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-園田・・・圃・・・・・圃圃
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とその周辺
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惟定作に
近松関与の
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~
•
「滝口横笛紅葉之遊覧」に限っては、近松推定作説が根強い支持を
受けている乙とになるのであるが、そのあたりの可否を含めての問題点を、出来るだけ多岐に亙って掘り下げ、検討
してみるζ
とにしたい。小論が、近松習作期解明へむけての一つの手懸りになれば幸いである。
注③
認めて、続編に収載が予定されている。近松が角太夫に
注④
とされる信多純
一氏に代表される無関係説の中
き与えたというはっきりした話完ある作品は、
一一編もない
-「滝口横笛」関係諸本
先ず、関係諸本についてみてみる。
①慶応大学本
絵入十八行十五丁半
(落丁、乱丁あり)
内題、外題不明
(ただし、柱題は全て「よ乙ふへ」)。
刊記不明。
②赤木文庫本
絵入十八行十七丁
( 21 )
内題
よ乙ぶえたき口恋之道心
題簸
j]旦.1'::-手 ノ応Iハ、ひ」
心え之の
山瀧 fこき
本くらよ
角 口 乙ふ
太え
もみ
夫横 ちのゆ
正 ふら
本笛ん
九正 二
兵本条
衛 屋 通
川HHJ司寸4
4
平i一一副
延費四年丙反霜月吉日
山本九兵衛板
③『近松門左衛門全集』第十巻所収本
(原本所在不明)
絵入十八行十八丁
内題
瀧口横笛紅葉之遊覧付り恋之道心
,
「滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
一一一
一
「滝口横笛奈川栄之遊守
とその周辺
刊記フじ
延賢
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22
,; るりし
•
因みに、
『柳予翁雑録』(東京都立関F館蔵)に拠れば
乙の時は
鶴屋からも、。の外題と同一書名(内題か外題か
( 23 )
一方、⑦赤木文庫本をみると、その柱題は
「よ乙ふへ」「たき口」の.一極にJ
刀れ、
乙のvフずり
十八丁中十四丁を占
める「よ乙ふへ
」丁は、慶応本と同板である。残hソの「たき口」丁が、さほど隣減も進んでない乙とをみると、
おそ
らく赤木文庫本は、慶応本板木を大部分利用しながら「たき
μ」と柱題ある九、十五、十六、十七丁(笑丁)(丁付
の四了分が、旧作を改作の上、新刻されたものであろう。改作筒所は、
では、それぞれ十て十七、十八、十九となる)
九了が道行、十五丁以下が冒頭を除く第五段の大半であった。
乙の改作された
ω亦本文庫本文と③
『近総門左衛門全集い第十巻(春陽堂、大正十三年
一月)所収本文と
が、きわめて近似の関係にある。共に延宝四年霜月刊で、しかも③の板元も、
2同様、山本九兵衛という乙と(若月
保治氏
『内浄瑠璃の研究t
第-日巻、四九八頁)であるが、本文の細部に注意してみる時、
2
の本文を整備する形で、③が
そして、
板行されている乙とは明らかである。
は不明)の正本④が刊行された由であるが、未見。しかし、同
一太夫の同じ語り物を、京都の別の本屋が同時に刊行
するという乙とは珍しいζ
とでもない。十分ありうる乙とである。
最後に十行木であるが、第五段尾の宕干の省略整理が目立つ程度で、
3K拠ったものである。節章にも直接の繋が
りが認められる。刊行は、もちろん角太夫の土佐橡受領後の乙とである。
拐、とのようにしてみてくると、慶応本を改作した赤木文庫本以下の2③日(三も含めてよいか)は殆ど同一本文で
ある乙とがわかる。いずれも、正本に銘記されている如く、山本角太夫(土佐嫁)正本であった。
したが
って、問題は乙れらの諸本の拠ったいわゆる改作前の慶応本の所属認定である。換言すれば、角太夫が赤木
文庫本刊行の折に利用した「よ乙ふへ」丁は、本来、角太夫の別正本としであったものか、それとも、何らかの関係
「滝口横笛紅葉之遊覧
とその周辺
一一一一一
,
•
•
イフシ)」に大旨対応する節章という乙とになる。
「ナキフシ」や「ウレイフシ」(又は、それらに相当する節章)を単に「ふし」と記譜するやり方は、角太夫正本には
殆どなく、
一般的には、
一昔前の寛文期から延宝初年にかけての占浄瑠璃正卒にみられるものである。とりわけ、伊
藤出羽嫁正本には顕著であり、出羽座の場合には
更に下って天和貞享頃の正本にも頻繁に使用されている。
