 3. Aufl., S. 318.を見られたい。

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 とはいえ,わが国の刑法学が慣れ親しんだようなやり方,すなわち,実質的理性を直接用いて問題を解決するという方法は,形式的理性を空洞化させるものであり,ドイツの法律文化が許容しうるものではない。 現代のドイツ刑法学がこれに対して出した回答は,主に社会的相当性と法益論という二つの「新しい」ルートにより解決を求める,というものである。以下,これら二つの「新しい実質ルート」について分析を行い,これが「メディア裁判」という典型的な実質的理性による形式的理性凌駕の過程に付け入る隙を与えるものであるか,検討を加えてみたい。

( 2) 社会的相当性理論の視野における民意の問題 社会的相当性(Sozialadaequanz)理論は,実質的要素の考量について,ドイツ刑法学において出現した新たなルートのひとつである。これが「新たな」ものであるのは,同理論が形式化の外にある事件事実を,改めて形式化の範疇に組み込むことを試みるところ,いわば形式化された法律的用語法に現実的意義を持つパッチを当てるようなものであるところ,にある。 同理論では,社会的相当性を持つ行為には実質的な社会危害性がなく,実質的な処罰の必要性がないため,それは「真に」構成要件に該当するものではない,ということになり,結果として犯罪性が除去される。つまり,社会的相当性は構成要件を解釈する道具,またはそれを校正する工具というべき機能を果たし(20),社会危害性と構成要件をつなぐ橋梁となるのである。また「社会的相当性がある」というとき,それは「社会大衆の認識において」,「社会の共同生活利益」にとって不可欠または正当とされる行為を意味することになる(21)。 このように,社会的相当性という橋梁は,形式という一端を構成要件該当性に架け,実質という一端を社会大衆の集団的主観的評価に置くものであるため,おのずと本論の核心に触れる問題を提起することになる。すなわち,「大衆の主観的評価」という概念を通じて,民意とメディア効果を社会的相当性の評価範疇に組み入れ,構成要件該当性の判断に影響することによって,刑法の適用過程において実質を形式に転化するプロセスが完成するのではないか,と

(20) H.─H. Jescheck/ T. Weigend, Lehrbuch des Strafrechts AT, Duncker & Humblot Verlag, 5. Aufl. 1996, S. 253; R. Maurach/ H. Zipf, Strafrecht AT B. 1, 8. Aufl., C. F. Müller Verlag, 1992, S. 221.

(21) H. Zipf, Rechtskonformes und sozialadaequates Verhalten im Strafrecht, ZStW 82 (1970), 633.

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いう問題である。 このような可能性は,少なくとも理論上排除されるものではない。一方で,現代メディア学の研究を通じて,大衆の意見はメディアによる造成及び影響を受けやすいものであり,メディアは大衆の意見形成における二つの重要な根源のひとつである,ということが明らかにされている(22)。 またもう一方で,社会的相当性という基準は正に大衆の意見にのみ関係するもので,行為者・被害者等の主観的判断とは全く関係がない。すなわち,大衆公論が正しいと思うこと,それこそが社会的に相当な行為なのである(23)。大衆公論の判断は当然民意であり,民意はたやすくメディアにより造成される。おのずと,メディアの判断は民意による伝導を経由して,社会的相当性の考慮要素となり,結果として犯罪の認定と量刑に直接影響を与えることとなるのである。 このような憂慮は,しかし,ドイツにおける刑法の適用において,これまで現実のものとなったことはない。その理由は,おそらく,社会的相当性が有する二つの具体的類型から,これを説明することができるだろう。以下,少し詳しく紹介したい。① 質的相当性 まず,社会的相当性の第一の類型は,「質」的相当性というべきものに集約することができる。それが主に意味するのは,行為それ自体が,その性質上,危害性を有するとされるべきでない,というものである。 ドイツの学者ヴェルツェルは,社会的相当性の核心について,これを社会生活の歴史的変遷の中に求めるべきであると考えた。すなわち,凡そ歴史的に形成された社会生活上のルールに適合するものは正常な行為であり,このような行為は構成要件に含まれるべきでない,とするのである(24)。 つまり,社会的に相当な行為とされる根拠は,行為それ自体の「性質」が「正常」であることに求められ,正常か否かの基準は,歴史的選択及び承認に求められることになる。

(22) E. Noelle─Neumann, Die soziale Natur des Menschen, Verlag Karl Alber, 2002, S. 133.

(23) H. Zipf, Rechtskonformes und sozialadaequates Verhalten im Strafrecht, ZStW 82 (1970), 640.

(24) H. Welzel, Das deutsche Strafrecht, Walter de Gruyter Verlag, 11. Aufl., 1969, S. 55─56.

