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創業明治32年の老舗駅弁企業 ㈱松川弁当店は明治32(1899)年に創業。奥 羽本線が開通したことに伴い、米沢駅での立ち 売りをスタートさせた。当時は自社敷地内で養殖 山形県米沢市で駅弁の製造を手がける㈱松川弁当店。同地の名産品・米沢牛などを使った弁当 は発 売 以 来 好 評を博している。昨 年は「ファベックス惣 菜・べんとうグランプリ2 017」で「米 沢 牛 牛 づくし弁 当」が 金 賞を受 賞 するなど、味 の 評 価 が 高まっている。列 車 高 速 化 や 後 継 者 不 足 など、駅 弁を取り巻く環境はこの数十年で大きく変化してきたが、同社は一手間かけた付加価値の高い弁 当作りと人材育成に取り組み、商品の進化を続けている。 進化続ける駅弁、 一手間かけておいしさ追求 ㈱松川弁当店 (山形県) していたコイを使った旨煮やイモの煮っ転がし と合 わ せた「 鯉 弁 当 」を 販 売していたが 、昭 和 に 入り日本人の食生活の変化に合わせ、牛肉の使 用 に着 手 。当 地 の 名 産 品・米 沢 牛 を 使うように なった。 林 真 人 社 長 は 2 0 代 の 頃、自らてんこ箱( 雑 貨 箱)を抱えて米沢駅のホームに立ち、米坂線や特 急列車、臨時列車などの旅客に駅弁を販売してい た。しかし、平成4年(1992)年に山形新幹線が開 通。「窓の景色眺めながらのんびりと旅をする時 代から、目的地にできるだけ速く着くスピード重視 の時代」(林社長)に流れが変わる。列車の高速化 により、かつてのように旅客が窓から身を乗り出し て駅弁を買うということは無くなり、駅弁事業者は 売り方・売場の転換を迫られた。

㈱松川弁当店...松川弁当店もイベントなどに積極参加。平成 22(2010)年の「東日本縦断東京駅弁まつり」で 「米沢牛炭火焼特上カルビ弁当」で人気No.1商品

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Page 1: ㈱松川弁当店...松川弁当店もイベントなどに積極参加。平成 22(2010)年の「東日本縦断東京駅弁まつり」で 「米沢牛炭火焼特上カルビ弁当」で人気No.1商品