こ、っし
た乙とからみて、
「よ乙ふヘ
」丁は、本来、出羽擦の正本ではなかったかというζ
とが想定されてくる。
そして、
こ
の推定をより確実なもの
Kするのが、次の如き段末、場面末における「くり上ふし」の存在である。
くり上
①両方思ひし人をともないゆくゑんはおかしきζ
いの道ふみまよひたるたき口やもりつきが心の内おかしき共中/¥中川rはなか
りけれ(初段末)
くりlil
し
@たれとなくわかき人のほ
っしんあり
〔有〕さかのおくにましますときく人。もしやわかっまのたきぐち〔口〕にてゃある三旬〕
口一-J-
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しのひ
(び〕いたりしいほh
リ〔花山〕をは(道行前)(〔
らんとあやすけ
〔げ)かさにてかほかくし
〕内は「たき口」
( 25 )
丁)
。よ乙ぶへをともないてたきl入道さいしゅんか行へを尋ねに乙そは出にけれもりっきほつしかしんでいたのもしき共中/¥
申リrはなかりけれ(第三段末)
ノ¥nlLi
h
Iし
②五人もろとも今ははゃなげきのいろをひきかへよろ乙ぴいさみ給ひけるみちのみちたるさふらいはもっともかう乙そあるへ
けれとさてかんせぬもの乙そなかりけれ
(第四段末)
乙の
「くり上ふし」は、従来、全く注目されると乙ろがなかった。しかし、
乙れが、
ωやめでは、
①を例外とし
て、
いずれも
「かんとめ」にかわっているのは、留意すべきであろう。言うまでもなく、「かんとめ」は、角太夫及
「滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
二五
びその一派の、段切における最も特徴的な節章である。その
「かんとめ」に対応し、しかも、時代的に先行して「く
って
LLの
んく・3をうけし
ιれ共
みちl
lれ
br
し
く1;:
しのjhM
且,
路l績笛紅ω
豆、之遊ピ
とその周辺
りにfAし
はが在するのである。
も
該当筒所民心t闘がたく例外というものの
乙れ
i
lある
~rJ
らんと
の
l乙
思ふ心をた
りにて。
d,ひ出で
せが制ひける
はれfbり
l,る
次第えり
が明補
れた乙とによるのであり
くりし」し
カ場一山JaAにくる節市で
る乙とにカわり
ir-い
のよ丈
pワヱ
その場耐ぷというζ
とカらいって
乙ζ・刀
市
でたく
カんとめ
にカわ
てし
γと
しても
犬節の場ム
併して不都合で
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る
しかし
ιがら
くり上ふし
コ、場面-にしカ用いられたカったものでlftい
JHi別の
一AA吋刊に
が
「くり
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を追っていくと
1奨
長れ
別れ
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等としう五悶ょを合
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ナ
フシ
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おそらく
81(の日間しれ'hnM耐に
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の
くりトしふし
を
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パたらで
った
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その恒例
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どりの色かへ
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ろ
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3
四段
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ら
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ら
といふ乙ゑも訴えカら乙
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也
•
32
一段
O-4,引に
恋のi二勾
月
此
の
恋
の
ーと皆かん
の乙そえかり!