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 同様な視点としてドイツの学者ジップによるものがある。彼もまた,社会的に相当な行為とは,違法性を有しない「正常」な行為であり,その基準は社会の多数者による承認にある,としているのである(25)。 ヴェルツェルらの観点によれば,ある行為の正常性判断はもとより一種の主観的判断ではあるが,その着眼点は現在ではなく,「これまでずっと」というところにある。 哲学の角度から言えば,このような見方は,他人の主観的世界の客観化(Objektivation)の過程,すなわち,客観的唯心主義における主観性の昇華(Aufhebung)ということができよう(26)。 歴史とはある意味で生命が客観化されたものであり,歴史という川の流れの中で蓄積された公論及び主観的判断は,具体的な事件の当事者,法律適用者そして人々の意見となんら現実的関連性がない。言い換えれば,社会的相当性の判断基準は公論と民意であるが,このような民意は,現実生活の中の民意とは必ずしも交錯するものではなく,むしろ歴史的な蓄積を通じて形成された「准客観的」な産物なのである。 これは本来主観的判断に由来するものではあるが,現在の観察者から見れば,それは明らかに客観的な性質を有するものであり,現代の哲学において「間主観性」(intersubjectivity)(27)と称されるものである。 この意味からいえば,社会的相当性についての評価は人民の主観的評価であるとしても,現在の時点において,それはマス・メディアの影響や造成によるものではない,ということになる。蓋し,それは歴史の大河の中で既に定まっているのであり,もはや容易に変更されることも,また自ら主体的に活動することもないからである。 つまり,ドイツの刑法学では,社会的相当性を用いて民意が刑法規範の適用に入りこむための隙間が作り出されたものの,ここで言う「民意」はマス・メディアの影響の下にある「民意」とはかけ離れたものであり,そこに「メディ

(25) H. Zipf, Rechtskonformes und sozialadaequates Verhalten im Strafrecht, ZStW 82 (1970), 633.

(26) E. Coreth, Metaphysik, Tyrolia─Verlag, 3. Aufl., 1980, S. 35; K. Vorlaender, Lexikon der Philosophie, Voltmedia, 5. Aufl., 1919, S. 512.参照。

(27) T. Honderich (ed.), The Oxford Companion to Philosophy, Oxford University Press, 2nd Edition 2005, p. 48; A. Kaufmann, Grundprobleme der Rechtsphilosophie, C. H. Beck Verlag, 1994, S. 48.参照。

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ア裁判」が実現するような余地はない,ということができよう。 もちろん,その後発展を遂げた社会的相当性理論は,ヴェルツェルの時代の理論のように限定されたものではない。それは,歴史的原因よりも,むしろ「無害性」という点に現われる。すなわち,行為が社会に対して無害である(ひいては有益である)ことから,それは社会が認めるところの「許された危険」(erlaubtes Risiko)にあたり,よって社会的に相当とされるのである。 それは主に,大規模交通輸送,工業生産,そしてリスクを伴うスポーツなど,行為の有益性が弊害よりも大きいことにより,一定の危険を含むものであっても社会によって認められる行為を意味する。 ここで,この種の承認が「民意」に属すると考えるならば,現代社会の民衆は,全体として,新しい科学技術を受け入れるという意思を表明している,と言うしかない。たとえば,「飛行機旅行」という現代的交通手段は社会により受け入れられているが,ここでは,社会の構成員が全体として,民間航空機が規定に沿って正常な運行を行うことに賛同することで,そのような飛行に伴うリスクについても容認しているのであって,その点について別途民意による支持を求める必要はない,ということになる。 明らかに,このような行為の社会的相当性について為される主観的評価は,一時のまた個別の事態に対する民意ではなく,マス・メディアによる影響を受けるということもない。 以上の点から,社会的相当性の第一種の類型,すなわち「質」的相当性において,「メディア裁判」が入り込む機会がないことは明らかである。 確かに,社会的相当性の成立は,民意や民衆の主観的判断と密接不可分である。しかしだからといって,具体的な刑事事件における社会的相当性の判断において具体的な民意を参考にしなければならない,ということにはならない。この類型の社会的相当性が依拠するところの民意とは,歴史的に蓄積してきたものであるか,または社会が全体として受容してきたものであって,それらはいずれも現時点の民意とは関係がないのである。 メディアにより影響される民意は,決して,間主観的に表現されてきた歴史的民意または社会全体の公論などではありえない。それは単に,特定の時期・特定の場所における特定の事態に対する具体的な民意であって,社会的相当性と必然的な関係を持つものでもなければ,社会危害性を判定する上での根拠ともなり得ない。 ここで,問題を別の角度から見てみると,上述のように,行為が含むリスク