速することにより、鉄道はより便利になっていった

ものの、停車駅の数・時間が減少し、駅弁が買い

にくくなった。さらにマイカーブームや高速道路網

が全国に張り巡らされていくと、鉄道利用が減っ

ていった。旅客の駅弁に対する嗜好(しこう)も変

化し、多種・多品目の時代に突入。外食産業の隆

盛もあり、駅弁業界はアイデアでの競争となった。

 昭和62(1987)年には、国鉄が分割民営化。駅

弁イベントや東京駅の「祭」のように、全国の駅弁

を集めて販売するといった売場の変化も起こり、

今や「乗車中の食事」から「旅のみやげ」へと位置

づけは変化している。

食べ方の変化に合わせた対応

 林社長は、新幹線などの高速化で、「電車に

乗ってから買って食べるのではなく、買ってから

乗って食べる人が増えた」ことがポイントだと分析

する。かつて長時間の移動が当たり前だった時代

には、社内販売の駅弁は食堂車と並び重要な要

素だったが、現在は売上が低迷。駅ナカの充実

や、24時間いつでも利用できるコンビニエンスス

トアの近接などで、旅客の選択肢は増えている。

米沢駅についていえば、山形新幹線利用者では

目的地でないかぎり乗降数が決して多いわけで

はなく、途中駅の宇都宮、郡山、仙台での上下車

の方が多いため、商売に直結しない状況がある。

年培った技術の継承や、それを担う人材の育成が

業界の大きな課題である。

 同社も調理担当者らの高齢化などにより、後継

人材の育成が急務だ。今年から外国人技能実習

制度を活用し、現在は中国から6人の実習生を受

け入れ、教育している。「文化・風習・言葉の違い

もあり、しっかりしたサポートが必要」(林社長)と

考え、もともと調理経験のある日本在住の中国人

スタッフをリーダーに置いた。指導のとりまとめを

行い、実習生の相談役としても心強い存在になっ

ている。林社長は、「駅弁は日本独自の文化。衛生

管理や調理に関わるさまざまな知識・技術を勉強

して、成長していって欲しい」と思いを語る。

 今や駅弁はEKIBENとして、昨年開催された伊

勢志摩サミットで各国要人にも振舞われるなど、

ジャパン・オリジナルの食として海外からの認知も

高まっている。

 「駅弁は郷土食。ふるさと自慢の逸品をできるだ

けたくさんの人に味わってもらえるようにしたい」

 日本国内へ、海外へ、駅弁/EKIBENの味と担

い手を育むべく、同社の歩みは続く。

創業明治32年の老舗駅弁企業

 ㈱松川弁当店は明治32(1899)年に創業。奥

羽本線が開通したことに伴い、米沢駅での立ち

売りをスタートさせた。当時は自社敷地内で養殖

鉄道の歩みと駅弁の変化

 駅弁の誕生には諸説あるが、明治18(1885)