(「七夕之
五勾
出羽嫁の場合、節付の多い正本グ少ないため、
は必ずしも適切な用例ばカりとは一一一一口い難いかもしれない。しカ
し
在名・-
と限定せずK、「松世のひめ物語」のような、
いわゆる存疑
γ・までを
めて、出羽橡及びその系統の正
を概観すると、
"
ζ
うした「くり上ふし」の使用例は、実に多く指摘し得る。早くは党支期の正木から、
そして、下
つ
ては岡本文弥や元禄期の太夫たちのもの
Kも数多く認められるのである。したがって、ついでながら記すと、現在、太
乙の段末の
「くり上ふし」を主たる根拠に、
出羽嫁及びその系
夫未詳本として扱われている古浄瑠璃正本の中には、
統の正本と認定してよいものが、何編も指摘出菜る。占浄瑠璃正本の所属認定の一つの決め手として、「くり上ふし」
は、今後、大いに注意を払われてよいであろう。
ともあれ、局面末の「くり上ふし」の使用は、乙のように明らかに出将時の太夫たちに特宵なものである。なれば
乙の
「くり上ふしー一
を独自民発展させ「かんとめふし」を編み出
したのであろう。「くり上ふし」と「かんとめ」の対応は、その乙とを物語るし、それは又、角太夫が師の
「なきぶ
乙そ、角太夫も、出羽橡や文弥の高弟に相応しく、
( 27 )
し」を継虐して、更に?っれいぶし」へと発展させていった経緯とも相似るのである。
拐、乙のようにして、
「よ乙ふへ
」丁には、
「ふし」「くり上ふし」のニ節章につき、出羽橡に特徴的な使用法が確
認出来た。「よ乙ふへ
」了は、本来、出羽嫁の一諮問り物であ
ったわけである。即ち、
ψ慶応本乙そ、その出羽橡正本であり、
(匂赤木文庫本は、更にその出羽橡正本を利用して、
正本の作者名は、②内題(「よ乙ふヘ
一部を改刻した角太夫正木という乙とになる。その場合、
出羽嫁
丁)から判断して、「よ乙ぶえたき
n恋之道心」であったと推定される。外題は
ともかくとして、乙れが本来の呼び名であろう。それが、
d
の外題を経る乙とにより、⑦の内題の如くあら」合めて
もよいか)「瀧口横笛紅葉之遊覧付り恋之道心」となり、更に@十行本内題の「瀧口ょこぶえ」と受けつがれ、定着した
のであろう。②赤木本の両柱題は、内題で男女主人公の呼称順序の逆転する経緯を象徴的
K.小すものであった。しか
一滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
二七
c;
•
がも出ており(「帆ム平.
~トJ
ロu
r
三、rt・-d
とその周辺
-a守SFB
「滝口横笛紅セ之遊吟
し
一方で
初の呼び名も,J〆灯して行われていたらしく
3)の一:題(uhJ
戸に
る
キJ
5γ・2
烈急文山本外題氏、その
形跡をとどめるのである。
-・圃-lー・-
出
羽
-4
正
本
の
刊
年
「滝口績筒
浄摺璃は
角トメJ
・ヌに先f
付して
カ一が有した
、ねそら
角・
54〈l旗上げ興行の
一術者向中子
(延安四年八月
J叶リI
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作日の本作でも
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正本
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必要筒所のみを汐民嫡ぷしfbyら
乙の場耐を追ってみる
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フれ
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訂州ぷ伐の仰いいの怖に
Lっと二のlる
f 己お
くりて
そζ
へ
る
内
6五fJのバリzf
• 、
•
若丸)」
が出て、かいがいしく世話+そしてくれた。盛次が悦び、歳を尋ねると、
。「ことし止小に也候しという。戚
次は、
(…σ「われかるもかたいないに残し置たるみとり子かしゆっしゃうめでとう有ならは此おさないほとあるべき
と」涙に沈むのであった。
を待ら乙がれて、
出羽嫁にしろ、角太夫にしろ、親子夫婦の対面場はきわめて重要視されていた。想い人の胤を宿したまま、その人
いつしか五年の歳月が流れた。出生した子も五才とな
ったある夕暮の草紙に、親子夫婦がイ思議の
対面を果した。ζ