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が許されたものであるならば,もとより社会的相当性を有するものとして(つまり実質―形式の橋梁を通じて関連の事情を規範適用過程に組み込むことにより),犯罪の成立を否定することもできるが,同時に,客観的帰責の成立を直接否定することにより(つまり関連の事情を形式理性の思考過程に直接組み込むことにより)犯罪の成立を否定することもできる。蓋し,行為自体に許されないリスクが含まれていることが,客観的帰責の前提条件となるからである(28)。 この点から,技術の時代たる現代における危険行為については,社会全体の同意を通じて,形式的意義において,当初からその構成要件該当性は排除されている,ということができる。つまり,運転や工業生産といった行為の社会危害性は,決して民意などの実質的要素の考慮の結果得られているのではなく,法規範の形式的算用によって得られているのである。 この意味で,社会的相当性理論の実質指向性は,因果関係及び帰責理論の発展により,少なくとも部分的に,形式指向性の中に消化されているということができる。たとえ社会的相当性の判断が民意と関係あるとしても,メディアが造成することのできる民意は,具体的な事件の判断に影響を与えることができず,法律の専門的判断における形式理性の保障が実現するのである。② 量的相当性 社会的相当性の第二の類型は,これを「量」的相当性ということができる。それは主に,行為自体がその質的側面において危害性を排除しうるものではないものの,その不法の内容が量的に軽微であるため,犯罪としての扱いを受けない,というものである。 言い換えれば,行為の形態自体は犯罪の形式的定義に合致するが,実質的に社会危害性が軽微であるために,「真に」構成要件に符合するものではないか,または実質的に法益を侵害するものではない,とみなされるのである。 いずれにせよ,質的相当性とは異なり,量的相当性においては,歴史的変遷や社会発展の程度による全体的判断によることはできず,具体的時点の具体的状況に基づく判断が求められる。 もし,社会的相当性の理論とは,裁判官が刑法規範の適用過程において社会的価値を模索し,そこで見出した倫理的価値により純規範的構造に一定の補充を行うものである(29),と考えるならば,それは「量」的類型においてより顕

(28) C. Roxin, Strafrecht AT B. 1, C. H. Beck Verlag, 2006 4. Aufl., S. 298.

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著である。蓋し,「質」的類型における倫理的判断は,歴史的過程の中で固定化されるか,または実用性・技術性に関わる功利的判断に取って代わられるのに対し,「量」的類型では,倫理判断はこのような間主観性により覆われることなく,一貫してその主観性を保つこととなるからである。 言い換えれば,この類型における社会的相当性の判断では,TPOに応じた現実的・具体的な評価が必要であるが,それが依拠する民意や世論は,メディアによって容易に誘導,造成されうることは明らかである。 ところが,このような可能性もまた最終的には排除されることになる。というのは,ドイツの刑法学における所謂量的相当性は,概ね構成要件の解釈とその補充の問題に過ぎないからである。 形式的に構成要件に符合する行為が,量的に軽微であるために最終的に法益侵害性(すなわち実質的社会危害性)を伴わないとされる過程は,実のところ,法の現実と立法技術の間にある矛盾を浮かび上がらせる過程である。言い換えれば,「形式上の符合」という正にその「形式」の設計において精密性が不足しているため,形式と実質とが符合しない状態が生じているのである。 とはいえ,すべての構成要件において侵害の性質と程度を過剰に精密なほどに規定するよう立法者に求めるのは,意味もなくまた現実的でもない(30)。蓋し,一方で,構成要件というものは,急速に発展・変化する現代社会への対応能力に限りがあり,また他方で,文面上符合するが実質的に無害であるような個別の状況について,その程度に応じて正確に排除することなどできないからである。 たとえ立法者が構成要件に罪の量の問題についての記述を追加したとしても,それはおそらく意味を成さない。というのは,わが国の刑法に見られる問題からも明らかなように,体系的問題を解決しない限り,このような記述は,規範と具体的問題との間の懸隔を埋めるものとはならないからである(31)。 それゆえ,量的相当性は,実のところ,刑法規範の適用者が「立法者が真に意味するところの犯罪類型」(32)を模索した結果,ということができる。この意

(29) H. Zipf, Rechtskonformes und sozialadaequates Verhalten im Strafrecht, ZStW 82 (1970), 649.

(30) K.─L. Kunz, Das strafrechtliche Bagatellprinzip, Duncker & Humblot Verlag, 1984, S. 128─129.参照。

(31) 熊琦「徳国刑法問題研究」(元照出版公司2009年)63頁以下。(32) C. Roxin, in G. Kohlmann (Hrsg.) Festschrift fuer Klug, Band 2, P. Deubner,

1983, S. 305.