年に日本鉄道(現JR東北本線)が宇都宮まで開通

した際、旅館の白木屋が梅干しのおにぎりにたく

あんを添えたものを、宇都宮駅で販売したものが

ルーツとされる。明治5(1872)年に東京都の新

橋駅~神奈川県の横浜駅間に日本初の鉄道が開

通し、明治22(1889)年に東海道本線が開通する

までの間に、各地で次々と駅弁販売が始まった。

 当時の鉄道旅行は時間がかかるもの。例えば東

京駅から神戸駅までは約20時間を要した。そこで

社内で食べられる駅弁が必要となり、幕の内弁当

などの「普通弁当」や地域食を生かした「特殊弁

当」などさまざまな形が生まれていった。大正時代

には鉄道網がさらに広がり、販売駅も増加。衛生

管理もこの頃から厳しくなっていく。

 戦中・戦後間もなくは食材不足で駅弁販売は苦

境に立たされたが、その後の高度経済成長期に入

ると、旅行などのレジャーブームが到来。各地の食

材を使った駅弁が人気を集める。駅のホームでの

立ち売りや列車の乗客と窓越しでやりとりする姿が

全国で見られ、駅弁はまさに黄金時代を迎える。こ

の頃は400社以上の業者が駅弁を販売し、昭和28

(1953)年には初の駅弁大会が開かれた。

 しかし、交通事情の変化により、駅弁販売店は

徐々に減少。新幹線の開通などのスピード化が加

 そこで多くの駅弁事業者が、「列車の外、駅の

外」に活路を求めている。東京駅構内で全国各地

の有名駅弁やオリジナル駅弁など200種類以上

を集める専門店「駅弁屋 祭」や、JR東日本が平

成24(2012)年から始めた、地域の特色を生かし

た駅弁No.1を決める「駅弁味の陣」、そして昭和

41年に第1回がスタートした百貨店の駅弁大会

など、販路が広がっている。

 ㈱松川弁当店もイベントなどに積極参加。平成

22(2010)年の「東日本縦断東京駅弁まつり」で

「米沢牛炭火焼特上カルビ弁当」で人気No.1商品

に選出されたほか、さまざまな機会で評価を得てき

た。最近では、「ファベックス惣菜・べんとうグランプ

リ2017」の駅弁部門で、「「米沢牛牛づくし弁当」が

金賞を受賞した。同商品は「駅弁屋 祭」で販売して

おり、多い時は1日で200個を売り上げる。

 また、林社長は売場展開の戦略も重要であると

考える。例えば、「駅弁屋 祭」や百貨店では、

2,000円以上の価格でも購入されることが多い。

一方で、上野など他の駅では1,000~1,500円台

のものがよく売れており、利用者のニーズが違う。

大宮の鉄道博物館では子どもが多いため、さらに

事情は異なる。「マーケットに合わせ、ボリューム

ゾーンにいかに刺さる商品を売るかが大切」(林

社長)なのだ。

 林社長は、「グランプリや賞をいただけるのは、

従業員とともに日々努力してきた賜物。地元の良

いものを炭火や手焼きで手間をかけてしっかりと

作り、味・質での差別化をこれからも追求していき

たい」と語る。今秋以降も新商品の発売を進めて

おり、おかずのバランスや見栄えも含め、同社らし

さの詰まった駅弁作りに向けて一丸だ。

技術の継承・人材の育成に向けて

 駅弁は130年以上の長い歴史を持ち、同社も

含め100年以上続く企業が多い。その一方で、長

 山形県米沢市で駅弁の製造を手がける㈱松川弁当店。同地の名産品・米沢牛などを使った弁当

は発売以来好評を博している。昨年は「ファベックス惣菜・べんとうグランプリ2017」で「米沢牛牛

づくし弁当」が金賞を受賞するなど、味の評価が高まっている。列車高速化や後継者不足など、駅

弁を取り巻く環境はこの数十年で大きく変化してきたが、同社は一手間かけた付加価値の高い弁

当作りと人材育成に取り組み、商品の進化を続けている。

進化続ける駅弁、一手間かけておいしさ追求

