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1 法解釈の一般性と一回性 〈法と文学〉は〈法と科学〉の隙間を埋められるのか 2012.06.23(土) 明治大学〈法と文学〉シンポジウム 常磐大学 嘱託研究員 吉良 貴之(法哲学)

2012.06.23 明治大学〈法と文学〉シンポジウム

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法解釈の一般性と一回性〈法と文学〉は〈法と科学〉の隙間を埋められるのか

2012.06.23(土)

明治大学〈法と文学〉シンポジウム

常磐大学 嘱託研究員

吉良 貴之(法哲学)

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本日の発表内容

(1) イントロ:「図書館戦争」の〈法と文学〉

(2) 〈法と文学〉は〈法と科学〉を補完しうるか?

(3) 〈法と文学〉の規範的主張の功罪

※ 発表者は〈法と文学〉の主張のうち認知的意義に関わるものについては一定

の評価をするものの、その規範的主張についてはほぼまったく同意できない。

したがって(ポズナーとはまた異なった観点も含めて)、主要な問題点の紹介と

検討が本シンポで発表者に課された役割である。

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〈法と文学〉の基本的な主張

「文学としての法」(特に下巻) の側面に着目すると…*1

(1) 法律家(特に裁判官)は、文学を代表とする、人文学的な知に多く触れることによって視野を広げ、法(判決)を「より血の通った」ものにすることが望ましい。

(2) 法の形式的で一般的な言語は、そこに回収されない一回的な叫びとしてのナラティヴを排除してしまう。 (1)と合わせ、法実践でのナラティヴ感応

性を高めることが望ましい。

*1 「文学における法」、つまり各種文学作品の中での法的なもののあり方(上巻)については特に対象

としない(「法が出てくる文学の四方山話」なる〈法と文学〉のイメージは、現在の議論水準に合って

いるものとは言いがたい)。したがって、個別の文学作品に本発表は言及しない。

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発表者の基本的立場

(1)に関して、そういう面が〈文学〉にあることを積極的に否定するものではない。

しかし〈文学〉の茫漠とした知よりも臨床心理学をはじめとする体系化された知を学ぶほうがより効果的ではないか。→ 検証可能性に乏しい〈文学〉を特権化すべきではない。→ ADR的な法実践には使える? ex.「リーガル・カウンセリング」

(2) に関しては、それによって救われる人もいるかもしれないが……、[1] 言説資源の格差 [2]〈代弁者〉の権威

の問題によって、法の外の格差がそのまま法の中に持ち込まれることが危惧される。むしろ、法は一般的言語であるがゆえに弱者にも「使いやすい」。

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最近のニュースから武雄市と大阪府の「図書館戦争」(1)

佐賀県武雄市の市立図書館への「Tポイント」カード導入構想への反発

「個人情報」としての貸出履歴

「Tポイントカード」の個人情報集約機能 * 貸出を「ポイント化」することへの反発

大阪府立図書館の廃止構想

橋下市長「あんなところに図書館はいらない」

一連の「文化軽視」政策の流れ?

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最近のニュースから武雄市と大阪府の「図書館戦争」(2)

「文化破壊」「民主主義の根幹を揺るがす」といった反発の妥当性は?

日本人が公立図書館を利用する平均回数は年間で 約1.7回 本を借りる人は年に数十回行くから、8~9割ぐらいは 1年に1回も

図書館に行っていない。

対照的に、インテリ層は「知の象徴」としての(公立)図書館に過剰

な思い入れを持っている。

→ インテリ攻撃の格好の材料に?

「法と文学」の主張と、こういった現実との乖離。

→ 文学そのものがもはや「国民に身近な」ものではない。

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公立図書館と〈法と文学〉

「地方公立図書館的な」知の象徴としての〈文学〉への憧憬 「図書館戦争」でのインテリ層の反発には…

文学的知性を育成する場としての(地方公立)図書館への、過剰な思い入れがないか。

「文魂法才」の出世譚: 法律家出身の文学者は海外にも多い 〈法と文学〉論者もその心性を共有?

→ なぜ文学的想像力が特権化されるのかという問題

日本での「文学者」「文芸評論家」の社会的地位の盛衰 *2小林秀雄や柄谷行人が知的アイドルだった時代もあった。

*2 問題を語る言葉そのものを「発見」する文学者の需要は、社会の成熟にともなって失われていく。社会問題に知的装いを付加する役割を担っているのは、現在の日本ではほぼ社会学者もしくは

それに近いことを行なっている哲学者など。

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脇道:日本の裁判官はどれだけ〈文学〉に親しんでいるか

最高裁裁判官14名の愛読小説は……(2012年、最高裁サイトより)

トップは司馬遼太郎 で4名 ほか、山本周五郎、塩野七生が複数 基本的に大衆文学か、あたりさわりのない古典(ヘッセ、ジィド

…etc.)

→ 本当にこういうものしか読んでいないのか?→ 実際はもっと読んでいるが、反発を恐れて隠している?

民主的正統性の弱さへの過剰防衛 〈法と文学〉論者の趣味が高尚すぎるのか?

「文学を含めて、芸術はしばしば非民主的な社会において全盛を迎え、実際に民主主義的な社会では緊張感をもたらす(…)。現代の民主主義国家は特に俗物的」(566頁)。

→ 〈文学〉的なものの反民主的性格: 民主的答責性の潜脱の危険

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〈法と文学〉は〈法と科学〉の隙間を埋められるのか?