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味において,相当性理論は,実は制限的目的論(teleologisch)の解釈方法が体現したものであって,人々は縮小解釈を通じて立法者の真の意図を探すこととなる(33)。 それはつまり,社会的相当性理論の少なくとも一部の機能は構成要件を以てこれに換えることができる,ということを意味する。これは,刑法学体系にとって積極的意義を有するものといえよう。蓋し,構成要件の解釈は刑法学の伝統的な構成部分であり,そこでは形式理性に立脚し,比較的安定したやり方と相対的に成熟した基準が用いられるからである。 これに対して,社会的相当性理論は後発の学理であり,実質的理性に立脚し,民意や民衆の法感情(34)とも分かちがたいつながりがある。 構成要件の解釈方法における改善が,一定程度,社会的相当性による実質と形式の架橋という役割を担うことができるならば,少なくともその点について,メディア裁判の付け入る隙はなくなる。蓋し,刑法における構成要件の解釈は相対的に閉鎖された領域であり,専門的な法的思考が求められるからである。 確かに,構成要件の合理的解釈は,最終的には,立法者(すなわち民意の代表者)により示される公論から逃れることはできない。しかしだからといって,専門的解釈の結果が,個別のケースについてその場・その時に生じた民意,とりわけメディアの影響を受けた民意に合致しなければならない,ということにはならない。 周知のように,ドイツの刑法学には,伝統的に四つの解釈方法が存在する。目的解釈,体系的解釈,歴史的解釈,文理解釈である。ここでもっとも関連性があるのは目的解釈である。蓋し,それは社会の倫理価値及び行為の価値判断にかかわりを持たざるを得ないが(35),社会の倫理価値は同時に社会公論の中に存在するからである。 しかし,刑法学において,行為の価値についての社会の倫理的判断は決して,規範の軌道を離れた実質的判断のプロセスではない。むしろ刑法学では,

(33) A. Eser, in B. Schuenemann (Hrsg.) Festschrift fuer Roxin, Walter de Gruyter Verlag, 2001, S. 200 ff.参照。

(34) C. Roxin, Strafrecht AT B. 1, C. H. Beck Verlag, 2006 4. Aufl., S. 299.を見られたい。

(35) H.─H. Jescheck/ T. Weigend, Lehrbuch des Strafrechts AT, Duncker & Humblot Verlag, 5. Aufl. 1996, S. 155─156.

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人類の行為を正に社会倫理に関連する現象であるとするのであって,それが現代刑法学の論理的起点となっている(36)。つまり,行為の社会倫理的属性の考察に当たって,必ず刑法学の視野の外にある民意を捜し求めなければならない,などということはないのである。 実のところ,刑法学において,構成要件該当性を起点としてある具体的行為についての考察が行われるということそれ自体に,行為に対する社会公論の見方が十分に考慮されているのである。つまり,社会公論というべき物の見方は,抽象的・安定的かつ歴史的な蓄積を経て,立法者が法規範の中に実現しているのであり,それはすべてのケースに適用されるため,個々の事件について,改めて民意やメディアの意見を求めることは不要となる。言うまでもないことだが,行為の価値または無価値の判定は,民意による表決ではなく,主観・客観的要件の分析によりなされるのである。 加えて,刑法の解釈における基本的原理及び条件,そして憲法的見地からの明確性の要求なども,メディアや民意による影響を制限する役割を果たす可能性がある。 そのほかの解釈方法においては,メディアや民意が入り込む隙間はいっそう小さい。たとえば歴史的解釈においては法規・規定の歴史的変遷が重視されるため,そこでは明らかに歴史的な意味においての民意のみが問題となり,現時点での民意とは関係がない。残りの二つの解釈方法が,その名称から見ても民意との関連がわずかであることは言うまでもない。 総じて,量的相当性については,いかにも民意とメディア効果がその考量範囲に組み込まれそうに見えるものの,実際はそうではない,ということがわかる。その主な原因は,民意の「二分化」というところにある。 実質的理性を代表するものとして刑法解釈に取り込まれている民意というのは,実は,間主観的で歴史蓄積的,安定的,非現在的,そして個別事件の要素による影響や変動を受けにくいものなのである。つまり,一定の条件に適した「民意」のみが,規範的言語領域に組み込まれるのであり,メディアにより造成された民意はこのような条件を具備しない,ということになる。 他方で,刑法解釈は,それ自体が有する法律専門的属性と制約のために,外からの実質的考慮による侵食を受けにくいものとなっている。ドイツの刑法は,わが国の刑法13条のような実質的要素を強調する条項を持たないばかり