㈱松川弁当店(山形県)

していたコイを使った旨煮やイモの煮っ転がし

と合わせた「鯉弁当」を販売していたが、昭和に

入り日本人の食生活の変化に合わせ、牛肉の使

用に着手。当地の名産品・米沢牛を使うように

なった。

 林真人社長は20代の頃、自らてんこ箱(雑貨

箱)を抱えて米沢駅のホームに立ち、米坂線や特

急列車、臨時列車などの旅客に駅弁を販売してい

た。しかし、平成4年(1992)年に山形新幹線が開

通。「窓の景色眺めながらのんびりと旅をする時

代から、目的地にできるだけ速く着くスピード重視

の時代」(林社長)に流れが変わる。列車の高速化

により、かつてのように旅客が窓から身を乗り出し

て駅弁を買うということは無くなり、駅弁事業者は

売り方・売場の転換を迫られた。

Page 2: ㈱松川弁当店...松川弁当店もイベントなどに積極参加。平成 22(2010)年の「東日本縦断東京駅弁まつり」で 「米沢牛炭火焼特上カルビ弁当」で人気No.1商品

速することにより、鉄道はより便利になっていった

ものの、停車駅の数・時間が減少し、駅弁が買い

にくくなった。さらにマイカーブームや高速道路網

が全国に張り巡らされていくと、鉄道利用が減っ

ていった。旅客の駅弁に対する嗜好(しこう)も変

化し、多種・多品目の時代に突入。外食産業の隆

盛もあり、駅弁業界はアイデアでの競争となった。

 昭和62(1987)年には、国鉄が分割民営化。駅

弁イベントや東京駅の「祭」のように、全国の駅弁

を集めて販売するといった売場の変化も起こり、

今や「乗車中の食事」から「旅のみやげ」へと位置

づけは変化している。

食べ方の変化に合わせた対応

 林社長は、新幹線などの高速化で、「電車に

乗ってから買って食べるのではなく、買ってから

乗って食べる人が増えた」ことがポイントだと分析

する。かつて長時間の移動が当たり前だった時代

には、社内販売の駅弁は食堂車と並び重要な要

素だったが、現在は売上が低迷。駅ナカの充実

や、24時間いつでも利用できるコンビニエンスス

トアの近接などで、旅客の選択肢は増えている。

米沢駅についていえば、山形新幹線利用者では

目的地でないかぎり乗降数が決して多いわけで

はなく、途中駅の宇都宮、郡山、仙台での上下車

の方が多いため、商売に直結しない状況がある。

年培った技術の継承や、それを担う人材の育成が

業界の大きな課題である。

 同社も調理担当者らの高齢化などにより、後継

人材の育成が急務だ。今年から外国人技能実習

制度を活用し、現在は中国から6人の実習生を受

け入れ、教育している。「文化・風習・言葉の違い

もあり、しっかりしたサポートが必要」(林社長)と

考え、もともと調理経験のある日本在住の中国人

スタッフをリーダーに置いた。指導のとりまとめを

行い、実習生の相談役としても心強い存在になっ

ている。林社長は、「駅弁は日本独自の文化。衛生

管理や調理に関わるさまざまな知識・技術を勉強

して、成長していって欲しい」と思いを語る。

 今や駅弁はEKIBENとして、昨年開催された伊

勢志摩サミットで各国要人にも振舞われるなど、

ジャパン・オリジナルの食として海外からの認知も

高まっている。

 「駅弁は郷土食。ふるさと自慢の逸品をできるだ

けたくさんの人に味わってもらえるようにしたい」

 日本国内へ、海外へ、駅弁/EKIBENの味と担

い手を育むべく、同社の歩みは続く。

創業明治32年の老舗駅弁企業

 ㈱松川弁当店は明治32(1899)年に創業。奥

羽本線が開通したことに伴い、米沢駅での立ち

売りをスタートさせた。当時は自社敷地内で養殖

鉄道の歩みと駅弁の変化

 駅弁の誕生には諸説あるが、明治18(1885)