うした局面に於いて、年月比対する配慮は、一決して等閑なものではなかったであろう。
右の引用本文は、?)慶応本(2
赤木本
(「よζ
ふへ」丁)に拠るが、乙の箇所、
①『近松門左衛門全集a
本交では、へい
が
「乙とし七歳になり候」となっている。
(忍十行本も同文である。乙れは単なる誤りではない。
⑦が、
td」⑤北ハに「いい
くと十の春秋を送りて」とある乙とからも明らかに意識的な変改である。ただ、その改変の際、今少しド竜一さを欠
いたとみえ、
①は
「の」が
「なる」と変るのみで、同文であった(等閑視したのではなかろうが、「五rJ」をそのままに
( 29 )
した点、些か不注意であった)。
ともあれ、亀若丸は、
3
『近訟門左衛門全集』本文(延宝四年漏月刊)段階で、
七Jであった。「よ乙ふへ」了時代
より
その閥、丸二年の歳月があった。登場人物が年ぞとるというのは、考えれば奇妙な話である。が、亀新丸に限
つては
それは決して不思議な乙とではない。むしろ、彼は、後述する如く、成長し、成人せねばならぬ人物ですらあ
った。その意味で
「よ乙ふへ
」丁で
「五才」であ
った彼が、
③段階で
「七
-r」にな
っているのは、
それなりの意味
も乙められていよう。そして、その差乙そ、双方の刊行年月の違いを示しているのではなかろうか。となると
① か
ら逆算して、
「よ乙ふヘ
」了、即ち出羽橡正本の刊行は、延宝て年であ
った可能性が山てくる。もちろん、①と川年
月に刊行された赤木本は、
「よ乙ふへ
」丁を含み、亀若は「五
J」であった。しかし、
乙れは出羽嫁正木の板本を利
「滝
横笛紅葉之遊覧」とその周辺
二九
「滝l償筒紅緊之遊
用した為であり
如
lの
山察で
之道、山鶴
日間カら
滝口
とその周辺
ー
mmの本ぞ
従
取沙枕されて
tる
中十六際Ki角太夫は
乙の部分を(3)と同じ詞
mmでふ削ったに相違えいといじる。
ロ同l
r
H
L
-
7
主
判
l
Eー
より段初比刊行
h
、
.110
・』J
』ノ
ムA.FE--'1qm川
1
1
し
1、
44
乙よえれI
日恋
i'A.・・0ら..
-E'E
・・
i
b
v
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A
a
,
|四
右曲
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るの
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ソ
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fII!
完全に山間1・ドドム
ー・・.
一
ロ?カるた
る
説
(
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それに
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作とみる
りZて同じ勺月頃カ
J4汁づ
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内科事
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カ改慰して
ιりしたことにたる
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改
作
箇
所
lま
日恋之道、む
ah
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ペμ1ふμ
であった。
と題--
乙のvpya-〈{
よ乙ぶえた
近公と出羽町
の山接的
ιムぴつ
現
を.4す資
1r
うな近松作で
tfcいことを怠R
る
延t定
,Y都民
tr一で
がりを思定
その
L
ろう近なと
る
したカって
乙の段階で
一宅にみられる
竹を近MLI川句時の削れと
カカ・つら
近いれム関hJの吋能仲カ依
Zとして
舵カで
-H徳四γ
の近公約
るlの
る
|辞
乙の近世舵中山山〈什と
dL関却カ辿
1るれーめ
の引用
あるfbど
段
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ζぷえ道ノ汀
が平の道行文を
部に
a
全る迄
隣住してしる
従
-hl!