(36) H. Welzel, Studien zum System des Strafrechts, ZStW 58 (1939), 495.参照。

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か,多くの制約的要素が存在する。そのため,社会的相当性の適用空間は,明文で相当性が要求されるものか,または明らかにそのような要求が推定されるものだけにとどまることになる(37)。このことからも,社会的相当性が規範の助手として,主に規範の枠内でその役割を果たすにとどまり,実質への指向性は規範的な形式指向性の中に概ね解消してしまっている,ということがわかるのである。

( 3) 法益理論の視野におけるメディアと民意の問題 社会的相当性理論と法益理論は密接不可分であり,角度を換えれば,社会的相当性理論というものは,法益侵害の「真正性」または「典型性」を否定することにより,社会的に相当な行為の実質的違法性を部分的に排除するもの,ということができる(38)。つまり,「自然因果的」な法益侵害ではなく,「社会生活」に影響を与えるような法益侵害のみが,刑事的に可罰的である,ということになる(39)。 ジェイコブスの分類によれば,このような影響を有する法益侵害のみが「刑法上の法益侵害」となり,このほかの一般的法益侵害は可罰性を有しないとされる(40)。つまり,法益侵害は必ずしも真に構成要件に符合するわけではないし,逆に言えば,構成要件の文面上の範囲は必ずしも立法者が真に規制しようとする危害行為と一致するわけではないのである。 ここで,刑法における可罰的な法益侵害を「狭義の法益侵害」と呼ぶならば,構成要件が記述する対象全体である「広義の法益侵害」に対して,「狭義の法益侵害」は,実定法の構成要件を超越してこれを批判する,というフェイズに存在することになる。 問題は,この広義と狭義の境界線をどこに引くか,ということにある。これは犯罪認定と量刑における重大な問題となるが,形式理性の中にその答案を求めるならば,それは徒労に終わるだろう。 正にロクシンが正確に指摘するように,犯罪行為と秩序違反行為とは,いず

(37) S. Wolski, Soziale Adaequanz, V. Florentz Verlag, 1990, S. 15 ff.参照。(38) A. Eser, in B. Schuenemann (Hrsg.) Festschrift fuer Roxin, Walter de

Gruyter Verlag, 2001, S. 202,及び熊琦「徳国刑法問題研究」(元照出版公司2009年)54─55頁。

(39) H. Welzel, Studien zum System des Strafrechts, ZStW 58 (1939), 514 ff.(40) G. Jakobs, Strafrecht AT, Walter de Gruyter Verlag, 1993, 2. Aufl., S. 44.

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れも(広義の)法益を侵害するものであり,その区別は侵害の程度及び量の違いに過ぎない(41)。この点,刑法規範自体は,この区分に対して新しい情報を提供することはできない。蓋し,実定刑法の規定を用いて狭義の法益侵害を定義しようとしても,それは循環論(circulus vitiosus)に陥るのみだからである。 これに対し,実定法規範の外にこの問題の解決を求めるならば,確かに循環論の謗りを免れることはできる。しかしそれは不可避的に,犯罪の実質的定義が逃れられずにいるジレンマをもたらすことになる(42)。すなわち,犯罪学,社会学そして民意調査がもたらす情報は必ずしも,信頼でき,正確で,形式化可能なものではないのである。 「外部性」(exogen)という解決方法が体系性に欠け,実定法規範による解決方法もまた新しい情報をもたらさず,単に論理的な同義反復に過ぎないとするならば,残された唯一のルートは,新しく情報を提供できるような,規範学の「内部的」(endogen)な解決方法である。このような解決方法の核心は,法益概念の意味を掘り下げて,それを以て実質と形式を架橋することにある。 とは言っても,決して,正に法益が法益であるために,社会はそれを保護するのだ,などということはない。そうではなく,保護すべきものであると認められるようなものであるからこそ,社会は法益を保護しようとするのである(43)。言い換えれば,法益はそれ自体,社会の主体的価値創造の産物である,ということができよう(44)。 このことは,法益概念に含まれる価値の構成物(Wertelement)は,やはり一般大衆の承認と評価に依頼するものである,ということを意味する。その結果,法益概念について,民意及びメディア効果との理論上の関連性を安易に排除することはできないことになり,その更なる分析が必要となるのである。 わが国の状況と異なり,ドイツの刑法学においては,確かに法益の価値的要素に一定程度の実質性が付与されるものの,実質的考量が犯罪認定と量刑に直

(41) C. Roxin, Strafrecht AT B. 1, C. H. Beck Verlag, 2006 4. Aufl., S. 32.(42) W. Hassemer, Einfuehrung in die Grundlagen des Strafrechts, C. H. Beck

Verlag, 1990, 2. Aufl., S. 25─26.(43) K.─L. Kunz, Das strafrechtliche Bagatellprinzip, Duncker & Humblot Verlag,

1984, S. 144.(44) K. Amelung, Rechtsgueterschutz und Schutz der Gesellschaft, Athenaeum

Verlag, 1972, S. 194─195.