年に日本鉄道(現JR東北本線)が宇都宮まで開通

した際、旅館の白木屋が梅干しのおにぎりにたく

あんを添えたものを、宇都宮駅で販売したものが

ルーツとされる。明治5(1872)年に東京都の新

橋駅~神奈川県の横浜駅間に日本初の鉄道が開

通し、明治22(1889)年に東海道本線が開通する

までの間に、各地で次々と駅弁販売が始まった。

 当時の鉄道旅行は時間がかかるもの。例えば東

京駅から神戸駅までは約20時間を要した。そこで

社内で食べられる駅弁が必要となり、幕の内弁当

などの「普通弁当」や地域食を生かした「特殊弁

当」などさまざまな形が生まれていった。大正時代

には鉄道網がさらに広がり、販売駅も増加。衛生

管理もこの頃から厳しくなっていく。

 戦中・戦後間もなくは食材不足で駅弁販売は苦

境に立たされたが、その後の高度経済成長期に入

ると、旅行などのレジャーブームが到来。各地の食

材を使った駅弁が人気を集める。駅のホームでの

立ち売りや列車の乗客と窓越しでやりとりする姿が

全国で見られ、駅弁はまさに黄金時代を迎える。こ

の頃は400社以上の業者が駅弁を販売し、昭和28

(1953)年には初の駅弁大会が開かれた。

 しかし、交通事情の変化により、駅弁販売店は

徐々に減少。新幹線の開通などのスピード化が加

 そこで多くの駅弁事業者が、「列車の外、駅の

外」に活路を求めている。東京駅構内で全国各地

の有名駅弁やオリジナル駅弁など200種類以上

を集める専門店「駅弁屋 祭」や、JR東日本が平

成24(2012)年から始めた、地域の特色を生かし

た駅弁No.1を決める「駅弁味の陣」、そして昭和

41年に第1回がスタートした百貨店の駅弁大会

など、販路が広がっている。

 ㈱松川弁当店もイベントなどに積極参加。平成

22(2010)年の「東日本縦断東京駅弁まつり」で

「米沢牛炭火焼特上カルビ弁当」で人気No.1商品

に選出されたほか、さまざまな機会で評価を得てき

た。最近では、「ファベックス惣菜・べんとうグランプ

リ2017」の駅弁部門で、「「米沢牛牛づくし弁当」が

金賞を受賞した。同商品は「駅弁屋 祭」で販売して

おり、多い時は1日で200個を売り上げる。

 また、林社長は売場展開の戦略も重要であると

考える。例えば、「駅弁屋 祭」や百貨店では、

2,000円以上の価格でも購入されることが多い。

一方で、上野など他の駅では1,000~1,500円台

のものがよく売れており、利用者のニーズが違う。

大宮の鉄道博物館では子どもが多いため、さらに

事情は異なる。「マーケットに合わせ、ボリューム

ゾーンにいかに刺さる商品を売るかが大切」(林

社長)なのだ。

 林社長は、「グランプリや賞をいただけるのは、

従業員とともに日々努力してきた賜物。地元の良

いものを炭火や手焼きで手間をかけてしっかりと

作り、味・質での差別化をこれからも追求していき

たい」と語る。今秋以降も新商品の発売を進めて

おり、おかずのバランスや見栄えも含め、同社らし

さの詰まった駅弁作りに向けて一丸だ。

技術の継承・人材の育成に向けて

 駅弁は130年以上の長い歴史を持ち、同社も

含め100年以上続く企業が多い。その一方で、長

していたコイを使った旨煮やイモの煮っ転がし

と合わせた「鯉弁当」を販売していたが、昭和に

入り日本人の食生活の変化に合わせ、牛肉の使

用に着手。当地の名産品・米沢牛を使うように

なった。

 林真人社長は20代の頃、自らてんこ箱(雑貨

箱)を抱えて米沢駅のホームに立ち、米坂線や特

急列車、臨時列車などの旅客に駅弁を販売してい

た。しかし、平成4年(1992)年に山形新幹線が開

通。「窓の景色眺めながらのんびりと旅をする時

代から、目的地にできるだけ速く着くスピード重視

の時代」(林社長)に流れが変わる。列車の高速化

により、かつてのように旅客が窓から身を乗り出し

て駅弁を買うということは無くなり、駅弁事業者は

売り方・売場の転換を迫られた。

Page 3: ㈱松川弁当店...松川弁当店もイベントなどに積極参加。平成 22(2010)年の「東日本縦断東京駅弁まつり」で 「米沢牛炭火焼特上カルビ弁当」で人気No.1商品

速することにより、鉄道はより便利になっていった

ものの、停車駅の数・時間が減少し、駅弁が買い

にくくなった。さらにマイカーブームや高速道路網

が全国に張り巡らされていくと、鉄道利用が減っ

ていった。旅客の駅弁に対する嗜好(しこう)も変

化し、多種・多品目の時代に突入。外食産業の隆

盛もあり、駅弁業界はアイデアでの競争となった。

 昭和62(1987)年には、国鉄が分割民営化。駅

弁イベントや東京駅の「祭」のように、全国の駅弁

を集めて販売するといった売場の変化も起こり、

今や「乗車中の食事」から「旅のみやげ」へと位置

づけは変化している。

食べ方の変化に合わせた対応

 林社長は、新幹線などの高速化で、「電車に

乗ってから買って食べるのではなく、買ってから

乗って食べる人が増えた」ことがポイントだと分析

する。かつて長時間の移動が当たり前だった時代

には、社内販売の駅弁は食堂車と並び重要な要

素だったが、現在は売上が低迷。駅ナカの充実

や、24時間いつでも利用できるコンビニエンスス

トアの近接などで、旅客の選択肢は増えている。

米沢駅についていえば、山形新幹線利用者では

目的地でないかぎり乗降数が決して多いわけで

はなく、途中駅の宇都宮、郡山、仙台での上下車

の方が多いため、商売に直結しない状況がある。

年培った技術の継承や、それを担う人材の育成が

業界の大きな課題である。

 同社も調理担当者らの高齢化などにより、後継

人材の育成が急務だ。今年から外国人技能実習

制度を活用し、現在は中国から6人の実習生を受

け入れ、教育している。「文化・風習・言葉の違い

もあり、しっかりしたサポートが必要」(林社長)と

考え、もともと調理経験のある日本在住の中国人

スタッフをリーダーに置いた。指導のとりまとめを

行い、実習生の相談役としても心強い存在になっ

ている。林社長は、「駅弁は日本独自の文化。衛生

管理や調理に関わるさまざまな知識・技術を勉強

して、成長していって欲しい」と思いを語る。

 今や駅弁はEKIBENとして、昨年開催された伊

勢志摩サミットで各国要人にも振舞われるなど、

ジャパン・オリジナルの食として海外からの認知も

高まっている。

 「駅弁は郷土食。ふるさと自慢の逸品をできるだ

けたくさんの人に味わってもらえるようにしたい」

 日本国内へ、海外へ、駅弁/EKIBENの味と担

い手を育むべく、同社の歩みは続く。

創業明治32年の老舗駅弁企業

 ㈱松川弁当店は明治32(1899)年に創業。奥

羽本線が開通したことに伴い、米沢駅での立ち

売りをスタートさせた。当時は自社敷地内で養殖

鉄道の歩みと駅弁の変化

 駅弁の誕生には諸説あるが、明治18(1885)