4MU
殆どその
は災民乙の道行
の
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その巡行
方を用いている
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そ
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く
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-r
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用関係カら
作に近公のノパプT
したカっ
.4改変の段階で
fの近沿が
与したというケ
1ヌである
改作者として当
30
,
.. ‘
「織歌かるた」が、正徳期の近松作としては全く異質といってよい程氏、殆ど先行旧作のままであると
いうのも、あ
るいはその改作の折Kでも、近松が何らかの感懐を抱くような特別な事情といったものがあったのであろうカ。そう
した事が、正徳期比は珍しい、敢えて旧作に依存した作柄となっているのかもしれない。しかし、この改作者として
の近松の関与問題の考察は、道行と共に、角太夫正
の今一つの改作箇所、第五段についても検討を加えておく必要
がある。
そ乙で、次に第五段に注目してみる。先ず、角太夫本であるが、各諸本に小異は存するものの、全体的にはほぼ同
一本文である。簡単にその展開を示してみよう。
住⑪
HW江州志賀の里で不思議の対面を果した滝口・横笛、盛次・刈藻
・亀若丸の五人は、敵旧辺蔵人とし光(とし道)が同国守山氏
隠れている乙とを知り、その地の領主で朋友でもある景清を頼むべく、守山へと志す。
( 31 )
同一方、君の御勘気を蒙り、身の置き所もない蔵人は、主従四人で粟津が原で強盗を働い
ていたが、刈絡がぶ賀の里にいるとい
う噂を耳にして、恨みを晴ら主んと志賀の浦へと急ぐ。
MM景清が上洛すべく粟津にさしかかったと乙ろ、滝口盛次らと蔵人らが、互いに太刀討に及ぼうとすると乙ろであった。
何とか
その理非を札した上、双方の望みに任せ、再び討ち合いをさせるが、盛次が蔵人の小手を経いだところで再
両方を押し分け
ひ割って入り、蔵人は自らの領内で療治させ、滝口以下の人々を伴ない上洛した。
乙の展開で留意すべきは、同である。景清が、まさに敵役滅亡という段階で、盛次らと北ノに、その敵蔵人を助ける
のは、何とい
っても特異である。殊に、本作は敵蔵人が盛次と恋仲にある刈縫を横恋慕するという設定により、以
下、乙の三角関係を絡ませての善悪高藤劇として構想化されている。そうした作品にと
って、乙の結末処理は、
やは
り不可解というべきであろう。第四段で大川円を迎え、仮に第五段は全くの蛇足とみても、
乙の印象は払拭しきれな
「滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
一一一一
,
•
「滝口横笛紅宅之遊hr
とその周辺
凶.
L、。
万
先行する出羽三
E.
)はどうカとしう氏、ぷ念にも
MW似の柏町
Jをケく。したがって
-、
ζ
の筒所
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それならば、なぜ、角太夫は、纏まりある善悪葛藤語を敢えて変改して、煩しい結末に置きかえたのであろうか。湖
上の場を路上に変えた演出上の問題も配慮せねばならぬであろう。しかし、何にも増して、滝口・盛次に、横笛・刈
藻、殊に幼い亀若丸を仇討の場まで同道させた点、更には、前述の如き討滅寸前の敵役蔵人を助けさせた点、
乙れら
の理由や意図がど乙にあるのかを究める乙と乙そ、角太夫本改変の謎を解く鍵となるはずである。しかし、作品内部
にはその手懸りとなるべきと乙ろがない。
乙乙で思いあわされるのが、赤木文庫蔵「智略かたきうち」
(延宝五了巴年二月上口目、山本九兵衛板)である。乙の正本
は、笠亭仙果旧蔵の極上本で、挿絵のり
つばさなど、驚樗すべきものがある。長く海外に出ていたが、戦後、日本ヘ戻
注⑬
り赤木文庫に入
った。
次に、その梗概を記してみるζ
とにする。
(第二)
( 33 )