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接影響を及ぼすようなことにはなっていない。その主な原因は,法益の価値的要素が非常に抽象的な概念であり,その役割が概ねマクロ的な側面に限られていることにある。 つまり,法益の価値的要素は主に社会の存続,安定と尊厳といった抽象的観念に関わるもので(45),具体的事件において比較または評価可能な対象ではないのである。簡単に言って,法益の価値の尺度は,それを用いて,事件において侵害を受けた客体が社会全体の機能においてどのような価値を持つか,ということを測るためのものであり,決して,ある具体的な被害者または具体的な傍観者集団にとっての価値ではないのである。 この点を理解すれば,上述のような民意の「二分」現象がここにおいて重要性を持つことが理解されるであろう。すなわち,民意は法益の価値的側面において非常に重要であるが,ここでいうところの民意は,あのような民意,つまりメディアが影響を与えて造成するような,法益概念と直接のつながりのない民意とは異なるのである。 例を用いて言えば,さまざまな歴史の時期において,民意は,犯罪取締の類型または強度において異なる要求を持つ。このような歴史上安定した形態で現われる民意は,往々にして,犯罪発生率や犯罪の強度,そして犯罪が社会に与える脅威の程度といった,より長期的な要素の上に現われるのであり(46),決して,具体的事項に対する一時的なメディアの騒ぎの上に立てられるものではない。そうでなければ,法益概念が有する相対的抽象性と安定性は失われ,法益は形式理性の外からもたらされる様々な干渉により骨抜きにされ,空っぽの概念となってしまうだろう。 もし,法益が依拠するところの民意が直接メディアの影響を受けるものならば,法益という刑法の境界を画する道具は,「殴れ,殺せ」と叫ぶ人々や,慈恩を求める人々の「意のまま」のコマとなってしまう。これは,法益に依拠することで合法性(Legitimation)を得ようとするドイツ刑法からすると,考えもつかないことである。 さらに注意しなければならないのは,具体的事件における民意の主体は,メディアに染められ且つ刺激された情報の受け手に過ぎない,ということであ

(45) ドイツ連邦憲法裁判所の判例 BVerfGE 45, 187 (253 ff.)を見られたい。(46) W. Hassemer, Theorie und Soziologie des Verbrechens, Athenaeum Verlag,

1973, S. 147─158.

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る。彼らは決して自らが事件にかかわりを持つものではなく,単に傍観者としての立場で意見を述べるに過ぎない。もしこのような意見を,法益侵害の尺度の基礎とするならば,そこで直面する最大の問題は,このような意見がどの程度正しく,社会全体に対する当該犯罪の危害性を現しているのか,またこれらの危害についての民衆の感知と処罰要求とをあらわしているのか,ということである。 メディア学の研究によって,典型的な「メディア裁判」の過程においては,メディア側によって報道内容が感情的,ドラマ的そして偏向的に処理される傾向がある,ということが明らかにされている(47)。それは,受け手が得る情報に偏りを生じさせ,それによって生じた民意の客観性を大いに差し引くこととなるのである。 このように,法益はその価値的側面において抽象的であるため,それがマクロ的側面で民意と密接な関連を持つ概念であるとしても,ここでいうところの民意と,メディアにより造成された民意とはその性質を異にするものであり,決してこれを同一視して論じてはならない,ということがわかる。 これは,ドイツ刑法学の内在的論理と構造において自然に分別されているものであり,同時に,刑法学が,非法律的要素からの干渉を阻止する内在的「免疫力」の表れ,ということができる。刑法学について言えば,民意と民衆の憤怒といったものは,行為の無価値性を直接反映するものでないだけでなく,それは結果の無価値性を体現するものでもない。それは,法益侵害とは直接関連性のないものなのである。 総じて,ドイツの経験からわかるように,刑法学の体系が,メディア効果など本質的に法規範の外の世界にあるものに対して免疫力を有するための条件は,実質理性を消滅することではない。実質理性や行為についての実質的考量を兼ね備えた規範学の体系においても,やはり,犯罪認定と量刑において法外の事物による過度の干渉を排除することができるのである。 このような,柔軟なあり方を備えた免疫性は,ドイツの刑法学体系における理論的体系性,基本原理及び信条の遵守,そして何よりも内在的論理構造の厳格性によりもたらされる。つまり,ドイツの刑法学は,民意が規範及びその適