年に日本鉄道(現JR東北本線)が宇都宮まで開通

した際、旅館の白木屋が梅干しのおにぎりにたく

あんを添えたものを、宇都宮駅で販売したものが

ルーツとされる。明治5(1872)年に東京都の新

橋駅~神奈川県の横浜駅間に日本初の鉄道が開

通し、明治22(1889)年に東海道本線が開通する

までの間に、各地で次々と駅弁販売が始まった。

 当時の鉄道旅行は時間がかかるもの。例えば東

京駅から神戸駅までは約20時間を要した。そこで

社内で食べられる駅弁が必要となり、幕の内弁当

などの「普通弁当」や地域食を生かした「特殊弁

当」などさまざまな形が生まれていった。大正時代

には鉄道網がさらに広がり、販売駅も増加。衛生

管理もこの頃から厳しくなっていく。

 戦中・戦後間もなくは食材不足で駅弁販売は苦

境に立たされたが、その後の高度経済成長期に入

ると、旅行などのレジャーブームが到来。各地の食

材を使った駅弁が人気を集める。駅のホームでの

立ち売りや列車の乗客と窓越しでやりとりする姿が

全国で見られ、駅弁はまさに黄金時代を迎える。こ

の頃は400社以上の業者が駅弁を販売し、昭和28

(1953)年には初の駅弁大会が開かれた。

 しかし、交通事情の変化により、駅弁販売店は

徐々に減少。新幹線の開通などのスピード化が加

 そこで多くの駅弁事業者が、「列車の外、駅の

外」に活路を求めている。東京駅構内で全国各地

の有名駅弁やオリジナル駅弁など200種類以上

を集める専門店「駅弁屋 祭」や、JR東日本が平

成24(2012)年から始めた、地域の特色を生かし

た駅弁No.1を決める「駅弁味の陣」、そして昭和

41年に第1回がスタートした百貨店の駅弁大会

など、販路が広がっている。

 ㈱松川弁当店もイベントなどに積極参加。平成

22(2010)年の「東日本縦断東京駅弁まつり」で

「米沢牛炭火焼特上カルビ弁当」で人気No.1商品

に選出されたほか、さまざまな機会で評価を得てき

た。最近では、「ファベックス惣菜・べんとうグランプ

リ2017」の駅弁部門で、「「米沢牛牛づくし弁当」が

金賞を受賞した。同商品は「駅弁屋 祭」で販売して

おり、多い時は1日で200個を売り上げる。

 また、林社長は売場展開の戦略も重要であると

考える。例えば、「駅弁屋 祭」や百貨店では、

2,000円以上の価格でも購入されることが多い。

一方で、上野など他の駅では1,000~1,500円台

のものがよく売れており、利用者のニーズが違う。

大宮の鉄道博物館では子どもが多いため、さらに

事情は異なる。「マーケットに合わせ、ボリューム

ゾーンにいかに刺さる商品を売るかが大切」(林

社長)なのだ。

 林社長は、「グランプリや賞をいただけるのは、

従業員とともに日々努力してきた賜物。地元の良

いものを炭火や手焼きで手間をかけてしっかりと

作り、味・質での差別化をこれからも追求していき

たい」と語る。今秋以降も新商品の発売を進めて

おり、おかずのバランスや見栄えも含め、同社らし

さの詰まった駅弁作りに向けて一丸だ。

技術の継承・人材の育成に向けて

 駅弁は130年以上の長い歴史を持ち、同社も

含め100年以上続く企業が多い。その一方で、長

していたコイを使った旨煮やイモの煮っ転がし

と合わせた「鯉弁当」を販売していたが、昭和に

入り日本人の食生活の変化に合わせ、牛肉の使

用に着手。当地の名産品・米沢牛を使うように

なった。

 林真人社長は20代の頃、自らてんこ箱(雑貨

箱)を抱えて米沢駅のホームに立ち、米坂線や特

急列車、臨時列車などの旅客に駅弁を販売してい

た。しかし、平成4年(1992)年に山形新幹線が開

通。「窓の景色眺めながらのんびりと旅をする時

代から、目的地にできるだけ速く着くスピード重視

の時代」(林社長)に流れが変わる。列車の高速化

により、かつてのように旅客が窓から身を乗り出し

て駅弁を買うということは無くなり、駅弁事業者は

売り方・売場の転換を迫られた。

㈱松川弁当店代表者:代表取締役 林真人所在地:山形県米沢市アルカディア1丁目808-20電 話:0238-29-0141ホームページ:http://www.yonezawaekiben.jp/index.html事業内容:弁当の製造・販売、外食店