北野の花見の酒宴の折、
重盛公は、
斎藤左衛門持頼に今はその所在のわからぬチ滝口の乙とを尋ねられた。その時、景
清が進み出て、四五年前の江州粟津が原での様子を語り、滝口を戎が館に忍ばせている乙とを明かす。悦人だ重盛は、翌日中
宮に参内して、滝口らの赦免を願った。中宮も不欄と思い、その径を赦したと、刈繰横笛をそれぞれ盛次・滝口にとらした
(横笛、悦びの舞)。
(第二)
粟津が原で滝口らと誇
った田辺蔵人俊光は、命ばかりを助かり、吉田に忍んでいたが、今なお刈藻への想いを断ち切れ
ずにいた。見かねた郎党大山源六時かげらが、刈獲を強奪すべく、館に帰る途上の盛次夫婦を襲った。盛次は刈縫を落とし、
奮戦したが、大勢の敵に利なく、時かげを討ち果した後、
三十五ャづら二期として露と消えた。郎党達はやがて刈務を捕え、俊
光の待つ伊勢阿濃津へと無理やりに連れ去
った。
「滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
一一一一一一
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(宅四)
名に若いた1
狩中の盛久と巡り合い
一説カ館ヘ て
「滝口綴箇紅
λ之遊
とその周辺
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俊光の前に連れ出
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盛次の死を知ら
俊光氏従うとよせか{
仏前を飾らゼた後
峨次の後を迫
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「滝口横笛紅葉之遊覧」は、滝口横笛、盛次刈藻のて組の恋人夫い仰が、妙な
「取り進えL
を繰り返しながらも、や
がて、本来の夫婦親
Fとして対面するに至る悲災者渋の過程を附いた作である。しかし、題名のぶす通り、どちらか
といえば、滝口横笛の避近にやや筆勢が傾いていた。
「智略かたきうち」は盛次刈藻とその子亀若を
めぐる摘写に力点がはっきりと移されている。蔵人が盛次を討ち、刈藻を死に追いやった。その仇を、一一人の子亀若
乙れに対して
が討つという物語である。柱題の
「かめわか」も、題名と相侯って、後作の主題のありかを端的に-不している。亀若
が、出羽橡本から角太夫本への段階で
七歳にまで成長したというのも、もしかすると
本作で親の仇をも討てて、
恋をも出来る少年へと更に成長させねばならなか
った乙とが、少しは関係しているのかもしれない。
一体、角太夫の作品には、いわゆる繰り返しの手法を駆使する乙とで、
「仇討の仇討t
劇として形象化されている
ものが少なくない。例えば、本連作目後に仁演の
「石山開帳」(延宝五年四月)は、先行作の説経
「石山記」の世界
に、新たに金平風の合戦場面を設定して、
「仇討の仇討」劇として旧来の世界を発展させようとしている。その他
「五太力菩薩」(天和て三年頃)、「なごやさん、ざ六条がよひ」(,大和三年十一一月以前)、「佐野源左衛門」(向上)などにも、
( 35 )
同様の手法が日につく。おそらく本連作も、そうした手法を意識する中で構想化されたものであろう。
盛次刈渓の恋路の障碍をなす蔵人が、
二組の夫婦の敵として討滅されたのが、出羽橡正本である。角太夫は、その
結末筒所を後作の第五段へ移行させた。そして、その間に、既に討たれんとした蔵人が、その恨みをもζ
めて盛次刈
銀・を死に追い込み、為に又、亀若に討たれるという経緯を展開させる。まだ、
「仇討の仇討し劇にまでは十分至って
いないが、それにかなり近いとい
ってよい。「滝口横笛紅葉之遊覧」第五段の改憲は、そうした構想下の所為であっ
た。であれば
乙の変改には、角太夫の意向の強く反映し
ていた乙とも、以1
然の乙とながら想定されるのである。
「滝口横笛紅葉之遊覧しとその周辺
三五
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「滝口横筋紅一応之遊HF
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作前の出羽嫁ムに拠るのである。改作に近ログ介化して