(47) K. Marxen/ A. Weinke (Hrsg.), Inszenierung des Rechts, BWV Verlag, 2006, S. 42; B. L. Liebman, Watchdog or Demagogue? The Media in the Chinese Legal System, vol. 105 Columbia Law Review Jan. 2005, p. 8.参照。

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用に及ぼす巨大な影響を憚ることなく受けとめつつ,具体的事件の処理においては厳格な規範的思考方式によって民意の分別を行い,形式理性と共存できないような実質的要素(メディア効果)についてはこれを淘汰・排除しているのである。 そしてこのような淘汰は,マクロ的には,構成要件及び量刑要件の性質及び構造により,またミクロ的には,法益及び社会的相当性の学説によって,成し遂げられたものなのである。

5.結論

 わが国の「メディア裁判」問題の特殊性は,メディアの影響下にある民意と刑事裁判の結果とのつながりが,刑法規範および理論による承認または黙認を得る可能性がある,というところにある。 本論における考察を通じて,このような現象は「メディア裁判」の深層の問題であることが明らかにされた。すなわち,両者の関係は,法律の枠組み以外の要素(政治的圧力や司法の独立の欠如など)を通じて形成・実現されうると同時に,法律の枠組み内の要素を通じてもまた形成・実現されうるのである。そして後者については,それが現行刑法及び理論の承認する範囲内に出現するために,法外的要素の排除を通じて改善することはできない。その改善の唯一の道は,(メディアにより造成された)民意と刑法規範との関係を見つめなおすことにある。 このような状況が出現しえたのは,わが国の刑法規範及び理論が民意を扱うそのあり方における鮮明な特色のためである。この点,文化的 DNAや歴史発展など各方面の原因により,わが国の刑法学には「実質理性」の烙印が深く刻み付けられている。そのことは,「メディア裁判」現象の中国版の解釈において一定の説得力を持つことになる。 わが国の刑法学においては,社会危害性を核心とする一連の理論及び制度枠組みがとられており,実質的要素に形式的要素と同様の重要性が付与されている。このようなことから,メディア効果は理論上構成要件または量刑要件と同等の地位にある要素として,「法律の枠組み内で」犯罪認定と量刑に影響を及ぼすのである。 このような論理関係において,所謂「影響を及ぼす」過程は,ある意味で正常な考察過程ということになる。つまり,メディアの炎上,世論の沸騰,人々

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の憤怒といった現象が(法律の枠内で)裁判の結果に「影響を及ぼす」ものと言えるなら,同様に,構成要件の客観的側面である行為の態様や犯罪結果,そして主観的側面における故意・過失といった心理状態や特殊な犯罪目的といった諸要素が犯罪の認定と量刑において果たす役割もまた,同様に「影響を及ぼす」と表現することができることになる。 以上のようなことから,本論では,「民意が裁判に影響を及ぼす」といった非分析的で曖昧な表現を,このような影響が法律の枠内で行われるかどうかにより,表層と深層の二つに分けて考察することとした。 その際,深層の問題の分析において,視点を制定法に限定してしまうならば,民意といった類の「影響」は量刑事情の量刑結果に対する「影響」と同様ということになり,批判の余地はなくなってしまう。 しかし,刑法学には基本的な思考方法及び公式があるのであって,その論理的前提及び推論規則は,ちょうど関門と同様に,それに適合しないものが規範学の世界に入ることを阻もうとする。それがすなわち,阻害効果というものである。 それに対応して,視点を刑法学の公式の上に置くならば,メディアにより造成された世論効果は,本質的に,犯罪認定及び量刑情状といった要素と同様のものとして裁判過程に組み入れられるべきではなく,それが結果に対して「影響を及ぼす」ようなことは適合的でない。刑法学がメディア効果を排斥することは明らかなのである。 しかるに,刑法学は現行の制定法規範を解釈する学問であることから,不可避的に,条文を以て自らの根拠かつ起点とすることになる。その際,正に実質的理性への偏向性のために,現行の法規において民意などが「法内で」影響を及ぼすことが排除されないという状況において,刑法学がこれに対して「No」ということなどできるだろうか。 言葉を換えて言えば,刑法学は学理的な方式と実定法との合間に存在するのであり,相応に,民意に対する態度もおのずから,この両極の間をさまようことになる。 実際のところ,刑法学がこの合間でのジレンマを免れようとするなら,それは決して不可能なことではない。「刑法学は一種の解釈学であり,それは実定法を根拠としなければならない」という言い方に誤りはないが,しかし同時に,そうだからといって「刑法学は必ず実定法の奴隷でなければならない」ということにはならないのである。

