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塩水物語

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塩水物語. 塩 水 の 歴 史. 台湾では昔から「一府、二鹿、三艋胛、 四月津 」と言われる都市がありました。その中の4番目の月津が塩水のことを指します。塩水は台湾の南部に位置し、昔、中国大陸の福建省から来た漢系移民によって開かれた町で、典型的な漁村の一つでした。 最も古い名前は「 大亀肉庄 」(1621)と言われていて、それから、「 大 圭壁庄 」 、「 鹹水港 」とも呼ばれました。また、その時、貨物港として、地形が新月に似て、「月津」とか「月港」という名前もよく知られていました。しかし、月津港の港としての価値が衰退していくにつれて、塩水は次第に没落していきました。. 塩水の地理. - PowerPoint PPT Presentation

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塩水物語

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塩 水 の 歴 史

• 台湾では昔から「一府、二鹿、三艋胛、四月津」と言われる都市がありました。その中の4番目の月津が塩水のことを指します。塩水は台湾の南部に位置し、昔、中国大陸の福建省から来た漢系移民によって開かれた町で、典型的な漁村の一つでした。

• 最も古い名前は「大亀肉庄」(1621)と言われていて、それから、「大圭壁庄」 、「鹹水港」とも呼ばれました。また、その時、貨物港として、地形が新月に似て、「月津」とか「月港」という名前もよく知られていました。しかし、月津港の港としての価値が衰退していくにつれて、塩水は次第に没落していきました。

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塩水の地理 塩水は台湾の嘉南平野の北部に位置しています。

台南県に属し、人口は約3万です。小学校が9校、中学校が 1 校、高校が 1 校、大学は 1 校あります。交通のアクセス方法は台鉄鉄道で新営駅で下車。

そこから、バスかタクシーで15分ぐらいです。高速バスを利用する場合、新営インターで下車し、そこから、バスまたはタクシーで 10分ぐらいです。

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武廟武廟 (( ぶびょうぶびょう ))• 石碑によると西暦1石碑によると西暦1

668年鄭成功の部668年鄭成功の部下何積善、范文章、下何積善、范文章、参謀陳文華と次男陳参謀陳文華と次男陳漢光及び台漢光及び台澎澎兵備の兵備の梁文科等が、塩水港梁文科等が、塩水港新街の新街の関羽像関羽像を見てを見て建物を拡大したこと建物を拡大したことに始まります。信仰に始まります。信仰者の願いを聞いて、者の願いを聞いて、かなえてくださっかなえてくださった事がよくありまた事がよくありますから、現在では参すから、現在では参拝する人が多くなり拝する人が多くなりました。ました。

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蜂炮 ( ホンパオ ) の由来

• 蜂炮の由来には諸説ありますが、武廟管理会により出版された「廟誌歴史典故記要」によると、1886年7月ごろから疫病がはやりだし、百人を超える死者が出たので、村人たちが武廟に祈願し、関羽像を担ぎ町中を練り歩いたところ、たちまちのうちに疫病がなくなったことにより、村人がそれに感謝を表すために、旧暦の1月15日に盛大に爆竹を鳴らし始めたことによると言われています。

• もう一つの説は中国清朝の時代に皇帝「嘉慶君」が台湾を行幸された際、ちょうど旧暦に1月15日に塩水を通り掛ったので、村人が歓迎意を表すために爆竹を鳴らし始めたというものです。

• どちらにしても今日では、この塩水蜂炮は神様に家内安全、五穀豊穣を願う祭りとなっております。

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蜂炮 ( ホンパオ ) について• また、蜂炮の作ることですが、大体

お正月が終わると、塩水町の商店や廟や住民たちは皆「自分の精神代表」の蜂炮製作に着手するのです。子どもからお年寄りまで皆手伝っています。一家団欒のもう一つの楽しみだとも言えます。安全のために、大体祭りの一週間前に完成して、テント布でカバーします。そしてその周りに火の使用は厳禁です。主催部門が安全検査済みの家は赤い光で印をつけるのです。

• 最後に、危ない蜂炮を避けるために、観客の格好を紹介します。ヘルメットを被って、綿質の厚い上着を着て、マスクや手袋や首にぐるぐると巻いてあるタオルなど、まるで強盗にでも行くような笑うほど怪しくて、面白い格好です。怖くても見たいという矛盾な気持ちをよく表しています。

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護庇宮護庇宮• 昔は昔は福徳祠福徳祠という小さなという小さな

廟廟だったのですが16だったのですが1683年に83年に天后宮天后宮というという名に変えられ、171名に変えられ、1716年にもっと大きく建6年にもっと大きく建て直されてから、“て直されてから、“護護庇宮庇宮”という名に変え”という名に変えられました。現在一般られました。現在一般的には”的には”媽祖廟媽祖廟 “と言わ “と言われています。昔、“護れています。昔、“護庇宮”は月津港という庇宮”は月津港という港に向けて建ててあっ港に向けて建ててあったことから” たことから” 媽祖媽祖 “と “という神様が漁師に祭らいう神様が漁師に祭られてきました。今でもれてきました。今でも信者が多いです。信者が多いです。

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王爺廟王爺廟• 王爺廟王爺廟の創設は清朝道の創設は清朝道光年間です。光年間です。

• 王爺廟には王爺廟には地府千歳地府千歳がが祭られています。祭られています。昔、昔、塩水の人と義竹庄の人塩水の人と義竹庄の人が争った際に王爺廟のが争った際に王爺廟の神が塩水鎮を助け、争神が塩水鎮を助け、争いに勝ったと言われていに勝ったと言われています。います。

• また、また、疫病疫病が流った際が流った際にも王爺廟の神が人をにも王爺廟の神が人を助けたと言われていま助けたと言われています。す。

• それ以来、人々に大切それ以来、人々に大切に祭られるようになりに祭られるようになりましたました 。。

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大衆廟聚波亭大衆廟聚波亭

• 塩水の旧名は月津と言います。 塩水の旧名は月津と言います。 聚波亭聚波亭とは月津八景の中でのとは月津八景の中での一番目だと言われているところです。現在で一番目だと言われているところです。現在で 400400 年あまりの年あまりの歴史がありますが、民国歴史がありますが、民国 9090 (( 20012001 )年に県官公庁に認定され、)年に県官公庁に認定され、台南県の古跡と認められました。主に唐朝の台南県の古跡と認められました。主に唐朝の雷万春雷万春という将という将軍が祭られていますが、他にも軍が祭られていますが、他にも謝必安将軍謝必安将軍とと范無救将軍范無救将軍などなども祭られています。毎年旧暦六月ごろ、お祭り行事が行われ、も祭られています。毎年旧暦六月ごろ、お祭り行事が行われ、国家安泰や信者の健康などを祈るのが主な目的です。国家安泰や信者の健康などを祈るのが主な目的です。

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八角楼八角楼は昔、砂糖組合に属した「葉連成」という商社が10年間をかけ、1847年に建てた八角形の建物で、現在塩水鎮のシンボルになっています。

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橋南旧市街 興隆橋の南に位置しているの

で、名付けました。旧市街でありながら、鉄線橋という古道の北側にあり、鹿草を通って嘉義へ行く重要な道となります。旧市街には泉利という伝統的な鍛冶屋があります。

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カトリック教会

• カトリック教会は 1955年に創設させられ、ドイツの聖職者である胡國臨が地方風俗合わせて布教したことに始まります。安置られている頭に飾りをつけている聖母マリア像は、なんとなく中国の媽祖と似ています。