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の¥ル後トというストーリーであっ
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った。
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そうに思う。版端な場合にl
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•
•
•
もちろん、その場合には、改作者単数という前提自体が問題となる。しカし、作品制作の場に於ける太夫周辺の補
助作者の実態についての研究は、
古浄瑠璃を対象としては全くなされていない。角太夫周辺の協力者も、この時、何
人程かいたものか、定かでない。したがって、第五段改作は近松以外の習作者(角太夫の関弓はもちろ人であるが)の
手になる可能性も残るが、
「滝口横笛紅葉之遊覧」上演が角太夫の旗上げ間もない頃のζ
とで、しかも、彼が愁嘆世
界を基調に、逸速く独自の作風を確立した名太夫であるとはいえ、例えば延宝六年四月に、なお、師の出羽嫁の節付
で、
「酒顛童子付頼光山入」を語っているなど、まだまだ若い太夫に違いない乙とを思うと、
乙の頃、何人もの協力
やはり考えにくい。となると、
「滝口横笛紅葉之遊覧」ニ
ケ所の改作は、同一人の手に拠ると
みるのが、穏当というべきかもしれない。そして、もし乙の推測が正鵠を射たものであるならば、重要な乙とは、道
者を抱えていたとは、
行文の襲用関係の存在という厳然たる事実にもかかわらず、道行文改作者近松という可能性そのものも、むしろ否定
( 37 )
的な方向で検討を要するという乙とである。
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』、
ふlbj
乙うした推断に対しては、
一方で次のような指摘を念頭に筒く必要はあろう。即ち、近松存疑作に関して、
諏訪春雄氏が、
のちの近松確実作に関連性をたどれる
(中略)全
一曲を近松作と認めるよりも、ひとまず節事部分だけを対象として、近松執
乱⑬
筆の範囲を確認していく作業が、近松習作期解明の突破口となるはずである。
と述べられた視点である。同じく氏は、
一曲の構想や地の文句、せりふ事などには、あるいは加賀嫁のような太夫なら積極的に関与する乙ともありえたであろうが、
注⑬
もっとも文章力の要求される節事だけは近松の専掌すると乙ろであったと考えるζ
とができそうである。
とも述べられる。乙の指摘は、もちろん、加賀橡と習作期の近松との関係についての乙とである。が、
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れは当面の
「滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
三七
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の乙れもワキであったらしい
(「今昔操年代記」)。その場合、清水理兵衛のワキから、すぐに謡太夫の許へ移籍したか
乙の延宝四年末あたりに時間的間隔があり、その頃に角太夫と交渉を有つ機会があ
どうかは不明である。あるいは、
ったというような乙とはなかったであろうか。推論を章一ねてきた本稿で、又も臆説を加えるのはよくないが、延宝四
年霜月
「滝口横笛紅葉之遊覧」の改作された道行を、角太夫
・義太夫コンビが語ったという司能性は考えられないで
あろうか。③『近松門左衛門全集』本文は、
乙のあとが太夫
・ワキの樹け合いであり、清一行がツレぶしであったζ
と
は間違いない。したがって、そうしたζ
とが角太夫節の摂取に繋がり、また、
「蛾歌かるた」が義太夫(筑後橡)最晩
正泊。
たまたま起った
「絵島事件」もあって、若かりし時の何らかの思いに耐えず、年老
年の語り物である乙とを思う時、
いた彼が、その思い出ある旧作に依拠した際物的作品を近松に求め、道行文は旧作そのままに語ったというような乙
とになったのではなかろうか。ふと、そんな乙とも思うのである。もちろん、