本シンポジウムはJST-RISTEX研究開発プロジェクト

「不確実な科学的状況での法的意思決定」(代表:中村多美子)の

後援による。

〈法と文学〉は「科学主義」法律観への挑戦か?

科学だけでは答えが出せない法的問題において、

文学的想像力は力を発揮しうるか?

科学的不確実性を埋める「声」

ポズナー的な費用便益分析の「剰余」

リアリズム法学の不幸な分岐?

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〈法と文学〉論者による「固い科学観」の例

「文学作品を人為現象的な本質とする新批評主義の主張は、科学技術、抽象的思想の成果が勝利したと考えられる現代に敵意を示すもの」(360頁)

「ブルックス[Cleanth Brooks]は、科学の抽象性に対抗して、悲劇の『具体性、劇的な多義性、皮肉、闘いを通しての解決法』を提示した」(同、注36)

「制度としての法は[訓練された集団による解釈共同体の存在により]、ある種の自然科学が享受している幸せな状態(それが幸せといえるのならば)にあることになる」[Stanley Fish, 1982](375頁)

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〈法と文学〉による〈法と経済〉批判のポイント

前記の「固い科学観」に見られるように… 科学的言語の一般性・客観性を過大視 その対比において〈文学〉の優位性を主張する方向

→ 特に J. B. White, Legal Imagination, 1973 に顕著

〈法と文学〉が批判する(初期の)〈法と経済〉の合理的経済人モデルは、アメリカン・リーガル・リアリズムより科学的には慎ましいもの。*3

→ 〈法と文学〉が批判するのはその抽象性であって、科学性ではない。→ 「科学的」な文学はいくらでもある。

ex. 各種ディストピアSFの効用(10章)、あるいは社会主義リアリズム*4

*3 現実の人間描写を目的としていない以上、Westの批判はまったく失当なのだが…。もっとも、限定合理性を直視する種類の議論はまた異なる。ex. Libertarian Paternalism

*4 社会主義リアリズムにおいては、文学そのものが科学の営み。

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〈法と文学〉はごく一時期の「近代小説」を特権化?

ポズナーが考える小説の典型は… 「中産階級の情報媒体」

「普通の人々」を描くリアリズム

→ むしろ道徳的には混乱によって特徴付けられる

→ 法律家を道徳的に教化するほど高尚ではない

〈法と文学〉第二世代(R. H. Weisberg, R. West)以降の「文学の政治的利用」は……

一定の物語構造を備えた都合のよい小説を選んでいる

「脱構築批評」によって無理な読み方をしている

→ 〈文学〉の多様性をどこまで誠実に受け止めたものか?

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ポズナー自身による法と科学と文学の関係

科学技術は「法による社会統治に対する挑戦」としての側面をもっている。cf. アーキテクチャ的統治: (法)規範の内面化を必要としない

「自然科学および工学よりも、修辞学、演劇、そして政治学に起源を有する法という専門領域は、どうしても科学的革命への適応において遅れがち」。

「しかし、逆説的な意味において文学と映画は、この法という専門領域の現代化を助けるものになり得るかもしれません」(以上、513頁)

〈文学〉的なものへの一定の期待

法的判断の「背景的情報源」

「想像力」「感情の限界」の拡大

→ もっとも、自然科学(および社会科学、哲学) のほうが力がある(594頁)。

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法解釈の一般性と一回性――ナラティヴ論の功罪 (1)

ホームズ「一般命題は具体的ケースを決定しない」 : プラグマティズム法学

アメリカン・リーガル・リアリズムの2つの分岐 ⇔ プロセス学派

– (1) 「法と経済」における費用便益分析 *5

– (2) 「法と文学」、CLS、批判的人種理論におけるナラティヴ分析

→ 個別ケースごとの判断を重視する点では共通 *6

→ その一般原理の可能性について対立 cf. 検証可能性の問題

ナラティヴ論へのポズナーの批判

– 「悲惨な境遇にあるとされる人々が自らの問題に関する体系的思考を捨ててまで、その物語を述べる場合には、どのような利益を得ることができるのか何ら説明されることがない」(538頁)

→ 一回限りの声と、一般的な法言語との区別

*5 (初期)ポズナーであれば、カルドア・ヒックス基準による富(wealth)の最大化。

*6 したがって両者はいずれも Legal Formalism ではない。

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法解釈の一般性と一回性――ナラティヴ論の功罪 (2)

法的物語(story)の「痕跡」あるいは「構成的外部」として→ 認知枠組の生成過程に目を向けさせた点に一定の意義→ 道徳による法批判という法実証主義の古典的問題 (ex. Kelsen, Hart)

しかし、ナラティヴ感応性が法解釈に内在するものとして規範的に称揚されるとき、法の内/外が消滅する。

→ 社会に存在する言説資源の格差がそのまま法実践に反映さ れる(そこで生まれる代弁者の権威)

→ 「形式的であるがゆえに誰にでも利用可能」な法的言語の特質が失われ、弱者にとってより過酷な話に? *7

→ 法律家の個人的資質に期待する制度設計は基本的に筋が悪い。

*7 現実の裁判は武器を法的言語に限定した局地戦。ナラティヴ論はそれを総力戦に変えることで、武器対等の原則をなし崩しにする。

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最後に: 実定法学者はポズナー『法と文学』をどう読んだか?

訳者のお二人に…(1) 〈法と文学〉(またはポズナーの視点)は、法解釈に「使える」ものであるか

どうか。(2) 民事と刑事を専門とされていて読み方に違いはあったか。

以上、ご清聴ありがとうございました。

吉良貴之 (法哲学)

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