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 それはなぜかといえば,刑法学の基底として,実定法はその各種の前提をなすものであるが,それは刑法学における推論過程及び結論のすべてを含むものではないからである。 これはちょうど,非ユークリッド幾何学が,その論理前提を人為的にユークリッド幾何学の第五公準と異なるものとして「定める」としても,そのような前提に基づく結論がいかなるものとなるかについてまで「定める」ことはできないのと同様である。 刑法規範におけるメディア・民意の受容というのは,正にこのような人為的に定められた前提に過ぎない。国内外の経験を見れば,刑法学の内在的論理に照らして,このような前提を推し進めれば理論的困難に直面せざるを得ないことがわかる。 明らかに,論理を武器とする学問として,刑法学が自らの独立と理性を守ろうとするならば,たとえ現行の実定法を起点とするにしても,刑法学それ自体の枠組みの改善を通じて,やはりメディア効果に対して明確にこれを排斥する態度をとることができるはずである。これは決して,あるべき道を外れるようなものではない。 注意しなければならないのは,学理の構造を整えるために,刑法学の世界から実質理性を駆逐することが求められるわけではない,ということである。実質理性は規範学にとって不可欠であって,メディア効果を排除するということが,刑法学を純粋な形式理性という空中の楼閣の上に構築しなければならない,ということにはならないのである。 言い換えれば,規範学におけるメディア効果の地位という問題は,決して,純粋な「形式―実質」という刑法観の対立の問題ではない。むしろ,ドイツの経験からもわかるように,実質理性を許容する体系においても,メディア効果を規範の適用過程から排除することができるのである。つまり,刑法学が主導する論理的思考を主とする規範適用過程において,メディア効果は本質的に許容されえないのである。 このような非許容性は(現代の国際基準に適する)刑法学理論の深層構造によるものである。すなわち,マクロ的に見れば,犯罪構成要件論及び量刑論が,メディア効果を排除する態度を示しており,またミクロ的に見れば,法益概念及び社会的相当性理論もまた,それを排除する姿勢を示しているのである。 このようなことから,ある種の刑法学理論がメディア効果を完全にその中に

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メディア効果と刑法規範との「対話」及びその刑法理論における深層的意義について(2・完)  153

組み入れようとするならば,必ず上記のような深層の構造問題を解決しなければならず,それができないならば,必ずや内在的矛盾が出現することになってしまうのである。 以上,本論の分析を通じて,以下の各点が確認された。  1.「メディア裁判」問題にはいくつかのフェイズがある。わが国では主に,メディア効果が実体刑法規範の適用過程に入り込むことが黙認されており(すなわちメディア効果と刑法の規範世界との対話),規範的要素として犯罪認定と量刑に影響を及ぼしている。これは,本論がメディア裁判問題の「深層」とみなすものである。  2.このような黙認は,わが国の刑法規範が有する特殊性と,このような規範の上に構築された解釈学における実質理性及び関連諸概念への偏向性によるものである。しかし,本質的な点から言えば,刑法学とメディア効果との間には対話を行う通約性はなく,このような黙認には問題がある。  3.形式―実質という刑法観の対立として,このような問題を解釈し尽くすことはできない。蓋し,同様に実質理性を許容するドイツの解釈学の体系は,メディア効果に対して免疫力を有するからである。  4.このような免疫力は,ドイツ刑法学の体系に内在する論理構造によりもたらされるものであり,それはマクロ・ミクロの両面において観察される。  5.わが国の実定法規範は実質的要素を受容していることから,わが国の実定法理論もまたこれに従い,実質的要素を受容しており,それがある種の内在的矛盾を生じさせている。これはある程度「実質的刑法観」によるものであって,あるべき法についての内在的な論理構造に従い,より慎重な態度を持つことが必要である。 総じて,「メディア裁判」問題の中国版について,その解決の道は,主に実体刑法学の中にあるといえよう。刑法学の理論に内在する論理構造において,メディア効果は,必要な形式性を欠くために,規範世界と対話する能力を有しないのである。 基本的理論を堅持し,それをより完全なものとすることにより,わが国の刑法学もまた,メディア効果に対して「No」と言うことができるはずである。そのためには,実質的理性への偏向性を有する実定法規範を根本的に変革する必要はないが,刑法学の理論の内在的枠組みを改善し,それを強固で自足的なものとしなければならない。要するに,刑法学の基本的思考様式は,その実質理性への偏向というあり方を変え,形式理性にしかるべく傾斜する必要があ

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る。その前提は,形式─実質間での相容れない「ゼロサム関係」ではなく,両者をともに包含するところのウィン─ウィンの関係なのである。