乙れらを懲すべき資料は何一つとして
ない。全てが臆断である。しかし、角太夫が後年、
「源氏長久移徒悦」、「門出八島」(津一戸三郎)、「源氏烏帽子折」(烏
帽子折)、「出世景清」、「天智天皇」など、義太夫作品を好んで流用した背景には、京都での角太夫加賀嫁の確執が一
注⑬
つはあるものの、角太夫義太夫の何らかの繋がりを感じさせるものもある。現在、
ζ
の問題に正面から切り込んだ論
文は一編もない。が、節事を作者論のみで押して行った場合の行き詰り的な限界性を知る時、
こうした問題解明に太
夫論の併用は不可欠である。その意味で、列挙した可能性の有無をも含めて、
乙の頃の義太夫の動向を明らめること
乙そ、存疑本の諸問題解決に活路を開くものといえよう。ともあれ、
「滝口横笛紅葉之遊覧」道行改作者が近松か否
かは、なお決め手を欠く。今の私自身は、どちらかといえば、非近松に傾いてはいるが、なお幾つかの間題を提起し
て、今後の大方の検討に待ちたい。
「滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
三九
,
•
• ( 39 )
「滝口僕笛紅山性、之遊円
(注)
①
とその周辺
例えば、近訟と角・
5-〈の関係を認められる高橋宏氏にしても
KBき与えた作品はなLとされ、
③
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何にたとへんかたもなし
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っかたはらにぞしのひける
一巻のそれぞれの可
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フシ」「ウレイフシ
ふし〔⑤ハツミフシ
はら/、ないてぞいたりしが
ふし
〔
@地⑤ウレイアン〕
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次のて例のみ。
③ ⑨ ⑮ ⑪ ⑫ ⑬ ⑬ ⑬ ⑬ ⑫ ⑬ ⑬
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川・
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東洋文庫本題簸にて出羽嫁正本と認定。
横山重氏は、本書が
「玄忽上人御由来」(延宝二年卯月)と連作である乙とを根拠に出羽橡正本と推定された(古典文庫『占浄
瑠璃集
(出羽嫁正本)』)。
筆者も曲譜上の特色より、横山氏説に賛意を表する。
本書は出羽嫁正本であるが、該当箇所は岡本文弥の節付である(横山重氏『市浄瑠璃正本集』第五解題)。
しかし、乙の「くり
上」は、文弥が師の出羽橡の曲譜の特色を踏襲したものとして例示した。
例外的なものとしては、総本治太夫正本
「石川五右衛門」(第五を除く各段)「鎌合1
袖日記」(第一二)などの段末の使用例を指摘
出来る。しかし、乙れは治太夫の師の角太夫と、当時の出羽座の太夫達が冗いに深い交流を重ねていて、治太夫も又、そうし
た中で、本家筋の出羽座の曲風を摂取するとζ
ろがあったためと思われる。
阪口弘之
「出羽座をめぐる太夫たち
「道行揃」を手がかりに
( 41 )
」(『人文研究』第二十六巻第三分冊)参照u
「蛾歌かるた」道行文は、
③『近松門左衛門全集』⑤十行本に比して、
②赤木文庫本の本文に近いが、逆に、②とは異なって、
③⑤とのみ
一致する箇所もニケ所ある。
蔵人の名前は、
②が
「としみつ
(光)」、「とし道」と併用され、
③は
「利道」、⑤は
「としみつ」とある。
信多純
一氏
「山本角太夫に
ついて」参照。
「近松門左衛門
市興作家の肖像」(『解釈と鑑賞』第四十三巻第七日ヴ)。
版本文庫7解題
「松浦五郎景近について」十ア頁。
臼方勝氏「「織歌かるた」をめぐる推論
」(『新居浜工業高等専門学校紀要』
第f巻)参照。
近松と絵島事件
阪口弘之
「加賀嫁と土佐
「他力本願記」と「ア角堂求世窓口薩」をめぐって
」(『人文研究作第二十七巻第九分冊)参
昭。
「滝口横笛紅葉之遊覧」とその周辺
四
の恩借を添うした。
υへし
。お世話に
s
かった関係各国
L官、及び折
同-ー・圃・
ー
42 )